原罪:自称ニセモノ名探偵     作:三日月ノア

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 『間違ってねーからムカつくんだろ』


第33話 空席

 

 

 

レイアが死んで、朝が来た。

 

来なくてよかったのに、普通に来た。

 

監房のモニターが起床時刻を知らせた。扉のロックが外れる音がして、廊下の向こうで誰かの足音がした。看守の金属音も、配膳台車の車輪も、いつも通りだった。

 

布団から起きる。

 

昨日の裁判場の床を思い出した。

 

白い天使像。閉じた扉。短く途切れた声。終わったあとに残った、変な機械音。

 

手のひらを見る。

 

指は普通に動く。血はついていない。

 

でも、昨日この指で名前を押した。

 

蓮見レイア。

 

端末の画面に並んだ名前の中から、それを選んだ。俺だけではない。全員が押した。そういうルールだった。押さなければ全員死ぬ。だから押した。

 

正しい手順だった。

 

その言葉を頭の中で言って、すぐにやめた。

 

正しい手順で人が死ぬのは、会社の稟議よりひどい。

 

洗面台で顔を洗う。水が冷たかった。鏡の中の橘シェリーは、昨日と同じ顔をしていた。

 

目の下に隈はある。髪も少し跳ねている。けれど、顔そのものは崩れない。俺の中身がどれだけ散らかっても、この顔は人形みたいに整っている。

 

口角を上げてみる。

 

「おはようございます、みなさん!」

 

声に出す前の練習だ。

 

喉が引っかかった。

 

もう一度やる。

 

「おはようございます、みなさん!」

 

今度は通った。

 

 

 

食堂へ向かうと、配膳口の前でミリアが立っていた。

 

トレーを持っている。まだ誰の席にも置いていない。指先がトレーの端を押しすぎて、親指のところだけ白くなっていた。

 

「ミリアさん、おはようございます!」

 

「……あ、おはよう、シェリーちゃん」

 

ミリアは笑った。

 

笑った形にはなっていた。

 

配膳口には、皿が十枚あった。

 

昨日までは十一枚だった。

 

その前は十二枚だった。

 

ヒロがいた頃は十三枚だった。

 

数えなければよかった。

 

「手伝いますよ〜!」

 

俺は一枚取った。軽い皿だった。中身はいつもの粘土みたいな朝食だ。温かいのか冷めているのか、見ただけでは分からない。

 

ミリアが、皿を持ったまま止まった。

 

「どこに置けばいいのかな」

 

「え?」

 

「いや、分かってるんだけどさ」

 

ミリアの視線が、食堂の奥へ行く。

 

そこには、誰も座っていない椅子が三つあった。

 

ヒロの席。

 

ノアの席。

 

レイアの席。

 

昨日、誰も片づけなかった場所だ。

 

「席、詰める?」

 

ミリアが小さく言った。

 

「このままだと、食べにくいし」

 

「そうですね〜。席替えしましょうか! 空席を毎回見るのも健康に悪いですし!」

 

言ってから、皿の重さが少し変わった。

 

ミリアが俺を見ていた。

 

ハンナが食堂の入り口で足を止めていた。

 

ココは欠伸を途中で止めた顔をしている。アリサは舌打ちした。メルルは両手を胸の前で握っていた。エマは、視線をテーブルに落としていた。

 

ナノカだけが、廊下側を見ている。

 

マーゴはいつもの端の席に座り、本を開いていた。ページは動いていない。

 

「……あ、いえ! ほら、名探偵的には環境改善も大事と言いますか!」

 

「シェリーさん」

 

ハンナが言った。

 

声は普通だった。

 

「そこは、無理に明るくしない方がよろしいですわ」

 

「はい」

 

反射で返事をしてしまった。

 

敬語でも、シェリーでもない返事だった。

 

誰かが気づいたかは分からない。

 

ハンナはそれ以上言わず、自分の皿を取った。

 

結局、席は詰めなかった。

 

十人が、三つの空席を避けながら座った。

 

食器の音がする。スプーンが皿に当たる音。水を飲む音。椅子を引く音。誰かが咳をする音。

 

会話はなかった。

 

以前までは、会話がない時間にも、誰かが何かを埋めていた。ココが文句を言い、ハンナが返し、ミリアが間に入り、レイアが軽く笑う。ノアが絵の話をして、ヒロが正しさの話をして、アリサがうるせえと言う。

 

