音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?!   作:ポ予

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今回必要に迫られてのドブママ捏造があります。
実際、どんな人からあの仕上がりの息子が生まれるんでしょうね…


禪院家のインターネット革命とお母様のクソ雑魚すぎる式神

 目が覚めると、頬に当たる布団の暖かさが現実への帰還を告げていた。時計はまだ深夜2時を指している。深夜だ。網膜にはまだ、夢の中に出て来たラビットハウスの制服姿の菜緒葉ちゃんの残像が焼き付いて離れない。あの高慢で、知的で、そして絶望的にインターネットに毒された美少女は、今も俺の脳内に同居している。

 ……マコくんって何。

 どうして改名させられたし。

 

 ふと横を見ると、布団のすぐ隣で、直哉がぱちりと目を開けてこちらをじっと見つめていた。

 そうだ、昨晩は五条にフラれた(どころか存在を全否定する勢いでキモがられた)俺を直哉が彼なりに慰めに来て、そのまま一緒に寝る羽目になったんだった。

 

「……直哉。乙女の寝顔をじろじろ見るなと、お父様に教わりませんでしたの?」

「やかましいわ。それよりうなされてたで。ちっとも寝れんかったし起こすか迷うとったわ」

 

 うなされていた、というよりは異様な情報を脳に流し込まれていたと言うべきか。

 だが、これはチャンスだ。菜緒葉ちゃんはインターネットを欲しがっている。そして俺は、彼女に言わせれば本物の女の子よりも〈女〉を演じるのが上手いらしい。開き直って、一旦試してみるか。

 俺は伏し目がちに、いかにも「深い傷を負いながらも健気に立ち直ろうとする美少女」のトーンを意識して切り出した。

 

「直哉。私、五条様に『キモい』と言われて……本当に辛くて悲しくて……」

「あんなん気にせんでええ! あいつの目がおかしいだけや! 俺が将来甚爾くんみたいに強なって、あいつのツラ24コマでボコボコにしたるからな!」

 

 直哉なりの気遣い。その単純さが今はありがたい。

 

「ありがとう。でも、私、反省して……今後はもっと外の世界のことを勉強しなくてはいけないと思いましたの。これまでのようにこの家の中だけで生きていたら、またああいう恥をかいてしまうでしょう?」

「外の世界って、何」

「本や、最新の知識や──世の中のこと。もっとちゃんと知りたいんです。それで……お願いがあるの」

 

 一拍、溜めを作る。潤んだ瞳で弟を見つめ、とびきり甘い声を作った。

 

「……『ぱーそなる・こんぴゅーたー』という機械を、お父様におねだりしていただけませんでしょうか?」

 

 まずはパソコンを手に入れる。

 全てはそれからだ。

 

「……ぱーそなる?」

 

 直哉は首を傾げた。無理もない。まだWindows95が発売されて間もない時代だ。この古色蒼然とした禪院の屋敷で、そんな最新鋭のガジェットについて口にする者など一人もいなかっただろう。

 

「箱みたいな機械ですわ。それを使って、私、色んな料理や調理技術のことを調べられるようになりたいの。たとえばこの間、健太郎さんの特別2級昇格祝いで信朗様がくら寿司に連れて行ってくださって、最高にエンターテイメントでしたわ。もしも我が家がくら寿司ランドになったら、最高に楽しいと思いません?」

「はぁ? しょせん安物やろ」

「……あなたはあのクオリティを安価で提供する企業努力に敬意を払うべきですわ。とにかく私、世界中のレシピを調べて、禪院の皆様に還元したいんです。……ダメ、かしら?」

 

 上目遣いで声を震わせる。

 計算ずくだ。禪院家の男たちにとって、女が「料理の腕を上げたい」と願うのは、微笑ましくも無害な向上心にしか映らない。五条にフられてしょんぼりしている娘の慰みに、お父様はPCくらい平気でプレゼントしてくれるだろう。

 しかし俺からお父様に直接頼めば、扇のおじさま辺りが横槍を入れてくる可能性がある。だが、次期当主の直哉が「姉のために」と言えば、それは一気に正当な要求になる。

 

「わかった。俺からパパに言えばええんやろ」

 

 直哉は面倒くさそうに欠伸をして目を閉じた。

 よし、攻略完了だ。

 

 

 

 ──ここまでは菜緒葉ちゃんの将来の音MAD視聴環境のため。だが、実は俺自身にはもう少し大きな目論見があった。

 

 この家の構造は、外から見れば狂っている。

 

