原罪:自称ニセモノ名探偵     作:三日月ノア

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『……そんな。私にできることなんて、これくらいなので』


第34話 夢現に流れる着信音

 

 

監房区画の廊下は、ラウンジより確実に冷たかった。

 

石の床に足音が落ちる。先頭はナノカ。俺、ハンナ、メルルと続く。四人の歩幅はずれていた。

 

昨日の夜、消灯前に電子音が鳴った。

 

短い音だった。スマホの通知音にも、館内放送の前触れにも聞こえた。自分の端末を確認したが、何も届いていなかった。

 

だから今朝、ナノカが廊下へ出た時、俺もついていった。

 

「また尾行?」

 

ナノカが振り返らずに言った。

 

「ご一緒しているだけですよ〜!」

 

「それを尾行と言うのだけど」

 

「言葉の選び方が冷たいですね〜!」

 

「廊下も冷たい」

 

それはそう。

 

ハンナが少し遅れて歩きながら、裾をつまんだ。

 

「朝から地下巡りとは、優雅ではありませんわね」

 

「昨日の音が気になりまして〜」

 

「わたくしも聞きましたわ。短い音でしたけれど」

 

「わ、私もです」

 

メルルが小さく手を挙げた。

 

「でも、どこから鳴ったのかは分からなくて。監房の中なのか、廊下なのか、遠くなのか」

 

「そうですね〜。だから確認です!」

 

「確認して何か分かるの?」

 

ナノカが止まった。

 

場所は懲罰房の近く。

 

俺は返事をする前に、床を見た。

 

石床の一部だけ、色が薄い。

 

昨日までの汚れを覚えているわけではない。だが、濡れた布で拭いたあとの乾き方は分かる。目地にだけ水気が残り、周囲の埃がそこだけ切れていた。

 

「掃除されていますね〜」

 

「ええ」

 

ハンナがしゃがみ込む。指先で床には触れない。

 

「このあたりだけ、妙に綺麗ですわ」

 

メルルが一歩下がった。

 

「メンテナンスのついででは……? 昨日、処刑台の整備をしていましたし」

 

「懲罰房の前だけ?」

 

ナノカは扉の金具を見ていた。

 

俺も見る。

 

扉そのものは古い。鉄の錆び、木の傷、覗き窓の曇り。だが、錠前の周囲だけ布で拭かれている。金具の隙間に残った黒い汚れが、横に伸びていた。

 

「昨日とは違う」

 

ナノカが言った。

 

「写真を撮っておくべきでしたね〜」

 

「撮っとけばよかった」

 

「端末で写真は撮れますか?」

 

俺はハンナに訊いた。

 

ハンナは懐から端末を取り出す。操作に少し手間取ってから、画面をこちらへ見せた。

 

「撮れないことはなさそうですわ」

 

「ちゃんと使えていませんでしたね〜!」

 

それは痛いところだった。

 

端末は配布されている。だが誰もこの端末を信用していない。連絡と投票と館内通知のためのもの、という扱いで止まっている。

 

ログ。録音。写真。時刻。

 

そういう使い方まで頭が回っていなかった。自分たちで気づくまで、誰も教えない。

 

この屋敷は、道具を渡すだけ渡して、使い方の一番大事なところを黙っている。

 

ハンナが床と錠前を撮った。

 

シャッター音が廊下に響く。

 

その直後だった。

 

電子音が鳴った。

 

四人の肩が動いた。

 

短い、着信音に近い音。廊下の先、曲がり角の向こうから来た。

 

ナノカが先に動く。

 

俺も続く。角を曲がる。

 

何もなかった。

 

看守もいない。落ちた端末もない。扉が開いた様子もない。

 

「何もないです」

 

メルルの声が震えていた。

 

「聞こえましたわよね」

 

「ええ。皆さんの耳が壊れていなければ」

 

壁を見る。床。天井。スピーカーの位置。看守用の監視カメラ。端末を置ける棚はない。

 

