音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?!   作:ポ予

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第2部:音MAD領域展開編
『料理人』禪院菜緒葉の憤慨


 日本の呪術師社会においては総監部と呼ばれる非常に有力な決定機関がある。

 総監部は呪術高専への指揮権を有し、緊急時にはすべての呪術師を直接監督するだけでなく、規定に背いた者へ過酷な懲罰を下す権限を持つ。

 この巨大な権力構造に強い影響を及ぼしているのが加茂・五条・禪院の御三家だ。

 

 御三家の筆頭、加茂家は伝統を重んじる最大勢力の保守派であり、一方で五条家は護国の礎である星漿体の守護者『六眼』の輩出に家系の価値のほぼすべてを担保する特殊な形態を取る。

 これらに対し、禪院家は政治的には一応「革新派」に位置付けられていた。一般家庭出身の術師の血も含めて積極的に取り込み数で当たりを引き当てることで、圧倒的な実働戦力を維持してきたためだ。歴史の浅い術式の持ち主である直毘人が当主になってからはこの傾向が更に強まった。才能がなければ実の息子でも放置し、分家の者でも重用する。長幼の序にも頓着しない。これは実のところ日本古来の家父長制的家制度の一般的な様態とは大きく異なる。

 禪院家の暴力性は実はここにある。純粋な血統社会より呪力イデオロギー社会の方が、弱者を徹底的に排除できる。その結果、禪院家の女性や落伍者への扱いは、五条家が眉をひそめるほどのものになっていた。

 

 しかしこの歪な集団に、当主直毘人の娘・菜緒葉が新たな変革をもたらした。

 

 彼女が確立した「呪霊食」が本来は固定されているはずの生来の呪力量を底上げするという、呪術界の常識を覆す成果をあげたのだ。

 現状の調理成功例は術式を持たない呪霊のみ。そして個人差の壁は当然厚く、この技術があろうとも、凡庸な術師がトップ層に並ぶことは叶わない。しかし「使い物にならない」と見捨てられていた層を平均的な戦力へと引き上げるこの技術は、禪院家の勢力を他家の追随を許さないレベルへと押し上げることになった。

 

 それが吉と出るか凶と出るかはわからないが、禪院の「革新」がこれまで取りこぼしてきた物が、現代になって少しずつ拾われ始めている。しかし、その変革の中心にいる禪院菜緒葉本人はと言えば──

 

 

 

 

 

 

 21世紀の始まり。新しい世紀の幕開けに世界が浮き足立っている今、俺こと禪院菜緒葉11歳は絶望のどん底にいた。

 場所はとあるアパートの一室。暖色に彩られ、チューリップの花の飾られたリビングで、俺はクッションを抱きしめながら唸っている。

 

「で、禪院家がイケイケドンドンなのはまあ良いのですが……私自身はいつになったら昇級できるんですの……。直哉のアシスト付きとはいえ新技で1級をぶった斬ったのに……!!」

 

 お千代さんの死後、俺は「懲罰房の呪霊は一切調理したくありません」と言い張り続け、食材の外部調達のために特別4級呪術師の称号を手に入れた。何者でもないただの小娘を連れ回す訳にはいかないので、お父様がとりあえず申請した形だ。とは言えあとは着々と功績を挙げていけば自然に昇級できるかなぁと思ったのだが──てんでダメだった。

 別に禪院家で嫌われている訳ではない。むしろ、立場そのものは飛躍的に向上している。そのせいで却って周りが過保護になってしまったのだ。

 

 保守派も五条も呪霊食を普通にキモがってるっぽい一方、近頃の我が家は完全に呪霊食に全ツッパしている。なので禪院家は俺が死ぬ可能性をなるべく下げたがっている。注目されるような地位や責任から遠ざけたがっている。

 だから呪力操作だけで言えば1級の上澄みレベルに到達し、2級呪霊くらいなら単独でもさくっと祓えるようになってきた今でも、俺には全然昇級の気配がない。ゼロ。皆無。それはあまりにひどすぎないか?

