俺は善人だ。少なくとも、ここにいるガキどもよりは。
そう思わないと、やってられない。
施設は"保護"の名目で金が降りる。だが現場は地獄だ。汚物、暴言、噛みつき、夜泣き。俺たちが管理しなければ、こいつらは社会に害を撒き散らすだけだ。だから多少の体罰は必要悪――そう教わったし、そう信じることにした。
今夜も帳簿を閉じる。数字はきれいに整っている。余った備品費。消えた寄付金。完璧だ。誰も気づかない。気づいたところで、告げ口できる相手もいない。
鏡に映る自分の顔は、少し疲れているが、どこか誇らしげだった。
"出来損ない"を飼いならしている優越感。俺は、必要とされている。
橘シェリーは特に扱いづらかった。泣かない。怒らない。殴っても反応が薄い。たまに、にこっと笑って「先生、いまのは何のためですか?」と聞いてくる。その問いが一番腹立つ。俺たちは"矯正"してやっているのに、こいつは感謝もしない。
周りの職員は言った。「妖精だよ、あれは。人間じゃない」
何が妖精だ。俺は笑って流した。子どもは子どもだ。脅威なんて――あるわけがない。
そう思っていた。
――コンコン。
ノックの音がした。こんな時間に?
「誰だ」
返事はない。代わりに、ドアがゆっくり開く。立っていたのは、橘シェリーだった。銀色の髪。小さな体。薄い笑み。
「……部屋に戻れ。規則だ」
言い終わる前に、彼女が一歩入ってきた。足音が軽い。なのに、空気だけが重くなる。
「先生、鏡を見てください」
鈴を転がすような声。子どもの声なのに、背筋が冷えた。
「そこに映っているの、今日の『犯人』です」
「……は?」
笑おうとした。冗談だと思いたかった。だが彼女の手には、紙束があった。帳簿のコピー。寄付金の領収書。俺が隠したはずの、賄賂のメモ。
どうして。どこから。
彼女は紙束を一枚ずつ並べていく。まるで裁判の証拠品みたいに。
「先生は毎週金曜、見回りの時間を五分だけ早めます。防犯カメラが死角になるタイミングがあるから」
「倉庫の鍵は、左のポケット。さっき確認しました」
「廊下の電球、一本だけ切れてますよね。暗がりって、落ち着きますか?」
言葉が、心臓に針みたいに刺さる。こいつ、見ていたのか。毎日。ずっと。
「……脅迫か?」
声が裏返る。俺は情けないほど小さく見えた。
「私は推理をしているだけですよ?」
彼女は真顔で言う。
「先生がこれ以上ここにいると、施設は潰れます。潰れると、みんなが困ります。だから先生はいなくなるのが一番です」
「ふざけるな! 子どもが大人に何を――」
俺は机を叩いた。怒鳴れば引く。そういうガキを、俺は何百人も見てきた。
だがシェリーは引かなかった。むしろ、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「怒り、出ましたね。 脅迫ですか?」
減らず口を叩きやがって・・・
俺はドアに向かおうとした。廊下に出れば、誰かが――。
だが足が動かない。いつの間にか、机の脚に細い紐が絡まっている。俺の足首に結ばれていた。いつ? いつの間に?
笑い声が喉の奥で凍る。
こいつは、子どもじゃない。子どもの姿をした、何かだ。
「動機、証拠、ルート。全部知っています。」
シェリーは淡々と言う。
「先生は"正しいこと"をしてるつもりなんですよね。だから罪悪感がない。」
「早く解け。誰に見せる気だ」
俺は立ち上がり、手を伸ばした。
その瞬間、彼女が笑った。子どもらしい無邪気さではない。
「ねえ先生。自分が死ぬ理由を説明されるって贅沢なことだと思いませんか?」
「……死ぬ?」
耳鳴りがした。部屋の音が遠のく。俺は本能で後ずさる。だが背中が、鏡台に当たった。逃げ道がない。
「待て、何が目的だ。金か? 言うなら――」
「目的?」
シェリーは首を傾げた。
「私は名探偵です。積み上げた論理で、真実に至る階段を、整えて導く。」
"整える"。
その言葉が、妙に恐ろしかった。感情がない。怒りも、恨みも、正義感もない。何が動機なのか理解できない。
ポケットを探る。携帯がない。机の上に置かれていた。電源は落ちている。
「先生、助けを呼ぶのは非効率ですよ。この時間ですし。」
彼女は楽しそうに言った。俺には見えないどこかを見ているように。
俺は震える手で鏡を見た。
そこに映る俺の顔は、恐怖で歪んでいた。俺の正義は鏡の中で粉々に砕けていく。
その背後に――シェリーがいた。
無機質な笑顔。まるで、鏡の中の怪物みたいに。
「さようなら、先生」
祈りも、呪いの言葉も吐けず
次の瞬間、視界が反転した。