音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
灰原雄という男は直哉にとって最高にやりづらい部類の人間だった。話の最中にちょっときつい言葉を言ってみても、すべて「わあ、直哉は面白い言い方をするんだね!」と真っ直ぐなキラキラ笑顔で打ち返される。嫌味が嫌味として機能せず、それどころか自分の内面にあるドブのようなカスさだけが綺麗に精製されて浮き彫りになる。どこかの誰かさんと同じく、他人の悪意に対する解像度が致命的に低い。話してみればみるだけそれを実感する。一般家庭の出だと聞いたので少し納得した。
直哉がよく喋る同年代の男の中で一番純粋で素直なのは蘭太だが、あれは結局禪院の人間だ。穏やかに見えて根本的にきついし、あの家の基準で見れば明るい光属性の癒やし枠だが──外の基準だと、まあ普通だと思う。
だが、この灰原雄は違う。
明るい。素直。底抜けの善人。
そして、若干変。
直哉の弟としての勘によれば「明るくて素直で若干変な男が性転換して美少女になる」というシチュエーションこそ、実の姉がいちばん好むところだ。隣でニコニコと無邪気に笑っているこの男は、本当の菜緒葉の悪癖に刺さる素材としての条件を、あまりにも完璧に満たしすぎていた。
しかもあの姉は非常にチョロい。表に出ているときを狙って5回ほど「カワイイ」と言えば落ちるだろうと直哉は踏んでいる。そんな姉をこんな天然のタラシみたいな男と会わせるのは、狂暴な狼の檻へ極上の霜降り肉を放り込むようなものだ。もちろん、狼は呪術への冒涜としか思えない狂った術式反転を振り回す女の方である。
「なあ雄くん。好きな女の子のタイプとか、あったりするん?」
探りを入れようと、直哉はなるべく気負わない風を装って尋ねた。
「いっぱい食べる子が好きかな!!」
ド直球かつ一切の裏がない無垢な答えが返ってきた。大して仲良くもない男同士が車内で交わすにはいささかプライベートに踏み入りすぎた質問だったはずなのに、灰原の眩しすぎる笑顔には一点の曇りもない。
直哉は今の姉の旺盛な食生活を思い浮かべた。呪力を4分の1まで落とした姉は、リハビリと称して呪霊を捌いては食べている。それ以外の普通の食事だって、お嬢様らしい上品な所作の癖に、美味そうに、嬉しそうに、女の割にはかなりガッツリと平らげるのだ。
──『いっぱい食べる子』。
ビンゴどころの騒ぎではない。満点超えのドンピシャだった。
念のため、もうひとつ確かめておくことにした。
「……ほな、ちょっと変わった趣味の子はどう?」
「趣味は人それぞれだよね! 好きなものがある子って、素敵だと思う!」
完璧な回答だった。満点の答案の余白に、頼んでもいない加点要素までびっしり書き込まれて戻ってきた。
「……雄くん。君、菜緒葉ちゃんと会うのは未来永劫禁止!!」
「急に何??!!」
灰原は目を丸くして、本気で心底不思議そうに首を傾げた。その一点の曇りもない真っ直ぐな瞳に、直哉は苦虫を100匹くらい噛み潰したような気分になる。
「だから、うちの菜緒葉ちゃんと会うんは禁止や! 連絡先かて教えへんし、来年の交流会でも絶対喋らんといて」
「えぇーっ! なんで急に!? さっきまですごく盛り上がってたのに!?」
「君のためや」
何を言っても「???」という顔でキラキラとした純粋さを振りまいてくる灰原に、直哉の胃のあたりがキリキリと痛み始める。
計算ずくのタラシなら叩き潰し甲斐もあるが、無自覚の天然素材ほどタチの悪いものはない。姉たちがこういう無害で素直な犬みたいな男に「カワイイですわねぇ」と目を細める光景が目に見えるようだった。
そんな事態になるのを直哉がおめおめと眺めていようものなら、ただでさえ直哉に着拒をかましてきている蘭太が、今度こそ「向こう100年は金輪際話しかけてこないでください」と冷たい目で絶交宣言を叩きつけてくるのは目に見えている。