 

「うわぁあああん! 上層部は腐ってるんですわ!!! あのクソ親父もクソ親父です! 昇級するのとしないのでは収入も全然違うのに!!」

 

 父親を常時「お父様♡」と呼ぶ重度のファザコンだった禪院菜緒葉はもういない。あんなのはクソ親父でいい。あいつとは週3で一緒にアニメを観るだけの仲なんだ。しかも、アニメの趣味、全然合わないしな。

 

「禪院家って本当にクソなんだね、菜緒葉ちゃん」

 

 そう言って、慈愛に満ちた手つきで俺の頭を撫でてくれるのは、甚爾くんの奥さん……俺が敬愛してやまない聖母マリア、もとい「お姉様」だ。ボーイッシュなショートヘアが似合う、シン・菜緒葉ちゃんがメロつきそうなタイプの美人である。彼女のおかげで、歩く破壊兵器だった甚爾くんは、今やエプロン姿でキッチンに立つ主夫へとジョブチェンジを遂げた。あんなに好きだったギャンブルをやめて、最近ではスーパーの特売チラシを読み込み始めているのだから、まさに奇跡の更生である。

 キッチンから、不機嫌そうな甚爾くんの声が飛んでくる。

 

「新婚家庭に上がり込んで他人の妻とイチャつくなよ……」

「うるさいですわよ! ヒモの分際で! 私にはもうここ(お姉様の膝の上)しか居場所がないんですの! ……わかりますか、甚爾くん。ついに来たんですわよ、アレが……」

「アレ?」

「ええっと……その……『女の子の日』ですわ」 

 

 ゴニョゴニョと言うと、甚爾くんは露骨に「聞かなきゃ良かった」という顔をして目を逸らした。

 そう、あれは昨日のこと。女性としての身体の成長、その決定的な証が訪れたことを滅茶苦茶恥ずかしい気持ちでおばさまに相談したその夜には、禪院家全体が狂喜乱舞のパレード状態になっていた。お祝いのお赤飯が炊かれて家中総出でお祝いされ、同時にシン菜緒葉ちゃんが完全に引っ込んだ。今はもはや気配すら感じられない。どうやら、五条家とお見合いをしろと言われた時以上のショックを受けているらしい。

 はっきり言って生理なんてまだまだだと思っていた。年齢的には不自然ではないのだろうが、この体はだいぶ小柄だ。自分の体に起こったことにはなんとも言えない衝撃があって、そっとされておきたい時期なのに。

 

「デリカシーという概念がないのかしら、あの人たちは! 私、あんなキショキモ・ハラスメント・ハウスに一秒たりともいたくなくて、お姉様に泣きついて文字通りの家出をしてきたんですわ。お願い甚爾くん、ここに置いてくださいまし! 追い出されたら私、野宿するしかないんですのよ」

 

 俺はお姉様の腰にしがみつきながら、ドラマの悲劇のヒロインも顔負けの勢いで懇願した。視線の先、キッチンでは甚爾くんが菜箸を片手に、こちらを睨んでいる。だが、彼の背後からは肉じゃがの甘じょっぱい、家庭的な香りが漂っていた。

 

「……甚爾くん、そのお鍋の中身、とっても美味しそうですわね! やっぱり男の子も料理ができた方がいいと思いますわよ、私は。だから泊めてください。そしてその肉じゃがを私に食べさせてくださいな♡」

「泊めてあげようよ甚爾〜。菜緒葉ちゃん、可哀想じゃない」

「……チッ。勝手にしろ」

「やったー! 甚爾くん大好き! お姉様はもっと大好きですわ!」

 

 現金なもので、宿泊許可が出た瞬間に俺の絶望は雲散霧消した。

 甚爾くんが作った肉じゃがは滅茶苦茶美味しかった。

 

