『すっごく怖い。だって、正しいって、言い方を間違えると逃げ場がなくなるから』
ミリアは、嘘が得意ではなかった。
正確に言うなら、嘘をつくこと自体はできる。
年齢をごまかす。名前をごまかす。大人みたいな口調を混ぜる。笑い方を少し変える。自分を「おじさん」と呼んで、みんなが困った顔をするのを見て、少しだけ場の空気を柔らかくした気になる。
そういう小さな嘘なら、できた。
でも、それは手品のハンカチみたいなものだ。
広げて、畳んで、色を変えて見せる。
見ている人が、手品だと分かっているから成立する。
本当に誰かの目を塞ぐ嘘は、別だった。
「ミリアちゃん」
医務室の隅で、エマが呼んだ。
ミリアは棚の前で振り返る。手には、さっきメルルが渡してくれた温かいタオルがある。
エマはベッドに腰かけていた。顔色はまだ悪い。昨日の裁判のあとから、食べる量も減った。ヒロがいなくなってから、ずっと減っていたけれど、ノアが死んで、レイアが処刑されてから、さらに減った。
エマは手元の端末を見ていた。
画面は暗い。
「ボク、また何か間違えちゃうのかな」
ミリアはタオルを持ったまま止まった。
「何かって?」
「分かんない。でも、みんなが死んでいくのに、ボクが止められない。ヒロちゃんのことも、ノアちゃんのことも、レイアちゃんのことも」
「エマちゃんが殺したわけじゃないよ」
言ってから、ミリアは唇を噛みかけた。
こういう時の言葉は、まっすぐ過ぎると傷になる。
エマは、うん、と頷いた。
頷いただけだった。
「でも、ボク、裁判で名前を押したよ」
ミリアの手の中で、タオルが少し冷めた。
「みんな押したよ」
「押さなかったら、みんな死んでた」
「うん」
「でも、押したらレイアちゃんが死んだ」
エマは暗い端末の画面を指でなぞった。
「ボクの指は覚えてる」
ミリアは何も言えなかった。
エマは泣かなかった。
端末を膝の上に置いた。
「ヒロちゃんだったら、どうしたのかな」
その名前が出ると、医務室の空気が少しだけ変わる。
ミリアはタオルを畳み直した。
「おじさんは、ヒロちゃんじゃないから分からないけどね………」
「うん」
「ヒロちゃんだって、きっと全部は無理だったんじゃないかな」
「ヒロちゃんは正しい子だから」
「正しいからって、全部できるわけじゃないよ。」
エマが顔を上げた。
「ミリアちゃんは、正しいって怖い?」
「怖いよ」
今度はすぐ答えた。
「すっごく怖い。だって、正しいって、言い方を間違えると逃げ場がなくなるから」
「おじさんは、苦手かな。…でも必要なことなんだろうね。」
エマに聞こえないくらいに最後にぼそりと呟いた。
エマの視線が、ミリアの手元に落ちる。
タオルはもう、ほとんど温かくない。
「シェリーちゃんみたい?」
ミリアは、少しだけ笑った。
「シェリーちゃんは、正しいっていうより、順番かな。見えてるものを並べて、その通りに進める子」
「それも怖いね」
「うん」
二人で黙った。
廊下の向こうで、誰かの足音がした。看守ではない。軽い足音。たぶんメルルだ。薬品棚の整理に戻ってきたのかもしれない。
エマは端末を握った。
「…ボク、たまにね」
「うん」
「自分じゃない誰かだったら、もっと上手くできるのかなって思う」
ミリアの指先が止まった。
エマは続けた。
「ヒロちゃんだったら。シェリーちゃんだったら。メルルちゃんだったら。もっと上手く笑えて、もっと上手く怒れて、もっとちゃんと、誰かを助けられたのかなって。」
「エマちゃん」
「ごめん。変なこと言った」
「変じゃないよ」
変じゃない。
けれど、その言葉は危ない形をしていた。
ミリアは、それを知っている。
自分じゃない誰かになりたい。
別の身体なら、別の声なら、別の人生なら。
そう思っている人間の前で、そう思ったことのある人間が、軽く扱っていい話ではない。
「おじさんも、同じだから」
「ミリアちゃんも?」
