音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
姉の顔をした10歳ほど年上の女が、紫色の触手のようなものに巻き取られて吊られている。白い拘束衣は袖を胴の前で交差させて、そのうえから胸、腹、腿と虚空から生えたそれが巻きついていた。爪先は肉でできた地面から指1本ぶん浮いている。その光景は悪趣味という形容では足りない。
縛り上げたのは直哉自身で、その手際に不満はない。
それでも化け物が姉と同じ顔をしているという事実には冒涜という語が頭を掠め、それが直哉をいっそう苛立たせた。そんな大仰な言葉を持ち出すこと自体、相手の思惑に一枚噛んでしまったような気がしたからである。
女が中々顔を上げないので、触手を指で弾いた。すると女はやっと顔を上げ、青ざめた顔でへらっと笑う。姉に少しも似ていないその下品な表情に直哉は少しほっとしてから、ほっとした自分に内心舌打ちした。
《君のお姉さん、今日泣いてたでしょ。アンテナが電波を拾うみたいに、親機の側から負の感情を強く感じるよ》
女にそう言われると同時に足の下で地面が大きく脈打った。
「勝手に泣いたんや。俺が泣かせたんちゃう」
どくんどくんと脈が速くなっていく。直哉は踵で地面を踏みつけた。脈は渋々、元の速さに戻った。
《うんうん、そうだね。そういうことにしといてあげる》
「そういうことにしとくんやない。そういうことなんや」
《はーい》
間延びした返事を黙殺すると、女は呪力放出で触手を振り解き、軽やかに拘束衣の裾を翻して教壇に上がった。さて、今日はどう嬲って再拘束してやろうかと楽しく考えていると、女は宣言した。
《というわけで、今日は授業の日にします》
「誰が決めたんや」
《先生が》
「先生ちゃう言うとるやろ」
《じゃあ奴隷が決めました。本日は道徳の時間でーす。家賃は毎晩ボコられることで払ってるけど、それも今日が最後になりそうだから聞いてよ》
「ん〜、オマエとうとう消えるん?」
直哉は嬉しくなった。数年前に食べた呪霊の残滓、姉の夢にも出没してはそちらでも奴隷扱いを受けているらしいこの厄介な同居人が、とうとう寿命を迎えて完全に消滅するということだろうか。
なら、話のひとつくらいは聞いてやってもいい。
《前から言ってたじゃないか。俺の存在は親機の具合次第でそのうち消えるって。君を乗っ取るのもきつそうだしねぇ》
「よっしゃー、嘘やったら殺すで」
《嘘ついたら縛りが勝手に罰してくれるから、君の手を煩わせることはないよ。でも、そんなに喜ばないでよ〜、悲しいから》
あまり悲しくもなさそうに真男佳はチョークを浮かせる。白い粉が嫌な音を立てて舞い、黒板の上を走った。そして棒人間が3つ並んだ。左から背の高い順で、いちばん右の1つだけ、ほかの2つの半分くらいしかない。
《で、道徳の時間なんだけど。先生が作ったお話を聞いて、登場人物の気持ちを考えましょう、ってヤツにするね。家庭教師の先生は道徳は教えてくれなかっただろうし、新鮮で楽しいんじゃない?》
「別に。姉さんは道徳の教科書プレゼントしてくれはったことあるもん」
《あっそ。でも続けちゃう。──さて、あるところに3きょうだいがいたとする。上のお兄さんと真ん中のお姉さんは社会常識があるけど、末弟が乱暴者》
女は可笑しげに言う。
「乱暴者って、どのくらいや」
《うーん、気に入らない相手を殴るくらい。あとは生意気な口をきいた相手を泣くまで詰めるとか》
「普通やん」
《はぁ……。君の倫理観についてはまあいいや、続けます。──末弟が恨みを買って背中を刺されて死に、お姉さんには後遺症が残ったとする》
序盤にして登場人物の1人が死に、もう1人が半分死んだような状況になった。急展開だ。
「弟、弱っ」
《えーっ、そこぉ?》
「恨み買うんはしゃーない。買うて殺されるんは弱いからや。姉貴まで巻き込んどるのも含めて、弟がアホやね」
直哉の答えを聞くと、女は黒板に血しぶきを描き足しながら笑った。
《で、お姉さんの後遺症っていうのはね、体の方もだけど、心の方も。弟のお葬式には出られなかったし、墓参りのたびに奇行を始めるし、あとはすぐに泣くとか、自分のことを──》
「そこまで言わんでええわ」
冷たく言い放つと、女は口を閉じ、続きの会話をする許可を待つような顔をする。女中が主人の前でやる待ち方だった。これがまた、心底気に入らなかった。
「いいから、さっさと続きを喋れやカス」
《──犯人はか弱い若い娘で、末弟に暴行されたかもしれないんだ。でも確認できない。で、末弟の行状はいかにもやりそうではある》
「やりそうな顔しとるから、ほなやったんやろって? そんなんで決めとったら、世の中の男は全員ブタ箱行きや」
自分でも思ったより声が尖った。
女は少しだけ目を細めた。
《世の中の男全員ではないと思うけど》
「比喩や比喩」
