音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?!   作:ポ予

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禪院菜緒葉について② Side:透明人間

 禪院甚爾は、禪院菜緒葉の名前を本当はずっと前から知っていた。男の名前はすぐに忘れてしまうが、この家にいる女の名前は大抵覚えている。

 

 それは優しさではない。

 

 甚爾を人間だと勘違いするのは、常に女だ。甚爾が呪霊の群れの中に投げ込まれても、父も兄弟も何とも思わなかったようだった。代わりに外から来た女中が泣いた。甚爾が口元に負った傷を痛ましげに見つめ、甚爾自身の代わりに泣いた。その涙は慈悲と呼ぶにはあまりに無防備で、無防備であるがゆえに、禪院の男たちが決して見せない種類の真実を含んでいた。そして千代もその類の女だった。ろくな給金も出ていないだろうに、なけなしの金を顔を真っ赤にしながら差し出してきた。サクッと受け取ると、それだけで千代は何故だかとても嬉しそうにした。訳がわからなかった。あの女が「金を受け取ってもらえたこと」それ自体を嬉しがっていたのだと甚爾が理解したのは、ずいぶん後になってからだ。そして、その頃には千代はもういなかった。

 

 女は大抵が優しかった。

 名前を覚える価値があった。

 

 名のある女の一人一人と関わるうちに気がついたのは、女に関する世間の一般論が粗方嘘だということだ。女は弱い。女は感情的。女は論理的思考が苦手。──実際は全部時と場合によるとしか言いようがない。現実の女は固有の肉体と感情と記憶を持って生きている。だから名を呼べば決まって喜ぶ。女は〈女〉を演じきれない。〈女〉を定義したのは男で、女は己が〈女〉以上の何者にもなれないことに傷ついている。

 

 ならば、仮に〈女〉を完璧に演じる〈女〉がいるとしたら、その女は男の眼を持っているのかもしれない。

 現実の女は自分の肉体を生きているから、男の視線と自分の視線のあいだに必ず隙間ができる。その隙間を埋められるのは、男の眼で世界を見つめる者だけだ。

 

 男が〈女〉に何を求めているかを内側から知悉していて、その要求に先回りして応答できる存在。

 禪院菜緒葉はまさにそれだった。

 

 

 

 

 

 

 

 禪院の女の名前を全部覚えている甚爾は、そうなる前の菜緒葉のことも遠目に観察して知っている。

 

 ──可哀想な出涸らしの禪院菜緒葉。

 彼女はいつも弟の3()()()を歩いていた。

 

 菜緒葉はいつも弟の手を握っていた。弟が大人に叱られれば、弟の代わりに頭を下げていた。弟が粗暴な口を利いて周囲を怒らせれば、すかさず場を収めていた。弟より先に泣き、弟より先に謝り、弟より先に状況を読んでいた。その頃の菜緒葉と一度だけ目が合ったことがある。

 

 同病相憐れむ──というような、甚爾のプライドを無限に逆撫でする目。

 呪力のない猿と、呪力の少ない出涸らし。この家の底辺同士。お互い苦労が絶えませんわね、とでも言いたげな目。

 しかし甚爾が苛立ったのは、その視線の奥に憐憫以外が混じっていたからだ。同情と、そして同情する自分が相手より上にいることへの、無自覚な確信。菜緒葉は頭が良く、周りを見下しているようだった。

 しかしその賢さに何の意味もないことを甚爾は知っていた。甚爾も小さい頃は、呪力がなくても強くなれば父親から認めてもらえるのではないかとくだらない期待をしたことがあった。

 まるで鏡写しだ。

 

 双子に生まれるということは悲惨だ。

 呪術界において双子は凶兆。一人で生まれてくれば十全であったはずの資質を、母胎の中で奪い合い、食い合い、中途半端に分かち合ってしまった欠陥品。一人で生まれてくれば個性として愛でられたはずの些細な欠点さえ、隣に片割れがいるせいで致命的な不足として浮き彫りになる。

 

「菜緒葉は本当に可哀想だ。あれほど聡明で聞き分けの良い子なのに。あれで呪力量さえ並みならば……」

 

 兄の甚壱が『灯』の者達を相手にそう話しているのを以前見かけたことがある。優秀で、周囲に好かれる立派な兄だ。『灯』の術師達の頷く瞳には、甚壱への尊敬が宿っているように見えた。

 

「難しい本ばかり読んでいますよね、あの娘は。そうすれば直毘人様にかまってもらえるかもしれないと思っているんですよ」

「いやぁ、そればかりはなぁ。親父がそんなんで子供を構う訳ないじゃないっスか。相伝の術式か、非相伝でも滅茶苦茶優秀じゃなきゃ。……賢いようでやっぱり女の子なんだよな。正直見てらんないです」

