黒部ナノカは、人より先に構造を見る。
ラウンジの窓。廊下の死角。監房の並び。階段の角度。隠れ場所。逃走路。。
見学を終えてラウンジへ戻ったあとも、ナノカはずっとそのことを考えていた。
食堂の排水。洗濯室の投入口。医務室の鍵。浴場の広さ。
どれも単体なら不気味で済む。だが、全部が同じ建物の中に揃っていると、意味が変わる。
ここは住まわせるための屋敷じゃない。管理し、隔離し、必要なら処理するための箱だ。
夕方、他の連中がラウンジで空気を作っている間、ナノカは一人で廊下へ出た。
群れるべきではない。しかもこういう場所では、誰かと一緒にいることでむしろ見えなくなるものがある。
上階の窓際。曲がり角。海側へ伸びる通路の行き止まり。
足音を殺しながら、一つずつ確かめていく。床板のきしみ。風の入り方。壁の厚み。冷気の流れ。
案の定、いくつかおかしい場所がある。
ひとつは、海側へ近い壁の一角だけ、空気が少し冷たいこと。外気の冷たさではない。もっと機械的な冷え方だ。
もうひとつは、洗濯室で見た投入口が、屋敷の見た目上の構造よりかなり深そうだったこと。
そして最後に、看守の動線。あいつらは見張っているようで、ただ巡回しているだけではない。通らせたい道と、通らせたくない道をちゃんと分けている。
「……やっぱり変ね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
その時、廊下の先で何かが擦れる音がした。
ナノカは立ち止まる。すぐには動かない。音の正体が人か、看守か、機械か、それを決めてから動く方がいい。
引きずるような重い音。規則的で、体温がない。
看守。
ナノカの背中に、昼間の嫌な感覚が戻る。頭より先に身体が理解する。あれは真正面から相手にするものではない。隠れ場所。死角。距離。手近な扉。瞬時に全部を測る。
「おやおや。内見の続きですか〜!」
後ろから声がした。橘シェリーだった。
笑っている。昼からずっとそうだ。明るい。敬語。変。
だが、その目だけはちゃんと廊下の奥を見ている。
「散歩」
ナノカは短く答える。
「素敵な趣味ですね! おすすめはしないですけど!」
「そっちも」
「シェリーちゃんも散歩ですよ〜!」
軽い。軽いのに、視線は音の方から一度も外さない。
その時、廊下の奥に"いた"。
人の形。だが、人間じゃない。
ぼろぼろの黒衣。仮面。異様な大きさ。歩幅。肩の揺れ方。近づいてくるだけで、逃げ道の数を減らす存在。
看守。
ナノカはその場で、身体が理解した。頭より先に、隠れ場所と距離を計算した。戦うのではなく、避ける相手だ。
シェリーの笑顔が一瞬だけ消えた。
「戻りますよ」
短い。敬語はそのまま。でも温度だけ落ちた。
ナノカは頷く。こういう時に意地を張る意味はない。二人で一歩下がる。
看守は追ってこない。ただこちらの退避を見届けるように立っている。それが余計に気味が悪い。縄張りを示す獣に近い。
監房前まで戻ってから、シェリーが小さく息を吐いた。
「……想像していたより悪いですね〜」
「知ってたの」
「まさか。嫌な予感が当たっただけですよ〜!」
少しだけ間。
「エマさんには柔らかく言った方がいいですね。ヒロさんには事実だけ。アリサさんには多少盛っても伝わりますし。それぞれ対応を変えた方がよさそうです!」
妙に具体的だ。人を分類する順番が早い。
ナノカはその横顔を見る。
「……あなた、変」
ナノカが言うと、シェリーはまた笑った。
「学校では、妖精さんって言われたことがありますよ〜!」
「そういう意味じゃない」
「でしょうねえ〜」
それだけで終わる。だが、ナノカはそのまま引き下がらなかった。
「人を、最初から役割で見てる」
「役割?」
「桜羽エマはこう。二階堂ヒロはこう。そうやって先に置いてる」
シェリーの目が、ほんの少しだけ細くなる。図星だったらしい。
「観察の一環ですよ! 名探偵ですので!」
「便利そう」
「ええ、とても!」
「でも外す」
ナノカはそう言って、看守が消えた廊下の方を見る。「構造は変わらないから外れない。でも、人は外れるもの。」
シェリーは今度、すぐに返さなかった。軽口を探しているのではない。言うべきことと、飲み込むべきことを分けている間だ。
「……耳が痛いですねえ〜」
ようやく出てきたのは、少し遅い笑いだった。
ナノカはそれで確信する。この子は名探偵ではない。少なくとも、自分が何でも見抜ける側にいるとは思っていない。むしろ逆だ。外すことを怖がっているから、役割で仮置きしている。
そこまで分かると、さっきまでの違和感の形が少し変わった。
場違いなのは確かだ。でも、人間じゃないわけではない。違う世界から来たみたいな反応をしているだけで、怖がり方自体はたぶん普通だ。
ラウンジへ戻ると、空気はまだ硬かった。
エマがミリアの近くで小さく笑っている。笑っているが、元気ではない。ヒロは本を読むふりをして周囲を見ている。ここはソファに沈み込んだまま全員の気配を拾っている。メルルはエマに寄りたいのをためらっている。マーゴはひとり壁際でウフフと笑っている。ノアは棚の裏側を覗き込んでいる。
ナノカはそのまま窓際へ行った。外の海を見たいわけじゃない。窓枠の厚みと、外壁との継ぎ目を確かめたいだけだ。