 禪院家にはあり得ない平和な夜が更けていく。

 洗い物の手伝いを終えた後、リビングの隅で俺は愛用のウォークマンを耳に当て、俺は恍惚とした表情で目を閉じた。実は初潮のショックで意識の奥底に引きこもってしまったシン菜緒葉ちゃんを慰めるため、ある秘策を講じてきたのだ。それは、まだ下手くそながらも直哉の日常の話し声をサンプリングし、『残酷な天使のテーゼ』のメロディに乗せてリズミカルに再構築した、特製の「直哉音MAD」である。最初は非常に苦労したが、最近ではすっかり慣れて、日常のありとあらゆる音が音MADの素材になりうるように思えて来た。

 

「何聴いてんだ、菜緒葉」

「自作の曲みたいなモノですわ♡」

 

 甚爾くんはそれを聞いて「菜緒葉はもしや呪術だけでなく芸術の才能まである天才なのでは?」と勘違いしてしまったらしい。彼は興味津々の様子で「ちょっと聴かせろ」と俺の耳から片方のイヤホンを奪い取った。

 

 そして数秒後。

 甚爾くんの顔から一切の血の気が引いた。

 

「……おい。お前、これ……直哉の声だろ」

「ええ、渾身の作ですわよ。『ドブカスが!』の連打パート、最高でしょう?」

「いいか菜緒葉、正直に言え。これはお前の頭の中にいる悪霊が、何か強制して作らせてるのか?」

 

 戦慄している甚爾くん。

 心底心外である。

 失礼な、純愛(?)だよ。

 

「菜緒葉ちゃんは直哉くんのこと大好きだねぇ」

 

 お姉様は笑顔だった。

 

「ええ。直哉は強いし面白いしかわいいし、おまけに楽器にまでなれるアッチ側の存在なんですわよ」

 

 すぐに他人を見下す性格さえどうにかしてくれれば、直哉は完璧な弟だ。直哉とも一緒にこの家に泊まれればもっと楽しいのに、と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、お姉様が仕事へと出払った後、俺は「お邪魔させてもらっている身ですから!」と宣言し、甚爾くんと一緒に洗濯物を干していた。

 日光を浴びてはためくシーツ。柔軟剤の微かな香り。その平和で家庭的な光景にしみじみとした多幸感を覚えていた時、無機質な呼び鈴が鳴った。届け物かと思ってハンコを持ってドアを開けると、そこにいたのは不機嫌を煮詰めて凍らせたような顔をした愛しの我が弟・直哉だった。

 

「……菜緒葉ちゃん。いつまでここにおるん。今日の任務、行くで」

「あらあら直哉。迎えに来てくれたんですの? 今ちょうど甚爾くんと主夫業に励んでいたところですわ」

「……」

 

 直哉は答えなかった。

 その視線は玄関前に置かれた一枚の写真に吸い寄せられていた。

 二人の入籍時に「せめて写真だけでも」と俺が勧めた結果撮影されたウェディングフォト。天涯孤独に近い二人の門出を祝う者は少なかったが、写真の中の二人はこの世の誰よりも満ち足りて見える。タキシードを着た甚爾くんが、隣で微笑むウェディングドレスを着たお姉様を見つめている。甚爾くんは私が今まで一度も見たことがないような幸せそうな笑顔を浮かべている。俺は甚爾くんと仲良くしているけれど、甚爾くんが自分自身を好きになる手伝いはできなかった。禪院家での扱いのせいで空いた心の穴は埋めきれなかった。だから──

 

「本当に素敵ですわよね。私、この写真大好きですのよ!」

「……」

 

 直哉は全く答えなかった。ただ、寂しそうに表情を歪めただけだった。

 

「直哉?」

 

 俺が顔を覗き込むと、直哉は弾かれたように視線を逸らした。

 