 

 この家では術式がわかる前の子供に当主が構うことはほぼない。昔からそうだった。理由は簡単だ。愛しい女に産ませて可愛がった息子への愛着で、決断を誤った当主が過去にいるからだ。以来、禪院の当主は子供が術師として使い物になると判明するまで、意図的に距離を置く。

 当人自身がその犠牲者である彼──菜緒葉の兄はため息混じりに言った。

 

「でもまあ甚壱さん、女の子の方が早熟だというから。そのうち直哉の方もしっかりしてきますよ。今からアレコレ言ったら可哀想です」

「……だといいがな」

 

 甚爾はそのやり取りを聞きながら、少し呆れた。異母弟へのフォローのつもりだろうが、その分異母妹相手にはとんでもないことを言う奴だと思ったのだ。どんなに賢くても菜緒葉は女なんだから、男がそのうち追いつくだろう──この含意を見抜けない程には、甚爾は愚かではない。そしてその含意を平然と口にできるほど、菜緒葉の兄は禪院に馴染んでいる。甚壱ですらそれを黙認している。いや、甚壱もまた、それを在るべき前提として受け入れているのかもしれない。この家の男は全員、程度の差こそあれ同じ水を飲んでいる。

 

 そういう経緯があって、甚爾は菜緒葉に少しだけ共感していた。

 

 やがて片割れの弟が相伝を引き当てると、菜緒葉は弟の隣を歩くようになり、そして後ろを歩くようになった。彼女の異母兄の予言が叶ったのだ。男がそのうち追いつく。追いつくどころか一瞬で追い越す。菜緒葉の聡明さはこの家では何の武器にもならなかった。

 

 結果、菜緒葉は狂った。

 

 狂った結果がこれなのだろうと思いながら、当初の甚爾は弟子入りを志願してくるガキのことを観察していた。

 

 この家にはあるまじき明るさと積極性。厨房では誰よりも精密に術式を操り、躯倶留隊の男たちには絶妙な距離感で接し、上にも下にも敵を作らない。年長者には敬語を崩さず、同年代にはお嬢様のヴェールの内側から親しみを滲ませ、弟には適度に甘く適度に厳しい。口が悪いのはご愛嬌──不快でない範囲に限るなら、大抵の男は女のわがままを歓迎するものだ。

 

 完璧だった。完璧すぎた。

 

 以前と違いすぎるし、呪力の質もどんどん変わっていく。どう考えてもおかしいのだが、菜緒葉は元々変わった女だったし、弟以外と積極的に関わろうとはしていなかった。目立つ存在でもなかった。それに、ごくまれに元にも戻る。だから、明らかな異常に気付いているらしいのは、甚爾の見る限りでは実の弟だけだ。

 というか、菜緒葉が実のところどういう状況なのかは、甚爾にはよくわからない。心因性の何かだったらこの旧弊な家でどういう扱いを受けるかわからないので、誤魔化してやった方がいいだろう。あるいは概念的な切断にも及びそうな術式の副作用による人格分裂だったとして──そもそもどっちが本体だ? そこがわからないことには手の打ちようもない。

 そしてさらなる問題は、禪院の闇を俯瞰するような態度をやめた新しい菜緒葉に対して──甚爾自身が言語化できない奇妙な感情を抱き始めていたことだった。

 

「そもそも菜緒葉って、いつからあんな風になったんだ?」

 

 異様にグイグイ来る姉ほどの積極性はないので、基本的にはごんぎつねよろしく貢ぎ物を置いていくだけの菜緒葉の弟(名前はよく覚えていない)を捕まえて、質問してみた。

 菜緒葉の弟は、姉とは全く違う。真っ当に無邪気でかわいらしい、年相応のガキだ。だからたまにいじめたくなる。この全世界から愛されているような無邪気なガキが、訳もなく急に殴られたらどんな顔をするのかを想像してしまう。だがやらない。そういうことをするのは少し違う気がする。やったところで後味が悪いだけだし、菜緒葉が怒って飯を持ってこなくなる可能性がある。それは困る。

 

「俺が悪いんやろうね」

 

 隣に座らせてやると、菜緒葉の弟はしばらくの逡巡の末に答えた。雨上がりの湿った風が空気を重く沈ませる縁側、手持ち無沙汰に自分の指先を弄びながら、淡々と。

 菜緒葉から聞いていた性格とは違う。甘ったれたわがままなガキだと聞いていた。事実、姉の前ではそうなのだろう。だが甚爾の前では、このガキは妙に大人びた顔をする。──考えてみたら、本当に満ち足りた人間が猿なんかを構わないか。

