『……そんな。私にできることなんて、これくらいなので』
監房区画の廊下は、ラウンジより確実に冷たかった。
石の床に足音が落ちる。先頭はナノカ。俺、ハンナ、メルルと続く。四人の歩幅はずれていた。
昨日の夜、消灯前に電子音が鳴った。
短い音だった。スマホの通知音にも、館内放送の前触れにも聞こえた。自分の端末を確認したが、何も届いていなかった。
だから今朝、ナノカが廊下へ出た時、俺もついていった。
「また尾行?」
ナノカが振り返らずに言った。
「ご一緒しているだけですよ〜!」
「それを尾行と言うのだけど」
「言葉の選び方が冷たいですね〜!」
「廊下も冷たい」
それはそう。
ハンナが少し遅れて歩きながら、裾をつまんだ。
「朝から地下巡りとは、優雅ではありませんわね」
「昨日の音が気になりまして〜」
「わたくしも聞きましたわ。短い音でしたけれど」
「わ、私もです」
メルルが小さく手を挙げた。
「でも、どこから鳴ったのかは分からなくて。監房の中なのか、廊下なのか、遠くなのか」
「そうですね〜。だから確認です!」
「確認して何か分かるの?」
ナノカが止まった。
場所は懲罰房の近く。
俺は返事をする前に、床を見た。
石床の一部だけ、色が薄い。
昨日までの汚れを覚えているわけではない。だが、濡れた布で拭いたあとの乾き方は分かる。目地にだけ水気が残り、周囲の埃がそこだけ切れていた。
「掃除されていますね〜」
「ええ」
ハンナがしゃがみ込む。指先で床には触れない。
「このあたりだけ、妙に綺麗ですわ」
メルルが一歩下がった。
「メンテナンスのついででは……? 昨日、処刑台の整備をしていましたし」
「懲罰房の前だけ?」
ナノカは扉の金具を見ていた。
俺も見る。
扉そのものは古い。鉄の錆び、木の傷、覗き窓の曇り。だが、錠前の周囲だけ布で拭かれている。金具の隙間に残った黒い汚れが、横に伸びていた。
「昨日とは違う」
ナノカが言った。
「写真を撮っておくべきでしたね〜」
「撮っとけばよかった」
「端末で写真は撮れますか?」
俺はハンナに訊いた。
ハンナは懐から端末を取り出す。操作に少し手間取ってから、画面をこちらへ見せた。
「撮れないことはなさそうですわ」
「ちゃんと使えていませんでしたね〜!」
それは痛いところだった。
端末は配布されている。だが誰もこの端末を信用していない。連絡と投票と館内通知のためのもの、という扱いで止まっている。
ログ。録音。写真。時刻。
そういう使い方まで頭が回っていなかった。自分たちで気づくまで、誰も教えない。
この屋敷は、道具を渡すだけ渡して、使い方の一番大事なところを黙っている。
ハンナが床と錠前を撮った。
シャッター音が廊下に響く。
その直後だった。
電子音が鳴った。
四人の肩が動いた。
短い、着信音に近い音。廊下の先、曲がり角の向こうから来た。
ナノカが先に動く。
俺も続く。角を曲がる。
何もなかった。
看守もいない。落ちた端末もない。扉が開いた様子もない。
「何もないです」
メルルの声が震えていた。
「聞こえましたわよね」
「ええ。皆さんの耳が壊れていなければ」
壁を見る。床。天井。スピーカーの位置。看守用の監視カメラ。端末を置ける棚はない。
「廊下の反響でしょうか」
メルルが言う。
「かもしれませんわ」
ハンナは否定しなかった。
ナノカは別の場所を見ている。
「遅い」
「何がですか?」
「鳴ってから、ここへ来るまでが」
着信音は近かった。
なのに角を曲がった時には何もなかった。誰かが端末を隠したとしても、時間が足りない。元からここで鳴っていなかったなら、説明はつく。
「音だけ飛んできた、ということですかね〜」
「この建物ならできそう」
ナノカの声は平らだった。
「そんなの、たまたまですよ」
メルルが言う。
「たまたまで済めば楽ですけどね」
つい出た。
メルルが少しだけ目を伏せる。
「すみません。意地悪でした」
「い、いえ」
ハンナはそのやり取りを見ていた。何も挟まない。あの子はこういう時、助けたと分からない場所から手を入れる。
「ところで」
ハンナが言った。
「誰の端末がどこにあるか、皆さまちゃんと把握していますの?」
俺は即答できなかった。
「してないです」
メルルが小さく言う。
ナノカも答えない。
俺は自分の端末を見る。
手元にある。電池は八十三パーセント。通知なし。写真機能あり。録音機能あり。通話履歴は残る。時刻も残る。
