原罪:自称ニセモノ名探偵     作:三日月ノア

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『……今は、戻りましょう』



第35話 刹那の逡巡

 

 

  

 

 

椅子を蹴って立った。

 

机の上の端末が、まだ暗いままだった。画面には何も出ていない。通知もない。録音も流れていない。

 

なのに、声は聞こえた。

 

短い声。

 

ミリアの声に聞こえた。

 

「ミリアさん!」

 

監房の扉へ走る。

 

廊下に出ると、冷たい空気が頬に当たった。左右を見る。看守はいない。誰かが走る音もない。

 

もう一度、声は聞こえなかった。

 

代わりに、遠くで扉が開く音がした。

 

「シェリーさん!」

 

角の向こうからハンナが出てきた。寝間着の上に羽織りを引っかけている。髪が少し乱れていた。

 

その後ろに、アンアンがいた。

 

スケッチブックを胸に抱えている。いつもより紙の端が強く曲がっていた。

 

「今の、聞こえましたわよね?」

 

「聞こえました! ミリアさんの声でしたか?」

 

ハンナは頷きかけて、止まった。

 

「そう聞こえましたわ。でも、どこから聞こえたのか」

 

アンアンがスケッチブックを上げる。

 

『近かった』

 

「私もそう思いました」

 

『だが、ここにはいない』

 

廊下を見回す。

 

いない。

 

監房の扉は並んでいる。どれも閉まっている。中で誰かが倒れているなら、普通は音が続く。助けを求める声。床を叩く音。何かが落ちる音。

 

何もない。

 

「ミリアさんの監房へ!」

 

三人で走る。

 

ミリアの監房の前に着いた。扉は閉まっている。呼ぶ。

 

「ミリアさん!」

 

返事はない。

 

ドアノブを回す。

 

開いた。

 

中は空だった。

 

ベッドの毛布は乱れている。机の上には水の入ったカップ。椅子は少し引かれている。端末はない。

 

「いませんわね」

 

ハンナが部屋の入り口で止まった。

 

アンアンは中へ入らない。スケッチブックを抱えたまま、廊下の奥を見ていた。

 

「端末を持って出た、ということですかね〜」

 

「なら、チャットを」

 

俺は自分の端末を開いた。

 

ミリアへ通話をかける。

 

呼び出し音が鳴る。

 

こちらの端末から、一定の間隔で音が鳴るだけだった。

 

廊下のどこからも、ミリアの端末の音は返ってこない。

 

「出ませんね」

 

「もう一度」

 

ハンナが言う。

 

もう一度かける。

 

結果は同じ。

 

アンアンがスケッチブックに文字を書く。

 

『声は懲罰房の方から聞こえた』

 

俺は顔を上げた。

 

「懲罰房?」

 

『たぶん』

 

「たぶん、ですか」

 

『音が跳ねた』

 

アンアンは短く書いた。

 

音が跳ねた。

 

今朝、ナノカも似たことを言っていた。近くで鳴ったはずの音が、角を曲がるまでに消えた。廊下の形、石壁、扉。どこかで反響する。

 

「行きましょう」

 

ハンナが先に歩き出した。

 

懲罰房の前へ戻る。

 

朝見た掃除跡は、もう乾いていた。けれど、知っていれば分かる。床の色が少し違う。錠前の周りだけ、指で拭ったみたいに汚れが薄い。

 

扉は閉まっている。

 

「ミリアさん!」

 

ハンナが扉を叩いた。

 

返事はない。

 

俺も覗き窓に顔を近づけた。中は暗い。石壁の輪郭と、奥の床が少しだけ見える。

 

人影はない。

 

いや、見えないだけか。

 

「ゴクチョーさん! 懲罰房を開けてください!」

 

天井へ向けて声を上げる。

 

少し遅れて、スピーカーが鳴った。

 

『はいはい、夜間に大声はお控えください。近隣の方のご迷惑になりますので』

 