 禪院家の術師は『炳』『灯』『躯倶留隊』の三部隊に大別される。

 人数には時期によって変動があるが、特別準一級以上の精鋭集団である『炳』が10人前後。術式持ちの中堅層の『灯』が30人ほど。そして術式を持たない『躯倶留隊』が50人を超える。

 そしてこの家が呪術界で影響力を保てているのは、実は『炳』のエリートだけのおかげじゃない。裾野が広いからだ。大抵の呪術師は2級で頭打ち。対処の必要な案件だって、それくらいまでのレベルの相手が圧倒的に多い。さらに、特級呪霊のような超強敵が出て来た場合でも、まず躯倶留隊や灯を斥候に出して能力を割り出し、その情報をもとに炳が複数人で叩く。エリート達だけで仕事が回っている訳ではないのだ。

 なのに、この家での扱いは術式の有無で決まる。

 術式さえあれば灯の末席でも躯倶留隊の猛者より格上。健太郎のように呪霊料理で底上げされて昇格した人間がいても、「所詮は術式なし」の烙印は消えない。躯倶留隊の面々だって、不満は口にしても「まあ仕方ない」で飲み込んでいるようだ。自分たちが底辺であることを、彼ら自身がある程度は受け入れてしまっているのだ。

 

 女はもちろん術式を持たない男も不幸で、おまけに術式を持つ特権階級の男ですら決して幸福でない。実力主義とは似て非なる、そんな呪いの身分制度がこの家には敷かれている。

 

 術式のある親からは術式のある子が生まれやすい。そして本当に強い呪霊を術式なしで祓うのは難しい。だから優れた術式には価値がある。

 だから術式を持たない人間は究極的には捨て駒──逆に強い術式のある人間はとにかく優遇し、沢山の子供を作らせる。子供を産む性別である女性は前線に出る暇があるならなるべく多くの子を産むべき。

 この家にだって過去に女の術師がいなかった訳ではないのだが、一級術師ですら結婚と同時に引退していた。それが現在、俺(菜緒葉ちゃん)の障壁の一つになっている。

 

 ──非相伝とはいえ、結婚してから長いのに中々子供が生まれない扇のおじさまなんかは、実はかなり悩んでいるだろう。何人も妾がいても怒られない立場であるのに外にも子供がいない時点で、おばさまだけに責任は押し付けられない。将来真希ちゃんと真依ちゃんが誕生することについて俺は音MADで知っているが、俺は今からその時のあの人の反応を想像するだけで恐ろしい。あの双子は、術式判明前の出涸らし菜緒葉ちゃんの比ではない困難にさらされるはずだ。

 

 何百年も最適化されてきたシステムを壊せば、過渡期に重要な術式の血統が途絶えるリスクがある。他の御三家との力関係が崩れるリスクがある。内紛で戦力が削がれるリスクがある。

 だが、現状を維持したってどうせ真希ちゃんが禪院家をデリートするだけだ。俺にとっては、身近な人の幸せが一番大事である。とはいえふわふわした感情論を叫んでも誰もついて来ないから、まずは小さなことから始める。禪院の考えが世界の全部じゃないことを、インターネットを通してみんなにも知ってほしい。

 

 光回線という窓を開けておけば、いつかはそこから新しい風が吹き込んでくるだろう。だからこそその窓は、「女の子のお料理勉強用のおもちゃ」という無害な姿をしていなければならない。誰にもその脅威に気づかれないように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──数週間後。

 禪院家の一角にある俺の自室は、秋葉原のジャンク屋みたいになっていた。青畳の上に鎮座するのは、この時代としては最高峰のスペックを誇るデスクトップPC。図太いブラウン管モニターが放つ電子の光は古びた障子に格子状のデジタルな影を落とし、ハードディスクの駆動音が静謐な屋敷の空気を絶え間なく削り取っている。

 

『……マコくん、これが……これがISDNの力!』

 

 テンションが上がりすぎて意識の表層まで這い出してきた脳内のシン菜緒葉ちゃんが、スタンディングオベーションを送り続けている。呪霊食後の悪夢を除けば、彼女はインターネット関連で朗報があった時か、直哉がこっそり「将来パパをボコして高専へ行くための投射呪法対策」を伝授してくれている時だけ、こうしてノリノリになって喋り出すのだ。

 この子、さては人生の楽しいところだけを味わう気だな。

 23時。俺は「テレホーダイ」の時間を待ちわびる現代の戦士となっていた。菜緒葉ちゃんのボディが最高にタフでとびきりのショートスリーパーなおかげで、夜更かしは楽勝だ。

