音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
その夜。
目を開けると、白い空間にいた。
天井も壁も床もない、影を許さない白一色の空間。光源などどこにもないのに、網膜を焼くような明光が満ちている。ふと足元を見れば、あるべき影が一切落ちていなかった。
前にも何度もここに来たことがある。呪霊を食べた夜の悪夢の奥に見える場所。俺はいつもそこで真の菜緒葉ちゃんと顔を合わせる。最近は塞ぎ込んだ様子で、ほとんど近づけもしなかったが。
だが──今日の彼女は、決定的に違っていた。
まず、その輪郭が大きく変容していた。6歳の童女ではない。中学生か、あるいは高校生か。顔の造作には面影があるが、視線にはどぎまぎするほどの毒を含んだ艶やかさが宿っている。
白昼夢のような空間には不釣り合いな重厚な玉座に、彼女は傲岸不遜に足を組んで座っていた。そして──彼女がその身に纏っているのは、あの『ラビットハウス*1』の制服だった。
……は?
『ごちうさ*2』?
カラフルなベスト、膝丈の黒スカート、胸元の大きなリボン。紛れもないきらら系の聖衣だ。
(前世の俺はきらら系ばかり見ていた。そのせいで、ジャンプ漫画が原作のこの世界に疎い。)
菜緒葉ちゃんは俺に気づくと優雅に脚を解いて立ち上がった。スカートの裾が影のない世界に馴染むように重力なく揺れる。一歩歩み寄るごとに、彼女の影のない肉体が俺の視界を侵食していく。
彼女は高慢な様子で腕を組んで言った。
「遅いですわよ、マコくん」
……マコくん?
「俺、そんな名前じゃないんだけど」
しかし本名を名乗ろうとした瞬間、脳内に凄まじいハウリングのようなノイズが走る。
──あれ、俺の名前、なんだっけ。
「本名は不要かと思い封じましたわ。代わりに私好みの新しく格好いい名前をつけてあげましたの。禪院で最も名誉ある最高の名前をリスペクトしたんですのよ?」
菜緒葉ちゃんは目を細めて笑った。その表情に残酷な余裕があった。彼女は俺が困惑しているのを、まるで極上グルメか何かのように味わっている。
「……由来は?」
「教えませーん。自分で考えなさいな。さあさあ、ここに座って」
座れと言われても俺用の椅子がない。やむなくその場に胡坐をかいた。すると菜緒葉ちゃんはニコリと笑って俺を見下ろす。その仕草の一つ一つに、6歳の姿からは想像のつかない色気があって、正直気まずい。
「菜緒葉ちゃん、ここは何なの?」
とりあえず訊いた。何度も来てはいるのだが、当時は質問どころではなかった。俺の問いかけに菜緒葉ちゃんは傲岸不遜な笑顔のままで答えた。
「生得領域ですわ」
「生得領域──たしか精神世界みたいなもの? これをアレンジして術式付与して外部に展開したら、領域展開になるっていう……」
「ご存知でしたの? 偉い偉い。今の私たちじゃ、領域展開なんてまだ夢のまた夢ですのにね」
褒められているのか貶されているのかわからない。たぶん両方だ。彼女にはサディスティックな一面がある。
「……ああ。ちなみに、こうやって一緒に喋れるようになったのはあなたの呪霊食の賜物ですわ。あなたがこれまでに取り込んだ100匹分の悪意が、術式覚醒と同時に壊れた私の心に流れ込み、再起動の潤滑油になった。以前は感情の断片や過去の記憶しか伝わらなかったけれど、これからは呪霊を食べるたびにこうやってお話できるようになりますわよ。……ソーシャルゲームのログインボーナスみたいで、滑稽ですわよね」
良かった。うずくまって泣いていた菜緒葉ちゃんが、ここまで大きく育って、偉そうな口調で喋れるようになったのだ。すっかり元気になってるじゃないか。……いや、「元気」という表現は正確じゃないかもしれない。前に会った時の菜緒葉ちゃんは壊れかけていた。しかし今の菜緒葉ちゃんは壊れた後で組み直されている。それも呪霊食の結果で。
「……ちょっと待ってくれ、負の感情で復活って、本当に大丈夫なのか?」