直哉はシートに深々と体を預け、ため息を吐いた。
「まあええわ。とりあえず雄くん、メアド教えて」
「あ、うん! 喜んで!」
灰原は理由も深く追及せず、嬉々として赤外線通信の画面を開いた。
──直哉が灰原の連絡先を入手したかった理由は単純だ。京都校には男の同級生がいないので、この辺りで「俺も同級生のお友達ができたで!」と姉たちに自慢する材料を手に入れたかったのだ。
「よしっ、登録完了や。……あ、言っとくけど菜緒葉ちゃんの連絡先は絶対教えへんからな」
「うん! さっき聞いた!」
一切の不満も持たずにニコニコと頷く灰原に、直哉は「ほんまにやりづらい奴……」と心中で吐き捨てた。
京都校の寮に帰着したのは9時近くなってからだった。自室のドアを締め切り、一息ついた直哉はソファに倒れ込んだ。車内で泥のように眠ったはずなのに、頭の奥には重い疲労感がこびりついている。
だが、新しい知り合いができた。メールアドレスまで交換した。だから別に着拒をされたからと言って、1ミリも効いていないのだ。ムカつく野郎に「俺にも東京校に新しいダチができたし、着拒とか1ミリも効いてへんで」とマウントを取ってやろうと、直哉はウキウキした手つきで発信ボタンを押した。
次の瞬間、無情な機械音声が流れてきた。
『お客様のご希望によりおつなぎできません』
この気取った機械音声のいう「お客様」とは、言うまでもなく禪院蘭太のことである。
しくじった。
あと1週間はかけてくるなと無情に突っぱねられていたのをあまりの全能感にすっかり失念し、反射で電話をかけてしまっていた。
まあいい。
直哉は即座に思考を切り替えた。
本命は最初から姉だ。
躊躇なく通話ボタンを押すと呼び出し音が7回鳴り、出ないかと思った8回目でようやく繋がった。
『……直哉?』
出たのは光属性の方の姉だった。 同じ喉、同じ声帯から発せられる声であっても第一声を聞けば直哉にはどちらの人格が表に出ているかが判別できる。理屈ではない。姉弟とはそういうものだ。
「まだ新幹線? もう実家着いたかと思たわ。ちっちゃい子らはどうしたん?」
『新幹線の座席でぐっすり寝てますわ。真希ちゃんなんてテーマパークで買ったネズミの耳をつけたまま……ふふ、可愛らしいですわよ』
「あっそう。別にどうでもええけど」
電話口からは、ガタゴトという連続的な走行音とともに名古屋への到着が近いことを告げるくぐもった車内アナウンスが漏れ聞こえてきている。
「ところで姉さん。俺な」
『ええ』
「なんと、同級生の子とメールアドレスを交換してん」
姉は黙った。走行音だけが続いた。直哉は電波が悪くなったのかと思って画面を確かめ、また耳に当てた。
『……えっ』
「えっ、て何や」
『ほ、本当に? お金を渡して無理やり買ったりしてませんわよね?』
「渡すかい!! 俺を何やと思てんねん!」
直哉が言い返すより早く、声の高さが半音上がった。
『ねえねえどなた? どなたですの?』
もう片方の姉だ。
人格交代の時に姉たちは基本的には一切の断りを入れない。
「……東京校の同学年の奴」
『お名前は?』
「言わん」
『あら、どうして?』
「個人情報や」
『お友達ができたと自慢しておいて、お名前は個人情報ですの……?』
その通りだったので直哉は黙った。菜緒葉は黙らなかった。
『東京校の1年生って、確か2人だけでしたわよね?』
「……」
『じゃあ、そのどちらかなんですのね♡』
「チッ、バレたか」
『あっ、ひょっとして、お友達取られると思って心配してナイショにしてるの? 直哉って本当にバカでお子ちゃまですわねー!』
「はぁ? 誰がバカでお子ちゃまや!」
『もう、怒らないでよ。……安心して、取りませんから』
甘やかすような声で菜緒葉は言った。癪で仕方がなかったが、都合のいい勘違いだ。直哉は黙っておくことに決めた。
