音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
他人に対して本気で死ねと思ったのは前世も含めて生まれて初めてだった。それも一時の激情じゃない。お千代さんが厨房から消えたあの日から今日までの5日間。あの殺人者が苦しみ抜いて死んでしまえばいいということばかりをずっとずっと考え続けていた。
どんな人の命にも価値がある?
昔の自分がなんでそんな理想論を信じていられたのかがわからない。
自分の命が短かったからか。
自分が本当は長生きしたかったという気持ちを覆い隠して、周りを気遣っていい奴ぶることで安心できたからか。
理屈の上では『菜切り包丁』は腐った食材でさえ美味しく調律できるけれど、人間の血肉を臓腑に収めた存在を美味しく料理するなんていうことは、許されないし意味がない。でも、これまでの俺の行動はまさにそれだった。
せいぜい古典芸能の家くらいのものだと思っていた禪院は、むしろカルトのコミューンだった。黒閃を複数回経験している特別一級術師であれば、中学を出たばかりの身寄りのない女の子に暴力を振るって殺してしまってさえ、平気でシャバで笑っていられるような場所。つまりは根っこから駄目。現代日本にこんなクソみたいな場所があっていいはずがない。それなのに俺は、そんな魔窟に現代人の倫理観という安っぽいスパイスを振りかけてどうにか食える場所に変えられると錯覚していたのだ。
いつも使っている懲罰房の二級呪霊の臓腑にはお千代さんの血肉が取り込まれているかもしれないから、呪霊料理なんてできない。あの場所の呪霊は訓練やちょっとした罰則に使っているものだと聞いていたけれど、今となってはそんなことさえ信じられなくない。これまでだって邪魔になった誰かがここに放り込まれ、音もなく食われて消えていったのかもしれない。で、俺はそんなクソみたいな家でニコニコとお嬢様を演じながら料理を作り続けていた。気持ちが悪すぎる。そしてそう思うと、普通の料理ですら手が動かなくなってくる。洗い場に立つとお千代さんの笑い声や冷たい水に赤くかじかんだ指先を思い出して、猛烈な吐き気に襲われる。「そのうち温水が出るようにしますわ」なんて、どの口が言ったんだ。そのうちじゃダメだった。今この瞬間にも弱い人間がさくっと消されるかもしれないこんな場所で、なんだかんだで優しい父親に恵まれて、そんな立場からの「そのうち」なんて、よくもそんな恥知らずなことを、俺は。
だから誰とも会いたくなくて部屋に閉じこもり──インターネットをやる気にすらならないので、普通に布団の中へと潜り込み続けていた。暗闇以外の景色自体がうっすらストレスになる気がしていた。
けれども全然眠気も来ない。来る訳がない。で、時々人が来ても追い返してしまう。大事な友達が殺されて、それは俺の考えが甘かったせい。お千代さんを食べた懲罰房の呪霊達に、頼むからあの男のことも殺してくださいと思う以外にやることなんてない。
しかしそれでも直哉だけは、どんなに追い返そうが無視しようが毎日やってきた。機嫌を取る気なのか、都度果物を携えて。心底うざったかった。
「もういいですわ……。放っておいてくださいまし」
いくらそう言っても、弟は少しも俺の気持ちになんか頓着しなかった。人の気持ちをちっとも理解してくれない子だった。いつもいつも。
「ざけんなや。ええからさっさとこれ切れ」
何かを執拗に待っているような、焦燥と苛立ちが混じった顔でりんごを差し出してくる弟だって、このままいけばこのクソみたいな家で死んだ方がいいような人間に成長してしまうのだろう。
なのに、まだかわいく見える。そういう自分がまた気持ち悪かった。
本当は体を動かす気なんて湧かないけれども、仕方なく上半身だけ布団から出して、差し出された真っ赤なりんごに指先で触れた。それだけで身体に染み付いた術式が勝手に「調理」を開始する。触れた箇所からスッと吸い込まれるように、りんごが綺麗なくし切りに変わっていく。
「うさぎさんにしてくれへんの?」
「……普段は子供扱いするなと言って怒るくせに、今は、そんな冗談に付き合える気分ではありませんわ」
「いや、そっちの方が料理っぽいかな思て」
「……」
コイツはどうしていつもこうなのだろうと思った。
