音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
この半年、俺──禪院菜緒葉の朝は一秒の狂いもなく午前四時に始まっていた。
(カチッ、ボッ……ヴォァッ、ヴォァッ!)
真希ちゃんに殴られる瞬間の直哉の声をイメージした脳内BGMのイントロと共に竈に火を起こす。
正直、死ぬほどきつい。前世の記憶が「有給取らせろ」「労基に駆け込め」と毎朝デモを起こしている。一度、猛烈な高熱を出して倒れかけたこともあった。それでも俺は這ってでも竈の前に立った。『一日でも料理をしない日があれば、呪力量を半分にする』──あの「縛り」を、体調不良ごときで破る訳にはいかない。
だが、その対価として得られた呪力操作の精度は、我ながらかなりのものだった。
「あら、菜緒葉。今日も早いのですね」
「おはようございます、おばさま。朝食の出汁、いい具合に引けましたわ」
厳しいおばさまも、最近では仕込みを俺に任せてくれるようになった。文句ひとつ言わず(脳内では罵倒の限りを尽くしているが)立ち働くけなげな俺を、女中たちは「女の鑑」と呼び始めている。扇おじさまからも「才能はないが、女としての弁えはある」というありがたいお言葉をいただいた。「弁え」とかいうふざけた概念ごと燃やしてやりたいが、今は我慢だ。俺の目的は扇おじさまとバトルすることではない。そしてもちろん「いいお嫁さん」になることでもない。俺の目標は直哉とお父様をアッと言わせ、それから禪院家と東京を救うこと。そのために、毎日わざわざ朝4時に起きてまで頑張っているのだ。
「今日は躯倶留隊の合同訓練のためにおにぎり300個の大口発注ですわよね。完成しましたら、皆様のところへ私が届けにまいってよろしくて?」
──『躯倶留隊』。音MADだと、真希ちゃんの無双シーンでなぎ倒されているのがチョロっと映る程度のモブの皆さんだ。呪力はあるが術式を一切持たない身体派の下級部隊。直哉は無理でも、このレベルの人達にならそろそろ少しは歯が立つようになっているかもしれない。
俺の目論見に気づいているのかいないのか、おばさまはかすかに頬を緩めた。
「構わないわ。しっかり挨拶なさい」
そして、一拍の間の後に言う。
「……女は愛嬌が大切よ」
おばさまはこの言葉をいつも少し遅れて言う。まるで口にするかどうか、毎回ほんの一瞬だけ迷っているように。俺はそれに気づいてから、この人がその言葉をどこで覚えたのかをたまに考えるようになった。
誰かに言われて染みついたのか。自分を納得させるために繰り返してきたのか。──どちらにしても、軽い言葉ではないのだろう。
「はいっ、おばさま!」
ともあれ許可は出た。気合を入れる。
通常、海苔切りは専用の裁断機で行うが、俺の場合は指先がそれだ。
パシシシシシシシッ!!
指先を滑らせるたび、黒い海苔が寸分狂わぬサイズで次々と切り分けられていく。
半年前の俺なら、海苔を重ねても一番上の数枚しか切れなかった。今は一発だ。この間、あの黒檀の机をもう一回切ってみたところ、かつて直哉にササクレと笑われた傷跡は──深さ1.5ミリ、長さ9ミリにまで成長していた。
あの宴会場での「0.5ミリ」から、実に三倍。
……三倍で胸を張っている自分が少し悲しくはあるが、進歩は進歩だ。
切り揃えた海苔を指先でそっと撫でる。呪力を流し込む時の感覚は半年でずいぶん変わった。最初は無理やり押し付けるような粗さだったのが、今は水が布に染み込むように自然と馴染んでいく。俺は、時間が経ってもグチョグチョにならないよう繊維レベルで調律した海苔をおにぎりに巻き、籠に詰めていった。
「……あの子、相変わらず不気味なくらい手際がいいわね」
「『菜切り包丁』なんて馬鹿にされてるけど、食材を切る速度だけなら女中頭様より速いんじゃない?」
