音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
禪院直哉は性格が悪い。性格の悪い人間は自分が今どの程度性格の悪いことをしているかを案外正確に把握している。把握したうえでやめないから、性格が悪いのである。
病み上がりも同然の姉が、大嫌いな従妹とその母親を連れて勝手に東京へ行ったストレスを、自分より可哀想な男を使って解消するのも、その性格の悪さの一環だ。
寮の消灯は23時ということになっているが、守っている者を直哉は見たことがない。そういう訳で、布団の中で携帯の発信履歴を開くと、上から下までほとんどが同じ名前で埋まっていた。
「蘭太くーん、起きとった?」
『……今寝るところでした』
「ほな寝る前にええ話したるわ。あの子な、また稽古場で言いふらしとったらしいで。『俺は菜緒葉さんに呪術界と天秤に載せてもらえたんだぜ!』って」
表門の前で菜緒葉が告白に下した返事の中身は、その日の昼には3つの方向から直哉のもとに届いていた。フられた当人があまりの嬉しさに周囲へ言いふらしまくったためである。
「あの子は立派やね。俺の前で膝ついて、正面から、結婚を前提にやで。あれは文句のつけようがないわ。俺の父親も割と好意的に見とったし、俺かて稽古場に引きずってってしごいたるくらいしかできひんかったもん」
『……知ってます。稽古つけてるのは見てましたから』
「なのに蘭太くんは一昨日、何も言わんかったやろ。ええ子やねぇ。ほんでええ子にしとったら、翌日には菜緒葉ちゃんは人生初告白に大喜びのお返事をしながら東京へ直行や」
噂を流してきた3人のうち1人は「菜緒葉さんの澄み切った志に敬服しました」と律儀に賞賛を添えていた。
「2回目以降の告白は嬉しさ半減やろなぁ。単なる後追い。断り文句だってきっと使い回しのコピペや。なぁなぁ蘭太くん、今どういう気持ちぃ? どんな顔してお布団入ってんの?」
『…………』
「あ、それとこれ今日メールで知ったんやけど、悟くんは新しい台所に入れてもろてたらしいわ。蘭太くん入ったことある? ないよな。ふふん、俺もないわ! お揃いやなぁ!」
『…………』
「で、君は今後どうすんの?」
ここまで気持ちよく喋り倒してから、直哉は頭の中の『姉に怒られないためのチェックリスト』と照らし合わせる。
立場をかさにきた弱い者いじめ禁止 → 蘭太は弱くない。これは愛ある発破にして対等なアドバイスなのでセーフ。
ルッキズム禁止 → 顔の話は一切していない。完璧にセーフ。
身内にライン超えの悪口禁止 → 事実しか言ってないから超セーフ。
これなら姉に聞かれても、咎める箇所はひとつも見つからないはずだった。
そういう訳で直哉は、この幼馴染兼お気に入りのサンドバッグに繰り返し電話をかけて楽しく遊んでいた。昨晩もかけた。今日は祓除帰りの駅のホームからもかけた。毎回途中から無言になられたが、直哉は微塵も気にしていなかった。元々、相手の迷惑など知ったことかと言わんばかりにべらべらと勝手に盛り上がるのが直哉のスタイルなのだ。
「そういえば蘭太くん。菜緒葉ちゃんたちは今日パンダ見たらしいで。写真来たわ。背中しか写っとらんかったけど。で、蘭太くんはメール来た?」
『来てません……』
「当然やね! 蘭太くんはただの都合のいい幼馴染兼後輩や。東京行きにあたって一切頼られず、思い出されず、完璧に置いてけぼり。いや〜可哀想に! 同情するわ!」
『……直哉さん』
「んー?」
直哉はワクワクしながら続く言葉を待った。
『はっきり言って、菜緒葉さんに置いてけぼりにされたのは直哉さんも同じですよね?』
「えっ? ちょい待って」
『あなたのストレス解消に付き合っている暇があったらもっと有意義なことに人生を使いたいんですよ。あと1週間はかけてこないでください』
ぷつ、と無情な音が響いた。
「……は?」
即座にかけ直した。呼び出し音は鳴らなかった。代わりに録音の音声が丁寧な敬語で「お客様のご希望によりおつなぎできません」と言った。
「……はあ!? 着拒!? この俺を!?」
直哉は大ショックを受けた。
酷すぎる!
