『間違ってねーからムカつくんだろ』
レイアが死んで、朝が来た。
来なくてよかったのに、普通に来た。
監房のモニターが起床時刻を知らせた。扉のロックが外れる音がして、廊下の向こうで誰かの足音がした。看守の金属音も、配膳台車の車輪も、いつも通りだった。
布団から起きる。
昨日の裁判場の床を思い出した。
白い天使像。閉じた扉。短く途切れた声。終わったあとに残った、変な機械音。
手のひらを見る。
指は普通に動く。血はついていない。
でも、昨日この指で名前を押した。
蓮見レイア。
端末の画面に並んだ名前の中から、それを選んだ。俺だけではない。全員が押した。そういうルールだった。押さなければ全員死ぬ。だから押した。
正しい手順だった。
その言葉を頭の中で言って、すぐにやめた。
正しい手順で人が死ぬのは、会社の稟議よりひどい。
洗面台で顔を洗う。水が冷たかった。鏡の中の橘シェリーは、昨日と同じ顔をしていた。
目の下に隈はある。髪も少し跳ねている。けれど、顔そのものは崩れない。俺の中身がどれだけ散らかっても、この顔は人形みたいに整っている。
口角を上げてみる。
「おはようございます、みなさん!」
声に出す前の練習だ。
喉が引っかかった。
もう一度やる。
「おはようございます、みなさん!」
今度は通った。
食堂へ向かうと、配膳口の前でミリアが立っていた。
トレーを持っている。まだ誰の席にも置いていない。指先がトレーの端を押しすぎて、親指のところだけ白くなっていた。
「ミリアさん、おはようございます!」
「……あ、おはよう、シェリーちゃん」
ミリアは笑った。
笑った形にはなっていた。
配膳口には、皿が十枚あった。
昨日までは十一枚だった。
その前は十二枚だった。
ヒロがいた頃は十三枚だった。
数えなければよかった。
「手伝いますよ〜!」
俺は一枚取った。軽い皿だった。中身はいつもの粘土みたいな朝食だ。温かいのか冷めているのか、見ただけでは分からない。
ミリアが、皿を持ったまま止まった。
「どこに置けばいいのかな」
「え?」
「いや、分かってるんだけどさ」
ミリアの視線が、食堂の奥へ行く。
そこには、誰も座っていない椅子が三つあった。
ヒロの席。
ノアの席。
レイアの席。
昨日、誰も片づけなかった場所だ。
「席、詰める?」
ミリアが小さく言った。
「このままだと、食べにくいし」
「そうですね〜。席替えしましょうか! 空席を毎回見るのも健康に悪いですし!」
言ってから、皿の重さが少し変わった。
ミリアが俺を見ていた。
ハンナが食堂の入り口で足を止めていた。
ココは欠伸を途中で止めた顔をしている。アリサは舌打ちした。メルルは両手を胸の前で握っていた。エマは、視線をテーブルに落としていた。
ナノカだけが、廊下側を見ている。
マーゴはいつもの端の席に座り、本を開いていた。ページは動いていない。
「……あ、いえ! ほら、名探偵的には環境改善も大事と言いますか!」
「シェリーさん」
ハンナが言った。
声は普通だった。
「そこは、無理に明るくしない方がよろしいですわ」
「はい」
反射で返事をしてしまった。
敬語でも、シェリーでもない返事だった。
誰かが気づいたかは分からない。
ハンナはそれ以上言わず、自分の皿を取った。
結局、席は詰めなかった。
十人が、三つの空席を避けながら座った。
食器の音がする。スプーンが皿に当たる音。水を飲む音。椅子を引く音。誰かが咳をする音。
会話はなかった。
以前までは、会話がない時間にも、誰かが何かを埋めていた。ココが文句を言い、ハンナが返し、ミリアが間に入り、レイアが軽く笑う。ノアが絵の話をして、ヒロが正しさの話をして、アリサがうるせえと言う。
今は、文句を言う声が一つ減っただけで、食堂の形まで違って見えた。