「夜遅くまで練習してるみたいよ。当主の娘なのに驕らなくて、立派ね」
横でおにぎりを握っている女中たちのひそひそ話が聞こえてくる。褒められるのは悪い気分じゃない。口元が緩みそうになるのを堪える。
「直哉様もあれくらい謙虚ならいいのに。才能を鼻にかけて、昨日も躯倶留隊の子を稽古中に痛めつけたんですって」
「可哀想に。躯倶留隊の子たちは術式がないだけで、この家じゃ虫けら扱いですものね」
直哉、そんなことしてたのか。将来の当主候補がそれじゃ先が思いやられるぞ。
女中の一人がさらに声を潜めた。
「でも、躯倶留隊の子たちだって、甚爾様の境遇よりはマシだわ」
新しい名前だ。
女中達の内緒話には同情だけでなく「自分たちと同じくらい不幸な人がいる」という安堵が滲んでいた。この家の底辺にいる者たちが、さらに下を見て心を保っている。嫌な構造だ。どうにかならないだろうか。
甚爾くん──その名前については音MADの中で耳にした覚えがあった。真希ちゃんとおなじフィジカルギフテッドという特殊体質の持ち主で、たしか直哉が憧れていたような。禪院家音MADの中での出番よりは宿儺のファーストテイクで踊り狂ってた印象の方が強く、性格はよくわからない。とはいえ直哉が憧れるということは、この人は実は滅茶苦茶すごい人なのだろう。なのに迫害されているとは、なんて気の毒な。この家で生活していればそのうち顔を合わせることもあるだろうか。その時は友達になれればいいな。
──でもまあ、今気にすべきは甚爾くんよりも躯倶留隊だ。
激しい鍛錬の後だ、みんな腹を空かせているに違いない。
「おばさま、準備ができましたわ。届けてまいります」
「……一緒に行きましょうか?」
「全然平気です!」
おばさまが一緒じゃ訓練の見学がしづらい。申し訳ないが一人で行かせてもらう。
「そう。彼らは乱暴ですから、気をつけなさい」
おばさまの声はいつも通りフラットで、感情が読みづらい。でも、そこに籠る気遣いは、半年の間にわかるようになっていた。
重い籠を抱え、屋敷のさらに奥へと足を運ぶ。
砂埃の舞う練兵場に踏み込んだ瞬間、空気が変わった。
ほぼ同じ和服、ほぼ同じ髪型の筋骨隆々の男たちが何十人も整列し、一心不乱に鍛錬に没頭している。
「──せいっ!!」
何十本もの木刀が同時に空気を切り裂いた。風圧が頬を叩く。砂塵が目に沁みる。一刀一刀があまりにも疾く、あまりにも重い。
正直なところ──圧倒された。
彼らは「術式なし=雑魚」と一族内で蔑まれている。だが目の前で振るわれている太刀筋には、数十年の歳月を鍛錬に注ぎ込んだ人間だけが持つ凄みがある。若い何人かはともかく、特に強そうな数人には、俺の目では欠片の隙も見つけられなかった。
──俺の1.5ミリの斬撃?
こんな連中を相手に、急所まで指が届くビジョンがまるで浮かばない。
「──そこまでだ! 休憩!」
鋭い声が練兵場に響き、男たちの動きが一斉に止まった。先頭でひときわ鋭い太刀筋を見せていた男が、こちらに気づいて笑みを浮かべる。躯倶留隊の隊員は全員男だ。むさ苦しい練兵場に可憐な女児がひょこっと現れれば、そりゃこうなる。
男は大股で近づいてくると、ひょいと俺の籠を受け取った。片手で軽々と持ち上げる。
「おっ、噂の『菜切り包丁』のお嬢ちゃんか。差し入れありがとよ。重かっただろ、俺が持つよ。腰いわしちまうぜ」
飄々と笑うその顔──音MADに登場していただろうか。少し見覚えがある気もするが、思い出せない。
俺は慌ててお嬢様モードに切り替え、着物の袖を翻して一礼した。
「まあ、ありがとうございます。貴方のお名前は、ええっと……」
「信朗だよ。よろしくな」
「信朗様! よろしくお願いいたします」
信朗と話していると、他にもドタドタと巨漢たちが集まってきて俺を取り囲んだ。音MADのヤラレ役のイメージが強いので思わず身構えたが、彼らは意外なほど人懐っこかった。