 

「オマエのせいで姉貴の性格が変わったのか?」

「うん。たぶん、菜緒葉ちゃんの術式発覚のときにからかいすぎたんやね。気ぃ強くて、あれ位全然気にしぃひんと思ったのに」

 

 ──ただ、ずっと一緒にいると、時々元の姉に戻るらしい。少し意地悪だが、弟を甘やかしてくれる姉に。

 

「次期当主様が、まるで餌を待つ犬みたいだな」

 

 そう嗤ってやった。

 すると菜緒葉の弟は苛立った顔をしたが、彼が持ってきた貢ぎ物の蜜柑の房を一つ口に入れてやったら、その不機嫌は一瞬で終わった。予期せぬ糖分の塊に、菜緒葉の弟は言葉を詰まらせた。

 咀嚼し、嚥下するまでの数秒間。静寂が戻る。菜緒葉の弟は頬を赤らめ、何とも言えない表情で口元を拭った。怒るタイミングを逃し、子供のように大人しくなったその姿は、あまりにも滑稽だった。

 

「……オマエのせいじゃねぇと思うよ」

 

 コイツは何も知らない方がいいのかもしれない。微かな気遣いから、甚爾は菜緒葉の弟の頭を撫でてやった。コイツの名前は……なんだっけ。菜緒葉と似た響きの名前だ。

 

「直哉」

 

 そう呼ぶと菜緒葉の弟はパッと表情を輝かせた。

 どうやら合っていたらしい。

 

 女子供、という言い回しがあるが、直哉の機嫌を取るのは女の機嫌を取るのとあまり変わらない。女に好かれる方法も子供に好かれる方法も同じだ。普段は人として扱って、当人達が望むここぞというタイミングでだけ特別に扱えばいい。重く扱いすぎると相手は身構える。軽く扱いすぎると相手は傷つく。

 

 まあ、どっちの菜緒葉にもそれは通用しなかったが。

 

 

 

 

 

 狂った後の、偽物めいて、いつもキラキラした目をしている菜緒葉。この女の瞳と正面から視線を合わせていると、暗がりに慣れた網膜が灼かれ、強い光を直視した後のような、白く濁った残像が脳裏にこびりつく。

 鏡写しの出来損ないだったはずなのに、新たな菜緒葉はかつての甚爾が完全に諦めたすべてを拾おうとしていた。決して折れなかった。

 そして、どこまでもチョロかった。

 

「見て見て見て見て甚爾様! 指一本で逆立ちができるようになりましたわ〜」

 

 彼女の案外過保護な父親の言いつけもあって、適当な指示を出してつけてやっている『修行』。菜緒葉は「これって本当に修行ですの……?」と馬鹿みたいなセリフを吐きながらも都度従順に従う。他人の善意を信じきっている彼女に対する仄暗い感情を抑え込むのに、甚爾は幾度苦労したことか。この純粋で明朗快活な少女は、猿の言葉に果たしてどこまで従うのだろう。そう考えずにはいられなかった。だが、その破壊衝動は抑え込んだ。この女はあまりにも前向きなので、恵まれて幸福に見えてしまうけれど、元はと言えばこちら側の存在なのだ。傷つけても後で自分が惨めになる。

 この菜緒葉と話していると、いつも奇妙な感覚に陥った。見た目は人形のように可愛らしく、振る舞いも完璧に調教された名家のお嬢様であるにもかかわらず、良くも悪くも生の女っぽさが一切ないのだ。どこかおかしい。それでも、それゆえに話しやすい。

 甚爾がよく話すのはもっぱらこちらの菜緒葉だ。

 

 対して、もう一人の菜緒葉。彼女は『修行』開始以降、ごく稀に出てくるようになった。光に対する影のようなこの女のことを、甚爾は今ひとつ理解していない。この菜緒葉は、基本的に不可解な知識か、あるいは弟への偏執的な愛着を披露する時にしか表舞台に出てこないからだ。よって、元々会話したことがある訳でもない「おかしくなる前の菜緒葉」と彼女が同一なのかはわからない。ただ、挑発的で計算高い娘であるのは明白で、弟の直哉とはまた違う意味で「一度思い切り殴っておくべきだ」と感じる瞬間が何度かあった。

 だが、結局甚爾が拳を振るうことはなかった。

 禪院の煮凝りのような態度をとってはいても、明らかにこの女の本質は脆い。ちょっと手を上げただけで泣きべそをかき始めそうな危うさがあった。そして何より、これを壊してしまえばもう片方の眩しい菜緒葉まで消えてしまいそうな気がして、無性に後味が悪かったのだ。