 まだ2ちゃんねるどころかあめぞう掲示板すら胎動していないこの時代。念願の『美少女に生まれ変わったけど何か質問ある?』スレッドを立てるには少し早すぎた。俺は代わりに前世の事務スキルを総動員してエクセルによる呪具在庫管理表を作成し、大人たちに提案。さらには「パソコンを触ってみたい」と言う家内の男女に、日中時間制で端末を貸し出す「禪院ネットカフェ」の店長まで兼任し始めていた。

 その結果、我が家には緩やかな、しかし決定的な変革の波が押し寄せている。

 甚爾くんが海外の怪しいサイトでオンラインカジノという概念を知って案の定大損した結果、お千代さんがお金を貢ぎ始めたり。

 躯倶留隊の面々が黎明期の求人サイトや掲示板を見て「えっ、俺たちの年収って安すぎ……?」という残酷な客観的事実に気づき、労働組合めいた不穏な連帯が生まれ始めたり。

 誰かが消し忘れた検索履歴に「離婚 財産分与」という、これまでのこの家には絶対にあり得なかった衝撃のワードが残っていたり。

 PCは、確実に禪院の常識を侵食していた。

 

 あとは「禪院ネットカフェ」の収入がいっぱい貯まったところでレコーダー的な機材を買い揃えば、念願の音MADを作るのも夢じゃない。そんなことを考えながらテレホタイムを満喫していると──不意に襖が開いた。

 

「少しいいか」

 

 入ってきたのは甚壱くんだった。その筋骨隆々とした巨躯が部屋に一歩踏み込むだけで、最新のPCが並ぶ空間が急に狭苦しく、暴力的なまでに古風な空気に支配される。甚爾くんのお兄さんだけあって、眼光の鋭さと圧倒的な威圧感にはやはりどこか甚爾くんと通じるものがある。

 

『……マコくん。やはり近くで見ると、甚壱くんは顔がアカンですわ。岩肌に苔がこびりついたような、情緒の欠片もないツラ構えですのよ。甚爾くんと逆やったら良かったのにな〜と直哉が陰口を叩くのも納得の造形ですわね。取り消せよ、今の顔……!』

 

 音MADの語録と偏見に脳を焼かれたシン菜緒葉ちゃんが、全方位に失礼極まりない感想を垂れ流す。俺はその声を必死に精神のゴミ箱へシュートし、ブラウザを閉じて居住まいを正した。

 

「甚壱様。夜分に失礼いたします。私の管理表に、何か不備でもございましたでしょうか?」

 

 俺が恐る恐る尋ねると、甚壱くんは無言でこちらへ歩み寄り、懐から小さな包みを取り出した。

 

「いや。お前が導入したあのお役所仕事めいた管理表だが……意外にも好評でな。皆、無駄な棚卸しが減ったと喜んでいる。……だから、これは、その……任務先で見かけたのでな」

 

 差し出された袋をそっと開けると、俺は思わず息を呑んだ。そこに入っていたのは、透き通った薄紫色のビーズが連なる、少し大人びたデザインのブレスレットだった。無骨な顔をした甚壱くんはその実、こういう不器用で繊細な気遣いをする男だったのか。

 

「菜緒葉、お前は実によくやっている」

 

 ──彼のその言葉には俺の胸は熱くなった。

 

 その低く響く声に、俺の胸は熱くなった。

 この家でも屈指の実力者である甚壱くんが、俺が積み上げてきた成果とその有用性を、真っ向から言葉にして認めてくれたのだ。

 

「ありがとうございます……。私はただ、皆様の負担が少しでも減ればと……」

「謙遜するな。生まれつきの呪力や術式以外にも、人には価値がある。それを、お前は実証的に証明してみせた。躯倶留隊の連中もお前に感謝している。……彼らも、ただの肉壁ではないからな」

 

 甚壱くんはそれだけ言うと、わずかに、本当にわずかにだが口角を上げて俺の肩を軽く叩き、去っていった。その筋骨隆々な──よくみるとカッコいい後ろ姿を見送りながら、俺は確かな手応えを感じていた。

 

 ──この家は、少しずつだけど良くなっているんじゃないか?