《はいはい。じゃあ、そこはちゃんと保留にしておこうね。先生、こういうところは厳密にやりたいタイプだから。……で、あっぱれなことに、犯人は弟を殺すと同時に死んでいるんだ》
「死に逃げかい。楽なもんやな。遺族は堪ったもんやないわ」
《うーん、楽だったかは本人にしかわからないけど、遺族についてはそうだね。お姉さんは弟の罪を疑って、自分の傷も自業自得と思ってしまっている》
直哉は鼻で笑おうとして、笑いきれなかった。家族構成は違うが、似たような事例はものすごく聞き覚えがある気がする。
「なんでそうなんねん。弟を疑うのはアリとして、ほんで自分の傷まで自分のせいにしとるんか。意味わからん」
《意味わかんないかぁ》
「わからん。巻き込まれた方が自業自得て、そんな勘定あるか」
《弟も犯人も死んじゃっただろう。だからこの件は、もう誰の口からも確かめられない。どうにもならないことの裁判はね、なくなるんじゃなくて、生き残った人の頭の中に引っ越すんだよ。被告も原告も証人もいない法廷で、残された人がひとりで、毎晩、判決を書き直す。身内の罪を背負い込むのが上手な人っているじゃない。ほら、君のお家にも──》
「……我が家の話は関係ないやろ、続き」
そう凄むと、女は怯えた表情を作って肩をすくめた。それから黒板の、一番左の棒人間にぐるぐると丸をつけた。
《わかったよ。……で、ここで初登場の長兄はね……弟の罪を信じてないんだ》
「お、兄貴まとも!」
《──ただ彼は、弟が犯人にハラスメントを行っていたことと、妹が弟を抑制しようと試みつつも、結局は善意のつもりで犯人の地雷原でタップダンスを踊りまくってたということは知っている》
「おるわぁ、そういう女。やめとき言うてんのに良かれと思て首突っ込んで、双方から恨まれんねん」
《実際に彼女は犯人の手で巻き添えになる前から、罵倒されたりしていたよ。長兄が目撃した弟から犯人への暴言と、犯人から妹への暴言は、シスコンの長兄視点では同レベルの内容だった。長兄からすると、弟の悪事はこれでギリ相殺……。実はここの3きょうだいは大の仲良しなんだよね》
女はそこで言葉を切る。
浮遊していたチョークがひとりでに置かれた。
《この場合長兄が誰が悪いと考えるかな?》
女はニヤニヤと笑いながら直哉の答えを待っている。その背後にある赤い道は濡れたような艶を帯び、深いところで拍動が続いている。
「どっからどう考えても犯人やろ。ひっかけとかあるんか?」
《いや、犯人で正解だけど、一応途中式を聞かせてくれ。答えだけ合ってても、点はあげられないよ》
「……暴行が事実なら弟が死んだのはしゃーなしってことで諦められるかもしれんけど、それでも妹については被害者やん。むしろ弟を止めようとした側なんやろ。しかも兄貴が暴行のことすら信じてへんなら、これはカスとクズの小競り合いに善良な妹が巻き込まれてぶっ壊れた構図や」
女は笑ったまま首を傾げた。
《うーん、80点かな》
「は? どこで20点引かれてんねん」
《長兄はブラコンだから、弟が死んだことにも苦しんでる》
「ろくでなしなのになぁ」
《ろくでなしでも大事な家族だよ。……で、犯人の女は、なんで弟からのハラスメントに遭ってたと思う?》
「知らんけど、犯人の子は性格悪いんやろ。しかも弱い。性格悪い雑魚とか、俺なら一番虐めたくなるタイプやね」
これは本音だった。弱いものいじめを我慢していると、昼間はストレスが溜まって仕方ない。
《うん、長兄もきっとそう思うようになっちゃったんだろうねー。彼の主観においては暴行について無実である弟を殺され、妹もメンタルを病んでる訳だから、介護のうちに弟のやってたハラスメントへの自責も次第に薄れて……あ、そうだ! ここで豆知識。ノルウェーのクリスティって犯罪学者が「理想的な被害者」って言葉を使っててね。世間が素直に同情できる犯罪被害者には条件があるの。弱くて、ちゃんとした用事の最中で、責められるところがなくて、相手は見知らぬ大きくて悪い奴。この条件から外れるほど、人は被害者を被害者として扱いたがらなくなる》
「どうでもええ」
《えーっ、ここからが面白いのに。このお話だとね、犯人の娘は条件からだいたい外れてる。性格が悪くて、恨みがましくて、最後には自分が加害者になった。だから、本当に凄惨な暴行を受けてたとしても、長兄は──》
瞬きひとつ分の間に、鞭のように紫の触手をしならせた。
巻き上げられた女の体は背中から肉と粘膜でできた地面へ叩きつけられ、そこで止まらずに沈む。肉は拒まない。ここにあるもので直哉を拒むものは一つもない。柔らかく窪み、白い拘束衣を半ばまで呑み込んで、何事もなかったように脈を打ち続ける。
《もう、姉弟揃って乱暴なんだから》
女はその場でぐるぐる巻きにされても少しも怖がらなかった。
《で、犯人の娘。お姉さんに辛く当たったでしょ。なんでか気にならない?》