 

 そういえば。

 厨房の誰かの使い走りにでもされたのか、この少女が唐突に甚爾へ「この家の女の中で誰が一番好みか」を問うてきたことがある。

 眩い優等生モードのときとはまるきり異なる、どこか世捨て人のような、それでいて未来をすべて見透かしたような厭世的な瞳で。

 もう片方の菜緒葉ならこの手の話題には気まずそうにするだけで終わるだろうにな、と思いながらも適当に若い女中の名前を答えると、この菜緒葉は何のつもりか勝手に自らの趣味を開陳し返してきた。

 

「ちなみに、私の方は地味にポニテ萌えと眼鏡萌えがあるんですのよ」

 

 いかにも直毘人の娘らしい、オタクめいた言い回しだ。

 

「あー、ゆかりか?」

 

 その特徴に当てはまる女中の名前を甚爾は挙げた。

 しかし菜緒葉は首を横に振った。

 

「いや、おとなしい系はタイプではありませんの。むしろ真希ちゃんみたいなのがいいですわ。勝ち気な子が苦難に立ち向かうのが好きなんですの」

 

 甚爾は思考を巡らせた。

 己を人間として扱い、名を呼べば喜んだこの家の女たちの名前は、すべて記憶の引き出しに収まっている。だが、現時点の禪院家に、そんな名の女は存在しない。

 菜緒葉はくすくす笑っていた。その姿はどうにも不気味だった。

 

 こちらの菜緒葉を警戒し始めたのは、その時からだ。

 これは本来の「禪院菜緒葉」とさえ何かが違う。

 あれは所詮はただの少女だった。

 だが今は、何かを企んでいる。

 

 結局、禪院家を出ていく間際になっても、菜緒葉の状態の詳細について、甚爾には突き止めきれなかった。理解できているのは、菜緒葉の魂が術式効果か何かで魂が2つある状態になっているのだろうということ。──そして、闇の菜緒葉が凄まじい「厄ネタ」だということだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 家出してから2年。禪院の家を捨ててプロのヒモへと華麗なジョブチェンジを果たした甚爾の日常はどうしようもないものだった。

 

 泊めてくれる女は簡単に見つかる。ただ、しばらくすると何もしないのもどうかという気持ちになって来るので、普通の術師があまりやりたがらない仕事を融通してもらう。呪具がないと何もできないので、手に入れた金で呪具を増やして安心する。ついでにこれまで迷惑をかけた女への礼代わりに、高級そうな服や鞄などを買ってやる。気づいたら大量に稼いだはずの金はほとんどなくなっている。

 甚爾には貯金という概念がない。

 そもそもまともな金銭感覚がない。

 だから、金が残りわずかになってくると、2倍になりますようにと祈りながらギャンブルに手を染める。大抵は失敗し、女がヒステリーを起こし始める。その辺りで、次の寝床と美味しい仕事をまた探さなくてはいけない羽目に陥る。

 以降は同じ無限ループだ。

 

 今日の甚爾はこのループの後半に差し掛かっているところだ。

 朝、彼女が封筒に入った金を机に叩きつけ「今月はこれだけだからね!」と声を荒げながら出社して行った。

 家にいても暇なので、パチンコ屋へ行ってみた。封筒の中身を倍に増やして今夜彼女に何か奢ってやれば機嫌も直るだろう。そう考えた。

 で、負けた。

 台パンした。

 軽く台パンしただけだったのに、パチンコ台が壊れた。

 演出が来ない苛立ちに任せてたった一撃入れただけだ。それなのに盤面のガラスがひび割れ、中の液晶が断末魔のノイズを上げて沈黙した。

 慌てて駆け寄ってきた店員たちの顔には、激昂よりも先に恐怖が浮かんでいた。

 

 こういう時、警察沙汰を避けるための示談交渉と、身元引受人代わりに呼び出せる相手は、直毘人のところの双子しかいない。

 この2年、甚爾が忌まわしい家系と細い糸を繋ぎ続けているのは菜緒葉が例の「厄ネタ」に喰われていないかを確認するためである。

 だが、第二の利点があることはすぐにわかった。

 直哉の携帯に電話を入れると半コールで繋がって、双子をまとめて呼び出せる。双子は大抵甚爾に金をくれる。金をくれないまでも、奢ってくれるし構ってくれる。完璧な仕組みである。

 

 今回もパチンコ屋の店員に菜緒葉が頭を下げ、直哉が札束を渡し、事態は丸く収まった。そして菜緒葉は「甚爾くんともっと話したいですわ」と言いながら、甚爾を喫茶店に連れ込んだ。