呪霊を食べてもこの体には何の問題もなかった。心についても、他の人は俺ほどきつい悪夢は見ていないようだった。だから俺の悪夢が上限だと思っていた。でも、菜緒葉ちゃんの心は? 五条は俺を見てキモがっていた。彼女の性格が若干悪いのは、もしかして……。
「失礼なことを考えていらっしゃるようですけれども、性格が悪いのは元からです!」
「ああ……。そう……」
元からなんだ、と思った。
でもまあ、薄々気づいてた。あの禪院直哉の姉だもんな。
「失礼な人ですわね。──でもありがとう。あなたが外で頑張っているのは、ずっと感じていました」
そう言って菜緒葉ちゃんはくすっと笑った。この子が笑うだけで空気の温度が変わる気がする。正直言って、かなりかわいい。でも騙されてはいけない。小さい女の子相手だからと言って無責任に甘やかすのはよくない。今夜の菜緒葉ちゃんはフルスロットルだ。なんだか異常だ。主導権を握らせてはいけない気がする。けれども菜緒葉ちゃんはそれをわかっているのかいないのか、とびきり女の子らしい仕草で俺の顔を覗き込む。
「……で、あなたへのご褒美にオシャレしてみましたの。こういう娘が好きなのかと思って」
「……気持ちは受け取っておくけど。女の子って、そういう媚びたアニメは嫌うんじゃないのか?」
──こんなにオタクに都合のいい女子が存在する訳がない。なのでこれは演技。菜緒葉ちゃんは何か企んでいるに決まっている。
しかし彼女は首を横に振る。
「まさか。あのアニメは最高です。だってあそこには、女の子を三歩後ろに歩かせる傲慢な男も、歩かせられない無能な男も、一人もいないんですもの。……まさに真実のユートピアだわ」
うっとりとしたようにそう言うと、彼女は髪の毛先を弄びながら独り言のように付け足した。
「ちなみに私、リゼちゃん*3派ですの」
ふーん、そういう趣味なんだ。わかりやすすぎる。
そして菜緒葉ちゃんは目を輝かせ、度肝を抜く一言を繰り出した。
「で、マコくん、早速ノーポイッ*4で我が家を題材にした音MADを作ってくれますわよね! 要所で甚壱くんをトコトコ歩かせつつ蘭太くんの必死の叫びを入れたら、面白いこと確実ですわ。『ごちうさ』は私たち共通のお気に入りアニメですけど、直哉はああいうジャンルを舐めているでしょうから、最高の仕打ちになるでしょう?」
……菜緒葉ちゃん、君という子は。
大呆れするほかない。この子はどうしてこんな音MAD怪人になってしまったのだろう。俺ですら、最近の弟のよくなついてくる様子のせいで、ほんのちょびっと罪悪感が湧き始めているレベルだというのに。
「俺も直哉音MADが恋しいけど、今すぐは流石に無理だよ……。俺は聴き専だったから音ハメセンスとかないし、環境もない。そもそも『ごちうさ』の放送どころかニコ動のサービス開始もまだ先で──」
丁寧に事実を答えたつもりだ。けれども彼女はちっともトーンダウンしない。
「じゃあ、ニコニコ動画のサービス開始まではちゃんと待ってあげますから、それまでに腕を磨いておきなさいな。私たちがあの子をインターネットのアイドルにしてあげるの」
完全にドヤ顔だった。得意げだった。断られるなんて1ミリも思っていない顔だ。ここは大人として菜緒葉ちゃんをどうにかわからせなければいけない。なるべく諭す口調を作った。
「あのね、アニメキャラを音MADにするのはギリ許されるけど、実在の人物(?)を玩具にするのは人権侵害だよ。お巡りさんに捕まっちゃうんだよ」
しかしそう言った瞬間、菜緒葉ちゃんは目を細める。猫が獲物を見つけた時のような目だ。
「マコくんの嘘つき。じゃあ、デスけ*5の音MADは?」
……。
「他にも私、知ってますのよ。『何やってるんですか勉強してください』の人や、綺羅星の如き実況者の皆々様や、それから──」
「──わかったわかったわかったよもう!! 絶対言うなよ。俺が悪かったから!」
なんでこの子は俺の記憶をそこまで精密に覗き見ているんだ。プライバシーという概念はないのか。女の子に見せちゃいけない情報しかないのに。視聴者であることがバレ次第社会生命が終わりそうな動画の数々が脳裏をよぎる。もしかして彼女の脳内には──あの語録すらインストールされてしまっているのか?