ちょっぴり煽って遊んだだけなのに!!
しかし、置いてけぼりというのは事実だった。直哉は、また姉に置いて行かれたのだ。
◇
夢というのは昼間の記憶を整理するために見るものだとよく言われているが、本当のところはまだよくわかっていないらしい。とりあえず、起きた時には忘れている。そのくせ眠っているあいだだけは、昨夜の夢と今夜の夢がちゃんと地続きになっていることを、当たり前のように覚えている。
そういえば、昨日の夢は最悪だった。
父親が、姉を蘭太と結婚させると言い出したのだったか。人の物を勝手に、庭の鉢植えでも株分けするような要領で、酒の勢いのままよそへやろうとする。あれだけは絶対に許せない。あの幼馴染に妙にムカついていたのは、そのせいだったのかもしれない。
いや、そんなこともないか。
普通に面白かったからやっただけだ。
昼の世界と夜の世界は一線を画していて、夜には夜の論理がある。
直哉にとって夜はいちばん穏やかな時間だった。何かを取り繕う必要がない。自分の本性に任せて、ありのままでいられる。
──夢の中で、直哉は学校に行っていなかった。
御三家本来の価値観に従って、学校など通うだけ無意味だと断じたからではない。本当は興味があった。あの五条悟が、呪術高専に進んでいたからだ。
けれども父から「人望がなくて家での地盤がガタガタなオマエを外で遊ばせることなんてできっこなかろう」と言われ、納得した。
強くなることなら家でもできる。
老獪な父親を頷かせるだけの頭のいいプレゼンテーションを直哉は組み立てられなかった。組み立てようとして、組み立て終わる前に父親の言い分の方が正しい気がしてしまった。
姉も同じように学校へ行きたがっていた。
どんな話も──甚爾についての話でさえきちんと聞いてくれる、直哉にとってはたった1人の本当の家族。夢の中の姉は大体のことを何も恨んでいないように見えた。それでも、中学を出てそのまま女中になったことだけは、本気の未練だったらしい。
いつかの水曜日、部屋のテレビで学園物のドラマが流れていた。制服の生徒たちが屋上で弁当を広げている場面で、姉は湯呑みを両手で包んだまま、しばらく画面から目を離さなかった。
「いいなぁ」
それだけ言って、また笑った。直哉は画面を見たまま答えた。
「俺かて学校なんて行ってへんよ」
すると、あの女は少しだけ嬉しそうな顔をした。本当に少しだけだった。口元がわずかに緩んで、すぐ元へ戻った。直哉はそれを横目で見て、鏡を覗き込んだような気分になった。自分も今、同じ顔をしているのではないかと思ったのだ。
昼間の、あの異常者の姉を思い出すと失笑ものなのだが、夢の中の直哉は、この姉には一般人の暮らしが似合うと思っていた。あの姉は母方の、非術師ばかりの家で育っている。だからときどき垣間見える彼女の異常さを、直哉は非術師特有のものだと誤解していたのだ。外の常識で育ったから、ここの常識が肌に合わないのだと。
女全般に教育がいらないとも、直哉は一度も思ったことがない。外の女なんて、学歴だけなら大抵直哉よりも遥かに上だ。任務先で顔を合わせる補助監督の女も窓の女も、少し話せばすぐにわかる。まあ、教育自体に、直哉はそこまで高い価値を置いている訳でもないのだが。
ただ、姉は新しいことを覚えるのが好きだった。一度覚えたことは次に見る時には一段上手くなっている。直哉も同じだ。それでも最近の祓除には変わり映えがない。出向いて祓って、帰る。呪霊の等級が多少上下しても、手順はほとんど変わらない。姉と出会った頃には日ごとに強くなっていく手応えがあったのに、今では頭打ちだ。女の姉はもっと酷いことになっているはずだった。毎朝同じ時刻に起きて、同じ流しの前に立ち、同じ廊下を拭いている。何年経っても、覚えたことを使える場所が広がらない。それなのにあの女は、いつも何やら笑っている。プライドがあるからだろう。