「……ェマっち」
ココが言った。
エマが顔を上げる。
「それだけで足りんの?」
エマの皿には、ほとんど手がついていない。
「うん。大丈夫」
「大丈夫なやつの量じゃねーけど」
ココはそっぽを向いたまま言った。
「食えるとき食っとけよ。死んだら魔女裁判だけど、腹減って倒れても看守が運ぶだけだし」
「おい」
アリサが低く言う。
「んだよヤンキー。間違ってないじゃん」
「間違ってねーからムカつくんだろ」
ココは黙った。
エマはスプーンを持ち直した。ひと口だけ、口へ運ぶ。
メルルがその様子を見て、少しだけ肩を下ろした。
「よ、よかったです。少しでも食べられるなら」
「メルルちゃんは?」
「私は食べています。はい。ちゃんと、食べます」
メルルは自分の皿にスプーンを入れた。
何もすくえなかった。
二回目で、ようやく端の方をすくった。
「食事中にこういう話をするのも、だけれど…」
マーゴが本を閉じた。
全員の顔が少しだけそちらを向く。
「あの席、いずれ片づけられるのかしら」
誰も答えなかった。
「運営側が片づけるのか。私たちが片づけるのか。それとも、次の席が空くまで増やしていくのか」
「やめろよ」
アリサが言う。
「そうね。やめましょう」
マーゴはあっさり引いた。
本を開く。
今度はページが一枚めくられた。
朝食が終わっても、誰もすぐには立たなかった。
看守が来た。
黒い体。人とも完全な化け物とも判断がつかない異形。顔の目のあたりが、こちらを向く。監視カメラになっていると聞かされたら、もうただの目には見えない。
看守は配膳口の横に立ち、空いた皿を回収し始めた。
ヒロの席の前には皿がない。
ノアの席にもない。
レイアの席にもない。
最初から用意されていないから、片づけるものもない。
看守は、そこを通り過ぎた。
俺はその背中を見ていた。
「……あの」
声が出ていた。
看守が止まる。
食堂の空気も止まる。
「レイアさんの私物は、どうなるんですか?」
聞いてから、聞くべきだったか分からなくなった。
看守は答えない。
代わりに、天井のスピーカーが軽く鳴った。
『はいはい、何か御用ですか? 朝から業務を増やさないでほしいんですけどねぇ』
ゴクチョーの声だった。
「処刑された方の私物は、どのように扱われるんですか〜?」
俺は笑顔を作る。
『規定に従って回収いたします。危険物、魔法関連物、証拠物、その他の私物に分類しまして、必要に応じて保管または廃棄ですね』
「遺品として、渡すことは?」
『遺品?』
ゴクチョーが、そこで少しだけ間を置いた。
『皆さま、親族ではありませんよね?』
食堂のどこかで、椅子が小さく鳴った。
『それに、ここでは物の貸し借りや持ち込みについても管理が必要です。勝手に受け渡しをされますと困りますので。ああ、ただし、必要なものがあれば申請してください。審査して却下します』
「却下前提ですか〜!」
『はい。だいたい危ないですからねぇ』
羽音がした。
スピーカー越しなのに、耳元に来る感じがする。
『あと、処刑設備のメンテナンスを本日午後に行います。裁判場周辺への立ち入りは禁止です。近づいた場合、看守が止めますので、逆らわないでくださいね。昨日も少々、負荷が大きかったので』
昨日も。
誰も何も言わなかった。
『では、健やかにお過ごしください』
音が切れた。
健やか。
その言葉だけが、皿の上に落ちたみたいに残った。
自由時間になって、みんなはばらばらに動いた。
エマとメルルは医務室の方へ向かった。ミリアが少し迷って、その後を追った。ココは配信機材の確認をすると言ってラウンジへ残った。アリサは外へ出る扉の方へ。ナノカはいつの間にか廊下から消えていた。マーゴは本を抱えて、地下の方へ歩いていく。