「ならん」
《先生はなるな〜。だから話す。シチュエーションの大枠だけ共通させて、登場人物は一旦入れ替えだ》
女は揶揄うように笑う。水曜日の夢で見慣れたその笑顔を見て──直哉は盛大に顔を顰めた。
「手短に済ませろや」
女はパッと表情を輝かせ、今度は色とりどりのチョークを浮かせて御伽話の一場面のような絵を描き始めた。かなりクオリティが高い。
《むかしむかし、あるところに王様がいました。王様には大量の子供がいて、末に双子の姫がいました。お姉ちゃん姫は「わたしは騎士になる。いずれ騎士団長になって、この国でいちばん偉くなる」と言い出しました。王様は面白がって、騎士団に入れてやりました。ついでに、妹姫もね》
「……その話長なるん?」
《もうちょっと聞いて。……妹姫は騎士になんかなりたくなかった。剣は重くて振れないし、血も怖い。乗馬も下手くそ。騎士団は本来女の人が入らないしきたりだし、双子は姫と言っても末のみそっかすだから、結局雑用扱い。男所帯に突っ込まれたせいで隣の国のカッコイイ王子様との縁談は来なくなるし、他の令嬢からもあれこれ噂され、陰口を叩かれる。綺麗な子だし、本来なら身内や小さい子には優しくて、友達を作れないタイプじゃないんだけど》
真希と真依の話──の気がする。けれども目の前の女から見せられる夢の細部はすぐに忘れてしまうので、確証は持てなかった。
ただ、従妹たちのことは一度も可哀想に思ったことがないが、この寓話は普通に可哀想に思えてくる。
だって姫だし。
なのに戦わされて、普通なら用意されていたはずの王子も友達もいないのだ。
「……これ、王様の気まぐれがあかんかったのやない?」
女はへらへらと首肯した。
《そうかも。で、騎士団には王子様もいました。王子様は強くて意地悪で、訓練場でお姉ちゃん姫を何度も何度も叩きのめしました》
直哉にも兄が何人もいる。仲良くなった兄もいるが、今も不仲な相手は多い。術式がわかる前はいじめられたりもした。直哉は強くなっていじめ返せるようになったが、お姫様には無理だろう。これだから女は──なんて言ったら姉に怒られてしまうけれど、それはそれとして。
「王子が姫しばくってどんな国やねん。滅んだ方がええわ」
直哉の憤慨に、女はくすくすと笑った。
《……でも、妹姫には侍女がいた。お城で10年以上働いてて、持ってる服は、仕事着が2枚。白粉は後輩のプレゼント。手は毎日の水仕事でがさがさ。歳は妹姫の倍近く》
「顔は?」
《美人だよ。でも、肌で15歳に勝つのは無茶》
直哉は夢の中の、水曜日の姉を思い出した。あの女の指先の硬さは、気品さえあるような顔立ちとは完全にミスマッチだった。
《侍女はお料理が上手。王様のお酒の相手も上手。後輩にも慕われてる。それから、夜中に台所に小鬼が出ると、ひとりで箒を持って叩き出してる。騎士を呼ぶまでもない、って》
「ほーん、できる女やね」
《本当は騎士になりたかったんだ。でも女には無理だと思って諦めた。あと、彼女には噂があった。王子様の恋人だっていう噂》
「双子の姉貴しばいとる王子のか? 趣味悪。ぜーったい、権力で無理やりモノにされたとかやろ!」
《あくまで噂だよ。侍女は王様と王子様を本当に大事にしてた。騎士団みたいな栄誉はないけど、お城を掃除して美味しい料理を作るのだって、ちゃんと国のためになる仕事だからね。誇りを持って毎日仕事をしてたんだ》
女は嘲笑するように言った。
まあ、王も王子も直哉がこれまで聞いてきたところによればポンコツだ。誇りを持つ方がアホかもしれない。
《さて。妹姫はこの侍女に対して意地悪でした。侍女はいつもニコニコしていて親切にしてくれたのに、お礼を言ったことは一度もありませんでした。問題。どうして妹姫は、侍女をいびったのでしょう》
「王子の女やからやろ。姉貴いびった男の愛人なんて、復讐一択や」
直哉も姉が同じことをされたらそうする。
《50点。それだけなら王子様に仕返しすればいいでしょ。家族なんだから、スープに下剤入れるとかさ》
「バレたら詰みや。でも侍女の方は男にチクって仕返しするような女ちゃうんやろ。身の程を弁えとるタイプ」
《ピンポーン。でもまだ50点》
女は姉と区別がつかない顔で笑った。
《ヒントをあげよう。……妹姫の鎧はいつもぴかぴかでした。侍女は鎧を軽々と運び、それはそれは丁寧に磨きました。妹姫はその鎧を着て、重たそうに、嫌そうに訓練場へ行きました。──これを聞いたら、妹姫の気持ちがわかる?》
「ああ。その女の方が騎士に向いとるから気に食わんかった訳やね」
《惜しい。厳密には、騎士に向いてる癖におとなしく侍女やってるトコが、最悪だったんじゃないかなぁ》
女は頷いた。点数は言わなかった。
《そして数年後に王様は死んだ。継承争いで妹姫は死にかけて、「滅んじまえこんな国」と思いながらお城に火をつけました。姉姫はお城が焼け落ちるのを自責とともに見守り、妹姫の死体を抱いて、他所の国へ行ったんだってさ。めでたしめでたし》