なのに。
「呪術高専に行くんやってね、入学おめでとう」
と、直哉は言った。
3月の夜、相手は禪院真依だ。
直哉の前では、愛想笑いか恐怖の表情ばかり浮かべる女。
しかしその割にはすぐ強がる。
口が悪く、すぐに煽ってくるのに、本気で脅せば怯える雑魚。
真希に似ず、女の子らしいことこのうえない従妹だ。
水曜日の廊下。これ以外に人目につかない場所で話す方法はなかった。部屋に来いと言えば、向こうも馬鹿ではないので来ない可能性が高い。いや、馬鹿でも流石に警戒するか。愚者は経験から学ぶという言葉を何かのアニメで見た。この家で暮らしてきた真依は、直哉を相手にするときの振る舞いくらいは学習しているはずだ。体調を崩したと言い訳するか、親に泣きつくかして逃げるに違いない。
「ああ、別に何もせえへんよ。今日水曜やし、ここ廊下やし。真依ちゃんもそれわかってて来たんやろ?」
「……」
「ちょっとお話したかっただけや。真依ちゃん、もうすぐおらんようになるから」
作り笑いを装ったのに、真依は全く信じていない顔でこちらを見上げた。
ひとつ屋根の下に美少女の姉妹がいるというのは、術式の勉強のために見ているアニメの世界では「ご褒美」ということになっている。たぶんアニメの制作者は、美少女の従妹と一緒に暮らしたことがないのだろう。
見た目が多少良かろうが、片や偽物、片や出涸らしの無能の癖に妙に態度がデカく、こちらを毛嫌いしているとなれば、侮蔑と嫌悪を抑制する気すら湧かなかった。
「真依ちゃんはこの家の女中が何人おるか知っとる?」
「……いえ」
「禪院の血ぃ引いとる子だけ数えても、結構おんで。親族採用の子らは外から来た子と違て、みんな呪力持っとる。術式ある子もおる」
「……」
真依は黙っていた。話がどこへ向かうのかをまだ量りかねている顔だった。
「俺が言いたいのは、女中の半分くらいは真依ちゃんより才能あるんとちゃうの?ってことや。みんな台所で芋洗っとる。廊下拭いとる。なのに高専行くのは真依ちゃんやけど、ソコんとこどう思とるん?」
世間話の調子で言った。実際直哉にとっては世間話だった。屋敷のどの術師に訊いても同じ答えに行き着く。わざわざ口に出す者がいないだけだ。女は禪院の部隊には入れないという前例を破ったのは父の度量だ。本家の血筋、真希の要望──この2つが揃えば、禪院の基準でさえ、拒絶は前時代的だ。
しかし結果はどうだ?
道を切り開く者には相応の才能がなければいけない。男より優秀なくらいでないと、誰も納得しない。その点、真希と真依は女が役に立たないといういい証明になった。彼女達に続きたいと思う禪院の娘は1人もいないだろう。禪院家は当分変革のコストを支払わずに済む。
「……私が決めたことじゃありません。そんな風に言うなら、あなたのお気に入りの女が若い頃にでも行かせてあげれば良かったでしょう? できなかったのよね。外に出したら、頭の緩いあの女だって気づいちゃうもの。自分はもっとマシな男を選べるって」
「はぁ?」
「ああ、でも、出す必要もないか。みんな議論してるわよ。あなたが飽きたら次は誰が貰うのかって。あの女だって、次の男の方がよっぽど嬉しいんじゃない?」
直哉は答えなかった。作り笑いのまま、黙っていた。
それを怯んだと取ったのか、真依の声は一段と明るくなった。
「知ってる? あの女、最近やたらと私に構ってくるの。おおかた、あなたに捨てられた後の行き先でも探してるんでしょうね。本家の娘に今のうちから尻尾を振っておけば、少しはマシなところに下げ渡してもらえるかもしれないもの。この前なんか、聞いてもいないのに言ってきたわ。他の男もみんなが言うほどあなたと大差ない、なんならあなたが一番安心なの、って」