「近隣は全員囚人ですけどね〜! じゃなくて、ミリアさんの声が聞こえたんです!」

 

『声ですか?』

 

「助けを求めるような声です!」

 

『やれやれ。皆さん、処刑後で気が立っているのでは? 端末の通知音や録音を聞き間違えた可能性もございますよ』

 

録音。

 

その言葉が、やけに早く出た。

 

「開けて確認してください」

 

ハンナが言った。

 

『懲罰房は現在施錠中です。無断開放は規則に反します』

 

「人がいるかもしれませんのよ!」

 

『中に人を入れた記録はございません。看守の巡回でも異常なしです。皆さまは監房へお戻りください』

 

扉の向こうから音はしない。

 

ここで壊すか。

 

右手に力が入った。

 

錠前の位置を見る。今なら壊せる。たぶん、蝶番ごといける。看守が来る前に開けられる。

 

けれど、中に何もなかったら。

 

規則違反。懲罰。監視強化。誰かを巻き込む。

 

ハンナの視線が、俺の右手に落ちた。

 

朝、紙コップを潰した手だ。

 

「シェリーさん」

 

「はい」

 

「……今は、戻りましょう」

 

ハンナが言った。

 

驚いて、少し返事が遅れた。

 

「よろしいのですか?」

 

「……よくはありませんわ。でも、今ここで扉を壊して、中に誰もいなかった場合、次に本当に壊すべき時に止められますわ」

 

アンアンが、スケッチブックを少し下げた。

 

『合理的だ』

 

ハンナはアンアンを見た。

 

「あなたは医務室へ行きましょう。顔色が悪いですわ」

 

『不要』

 

「必要ですわ」

 

『不要』

 

「必要」

 

二人のやり取りがそこで止まる。

 

アンアンが目を逸らした。

 

『少しだけなら』

 

「シェリーさん」

 

ハンナがこちらを見る。

 

「一時間後に、もう一度確認しましょう。ココさんも呼びますわ。見間違い、聞き間違いで済むなら、その方がいいですもの」

 

「分かりました」

 

声が軽かった。

 

納得した声ではなかった。

 

でも、ここで扉を壊さなかったのは俺だ。

 

俺は、ミリアの名前をもう一度呼んだ。

 

返事はなかった。

 

一時間は長かった。

 

監房へ戻っても、ベッドへ座れなかった。端末を見る。二十時十分。二十時二十三分。二十時三十九分。

 

ミリアからの返信はない。

 

グループチャットには、ココの生存確認がまだ残っていた。全員の既読がついたはずの欄を、何度も見る。

 

ミリアの既読は、ついていた。

 

二十時前には、生きていた。

 

そうとは限らない。

 

端末を持っている人間が既読をつけられる。本人でなくても。そう考えて、端末を置いた。

 

手が机の端を掴んでいた。

 

木が少し鳴った。

 

二十一時になった直後、廊下から声がした。

 

「おい! 誰か来い!」

 

ココだった。

 

次の瞬間、俺は走っていた。

 

監房区画を抜ける。角を曲がる。懲罰房の前に、ハンナとココがいた。

 

ハンナは覗き窓に手をかけたまま動かない。

 

ココは扉から一歩離れている。顔色が悪い。

 

「シェリー」

 

ココが言った。

 

「あんた、壊せる?」

 

「何を見ました?」

 

「いいから壊せんのかって聞いてんだよ!」

 

怒鳴り声が廊下に跳ねた。

 

俺は覗き窓へ顔を近づける。

 

今度は見えた。

 

床に倒れている人影。

 

ミリアだった。

 

横向きに倒れている。片腕が身体の下に入っている。髪が床に広がっている。

 

口元に、何か光るものがあった。

 

「ミリアさん!」

 

返事はない。

 

扉の下、少し離れた床に端末が落ちていた。

 

ミリアの端末。

 

画面は割れていない。けれど、端が濡れている。水ではない。少し黒い汚れがついている。

 

中には入れない。

 

端末だけが外にある。

 

「下がってください」

 

