原罪:自称ニセモノ名探偵     作:三日月ノア

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3章 片道切符の監獄島
第23話 潮の匂いはうっすらと


 

 

目を開けた時、最初に来たのは潮の匂いだった。

 

海が近い。金属の匂いも混じっている。喉の奥には、薬みたいな甘さがへばりついていた。頭は重いが、吐き気まではない。そこだけは少し助かる。

 

助かる、という感覚がもうずれている。

 

俺は上半身を起こした。

 

粗末な二段ベッド。薄い毛布。石壁。鉄格子。壁には、場違いなくらい現代的なモニターが埋め込まれている。窓はない。明かりは天井の蛍光灯だけで、じっとりとした光だ。

 

来たんだな、と思った。

 

言い換えても無駄だ。監房でも拘置房でも、ホテルじゃないことだけは確かだった。

 

薬で連れてこられた。気づいたらここにいる。それが現実だ。現実を受け入れることと、現実に慣れることは別だ。受け入れてから確認する。確認してから動く。

 

服装は原作のPVで見たのと同じだった。シャーロックホームズ風だ。似合ってる。凄く。問題は、着ているのが俺だということだ。

 

まず立つ。立てた。立てることが第一の確認だ。怪力は今のところ問題なく手足に宿っている。足の感覚もある。頭の重さは残っているが、身体が動く。それで十分だ。

 

すぐに持ち物を確認した。

 

虫眼鏡。ずっしりとしたやつだ。本物かどうかは後で確認する。スマホ。ロック画面を確認すると、入っているアプリが変わっていた。標準機能だけが残っていて、外部通信は遮断されているらしい。代わりに、見慣れないアプリが一つある。

 

(魔女に関係したものか)

 

断言しない。後で確認する。今は環境の把握が先だ。

 

鉄格子の向こうから、遠くいくつもの声が聞こえてきた。

 

女の子の声。年齢は近い。それぞれの声に特徴がある。

 

泣いているやつ。怒鳴っているやつ。何も言っていないやつ。

 

(十三人)

 

たぶん全員集められている。そう考えた自分に、少しだけ嫌気が差した。人の数より先に、駒の数を勘定するみたいだった。でも止められない。これが今の俺の動き方だ。

 

嫌気が差したまま、それでも頭が動く。

 

それが一番困る。

 

 

 

モニターがぶつっと点いた。

 

『あー、映ってます……? 見えてますよね……?』

 

フクロウだ。白くて丸い、可愛げを与える見た目。なのに声は妙にくたびれていて、愛嬌より先に仕事の匂いがした。

 

(これが、ゴクチョーか)

 

名前だけ知っていた。実際に聞くと、想像より少しだけ人間っぽい。うんざりした感じが、声の隅っこにある。仕事に疲れた公務員みたいな喋り方だ。

 

『私、ゴクチョーと申します。詳しい説明をしますので、ラウンジまでお越しください。監房の鍵を開けますから、看守の後についてきてください』

 

看守。

 

その単語が出た瞬間、モニターの向こうでフクロウが小さく咳払いした。

 

『抵抗は自由なんですが……命とか、なくなりますので』

 

そう言って画面が落ちた。

 

軽い。言い方は軽い。だが内容だけはまったく軽くない。

 

ブラック企業の朝礼よりひどい。向こうはまだ、死んでいいとは言わなかった。

 

でも「命がなくなる」という言い方は、した。

 

情報として整理する。この場で生死に関わるルールが存在する。ゴクチョーがそれを管理している可能性がある。管理しているかどうかは不明だが、少なくとも説明の権限はある。詳しい話はラウンジで聞く。そのためにまず移動する。

 

鉄格子の鍵が外れる音がした。

 

俺は立ち上がり、服の裾を整えた。見られる前に整える。中身はあとだ。

 

「おやおや〜。初日から独房とは、ずいぶんと風通しの悪い環境ですね!」

 

声を出す。明るく。軽く。敬語だけは崩さない。

 

廊下の奥から、重い音が近づいてきた。

 

引きずるような、擦るような、体温のない音だった。

 

見えた瞬間、笑顔が一度だけ消えた。

 

でかい。黒衣。仮面。二、三メートルはある。人型ではあるが、人間だと認めるのが嫌になる種類の輪郭だった。

 

看守。

 

名前だけ知っていた何かに、いま初めて視覚が追いついた。こいつは管理者じゃない。もっと直接的な、暴力の器だ。

 

俺は一歩だけ下がり、それをすぐやめた。怖い顔をしすぎると不自然だ。妖精さんが怯えすぎると、不自然になる。

 

「案内、ありがとうございますね!」

 