『あとね。次の週末、お家に帰って来てくれます? お土産を渡したいのと、相談がありますの。真希ちゃんと真依ちゃんのことで』
「別に電話でええやん」
『電話ではちょっとねぇ』
姉はそれ以上言わなかった。
言わなかったことの方が、言葉よりも多くを伝えてきた。
「……土曜の晩でええ?」
『ええ。ありがとう、直哉。……じゃあまたね。おやすみなさい』
走行音が近くなり、くぐもった車内アナウンスが名古屋に着くと告げた。ドアの開く音がするとともに、通話が切れた。
真希と真依のこと。電話では言えないこと。
思い当たることはあった。
双子は呪力を分け合って生まれる。
障子越しにそう聞かされて育った。
直哉が強いのは、菜緒葉が出涸らしだからだ。直哉は小さい頃、そう解釈していた。それを姉からの贈り物だと思っていた。今では後悔している。だから双子の呪術的な仕組みにはかなり興味があったし、天与呪縛の仕組みにも、別の理由で興味があった。
姉たちがその真相に、ずっと気づかないでくれればいいと思っていたのだけれども──。
◇
土曜日。蓋いっぱいにパンダの顔が正面から印刷された菓子の缶を渡してきながら、菜緒葉の話は想像通りの方向へと進んで行った。
もうすぐ真依の修行について扇に相談することになるので方針を練りたい。残酷な呪術の仕組みの中で、その仕組みを上手いこと扇に対しては誤魔化しつつ、双子両方を程よく育てるいい方法はないか。一緒に考えて欲しい──と。菜緒葉は気合の入ったパワポの資料まで出してきた。
表紙には無駄に凝った飾り文字で『真希ちゃん真依ちゃんすくすく育成計画♡』とあった。四隅でクローバーが揺れるアニメーションまで付いていて、直哉は開始3秒で嫌になった。
1ページ目に載っていたのは、真依の要望に合わせて肉弾戦厳禁などの縛りを結ばせ、呪具構築による後方支援に特化した術師として育てるよう扇に指示する案だった。教育方針には3ヶ月に一度、監査を入れる。真希については、将来の改革の進み具合と本人の希望次第。真依が努力を続ける限り、姉妹で一対の術師としての未来はそれなりに開ける──と、図解まで添えてあった。
直哉は黙って次のスライドに進んだ。
2ページ目は、扇夫婦の離婚を手伝い、親権を妻側に渡す案だった。娘たちは将来東京の高専へ進ませ、入学後は姉妹それぞれが好きな道を選べばいい。呪術師でなく、補助監督を目指す生徒もそれなりにいる。スライドの隅には「おじさま以外の家族はみんな幸せ!」と、花の飾りに囲まれた一文があった。
花で囲むところではない。
3ページ目は、すべてを割り切って真希と真依の両方に呪霊食を大量投与する案だった。真希の天与呪縛はさして弱まらないまま呪力と術式だけが上乗せされ、使える呪力が増えた真依の方もやる気を出す──ことを、神に祈る。そうすれば双方そこそこ優秀に育ち、扇の教育は自然とやる気と見込みのある方へ偏るから、精神的負荷は最小限で済む、らしい。
計画の要が神頼みだった。
最後のスライドには『ご清聴ありがとうございました』とあり、どこから拾ってきたのか、笹を齧るパンダのイラストが添えてあった。
作ったのは間違いなく本物の菜緒葉の方だ。本物はデザインに凝り、要らない装飾を施したがる。しかし重要なのはあくまで内容だ。どの案も最終的には誰かしらに恨まれ、菜緒葉に負荷がかかりそうなので、直哉からすると嫌だった。放っておけばいいのに。放っておけば扇一家の自己責任で終わる。
提案の主導者はどうやら菜緒葉のようだが、どちらか片方を選ぶという発想は、どちらの姉の頭にもないようだった。
「八方よしのいい方法とかないやろ。手を引けや。子供の育て方決めるんは親か当主で、従姉のやることちゃう。叔父さん言うとったんやろ、他人の家の教育方針に口出すな、って。珍しくド正論やわ」
