音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
禪院直哉は非術師や呪力に乏しい人間を猿だと思っている訳ではない。
それを口にすることで心底苛立たしい相手を効率的に傷つけられるのであれば平然とそう振る舞う。「禪院にあらずんば人にあらず」と周りの大人に合わせて嘯くこともある。だがそのイデオロギーを本気で信奉しているかと問われれば、答えは否だ。そういうフリをしているだけだ。
いつもいつも、そういうフリを。
術式至上主義は嘘。
呪力至上主義も嘘。
禪院だけが人間だなんて嘘だ。
小さい頃には優しい菜緒葉やカスの大人達が「あなたは天才です」と言って褒めてくれていたが、それらだって残念ながらぜーんぶ大嘘であった。
嘘だと教えてくれたのは甚爾だ。
禪院甚爾という男の存在を目の当たりにした瞬間から、人生が滅茶苦茶になった。甚爾を知らなければ、みっともない兄達と同じように家の中だけで通用する序列に安住して生きていけただろう。浮かれていた頃は幸せだった。いや、幸せなんかじゃなかった。
あの頃ですら本当はその嘘に気がついていた。
菜緒葉がいたから。
だから甚爾みたいになりたい。
あの人は禪院の家で呪力がないという一点で存在を否定され、猿と呼ばれ、それでも少しも惨めな顔をしなかった。直哉が正直な気持ちで何かを言うといつも誰かしらに叱られるが、甚爾はもっと酷いことを言われ続けていた。それでもあの人は格好良かった。傷ついたりしなかった。
……
直哉はそれを考えない。考えたくない。
甚爾は結局、よくわからない場所へ行ってしまった。一般人の女と結婚して、今の方が楽しそうに見える。直哉どころか菜緒葉でも埋められなかった何かを満たされて、幸せになっているように見える。
あの家庭の輝きを見ていると、甚爾は自分達では触れられない場所へ行ってしまったのだと実感させられて、寂しい。しかし菜緒葉は思考の面では大抵直哉の先をいくので、甚爾の選択に納得しているようだった。菜緒葉はいつだって甚爾と同じ側にいる。
非術師の暮らし。
甚爾を奪った世界の営み。
それを守るのは名誉だし幸せなのだと、菜緒葉は時たま諭すような口調になって言い始める。直哉にはよくわからない。直哉は強くなるために呪術師をやっている。多分。いや、厳密には少し違う。強くなりたいのではなく、強者の見ていたであろう景色を自分の眼で見たい。
直哉の術式『投射呪法』は、視界を1秒24コマで厳密に刻み、刻んだフレームの通りに身体を動かすものだ。目で捉えるものを寸分の狂いなく再現する。だからかもしれない。世界を「正しく見る」ことへの執着が、人生観そのものに織り込まれている。
──だからまあ、非術師に交じっての行動というのも案外面白いんやないかなぁ、と直哉は思っていた。扇も甚壱も直毘人でさえも「オマエには無理」と口を揃えたが、その事実は直哉の知的好奇心を一切邪魔しない。あんなにも強い甚爾が、何を面白がってあの女を──菜緒葉でも直哉でもなく一般人のあの女を選んだのか。呪術の世界をすっぱり捨ててしまったのか。それは、甚爾が選んだ場所──非術師の世界の日常に触れてみなければわからない。
そうしたら、予想もしていなかったことが起きた。
別嬪さんならまだしも不細工が自分と同格のような態度で話しかけてきたため、驚きのあまり軽く咎めた後の話だ。なんと、菜緒葉が泣いているブス達を追いかけて教室を出ていった直後から、周りの男子達が親しげな様子で直哉に話しかけてきたのだ。
「女子相手に真実を言うなんて度胸あるな、禪院」
「その顔で女に媚びないタイプかよ」
