第23話 潮の匂いはうっすらと
目を開けた時、最初に来たのは潮の匂いだった。
海が近い。金属の匂いも混じっている。喉の奥には、薬みたいな甘さがへばりついていた。頭は重いが、吐き気まではない。そこだけは少し助かる。
助かる、という感覚がもうずれている。
俺は上半身を起こした。
粗末な二段ベッド。薄い毛布。石壁。鉄格子。壁には、場違いなくらい現代的なモニターが埋め込まれている。窓はない。明かりは天井の蛍光灯だけで、じっとりとした光だ。
来たんだな、と思った。
言い換えても無駄だ。監房でも拘置房でも、ホテルじゃないことだけは確かだった。
薬で連れてこられた。気づいたらここにいる。それが現実だ。現実を受け入れることと、現実に慣れることは別だ。受け入れてから確認する。確認してから動く。
服装は原作のPVで見たのと同じだった。シャーロックホームズ風だ。似合ってる。凄く。問題は、着ているのが俺だということだ。
まず立つ。立てた。立てることが第一の確認だ。怪力は今のところ問題なく手足に宿っている。足の感覚もある。頭の重さは残っているが、身体が動く。それで十分だ。
すぐに持ち物を確認した。
虫眼鏡。ずっしりとしたやつだ。本物かどうかは後で確認する。スマホ。ロック画面を確認すると、入っているアプリが変わっていた。標準機能だけが残っていて、外部通信は遮断されているらしい。代わりに、見慣れないアプリが一つある。
(魔女に関係したものか)
断言しない。後で確認する。今は環境の把握が先だ。
鉄格子の向こうから、遠くいくつもの声が聞こえてきた。
女の子の声。年齢は近い。それぞれの声に特徴がある。
泣いているやつ。怒鳴っているやつ。何も言っていないやつ。
(十三人)
たぶん全員集められている。そう考えた自分に、少しだけ嫌気が差した。人の数より先に、駒の数を勘定するみたいだった。でも止められない。これが今の俺の動き方だ。
嫌気が差したまま、それでも頭が動く。
それが一番困る。
モニターがぶつっと点いた。
『あー、映ってます……? 見えてますよね……?』
フクロウだ。白くて丸い、可愛げを与える見た目。なのに声は妙にくたびれていて、愛嬌より先に仕事の匂いがした。
(これが、ゴクチョーか)
名前だけ知っていた。実際に聞くと、想像より少しだけ人間っぽい。うんざりした感じが、声の隅っこにある。仕事に疲れた公務員みたいな喋り方だ。
『私、ゴクチョーと申します。詳しい説明をしますので、ラウンジまでお越しください。監房の鍵を開けますから、看守の後についてきてください』
看守。
その単語が出た瞬間、モニターの向こうでフクロウが小さく咳払いした。
『抵抗は自由なんですが……命とか、なくなりますので』
そう言って画面が落ちた。
軽い。言い方は軽い。だが内容だけはまったく軽くない。
ブラック企業の朝礼よりひどい。向こうはまだ、死んでいいとは言わなかった。
でも「命がなくなる」という言い方は、した。
情報として整理する。この場で生死に関わるルールが存在する。ゴクチョーがそれを管理している可能性がある。管理しているかどうかは不明だが、少なくとも説明の権限はある。詳しい話はラウンジで聞く。そのためにまず移動する。
鉄格子の鍵が外れる音がした。
俺は立ち上がり、服の裾を整えた。見られる前に整える。中身はあとだ。
「おやおや〜。初日から独房とは、ずいぶんと風通しの悪い環境ですね!」
声を出す。明るく。軽く。敬語だけは崩さない。
廊下の奥から、重い音が近づいてきた。
引きずるような、擦るような、体温のない音だった。
見えた瞬間、笑顔が一度だけ消えた。
でかい。黒衣。仮面。二、三メートルはある。人型ではあるが、人間だと認めるのが嫌になる種類の輪郭だった。
看守。
名前だけ知っていた何かに、いま初めて視覚が追いついた。こいつは管理者じゃない。もっと直接的な、暴力の器だ。
俺は一歩だけ下がり、それをすぐやめた。怖い顔をしすぎると不自然だ。妖精さんが怯えすぎると、不自然になる。
「案内、ありがとうございますね!」