今は、文句を言う声が一つ減っただけで、食堂の形まで違って見えた。

 

「……ェマっち」

 

ココが言った。

 

エマが顔を上げる。

 

「それだけで足りんの?」

 

エマの皿には、ほとんど手がついていない。

 

「うん。大丈夫」

 

「大丈夫なやつの量じゃねーけど」

 

ココはそっぽを向いたまま言った。

 

「食えるとき食っとけよ。死んだら魔女裁判だけど、腹減って倒れても看守が運ぶだけだし」

 

「おい」

 

アリサが低く言う。

 

「んだよヤンキー。間違ってないじゃん」

 

「間違ってねーからムカつくんだろ」

 

ココは黙った。

 

エマはスプーンを持ち直した。ひと口だけ、口へ運ぶ。

 

メルルがその様子を見て、少しだけ肩を下ろした。

 

「よ、よかったです。少しでも食べられるなら」

 

「メルルちゃんは?」

 

「私は食べています。はい。ちゃんと、食べます」

 

メルルは自分の皿にスプーンを入れた。

 

何もすくえなかった。

 

二回目で、ようやく端の方をすくった。

 

「食事中にこういう話をするのも、だけれど…」

 

マーゴが本を閉じた。

 

全員の顔が少しだけそちらを向く。

 

「あの席、いずれ片づけられるのかしら」

 

誰も答えなかった。

 

「運営側が片づけるのか。私たちが片づけるのか。それとも、次の席が空くまで増やしていくのか」

 

「やめろよ」

 

アリサが言う。

 

「そうね。やめましょう」

 

マーゴはあっさり引いた。

 

本を開く。

 

今度はページが一枚めくられた。

 

朝食が終わっても、誰もすぐには立たなかった。

 

看守が来た。

 

黒い体。人とも完全な化け物とも判断がつかない異形。顔の目のあたりが、こちらを向く。監視カメラになっていると聞かされたら、もうただの目には見えない。

 

看守は配膳口の横に立ち、空いた皿を回収し始めた。

 

ヒロの席の前には皿がない。

 

ノアの席にもない。

 

レイアの席にもない。

 

最初から用意されていないから、片づけるものもない。

 

看守は、そこを通り過ぎた。

 

俺はその背中を見ていた。

 

「……あの」

 

声が出ていた。

 

看守が止まる。

 

食堂の空気も止まる。

 

「レイアさんの私物は、どうなるんですか?」

 

聞いてから、聞くべきだったか分からなくなった。

 

看守は答えない。

 

代わりに、天井のスピーカーが軽く鳴った。

 

『はいはい、何か御用ですか? 朝から業務を増やさないでほしいんですけどねぇ』

 

ゴクチョーの声だった。

 

「処刑された方の私物は、どのように扱われるんですか〜?」

 

俺は笑顔を作る。

 

『規定に従って回収いたします。危険物、魔法関連物、証拠物、その他の私物に分類しまして、必要に応じて保管または廃棄ですね』

 

「遺品として、渡すことは?」

 

『遺品?』

 

ゴクチョーが、そこで少しだけ間を置いた。

 

『皆さま、親族ではありませんよね?』

 

食堂のどこかで、椅子が小さく鳴った。

 

『それに、ここでは物の貸し借りや持ち込みについても管理が必要です。勝手に受け渡しをされますと困りますので。ああ、ただし、必要なものがあれば申請してください。審査して却下します』

 

「却下前提ですか〜!」

 

『はい。だいたい危ないですからねぇ』

 

羽音がした。

 

スピーカー越しなのに、耳元に来る感じがする。

 

『あと、処刑設備のメンテナンスを本日午後に行います。裁判場周辺への立ち入りは禁止です。近づいた場合、看守が止めますので、逆らわないでくださいね。昨日も少々、負荷が大きかったので』

 

昨日も。

 

誰も何も言わなかった。

 

『では、健やかにお過ごしください』

 

音が切れた。

 

健やか。

 

その言葉だけが、皿の上に落ちたみたいに残った。

 

自由時間になって、みんなはばらばらに動いた。

 

エマとメルルは医務室の方へ向かった。ミリアが少し迷って、その後を追った。ココは配信機材の確認をすると言ってラウンジへ残った。アリサは外へ出る扉の方へ。ナノカはいつの間にか廊下から消えていた。マーゴは本を抱えて、地下の方へ歩いていく。

 

ハンナだけが、食堂に残っていた。

 