「廊下の反響でしょうか」

 

メルルが言う。

 

「かもしれませんわ」

 

ハンナは否定しなかった。

 

ナノカは別の場所を見ている。

 

「遅い」

 

「何がですか?」

 

「鳴ってから、ここへ来るまでが」

 

着信音は近かった。

 

なのに角を曲がった時には何もなかった。誰かが端末を隠したとしても、時間が足りない。元からここで鳴っていなかったなら、説明はつく。

 

「音だけ飛んできた、ということですかね〜」

 

「この建物ならできそう」

 

ナノカの声は平らだった。

 

「そんなの、たまたまですよ」

 

メルルが言う。

 

「たまたまで済めば楽ですけどね」

 

つい出た。

 

メルルが少しだけ目を伏せる。

 

「すみません。意地悪でした」

 

「い、いえ」

 

ハンナはそのやり取りを見ていた。何も挟まない。あの子はこういう時、助けたと分からない場所から手を入れる。

 

「ところで」

 

ハンナが言った。

 

「誰の端末がどこにあるか、皆さまちゃんと把握していますの?」

 

俺は即答できなかった。

 

「してないです」

 

メルルが小さく言う。

 

ナノカも答えない。

 

俺は自分の端末を見る。

 

手元にある。電池は八十三パーセント。通知なし。写真機能あり。録音機能あり。通話履歴は残る。時刻も残る。

 

当たり前のことが、今さら証拠品に見えてきた。

 

「全員、端末を持ち歩くようにしましょうか〜」

 

「あなたが言うと、余計に管理されている感じがしますわね」

 

「ひどい!」

 

「でも、必要ですわ」

 

ハンナは端末をしまった。

 

「誰かの端末がどこかに置かれたままなら、それだけで嫌な使われ方をしますもの」

 

嫌な使われ方。

 

言い方が正確だった。

 

昼食後、ラウンジに全員を集めた。

 

集めたと言っても、俺が大声で呼んだわけではない。ココが「シェリーがまたなんか言ってる」とチャットに投げたら、半分くらいが文句を言いながら来た。

 

食堂ではなくラウンジにしたのは、端末の着信音が聞こえやすいからだ。

 

「というわけで、端末チェックのお時間です!」

 

「だる」

 

ココがソファに沈む。

 

「そう言わずに〜。これ、けっこう大事ですよ〜」

 

「また名探偵ごっこ?」

 

アリサが腕を組む。

 

「はい! 命がけのごっこです!」

 

「笑えねえよ」

 

その通りだった。

 

俺は自分の端末を掲げた。

 

「まず、全員が自分の端末を持っているか確認しましょう。置き忘れ、貸し借り、電源切れがあると、後で面倒になります」

 

「後でって何ですの」

 

ハンナが聞く。

 

「後でです!」

 

「何も説明していませんわね」

 

「説明できるほど、まだ何も起きていないんですよ〜」

 

言ってから、しまったと思った。

 

何も起きていない。

 

その言葉で、空気が少し止まった。

 

今はまだ、そうだ。

 

エマが自分の端末を胸の前で持っている。ミリアはポケットから慌てて取り出した。ココはソファの隙間に落ちかけていたものを拾う。アリサは最初から手に持っていた。マーゴは本の上に置いていた。ナノカは無言で画面を見せる。メルルは両手で持っている。ハンナはさっき撮った写真を確認していた。

 

アンアンは、スケッチブックを開いた。

 

『我が輩の端末はここにある』

 

膝の上に端末が置かれている。

 

「音量は?」

 

アンアンは一拍置いて、画面を操作した。

 

『最小』

 

「でしょうね〜!」

 

「アンアンちゃん、音が苦手だもんね」

 

ミリアが隣から覗く。

 

アンアンはうなずいた。

 

『突然鳴るものは嫌いだ』

 

「分かるよ。おじさんもびっくりするから、着信音変えようかな」

 