 

 甚壱くんは元々、躯倶留隊のみんなへの理解が深い方だった。弟である甚爾くんの悲惨な扱いを間近で見てきたからこそ、彼の中には術式や呪力以外の基準への渇望があったのかもしれない。

 俺が料理を作り、データを管理し、外の世界の風を入れ続ければ──あの真希ちゃんが一族をデリートしなければならなかったような地獄の未来は回避できるはずだ。対話の余地はある。このブレスレットに宿る温もりこそが、その証拠だ。

 

 しかし、シン菜緒葉ちゃんは何故だか冷ややかだった。

 

『マコくん、あなたは甚壱くんをどうしてそんなに「話のわかるおじさま」的に見ていられるのかしら。あなたの世界にいる天才が作ったネタ動画の内容を思い出しなさいな。あのアカン顔をしたアレが禪院の三馬鹿の一人として真希ちゃん真依ちゃんを殺そうとすること、完全に忘れてません?』

「はぁ?アレはネタ動画にする過程で情報が削られてしまっただけで、きっと本当は何か悲惨な行き違いがあっただけさ。だって……俺だけは甚壱くんの隠れた魅力に気づいてるんだから……!」

 

 この反論に対して菜緒葉ちゃんは深々とため息をついた。

 

『あーあ、甚壱くんを前にした殿方は何故か大抵がそんな感じのことを言い出すんですのよね……。キショいですの。ドン引きですの。……でももういいです。せいぜい騙されてメロメロになっていればいいんですわ、最高にかわいくて都合のいい女の子のマコちゃん』

 

 そう言ったきり、彼女は完全に沈黙してしまった。

 クソッ、彼女はどうして甚壱くんに対してそんなにも辛辣なんだ。俺はいいと思うんだけどな、甚壱くん。あんなに強くて偉いのに、わざわざ幼女のためにプレゼント選んでくれたんだよ?

 

「……まあいいや。明日からのときメモの次の攻略対象を決めさせてあげるから機嫌直せってば。どうせ君、清川望あたりが好きなんでしょ?」

 

 まさか伝説の初代『ときめきメモリアル』を実機(しかも禪院家の経費)でプレイする日が来るとは思わなかった。日付が変わったので、寝支度を始める。明日は4時起きだ。大変だけど、やり甲斐は感じる。この平穏が、ISDNの細い回線のようにずっと続いていくものだと、どこかで信じきっていた。

 だが、廊下の方から聞こえてきた激しい足音が、その安寧を切り裂いた。俺は慌てておしとやかなお嬢様モードを取り繕う。

 障子を勢いよく開けたのはお千代さんだった。

 

「……あら、お千代さん。どうなさいましたの? こんな夜更けに。急に帰還された隊員の方へのお夜食作りでしたら、すぐに向かいますわ」

 しかし、彼女の表情はこれまで見たことがないほど切迫していた。

 

「菜緒葉お嬢様……! ご実家に戻られていたお嬢様のお母様が、先ほど危篤との知らせが……!」

 

 ──その言葉を聞いた瞬間、心臓が嫌な跳ね方をした。

 それは俺自身の思考によるものではない。肉体が──禪院菜緒葉という器が、血の繋がりという抗えない呪いに反応して、激しく、痛いほどに脈打っている。

 

「……お父様は、何と?」

 

 なるべく呼吸を落ち着ける。震えそうになる指先を、甚壱くんからもらったばかりのブレスレットの上から強く押さえつける。

 

「ご当主様は今、重要な任務の最中で連絡がつきません。……ですが、あちらのご実家からは『せめて、子供たちの顔を最後に……』と……」

 

 その言葉の重みが、静まり返った部屋にひたすら沈殿していく。

 

 

 

 

 

 

 

 この体に宿ってから、お母様の見舞いには毎週末行っていた。だからそろそろ危ないとはわかっていた。菜緒葉ちゃんの魂は痩せ細ったお母様の手を握るたびに、行き場のない悲しみと寂しさで、千切れんばかりに震えていた。呪霊100体のパワーで彼女の精神が立ち上がる前から、それは明瞭だった。

 

 俺もお母様と会うたびに辛かった。本物の娘ではない自分が「娘のフリ」をして手を握っていることが申し訳なかった。そして、自分の子供の成長を見届けることすら許されないこの人が、あまりに不憫だった。

 前世の俺は一人っ子で、親より先に死んでしまった。その親不孝を今でも申し訳なく思っているけれど、小さな子供を遺して逝かねばならないこの人の無念は、それよりも遥かに深いだろう。

 

 それなのに直哉もお父様も、この人の見舞いには全然来ない。お父様は多忙を極める当主だからともかく、

 直哉。お前は来いよ。実の母親だろ。

 人の心とかないのか?