そもそもりんごを切るだけなんて、果たして「料理」と言えるのだろうか。わからなかったけれども、不思議なことに次の日も俺の呪力は減っていなかった。直哉に無理やりやらされただけのこの作業が縛りを更新させたのは、正直意外だった。弟は部屋にやって来るたびに俺にこの作業をやらせた。皮肉な話だ。俺の存在意義を更新し続けているのは、この地獄に適応しきった弟の強引な我儘だった。
音MADで何百回も見た禪院家の崩壊。それは最初は愉快なもので、そしてそのうち回避すべき悲劇に変わった。──でも、この家にたった一人の妹を殺された真希ちゃんにとって、あれはどこまでも正当な行為だったのだろう。それが今、知識ではなく魂でわかる。
扇のおじさまの娘殺しには、もしかしたら込み入った事情なんてなかったのかもしれない。「役立たずの猿とその双子の妹を処分するちょうどいい理由ができた」という程度の考えだったのかもしれない。
この家ではそれが許容される。
「ま、これもお勉強やね。菜緒葉ちゃん。今後は仲良しのお友達ができたら『俺のお気に入り』ってことにしたる」
「……そんなことで解決だと本気で思っていますの?」
解決な訳がない。持ち主がいる女なら手を出されないってことだろ。
死ねよ。
そんな怒りをこめて睨みつけたが、直哉は肩をすくめただけだった。
「ほな代案を出せや」
ド正論だった。代案なしに喚いても何にもならない。だがそれはそれとしてムカつく。ガキの癖に偉そうでムカつく。ムカついたので殴ってやろうとする。が、難なく避けられた。
「殴る元気があるなら重畳やね」
「……あなたって本当に腹立たしい」
「で?」
「…………私、この家が大っ嫌いですわ」
絞り出すように吐いた俺の言葉を聞きながら、直哉は感情の読めない瞳でこちらをじっと見つめた。
「はぁ? 今更何言うとんのや。その位わかっとったやろ。菜緒葉ちゃんは昔から頭ええねんから。この家がクソやってことくらい、俺よりずっと先に気づいとったはずやんか」
よりによってこの家で一番恵まれているはずの人間から出た言葉。以前の俺なら怒り狂っていたと思う。けれどもそれに腹を立てるには、俺はもう弟を知りすぎていた。
普通の子らしい暮らしなんか一切知らない弟。
まあ、そんなのはコイツに限った話でもないけれど。
──俺は本当の意味では何も理解できていなかった。いい人も大勢いる。だから話せばみんなわかってくれるようになる。そう思っていた。もはやそれで済む範疇の話じゃなかったのに。
菜緒葉ちゃんなら、本当は気づいていたのかもしれない。直哉の大好きな本物の菜緒葉ちゃんなら。だからこそあの子は俺に『禪院の女』を演じさせ、インターネットやアニメに逃避することで精神を守っていたのかもしれない。
「ここだけの話、菜緒葉ちゃんはうだうだ考えすぎやねん」
「考えすぎ? お千代さんがあんな風に消されてしまったのに……っ!」
食ってかかる俺の声を直哉は冷たく遮った。
「いい加減甘えるなやカス。千代ちゃんは弱かった。それだけや。さっさと立て。戦え」
こいつはこの家で甘やかされている癖に──いや、違ったのか。俺の方がずっとずっと甘やかされていたのか。
それでも。
「……あなたはどうしてそういうことを言えるんですの?」
そう尋ねてしまった。
弱い人間のことなんて他人事だと思える弟がわからない。
強者が弱者を虐げることを当然だと思えるその心理がわからない。
けれども弟は冷めた様子で返す。
「菜緒葉ちゃんこそ何。呪力は少ない、おまけに女の子。頭が良いのが取り柄やったのにこのザマか」
他人を攻撃する熱すら抜け落ちた、事実の羅列。もはや煽りですらない。「これ音MAD内で真希ちゃんにやってたやつのマイルドバージョンだ」と気づいたが、だからどうということもない。あれって結局どういうシーンで、どうして直哉はあんなことを言ったのだろう。今の直哉はどういう気持ちで俺をなじっているのだろう。よくわからない。
俺があまり反応しないのに気づくと、弟は吐き捨てた。
「ざけんなや」
◇
泥のような不眠が続いていた。
まぶたを閉じれば網膜の裏にお千代さんの柔らかな微笑みが思い浮かぶ。「楽しみにしてます、お嬢様」。耳の奥で反芻されるその声は、今や鼓膜をキリで穿つような呪詛に変わっていた。目を開ければ、あの男の顔が思い浮かぶ。「困ったことがあればいつでも頼ってくれ、お嬢様」。慈愛に満ちた貌で冷徹さを隠し、俺に手を差し伸べていた、あの手。