「あるある。朝起きたら、もっとかっこいい大人になってないかなぁ、とか。ちゃんと強くて、ちゃんと守れて、誰かに何か言われてもへらへらしなくて済む人」
「ミリアちゃんは、へらへらしてないよ」
「してるよ。かなりしてる」
ミリアは自分で笑った。
笑えた。
でもエマは笑わなかった。
「ボクが、もしミリアちゃんだったら」
その言葉で、ミリアは息を止めた。
エマは気づいていない。
「もっと、みんなを笑わせられたのかな」
「それは」
ミリアは言葉を探した。
違うよ。
エマちゃんはエマちゃんだからいいんだよ。
喉元まで出かかった言葉を抑える。
そんな綺麗ごとは、今のエマには届かない。
届いても、表面だけだ。
「おじさんになったら、肩こりが増えるよー」
エマが目を丸くする。
「肩こり?」
「そう。あと、変な口調がうつる。ご飯食べるときに『おじさんはね』って言っちゃう。けっこう大変なんだよー」
「あはは」
少しだけ、エマが笑った。
ミリアはタオルを差し出した。
「はい。顔、拭きなよ。冷めちゃったけど」
「ありがとう」
エマはタオルを受け取る。
両手で顔に当てた。
そのまま、声がこもる。
「でも、入れ替われたら、ちょっといいかも」
ミリアは、聞かなかったふりをしようとした。
できなかった。
「エマちゃん」
「ごめん。冗談」
「そうだね。冗談だよ」
ミリアは言った。
冗談。
そういうことにした。
その日の午後、ラウンジで端末の確認をした。
シェリーちゃんが言い出したことだ。
端末を持ち歩く。着信音を確認する。録音機能を確認する。声を設定できるか試す。
みんなが少しだけ騒いだ。
ココちゃんは自分の声を着信音にしていて、再生したあと自分で嫌な顔をした。アリサちゃんは「うるせえ」と言いながらも、ちゃんと端末を持っていた。ハンナちゃんは呆れた顔で説明を聞いていた。メルルちゃんは両手で端末を持って、落とさないようにしていた。
アンアンちゃんは、膝の上に端末を置いていた。
スケッチブックには、
『我が輩の端末はここにある』
と書かれている。
ミリアは、その字を見て安心した。
アンアンちゃんの字は、いつも同じだ。
強い線。角ばった形。言葉が短い。
「アンアンちゃん、音量は最小なんだね」
『突然鳴るものは嫌いだ』
「分かるよ。びっくりするもんね」
『我輩は驚かされるのが嫌いだ』
「うん」
ミリアは頷いた。
アンアンちゃんは、急な音が苦手だ。
それは知っていた。
知っていたのに、ミリアは午後に録った自分の声を思い出した。
助けてー! おじさんだよー!
ふざけた声。
みんなが少しだけ笑った声。
すぐ消したはずの録音。
ココちゃんが操作してくれた。消した、と言った。だから消えた。
でも、端末は便利だ。
便利なものは、知らないところにコピーを作ることがある。
ミリアは自分の端末を開いた。
録音一覧を確認する。
何もない。
「どうした?」
ココちゃんが横から覗く。
「ううん。さっきの、ちゃんと消えてるかなって」
「消したって」
「だよね」
「何、疑ってんの?」
「疑ってないよ」
ミリアは笑った。
ココちゃんは舌打ちして、ソファの背に寄りかかった。
「おっさん、そういう顔すんな。なんかムカつく」
「そういう顔って?」
「全部まあまあです、とか、私は大丈夫です〜、みたいな顔」
ミリアは頬を触る。
「そんな顔してる?」
「してる」
「そっか」
ミリアは端末をしまった。
大丈夫ではない。
でも、大丈夫ではない顔をすると、もっと大丈夫ではなくなる。
夕食後、アンアンちゃんがミリアのところへ来た。
ラウンジの隅だった。
みんなの会話から少し離れた場所。ノアちゃんの席が見える場所でもあった。
アンアンちゃんはスケッチブックを開く。
『話がある』
「うん。どうしたの?」
『エマと何を話していた』
ミリアは瞬きをした。
「エマちゃん?」
『医務室』
「ああ」
ミリアは少しだけ周囲を見る。
エマちゃんはメルルちゃんと話している。シェリーちゃんはハンナちゃんに何か言われて、両手を上げている。アリサちゃんは壁際。マーゴちゃんは本。ナノカちゃんは、いつの間にかいない。