「お嬢ちゃん、ありがとな」
「直毘人様の娘さん直々の差し入れなんて、嬉しいぜ!」
「こんな重いの、よく一人で持ってきたな」
困惑する俺を見て、信朗がおにぎりを頬張りながら笑った。
「仮にも当主の娘がこんなむさ苦しいところに来てくれて、皆喜んでるのさ。……ってかこのおにぎり美味いな」
「ありがとうございます」
俺は少しだけ声のトーンを落とした。
「……それと──私の家族が皆様に失礼な態度を取っているようで、ごめんなさい。直哉が昨日虐めたというのはどなた? 謝りたいんですけれども」
信朗のおにぎりを咀嚼する手が、一瞬止まった。困ったように眉が下がる。周囲の隊員たちも互いに顔を見合わせた。
「……健太郎。ちょっとこっち来い」
列の後ろから、中学生くらいの少年がおずおずと前に出てきた。
顔の左半分に大きな青あざ。両腕には包帯が巻かれている。
それを見た瞬間、腹の底から熱いものがせり上がってきた。
……ドブカス野郎。稽古の延長にしちゃ明らかにやりすぎだろうが。
「うちの直哉が、本当にごめんなさい」
頭を下げながら、自分でも不思議な感覚に襲われていた。奇妙なほどに心がざわめく。これは──俺だけの怒りじゃない。菜緒葉ちゃん本来の魂が、震えている。禪院菜緒葉にとっての直哉はあまりにも遠い弟だ。見下され、からかわれ、名前すら時々しか呼ばれない。でも、それでも──片割れであることには変わりない。片割れがやらかした愚行に、この魂は痛みを感じているのだ。
頭を下げる俺を見て、健太郎はかえって気まずそうに身を縮めた。
「……直毘人様のところのお嬢様、お気遣い痛み入ります」
深く頭を下げ返す健太郎の指先が、わずかに震えていた。俺は籠の中から一番よくできたおにぎりを選び、彼の手にそっと乗せた。
「健太郎様、これを召し上がって。怪我に効く……かもしれませんわ」
「ありがとうございます、お嬢様……」
健太郎がおずおずとおにぎりを口に運ぶ。
その瞬間──彼の表情が変わった。
目に力が戻る。強張っていた肩の筋肉が、目に見えてふっと弛緩していく。
俺の術式による調律が、彼の内側に作用しているのだ。『触れた物体を切り、切った物体が纏う呪力を”美味しく”する』──俺はこの半年で、その”美味しい”の定義を少しだけ拡張していた。食べた人の体調を整える方向への呪力操作。呪力不足のせいで成功率はまだ低いが、今回はうまくいったらしい。
それを見ていた信朗が、自分のおにぎりを飲み込んでから、じっと俺の目を覗き込んできた。
「……なぁ、お嬢ちゃん」
「はい?」
「さっきから思ってたんだが──お嬢ちゃん、俺たちの訓練をただ眺めてたんじゃないだろ」
心臓が跳ねた。
「『どうすればこいつらに勝てるか』。そんな目で見てたよな? 六歳にしちゃ、えげつないほど冷めた視線だったぜ」
隠していたつもりだった。
だが、実戦の中に身を置く強者の眼は、誤魔化せなかったらしい。
「ははっ、怖がんなくていいよ。厨房で自分の術式を研究して、ここまで伸ばしたんだろ? もしかして──直哉に勝ちたいのか?」
「……」
「だが、あんたの今の牙じゃ、届く前に肉片にされちまうぞ」
信朗の目は真剣だった。バカにしているのではない。むしろ、親切心で釘を刺してくれている。それがわかるから余計にきつい。
「でも、努力すれば、私だって──」
「向こうも努力してるさ」
「……」
俺が頑張っている間に、相手も頑張っている。
考えてみれば、あたりまえの話だった。
この半年、術式の解釈と精密操作については死に物狂いで鍛えた。だが直哉だって相伝持ちの天才で、一日中修行に明け暮れている。傲慢ではあっても、怠惰な男じゃない。普通の努力では、差は縮まらない。
──じゃあ、普通じゃない努力をしてやろうじゃないか。