「……菜緒葉ちゃん、新婚家庭にお邪魔し続けるのはマナー違反や。甚爾くん、菜緒葉ちゃんを返してもらうわ。これ以上、ここにいさせるわけにはいかん」

「あー、持ってけ持ってけ」

 

 甚爾くんは洗濯カゴを抱えたまま、追い払うように手をひらひらさせた。その動作一つとっても、かつての刺すような棘は取れていた。

 

 ──直哉は結局、最後までこの家の敷居を跨ごうとはしなかった。そういえば直哉は、お姉様がいる時はほとんど喋らない。お姉様は直哉を内気で照れ屋さんなのだと思っているようだが、勿論それは違う。直哉にとってのお姉様は自分から甚爾くんを奪い去った理解不能な異星人であり、同時に甚爾くんを神様から人間に変えてしまった恐ろしい存在のままなのだろう。

 

「お姉様、素敵な方なのに……」

 

 迎えの車の中で俺がため息をつくと、直哉は窓の外を見つめたまま絞り出すように返した。

 

「……俺、甚爾くんは菜緒葉ちゃんと結婚するんやと思ってた」

 

 ……なんで??????

 

 結局、直哉の思考回路はいつまで経ってもよくわからない。おそらくは非術師の世界に甚爾くんを取られたみたいで寂しがっているのだと思う。俺と甚爾くんが結婚すれば甚爾くんは禪院の身内で居続けてくれるし、自分のお兄ちゃんになってくれる……という、ドリームを直哉は子供心に思い描いていたのかもしれない。実の兄達が割とアレだから。

 ただまあ、俺と甚爾くんの結婚は年齢差的に不可能だということを理解していないのが、直哉のアホさだな。

 

「私を勝手に失恋させないで頂戴」

 

 俺はため息を隠さず今日の指令書をパラパラと捲った。ちなみに直哉と俺はいま『灯』に所属している。部隊の最年少……ではない。蘭太くんという滅茶苦茶かわいい後輩が最近入ってきたからだ。俺の切断術式と彼の拘束術式は非常に相性が良く、最近では蘭太くん、あるいはそのご家族とチームを組まされるのが定例となっている。ただ、昨日蘭太くんが「今日は何のお祝いなんですか?」と、純粋無垢な瞳をキラキラさせて甚壱さんに聞いていた光景を思い出すと──これから顔を合わせるのが死ぬほど気まずい。あのお赤飯ショックの余波を、俺はまだ引きずっているのだ。

 

 

 

 

 任務地は重金属の混じった湿った空気が肺にまとわりつく廃工場だ。特徴的な尻尾のような髪型を揺らす蘭太くんと、そして俺と直哉の異母兄は別の車で先行して現着していた。

 蘭太くんが気遣わしげに声をかけてくる。

 

「えーっと、菜緒葉さん。昨日はその……おめでとうございます、というか。えっと……ご愁傷様、です?」

 

 何と言えばいいか分からないが、とにかく心配はしている。そんな不器用な善意が全身から滲み出ていた。

 ……いい子だ。蘭太くんは本当にいい子だ。だが、その不器用な優しさが俺サイドの羞恥心を一切払拭してくれないのが悲しいところである。

 

「……」

 

 俺が曖昧な引き攣った笑いを浮かべていると、兄が「分かっている」風な顔で割って入った。

 

「……よせ蘭太。レディのデリケートな領分に無遠慮に踏み込むのは、禪院の男として三流の振る舞いだぞ。菜緒葉、辛いなら無理はするな」

 

 ガキの監督役兼回復要員として今回のメンバーに加えられている兄。呪術師としての才能は乏しく、決していい待遇という訳でもないのに、何故か禪院に忠誠を誓っている。ある意味で立派な人だし、兄の中では一番性格がいい。しかし俺はどうにもこの人が苦手だ。そしてシン・菜緒葉ちゃんの方に至っては、完全に毛嫌いしているようだ。