「おっさんの着信音とかどうせダサそう」

 

ココが言った。

 

「ひどいなぁ! 初期設定だよ、初期設定!」

 

「それがダサいんだけど」

 

「では実演しましょう〜!」

 

俺は流れに乗って、ミリアの端末へ通話をかけた。

 

数秒後、ラウンジに電子音が鳴る。

 

ぴろろん、ぴろろん。

 

「うわ、普通」

 

ココが言う。

 

「普通が一番じゃない?」

 

ミリアは照れ笑いを浮かべた。

 

「だって、変なのにすると恥ずかしいし」

 

「声も設定できるよ〜」

 

ココが自分の端末をいじりながら言った。

 

「配信の通知音とか、あてぃしの声にしてるし。ほら」

 

ココが再生ボタンを押す。

 

『ココちゃんねる、更新だよ〜』

 

自分の声だった。

 

ラウンジに一瞬だけ、いつものココの明るい声が流れる。

 

そのあと、本人が露骨に顔をしかめた。

 

「今聞くと腹立つな」

 

「自分の声にキレるんですの?」

 

ハンナが言う。

 

「うっさい」

 

ミリアが少し目を丸くする。

 

「え、じゃあ、おじさんの声も設定できるの?」

 

「当たり前じゃん。録音すればできる」

 

ココが端末を投げるように見せた。

 

「ほら、録音して設定するだけ」

 

「へえ」

 

ミリアは、少しだけ笑った。

 

その顔は久しぶりに普通だった。

 

「じゃあ、緊急用に分かりやすい声にしておくのもありかな。たとえば――」

 

ミリアは端末に向かって、わざと大げさに声を出した。

 

「助けてー! おじさんだよー!」

 

「縁起でもねえ!」

 

アリサが即座に突っ込む。

 

「え、今のダメ?」

 

「ダメに決まってんだろ!」

 

「ミリアさん、こういうの向いてないですわね」

 

「そんなぁ」

 

ミリアが肩を落とす。

 

アンアンがスケッチブックを掲げた。

 

『今の声は、劇の悲鳴としては軽すぎる』

 

「演技指導!?」

 

『もっと腹から出すべき』

 

「いやいや、ここで本気の悲鳴練習は迷惑だよ」

 

エマが苦笑した。

 

その苦笑も、すぐ薄くなる。

 

誰かが本当に悲鳴を上げたら。

 

全員がそれを同じように思った顔をした。

 

ココが端末をミリアへ返す。

 

「まあ、変な音にするなら自己責任ね。鳴っただけでビビるとか、最悪だから」

 

「うん。やめとく」

 

ミリアは録音データを消そうとして、少し手間取った。

 

「えっと、これ、削除どこ?」

 

「貸して」

 

ココが操作する。

 

すぐに画面が戻った。

 

「ほら、消した」

 

「ありがと、ココちゃん」

 

「別に」

 

ココはそっぽを向いた。

 

俺はそのやり取りを見ていた。

 

録音できる。

 

声を着信音にできる。

 

消したかどうかは、操作した人間しか分からない。

 

 

何もおかしなことはない。当たり前のことだ。

 

「シェリーちゃん?」

 

エマに呼ばれて、顔を上げる。

 

「どうしたの? なんか、すごく考えてた」

 

「名探偵なので〜!」

 

「それ、便利だね」

 

「はい! 大変便利です!」

 

エマは笑わなかった。

 

そのまま、ミリアの端末を見ている。

 

ミリアはアンアンに、着信音の変え方を教えていた。アンアンは首を横に振る。

 

『我輩は変えない』

 

「そっか。じゃあ、音量だけでも少し上げない? もし何かあったとき、気づけるかも」

 

『突然鳴るのは嫌だ』

 

「でも」

 

ミリアはそこで止まった。

 

アンアンがミリアを見た。

 

『でも?』

 

「ううん。なんでもない」

 

ミリアは笑った。

 

「嫌なら、そのままでいいよ」

 