俺も残った。

 

食器の片づけは終わっている。テーブルの上には水滴がいくつか残っていた。誰かが拭き損ねた跡だ。

 

「シェリーさん」

 

「はい!」

 

「あなた、手を隠した方がいいですわ」

 

「手?」

 

自分の手を見る。

 

右手で、紙コップを握っていた。

 

中身は空だ。

 

縁が潰れていた。飲み口が楕円になっている。指の形にへこんでいるところもあった。

 

いつから握っていたのか覚えていない。

 

「……あはは。握力測定なら新記録ですね〜」

 

「冗談にするのも下手ですわね」

 

ハンナはそう言って、紙コップを俺の手から取った。

 

潰れたところを指で押して戻そうとする。

 

戻らなかった。

 

「昨日、あなたはレイアさんを追い詰めましたわ」

 

「はい」

 

「必要なことだったのでしょう」

 

「はい」

 

「でも、必要だったから平気、という顔はしないでくださいませ」

 

言葉が、まっすぐ来た。

 

俺は笑い方を探した。

 

見つからなかった。

 

「していましたか?」

 

「していましたわ」

 

ハンナは紙コップをテーブルに置いた。

 

「少なくとも、そう見えました」

 

水滴の一つが、紙コップの底に触れて広がる。

 

「わたくしは、あなたが何を考えているかまでは分かりません。ただ、見えるものしか見えませんの。だから、見えるところくらいは、もう少し下手でいてください」

 

「下手、ですか」

 

「ええ。嫌なときは、嫌な顔をなさい。怖いときは、怖がりなさい。あなたの笑顔は便利すぎますわ」

 

便利。

 

それは困る。

 

 

「……努力します~」

 

「珍しく返事が真面目ですわね」

 

ハンナは少しだけ口を尖らせた。

 

その顔は、いつものハンナに近かった。

 

近かっただけで、同じではなかった。

 

「珍しくないですよぉ~」

 

 

 

午後になると、裁判場の方から低い音が聞こえ始めた。

 

金属を巻き上げる音。歯車が噛む音。ときどき、何か重いものが落ちる音。

 

部屋にいても聞こえた。

 

ラウンジにいても聞こえた。

 

廊下に出ると、もっと聞こえた。

 

看守が二体、裁判場へ続く通路を塞いでいた。近づく前から、顔だけがこちらを向く。

 

俺は足を止めた。

 

「見に行くんですの?」

 

後ろからハンナの声。

 

「いえ。見に行きませんよ〜。怒られちゃいますし」

 

「そうですか」

 

「ただ、音が気になりまして」

 

「わたくしもですわ」

 

二人で廊下に立つ。

 

音だけが続く。

 

処刑台を整えている音だ。次に誰かを殺すための準備をしている音だ。そう言えば簡単だが、口に出したくなかった。

 

通路の奥で、メルルが立ち止まっていた。

 

医務室へ行く途中らしい。タオルを抱えている。こちらに気づくと、慌てて頭を下げた。

 

「す、すみません。通るだけです」

 

「謝ることではありませんわ」

 

ハンナが言う。

 

メルルは頷いて、早足で医務室へ向かった。

 

タオルの端が、少し床に擦れていた。

 

夜。

 

消灯前に、ノートを開いた。

 

 

 

日付。人数。死亡者。空席。処刑設備メンテナンス。レイア私物回収予定。看守の通路封鎖。ハンナの忠告。

 

そこまで書いて、ペンが止まった。

 

レイアの名前の横に、何を書くか決まらない。

 

犯人。

 

被処刑者。

 

被害者。

 

加害者。

 

どれも正しい。

 

どれも足りない。

 

結局、名前だけを書いた。

 

蓮見レイア。

 

その下に、城ヶ崎ノア。

 

さらに下に、二階堂ヒロ。

 

三つの名前が縦に並ぶ。

 

ページの端に、インクが少しにじんだ。

 

手が震えたわけではない。ペン先を同じ場所に置きすぎただけだ。

 

たぶん。

 

監房の外で、何かが鳴った。

 

短い電子音。

 

スマホの通知音に似ていた。

 

俺は顔を上げる。

 

廊下は暗い。扉の小窓の向こうに、看守の影はない。

 

もう一度、音が鳴る。

 

今度は少し遠い。

 

誰かの端末だろうか。

 

俺はペンを置いた。

 

画面の暗いスマホが、机の上でこちらを向いていた。

 

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