「ナノカちゃん、何見てるの?」
ミリアが気軽に聞いてきた。
「壁」
「えっ」
「……た、たしかに、そういうとこ見てそうだねえ」
ミリアは困ったように笑った。エマも少しだけ振り向く。
「何かわかったのかな?」
「まだ。でも、ここは変ね」
「それは全員思ってるんじゃね?」
ココが言う。
「そういう変じゃない」
ナノカは窓枠を指先で叩いた。
「この屋敷、見せたい形と本当の形が違う」
ラウンジが少し静かになる。言葉の意味がすぐには伝わらなくても、嫌な感じだけは伝わる。
「見せたい形、ですか〜?」
シェリーが聞き返す。目は真面目だ。
「豪華な館。共同生活。一見すると安全な部屋。そう見せてる」
ナノカは順に言う。
「でも実際は、監房、懲罰房、投入口、焼却炉、看守。処理する構造が多い」
エマが目を伏せる。ヒロは反論しない。
「最悪」
ここが低く吐いた。
「まあ〜。それはつまり」
シェリーが軽く手を合わせる。
「素敵な共同生活施設ではなく、非常に洗練された事故現場候補、ということですからね〜!」
「まとめ方が終わってんな」
「でも合ってる」
ナノカは言う。
そこで、ラウンジの照明が一瞬だけ揺れた。
全員が反射で天井を見る。何も起きない。すぐ戻る。
だが、たったそれだけで、部屋の空気がまた少し悪くなる。
この屋敷はそういう仕組みだ。
人の神経を少しずつ削る。大事件が起きる前に、小さい不安を何度も差し込む。選択肢を間違える以前に、判断力そのものを鈍らせる。
ナノカはそれを理解していた。だから一人で確かめに行く。人に合わせると、微細なズレが見えなくなるから。
その前、夕食のあとにも、ナノカは一度だけ単独で動いていた。
B1へ近い踊り場まで行ったのだ。理由は単純で、昼に見た看守の巡回が気になっていたから。
地下へ近づくほど、空気が少し重くなる。潮の匂いに混じって、金属と薬品の気配が強くなる。
ここは少女たちが生活する場所ではなく、少女たちを置いておく場所だ。
ナノカは通路の角でしゃがみ、床を指でなぞった。擦れた跡。重いものを引きずったような筋。古いものもあるが、比較的新しいものも混じっている。生活の痕ではない。運用の痕だ。
その時、遠くで誰かの話し声がした。エマとミリアだ。
「ボク、ちゃんとできるかな……」
「大丈夫、大丈夫。……いや、大丈夫じゃないけど、なんとかなるよ!」
何をするつもりなのだろうか。
ミリアの声は柔らかい。柔らかい声ほど、こういう場所では折れるのが早いとナノカは思う。
ナノカはそこで立ち上がった。それ以上聞く気はない。他人の感情線より、建物の嘘の方がまだ信用できる。
戻ろうとした時、別の足音がした。ヒロだ。
「……一人で何をしている」
「.....見てた」
「単独行動は避けるべきだと言ったはずだ」
「そうね」
「なら何故」
「気になったからよ」
ヒロはさらに不機嫌な顔になる。正しさの人間は、説明できない単独行動を嫌う。
「ここは危険だ。看守がいる以上、規則から外れる動きは控えるべきだ」
「そう」
ナノカは答える。
ヒロは何か言い返しかけて、結局やめた。この会話は噛み合わないと判断したのだろう。
「気をつけることだ」
最後にヒロはそれだけ言って上へ戻った。命令ではなく、忠告に近い。それがかえって嫌に残った。
ラウンジへ戻ってから、ナノカは停電のことを話した。
「停電じゃない」ナノカは即答する。「落ちてない。揺れただけ」
「それの何が違うの?」
ココが聞く。
「電源の問題なら、他の場所もうもう少し乱れる。これは、見せた感じが強い」
「見せた? 不安にさせるためってこと?」
エマが続ける。ナノカは少しだけ迷ってから頷いた。
「小さい異常を何回も入れると、人は勝手に疲れる。疲れると判断が鈍る。判断が鈍ると、誰かが言ったことをそのまま信じやすい」
「……裁判とか?」
ミリアが小さく聞く。
「そう」
「あと、看守の動きも。見せ方がうまい。真正面から来ると怖いって、こっちに覚えさせてる」
シェリーが、珍しく少しだけ真顔で頷いた。
「条件づけ、ですかね〜」
「たぶん」
「それは非常に嫌ですねえ〜!」
「うん」
やり取りは短い。でも、ナノカにはそれで十分だった。この子は少なくとも、構造の話をするとちゃんと聞く。人間関係の話よりずっとましだ。
ラウンジの壁のボウガンが、照明の戻った明るさの中で鈍く光っていた。
誰も触っていないのに、そこにあるだけで十分に悪趣味だ。
エマが一度だけ目を向け、すぐ逸らす。ここは見たうえで嫌そうな顔をする。ヒロは見て、何も言わない。
この部屋の物の置き方一つでさえ、全部「事件の前提」に見える。
だから、誰かが死んだ時に驚くより先に、ああやっぱり、になるのだ。
それはもう、かなり。
消灯前、シェリーは監房に響き渡るが軽い声で告げた。
「夜中のお散歩は辞めたほうがいいですよ〜! 皆さん!」
何人かが嫌そうな顔をした。だが、その嫌そうな顔が少しだけ人間らしかった。
ナノカはそれを見て、ほんの少しだけ息を吐く。
軽口でも何でもいい。こういう場所では、空気が完全に沈みきらないだけで意味がある。
それでも、今夜のうちにもう一度だけ廊下を見に行こうと、ナノカは決めていた。
誰にも言わない。止められるからではない。説明する言葉は必要ない。必ず真実を暴いてみせる。