なるべく軽く言うと、看守は返事もせず背を向けた。ついてこい、ということらしい。
廊下へ出た。
同じ監房が並ぶ地下通路。B1。天井は低い。石壁は冷たい。生活のためというより、逃げ道の形まで削ってある。ここから一階へ上がる動線、懲罰房の位置、監房の並びを頭の中に書き込んでいく。
ノートがない。写真も撮れない。頭だけが記録媒体だ。
忘れる可能性がある。でも今は頭に入れていくしかない。後でスマホのメモ機能が使えるかどうかを確認する。
監房の扉の形。鍵の構造。廊下の幅。非常口らしき扉の位置。灯りの種類。看守が歩くルートのリズム。全部覚える。覚えられなかった分は、繰り返して見る機会があるはずだ。毎日移動するなら、毎日覚え直せる。
前の監房から、誰かが怒鳴った。
「ざけんじゃねえ! 出せ!!」
別の監房から高い声がした。
「乙女に対してなんて無礼なんですのっ!」
その中に混じって、静かな声がひとつだけ落ちた。
「騒がしいのは正しくない」
それで分かった。
二階堂ヒロがいる。
胃の奥が重くなる。
知っている顔がいる安心と、知っている顔がいる面倒くささは、だいたい同じ形をしている。ここでの面倒くささは、命に直結する。
声の方向から判断すると、ヒロの監房は自分の部屋から少し離れている。廊下の中程か、少し先だ。後で確認する。
看守は振り返らない。ただ前へ進む。後をついていきながら、廊下の構造を頭に刻んでいく。
突き当たりに階段があった。石段だ。踏み面が不均一で、夜中に急いで上がると転ぶかもしれない。覚えておく。
一段目を踏んだとき、壁の感触が変わった。石から木の下地に変わる部分がある。構造の変わり目だ。後で設計図と比べるものがあれば確認したい。
一階へ出ると、空気が変わった。
潮の匂いが少し強い。
長い階段の先に、古びた洋館じみた玄関ホール。高い天井。広い空間。左右へ伸びる廊下。中央階段。中庭へのガラス。ラウンジらしき部屋。娯楽室、図書室、医務室へ繋がると思われる導線。
頭の中だけで書く。
B1:監房、懲罰房(位置は未確認)、地下通路
1F:ホール、中庭、ラウンジ、図書室(方向のみ確認)
2F:未確認
まず歩いて覚える。人は後でいい。
そう決めたところで、看守がラウンジの扉を開けた。
中から声が聞こえた。
明るい声だった。
俺は一秒だけ止まった。
エマの声だ。
(そうか。いるんだ)
当たり前だ。いるのは知っていた。でも声を聞くのは中学以来で、久しぶりに聞くと少しだけ体が反応する。守りたい、という感情の前段階みたいなものが少しだけ来た。
感情の出力には繋げない。ここでその感情を使ったら、初日から失敗する。
俺は笑顔を作って、扉をくぐった。12人全員が揃っていた。
「おやおや〜! 私は 橘シェリーって言います! 犯人がいれば私をお呼びください!」
笑い声が少し起きた。
引きつる笑い。距離を確認する笑い。中学入学式の日と同じだ。ちょうどいい。この距離から始まる。
部屋をざっと見た。
十人前後。全員は揃っていない。ラウンジの端の方に、まだ監房から出てきていないやつがいるらしい。
エマが手を振った。俺もにこにこと手を振った。
ヒロが壁際に立っていた。腕を組んで、部屋を見渡している。俺を見た瞬間、少しだけ眉が動いた。俺のことを覚えているのかどうかは分からない。中学で彼女たちと同じ学校だったわけじゃない。でも、俺がどこかで認識されていた可能性はある。
気にしない。気にしている顔をしない。今は笑顔だけを出力する。
ゴクチョーがくるまで、俺は部屋の造りを確認した。
出入口は一つ。窓はここにも鉄格子がある。家具は古い。テーブル、椅子、棚。棚の中身は後で確認する。扉の蝶番は内側からは外せない形だ。
空気が重い。
当たり前だ。突然連れてこられた少女たちが、初めて集まっている。何が起きているのか分からない。怖い。怒っている。泣いている。そういうやつが一つの部屋にいる。
その全員を、俺は9年前から知っている。
一方的に。
その非対称が、どこかこの牢屋敷と似ていた。