原罪:自称ニセモノ名探偵     作:三日月ノア

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第30話 描きかけの朝と塗料の匂い

 

 

ヒロが死んでから、三日が経った。

 

三日で食堂の席の空き方が変わった。最初は誰もヒロの席へ座らなかった。二日目は全員がその席を避けるように、ひとつずつ位置をずらした。三日目には、ずれた席がそのままデフォルトになった。

 

人間の慣れというのは、本当に使えない機能だ。

 

食器の音が戻った。会話らしきものが戻った。笑う声も、たまに出た。それが一番気持ち悪かった。人が死んだというのに。笑えないよりずっとましだ。でも、三日でここまで来ると、俺がおかしいのか、みんながおかしいのか、判定できなくなる。

 

朝食の配膳をミリアが手伝っていた。ミリアなりの優しさだろうか。ココが「別にそんなことしなくていいんですけど~」と文句を言いながら受け取った。エマは一口ずつ、ゆっくり食べていた。ハンナは相変わらず文句を言い、その間に半分食べ終わった。

 

マーゴだけが、今日も席から離れた位置にいる。

 

端の椅子。誰とも隣り合わない場所。本を読んでいるが、ページが変わっていない。そういう読み方をする人間を俺は知っている。ページを読んでいるのではなく、ページを盾に使っている。視線を隠しながら、音を拾っている。

 

昨夜も同じだった。消灯前、マーゴが独り言のように言った言葉が引っかかっている。

 

「……昨日、監房の方で不思議な音がしたわ」

 

誰に言うでもなく。

 

「どんな音ですか〜?」と聞いたら、「液体が動くような、でも少し違うわね」と答えた。それだけだった。

 

液体。ノアの魔法は液体操作だったな。

 

(記録しておくだけにするか)

 

 

 

 

 

 

自由時間になって、最初に動いたのはナノカだった。

 

いつも通りだ。いつの間にか単独で廊下へ出る。どこへ行くか言わない。屋敷内にいることもあれば外にもいる。誰かと行かない。それが彼女だった。

 

俺はその五秒後に続いた。ナノカが気づいたかどうか分からない。気づいていても止めないのがナノカだ。

 

廊下は薄暗い。B1のこのあたりは昼間でも明るくならない。監房が並ぶ石廊下。足元のタイルは古くてひんやりしている。

 

ナノカが足を止めた。

 

ノアの監房の手前だ。

 

「……何かしら」

 

ナノカが短く言った。問いではない。確認だ。

 

 

 

 

俺も止まった。

 

最初は分からなかった。

 

尾行を非難されるのかと思った。

 

普通の朝の空気と、何が違うのか。監房の扉は閉まっている。廊下は静かだ。看守の巡回はまだ先の時間帯だ。

 

それから気づいた。

 

匂いだ。

 

塗料の匂いは、ノアの監房から常に漂っている。それは慣れてしまっていた。だが今朝は、下に別のものが混じっている。塗料が上書きしていても、その奥に何か別の匂いが———鉄みたいな、生温かい。

 

「……ナノカさん」

 

「分かってる」

 

ナノカが扉の前へ歩く。俺も続く。

 

ドアノブを回す。

 

鍵がかかっていない。解錠時間と同時に開く設定になっているのだろう。

 

押すと、開いた。

 

ノアの監房は、壁一面がスプレーアートで埋まっていた。色とりどりの液体が壁を這い、形を成し、また別の何かへ変わっていく。いつものノアの部屋だ。

 

ノアは、床に倒れていた。

 

天井を向いた顔。描きかけの下絵が手元に落ちている。スプレー缶が一本、横に転がったまま止まっている。

 

ナノカが動かなかった。

 

俺も動かなかった。

 

「……行って」

 

ナノカが言った。「人を呼ぶ」

 

「分かりました!」

 

 

 

 

自由時間になってすぐ、ラウンジに残っていたエマ、ミリア、ハンナへ声をかけた。全員の顔が変わった。ミリアが立ち上がるのが一番早かった。

 

「ちょっと、もう一回聞かせて」

 

ミリアが歩きながら言う。

 

「ノアちゃん、今朝まで生きてたよね?」

 

「昨夜の夕食は確認しましたか?」

 

「……食堂には来てなかった。でも、来ない日が多かったから……」

 

そこで沈黙が落ちた。来ない日があった。それをみんな当然として受け入れていた。

 

B1の廊下へ戻ると、ナノカが扉の前で待っていた。マーゴも来ていた。

 

「……そう、聞いたのね」

 

マーゴが淡々と言う。それだけで、何かを知っているかは分からない。

 