 ……いや、ないんだろうな。

 最近ちょっと、忘れかけていたけれど。

 

 

 

 

 深夜の国道。

 禪院家の黒塗りのセダンが、雨上がりのアスファルトを滑るように走っている。街灯がまばらな闇を切り裂くたび、車窓を流れる光の粒が、隣に座る直哉の横顔を照らしては消える。直哉は窓ガラスに額を預けたまま、流れていく電柱の影を数えるでもなく眺めていた。

 

「…………何や。そんな湿気たツラして俺のこと見んなや、菜緒葉ちゃん」

 

 視線に気づいた直哉は窓の外を眺めたまま吐き捨てた。その声はいつも以上に刺々しい。この子は状況の深刻性を本当にわかっているのだろうか。

 

「直哉。……お母様、本当に危ないんですのよ。最期になるかもしれない。少しは、優しい言葉の一つでも準備しておきなさいな」

「優しい言葉ァ?」

 

 直哉はガラスから額を離し、初めてこちらを見た。その表情は不機嫌の一言に尽きるのだが、怒りの底に薄く貼りついた別の何かが、目を合わせるとちらりと見えた気がした。

 

「あんなパッとしない式神遣いを相手に何話せっちゅうねん?」

「……」

 

 実の母親を残酷な形で評する直哉の声には、侮蔑よりももっと生々しく、皮膚の下をざわつかせるような嫌悪が滲んでいた。歪んだ鏡を覗き込むように根源的な、どうしようもなく拭えない不快。直哉にとってお母様は、弱さとはこうなるのだという一つの回答だ。そんな相手に近づくだけで、その弱さが伝染するような気がしているのだろう。

 

 お母様の術式は『事象の予測と適応』。

 術式がオートで未来の脅威を予測し、術者と命を共有した一体の式神を随時アップデートし続ける。一見すれば十種影法術の神髄である摩虚羅に類似した能力だが、実態は完全なる欠陥品だった。

 式神のアップデートは自動で開始され、中断すれば術師本人に凄まじい負荷がかかる。しかもアップデート中は式神を使用できないどころか術者の呪力を吸い取り続けるし、最終的なアップデート内容は術師本人のスペックに依存する。つまり、術式が脅威を検知した瞬間、術者の呪力は吸い取られ、式神もしばらく封じられる。おまけにようやく完成した強化形態の式神も「いないよりはマシ」程度だということだ。

 現役時代のお母様は大変気の毒なことに、式神遣いの癖して毎回呪霊を殴って祓っていたらしい。想像するだに悲惨である。

 とはいえこの術はおそらくは十種影法術の派生だろうと言うので、その因子を本家に戻すためにお母様は禪院の家に迎え入れられた。けれどもお母様は結局十種影法術を産めず、しかも生まれたのは双子。一族皆ががっかりした。

 ──事前に求められていた役割は果たせず、周りに見下され、息子にすらパッとしないとか言われる人生っていったい何なんだろう。

 

「……直哉。お母様が死ぬということは、この世であなたを無条件に肯定してくれる人間が、一人減るということですわよ」

 

 俺は隣に座る弟の横顔を真っ直ぐに見据えた。

 

「ハッ、何言うてんねん。俺を肯定するのは俺の強さや。他人の言葉なんか要らんわ」

 

 直哉の言葉は思い上がりに満ちている。心底ムカついた。このクソガキを一発殴って、説教してやろうと思った。

 けれども、急に舌が動かなくなった。

 菜緒葉ちゃんのせいだ。彼女は無言のうちに本気で俺を制止している。この体は、菜緒葉ちゃんが本気で嫌がる行為はできない。

 ──困ったものだ。この子は母親を愛しているのに、どうして弟を叱ろうとしないのだろうか。

 

 

 

 

 深夜の国道を抜けて車が辿り着いたのは、禪院の古風な和風建築とは対照的な、立派な石造りの門を構えた洋館だった。雨に濡れた蔦が外壁を這い、大正浪漫の残響を保ったまま緩やかに朽ち始めている。だが、手入れの行き届いた庭園は、この家の事業が傾きかけていることを忘れさせるほどには豪奢だっ。

 車が止まると同時に、玄関から数人の人影が滑り出てくる。伯父と祖母、それからメイドさん。

 

「……まあ! 直哉様! よくぞお越しくださいました!」

 

 祖母が杖を突くのも忘れたような軽い足取りで駆け寄ってきた。彼女の瞳が真っ先に直哉を捉える。その潤んだ瞳には、娘の死を目前にした悲しみと同じくらいに、禪院家の次期当主様を迎える歓喜が浮かんでいる。伯父も膝を落とし、微笑みを浮かべながら直哉の肩を抱き寄せた。

 

「直哉くん、妹が待っているよ。君が来ればきっとあの子も報われる。……ああ、菜緒葉ちゃんも来てくれてありがとうね」

 