直哉は缶を膝の上で転がしながら言った。ついでに言えば、扇のやり方そのものが間違っているとも、直哉は今でも思っていない。術式があるなら鍛える。泣いたくらいでやめさせない。直哉自身がそうやって育ったし、それで今ここにいる。
「わかってますわ。でも、ここだけの話、私は扇のおじさまと縛りを結んでいます」
「はぁ、縛りってなんのことや菜緒葉ちゃん?」
「妻子への暴力禁止と、私の方針に従ってもう邪魔をしないこと。……そう言えば、言ってませんでしたわね」
「言っとらんことばっかりやね」
「ごめんなさい」
菜緒葉はそこまで申し訳ないと思っていなさげな顔をした。
「あとはおばさまとの関係のこともあります。私には責任があるんだから、一度出した手を引っ込める訳には行かないんです」
「それは、まあせやね」
「そもそも私が今口を出すのをやめたら、おじさまは止まらなくなるでしょう。それで真依ちゃんが大成しなければ、恥をかくのはおじさまですのよ。あの人が恥をかかされたら、どうなるか。……あなたならわかるでしょう?」
わかる。扇が当主の座に届かなかった怨念をこの家の隅々にまでばら撒いて歩いてきたのを直哉は物心ついた時から見ている。あの男が自分から賭けて負けた札を、黙って手放すとは思えなかった。
そして恥をかかされた扇がその恥をどこへ持っていくかも、だいたい見当がつく。いちばん言い返してこない相手のところだ。それに当たるのが誰なのかは、考えるまでもなかった。
「……ほな、叔父さんが死ぬまで一生見張っとくか? 叔父さんに茶ぁ淹れさせられながら」
「そうなるかもしれませんわねぇ」
「アホちゃうの?」
真依が大成しようがしまいが、ああいうタイプは長生きしそうだ。想像するだけでげんなりしてきた。
本物が引っ込み、もう1人の姉が説き伏せる調子で言ってくる。
「真希ちゃんと真依ちゃんを今のままにしておくほうが将来まずいかもしれませんのよ」
「なんで?」
「それは……言えませんが……」
姉たちと会話していると必ず突き当たる壁がある。壁の向こうにあるのは、菜緒葉が昔、自分の頭を壊してまで見た『予測』の中身だ。そこに何が映っていたのかを、直哉はほぼ知らない。知っているのは、そこでの自分がとんでもないカスだということくらいか。
将来まずいというのが真希の方の話なのか真依の方の話なのか、それとも家全体の話なのかは直哉にはわからない。わからないまま、わからない方が悪いような顔をされる。
この話をこれ以上掘り下げても仕方ないので、別の方から行くことにした。
「そもそも姉さん、前に俺に何て言うた?」
「……何の話ですの?」
「立場かさにきた弱い者いじめはやめろって言うたやろ。蘭太くん、可哀想やねぇ。大事な妹をいじめた子を、大好きな姉さんが本調子でもないのに無理して庇いに行くなんて」
蘭太の妹のことなんて本当はどうでもいい。使える材料だったから、使っているだけだ。しかし姉は即答した。
「いじめだなんて流石に言い過ぎですわ。きっと子供どうしの喧嘩のはずみで、父親の口真似でもしただけですわよ」
その弁護はたぶん外れていない。けれども甘やかすようなその響きが、絶妙に直哉の神経を逆撫でした。
「ほーん。俺には親のせいとか環境のせいとかひとことも言ってくれへんかったね。別に言って欲しかった訳やないけど」
──しまった。滅茶苦茶言って欲しそうな言い方になってしまった。
しかも正確には、一切言われたことがない訳でもなかった。性格の悪さを責めるような文脈で、だけれども。
けれどもこちらは男だし、姉に庇って欲しがるようなそぶりを示していると誤解されたらどう考えても格好が悪い。
姉は一拍黙った。
そして、直哉の醜態を見なかったことにしようと決めたようだった。
「ところでね、真依ちゃんの教育方針のことで最近は夫婦喧嘩も酷いみたいなんですの。両親の不仲は子供の教育にものすごく悪いんですのよ! そういう研究があるってネットで見ましたわ!」