当たり前のことが、今さら証拠品に見えてきた。
「全員、端末を持ち歩くようにしましょうか〜」
「あなたが言うと、余計に管理されている感じがしますわね」
「ひどい!」
「でも、必要ですわ」
ハンナは端末をしまった。
「誰かの端末がどこかに置かれたままなら、それだけで嫌な使われ方をしますもの」
嫌な使われ方。
言い方が正確だった。
昼食後、ラウンジに全員を集めた。
集めたと言っても、俺が大声で呼んだわけではない。ココが「シェリーがまたなんか言ってる」とチャットに投げたら、半分くらいが文句を言いながら来た。
食堂ではなくラウンジにしたのは、端末の着信音が聞こえやすいからだ。
「というわけで、端末チェックのお時間です!」
「だる」
ココがソファに沈む。
「そう言わずに〜。これ、けっこう大事ですよ〜」
「また名探偵ごっこ?」
アリサが腕を組む。
「はい! 命がけのごっこです!」
「笑えねえよ」
その通りだった。
俺は自分の端末を掲げた。
「まず、全員が自分の端末を持っているか確認しましょう。置き忘れ、貸し借り、電源切れがあると、後で面倒になります」
「後でって何ですの」
ハンナが聞く。
「後でです!」
「何も説明していませんわね」
「説明できるほど、まだ何も起きていないんですよ〜」
言ってから、しまったと思った。
何も起きていない。
その言葉で、空気が少し止まった。
今はまだ、そうだ。
エマが自分の端末を胸の前で持っている。ミリアはポケットから慌てて取り出した。ココはソファの隙間に落ちかけていたものを拾う。アリサは最初から手に持っていた。マーゴは本の上に置いていた。ナノカは無言で画面を見せる。メルルは両手で持っている。ハンナはさっき撮った写真を確認していた。
アンアンは、スケッチブックを開いた。
『我が輩の端末はここにある』
膝の上に端末が置かれている。
「音量は?」
アンアンは一拍置いて、画面を操作した。
『最小』
「でしょうね〜!」
「アンアンちゃん、音が苦手だもんね」
ミリアが隣から覗く。
アンアンはうなずいた。
『突然鳴るものは嫌いだ』
「分かるよ。おじさんもびっくりするから、着信音変えようかな」
「おっさんの着信音とかどうせダサそう」
ココが言った。
「ひどいなぁ! 初期設定だよ、初期設定!」
「それがダサいんだけど」
「では実演しましょう〜!」
俺は流れに乗って、ミリアの端末へ通話をかけた。
数秒後、ラウンジに電子音が鳴る。
ぴろろん、ぴろろん。
「うわ、普通」
ココが言う。
「普通が一番じゃない?」
ミリアは照れ笑いを浮かべた。
「だって、変なのにすると恥ずかしいし」
「声も設定できるよ〜」
ココが自分の端末をいじりながら言った。
「配信の通知音とか、あてぃしの声にしてるし。ほら」
ココが再生ボタンを押す。
『ココちゃんねる、更新だよ〜』
自分の声だった。
ラウンジに一瞬だけ、いつものココの明るい声が流れる。
そのあと、本人が露骨に顔をしかめた。
「今聞くと腹立つな」
「自分の声にキレるんですの?」
ハンナが言う。
「うっさい」
ミリアが少し目を丸くする。
「え、じゃあ、おじさんの声も設定できるの?」
「当たり前じゃん。録音すればできる」
ココが端末を投げるように見せた。
「ほら、録音して設定するだけ」
「へえ」
ミリアは、少しだけ笑った。
その顔は久しぶりに普通だった。
「じゃあ、緊急用に分かりやすい声にしておくのもありかな。たとえば――」
ミリアは端末に向かって、わざと大げさに声を出した。
「助けてー! おじさんだよー!」
「縁起でもねえ!」
アリサが即座に突っ込む。
「え、今のダメ?」
「ダメに決まってんだろ!」
「ミリアさん、こういうの向いてないですわね」
「そんなぁ」
ミリアが肩を落とす。
アンアンがスケッチブックを掲げた。
『今の声は、劇の悲鳴としては軽すぎる』
「演技指導!?」
『もっと腹から出すべき』
「いやいや、ここで本気の悲鳴練習は迷惑だよ」
エマが苦笑した。
その苦笑も、すぐ薄くなる。
誰かが本当に悲鳴を上げたら。
全員がそれを同じように思った顔をした。
ココが端末をミリアへ返す。
「まあ、変な音にするなら自己責任ね。鳴っただけでビビるとか、最悪だから」
「うん。やめとく」
ミリアは録音データを消そうとして、少し手間取った。