真依は口の端を上げた。この娘が自分に向けてそういう顔をしてくるのを、直哉は初めて見た。他人相手なら、そこそこあるけれど。
「全く好かれてないのね。可哀想。──女に『一番マシ』って言われるって、どんな気分?」
この娘にもまだ目上に噛みつくための牙が残っていたらしい。だが、直哉の質問に彼女は答えなかった。それどころか、自殺志願のようなことを言い出した。直哉としては、彼女が真希のおこぼれで得た席をどう受け止めているのかを知りたかったのだが──。
直哉は作り笑いを保ったまま、目の前の小娘を完全に叩き潰そうと決心した。
「菜緒葉ちゃんは優秀やからね。真依ちゃん如きに尻尾振らんでも男なんて選び放題やわ。真依ちゃんだって相伝でも持ってれば学校なんか行かせず、16で俺と祝言やったんちゃう? そんなに学校へ行きたくないんやったら、ひとまず君に相応な基準で、改めて手伝ったってもええで。たとえば、子供ができたら退学になれるんやない? お顔しか取り柄がないから待遇は愛人、いや、それ未満やけどな」
「……」
「冗談や。慈善事業やないんやから。君みたいな落ちこぼれをうっかり母親に選んだばかりに、出来損ないが生まれて来たらどないするの。菜緒葉ちゃんにバレるのも嫌やから、ゴムは君が鼻血垂らしながら頑張って構築して欲しいわ。得意やろ、そういうん?」
「……」
真依は黙った。そりゃ黙るだろう。
直哉は他人を効率的に傷つける方法を知っている。男は弱さ、女は性にまつわる部分を中傷すれば一瞬だ。
だが、この程度はまだ挨拶のようなものだ。
「そうそう! 相伝と言えば俺たちの大叔母さんは家を飛び出して呪術高専に行って、1級……つまり『炳』と同格になって、せやけど卒業した瞬間無理矢理連れ戻されて家で結婚したって話やろ?」
「……」
「真希ちゃんはその人みたいやって長寿郎さんが言うてはったわ。まあ、何倍も弱いらしいけど。でもガッツだけはあるわ。俺に何べん蹴られても起きてきよった。眼鏡なかったら呪霊も見えへんくせに、顔腫らして血ぃ吐いて、それでも自分で道こじ開けて東京行った。立派やねぇ」
「……」
「で、落ちこぼれの真依ちゃんは? どうすんの?」
答えはなかった。ある訳がない。
直哉の見立てでは、この娘は母親似だ。
扇の妻は、直哉がどれだけ真希をコケにしても絶対に反論しない。その傾向は真依も同じで、真希について「雑魚の癖に生意気」「呪具を振り回すだけの一般人」などと周りの術師に合わせて言っていた。
直哉の目にはそれがまさに女の所業と見えて仕方なかった。実に愛らしいことだ。
「呪具がなければ呪霊をマトモに祓えないのは真希ちゃんとお揃い。術師に数えてもろとるんは、真希ちゃんのオマケや。いっつも真希ちゃんを馬鹿にしとる割に、結局後ろを追っかけて回っとる」
真依の肩が小さく揺れた。それから一歩、後ろへ下がった。
「……失礼します」
踵を返しかけた背中に、直哉は壁から身を起こした。三間はひと呼吸で消えた。真依が廊下の角へ逃げる前に手首を強く抑えて止め、続けてその脇の壁に手をついた。それだけで道は塞がった。真依の背中が漆喰に当たって、乾いた小さな音を立てた。
「まだ話は終わっとらんぞ、カス」
「……」
見下ろすとつむじが見えた。内側へ巻き込んだ短い黒髪が俯いた頬の線に沿って揺れている。直哉は身を屈めた。ここから先は声を落とす。廊下は人の通る可能性がある場所で、これは他人に聞かせる話ではない。
女は性にまつわる部分を中傷すれば一瞬。真依にもそれは効いた。だが、ここから先はもっと面白い材料がある。
これからが本題、初めから話そうと思っていたことだ。あのアル中はきちんと説明しているか怪しいから、これは次期当主である自分の仕事だ。折角だから、当初の予定よりも少しだけ残酷な言い方をしてみようか?