腹の底ではどす黒い憎悪がトグロを巻いていた。それは内臓を焼き、思考を溶かし、自分という輪郭を内側から腐れさせていく。怒りなのか、悲しみなのか、あるいは生理的な嘔吐感なのか。判別はつかない。ただ一つ確かなのは、あんな男が、あんな人殺しが、何食わぬ顔でこの日常に復帰しようとしているという事実だけだ。
あと数時間であの男が懲罰房から出て来る。
顔を合わせたらあの爽やかな顔で普通に挨拶などしてくるのだろうか。
人を救うための職業のはずなのに平気で人を殺して、それでのうのうと生きて行く気なのだろうか。
それを考えている間に意識がふっと遠のき、頬に冷たい手が触れる。
顔を上げると目の前には、鏡でよく見慣れた顔があった。
長い黒髪に吊り目がちのかわいらしい顔。
地味なつくりの和服をきちんと着こなしている。
禪院菜緒葉だ。
──何日も呪霊を食べていないのに、菜緒葉ちゃんが俺の前に現れた。
「マコくん」
甘い声が落ちる。
かわいらしい顔が俺の顔を覗き込む。
「弟にあれだけ言わせて、まだ一人で落ち込んでいるつもり?」
「……」
答える代わりに、訊き返した。
「君はまだ呪術師なんかになりたいと思ってるのか?」
「ええ」
「……甚爾くんもお父様も、ちょっとずつ違う言い方で教えてくれてたんだろ。呪術師は日本を守るヒーローなんかじゃなかった」
この勘違いが最大の後悔だった。
正直、カッコいいと思っていた。社会のためになる仕事だ。憧れもあって、だからしんどくても頑張れていた部分はある。
菜緒葉ちゃんも同じ気持ちだっただろう。
だが、俺たちはもう気がついてしまった。
「力があって、代わりになる人が全然いないからって、好き勝手できる腐敗した貴族階級。それが呪術師だ」
「そうですわね」
「この家では、普通の女の子が好きな人を好きって言うだけのことで、簡単に殺される」
「そうですわね」
彼女はあっさりと肯定を続けた。
まるで天気の話でもしているようだった。
その表情は弟にそっくりだった。彼女は俺とは違う。怒り、恐怖、自責を知性によって完全に武装し直している。
「変えないと」
「私もそう思っていますわ」
「じゃあ、どうすればいい?」
沈黙。逡巡。
菜緒葉ちゃんは意を決したように、硬質な調子で口を開いた。
「世界は残酷。家は変わらない。人は理想で動かない。それを私はもう知っていた。なのにあなたに『禪院の女』を任せて、音MADを聴いて、ときメモで遊んで。あなたの頑張りのおかげで、生まれて初めて誰かに認められる気持ちを──間接的にだけど味わって。それが心地よくて、ぬるくなっていたんですの。マコくんに責任はない。私が全部悪いんです。……だからそういうの、もう全部やめますわ」
菜緒葉ちゃんは呟くようにそう言うと、鼻と鼻が触れそうな距離で俺を見据える。その瞳にはオタク趣味にはしゃいでいた頃の無邪気さは全く残ってない。
「真希ちゃんは全部壊しましたわね」
「……」
「私はアレを阻止したい。マコくんは今もそう思えていますか?」
「当たり前だろ」
そこについてはまだ即答できた。
みんながみんな死ななきゃいけないようなことをしてた訳じゃない。悪い人ばかりじゃない。あまり仲良くできないような人にだって実際には事情がある。全部全部、身をもって体験してきたことだ。
本当にクソな家だとわかったし、人間不信にもなりそうだけど、全員死ねと思えるほどにはまだ俺は狂っていない。
菜緒葉ちゃんは静かに頷く。
「そうですわね。いくら屋台骨から腐ってるからって、全部を壊すのが正しいはずがない。じゃあ……」
彼女はそこで言葉を切り、首を傾げた。その仕草は断じて子供のものではなかった。誘うような、試すような、そしてどこか残酷な艶を帯びた動作だった。
「少し壊すだけなら、どうかしら?」
心臓が跳ねた。
彼女が何を言いたいのかは、はっきりしていた。
菜緒葉ちゃんはぎゅっと俺に抱きついてきた。彼女の声はどんどん甘く、陶然としたものになる。
「私ね、本当はマコくんの怒りが嬉しいの。不謹慎だってわかっていますわ。お千代さんの死を喜んでいるわけじゃない。私だって心底怒ってる。あの男を殺したいと思ってる。だけど同時に──男の癖に誰よりかわいらしいあなたが、この家の本当の姿をようやく知ってくれて、そしてこれからどんな風に立ち上がるのかが、楽しみで仕方ないんです」