アリサとココが遅れてついてきた。

 

扉を開ける。

 

エマが息を呑む。ハンナが手で口を押さえる。ミリアが固まった。アリサが低く吐く。ここが黙った。マーゴの目が、部屋をゆっくり見渡す。

 

「……ナノカさん、発見した時、中に入りましたか?」

 

俺はナノカに聞く。

 

「入ってない。ドアの外から確認しただけ」

 

「ありがとうございます」

 

足跡の問題がある。入れば踏み荒らす。ナノカは分かっていた。

 

俺は扉の外から観察する。入口。窓。争った痕。物の位置。血の跳び。壁のアート。床。ノアの向き。手元の下絵。スプレー缶の位置。

 

見るべき順番で見る。感情は後だ。

 

その順番で動いた自分に、どこかでぞっとする。

 

「……シェリーちゃん、何か、分かる?」

 

エマが細い声で聞いた。

 

「一つだけ」

 

「何」

 

「なぜ昨夜、誰も気づかなかったのか、が分かります」

 

「え」

 

エマが顔を上げる。

 

「この匂いです」

 

俺は廊下の空気を吸った。

 

「塗料の匂いは、ノアさんの部屋から毎日しています。昨夜も同じでした。でも、塗料の匂いが強ければ——」

 

「——血の匂いが、分からないわね」

 

マーゴが静かに続けた。

 

全員が少し固まる。マーゴは扉枠に手をついて、部屋の空気を一度だけ嗅ぐような仕草をした。

 

「……昨夜、私の監房からここへ来る通路を、誰かが通った音がしたわ」

 

「何時ですか?」

 

「二十時と、二十一時のあいだ。液体が揺れるみたいな音。でも足音は聞こえなかった」

 

俺は記録する。足音がなかった。

 

「それ、ノアっちが使った魔法の音じゃねーの?」

 

ココが言った。

 

「可能性はありますね〜!」

 

俺は笑顔で返す。

 

「足音がない。でも音はした。ということは、人間が歩いて入ったわけではないかもしれません〜」

 

「でも……この扉、ちゃんと開くよ?」

 

エマが指摘する。

 

「ええ。今朝も開きました。外から鍵をかける必要がない。つまり入る必要もない」

 

そこだけ言って、続きは止めた。

 

まだ証拠が足りない。断言は毒だ。でも、ノアの体が向いている方向は——天井——が、何か意味を持つ気がした。自然に倒れた人間は、倒れながら何かを見る。何かに視線が引きつけられたまま倒れた人間も、同じように天井を向く。どちらかは、まだ分からない。

 

ハンナが静かに言った。

 

「……この扉の向こうに、ベランダがあるのはノアさんのアトリエだけですわね」

 

 

ノアが数日間、屋敷内の物色をする中で見つけたものがノアのアトリエだった。アンアンの体調を考慮して、俺からも他の場所で創作をするのはどうかと、何回かアトリエ探しを手伝ったことがある。

 

アトリエを見つけたノアが自慢げに話しかけてきたときは、その珍しさに驚いたが、何かしらの魔法によって扉の存在が消されていたのだろうと納得した。

 

 

「それはここではなく、2階ですから。」

 

「ええ。でもこの部屋——ノアさんの監房から、あのスタジオへの距離はどのくらいかしら」

 

俺は距離を測った。廊下の長さ。エレベーターの位置。2階までの高さ。

 

(ノアの視線が天井を向いている。スタジオは2階。もし視線誘導で…)

 

館内放送が鳴った。

 

『はいはい、死体発見ご苦労さまです。……はぁ、また、ですか。仕事増やさないでほしいんですよねぇ……では規定に従い、魔女裁判の準備を開始してください。証拠集めの時間は有限です。がんばってくださいねえ』

 

言うだけ言って、切れる。

 

全員が少しだけ、ゴクチョーの言葉に反応した後、誰も言わない沈黙が残った。

 

「……もう始まんのかよ」

 

アリサが壁にもたれながら言った。

 

「ええ」

 

俺は答える。

 

「そして今回は、昨夜の時間帯に誰がどこにいたかを、全員が問われます〜」

 

「アリバイ、ということですの?」

 

ハンナが聞く。

 

「それを今から決めておく必要があります」

 

嘘ではない。ただ、「決めておく」という言い方が、もう裁判の空気の入り口だ。

 

エマがノアの部屋をもう一度見た。描きかけの下絵。スプレー缶。天井を向いた顔。

 

「……ノアちゃん、何を描こうとしてたんだろう」

 

誰も答えなかった。

 

答えられるのは、もういない。

 

 

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