「ここからが本題。ええこと教えたるわ」
「……」
「一卵性双生児は呪術の定義上同一人物。端的に言って、君のせいで天与呪縛がバグっとる。おまけに真希ちゃん自身も一般人くらいには呪力あるから、フィジカルギフテッドの中でも雑魚の部類や。今の真希ちゃんは年の近い連中に組み手で勝ちまくって調子乗っとるやろけど、呪力の回し方や結界術でも術師の方が伸びしろあるし、黒閃のひとつも出せばもう別物やね。そのうち追い抜かれるで」
真希の当主になるだの何だのという志は、直哉からすれば心底どうでもよかった。
いや、どうでもよくはないか。
端的に言って身の程知らずだと思った。
甚爾ですら当主になれないのに、この程度の女が席を与えられ、天与呪縛に居場所を与えて制御しているというアピールに使われているのは元から癪だった。
だから稽古と称していびったりもした。周りは可哀想がっていたが、いい気味だとも思っていそうだった。悪意の外注先としての素敵な役割を果たしてしまった。
でも、そこはまあいい。
真依が禪院家にいる時と同様のやる気のない態度のままなら、真希の天井はすぐそこだ。それでは困る。呼吸をしているだけで甚爾を穢すような存在が、更に醜くこの世にのさばることになる。
「俺かて真希ちゃんの根性に免じて、殴りまくってたらアニメや漫画みたいに奇跡的に覚醒するんやないかとも思っとったんよ? 嘘やけど。まさか真依ちゃんという邪魔者がおったとはなー驚きやわぁ!」
この辺りで泣き始めるかと思いきや、実感がまだ薄いのか泣かなかった。
だから直哉は更に畳み掛ける。
「いや、呪術的な体の仕組みの話にも限らんか。真依ちゃんもお母さんも、真希ちゃんに危ないことして欲しくないから、意地悪して諦めさせよう思とるんやろ?」
「……違います」
小さな声だった。
そしておそらく嘘だろう。
強気に見えても、少し乱暴に接されたら男相手に何も言い返せなくなる、可哀想な女の言うことだから。
しかし表向きは納得しておくことにした。
「ほーん、真依ちゃんとお母さんは単に真希ちゃんのことをキライになっただけなんやね。そもそも、何言ってもあの子は余計に頑張るだけやからな。ほんで、頑張っても叶わへん」
真依はそこでようやく泣き始めた。
姉を庇えばこの場で痛めつけられるかもしれず、母親の肩身も余計に狭くなる。だから姉を生贄にするしかない。
憐れ、とは思わない。
世の中そういうものだ。
直哉にも、自分が人間と思われていないというのはどういうことかはわかる。自分がいつも周りにそうしていることだからだ。そしてそんな自分でさえ、小さい頃に憧れた人達から見たら、下手すれば真希と大差ないかもしれないことくらいは承知している。
直哉はたまに考える。もしも自分が女に生まれていたら、姉のように身の程を弁えたのだろうか。それとも真希のように誰からも侮蔑されて、それでも知らん顔をしていたのだろうか。
おそらく、後者だ。
直哉は他人から嫌われることをどうとも思わない。つまり、行き着く先は大叔母と同じ。その程度の強さでは甚爾の隣にはまだ立てないのは、痛いほどにわかっている。
「当主もアホやない。ちゃんと女を育てたいなら、君らなんかに投資する訳ないやろ。君らの存在は単なるアリバイ作りや。別に死んでもええような女に呪術師をやらせてみて、失敗したら現状維持。まあ、ガチの無能は真依ちゃんだけかもしれへんけどな」
直哉はもう少し身を屈めた。
「……で、真依ちゃん。生きてるだけで姉の足手纏いってのはどんな気分や?」
と、そこまでの一部始終を通過し終えたところで──
《直哉くんひっどーい。残酷! 男尊女卑! 真依ちゃんは運命に翻弄されただけじゃん。中学生相当の女の子の頭じゃ反論できないそれっぽい理屈を押しつけて、責任を負う主体として責め苛んで泣かせるのは、れっきとしたイジメだよ》
姉の顔をした大人の女が現れた。
無表情で黙っていれば冷たく見えるであろう整った顔に、へらへらと笑みを浮かべている。
そして景色が切り替わる。どんな悪夢の名残も目覚めるまでにほぼ消える。連続性のある、しかしすぐに細部が曖昧になって消えてゆく夢の途中で常に明瞭に思い出せるのは、水曜日の女のことと、夢の中に居座るバケモノがその女の顔を借りていることだけだ。