菜緒葉ちゃんは勝ち誇った顔で微笑んだ。直哉がよくやるイラっとする笑みである。唇の端が上がって、ものすごく楽しそうだ。俺をからかうのはこの子にとっての最上の娯楽らしい。
「…………でも君、あんなにブラコンなのに、なんで弟の生き恥を晒すような動画を熱望するんだ? 理解不能なんだけど」
気合いで話を逸らした。
これは誰もが疑問に思うところだと思う。
菜緒葉ちゃんは俺の記憶を通して音MADを知り、まだ生まれていない従妹が愛しい弟を含めた家族を皆殺しにするシーンが玩具にされているのを見てしまった。常人なら身内の肖像権侵害に激怒しているところだろう。いや、それ以前に一族虐殺に恐怖と絶望の気持ちを抱くか。
俺の問いに、菜緒葉ちゃんの表情が少しだけ変わった。笑みは消えない。けれどもその温度が、一段下がったように見える。
「それはもちろん、音MADは心の癒しだからですわ」
菜緒葉ちゃんは静かに答えた。
「……うん?」
「マコくん、ワンピースに出てくるポートガス・D・エースのことは覚えてらっしゃる?」
唐突な名前が出てくる。
だが菜緒葉ちゃんの目はどこまでも真剣だ。
「エースが死んだシーンを読んで、あなたは一度エースの反転アンチになりましたね。白ひげ海賊団のみんなや色々な人たちが命懸けで彼を生かそうとしたのに、彼はそのすべてをくだらない自尊心のために投げ打った。……好きだったのに。好きだったからこそ。エースのことを本当に愚かだと思って、絶望したでしょう?」
「……」
「けれど、敗北者ラップに始まる数々の動画が面白すぎたおかげで、あなたはもう一度頂上戦争編を読み返せるようになった。憎たらしかった赤犬が帽子をかぶったり脱いだりしているのを見ているだけで微笑みが溢れるようになったし、ことあるごとに『取り消せよ今の言葉』と言って遊ぶようになった」
──菜緒葉ちゃんの瞳が俺の意識の核を射抜く。
「笑いに変えられたから。悲劇が喜劇に転調されたから。本気で傷ついたものに、もう一度だけ触れられるようになる。……それが、音MADという救済の本質ですわ」
彼女の指が、制服のスカートを強く握りしめた。
「未来の直哉は救いようのないドブカスです。罵られるのも背後から刺されるのも当然の、惨めな男。……ああいう姿を、私は見たくありません」
「……」
「けれども殴打の音が心地よいリズムを刻む素材になったあの子のことなら、私は心から愛せます。音MADのおかげで、私は辛うじて正気を保つことができた。あの子は、弱っている時こそ愛らしい。……そもそも男というのは、女の3歩前を歩こうとして無様に躓いている時だけが、鑑賞に堪えるものではなくて?」
──歪みきっている。
この子は男の3歩後ろを歩くよう躾けられた禪院のご令嬢。女の3歩前を歩く気概のない男を無能だと断じる癖に、男の背後に隠れるにはあまりに気が強すぎる。従妹達相手にセクハラとしか思えない文言を垂れ流す弟を、彼女は果たして受容できただろうか。そして彼女は、俺の記憶を通じて3歩先を歩く男達が、一人の女の手でどれだけ無様に破滅する未来まで見てしまったのだ。まさに、世界が転倒するような衝撃だっただろう。
菜緒葉ちゃんはその矛盾の果てに、異常な姉弟愛に辿り着いてしまったのだ。俺が音MADの知識を与えなければ、もうちょっと正気だったのだろうか。よくわからない。弟を溺愛しながら楽器にしたいと思う気持ちが、俺にはさっぱり理解できない。