 直哉は案の定「マジで気色悪いねんテメーら、一族の面汚しや」という殺意の混じった冷視を飛ばしていた。直哉は兄が嫌いで、弱者が嫌いで、そして女が嫌い。昨日のお祝いのことも、当事者の俺とは別の意味で気持ち悪がって、場の空気を冷え冷えにしていたレベルだ。

 ……考えてみると、直哉には未だ更生の気配がない。自分より弱い相手を暴力でいじめて楽しむことは一切なくなったが、それ以外の言動は概ね据え置き。ドブカスなまま、何食わぬ顔でかわいい弟のポジションにスルッと移動しただけだった。性格面で言えば真の菜緒葉ちゃんの方がサディストの変人だから、俺もつい……。

 だが、今はこの場をこれ以上ギスギスさせるわけにはいかない。労働中なのだ。任務内容の確認を装って空気を変えることにした。

 

「……たしか対象は準二級相当の呪霊複数体。敷地内に定着して二週間でしたっけ。周辺住民への被害報告は軽微ですが、放置すると等級が上がる可能性あり。──料理の発注も入っていましたわよね?」

「ああ。今回も持ち帰り指定だ」

 

 俺の出した助け舟に乗った兄は頷いた。

 呪霊を殺さずに調理するためにはまず十分に弱らせてもらう必要がある。だから連携が命になる。

 

「という訳で、いつも通りでいきましょう。蘭太くんが止めて、直哉が崩して、私が仕留めますわ」

「了解」

「ええよ」

 

 廃工場の奥へ踏み入ると鉄錆と腐肉が混じったような嫌な臭いが鼻腔を刺した。搬入口の奥、崩れた瓦礫の上に黒い塊が群がっている。人の頭部が三つ溶け合ったような上半身に、蜘蛛の脚が生えた醜悪な姿の生き物だ。

 

「蘭太くん!」

 

 蘭太くんの目が呪霊を捉えた瞬間、空気に見えない粘度が生まれた。蘭太くんの術式は『視界に捉えた対象の動きを鈍化させる』。補助系としては一級品だ。

 その隙を直哉は逃さない。投射呪法による超加速。呪力を帯びた掌底が複数体の呪霊を一気に打ち破る。

 

「おっそいなぁ。準二級ってこんなもんか?」

 

 直哉の嘲笑が反響する。呪霊達が絶叫を上げて身をよじるが、蘭太くんの視線がそれ以上の暴走を逃さない。

 

「直哉、あと1体いるからもう一発! でも殺しちゃダメですわよ!」

「わぁーっとるわ菜緒葉ちゃん!」

 

 二発目の掌底。今度は側面から。呪霊の外殻にひびが走り、内部の呪力が漏れ出す。蘭太くんが再び視線で動きを縫い止める。その拘束時間は数秒。だが俺にはそれで十分だ。

 

 俺は指先を振るった。

 かつては直接触れなければ発動できなかった『切断』。

 今の俺は術式の拡張に成功しているので、斬撃を遠くへ飛ばせる。

 不可視の刃が呪霊を格子状に刻む。呪力の繊維を一本ずつ解き、泥水のような灰汁を、清冽な質へと書き換えていく。

 

「──はい、調理完了ですわ」

 

 呪霊がプルプルとした半透明のゼリー状に変化して床に広がる。これを専用の容器に回収すれば、お持ち帰り完了だ。

 以前は何分もかかった工程だが、今の俺はものの数秒で「不味い呪い」を「食えるエネルギー体」へ変換できる。人を斬らない、いいや斬れないようにカスタマイズされた刃は、呪霊の相手をするにあたっては何の問題にもならない。アタッカーとしての格も、料理人としての腕も、確実に上がっている。

 

「ナイス連携でしたわ!」

 

 蘭太くんとハイタッチを交わす。直哉とも無理やり合わせる。兄は褒めてくれた。

 