夜の景色。背後に月でも出ているのか、金の光で視界には困らない。尤も、振り返ったこともない。
足袋越しに湿った温かさが吸いつく。踏み出すたびに地面はわずかにたわみ、半拍遅れて押し返してくる。薄赤い道はどこか遠いところから規則正しく脈を打ち、先へ行くほど狭まり、ゆるやかに下っていく。その先に、黒板と教壇。女は教壇の脇で拘束衣を着せられていた。腕を封じられたまま、膝の上で文庫本が1冊、誰の指も借りずに開いている。その後ろにも延々と続く道の終端は、闇に紛れて見えない。
「生意気やねぇ。君のことも、またいつもみたいに虐めたろか?」
《今はちょっとぉ……。風邪気味だから!》
「呪霊が風邪引くかカス」
初めて食べた知性呪霊、真男佳の肉片の残滓──これが悪夢の元凶だと気づいたのは6月のことだ。これを強制的に引きずり出して以来、直哉は毎晩のように奴隷兼戦闘訓練の相手役としてこき使っていた。
その気になればいつでも取り込めるが、コイツの戦闘技術の中には自分が学びたいモノが多々ある。それに、自然に弱って消えるのを待った方が心身への負荷が浅そうだった。
そのための安全策としての縛りは3つ結んだ。真男佳は乗っ取りや術式行使をはじめとする加害を一切行わないこと。陥れるための嘘もつかず、質問全てに正直に答えること。代わりに直哉は目が覚めたら真男佳の存在を忘れること。呪霊自身は「自分は子機みたいなものだから元々術式なんか使えないし、悪夢を見せる以上の力はほぼない」と主張しているが、信用できたものではない。
《あっ、そうそう! さっきの君の思考、典型的だよ。集団の中で少数派の割合が一定を切るとね、その人は属性の代表扱いされる。カンターって社会学者が70年代に企業の調査で言ってるんだけど。で、無理にでも枠を作ることで少数派の居場所を作ろうっていうのがアファーマティブ・アクション。でも、これも賛否両論あって──》
「はっ、どうでもええねん」
《えーっ、聞いてよぉ。たとえば白人の貧困層と黒人の富裕層のうち、黒人の方を優先して大学に入学させる結果になるような制度があるとする。そうすれば白人の貧困層は優遇される側を恨むし、優遇措置と無関係の黒人も怒る。そうなれば、当初の黒人差別を解消しようという尊い志とは逆のことが起きるだろう?》
「結論はわかったからもうええわ。下っ端の男や女中から見れば、ヘボいとはいえ術式持ちの本家のお嬢様は優遇されてるように見えるって話やろ」
《えー、そこで切っちゃう? まだ前置きなのに。アファーマティブ・アクションの是非ってね、割り当て枠を設けるやり方と、目標値だけ掲げるやり方で全然話が変わってきて、たとえば──》
言い終わる前に、直哉は踏み込んだ覚えもないまま、もう女の正面にいた。拳は女の鳩尾に深く沈み、文庫本がページを散らしながら黒板まで飛んだ。
《ぐっ……ちょ、風邪気味だって言ったのに……!》
直哉が瞬きをひとつするだけで、紫色の触手のような何かが闇の中から降ってきて、女を拘束する。そのまま宙吊りにしてやった。
《で、話の続きだけど、端的に言って、アラサーバージョンの君も今の君も、意外と優しいね。真依ちゃんが優遇されてるように「見える」って言ってた。見えるだけなら、見てる側の目が悪いって話にできるよね。でも、彼女は実際に「優遇」されてるんだよ。もちろん君たち相伝の男と比べれば、ゴミ未満の扱いだけどさ》
「……」
《少数派の女は完璧なマドンナを演じるべき。これが君の式神な方のお姉さんがよく言ってること。でも、無能な女が優遇されてると一度でも多数派が考え始めたら? 女術師は男より優秀じゃないと認められないというのは、この時代、差別だと思われるのが普通だけど……真依ちゃんの場合は? あの可哀想な子は自分自身が基準以下なだけでなく、男より優秀になれる女を、自分の存在で押さえつけていたよね。…… まあ、そうは言っても、真依ちゃんレベルで無能なのに躯倶留隊に放り込まれて戦う権利を与えられている男なんていうのは、それこそわんさかいるけれど》
「……」
《あれはあれで選択権とかはないんだよ。君は所詮は特権階級だからさ、家の大部分を内心カス扱いしてる。だから優しくなれるんじゃないかと俺は踏んでるんだけど──》