 俺の存在はこの人達の中では完全におまけだった。でもそれは仕方ないことだ。この家の繁栄は、お母様が禪院本家で相伝の息子を産み落としたことに依存している。直哉はこの家の人々にとって、生ける神であり、黄金の卵を産む鶏であり、絶対に逆らえないATMなのだ。

 しかし直哉はその扱いを当たり前のように享受する。

 

「……相変わらずカビ臭い家やな。早く済ませてや、俺眠いねん」

 

 何代か前に禪院の術師の血が入っているけれども、この家の人達は基本的に非術師だ。直哉がこの人達を人間として見ているかすらちょっぴり怪しい。──とはいえ、歩き始めた直哉の足取りはいつもより少しだけ重く見えた。俺はもっとひどいんだろうか。

 

 案内された寝室は、重厚なカーテンで外光を遮られていた。天蓋付きのベッドの中で、お母様は目を閉じて横たわっている。

 枕元にいるのは、淡く光る輪っかのような形をした式神。

 それは主人の命を脅かす病という事象を最大の脅威と予測し、それへの『適応』を続けていた。だが、お母様は反転術式を使えない。自分自身を救う能力を一切持っていない。だから式神は空転し続け、不可能な適応のために、この人のなけなしの生命力と呪力を奪い取っていく。

 術師や呪霊被害者向けの病院だと、いつ周囲の呪霊などに反応して追加の『適応』が始まってしまうかわかったものではない。勿論、禪院の家でもだ。だからこの人はずっとここにいる。この家で文字通り自分の呪いに殺されかけている。お母様を殺すこの式神を完全に破壊してしまいたくなるが、それをすると、術式の仕組み上お母様本人も死んでしまうから、どうにもならない。

 

 ──死にゆくお母様の表情を、嫌々という様子で部屋に入ってきた弟は一顧だにしない。ただ、主人の肉体を薪にして輝くその式神の機能不全な美しさだけを、出来損ないの機械を検品するような目で見下ろして呟く。

 

「……うちのパパは十種欲しさに、こんなのに俺たちを産ませたんか」

 

 一族全体が本当に望んでいたのは十種影法術の子供であって、投射呪法の直哉ではない。そしてその「ハズレ」をお父様に引かせた原因は、お母様だ。直哉は、お父様がなんでこんな弱い女を選んだんだのかを不思議に思っているのだろう。

 

 普通の親族ならば間違いなく烈火のごとく怒り狂う場面だ。だが、傍らに立つ伯父も祖母も卑屈な笑みを浮かべるばかりだった。

 吐きそうだった。

 この家は禪院とは別の意味でおかしい。

 お母様に意識があったら、どれだけ傷つくか。

 お母様にも菜緒葉ちゃんにも申し訳ないが、お母様が亡くなった後は、俺は二度とこの家に足を運びたくない

 

 しかし「こんなの」と呼ばれたお母様が、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。

 

「……やかましいわ。親に向かって『こんなの』とは何や。……そう言うアンタはどうなん。最近の調子は」

 

 消え入るような、けれどもしっかりと毒を含んだ京言葉。意識が戻ったお母様は俺の予想を裏切り、開口一番に息子へツッコミを入れた。

 しかし直哉は微塵も焦ったそぶりを見せない。

 

「俺は天才なんやって。パパの術式も完璧に使いこなしとるし、誰にも負けへんわ」

 

 平然と答える。死の淵にある母親を前にしても、その傲慢さは1ミリもブレない。そんな息子の反応に、お母様はくすりと笑った。嘲笑だった。

 

「へぇ、威勢ええなぁ。……でも、呪力効率で女の子の菜緒葉ちゃんにボロ負けしとるって聞いたけど? 禪院の次期当主様なのに、姉の後塵を拝しとるん?」

「……ッ!」

 

 直哉の表情が引きつる。さすがは親だけあって、身内の地雷原がどこにあるかを完璧に把握している。けれどもお母様はすぐに微笑んだ。

 

「……まあ、得手不得手もあるからな。これで拗ねて呪具とか持ったらあかんよ。もっと悪化するから。まずはちゃんと、基本を固めるんや、直哉。そもそも……」

 

 お母様はそこで一旦言葉を切り、病身とは思えないほど鋭い眼光で直哉を射抜いた。

 

「そもそも、ちゃんと呪力があるくせに得物ブラブラ下げとるような男は、何やってもアカンのよ。甚爾とかいう子みたいに呪力が全く無いならまだしも、中途半端に武器に頼る男は、根性が腐っとる証拠。……大体な、ああいう手近な道具で誤魔化す奴は、十中八九チンポも小さいわ」