「……」
俺は何も言えなかった。腹が立つのか痛ましいのかすらわからない。わからないことが、たぶん正しかった。菜緒葉ちゃんは俺の沈黙を確かめるように覗き込んで、それから少し声を落とした。
「マコくん、私はね、男の人のあなたが誰よりも完璧な禪院の女を演じるのを見るのが好き。綺麗なあなたが泥の底で汚れていくのを見るのが好き。だって最高に萌えるし、燃えますもの」
「……菜緒葉ちゃん?」
「私は女の子なのに女の子を演れなくて、マコくんは男の人だったのに、ううん、男の人だったからこそ上手に女の子を演れて。やっぱり直哉の言う通り、男の方が優秀なのかしら。ちょっと癪ですけれども。でも、私の最強にかわいいマコくんがどこまでいけるのか、いける所まで見てみたい。こんな世界で、あなたがどう立ち上がるのかが見たい。──うふふ。ごめんなさいね、意味不明な気色悪いことばかり言っていて。でも、全部本音ですのよ」
自虐に見せかけてそうではない、どこか楽しんでいるような声。
白い空間の背後には映像が浮かぶ。
未来の、おばさまが直哉を包丁で刺す場面だ。
俺が文脈を無視して消費し続けてきた場面。菜緒葉ちゃんが、文脈を理解して消費することに耐えられなくなった場面。大切な人が大切な人を刺す場面。
繰り返し繰り返し、この映像が流される。
それでも菜緒葉ちゃんは楽しそうに笑っている。
甘えるような口調で常軌を逸した重たい言葉を連ねながら、かといって冷静さは一切見失わずに。
彼女の底では何かが滾っている。
俺の中に滾っているのと、全く同じ何かが。
「音MADはやっぱりいつだって世界の真理を教えてくれますわね。懲罰房から出たばかりならあのクズだってボロボロでしょうし、この真似っこをするのは容易ではなくて?」
「……」
「私は根っからのファザコンなので、禪院直毘人の反応に賭けてみるのも面白いと思っていますわ。楽しみですわね。お父様は娘が人殺しになったら処罰するでしょうか? それとも揉み消す? 私のこれまでの頑張りを本気で認めてくれているのなら、なんだかんだで許してくれるんじゃないかと思いますの。それが無理でも、とびきり後悔して、これからは考え方を変えてくださるかも。……あるいはまた、お酒に逃げちゃうのかしら?」
「……」
「あなたの術式は生きた人間を斬れない。──でも、本物の包丁は?」
「……」
「あら。マコくんたらすっかり黙っちゃって。私のような生粋の禪院のアイデアは、やっぱり穢らわしく思えますか? おかわいらしいこと。……まあいいですわ。もっといい方法を見つけたら、それを選んだっていいの。せいぜい頑張れ頑張れ♡」
明るくも攻撃的な笑い声を菜緒葉ちゃんが上げると同時に、手の中にズシリと鉛のような重みが落ちてきた。菜緒葉ちゃんが消える。
代わりに俺は厨房に立っている。深夜だ。月の光すら差し込まない、青白い闇に沈んだ厨房。もう夜だったらしい。時間感覚はとうに麻痺していた。
両手の中に、一振りの包丁がある。
──眠ったまま無意識にここまで歩いてきたのか。
手の中に鈍色の光を湛えた鋼がある。
鶏を捌く時に使う、骨スキ包丁だ。術式がもっと弱かった頃は肉を上手に斬れなくて、こういう本物の包丁を使っていた。
うっかり切った指からの出血がひどくて焦ったのを思い出す。どくどくと溢れ出す鮮血。それを見て、自分の傷のように顔を青くして慌てふためいていたお千代さん。そんな彼女を「大袈裟ですよ」と優しく、けれど厳しくたしなめていたおばさま。そんな、もう二度と戻らない思い出。
そんな思い出のあるこれで──人を刺す。「頑張れ頑張れ♡」と菜緒葉ちゃんは挑発的に笑ったが、実際やれるか。背後から深々と突き刺して、心臓に刺し直して、とどめを刺す。それが俺にできるか。
考えた。
考えた。
考えた。
吐き気を堪えて考え抜いた。
そして──
「ふざけるな……! 畜生! 包丁は人を殺す道具じゃねえんだよ!!」
叫びとともに、骨スキ包丁を投げ捨てた。
菜緒葉ちゃんはマジでイカレている。そして俺も、5日凹んでた程度でここまで思考が鈍るものなのか。うっかり引き摺られてあのクソ野郎の同類になるところだった!