「……君、直哉のことがそんなに好きなら、自分で相手してあげればいいのに。なんで最近は全然表に出てこなかったの?」
なるべく冷静を装って尋ねた。菜緒葉ちゃんが今何を考えているのか、それを知りたい。しかしそう問うと、沈黙が真っ白な領域に落ちる。
彼女が吐息のような声で答えを囁いたのは、しばらくしてからだった。
「強いて言うなら、お父様に将来結婚しろって言われたのが嫌すぎたから、ですわね」
あまりにも幼い本音だった。……そんな理由で?
「私の拒絶の感情が少しでも伝達すれば、優しいマコくんは無理をしてでもお見合いを断ったでしょう? だから無理をしてでも引っ込んでいましたの。……けれども、五条悟には今のうちに絶対に会っておかなければなりませんでした」
「どうして?」
「彼の六眼にマコくんが見えるのか。彼に私の術式がどこまで見えるのか。あるいは、どう見えるのか。今後呪術師を目指すなら、その確認は避けられません。──たとえば初対面がもっと後で、直哉あたりにいつもの調子で『菜緒葉ちゃん、一緒に五条悟を見に行こ? どんな顔しとんのやろ』なんて言われて無防備に会いに行った結果だったら、成長した五条悟が私たちを祓おうとすることだってあり得ましたよね?」
背筋が冷えた。
言われてみればそうだ。あの時五条は「キモい」と言った。五条が周りの大人の言うことを聞かなくていい年齢で、更に攻撃的な性格だったりしようものなら──問答無用で俺を菜緒葉ちゃんごと祓っていた可能性もある。
「……君、最初からそこまで計算して……」
「ええ、お父様が守ってくれるうちにカードを切りましたの。今の彼相手なら、どんな反応をされても『呪霊を食べてる女って、六眼から見たらそんなにキショく見えるんですのね……』とでも泣けば、禪院の家はそれで納得して庇ってくれます。向こう10年くらいは接触を完全に絶てるのでは?」
そうだった。お父様は一秒も迷わなかった。怒って、大急ぎで菜緒葉ちゃんを連れて帰った。そして今も、五条のクソガキを二度と娘に近づけないと言っている。──でも。
「でも、もしお父様がすぐに激怒せず五条にゆっくり事情を聞いてたら、今の俺たちだって『何かヤバいのに取り憑かれてるぞ〜』みたいな話になって、大変なことになってた可能性があるってことじゃない?」
「その場合はその場合ですわよ。お父様に見捨てられるくらいなら、私、死んでもいいですし」
菜緒葉ちゃんはあっさりと答えた。表情が少しも変わらなかった。
この子にとって、禪院直毘人に見捨てられることは死より重いのだ。
いや、五条の力量ならお父様ごと攻撃するのも十分に可能な気がするけど……菜緒葉ちゃんはそれでお父様が傷ついたとしても、愛を感じて喜びそうだな。
「……俺は良くないんだけど」
若干声が尖ってしまった。菜緒葉ちゃんは少しも気にする気配がない。
「ふふ、ごめんなさい。五条ショックで心が折れたことにして、今後男の子とのお見合いの予定は全部握りつぶしてちょうだい。……二度と嫌ですわ、ああいうのは」
「……まあ、わかったよ。でも、全部諦めるのは早すぎないかな。菜緒葉ちゃんには好きなタイプとか、理想の男はいないのか?」
「んなモンございませんわ」
即答だった。思考を介さないほどの完全な拒絶。
そりゃ、禪院にいたら男嫌いにもなるか。
同情しかけたが、菜緒葉ちゃんはそのまま続けた。