「…………お母様、何をおっしゃっているんですか?」

 

 割と論外な爆弾発言。隣で伯父と祖母が凍りついている。代わりに俺がお嬢様らしくどうにかたしなめようと考えたが、直哉の反応は意外なものだった。彼は深く、深く首を縦に振ったのだ。

 

「……全くやな。得物持ってイキっとる連中は、どいつもこいつもダサいねん」

 

 仲の良くない二人の意見が、奇跡の合致を見せた瞬間だった。

 

「……もう」

 

 二人がどこか妙な噛み合い方を見せている。その光景を眺めながら、俺は言いようのない感覚に囚われた。菜緒葉ちゃんの過去の記憶の中含め、この二人は実際に喋るといつも大体こんな感じだ。直哉は、この人が自分と似ているからこそ、その弱さを忌避してるのだろう。上手く言えないけど、それは何だろう──すごく嫌な感じだ。

 

 けれどもお母様の意地ともいえるこの小康状態は、会話の一言ごとに少しずつ擦り減っていった。毒舌の合間に入る呼吸が、最初は5秒に一度だったのが、やがて3秒に一度になり、言葉の途中で息が途切れるようになっていく。式神の光が瞬くたびに、お母様の頬から一段ずつ血の気が引いていくのが、薄暗い部屋の中でもはっきりとわかった。

 

 そして、お母様の声が、不意に毒気を脱ぎ捨てた。

 少し前までの鋭さが嘘のように、そこには裸の弱さだけが残っている。

 

「……もう最後やと思うから。菜緒葉ちゃんと、二人だけでお話したいことがあるの」

 

 その言葉に、直哉の体が小さく揺れた。俯いていて、表情は見えない。伯父と祖母が何も言わずにあっさりと退室し、直哉がその後を追う。扉に手をかけた直哉は、一瞬だけ振り返った。何か言いたそうな──いや、何を言えばいいかわからないという顔で、けれどもそれは本当に一瞬で、次の瞬間にはいつもの生意気な顔に戻っていた。

 残されたのは、重厚なカーテンに閉ざされた異様なまでの静寂。聞こえるのは空転する式神が駆動する不気味な音と、薄い胸を上下させるお母様の、あまりに頼りない呼吸音。

 お母様は悲しげな顔で、こちらに手を伸ばす。

 

「……菜緒葉ちゃんは、……うちみたいな欠陥術式やなくて良かったねぇ……」

「……お母様」

 

 俺は、震える彼女の手を握った。かつての菜緒葉ちゃんがそうしていたように。あるいは俺自身の、拭いきれない未練をぶつけるように。

 お母様は途切れ途切れに言った。

 

「ねえ菜緒葉ちゃん……うちが死んだら、この家に戻ってこない?」

 

 突然の言葉は、正直なところ意外だった。

 でも、受け入れられない。

 

「……ごめんなさい、だってこの家は……」

 

 お母様が身を張って稼いだお金で辛うじて継続しておきながら、今度はそのお母様を軽んじてドラ息子に媚びるみっともない連中の家だ。こんな家で幸せになれるはずがない。それに対して、禪院家は少しずつだがいい感じになってきた。けれどもお母様は、淡々と答えた。

 

「死ぬよりはマシやろ。禪院家は将来滅ぶ。あの家にいたらあの子もあんたもそのうち絶対死ぬ」

 

 ……え?

 この人がそう言うのは、術式効果の応用か何かだろう。

 禪院家が滅ぶ──その未来を、俺の場合は音MADの知識として知っている。けれども最近は色々いい方向に進んでいたはずだ。術式のない人でも、女でも、少しずつ活躍できるように。そのおかげで、甚壱くんだって色々わかってくれるようになった。ブレスレットをくれた。今のあの人が、生首にされなきゃいけないような悪人であるようには思えない。

 なのにあの未来は、まだ変わっていないのか?

 

「式神はな……詳しいことは教えてくれへんの。そやけど、あんたらを産んでから、ずっとなんかおっきな苦難を回避しようとしてるのんはわかる。……禪院の家におる時が、一番えげつなかった。将来うちの力ではどうにもならないほど大勢の人がここで死ぬんだって、ずっと何かが訴えかけてくるのよ」

 

 お母様は枕元で空転する式神を、ひどく寂しそうな目で見つめた。この式神は術者にとっての最大の脅威にオートで適応しようとする。

 それが指すのはお母様自身の命の危機だけではない。

 俺は事態が好転していると思っていた。だけどそれは何かの間違いだったのだ。俺は何かを見逃している。でも、何を?