そうだ。あんなクソ野郎のために俺の魂と菜緒葉ちゃんの手を汚すなんてアホらしい。これから先、あんなクソ野郎はボコボコ生まれてくるだろう。そのたびに一人ずつ殺して回ったところで、この家の根本にある呪いは何一つ変わらない。そんなのはわかりきった話だ。
金属が床に落ちて跳ね返る音が大きく響く。
ふらつく足取りで流し台へ歩み寄り、冷たく光る蛇口を鷲掴みにした。
そして斬る。
お千代さんが「冬場は指がちぎれそう」とこぼした、あの温水の出ない蛇口。存在しているだけで人を苦しめるだけの、無価値な鉄屑。
パキン、という硬質な音が、闇の中で軽やかに響いた。ステンレスの蛇口が、まるで飴細工か何かのように容易く折れ、断面から勢いよく噴き出した水が深夜の厨房を水浸しにしていく。
溢れる水が顔と着物にかかる。冷たい。
冷たいけれど気にならない。
愛着も思い出も沢山ある場所だ。けれどもここでの仕事が「下等」だと思われているから、お千代さんは虫ケラのように殺された。それだけが真実だ。呪術師様と違って飯を作るだけの人間なんて代わりはいくらでもいるのだと、みんな心底舐め腐っている。そんなに価値がないとされている場所なら、いっそ更地にしてやればいい。
壁に掌を当てた。呪力出力を最大に固定。「調理」ではない、ただの破壊だ。3メートルに及ぶ巨大な切れ目が1本壁面に鋭く走った。本当は壁ごとぶち抜くつもりだったが、ヒビが入っただけだった。
でも構わない。棚を斬り、作業台を両断し、目に映るすべてを微塵切りに変えていく。壊して、壊して、ただひたすらに壊しまくる。怒りが燃料になっている間だけは、体が軽かった。
直哉に「ごめん」と思った。鬱陶しがって何日も冷たく当たった。けれどもあいつのおかげで、俺には破壊のための力が残っている。
破壊は楽しかった。毎日料理を続けた場所。今の俺の全部を育ててくれた場所。そこを壊すのは、よくないことだ。だけど楽しい。本当に楽しい。笑いさえ込み上げて来る。今はしんどいけど手柄を立てて認めてもらって、お父様の慈悲をいただこうと思っていたけれど、そんな面倒臭いことを今までの俺はよく考えていたものだ。我ながらいい子のお嬢様すぎる。さぞかわいかっただろうな。こんなことをしてしまったからには、もうかわいくなくなっているけれど。みんなはこんな俺のことをどれだけ厳しく叱るだろうか。楽しみだ。
厨房のすべてをガラクタに変え終えた時、足が初めてもつれた。
憎悪に基づいた切断は普段の料理と比べて驚くほど呪力を浪費する。ちまちまと努力して増やしてきたつもりだったが、結局、俺の呪力量はこの家の理不尽に立ち向かうには、あまりに貧弱すぎた。
──だが、この程度の破壊ではまだ足りない。
厨房のすべてをガラクタに変え終えて、俺は通用口から外へと躍り出た。
向かう場所は決まっている。卓球場だ。術師の皆様のために作られた娯楽の場。十数年前、厨房の改修よりここを作るのが優先されたと聞いた。
ぶっ壊してやる。飯が食えなきゃ誰もが困るが、卓球ができなくて困る奴が何人いるだろうか。ここで俺は、禪院の連中に究極の二択を突きつけてやるんだ。「今度はどっちを先に直すつもりだ?」とな。
卓球台。その表面に指を滑らせるだけで、厚い天板が真っ二つに裂ける。だが、そのたびに呪力が根こそぎ持っていかれる感覚がある。頭痛がひどい。意識が遠のきかけるのを、奥歯を噛み締めて繋ぎ止める。
卓球場の備品をすべてスクラップに変えた頃には、まともに立っていることすら困難だった。壁を伝わなければ一歩も歩けない。喉の奥からは鉄の味がする。呪力枯渇による倦怠感が、津波のように押し寄せてくる。