 菜緒葉は近況を一生懸命話す。

 

「……それで私、あのクソ親父を説得して、ついに……ついに()()()()()()()に登録されましたのよ!! 」

 

 これを聞くのはもう10回目くらいだった。

 特別4級。呪術界における「一応は術師を名乗ってよろしい」という最低ランク。それをまるで特級を仕留めた手柄かのように語る菜緒葉の瞳は、相変わらずあの異様にキラキラとした光を放っている。

 甚爾は、姉の隣で黙って抹茶パフェを突いている直哉と一瞬だけアイコンタクトを交わした。言葉を交わさずとも通じ合う、男同士の辟易。

 ともあれ、菜緒葉はそこそこ平和にやっているらしかった。

 

「というか甚爾くん。パチンコ台を壊して修理代の持ち合わせがないだなんて、お話になりませんわ。お金に困っているなら、あの日忌庫から盗み出した呪具をどこかで売ればよろしいじゃありませんの。特級呪具なんて、一生遊んで暮らせる値がつくはずですわ」

 

 菜緒葉はさらりと言ってのけた。

 盗品を売って換金。理論上は正しいが、甚爾は鼻で笑った。

 

「あんな出どころがわかりきったモン、どこの業者が買うんだよ。翌日には禪院の術師がそいつの首を刈りに来るぞ。菜緒葉、お前やっぱり泥棒には向いてねぇな」

「当たり前でしょうが。私は本来清廉潔白なお嬢様ですのよ」

 

 ヒートアップし始めた姉に直哉が「まあまあ菜緒葉ちゃん」と言う。

 直哉は常に甚爾の味方だ。たとえ甚爾がヒモでギャンブル中毒のクズであろうとも、彼にとって悪いのは「甚爾くんを満足させられない周りの奴ら」なのである。今回、直哉の冷ややかな視線はこの場にはいない今カノへと向けられた。

 

「それにしても甚爾くん。そのクソアマ……やなかった。彼女さん、甚爾くんに満足な生活費も渡してへんの? 無能な女やね。たかが一般人の女が甚爾くんを繋ぎ止めといてその体たらくは万死に値するわ。俺はこの歳ですでに軀倶留隊の連中よりよっぽど稼いどるのに」

 

 10歳にも満たないガキが吐く純度100%の男尊女卑。禪院基準でも少々異常なレベルである。甚爾はそれを適当に聞き流しながら、申し訳程度に今カノをフォローした。

 

「いや、もらってたんだがな。ほぼスっちまった。……今夜あたり、キレられて追い出されるかも」

「……あのねえ甚爾くん!!」

 

 菜緒葉がテーブルを叩いた。ガタガタと食器が鳴り、説教モードのスイッチが入る。

 

「人はね、額に汗して、真面目に労働をして、その対価でご飯を食べるのがいちばん幸せなんですわよ! お願いだからパチンコでお金を倍にするなんておバカなことはやめてくださいまし! だいたい、甚爾くんのそのフィジカルがあれば、肉体労働なら日給数万円は固いはずですわ。工事現場で鉄骨を運ぶとか、いっそマグロ漁船に乗るとか……」

 

 エトセトラ、エトセトラ。禪院にあるまじき現代日本の倫理観の爆発。永遠に続きそうな菜緒葉の説教が、喫茶店に流れる安っぽいBGMのように甚爾の右耳から左耳へと抜けていく。

 その喧騒の間。

 直哉が誰にも見られないような手つきで、テーブルの下から数枚の万札を滑らせてきた。菜緒葉の説教をBGMに、直哉ははにかむような笑みを浮かべた。

 

「はい、これ。……甚爾くん」

 

 甚爾は半笑いになった。

 

「おー、サンキュ。助かるわ」

 

 返せと言われると面倒なので、即座に財布の奥深くにしまい込み、何事もなかったかのようにコーヒーを啜る。

 

「あーーーー!! ちょっと!! 直哉いま、甚爾くんに何か渡しましたわよね!? 私の話、聞いていましたの!? もう!!!!!」

 

 汚い悲鳴を上げるお嬢様。

 この軍資金を善良な彼女に奪われる訳にはいかない。

 甚爾は最後の一口の冷めたコーヒーを飲み干すと、不機嫌に膨れる菜緒葉の鼻先に、ひらりと手を振って席を立った。

 

 禪院菜緒葉の魂の正確な状況も、自分自身がこれからどう生きるべきかも、甚爾にはよくわからない。

 ただ、懐に収まった数枚の諭吉の感触だけが、今夜玄関から放り出される運命を回避するための唯一の希望だった。

 

 

 

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