アンアンはしばらくスケッチブックを握っていた。

 

何か違和感が残る。

 

書かれない白いページが、二人の間に残ったみたいに。

 

夕方、もう一度懲罰房の前を通った。

 

今度は俺一人だった。

 

全員で端末を持ち歩こう、などと言った本人が単独行動をしている。

 

でも、気になった。

 

掃除跡は乾いていた。

 

朝より分かりにくい。写真を撮っていなければ、見落とす。錠前の周囲だけ、やはり他より少し綺麗だった。

 

扉に手をかける。

 

開かない。

 

当たり前だ。懲罰房の扉が自由に開いたら、懲罰にならない。

 

覗き窓から中を見る。

 

暗い。

 

何も見えない。

 

「シェリーさん?」

 

声に振り返る。

 

メルルがいた。タオルと小さな箱を抱えている。

 

「おや、メルルさん。医務室ですか?」

 

「はい。少し、備品の確認を。ゴクチョーさんから、使ったものを整理しておくように言われていて」

 

「大変ですね〜」

 

「……そんな。私にできることなんて、これくらいなので」

 

メルルは箱を抱え直した。

 

中で瓶が小さく鳴った。

 

「さっきの端末の話、怖かったです」

 

「怖がらせるつもりはなかったんですけどね〜」

 

「でも、必要な話なんですよね」

 

「たぶん」

 

「たぶん、ですか?」

 

「……はい。まだ、何も起きていませんから」

 

メルルは懲罰房の扉を見た。

 

その顔から、少しだけ血の気が引く。

 

「ここは、嫌ですね」

 

「入ったことが?」

 

「ないです。入りたくもないです」

 

「私もです〜」

 

明るく言った。

 

メルルは笑わなかった。

 

「シェリーさんは……もし誰かがここに入れられそうになったら、止めますか?」

 

「止めますよ〜!」

 

即答した。

 

即答してから、少し遅れて意味を考えた。

 

看守を止める。ゴクチョーを止める。懲罰を止める。怪力で扉を壊す。

 

どれも、たぶん処刑に近い。

 

それでも、止めますよと答えてしまった。

 

メルルは、俺を見ていた。

 

「そう、ですよね」

 

「はい!」

 

「シェリーさんは、そういう人です」

 

その言い方が少し引っかかった。

 

知っているものを確認したような声だった。

 

「買いかぶりですよ〜!」

 

「そうでしょうか」

 

「そうですよ〜。私はただの名探偵ですから!」

 

 

メルルは小さく頭を下げた。

 

「失礼します」

 

去っていく背中を見送る。

 

タオルの端が、床を擦っていた。

 

夜。

 

監房に戻って、ノートを開いた。

 

今日の違和感を三つに絞る。

 

一つ。懲罰房前の掃除跡。

 

二つ。近くで鳴ったはずの着信音が、角を曲がるまでに消えた。

 

三つ。端末は声を録音し、着信音に設定できる。

 

書いてから、線を引いた。

 

まだ事件は起きていない。

 

この三つは、ただの生活のメモだ。そう扱うしかない。事件になってから「伏線だった」と呼ぶのは簡単だが、事件の前にそれを止める方法がない。

 

ペン先を止める。

 

ページの端に、インクの点ができた。

 

スマホが鳴った。

 

今度は、自分の端末だった。

 

画面を見る。

 

ココからのグループチャット。

 

『全員、生きてる? 生存確認、ってやつ?。既読かもーん』

 

数秒ずつ既読が増えていく。

 

エマ。ハンナ。メルル。アリサ。マーゴ。ナノカ。ミリア。アンアン。

 

全員分の既読がついた。

 

俺は息を吐く。

 

そのすぐあと、廊下の向こうで音が鳴った。

 

 

 

短い声だった。

 

ミリアの声に聞こえた。

 

「……え?」

 

端末の画面は暗い。

 

時刻は、二十時ちょうどだった。

 

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