『……今は、戻りましょう』
椅子を蹴って立った。
机の上の端末が、まだ暗いままだった。画面には何も出ていない。通知もない。録音も流れていない。
なのに、声は聞こえた。
短い声。
ミリアの声に聞こえた。
「ミリアさん!」
監房の扉へ走る。
廊下に出ると、冷たい空気が頬に当たった。左右を見る。看守はいない。誰かが走る音もない。
もう一度、声は聞こえなかった。
代わりに、遠くで扉が開く音がした。
「シェリーさん!」
角の向こうからハンナが出てきた。寝間着の上に羽織りを引っかけている。髪が少し乱れていた。
その後ろに、アンアンがいた。
スケッチブックを胸に抱えている。いつもより紙の端が強く曲がっていた。
「今の、聞こえましたわよね?」
「聞こえました! ミリアさんの声でしたか?」
ハンナは頷きかけて、止まった。
「そう聞こえましたわ。でも、どこから聞こえたのか」
アンアンがスケッチブックを上げる。
『近かった』
「私もそう思いました」
『だが、ここにはいない』
廊下を見回す。
いない。
監房の扉は並んでいる。どれも閉まっている。中で誰かが倒れているなら、普通は音が続く。助けを求める声。床を叩く音。何かが落ちる音。
何もない。
「ミリアさんの監房へ!」
三人で走る。
ミリアの監房の前に着いた。扉は閉まっている。呼ぶ。
「ミリアさん!」
返事はない。
ドアノブを回す。
開いた。
中は空だった。
ベッドの毛布は乱れている。机の上には水の入ったカップ。椅子は少し引かれている。端末はない。
「いませんわね」
ハンナが部屋の入り口で止まった。
アンアンは中へ入らない。スケッチブックを抱えたまま、廊下の奥を見ていた。
「端末を持って出た、ということですかね〜」
「なら、チャットを」
俺は自分の端末を開いた。
ミリアへ通話をかける。
呼び出し音が鳴る。
こちらの端末から、一定の間隔で音が鳴るだけだった。
廊下のどこからも、ミリアの端末の音は返ってこない。
「出ませんね」
「もう一度」
ハンナが言う。
もう一度かける。
結果は同じ。
アンアンがスケッチブックに文字を書く。
『声は懲罰房の方から聞こえた』
俺は顔を上げた。
「懲罰房?」
『たぶん』
「たぶん、ですか」
『音が跳ねた』
アンアンは短く書いた。
音が跳ねた。
今朝、ナノカも似たことを言っていた。近くで鳴ったはずの音が、角を曲がるまでに消えた。廊下の形、石壁、扉。どこかで反響する。
「行きましょう」
ハンナが先に歩き出した。
懲罰房の前へ戻る。
朝見た掃除跡は、もう乾いていた。けれど、知っていれば分かる。床の色が少し違う。錠前の周りだけ、指で拭ったみたいに汚れが薄い。
扉は閉まっている。
「ミリアさん!」
ハンナが扉を叩いた。
返事はない。
俺も覗き窓に顔を近づけた。中は暗い。石壁の輪郭と、奥の床が少しだけ見える。
人影はない。
いや、見えないだけか。
「ゴクチョーさん! 懲罰房を開けてください!」
天井へ向けて声を上げる。
少し遅れて、スピーカーが鳴った。
『はいはい、夜間に大声はお控えください。近隣の方のご迷惑になりますので』
「近隣は全員囚人ですけどね〜! じゃなくて、ミリアさんの声が聞こえたんです!」
『声ですか?』
「助けを求めるような声です!」
『やれやれ。皆さん、処刑後で気が立っているのでは? 端末の通知音や録音を聞き間違えた可能性もございますよ』
録音。
その言葉が、やけに早く出た。
「開けて確認してください」
ハンナが言った。
『懲罰房は現在施錠中です。無断開放は規則に反します』
「人がいるかもしれませんのよ!」
『中に人を入れた記録はございません。看守の巡回でも異常なしです。皆さまは監房へお戻りください』
扉の向こうから音はしない。
ここで壊すか。
右手に力が入った。
錠前の位置を見る。今なら壊せる。たぶん、蝶番ごといける。看守が来る前に開けられる。
けれど、中に何もなかったら。
規則違反。懲罰。監視強化。誰かを巻き込む。
ハンナの視線が、俺の右手に落ちた。
朝、紙コップを潰した手だ。
「シェリーさん」
「はい」
「……今は、戻りましょう」
ハンナが言った。
驚いて、少し返事が遅れた。
「よろしいのですか?」
「……よくはありませんわ。でも、今ここで扉を壊して、中に誰もいなかった場合、次に本当に壊すべき時に止められますわ」
アンアンが、スケッチブックを少し下げた。
『合理的だ』
ハンナはアンアンを見た。
「あなたは医務室へ行きましょう。顔色が悪いですわ」
『不要』
「必要ですわ」
『不要』
「必要」
二人のやり取りがそこで止まる。
アンアンが目を逸らした。
『少しだけなら』
「シェリーさん」
ハンナがこちらを見る。
「一時間後に、もう一度確認しましょう。ココさんも呼びますわ。見間違い、聞き間違いで済むなら、その方がいいですもの」