耳を貸せばどんな風に思考を誘導されるかわからないので、直哉は姉の皮を被った怪物を放置して文庫本を開いた。ほぼ白紙で、時々ミミズののたくったような黒い痕跡が滲み出るだけの気色の悪い中身だった。
それを眺めながら考える。
ここ最近、真男佳は何かがおかしい。
直哉は夢を見せられることを加害に数えていない。戦闘の夢なら毎晩見せろと言いたいくらいだった。昼間は何もかも忘れているが、それでも夢の中での実戦経験は現実にもいい影響を与えてくれている。戦っていない夢も、正直に言えば嫌いではなかった。腹に溜まった余計なものを、夜のうちに誰かが吐かせてくれたような感じがした。だから許している。
昼の自分は、姉に叱られない人間をやっている。夜の自分まで同じでいる義理はない。夜のことを朝に持ち込まなければ、家族や知人に迷惑はかからない。
ところが、ここ何日かは様子が違った。
細部はもう忘れたが、戦っていない夢が増えた。
しかも、昼にまで尾を引く。
真男佳がベラベラと喋り終えた。
《じゃあ、今日の講義はここまでね。先生、疲れちゃった》
「先生ちゃうやろ。奴隷やろ」
《禪院家ってみんなそんな感じだよね。こわ……》
──視界が明けるより先に、首筋を締めつけるような重だるさと、車内のやけに低い天井がもたらす圧迫感が意識を浮上させた。
どこかのサービスエリアだった。
エンジンはすでに切られており、足元にはヒーターの名残である生ぬるい空気が澱むように溜まっている。窓の外は夕闇が静かに落ちてくる寸前の曖昧な灰色。等間隔に並んだナトリウム灯が湿ったオレンジ色の光を投げかけ、その足元には巨大なトラック群が停車していた。自動販売機の明かりには、羽虫が幾度となくガラスへと体を打ちつけている。
サービスエリアか。
直哉は不機嫌に眉をひそめながら上体を起こした。首の付け根が乾いた音を立ててきしむ。後部座席の狭い空間で、変な角度のまま眠りこけていたらしい。運転席は空だった。ドリンクホルダーには口の開いた缶コーヒーが無造作に突っ込まれている。
何か、胸糞悪い夢を見ていた気がする。内容は思い出せない。だが、夢というのはそういうものだ。わざわざ反芻する価値すらない。
今日の同行者は、東京校の同学年で準2級。今日の祓除の首尾からすると、来年には2級呪霊の祓除を問題なくこなせるようになっているだろう。
ふと視線を横に向けると、黒の詰襟が目に入った。隣の少年は最初から起きていたのだろう。ぱっちりと開いた目が直哉を捉えた瞬間、まるでしっぽを振る犬のようにぱっと顔を輝かせた。
「ごめん、起こしちゃった? 声かけようか迷ってたんだけど」
「……なんで」
「うなされてたから!」
すかさず言い返そうとして、直哉は固まった。
──待て。こいつの名前、なんやっけ。
補助監督が戻ってきたら会話の中で呼ばせるか。あるいは少年の荷物から名札でも盗み見るか。だが、どれもこれも直哉のプライドが許さない、回りくどくて鬱陶しい手だった。
直哉は即座に切り替え、一番格好がつくと踏んだ態度で事もなげに問いかけた。
「すまん、名前、何やっけ」
笑みを浮かべてさらりと尋ねる。
当然相手は少し寂しそうにした。
「えーっと、灰原!」
「ちゃうわ。苗字くらいは覚えとる。下の名前を訊きたいんや」
「下の名前?」
「そう。フレンドリーにいこや」
本当のところ苗字すら怪しかったのだが、そこは長年培ったハッタリと図々しさで涼しい顔をして乗り切る。
「雄だよ。雄は英雄の雄!」
「英雄の雄て。自分で言うんかい」
「親がそう説明しろって。1回で覚えてもらえるから!」
「なるほど、雄くん」
直哉は軽く微笑み、荷物から取り出したキャラメルの小箱を差し出した。
「俺も直哉でええよ。同じ学年やしな」
「うん、直哉!」
灰原が目を輝かせて頷く。直哉はその無邪気すぎる顔を一瞥し、自分もキャラメルを口へ放り込みながら言葉を継いだ。
「そのうち会うやろけど、菜緒葉ちゃんと区別つかなくなるから」
「なおはちゃん?」
「俺の双子の姉。京都校の。どっちも禪院やろ」
「あっ、知ってる! 交流会で五条さんとすごいことになった人だ! 七海が『アレは人間同士の戦闘ではない』って言ってた!」
「せやろ!!」
さっきまでの不快感などどこへやら、一瞬で機嫌を良くした直哉は、鬱陶しい夢の気配ごと、口の中の甘さを飲み下した。