「大したことじゃないよ」
アンアンちゃんの手が止まる。
『大したことじゃない話を、なぜ隠す』
「隠してるわけじゃないって」
『なら書ける』
「え?」
『我が輩にも説明できる』
ミリアは困って、笑った。
「アンアンちゃん、裁判みたいだね」
アンアンちゃんは笑わない。
『今は笑う場面ではない』
「ごめん」
ミリアは姿勢を正す。
アンアンちゃんは怒っているわけではない。たぶん。
ただ、まっすぐなのだ。
閉じた部屋に置かれた本棚みたいに、決まった位置から動かない。そこが安心でもあり、苦しいところでもある。
「エマちゃんが、自分じゃない誰かだったら、もっと上手くできるのかなって言ったんだ」
アンアンちゃんの目が、少しだけ細くなった。
『誰かとは』
「たとえば、ヒロちゃんとか、シェリーちゃんとか」
ミリアはそこで止めるべきだった。
「あと、おじさんだったらって」
アンアンちゃんの指が、スケッチブックの紙を押した。
紙が少しへこむ。
『エマが、ミリアになりたいと言ったのか』
「そんな真面目な話じゃないよ。冗談。ちょっと疲れてただけ」
『冗談』
「うん」
『魂が入れ替わる、という意味か』
ミリアの喉が鳴った。
「えっと」
『ミリアは、ミリアの本当の魔法は、そういう魔法なのか』
「違うよ」
すぐ否定した。
否定したのに、アンアンちゃんはまだ見ている。
ミリアは焦って、言葉を足した。
「違う違う。本当に違うんだけど、おじさん、そういうネタを言うことがあるからさ。もし入れ替わったらどうなるかなぁ、とか。そういう、ただの話だよ」
『ただの話』
「そう。入れ替われたら、エマちゃんも楽かなって。おじさんが代わりに、嫌なことを引き受けられたらいいのになって。そう思っただけ」
言ってから、ミリアは自分の言葉が変な形をしたことに気づいた。
代わりに引き受ける。
それは優しい言葉のつもりだった。
でも、誰かにとっては違う。
「本当に、ただの例えだよ」
アンアンちゃんはスケッチブックに何かを書きかけた。
消した。
また書く。
『エマは、ミリアの中にいるのか』
「いないよ」
『今はいない?』
「今も、これからも、いない」
『では、入りたいと言ったのか』
「言ってない」
ミリアは少し強く言ってしまった。
アンアンちゃんの肩が小さく動く。
ミリアはすぐに声を落とした。
「ごめん。違うの。エマちゃんは、ただ疲れてるだけ。ヒロちゃんもノアちゃんもレイアちゃんもいなくなって、いっぱい考えちゃってるだけ」
『エマは危ないのか』
「危ないっていうか」
言葉が見つからなかった。
危ない。
それは、たぶん正しい。
でもエマちゃんは危険物ではない。
怪物でもない。
守るべき子だ。
少なくともミリアは、そう思っている。
「おじさんが見てるから」
「だから大丈夫。アンアンちゃんは心配しなくていいよ」
アンアンちゃんは、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくり書いた。
『我が輩も見る』
「え?」
『我が輩も、エマを見ておく』
「うん。でも、あんまりじっと見すぎると、エマちゃん困るからね」
『分かった』
本当に分かったかは、分からなかった。
アンアンちゃんはスケッチブックを閉じた。
その表紙の角が、少し折れていた。
夜になった。
二十時前。
ミリアは自分の監房で、端末を見ていた。
録音一覧。
何もない。
通話履歴。
シェリーちゃんから昼にかかってきた試験通話だけ。
着信音設定。
初期音。
ミリアは画面を閉じた。
ベッドに座る。靴を脱ぐ。毛布に手をかける。
その時、端末が鳴った。
着信ではない。
チャットでもない。
録音の再生音。
『助けてー! おじさんだよー!』
自分の声だった。
ミリアは端末を落としかけた。
画面を見る。
再生履歴はない。
録音一覧にも、何もない。
もう一度、声が鳴る。
今度は、廊下の方からだった。