「見事だな菜緒葉。術式なし呪霊の料理はどんどん精度が上がっている。味も見た目も以前とは比べものにならないよ」

「ありがとうございます、お兄様。でも私はもっと上を目指したいんですの」

 

 術式持ちの呪霊を普通に調理して動物に喰わせると凶暴化する。しかし術式発動に関わる部分を無毒化すると、摂取時に増える呪力は非常に少なくなる。菜緒葉ちゃん曰くこれは魂の概念が関わってくる問題らしい。そこで我が家は、この非効率的な実験を諦めた。とはいえ元々菜緒葉ちゃんの物と合わせて1つの肉体の中に魂が2つある俺の場合は、もう1体調伏した呪霊の魂を取り込んでも問題ないようなのだが──その魂は適切に選択しなくてはいけない。結局条件に合う呪霊には行き合えないまま、数年が経過してしまった。

 菜緒葉ちゃんはさっさと特級食っとけとか言ってたけど、無茶言うなという感じだ。

 

「努力家だな。でも無理はすんなよ、お前が怪我でもしたら家中が悲しむ。お前はまだ──」

 

 そこで直哉が口を挟む。

 

「兄さんは何もしてない癖にべちゃくちゃとやかましいねん。菜緒葉ちゃんより弱い癖に何上から目線でイキッとんの? 大人ぶるならまずは一人で準二級ぶっ倒してみろや」

 

 兄の目が泳いだ。しかしそれは一瞬のことだった。兄は寂しそうに笑いながら「そうだね」と言った。

 

 ……直哉。今のはちょっと酷すぎるだろ。

 この人の術式を、直哉だって知っている癖に。

 

 しかし叱っても直哉は不貞腐れるだけで反省しないのはわかりきっている。そしてもし俺がここで兄を庇えば、兄は「曲がりなりにも当主の息子なのに女に庇われる無能」になってしまう。この兄はそういう考え方をする人だ。だから、これ以上傷つけられない。

 蘭太くんは隣で気まずそうに視線を落としていた。この子はこういう空気に敏感だ。彼なら後で必ず兄にフォローを入れてくれるだろう。

 

 こんな気まずい家には帰っていられるか。

 

「……じゃ、任務も終わったことですし、私は甚爾くん家に帰りますわ」

 

 しれっと逃げようとしたが、蘭太くんに袖を掴まれた。

 

「いや、甚爾の家じゃなくて禪院に帰ってこようよ」

 

 蘭太くんのツッコミ。直哉と兄も一緒に頷く。考えてみれば蘭太くんのお父さんは甚爾くんの出奔時に大怪我を負っている。甚爾くんへの印象は最悪のはずだ。──それでも、大人達が甚爾くんをいじめていたのがそもそもの問題だとも反省しているようだった。俺と直哉の甚爾くんへの傾倒を我慢してくれている。

 それを思うと蘭太くんの前ではこれ以上駄々を捏ねづらかった。

 蘭太くんは畳みかけるように言ってくる。

 

「そうだ菜緒葉さん。女中頭さん、元気なかったよ。女中頭さんも菜緒葉さんが帰ったら喜ぶんじゃない?」

「おばさまが?」

「うん」

 

 こくこくと頷く蘭太くん。

 ──お千代さんが亡くなってからのおばさまは、以前にも増して感情を見せなくなった。能面みたいな無表情の下で何を考えているのか、俺にすら読めない時がある。そんなおばさまが子供にもわかるくらい元気がないだなんて、何かがおかしい。

 しょうがない。

 

「……わかりました。帰りますわ。おばさまが心配ですもの」

 

 おばさまが心配だ。

 しょうがないから、ちょっとだけ……帰るか。

 

 兄は安心したように笑った。

 兄よりも甚爾くんのことが好きな自分が、一瞬だけ申し訳なくなった。

 

 

 

 

 

 