テンション高く話題転換してくる姉の言葉に、直哉はまたもや呆れた。
「そんなん元々やろ」
「ぐっ……」
「でも離婚はハードル高いし、結局現状維持しかないんちゃうの。そのうち落ち着くわ」
母親がひとりで出て行くことはできても、娘ふたりを連れて出るのは難しい。直哉にわかる程度のことは、本人にはとうにわかっているだろう。わかっているから、あの女は扇から逃げずにいるのだ。
しかし本物の姉がまた出てきてあっさり言った。
「おばさまに離婚の相談をされたら、私は手を貸すつもりでいますけれど……。2ページ目、いちばんいいアイデアだと思ってるの」
「何言うとんの!」
思ったより強い声が出た。
手を貸す、の中身を直哉は考えた。住む場所と弁護士の用意、仕事探しの手伝い、それから扇当人を縛りで動かすくらいか。
しかし父は許さないだろうし、家全体に姉が白眼視されかねない。加えて、双子が将来結婚して、子供や孫から相伝が出たら確実に面倒なことになる。その時直哉が当主だったら、姉に何を言われようが子供は無理やりにでも回収して禪院で育てるからだ。
そもそも、他所の夫婦の揉め事に横から首を突っ込んで感謝された話を直哉は一度も聞いたことがなかった。父の酒の席でこぼれる愚痴の中に、逆の話ならいくらでも転がっている。
「高専生の菜緒葉ちゃんがそんな責任を背負い込める訳ないやろ。素人が腕突っ込んだら双方から恨まれて終わるのが定石やん」
「……」
菜緒葉は黙った。
「双子の方はもっとどうにもならんで」
直哉は言った。
声は、自分で思ったより平坦になった。
一卵性双生児は呪術の上では同一人物としてカウントされる。真希の天与呪縛を完成させる道はひとつしかない。 姉の「双子両方を育てる」という要望は、最終的にはこの仕組みと真正面からぶつかる。
片方が欠けているから、もう片方が強い。直哉は子供の頃、この手の理屈をずいぶんありがたく使った。家の者が姉を出涸らしと呼ぶのは自分が強いからで、姉の弱さは自分への贈り物だ。そう思って姉を3歩後ろに置いた。
子供の頃の直哉が都合よく受け取った理屈を、途中で止めずに最後まで押していくと、ああいう形になる。自分の手にした解釈の行き止まりを、直哉は真希と真依の仕組みの中に見ている。 見ているから、姉たちには気づかないでいて欲しかったのだ。
姉は否定しなかった。その上で何かいい方法がないかと先に気づいていそうな直哉のところにきたのだろう。思いついていたら、とっくに報告しているのに。
「姉さんも言うてなかった? 少数派の女は完璧やないとあかんて。真依ちゃんは要するに、その逆を家中に見せて回る子やで。そこに姉さんの名前くっつけてどないすんねん」
1970年代のカンターとかいう社会学者がどうのこうのという理論があった気がする。どこで聞いたのかは思い出せない。少なくとも自分で読んだ覚えはない。それなのに、誰かがすぐ耳元で、ひどく楽しそうに喋っていたような気がする。最近、こういうことが増えた。
そこでもう1人の姉の方がまた出てきた。
「完璧な女しか通さないなら、それは私一人で終わりですわ。真依ちゃんみたいな、普通の子が普通に術師でいられなきゃ意味がないの。私は将来女の術師を増やしたい。そうすれば発言権が増えるでしょう?」
「……数増やしたら何とかなる言うんやったら、躯倶留隊はとっくに我が家の頂点や」
この家でいちばん頭数が多いのは躯倶留隊だ。炳の何倍もいる。それでも家の方針を決める会議に躯倶留隊の誰かが呼ばれるのを、直哉は見たことがない。
「そもそも家の連中は、姉さんが真依ちゃんらにやっとることを単なる女の世話焼きや思っとるで。ほんで、うまいこといかんかった時の責任だけ姉さんに来る」
「……うまくやりますわよ」