『助けてー! おじさんだよー!』
ふざけた声。
昼に自分が録った声。
軽い、間の抜けた声。
ミリアは立ち上がった。
「誰?」
返事はない。
扉を開ける。
廊下に出ると、冷たい空気が足元に来た。
少し先に、アンアンちゃんが立っていた。
スケッチブックを抱えている。
「アンアンちゃん?」
アンアンちゃんは、ミリアを見ていた。
暗い廊下で、白いページだけが妙に見えた。
『エマはどこ』
そう書いてあった。
「エマちゃん? たぶん監房だよ」
『ミリアの中ではない?』
「違うよ」
『本当に?』
「本当だよ」
アンアンちゃんは、スケッチブックをめくる。
次のページ。
『嘘は嫌いだ』
ミリアは、そこで笑うべきではなかった。
でも、笑ってしまった。
弱い笑いだった。
「うん。おじさんも、嫌いだよ」
『なら、確認する』
「確認?」
アンアンちゃんが歩き出す。
懲罰房の方へ。
「待って。どこ行くの?」
アンアンちゃんは振り返らない。
ミリアは端末を握り直した。
昼に消したはずの声が、まだ耳に残っている。
助けてー。
おじさんだよー。
あんな軽い声で、助けを呼ぶんじゃなかった。
「アンアンちゃん、待って」
ミリアは追いかけた。
廊下の角を曲がる。
懲罰房の前で、アンアンちゃんが止まった。
扉は閉まっている。
床は、朝より綺麗だった。
ミリアはそのことに、少し遅れて気づいた。
「ここ、入っちゃダメな場所だよ」
アンアンちゃんはスケッチブックを開く。
『ここなら、邪魔が入らない』
「何の話?」
『ミリアが嘘をついているか、確認する』
「だから、嘘じゃないって」
『なら怖くない』
ミリアは一歩下がった。
端末を開く。
誰かに連絡しようとした。
シェリーちゃん。
ハンナちゃん。
エマちゃん。
指が画面の上で滑る。
その前に、端末が鳴った。
『助けてー! おじさんだよー!』
また自分の声。
今度は、懲罰房の中から聞こえた。
ミリアは扉を見た。
中から。
今、確かに中から聞こえた。
「どうして」
アンアンちゃんが、ミリアの手元を見た。
その目は怒っていない。
泣いてもいない。
ただ、書かれていない白いページみたいだった。
『中にいる』
「いないよ。おじさんはここにいる」
『では、誰が中で助けを呼んだ』
「録音だよ。誰かが」
『誰か』
アンアンちゃんの手が動く。
『ミリアではない?』
ミリアは答えようとした。
違う。
そう言えばいい。
でも、昼のラウンジで録音したのはミリアだ。
消したと思っただけで、本当に消えたかは分からない。
エマに、入れ替われたら少し楽かもと言わせてしまったのもミリアだ。
アンアンちゃんに、代わりに引き受けられたらいいのに、と言ったのもミリアだ。
全部、ミリアの言葉だった。
「ごめん」
口から出たのは、それだった。
「おじさん、言い方を間違えた」
アンアンちゃんが、一文字ずつ書く。
『何を』
「エマちゃんは、誰かと入れ替わりたいわけじゃない。おじさんの中にもいない。誰かを乗っ取るとか、そういうことじゃない。ただ、疲れてて、自分じゃない人だったらって言っただけで」
アンアンちゃんは、最後まで聞いていた。
それから、スケッチブックを閉じた。
「アンアンちゃん?」
その時、懲罰房の方から、小さな金属音がした。
鍵の音。
ミリアは振り向いた。
扉の錠前が、ゆっくり動いた。
開いた。
理由もわからず自分の身体は房の中に吸い込まれる。
閉まった。
「え」
アンアンちゃんが、背中に手を当てた。
強くはなかった。
足元の掃除跡を踏んだ。
湿り気はもうない。
乾いている。
なのに、足が滑った。
視界が傾く。
懲罰房の中の暗さが、口を開けていた。
「ま、待って、アンアンちゃ」
名前を呼ほうとした。
言い終える前に、扉の内側へ倒れ込んた。
端末が手から離れ、廊下へ転がる。
画面が床に当たる。
暗くなる。
最後に見えたのは、アンアンちゃんのスケッチブックだった。
見開かれたページには、真っ白だった。