ハンナだけが、食堂に残っていた。
俺も残った。
食器の片づけは終わっている。テーブルの上には水滴がいくつか残っていた。誰かが拭き損ねた跡だ。
「シェリーさん」
「はい!」
「あなた、手を隠した方がいいですわ」
「手?」
自分の手を見る。
右手で、紙コップを握っていた。
中身は空だ。
縁が潰れていた。飲み口が楕円になっている。指の形にへこんでいるところもあった。
いつから握っていたのか覚えていない。
「……あはは。握力測定なら新記録ですね〜」
「冗談にするのも下手ですわね」
ハンナはそう言って、紙コップを俺の手から取った。
潰れたところを指で押して戻そうとする。
戻らなかった。
「昨日、あなたはレイアさんを追い詰めましたわ」
「はい」
「必要なことだったのでしょう」
「はい」
「でも、必要だったから平気、という顔はしないでくださいませ」
言葉が、まっすぐ来た。
俺は笑い方を探した。
見つからなかった。
「していましたか?」
「していましたわ」
ハンナは紙コップをテーブルに置いた。
「少なくとも、そう見えました」
水滴の一つが、紙コップの底に触れて広がる。
「わたくしは、あなたが何を考えているかまでは分かりません。ただ、見えるものしか見えませんの。だから、見えるところくらいは、もう少し下手でいてください」
「下手、ですか」
「ええ。嫌なときは、嫌な顔をなさい。怖いときは、怖がりなさい。あなたの笑顔は便利すぎますわ」
便利。
それは困る。
「……努力します~」
「珍しく返事が真面目ですわね」
ハンナは少しだけ口を尖らせた。
その顔は、いつものハンナに近かった。
近かっただけで、同じではなかった。
「珍しくないですよぉ~」
午後になると、裁判場の方から低い音が聞こえ始めた。
金属を巻き上げる音。歯車が噛む音。ときどき、何か重いものが落ちる音。
部屋にいても聞こえた。
ラウンジにいても聞こえた。
廊下に出ると、もっと聞こえた。
看守が二体、裁判場へ続く通路を塞いでいた。近づく前から、顔だけがこちらを向く。
俺は足を止めた。
「見に行くんですの?」
後ろからハンナの声。
「いえ。見に行きませんよ〜。怒られちゃいますし」
「そうですか」
「ただ、音が気になりまして」
「わたくしもですわ」
二人で廊下に立つ。
音だけが続く。
処刑台を整えている音だ。次に誰かを殺すための準備をしている音だ。そう言えば簡単だが、口に出したくなかった。
通路の奥で、メルルが立ち止まっていた。
医務室へ行く途中らしい。タオルを抱えている。こちらに気づくと、慌てて頭を下げた。
「す、すみません。通るだけです」
「謝ることではありませんわ」
ハンナが言う。
メルルは頷いて、早足で医務室へ向かった。
タオルの端が、少し床に擦れていた。
夜。
消灯前に、ノートを開いた。
日付。人数。死亡者。空席。処刑設備メンテナンス。レイア私物回収予定。看守の通路封鎖。ハンナの忠告。
そこまで書いて、ペンが止まった。
レイアの名前の横に、何を書くか決まらない。
犯人。
被処刑者。
被害者。
加害者。
どれも正しい。
どれも足りない。
結局、名前だけを書いた。
蓮見レイア。
その下に、城ヶ崎ノア。
さらに下に、二階堂ヒロ。
三つの名前が縦に並ぶ。
ページの端に、インクが少しにじんだ。
手が震えたわけではない。ペン先を同じ場所に置きすぎただけだ。
たぶん。
監房の外で、何かが鳴った。
短い電子音。
スマホの通知音に似ていた。
俺は顔を上げる。
廊下は暗い。扉の小窓の向こうに、看守の影はない。
もう一度、音が鳴る。
今度は少し遠い。
誰かの端末だろうか。
俺はペンを置いた。
画面の暗いスマホが、机の上でこちらを向いていた。