悪意のない声だった。面白がっていた。直哉が容姿の劣る女子3人を一撃で泣かせた事実は、彼らにとっては痛快な見世物だったらしかった。菜緒葉は怒っていたが、やっぱり大したことではなかった。この場所では多少の放言は勲章として処理されるらしい。
直哉は少し意外に思いながら笑顔を作って彼らの話に応じた。
結構楽しかった。禪院家にいる歳が近い男達と喋るより楽しいかもしれない。また、さっきの授業があまりにも理解できなかったために「東大へ行く? 立派やね」という気持ちも湧き始めていた。自分にできないことができる奴をリスペクトしないのは、雑魚のやることだ。菜緒葉だって、非術師にも立派な人はいるのだから敬意を持てと常々説教してきている。
「みんなは大きくなったら政治家とか医者とか、そういう立派な仕事を目指しとるん?」
「うーん。今時は外資やコンサルの方が儲かるからなぁ」
直哉は心の中で思った。呪術師と呪詛師では呪詛師の方が儲かるみたいなものか、と。たまに父が愚痴っている。立派さと金は一致しない。それはどの世界でも同じらしい。
「禪院は?」
「家業継ぐ」
「いいなー、家業あるの。うちはただの会社員だし、親が敷いたレールなんてないの」
「それはそれでしんどそうやな」
レールがないことの辛さは直哉には想像しにくいが、甚爾がそうだったとも言える。禪院のレールから放り出され、自分で道を切り開かなければならなかった人。格好いいと思う。
眼鏡の男子が、ペットボトルのお茶を飲みながら言った。
「まあ家業も家業でだるいけどな。うちの母親さ、元看護師なんだけど、俺を東大の医学部に行かせるって決めてて。物心ついた時からずーっとそれ。塾のスケジュールも全部母親が管理してて、成績下がると夕飯の時に延々説教。もうね、飯がまずくなる」
「お前んちの母ちゃん、教育ママだよなあ」
「教育ママっていうか……親父が言うならまだわかるんだよ。親父は実際に医者だし、頭いいし。でも母親はさ、看護師だろ? 医者になったことないのに、医者になれって。何がわかるんだよって思うわけ。しかも自分は受験してないくせに、勉強のやり方とか偉そうに指図してくる」
もう一人が同調する。
「全くだよ。お前は東大出てないくせに東大行けとか言うなっつー話。うちの母親もそう。パート先で『うちの子は〇〇中で──』って自慢してるらしいんだよ。小学校の時の友達から聞いた。まじ勘弁してくれ」
直哉は少し笑った。
「ほーん。どの業界もそうなんやなぁ」
軽い相槌だった。だが、その軽さの下で、直哉の中の何かが静かに共振していた。
直哉の母は負債のような術式を持って生まれた。それでも努力して1級への昇級推薦を受け、しかし結局特級呪霊に手も足も出なかった。そしてその時自分を助けた強い男に──2回り以上年上の直毘人に嫁いだ。
父、禪院直毘人。
豪放磊落で破天荒、これまでの当主がやらないことをする人物だと家中では評されている。直哉もそう思っていた時期がある。だが甚爾の存在を知って以降、直哉の見方は変わった。父は禪院のご立派な伝統とやらを1ミリも信じていない。信じていない癖に、根本的なところには手を入れない。いや、入れられない。信じていないものの頂点に立って、有象無象の我が子をまともに育てることができない、そういう男だ。アレは。
醜いと思う。父ではない。父の「強さ」に寄生する道を選んだ母親がだ。
眼鏡の男子が続ける。
「でもさ、母親ってそういうもんじゃね? 自分ができなかったことを子供で取り返そうとするっていうか。俺が医者になったら母親は『医者の母親』になれるわけじゃん。看護師の自分じゃ届かなかった場所に、息子経由で手が届く。結局、俺って母親の道具なんだよな」