姉は大抵、本当にうまくやる。無茶を言って、普通でないことを考えて、最後には何だかんだで帳尻を合わせる。直哉はそれを何年も横で見てきた。だから余計に腹が立った。上手くやれるからこそ、失敗時のリスクを軽視しているように見える。
「でも、うまくいかなかったら菜緒葉ちゃんまで困るんやけど。その体、姉さん1人の体やないで」
直哉は姉の顔を見た。正確には、その顔の奥で今は黙っている方を。
「そもそもマドンナを演じるだのなんだの姉さんがほざいてるのが、俺は何年も前から気に入らんかったんや。だって考えてもみ? 姉さん以外に再現不能やろ。菜緒葉ちゃんにも無理。真依ちゃんらはもっと無理。それはそれで後進に迷惑や」
直哉はそれをずっと前から言いたかった。言えば姉が困った顔をするのがわかっていたので、言わずにきた。両方とも大切な家族なのに、片方を邪魔がっていると勘違いされてしまうのは困る。けれどもそろそろ我慢の限界だった。いい子ぶってあちこちに手を伸ばして、これ以上弱られては堪らない。
しかし、そう言うと──
「なら、相伝で恵まれてるあなたが代案を教えなさいよ」
本物の菜緒葉が怒り出した。
直哉が彼女より恵まれていたのは事実だ。だからこう言えば直哉は言い返さなくなるということを、菜緒葉は経験則から知っていて使っている。
けれども今日は退きたくない。そもそも、わざわざこういう時に盾になりにくる菜緒葉の習性が気に入らないし、言い方も性格が悪い。
直哉はお土産の缶を座卓に置いた。思ったより大きな音がした。
「そんなこと言ってもどないせいっちゅうねん。結局菜緒葉ちゃんにとっての俺は、真希ちゃんにとっての真依ちゃんなんやろ。何年もずっと冷たかったもんな」
今言うことではないとわかっていたが、止まらなかった。
何年もとは言ったが、直哉の中で数えているのはそのうちの2年ほどだ。
菜緒葉が殆ど口をきいてくれなくなったのはもっと前からだった。そちらはいい。自分が悪かったことは知っているし、この前、一応の片がついた。
しかし残りの2年は駄目だ。
菜緒葉がその時思い出した『予測』の中で自分が何を疑われたのかについて多少の見当はつく。でも、自分自身がした訳でもないことで、2年だ。直哉はその子と目を合わせることすら避けたが、そうしたらそうしたで叱られた。だからずっと真依が憎かった。
そうやって遠ざかっている間に菜緒葉はどんどん強くなった。
真希が強くなるために妹が邪魔者なのと同じように、菜緒葉の人生には弟が邪魔だった訳だ。
だから直哉の話を無視して他所の双子なんかを構う。
「そんなことないもん」
菜緒葉が言った。 追い詰められるとすぐそういう子供っぽいことを言い出すが、それで済むなら直哉のこれまでの2年は何だったのか。
「何言うとんの、置いてったくせに」
冷たく答えると、菜緒葉が急に泣き始めた。
すぐ泣いてこちらを悪役にするのはシンプルにやめて欲しかった。泣かれた時点で、この部屋で悪いのは直哉ということになる。言ったことが本当かどうかは、その瞬間から誰も気にしなくなる。泣かれるたびに直哉は最終的には謝ってきた。今日は謝る気にならなかった。何を謝ればいいのかがわからなかったからだ。
もう1人の姉はたぶん菜緒葉の肩を持つだろう。あの人は昔から、ぱっと見可哀想っぽく見える方の味方をしたがるのだ。
直哉は手元の缶を見ていた。蓋のパンダは相変わらず正面を向いていた。
しばらくして、しゃくり上げる音が途切れた。菜緒葉が指の背で目元を拭った。拭い方がさっきまでと違っていた。
「明日話しましょう。今日はもう無理ですわ」
菜緒葉が言った。直哉は答えなかった。
それでも明日になれば、姉たちはまた同じ顔で同じ話を始めるだろう。直哉はたぶん、また手を引けと言う。そして姉たちはまた引かない。
(上)(下)で終わる予定が思ったより伸びました。
(下)の投稿はあさって予定です!