「分かりました」
声が軽かった。
納得した声ではなかった。
でも、ここで扉を壊さなかったのは俺だ。
俺は、ミリアの名前をもう一度呼んだ。
返事はなかった。
一時間は長かった。
監房へ戻っても、ベッドへ座れなかった。端末を見る。二十時十分。二十時二十三分。二十時三十九分。
ミリアからの返信はない。
グループチャットには、ココの生存確認がまだ残っていた。全員の既読がついたはずの欄を、何度も見る。
ミリアの既読は、ついていた。
二十時前には、生きていた。
そうとは限らない。
端末を持っている人間が既読をつけられる。本人でなくても。そう考えて、端末を置いた。
手が机の端を掴んでいた。
木が少し鳴った。
二十一時になった直後、廊下から声がした。
「おい! 誰か来い!」
ココだった。
次の瞬間、俺は走っていた。
監房区画を抜ける。角を曲がる。懲罰房の前に、ハンナとココがいた。
ハンナは覗き窓に手をかけたまま動かない。
ココは扉から一歩離れている。顔色が悪い。
「シェリー」
ココが言った。
「あんた、壊せる?」
「何を見ました?」
「いいから壊せんのかって聞いてんだよ!」
怒鳴り声が廊下に跳ねた。
俺は覗き窓へ顔を近づける。
今度は見えた。
床に倒れている人影。
ミリアだった。
横向きに倒れている。片腕が身体の下に入っている。髪が床に広がっている。
口元に、何か光るものがあった。
「ミリアさん!」
返事はない。
扉の下、少し離れた床に端末が落ちていた。
ミリアの端末。
画面は割れていない。けれど、端が濡れている。水ではない。少し黒い汚れがついている。
中には入れない。
端末だけが外にある。
「下がってください」
声が自分のものに聞こえなかった。
ハンナとココが下がる。
錠前に手をかける。
冷たい。
親指を押し当て、金具の継ぎ目を探す。壊すなら、扉ではなく錠前。証拠を壊す。けれど、今はそれしかない。
「ごめんなさい」
誰に言ったのか分からない。
力を入れた。
金属が折れる音がした。
錠前が歪む。二度目で外れた。床に落ちた金具が、石に当たって跳ねた。
扉を開ける。
古い空気が出てきた。
ハンナが口元を押さえる。ココが一歩下がる。
俺は中へ入った。
最初に見たのは、ミリアの顔ではなかった。
床。
端末が外に落ちていた位置。
扉の内側。
錠前の受け金具。
覗き窓から見えた角度。
それから、ミリアの口元。
銀色の小さな鍵が、唇の間に挟まっていた。
「鍵……?」
ハンナが掠れた声を出す。
ミリアの口の中に、鍵がある。
扉は鍵がかかっていた。
端末は外に落ちていた。
錠前は俺が壊した。
順番が、ぐちゃぐちゃだった。
「ミリアさん」
膝をつく。
手首に触れる。
冷たい。
「……」
名前を呼ぶ。
何も返ってこない。
ココが扉の外で、短く息を吐いた。
「なんでだよ」
その声は、怒鳴り声ではなかった。
足音が増える。
エマ。メルル。アリサ。マーゴ。ナノカ。
誰かが息を呑んだ。
誰かが名前を呼んだ。
メルルが膝から崩れかけ、エマが支えた。アリサは壁を殴ろうとして、途中で拳を止めた。マーゴは扉の錠前を見ていた。ナノカは床の掃除跡を見ていた。
俺はミリアの口元を見ていた。
鍵。
小さい鍵。
口の中にある鍵。
ミリアが自分で入れたのか。
犯人が入れたのか。
入れられるなら、いつ。
「おやおや」
羽音がした。
ゴクチョーが廊下の奥から飛んできた。
『これはこれは。死体発見ですねぇ』
「ふざけんな」
アリサが低く言った。
『ふざけてはいませんよ。規定通り、これより捜査時間に移行いたします。皆さま、現場を荒らさないようにお願いしますね。もっとも、扉の錠前はもう壊れてしまいましたが』
俺の手が止まった。
ゴクチョーは、そこを見ていた。
『怪力は便利ですねぇ。やれやれ、修理申請がまた増えます』
何も言わない。
言ったら、この手が動きそうだった。
ハンナが俺の横に立った。
「シェリーさん、外へ」
「でも」
「今は、外へ」
その声に従った。
懲罰房を出る。
扉の外で、ミリアの端末が床に落ちている。誰も踏んでいない。画面は暗い。
俺はしゃがんで、触らずに見た。
端末の縁に、細い汚れ。
床の目地に、掃除跡。
扉の下の隙間。
少し離れた壁のひび。
「シェリーちゃん」
エマの声で、顔を上げる。
エマは泣いていた。メルルの肩を支えたまま、こちらを見ている。
「ミリアちゃん、どうして」
答えられなかった。
分からない。
分からないのに、見る場所だけは分かる。
それが嫌だった。
全員を見回す。
ヒロはいない。
ノアはいない。
レイアはいない。
ミリアも、もういない。
それから、ひとつ足りないことに気づいた。
アンアンがいない。
さっきまでハンナと一緒にいたはずのアンアンが、廊下にも、懲罰房の前にも、どこにもいなかった。