「……でもモテないとは絶対思われたくないから、程よく思わせぶりにして、かわいくてモテモテな感じに頑張ってくださいな」
めんどくさっ。
「……あのさぁ、そんなに戦略を練れるなら戻ってきなよ。大人の男が幼女の皮を被っている現状は、倫理的にも限界があるんだ。君は自分で自分の人生を生きて行くべきだよ」
「イヤですわ」
「……えっ、なんで?」
「だって面白いもの。あなたが私の代わりに、必死に『女の子』をやっているのを眺めているのは」
菜緒葉ちゃんはそう言って、体を少し前に傾けた。顔が近づく。胸元の大きなリボンが揺れて、息がかかりそうな距離。
「マコくん、知っていますか?『女性は存在しない』という言葉を。むかし、本で読みましたの。……無論実際の個々の女性の不在を言っているのではなく、女性という単一の普遍的なあり方は、実は存在しないのだという話ですわ」
彼女の声が静かに深淵を這う。
「そのテーゼを裏返し『男性とは自分たちが存在していると思い込んでいる女性である』と書いた人もいました。……直哉を見ていると時々思います。男というのは、女を象徴的に規定しないことには自分の中に女を見つけずにはいられない生き物なのではないかしら。主体の差異は本来的には記号化されたファンタジーに依存しています。だから仮に男達の決めた〈女〉の定義が揺らいでしまえば──その瞬間、男というのは、単なる男装した女と何も変わらなくなるのでは?」
「……君、小学校も行ってないのによくそんな難しい話ができるね」
──やばい。こっちは一応大人なのに、この子の言っている哲学的な話の意味が半分もわからない。この子は頭が良すぎないか。
菜緒葉ちゃんは少し呆れたように息を吐いた。それから、唇の端を上げた。
「私が言いたいのは要するに……男は女よりも上手く〈女〉を演じられるのではないか──ということですの」
彼女の目が俺を見据えた。
眼差しからは遊びの気配が消えている。
「……ええっと、ガチの女の子とデートするよりもバ美肉お砂糖を愛好している人が地味に結構いる……みたいな話?」
「…………………それでいいですわ。あまりに俗っぽい例ですけど」
彼女は呆れたように息をつく。
「私が言いたいのは……マコくんはエッチな女の子のアニメや不潔な動画や音MADばっかり見てるけれど、すごくいい人だということです。私のフリをしながら、私の顔を潰さないようにいつも気を遣ってくれた。おばさまにも、お千代さんにも、躯倶留隊の人たちにも。弟と仲良くなれたのだって、お父様とお話できるようになったのだって、全部あなたのおかげ。でもね、マコくん」
菜緒葉ちゃんは俺の目を正面から覗き込んだ。
「あなた、男にお酌をするのも、男に可愛がられるのも、私よりずっと上手いですわ。……気づいています?」
──気づいて、いなかった。
俺はただ菜緒葉ちゃんのためだと思って、俺のイメージする完璧なお嬢様を演じていただけだ。
でも本物の彼女から見れば、それは「本物より優れた偽物」という、残酷なまでの完成度だったらしい。
「私はこんな家はもう嫌。将来真希ちゃんが滅ぼしたくなっちゃうのも仕方ないのかもしれないと思っています。……けれどもあなたは私よりもずっと優秀な『禪院の女』として振る舞ってくれました。だから、元に戻ってももう何の意味もないんです。……マコくん。あなたはせいぜい、あなたの理想の美少女として生きてくださいな」
突き放すような言葉。なのに、その響きには防具を脱ぎ捨てたような弱々しさが混じっていた。