道具。その言葉は思いのほか正確に刺さった。準一級になるまで努力した母の業績など、もはや誰も覚えていない。アッチ側に行き着く前に中断されてしまった努力になぞ、何の価値もない。相伝を産んだ。そんなくだらないことが母の最も大きな業績だった。おかげで商売下手な母の家族は権勢を取り戻し、禪院家も安泰。そして直哉は、得物を持つのは良くないという母の教えを、なんだかんだで今日まで忠実に守っている。
「──まあ、母親がうるさいのはどこも一緒やね」
直哉は笑ってみせた。
非術師の男子達も笑った。共感で繋がった、ささやかな連帯。母親がうざい。自分の人生は自分で決めたい。──そういう、誰も傷つけていないように見える合意が、教室の一角で静かに成立した。ついでにメールアドレスも交換した。
帰ってきた菜緒葉に改めて叱られても、直哉は全然反省しなかった。「禪院の姉貴って怒っててもかわいいな」と小声で言われて、なんなら少し気分が良かったかもしれない。
◇
深夜。目が覚めたのは喉の渇きのせいだった。
隣で菜緒葉が寝息を立てている。手の中には電源の切れたウォークマンが握られていた。菜緒葉の音楽の趣味はシンプルに気色が悪いが、音源使用許可を与えたのは過去の無邪気だった直哉自身だ。姉の数少ない娯楽を不条理に奪って、また性格が激変したら怖い。最近、ただでさえ仮面が分厚くなっているような気がするのに。
むかし親族達がこっそり話していた。
菜緒葉はせっかく優秀なのに胎の中で片割れに呪力の多くを譲って、女なんかに生まれてしまって勿体無いと。
禪院家において最も重要な要素とされる要素だけ譲って出涸らしになった姉は、直哉より断然大人っぽくて、物心ついた頃からそのことについて比較されなかった日はない。術式が発現した日、直哉は初めて姉を本当の意味で追い抜いた。追い抜いたと思った。追い抜いたと信じたかった。それで調子に乗ってうっかり突き放したせいで菜緒葉は性格が変わって過剰にいい子ぶるようになり、本当の自分を閉じ込めて生きている。──直哉の現状の認識としては、そういうことになっていた。直哉が父より強くなって家を継ぎ、逆らう者がいなくなれば、菜緒葉もそのうちこの猫被りをやめてくれるだろう。最後に姉が素の態度で話しかけてきたのは直哉が『落花の情』をマスターした時だった。彼女は──この家の人間は、強い直哉のことが好きなのだ。昔の姉はいつも言ってくれていた。「直哉はきっと、この家で一番の術師になりますわ」と。もしなれなかったら──また追い抜かれたら、菜緒葉はもう元には戻らないかもしれない。でも、そんな無様を晒す気はない。自分達は扇のところの双子とは違う。
直哉は少しの間姉の寝顔を眺めてから、音を立てずに布団を抜け出した。
冷蔵庫を開けてお茶を取る。ペットボトルのキャップを捻ると、リビングのテーブルランプの小さな明かりが目に入った。
兄が報告書を書いていた。
「……まだ起きとったんか」
兄は書類から顔を上げた。
「ああ。報告書を仕上げないとな。明日の授業の時間帯にお前達が塾に行っている間、俺は外回りで張り込みだ。現場周辺の残穢の分布記録も残しておきたい」
「別にそんなもん適当でええやろ」
「適当にはできない。もし万が一お前達に何かあった時、経緯が記録されていなければ後の対応が遅れる」
直哉はソファに腰を下ろしてお茶を啜った。
兄は万年筆を動かしている。父から贈られた万年筆だ。直哉が知る限り、直毘人がこの兄に贈った唯一のもの。父は概ね誰にでも気さくだが、同時にどこか無関心。そんな父親の犬を可愛がるような気まぐれな優しさに満足しているこの男は、どこまでも惨めに思えた。
「直哉」
兄が視線を書類に落としたまま言った。
「お前たちの役割はあくまで情報収集。何かあったらすぐ撤退な」
「戦闘なしで済むならそうするわ」