「信朗様、御助言感謝いたします。このままでは直哉に勝てないこと、とてもよくわかりましたわ」
信朗は安心したように他の仲間と顔を見合わせた。小さな女の子が直哉に返り討ちにされて怪我する心配がなくなって、ほっとしたのだろう。
でもごめん。
俺は、諦めるとは一言も言ってないぞ。
◇
深夜。
厨房の片隅で、俺は蠟燭の灯りに照らされた呪具の縄を握り締めていた。
まな板の上にいるのは、蔵からパチってきた呪具の縄で縛りつけた一匹の下級呪霊──蠅頭だ。ハゲ頭につぶらな瞳、白い羽。プルプル震えている姿はキモカワイイと言えなくもないが、近くで見ると産毛のような体毛が薄暗がりでぬらぬら光っていて、正直かなり気持ち悪い。この手のちっこい呪霊は、禪院の広大な敷地内にも普通に出没する。
俺は今からこいつを料理して──食べる。
考えてみれば、当然の発想だった。
俺の術式は「該当物質の纏う呪力の質を美味しく操作する」。ならば、呪力を持つ食材を食べれば、その呪力が俺の中に取り込めるのではないか。呪力が増やせないなら、外から補充すればいい。
この作戦を思いついたのは三ヶ月前だ。実行に踏み切れなかったのは、ひとえに「呪霊って食えるのか?」という根本的かつ切実な疑問があったからである。
だが、信朗の言葉が背中を押した。
現状維持は、緩やかな敗北だ。
「……来い」
指先に呪力を集中させる。蠅頭がきゅるきゅると情けない声で鳴き、必死に逃げようともがく。
でも許さない。これは俺にとって初めての呪霊退治なのだ。
パシッ。
蠅頭の首元に、一本の細い切れ込みが走った。長さ九ミリ、深さ一・五ミリ。呪霊の体表を構成する呪力の膜に、俺の斬撃が食い込む。
その瞬間──脳内に、奇妙な情報が流れ込んできた。
この呪霊の呪力の「味」がわかる。
わかるぞ。
黴びた雑巾。腐った牛乳とゲロを混ぜて煮詰めたような、人間の心の醜さから醸成された悪臭。鼻腔の奥がツンと痛む。味覚というより、魂が拒絶反応を起こしている感覚だ。生で食ったら確実に吐く。下手したら死ぬかもしれない。
だが──俺には術式がある。
「……美味しくなぁれ♡ ですの♪」
お嬢様口調でそう囁きながら、指先から呪力を流し込んでいく。切り込みを起点に、蠅頭の体内を巡る呪力の質がじわりと変化し始めた。恐怖の澱が溶けていく。おぞましい腐臭が薄れていく。代わりに浮かび上がってくるのは、もっとシンプルで無害な何か。
料理で言えば、下茹でだ。灰汁を抜く作業に近い。
五分後。
蠅頭の活け作り──完成!
死なない程度の切れ込みを蠅頭の体表に入れまくった結果、俺はヘトヘトだった。呪霊を斬るのは、野菜を切るより断然疲れる。しかし努力の甲斐あって、「味」はかなりマシになっているのがわかる。
見た目は、相変わらず滅茶苦茶グロくてキショいが。
俺はまな板の上のそれを箸で摘み上げ、ゆっくりと──一口、食べた。
「…………」
その瞬間、頭の中でご機嫌なビートが鳴り始める。
噛む。飲み込む。そしてそのまま一気に残りをかき込んだ。
味そのものは──美味しくはない。生ぬるい牛乳をゼリーにしたような、ぬるぬるとした食感が口の中に広がる。歯応えは生の白子に似ているが、後味に微かな苦みが残る。
だが、飲み込んだ瞬間、腹の奥にじんわりと熱が灯った。炊きたての白米を食べた後みたいな、静かな充足感。呪力の器がほんの少しだけ──本当にほんの少しだけ、広がった気がする。
気のせいかもしれない。でも気のせいじゃないかもしれない。
「……もう一匹、捕まえてこよっかな」
蠟燭を持って立ち上がる。暗い廊下の向こうで、蠅頭が三匹、ぷるぷると震えながらこちらを見ていた。
「おいで蠅頭さん達♡ 美味しく食べてあげますわよ〜ん」
そう呼びかけると、蠅頭達は怯え切った顔で一目散に逃げ出したのであった。