なるべく軽く言うと、看守は返事もせず背を向けた。ついてこい、ということらしい。

 

 

 

廊下へ出た。

 

同じ監房が並ぶ地下通路。B1。天井は低い。石壁は冷たい。生活のためというより、逃げ道の形まで削ってある。ここから一階へ上がる動線、懲罰房の位置、監房の並びを頭の中に書き込んでいく。

 

ノートがない。写真も撮れない。頭だけが記録媒体だ。

 

忘れる可能性がある。でも今は頭に入れていくしかない。後でスマホのメモ機能が使えるかどうかを確認する。

 

監房の扉の形。鍵の構造。廊下の幅。非常口らしき扉の位置。灯りの種類。看守が歩くルートのリズム。全部覚える。覚えられなかった分は、繰り返して見る機会があるはずだ。毎日移動するなら、毎日覚え直せる。

 

前の監房から、誰かが怒鳴った。

 

「ざけんじゃねえ! 出せ!!」

 

別の監房から高い声がした。

 

「乙女に対してなんて無礼なんですのっ!」

 

その中に混じって、静かな声がひとつだけ落ちた。

 

「騒がしいのは正しくない」

 

それで分かった。

 

二階堂ヒロがいる。

 

胃の奥が重くなる。

 

知っている顔がいる安心と、知っている顔がいる面倒くささは、だいたい同じ形をしている。ここでの面倒くささは、命に直結する。

 

声の方向から判断すると、ヒロの監房は自分の部屋から少し離れている。廊下の中程か、少し先だ。後で確認する。

 

看守は振り返らない。ただ前へ進む。後をついていきながら、廊下の構造を頭に刻んでいく。

 

突き当たりに階段があった。石段だ。踏み面が不均一で、夜中に急いで上がると転ぶかもしれない。覚えておく。

 

一段目を踏んだとき、壁の感触が変わった。石から木の下地に変わる部分がある。構造の変わり目だ。後で設計図と比べるものがあれば確認したい。

 

 

 

一階へ出ると、空気が変わった。

 

潮の匂いが少し強い。

 

長い階段の先に、古びた洋館じみた玄関ホール。高い天井。広い空間。左右へ伸びる廊下。中央階段。中庭へのガラス。ラウンジらしき部屋。娯楽室、図書室、医務室へ繋がると思われる導線。

 

頭の中だけで書く。

 

B1:監房、懲罰房(位置は未確認)、地下通路

 

1F:ホール、中庭、ラウンジ、図書室(方向のみ確認)

 

2F:未確認

 

まず歩いて覚える。人は後でいい。

 

そう決めたところで、看守がラウンジの扉を開けた。

 

中から声が聞こえた。

 

明るい声だった。

 

俺は一秒だけ止まった。

 

エマの声だ。

 

(そうか。いるんだ)

 

当たり前だ。いるのは知っていた。でも声を聞くのは中学以来で、久しぶりに聞くと少しだけ体が反応する。守りたい、という感情の前段階みたいなものが少しだけ来た。

 

感情の出力には繋げない。ここでその感情を使ったら、初日から失敗する。

 

俺は笑顔を作って、扉をくぐった。12人全員が揃っていた。

 

「おやおや〜!  私は 橘シェリーって言います! 犯人がいれば私をお呼びください!」

 

笑い声が少し起きた。

 

引きつる笑い。距離を確認する笑い。中学入学式の日と同じだ。ちょうどいい。この距離から始まる。

 

部屋をざっと見た。

 

十人前後。全員は揃っていない。ラウンジの端の方に、まだ監房から出てきていないやつがいるらしい。

 

エマが手を振った。俺もにこにこと手を振った。

 

ヒロが壁際に立っていた。腕を組んで、部屋を見渡している。俺を見た瞬間、少しだけ眉が動いた。俺のことを覚えているのかどうかは分からない。中学で彼女たちと同じ学校だったわけじゃない。でも、俺がどこかで認識されていた可能性はある。

 

気にしない。気にしている顔をしない。今は笑顔だけを出力する。

 

ゴクチョーがくるまで、俺は部屋の造りを確認した。

 

出入口は一つ。窓はここにも鉄格子がある。家具は古い。テーブル、椅子、棚。棚の中身は後で確認する。扉の蝶番は内側からは外せない形だ。

 

空気が重い。

 

当たり前だ。突然連れてこられた少女たちが、初めて集まっている。何が起きているのか分からない。怖い。怒っている。泣いている。そういうやつが一つの部屋にいる。

 

その全員を、俺は9年前から知っている。

 

一方的に。

 

その非対称が、どこかこの牢屋敷と似ていた。

 

 

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