「ほーん、カスの国やしまあ順当やろ。でも侍女は?」
《重傷》
黒板に描かれた王国が無惨に滅んだ。
「……さっきの話のつながりがよう見えんのやけど」
《すぐにわかる》
直哉は女が拘束されている場所に向けて歩いた。術式は使わせない縛りだが、この女に優しく触るのはゾッとする。気まぐれに足袋越しに踏みつけるか、単に見下ろすつもりだった。
《じゃあ次が最後の問題だ。君が未来予知できる術式の持ち主だとして、人情として、「自分に懐いてくる、将来自分の大事な人を殺すかもしれなかった子」と「自分に懐いてこない、将来自分の大事な人への殺害依頼を出す子」ってどっちが悪く見える?》
また、なんだか全然違う話が出てきた。
「待て。『殺すかもしれなかった』て、なんで過去形やねん」
《人情は時制の区別がそんなに得意じゃないんだ。一度見た未来は、外れたあとでも見たままの顔をしてる》
「殺害依頼ってなんでやねん」
《懐いてこない方の子は弱いんだよ》
「ダッサ。……大事な人は誰や?」
《誰でもいいよ。自由に思い浮かべて》
直哉は誰の顔も思い浮かべなかった。思い浮かべる必要がなかった。目の前に、その顔の大人の形があったからだ。
「懐いてこない方やね。懐いてこないガキなんてただでさえウザいのに、好きな相手を殺されるんなら、俺なら後顧の憂いを断つためにサクッとぶっ殺すわ」
《おーこわ》
女はさして恐ろしくもなさそうに言った。
そして欠伸をしながら付け加える。
《で、この3つの寓話なんだけどね──全部、君の式神の方のお姉さんから見た『予測』の禪院真依に関する話だよ》
直哉は踏みつけてやるつもりで持ち上げかけていた足を女の顔の横に下ろした。自分とは無関係な話だと思って好き放題に答えてきた。それが全部、姉の目から見た話だったらしい。
瞬きをひとつすると闇から降りた紫の触手が女の胴を巻き直し、肉の中から引き抜いた。そのまま目の高さまで女を吊り上げる。
「なんで今それを言うんや」
《最後だから。君を煽って遊んで、自分の手際に酔いしれてみようかと思って》
女は首だけ傾げて笑った。この呪霊が自分から喋りたがるときはろくなことがない。だからいつもは殴るか放っておくかしてきた。今夜それをしなかったのは、コイツが間もなく消えるのだと思って、ものすごく機嫌が良かったからにすぎない。しかしその機嫌の良さは、たった今消えた。
「ほな最後に吐けるもん全部吐け。まずは『予測』の内容から」
軽く首を絞めながら脅してやった。
《……まず、『予測』の中の君のお姉さんは術式の代わりに大量の呪力を持ってるから、母方の都合で生まれてすぐ隠されて、15で女中として禪院に戻って来る。その間一切矯正されずに育った君は、真希ちゃんと真依ちゃんをいじめまくるようになる》
「その辺りはわかっとるから手短でええわ」
直哉は顔色ひとつ変えずに当然の事実を受け流した。昼の自分が我慢していることを全部やめれば、当然そうなる。
《じゃあ一気に飛ばす。2018年に君の叔父さんが、娘2人を殺しにかかる。真依ちゃんは死んで、真希ちゃんの天与呪縛が完成する。強くなった真希ちゃんは家の人間を皆殺しにした》
「あの、夢の中でたまに戦う火傷の女やね」
《そうそう》
「それ、100%扇の叔父さんが悪ない? 自分の娘殺そうとしてヘボっただけやん。他の禪院は巻き込まれ損や」
そう言うと、女は縛られたままへらへら笑った。
《元々いじめっ子の君はともかく、お姉さんの方は可哀想だよねぇ。呪術師にもなれず、お料理してただけなのに》
「……」
《呪力を使わない殺し方をされた君は呪霊になって真希ちゃんに復讐しに行き、真希ちゃんを一度は圧倒する。でも、呪力ゼロの真希ちゃんが自分の領域には引っかからないことに気づかないまま、背中を刺されて死ぬ。呪霊としての生は2日。いやー、短い生涯だったね……》
「なに完全フィジギフ相手に領域展開して背後取られとんの。ポンコツすぎるやろ」
弟、弱っ。さっき自分でそう言った台詞が、そのまま自分に返ってきた。
儚い存在にも程がある。
「で、そこでの真依ちゃんと女中の菜緒葉ちゃんの相性が最悪やった訳やね。それはわかるんやけど、どうして真依ちゃんが叔父さん以上に、姉さんに恨まれなアカンねん」
《そりゃ、式神の方のお姉さん視点だとその盤面は見え見えで、余裕で回避可能だったからだろうなぁ。治安の悪いスラムにろくな武装もせずに踏み込んで、案の定現地住民に絡まれるバカ。理想の正反対な被害者。なのにスラムを改善しようとしていた活動家の姉に「あいつら全員ぶっ殺して」と泣きつく人間……当然ムカつくだろ》
女はかなり悪意に満ちた言い方をした。
スラム=禪院家。現地住民=扇。
詳しく追及しようかと思ったが、やめた。