 

「……術師だった頃のうちはな、色々頑張ったわ。でも、どうせこれ以上強くなれへんし、向こう側の天才には敵わないって気づいて心が折れて……強い男に守られる生活も悪くないんやないかと思った」

 

 お母様の声は一言ごとに糸が細くなっていく。さっきまで直哉に向けていた毒舌の切れ味が、今はもう遠い残響のようだ。

 

「でも、逃げた先が、一番の地獄やった。……それでも、あの家に……直毘人のそばに……齧り付いてでも残りたかったんやけどなぁ……」

 

 お母様は白い顔で力なく笑った。

 

「……直哉には、この家に帰って来いと言わなくて良かったのですか?」

「男なら、死んだら死んだで終いや。弱い己を怨めばええんちゃいますの?」

 

 あっさりとした様子でお母様は言った。その声に感情はなかった。感情を込める体力さえ、もう残っていないのかもしれない。けれども、次の言葉にだけは、かすかに色が滲んだ。

 

「せやけど菜緒葉ちゃんは女の子やからねぇ」

 

 ──女の子。

 その言葉は、何故だか惨めに響いた。

 俺自身にとって、というより、菜緒葉ちゃん自身の魂に対して。

 

「……じゃあ、お父様は?」

 

 間違いなく、この人はお父様を愛している。

 ろくにお見舞いに来てくれさえしない人だけれども、それについてのこの人の恨み言を俺は一度も聞いたことがない。お父様を尊敬していて、足を引きたくないのだろう。

 

 かつて菜緒葉ちゃんがこんな質問をした。

 

 ──お母様は、なんで禪院の男なんかとの間に私達を作ったんですの?

 

 あの時のお母様の返答は直裁だった。

 

 ──結納金で1億くれる言わはったさかい。あとまあ、直毘人の顔は好みやった。

 

 軽い調子で言ったお母様の悲しげな笑顔と、その奥に沈殿していた明らかに重苦しい何か。その意味をまだ小さな菜緒葉ちゃんは理解しなかった。単に誤魔化されただけだと考えたようだった。だが、あのいかにも京女らしい端正な白い顔の裏側に隠れていた黒くどろどろとした何かを、記憶を共有する俺は理解している。

 あれは女としての情だ。

 だから、何もかもが上手くいかず、その愛が一度も報われなくても、この人は最後まで強がっていたのだろう。いかにも、あの菜緒葉ちゃんの母親らしい、強情で、一途で、歪んだ情愛。

 

 お母様は悲しそうにした。

 

「弱いうちがあの人に寄り添えることなんか、なんにもあらへんよ。……第一、あの人の悩みをこれ以上増やせへん。お酒の量がこれ以上増えたら困るものね」

 

 その瞬間、俺の意識の中で何かが決壊した。

 自分の感情なのか菜緒葉ちゃんの感情なのか。境界線が曖昧になるほどの、逃げ場のない感情が胸を突き上げてくる。

 

 しょうがないのはわかっているけど、どうしてお父様はこの人の側にいてくれないんだろう。弱いからか。弱いって、こんなに悲惨なことなのか。弱い人間は、好きな人の側にもいられないのか。

 でも、そんなに頑張って維持した強い人達のための家だって、このままでは全部なくなっちゃって、何の意味もなくなるのに。

 俺がどうにかするほかない。

 でも、本当にできるのか?

 

 視界が涙で歪む。握った手の温度が一段と下がっていくのがわかってしまって、それがまた辛い。

 お母様の瞳はもうほとんど焦点を結んでいない。式神の光が弱まっていく。空転する輪が、息を切らすように明滅を繰り返す。

 ──その虚ろな瞳が、最期にふっと、奇妙な明瞭さを取り戻す。

 そしてお母様は、俺の耳元で囁くように言った。

 

「アンタ、後生だからせめて菜緒葉ちゃんを助けたって」

 

 これは菜緒葉ちゃんへの言葉ではなかった。明らかに俺に向けられていた。母親としての愛情で、この人は俺の存在に辿り着いたのだろうか。それとも術式の影響か。わからないし、この人の思考についてもはや確かめる猶予すら残ってない。いずれにせよ──娘を生き残らせるために、この人は得体の知れない俺に縋った。

 

「……約束します」

 

 それしか言えなかった。声が震えた。

 

 お母様は微かに笑った。安堵と諦めの中間のような笑みだった。

 それからゆっくりと瞼が降りていく。

 式神の光が蝋燭の最後の揺らぎのように瞬いて──やがて、消える。

 握っていた手から温度が抜けていく。

 俺はその手をしばらく離せなかった。

 

 

 

 

 

 

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