「それは……」
「私は所詮、一度消えた女。何も望めない身分です。……だからあなたは私の代わりに幸せになって。立派な呪術師になって、この家に光回線を引いて。私が一生音MADを聴き続けられる環境を作ってくれれば、それ以外は好きにしてくれていいの。……それ以上は、何も望まないから……」
儚げな様子で菜緒葉ちゃんは言う。
でもね、でもね菜緒葉ちゃん。
「要求が具体的すぎて、ちっとも悲劇のヒロインに見えないよ……。俺に自分の人生のめんどくさい所を押し付けてない?」
そう言うと、菜緒葉ちゃんの顔に笑みが戻った。
「うふふ。バレました?」
「……うん、バレバレ」
「でもね、本気ではありますのよ。私はもう生きていてやりたいことって音MAD視聴以外にあまりなくなっちゃいましたもの」
──菜緒葉ちゃんは傲慢そうな態度の割に、鬱病寸前のようなことを言っている。俺の経験則から行けば、音MADしか聞けないメンタルというのはかなり危険な状態だ。
挙句の果てに、彼女はあまりに年齢不相応なことまで言い始める。
「禪院の女は体質上グラマーですから、頑張ってくれたらお礼代わりに、将来胸くらい揉ませてあげますわ。……それとも、カノジョを作ってきららアニメみたいに女の子同士でイチャつきたい? そういうのってTS転生の醍醐味でしょ?」
菜緒葉ちゃんの趣味はさておき、俺個人としては百合展開よりもメス堕ち系の方が好みだけどな。ただ、自分でやりたいとはそんなに思わないだけで。──などという軽い性癖トークはできない。ただ、彼女を睨みつける。いくらなんでも子供の口からでてきていい言葉じゃないと思った。どうにか撤回させたかった。
けれども菜緒葉ちゃんは膝の上に顎を乗せ、暗く、深く、きらきらとした瞳で俺を見上げて微笑むだけだった。
「……だからね、マコくん。これからは、今までみたいに私を思いやりすぎなくてもいいですからね」
俺は自分のことを守護霊みたいなものだと思っていた。菜緒葉ちゃんを守るために、菜緒葉ちゃんの代わりに戦うために、ここにいるのだと。
でもこの子は……。
この子は……。
結局、どうしたいんだ?
彼女の主張は俺のように単純な男からするとあまりにも掴みづらい。
上から目線の挑発的な態度の割には投げやりというか、引きこもりめいているというか。未来の記憶のせいでやさぐれてしまったのか。
とりあえず、この子がこの家で自分の人生を生きることを願えるよう、ひたすらサポートしていくしかないのかもしれない。
ただ、ひとつだけはっきりわかったことがある。
「……菜緒葉ちゃん、君は本当にイカレてるよ」
色々と謎めいている彼女だが、音MADをこよなく愛する気持ちだけは嫌という程理解できた。
──これもう弟だけで曲を作りたがってるだろ。
彼女はニッコリ笑って答えた。
「あら。……私にとって、それは最高の愛の告白ですわ」
伏線ばら撒き回。
ちなみにシン菜緒葉ちゃんは基本的に男嫌いな反面、女子校のノリで気が強く凛々しい女性を好んでいます。しかし禪院らしく同性愛を不潔だと思って差別しているので、女とは絶対付き合いません。
もしIQ53万形式のレギュレーションで好みのタイプを問われれば、彼女は「あくまで観賞用ですわ」と前置きしつつ、男に媚びない誇り高い女が絶望に曇りながらそれでも敢然と足掻く姿の可憐さについて饒舌に語り出すことでしょう。
きもちわるいね。