「あと、なるべく菜緒葉の側を離れるなよ。俺の『転傷』は届く範囲に限界がある。お前達にバラバラに行動されると庇いきれない」
「庇ってくれとか俺は頼んでないんやけど」
「頼まれなくてもやるよ。それが俺の仕事だし」
兄の声には迷いがなかった。もう何年も自分に言い聞かせ続けた言葉なのだろうが、本当に無様だ。直哉がこの男の立場だったら、自ら首を括っている。コップをテーブルに置いて、少し話してみることにした。
「……兄さんの術式ってさぁ。菜緒葉ちゃんや俺が死にかけた時、ダメージの半分を自分が被るんやろ。つまり俺らがしくじって致命傷食らったら、兄さんが死ぬかもしれへんってことやん」
「そうだな」
「それ、怖くないん?」
兄の万年筆が止まった。ペン先がテーブルランプの光を小さく反射する。兄は少し言い淀んでから答えた。
「怖いさ。だが、お前や菜緒葉が死ぬよりはマシだ」
兄は万年筆を置き、直哉の方を向いた。
「……俺には術師としての才能がない。お前はそろそろ炳に入るという話なのに、俺は3級呪霊を倒すのでさえ時々苦労する。だから、俺の仕事はより有用な仲間の傷を請け負うことなんだ」
言いたいことは沢山ある。「お前が死んだら俺はともかく菜緒葉ちゃんは傷つくのに、男の自己陶酔ってほんま女々しくてキショいわ」とか。「そんなこと言ってお前結局俺の半分も稽古の時間取っとらんやろ」とか。「菜緒葉ちゃんの半分も術式の解釈や縛りの工夫をやっとらんやろ」とか。でも、そこまで含めての「才能がない」ということなのだろう。
直哉は兄が嫌いだ。呪力があるのに弱い男を見ていると苛々する。こんな男でも禪院家での階級は「猿」より上。女より上。兄は、直哉が甚爾と話すたびに注意してきた。少し包丁を使うだけで叱ってきた。この男のどこに甚爾より優れた部分があるのか。菜緒葉より役に立たない男が、どうして菜緒葉の作った物を食べているのか。
けれども最終的に口にしたのは──
「……それ、あの人に言われたん?」
父のことだった。
兄は少し硬い声で返す。
「自分で決めた」
「嘘やろ」
「嘘じゃない」
「ほんなら思考停止やな」
「……」
言い負かしたい訳ではない。
ただ、気に入らない気持ちを正直に表明しているだけだ。
「兄さんっていっぺんでも自分の頭で考えたことあるん? 弱いなら頭使わんどうにもならんのに。それとも、弱いからそうなったん?」
「……」
「俺、ちっちゃい頃、厨房にいる女中は術師になれへん負け犬やと思ってた。でも菜緒葉ちゃんがお野菜切っとんの見て、ちゃうんやなぁって気づいたわ。あの人らも案外工夫しとるよね。女にも劣る男って、生きる価値あるんか?」
兄の表情が硬く強張った。何か言い返そうと口を開く。だが結局のところ、乾いた呼気が漏れるだけで言葉は形を成さなかった。
直哉はそれ以上の追及を放棄し、冷めた視線を逸らした。言いたいことは全て投げつけた。そして、それを聞いたところでこの男が変わりはしないことも、残酷なほどに理解していた。
重苦しい沈黙を埋めるように、キッチンから冷蔵庫の低いモーター音が唸りを上げている。
兄が震える手で万年筆を握り直し、逃げるように報告書へ意識を埋没させようとした、その瞬間だった。
ベランダ側の闇。二重ガラスの向こう側から、粘りつくような呪力の塊が三つ、物理法則を無視した初速で肉薄してくる。
「伏せろ、兄さん!!」
直哉は叫ぶと同時に『投射呪法』を発動。兄の胸ぐらを掴み、力任せにソファの裏側へと引き倒したあと、戦闘態勢を取った。
数秒後、リビングの窓ガラスが派手な破砕音と共に爆散する。冷たい冬の夜気と、無数の銀の破片が荒れ狂う嵐となって室内を蹂躙した。