《まあ、実際には真依ちゃんにも、危険を覚悟で実家に戻らなくちゃいけない事情があった可能性は高い。だけど、そこまで想像してあげる好感度が式神の方のお姉さんにはなかったんだ。君の本当のお姉さんや、君のことの方が何十倍も大事だから》
「……とか言って、本当は姉さんを誘導してたんやないやろな」
《ごめん、実は2年前からしてました……》
直哉は大人の姉の顔をした怪物を蹴り飛ばした。吊った状態のまま蹴飛ばしたらなんだかいかがわしい雰囲気になった。気持ち悪いと。
「じゃあ、真依ちゃん関連のカスな仕込みを全部話して貰おか」
《話す話す! たしか、黒沐死を倒した日だったかなぁ。俺は君の本物のお姉さんに、真依ちゃんに関する『予測』を優先的に漏らすことを決心した!》
「……は?」
思ったよりも根の深い話が出てきた。姉がゴキブリの特級呪霊を調理して、直哉にも食べさせた日。それは姉が部屋に来て「真依ちゃんにはなるべく近づかないで」と言った日だ。
《知っての通り、お姉さんたちのお腹の中には俺の本体がいる。そして『予測』のフィルムは俺もアクセスし放題。彼女が心を守るために封じていたフィルムのどれを優先的に漏出させるかは、俺が選べたんだ。君も毎晩見てる悪夢はその断片だよ》
「俺が従妹を至近距離で泣かせてるトコとかをか?」
血の気が引くどころの話ではなかった。
目の前の女は、直哉を陥れるための嘘をつけない。そういう縛りにしたのは直哉自身だ。だから、聞いたことは聞いたまま受け取るしかない。
《アレは最初に流したよ〜。ちなみに『予測』は全年齢仕様だから、大人の君がシロであることの証明はこの俺ですら不可能なんだなぁ。でもクロだったら、姉視点では無理心中を考えるレベルじゃない?》
無理心中という選択肢と比べれば、無視や厳しい物言いは穏当だ。それはそれとして、菜緒葉は世を憂い、男のいない世界を夢見てしまっている訳だが──その一因はこれなのでは?
「いや、今の俺に言われても知らんのやけど……要は菜緒葉ちゃんは、『未来の真依ちゃんに必死に優しくしてるのにこんなに意地悪されてたってことは、直哉は有罪だったんですのね!』と勝手に病んどった訳やね」
知るかカスとしか言いようがない一方で、10年くらい前に姉たちが友人を亡くした経緯を考えると、理解はできた。
《そうそう。でも『予測』の管理権は本物のお姉さんの方にあるから、式神のお姉さんの方にはストレスフルな内容ほど流れてこない。逆に俺の想定では、あの式神の方は、現実で真依ちゃんに嫌われてることをもっと早く自覚するはずだった。追加で個人的には、真依ちゃんが真希ちゃんのレベル上限解放用の素材であることを君がバラすよう、狙って誘導してもいたんだけど……》
「あの姉さんがたかがガキに嫌われとる程度でイラつくようになるか?」
女は満面の笑みを浮かべた。
《うん、普段なら絶対イラつかないね〜。でも──君と本物のお姉さんが大喧嘩してる最中に本物のお姉さんが死んじゃって、その後に式神の方のお姉さんが、禪院真依に関する疑惑が姉弟喧嘩の原因だと気づいちゃったのなら、どうかなぁ?》
それは本当に起きかけたことだった。
交流会の開始直前、直哉は菜緒葉と大きめの姉弟喧嘩をした。その数分後に菜緒葉は縛りで自己犠牲をしかけて──縛りの穴のおかげで帰って来た。菜緒葉を追い詰めたのは五条悟だが、縛りを結んだのは菜緒葉本人で、連れ戻せたのは概ね五条悟のおかげ。おまけに五条は2人の姉を見分けて友達になってくれそうな数少ない存在なので、直哉としては怒りづらかった。結局1発殴っただけだ。
この縛りについて直哉が知った当時、菜緒葉の方は当時昏睡状態だった。そのせいでそういえば、無謀を叱り損ねている。
「悟くんの件で菜緒葉ちゃんが消えることを狙ってたんやね」
《正解。そしてその場合、そこでの式神の方のお姉さんは『予測』の全てを1人で見る。何を感じるかは……簡単に想像できるだろ》
「カスが」
《呪霊にそれは褒め言葉だよ!》
女は未だかつてないほど楽しそうな顔をした。
「結局何もかもオマエのせいか」
《いや、俺は君らの奴隷状態で、許可されない限りは術式をほぼ使えない。単に情報開示の順番を都合よくいじっただけ。結局君らの自己責任じゃない?》
殴ろうとして、その声の柔らかさに、直哉は一瞬拳の行き場がわからなくなった。それでも殴った。大人になった姉の顔を潰しただけで終わった。すぐに復元できるだろうに、相手はわざとして来なかった。
この呪霊は五条悟との戦いの隙をついて姉の体の主導権を握ろうとした。式神の方の姉の精神を揺らし、呪いを搾り取るための材料が、『予測』の中での禪院真依。勿論コイツのことだから、複数のサブプランを走らせていたのかもしれないが──。
「でも、その目論見は失敗やん。姉さんも菜緒葉ちゃんもピンピンしとる。無様やね」
馬鹿にしてやった。