それでもまだ止まれない。
障子を蹴破って踏み込む。お父様と一緒にテレビを見た部屋だ。あの時間は大切なものだった。基本放置され気味だった俺が、ようやくお父様の愛情を感じることができた時間。でも、楽しかったからこそ、そんな思い出ごと、今はぶち壊さなきゃいけない。
「悪いな、お父様」
これは術式を使うまでもない。持ち上げて、壁に向かってぶん投げる。テレビの画面が割れ、青白い火花を散らし、断末魔のようなノイズを上げて沈黙した。手が痺れていた。もう指先の感覚がほとんどない。
最後に──庭へ出る。
庭には侘び寂び感に溢れた立派な橋がある。音MADの中では甚壱くんの生首が真希ちゃんの手でポイ捨てされる、あの象徴的な橋だ。禪院家の旧家の品格とやらを体現していそうな感じの、うざったいこいつを壊す。
人を殺しても意味がない。
ならばまずは入れ物からだ。この家の腐敗の象徴をぶっ壊す。
俺にできる弔いはそれしかない。
この家にはカス共が厨房より優先して作ったり飾ったりしている色んなものがある。けど、全部壊れたら何から直さなくちゃいけなくなる?
当然厨房だろう。
厨房から直せ。
そこで毎日料理を作っていたお千代さんのありがたさを理解するんだ。
処罰はどれ位になるだろう。
多少頑張ってはいたとはいえ所詮女である禪院菜緒葉の器物損壊と、あの男の殺人とはどっちが軽くなるだろうか。
この天秤の正しさについて、お父様はもっとよく考えるべきだ。
お父様だけじゃない、みんなに考えてもらわなくてはいけない。
どうして才能がないんだ、とも思う。
俺はどうして強くない。どうして真希ちゃんみたいに、すべてを一瞬で灰にするような圧倒的な暴力を持っていない。この家をあっさり変えられるような、簡単な解決法を持っていない。
こんなまどろっこしくて、効果があるかもわからない、八つ当たりみたいな方法しか取れない。
この家の強者が妬ましくて、惨めで、涙が溢れそうだった。
けれど、全部を壊す力なんてなくて良かったと、どこかで安堵している自分もいた。力があったら、俺はもっと取り返しのつかない間違いを犯していた。
橋の欄干に手をかけ、絞り出すように最後の呪力を集中させる。
指先が熱い。心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに鳴り響く。
「これ、で……おわり……」
──そこで。
ふと、奇妙な違和感が背筋を駆け抜けた。
我を忘れて破壊の限りを尽くしていたが、これだけの大立ち回りをして、タダで済むはずがない。物音の異常、あるいは屋敷を囲む結界の反応。それを受けて誰かが飛び起きてこないのは、あまりに不自然だ。
普段なら屋敷の異変を察知して即座に集結するはずの、躯倶留隊のみんなはどこへ行った?
その疑問に対する答えは、空気を震わせる巨大な破壊音とともに降ってきた。
ガシャァァァン!!
耳を劈く凄まじい轟音。
同時に「何か」が猛烈な勢いで上空から池へと叩きつけられた。水柱が激しく上がり、砕けた欄干とともに泥水の中に沈んだのは──扇のおじさまだった。
俺は指先を橋にかけたまま、息を止めて絶句した。
おじさまが飛んできた方向──その闇の奥を、見開いた瞳で凝視する。
そこでようやく気づいた。
俺のささやかな反乱なんて、一瞬で霞んでしまうほどの。
本当の意味での理不尽な暴力が、すぐそこで、嵐のように吹き荒れていることに。