声が自分のものに聞こえなかった。

 

ハンナとココが下がる。

 

錠前に手をかける。

 

冷たい。

 

親指を押し当て、金具の継ぎ目を探す。壊すなら、扉ではなく錠前。証拠を壊す。けれど、今はそれしかない。

 

「ごめんなさい」

 

誰に言ったのか分からない。

 

力を入れた。

 

金属が折れる音がした。

 

錠前が歪む。二度目で外れた。床に落ちた金具が、石に当たって跳ねた。

 

扉を開ける。

 

古い空気が出てきた。

 

ハンナが口元を押さえる。ココが一歩下がる。

 

俺は中へ入った。

 

最初に見たのは、ミリアの顔ではなかった。

 

床。

 

端末が外に落ちていた位置。

 

扉の内側。

 

錠前の受け金具。

 

覗き窓から見えた角度。

 

それから、ミリアの口元。

 

銀色の小さな鍵が、唇の間に挟まっていた。

 

「鍵……?」

 

ハンナが掠れた声を出す。

 

ミリアの口の中に、鍵がある。

 

扉は鍵がかかっていた。

 

端末は外に落ちていた。

 

錠前は俺が壊した。

 

順番が、ぐちゃぐちゃだった。

 

「ミリアさん」

 

膝をつく。

 

手首に触れる。

 

冷たい。

 

「……」

 

名前を呼ぶ。

 

何も返ってこない。

 

ココが扉の外で、短く息を吐いた。

 

「なんでだよ」

 

その声は、怒鳴り声ではなかった。

 

足音が増える。

 

エマ。メルル。アリサ。マーゴ。ナノカ。

 

誰かが息を呑んだ。

 

誰かが名前を呼んだ。

 

メルルが膝から崩れかけ、エマが支えた。アリサは壁を殴ろうとして、途中で拳を止めた。マーゴは扉の錠前を見ていた。ナノカは床の掃除跡を見ていた。

 

俺はミリアの口元を見ていた。

 

鍵。

 

小さい鍵。

 

口の中にある鍵。

 

ミリアが自分で入れたのか。

 

犯人が入れたのか。

 

入れられるなら、いつ。

 

「おやおや」

 

羽音がした。

 

ゴクチョーが廊下の奥から飛んできた。

 

『これはこれは。死体発見ですねぇ』

 

「ふざけんな」

 

アリサが低く言った。

 

『ふざけてはいませんよ。規定通り、これより捜査時間に移行いたします。皆さま、現場を荒らさないようにお願いしますね。もっとも、扉の錠前はもう壊れてしまいましたが』

 

俺の手が止まった。

 

ゴクチョーは、そこを見ていた。

 

『怪力は便利ですねぇ。やれやれ、修理申請がまた増えます』

 

何も言わない。

 

言ったら、この手が動きそうだった。

 

ハンナが俺の横に立った。

 

「シェリーさん、外へ」

 

「でも」

 

「今は、外へ」

 

その声に従った。

 

懲罰房を出る。

 

扉の外で、ミリアの端末が床に落ちている。誰も踏んでいない。画面は暗い。

 

俺はしゃがんで、触らずに見た。

 

端末の縁に、細い汚れ。

 

床の目地に、掃除跡。

 

扉の下の隙間。

 

少し離れた壁のひび。

 

 

「シェリーちゃん」

 

エマの声で、顔を上げる。

 

エマは泣いていた。メルルの肩を支えたまま、こちらを見ている。

 

「ミリアちゃん、どうして」

 

答えられなかった。

 

分からない。

 

分からないのに、見る場所だけは分かる。

 

それが嫌だった。

 

全員を見回す。

 

ヒロはいない。

 

ノアはいない。

 

レイアはいない。

 

ミリアも、もういない。

 

それから、ひとつ足りないことに気づいた。

 

アンアンがいない。

 

さっきまでハンナと一緒にいたはずのアンアンが、廊下にも、懲罰房の前にも、どこにもいなかった。

 

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