《だねー。でも、お姉さんの中で、大事な人を愛する弟と喧嘩した状態のままで消滅させかけた恐怖は消えない。自分を素で嫌っていた子のために無実の弟を2年疑い、喧嘩し、その直後に消えかけた女の子への同情で手一杯。ちなみに、『予測』でのこの顔をした女の最期の言葉は、真依ちゃんを案じるものだったよ。真希ちゃんは「全部壊して」って妹に頼まれてたから、絶対に痛みを感じないように気遣って、この女を即死させたの。即死じゃなければ、多分生き残れたのに! ……ここは3番目の寓話と一緒だね》
喋る喋る。なんたる減らず口だ、と直哉は思い、途中から思考を無にした。この女の目論見と、姉たちへの仕込みについては十分わかった。問題はその計画がまだ継続しているかどうかだ。慎重な頭脳戦に向いていない自覚はあるが、縛りの分だけ自分の方が有利だ。それをもとに情報を集めよう。
「……で、本来の乗っ取りのプランはどんなんだったん?」
《昏睡3日目以降で乗っ取りが失敗してたら本体側が知性の大部分を失う縛りで自己を極限まで強化して、交流戦1日目の試合終了後からしばらくは禪院菜緒葉の体が昏睡状態になるようセッティング。試合終了前に乗っ取りを始める必要が生じても、1対1かつ重度の精神負荷がかかっている状況なら、現実世界相当でも数時間は稼げる想定だった》
「……」
あの昏睡もコイツのせいか。
《実際はメンタルの回復しかけた2人を相手にするしかなくなったから焦って勝負を仕掛けて、現実の所要時間5分未満のうちに負けて、昏睡が始まる前に俺の本体がダウンしちゃったしたけど》
「あー。もしや、菜緒葉ちゃんが寝とる間に夜の俺を話術で誘導して、姉さんを〈子〉扱いにするつもりやった? 代わりに料理したるとか言って」
《ピンポーン。夜に縛りを結べば、昼間は忘れてるからね》
「で、仕込みはそれで全部か? 吐いとらんこと、まだあるやろ」
吊るされた女の顔は潰れたままだ。その方が都合がいいかもしれない。陥没した肉の渦、その中で口だけが蠢いているうちは、ただの呪霊として処理しておける。完璧な人間の顔を取り戻されたら、そうはいかない。
《あるっちゃあるかな。今日の喧嘩は、本体のごはんにした》
「……他には?」
《あと1つだけ。元気だった頃に仕掛けた仕様が、うまいこと続いてる。真依ちゃん関連の『予測』を再生するときに感じるストレスを、1.1倍にするんだ。片や禪院家壊滅の起爆スイッチへの恐怖、片や情のせいでお姉さんたちは対処の難しい問題から逃げられない。そして2人が事態打開のためにメモリを漁って再生すればするほど、俺の復活は早まる》
姉たちの苦痛の1割は、コイツの仕掛けたカラクリのせいだった。それを知った瞬間、直哉の胸にほんのわずかな救いが芽生えた。しかし次の瞬間。その安易な救済に吐き気を覚える。──全責任が自分にあるわけではないと知って安堵するのは、雑魚のやり方だ。禪院家の当主を通過点として目指している人間のやることではない。
「よし、オマエの既にないも同然やった命は、これで完全にしまいやね」
直哉が瞬きをひとつすると、女の胴を巻き上げていた紫の触手が、吊り下げる形から命を搾り取る締めつけの形へと一斉に変貌した。骨が何本か折れる音がする。
女の声が、初めて無様に裏返った。
《待って! 俺が道徳の授業で挙げた例の3分の2で、君は真依ちゃんを悪役だと判定したよね!?》
「だから何やねん」
《つまり俺は、君の方針をいっさい歪めてない!》
犯人が悪いと切り捨てた。懐いてこない方を殺そうと突っぱねた。どちらも直哉が己の意志で選んだ解答だ。真依への憎悪が全部コイツの仕込みだと言えたなら、笑い飛ばせただろう。しかし、全くそんなことはない。
「……で?」
《俺は今日消える。でも、ここは俺にとって天国だった。君は未来の禪院家の〈父〉だし、呪いとしても俺より格上。この家の他の子たちも呪霊を喰ってるせいかな? 宿儺の指をナマで食ってもギリ生きてそうな異常者が、ちらほら混ざってた。特に恵くん。胤が良かったんだろうね》
恵──甚爾の忘れ形見。呪霊の不浄な口が甚爾について気安く語ったことが、直哉の神経を酷く逆撫でした。
「キショいわ」
《俺から見たら君らの方がキショいよ。だからこそ考えてた。呪いである俺の実存について。そして決めた。俺は、1つになって生まれてくるべきだったモノの欠落を正したい。君自身がそうすべきだったと疑って生きてきたのと全く同じように。だから君が従妹たちを嫌い続けるための理由をあげたかった》
「……」
《……じゃあバイバイ。俺はもう消えるよ》
女の体から呪力が弾け、触手が内側から弾け飛んで解けた。白い裾を翻し、女は傷を癒しながら肉の地面へと降り立つ。地面は柔らかく沈み込み、その足裏を受け止めた。女は教壇の脇をすり抜け、黒板の裏へと回っていく。
「どこ行くねん」