「えっと、これ、削除どこ?」
「貸して」
ココが操作する。
すぐに画面が戻った。
「ほら、消した」
「ありがと、ココちゃん」
「別に」
ココはそっぽを向いた。
俺はそのやり取りを見ていた。
録音できる。
声を着信音にできる。
消したかどうかは、操作した人間しか分からない。
何もおかしなことはない。当たり前のことだ。
「シェリーちゃん?」
エマに呼ばれて、顔を上げる。
「どうしたの? なんか、すごく考えてた」
「名探偵なので〜!」
「それ、便利だね」
「はい! 大変便利です!」
エマは笑わなかった。
そのまま、ミリアの端末を見ている。
ミリアはアンアンに、着信音の変え方を教えていた。アンアンは首を横に振る。
『我輩は変えない』
「そっか。じゃあ、音量だけでも少し上げない? もし何かあったとき、気づけるかも」
『突然鳴るのは嫌だ』
「でも」
ミリアはそこで止まった。
アンアンがミリアを見た。
『でも?』
「ううん。なんでもない」
ミリアは笑った。
「嫌なら、そのままでいいよ」
アンアンはしばらくスケッチブックを握っていた。
何か違和感が残る。
書かれない白いページが、二人の間に残ったみたいに。
夕方、もう一度懲罰房の前を通った。
今度は俺一人だった。
全員で端末を持ち歩こう、などと言った本人が単独行動をしている。
でも、気になった。
掃除跡は乾いていた。
朝より分かりにくい。写真を撮っていなければ、見落とす。錠前の周囲だけ、やはり他より少し綺麗だった。
扉に手をかける。
開かない。
当たり前だ。懲罰房の扉が自由に開いたら、懲罰にならない。
覗き窓から中を見る。
暗い。
何も見えない。
「シェリーさん?」
声に振り返る。
メルルがいた。タオルと小さな箱を抱えている。
「おや、メルルさん。医務室ですか?」
「はい。少し、備品の確認を。ゴクチョーさんから、使ったものを整理しておくように言われていて」
「大変ですね〜」
「……そんな。私にできることなんて、これくらいなので」
メルルは箱を抱え直した。
中で瓶が小さく鳴った。
「さっきの端末の話、怖かったです」
「怖がらせるつもりはなかったんですけどね〜」
「でも、必要な話なんですよね」
「たぶん」
「たぶん、ですか?」
「……はい。まだ、何も起きていませんから」
メルルは懲罰房の扉を見た。
その顔から、少しだけ血の気が引く。
「ここは、嫌ですね」
「入ったことが?」
「ないです。入りたくもないです」
「私もです〜」
明るく言った。
メルルは笑わなかった。
「シェリーさんは……もし誰かがここに入れられそうになったら、止めますか?」
「止めますよ〜!」
即答した。
即答してから、少し遅れて意味を考えた。
看守を止める。ゴクチョーを止める。懲罰を止める。怪力で扉を壊す。
どれも、たぶん処刑に近い。
それでも、止めますよと答えてしまった。
メルルは、俺を見ていた。
「そう、ですよね」
「はい!」
「シェリーさんは、そういう人です」
その言い方が少し引っかかった。
知っているものを確認したような声だった。
「買いかぶりですよ〜!」
「そうでしょうか」
「そうですよ〜。私はただの名探偵ですから!」
メルルは小さく頭を下げた。
「失礼します」
去っていく背中を見送る。
タオルの端が、床を擦っていた。
夜。
監房に戻って、ノートを開いた。
今日の違和感を三つに絞る。
一つ。懲罰房前の掃除跡。
二つ。近くで鳴ったはずの着信音が、角を曲がるまでに消えた。
三つ。端末は声を録音し、着信音に設定できる。
書いてから、線を引いた。
まだ事件は起きていない。
この三つは、ただの生活のメモだ。そう扱うしかない。事件になってから「伏線だった」と呼ぶのは簡単だが、事件の前にそれを止める方法がない。
ペン先を止める。
ページの端に、インクの点ができた。
スマホが鳴った。
今度は、自分の端末だった。
画面を見る。
ココからのグループチャット。
『全員、生きてる? 生存確認、ってやつ?。既読かもーん』
数秒ずつ既読が増えていく。
エマ。ハンナ。メルル。アリサ。マーゴ。ナノカ。ミリア。アンアン。
全員分の既読がついた。
俺は息を吐く。
そのすぐあと、廊下の向こうで音が鳴った。
短い声だった。
ミリアの声に聞こえた。
「……え?」
端末の画面は暗い。
時刻は、二十時ちょうどだった。