 夜になってから俺はおばさまの部屋を訪ねた。おばさまは青白い光を放つPC画面に向かい合って作業をしている。そのディスプレイに並ぶのは、初学者が視れば眩暈を覚えるほど複雑な入れ子構造の関数だ。

 

 システムキッチンの導入による家事動線の最適化。それによって捻出された女衆の余暇は事務作業に充てられるようになった。更に、主要な事務資格及び栄養学の資格に関しては資格補助を出されることにもなっている。この資格補助についてはお父様とアニメを観ながらそれとなく提案した結果、導入が決まった。女中がより有能になって、うちの家の運営がスムーズになるのは、お父様にとっても喜ばしいことである。

 ただしこれは俺ではなく菜緒葉ちゃん自身の魂からの発案だった。表向きはWin-Winの提案だが、その裏にある実娘の策謀に、お父様は気づいているだろうか?

 

 それはさておき、勉強熱心なおばさまのOfficeソフトの知識は、今やかつての師匠である俺を遥かに凌駕していた。

 だから最初はマクロ作成の質問を装って世間話を振った。しかしおばさまの反応はどこか空を切るようで、キーを叩く指先だけがやけに規則正しい。

 

「……何かあったんですの? おばさま」

 

 どうにもならなくていよいよ核心を突くと、おばさまは無表情のまま、不自然なほど長く沈黙した。

 

「……子供ができたの」

 

 掠れた声でおばさまは答えた。

 前世の俺なら即座に「おめでとうございます」と返していただろう。あの頃の俺にとって新たな命の生誕は議論の余地なく無条件でめでたかった。けれどもここは禪院家だ。ここで生まれた命は術式と呪力によって査定される。この家で生きた俺には、おばさまが今どれだけの不安に苛まれているのかがわかる。

 

「……双子なの。どちらも女の子よ」

 

 おばさまはそう付け加えた。

 ──知っている。

 禪院真希と禪院真依。この家の運命を変える双子が数ヶ月後には生まれる。

 おばさま自身はまだ知らないことだが、一方は呪力を持たずに生まれる。生まれた時から差別され、実の父に嬲られ、一族を滅ぼす。

 

「……私と直哉も、双子ですわ」

 

 お母様は陰で「畜生腹」と言われていたらしい。最低な話だ。けれども直哉の術式がわかった瞬間に陰口はぴたりと止んだ。亡くなったお母様を悪く言う人はこの家にはもういない。この実績のおかげで、双子だという理由だけでの迫害は減っているかもしれない。もし上手くやれれば──。

 けれどもおばさまは首を横に振った。

 

「直毘人様はこの家で一番強かったでしょう。あなたたちは末子で、二卵性で、しかも二人とも優秀だった。だから許容された。……私と扇は違う」

 

 私のせいで、とおばさまはぽつりと言う。表情は変わらなかった。顔も声も泣いていなかった。なのに、泣いているような気がした。

 

「子供は一人でできないんだから、責任はフィフティフィフティですわよ! 今時そんな酷いことを考えるような脳みそにカビの生えた老人なんて……」

 

 思わず捲し立てたが、当の禪院扇がその手のことを言いかねない男であることを思い出した。

 いや、子供が成長して反抗的になってからならともかく、生まれたてのうちは、流石に──いやどうかな? 希望的観測は良くない。

 俺は結局、あの人のことがよくわからなかった。

 励ましの言葉は、この家の強固な秩序を前にすると酷く無力に感じられた。

 

「……とにかく、私は絶対におばさまの味方です。おばさまはこの家に必要な方です。だから……」

 

 言いながら俺の方が視界が滲みそうだったが、それを無理やりお嬢様らしい微笑みで塗り潰す。おばさまは少しも乱れた様子を見せず、ただ「ありがとう」とだけ言って、再びPCの画面に目を戻した。

 

 この人は本当に強い。

 不安になるほど強い。

 そんなこの人の心の支えに、俺が少しでもなれればいいのだけれど──。

 

 

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