《呪霊が死んで、生まれ変わるための場所。着いてくればわかるんじゃない?》
歪な産道を歩むように女は奥へと去ろうとする。赤い一本道は先へ進むほど狭まりながら、緩やかに下へ向かっていた。遠い闇の奥で、規則正しい脈動が続き、背中の白が、その拍動に合わせるように少しずつ小さくなっていく。
直哉はその背中から目を離せなかった。この女の背中を見るのは、これが初めてだった。夜にここへ来れば、女はいることが当然で、立ち去る姿など一度も見せたことがない。
消えると知った瞬間は胸がすいた。今もその歓喜に嘘はない。
そのはずなのに、背中が遠ざかるにつれ、胃の底に粘り気のある重みが溜まっていく。
黙って立ち去られるのが、猛烈に不快だった。行き先も言わず、こちらの許可も取らず、一瞥すら投げかけない。何をも拒絶する背中だけを見せて、直哉の関知し得ぬ場所へ降りていく。
──消えるのは構わない。だが、去っていくのは許せない。
そのふたつの決定的な違いを、直哉は決して言語化しなかった。言葉にしてしまえば、己がこの惨めな背中に何を固執しているのか、白日の下に晒されてしまうからだ。
「……オマエの知性を俺がなんで保存してたと思とるん? 組み手相手として重宝しとるからや」
《じゃあ……最後の組み手をしようか》
「……ええよ」
己の声が一瞬遅れて響いたのを、直哉は自覚した。
女の袖の拘束が解けると同時に、凝縮された光が膨張する。
半歩体をずらす。耳のすぐ横をすさまじい熱量が通り抜け、黒板の端が削れ飛んで白い粉塵が舞った。
呪力放出──『予測』の菜緒葉とおおむね同等の出力と技術だと前に聞いた。本来の『予測』の菜緒葉は反転術式を光のように放出できるそうだが、これは呪霊の劣化コピーに過ぎない。その光が細く絞られ、不自然な軌道で歪曲する。2発目が足元を這い、足首の直前で跳ね上がる。自分に当たる前に、触手を伸ばして防いだ。
「いっつも思っとるんやけど、それ……なんで曲がるん?」
《ナイショ♡》
姉の似姿の目が、真正面から直哉を射抜く。呪力の光には手加減も逡巡もない。掠めれば本気で防御しないと肉が吹き飛ぶ。吹き飛んでもこの空間でならなんの問題もないが、この形をした女の攻撃を受けるのは屈辱だ。昼間の自分は、呪力効率が悪く黒閃も絶対出ない呪力放出にあまり興味を持っていないのだが、追尾式となれば話は別だ。
この光が欲しい。
届かない距離を穿つもの。速さしか持たぬ自分の手にはないもの。姉のように己の呪力操作を極限まで磨き上げれば、いつか撃てるかもしれない技術。模倣できればかなり大きな武器になる。これを覚えたくて手加減を続けてきたが、結局最後まで仕組みがわからなかった。
──それなのに、これを使える女は呪術師にならなかったし、そのことに大満足していた最低な男がいるらしい。
3発目は曲がらず、直線的に迫った。初速だけが速く、避けるのは難しくない。女が一歩を踏み出し、袖の先が今までで最も濃厚な輝きを解き放つ。4発目は術式を使って避け、5発目は呪力による身体強化で耐える。
この女に体術と結界術を真面目に仕込めばすぐ1級に化けるだろう。
そういう女は、おそらく今の禪院家の女中にもあと数人はいる。現在『炳』の人数は20人──身体能力や体格、呪霊の摂取有無による不利を考慮すれば、男の3分の1くらいの人数の女は、最終的には同じ場所へと辿り着く。直哉が女に生まれていたとしたら同じ立場だっただろうし、母親に至ってはその地位を自ら手放す落伍者だった。
こんな程度の強さでは足りない。その足りなさが心底侘しかった。そして、いくら天性の才能があろうと、結界術の心得がないこの女では直哉には絶対勝てない。ここは、直哉の生得領域なのだから。
この世界の中心には、内部に存在するすべてを片時も逃さず見つめる巨大な眼球が存在する。ここに留まるということは、その絶対的な視線に晒され続けることだ。この女は最初から直哉の視界の中にいるのだから、手加減を捨てれば、再び肉片へと還元される。
ただ、見つめるだけでいい。
1秒を24のコマに刻む。自分自身がその制約でどう動くのかを細胞単位で思い描けなければ、女の体は崩れる。
空間を照らす金色の光が強まり、1秒後。
足元に散らばった残骸を見下ろし、直哉は長く重い息を吐き出した。
いつもなら、砕けた肉が勝手に引き寄せ合い、元の形へ戻るのを待つ。戻れば教壇の脇に吊るす。そうやって何ヶ月も無意味な夜を重ねてきた。手加減し続けていたのは、この夜が潰れるのを惜しんでいたからなのだと、今になって嫌というほど理解できた。
《……ひどいなぁ。最後なのに》
潰れた肉の塊の中で、口だけがひとつの形を維持していた。
「最後やから、や」
待てばこの女は再び歩き出す。狭まる道の先へ。それは本体のもとかもしれない。溜め込んだ呪力も、抱え込んだメモリも、すべて姉たちの胎の中へ持ち帰るのかもしれない。
それも理由のひとつだ。
だが、最も根底にある動機はもっと惨めで単純なものだった。この顔が自分の関与できない場所へ去ってしまうのは嫌だ。
それなら外へ出さなければいい。出口の直前で、すべてこちら側へ引き戻せばいいのだ。
「子を産むかどうかを決めるのは、結局親やからねぇ」
《……親?》
「ここ、俺の中やろ」
外の世界へ出るか否かを決める権限は、子にはない。
口の周囲に肉が蠢き、寄り集まり始めた。頬が形成され、顎ができ、首と肩が脈打つ。肉の地面がそれを受け止め、腰から下を呑み込んだまま離さない。拘束衣まで完璧に復元された姉の顔をした女が、仰向けに直哉を見上げた。
見つめ返され、直哉は思わず目を逸らしそうになった。逸らしそうになった自分に気づき、意地でも視線を固定した。
《……じゃあ、最後にひとつだけ。実はね、子機の俺だけで保管してた『予測』のメモリがいくつかあってさ。ここ数日は1回限りの再生の縛りで、君の精神に直接撃ち込んで遊んでたんだけど……俺を完全に取り込むと……一番デカいのが来るよ》
「脅しのつもりか?」
この呪霊の残滓が中々溶け切らなかったのは、抱える呪いの深さゆえだ。最近の夢が削り取られた呪いの過小な断片だったのだとすれば、本命の記憶はまだこの女の奥底に残っている。
《親切のつもりだよ。だって、俺に怒ってそこまでするような価値……あの双子にあると思う?》
あるわけがない。即座にそう思考してから、あまりの即答ぶりに苦笑が漏れそうになった。
「甚爾くんは……2人もいらんねん」
《うん?》
「甚爾くんとおんなじになった女を、俺がどう思うかも分からんしな」
《真希ちゃんのこと?》
「真希ちゃんに強くなられたら、俺は、甚爾くんを虐めてた連中と同類になってまうもんね。……でも、もうええわ」
甚爾の後ろをついて歩くだけの自分ではなくなった。
自分たち姉弟を信じて、甚爾は恵を託してくれた。
だから十分だ。
《ふーん。伏黒甚爾は、君が縋りついて『五条悟と戦わないで』ってお願いしてたら、死なずに済んだかもしれない人だけどね》
耳元で囁くようなその声を聴いて、直哉は。
直哉は。
——別に、もう何とも思わないことにした。
「どうでもええわ」
《お姉さんたちは、君が伏黒甚爾の勝利に賭けたことを知ったら君を絶対許さないよ》
「それも、どうでもええ」
一度そう思考を固定してしまえば、何度蒸し返されようと思い悩む必要がなくなる。言葉は川底の石を掠める水のように、表面を撫でて脇へ滑り落ちていくだけだ。まあ、嘘だが。しかし嘘をつくのは不得手でもなかった。
甚爾に関する後悔は全部、墓場まで持って行く。
それに、あの男を敗者として終わらせる気もない。
女の体に覆いかぶさるように、膝をつく。膝下が沈み込む肉の柔らかさが、ぬめりを帯びて脚にまとわりつく。
目と鼻の先に姉の顔があった。10歳ほど年上の、水曜日の夜にしか触れられなかった顔。吐息の熱が、直哉の頬を撫でる。
視線を泳がせ、直視を避けるようにして女の手首を掴み上げた。掴み上げてから、自分が逃げた事実に気づいて歯噛みする。
手首は冷たくなかった。この領域のすべては直哉と同じ体温を宿し、触れ合う皮膚の隙間から熱が溶け出してくる。握り締めると、細い指先が直哉の手甲を弱々しく擦った。縋りついてきたのか、ただ振れただけなのか。判別がつかないまま、直哉はその細い手首を離さなかった
《……ねえ、本当にやるの?》
「やる」
《顔、見ないの?》
「見ん」
直哉は女の頸脈へと顔を埋め、柔らかな皮膚にじっくりと歯を立てた。
喉が激しく跳ね上がった。舌の上にヘドロと灰を混ぜ合わせたような濁った味が広がると同時に、溢れ出た粘度の高い熱量が喉奥を滑り落ちていく。感覚よりも早く、腹の底が強烈な拒絶反応を起こした。こんなモノを受け入れるなと、胃の奥が熱く痙攣している。何年も溶かさずに拒み続けてきた呪い。メモリの断片に対する純粋な拒絶反応。
それでも、知らないものがあるとわかれば、覗き込みたくなる。それが己自身に関する記録なら猶更だ。一度覗けば二度と引き返せないと分かっている穴ほど、指を突っ込みたくなるのが人間だ。
喰らわれる女の体が微かに震え、直哉の背中に回された細い指先が、しがみつくように着物の布地を固く掴み寄せる。その抵抗にも似た抱擁の向こうから、極めて巨大で禍々しい何かが、直哉の体内へとドロリと雪崩れ込んでくる気配がした。
双子の片割れを殺し、1つになって生まれてくるべきだった存在の欠落を正す。それがこの呪霊の望みだから、真希と真依の間ではそれを起こしたくない。けれども直哉は、同じ構図をこの場で再現している。
そこまで思考を巡らせて、打ち切った。考えたところで、やることは何ひとつ変わらない。
咽びそうになる呼吸を強引に抑え込み、直哉は相手の温もりも流れてくる重圧も、逃すことなくすべてを腹の奥底へ呑み干した。