飛び込んできたのは──虫のようでいて、その実、精巧な球体関節人形にも似た不気味な異形が3体。体長は15センチほど。甲虫の如き硬質な外殻を備えながら、その顔面には不釣り合いなほど巨大な眼が爛々と輝いている。報告書で見た、最初の事件で代議士の息子が遣っていた式神と同一の外見。
3体は空中で弾けるように散開し、天井、壁、床へと貼り付くように陣を敷く。
報告書によれば、代議士の息子が遣っていた式神は念動力を使うという話だったが──
「はぁ? 詐欺やん!」
右壁の一体。口部から紫電を帯びた光線を吐き出した。呪力の純粋放射。かなり強い。事前に聞いていたパターンと全然違う。
直哉は裸足のまま、ガラスの破片が散らばる床を鋭く蹴り上げた。
『投射呪法』──重ねて発動。
視界のスクリーンに1秒24コマの軌跡を投射し、そのフレームに己の肉体を完全同期させる。思考から実行までのラグを極限まで削ぎ落とす。第3コマ目で射線の癖を読み切り、第5コマ目で死角へ滑り込む。そして第7コマ目。加速の慣性を全て乗せた掌底が、式神の頭部を内側から爆発させた。不気味な外殻が砂のように崩れ落ち、呪力が霧散する。
第12コマで左の一体に向かう。口元から炎を噴射するが、熱量はチャッカマンの火程度。
「火力が足りひんねん」
直哉は冷ややかに言い捨て、パジャマの袖が焦げるのも構わず、返しの回し蹴りでその胴体を叩き折った。
2体撃破。開戦から僅か4秒。
しかし3体目は違う。他の2体が直哉を迎撃しようとしたのに対し、この1体は初手から直哉を無視し、ソファの裏にいる兄へと狙いを定めている。
戦術の定石。
直哉は激しい舌打ちと共に強引な加速で兄の前へと割り込んだ。兄はソファの陰で必死に呪力を練っているようだが、その立ち上がりはあまりに遅い。呪力は腹からだと教わってないのだろうか。根本がなってない。
三体目の腹部に渾身の掌底を叩き込む。
──だが、通らない。
手応えはある。確かに捉えた。しかし、式神の外殻が打撃の衝撃を波のように分散し、完全に吸収してしまう。まるで粘土かゴムの塊を殴っているような、厭な弾力。二撃、三撃と追撃を見舞うが、全てが虚しく吸い込まれる。
ただ、どういう術式かわからない。
どこかで覚えのある呪力。けれども思い出せない。昼間の塾では沢山の嫌な呪力を感じたからだ。
式神が醜悪な笑みを浮かべるように口を開き、無数の刺針を射出する。
直哉は兄を背に庇いながら、回避行動を取る。だが、守るべき置物がある以上、動けるフレームが劇的に制限される。
「兄さん、奥の部屋へ退がれ! 邪魔や!」
式神の刺針が直哉の右腕を深く抉る。
生々しく肉が削げ、鮮血が夜の空気の中で弧を描く。
一拍遅れて、焼けるような激痛が脳を焼いた。
「直哉ッ!」
兄の悲鳴に近い叫び。同時に、彼の呪力が異様な脈動を始める。
『転傷』の発動。直哉のダメージを強制的に自分へと引き寄せようとする献身の奔流。
だが発動しない。
肉が抉れたとはいえ、それは致命傷ではない。事前に定められた「身代わりの条件」に届かない程度の傷。兄の呪力は行き場を失って虚空を彷徨い、空振りして消えていく。
──やっぱり、首括って死んだらええねん、こいつ。
心底そう思った。
だが皮肉なことに、この兄が存在するからこそ、菜緒葉は危険な前線へ出る資格を父から得ている。弱い男が強い女の行動を支配している。何もかもが矛盾している。でも、絶対にこの兄を死なせる訳にはいかない。
戦闘開始から10秒目。
「──直哉にしては珍しい。何をそんなに手間取ってるんですの?」
乱れた黒髪を無造作に揺らす、禪院菜緒葉の起床。
「コイツ、攻撃中々効かんねん! 術式を突き止めないと!」
「いいえ、私の術式なら多分平気ですわよ」
菜緒葉が流れるような所作で空を撫でると、不可視の斬撃が空気を層状に切り裂き、直哉の掌底を拒絶した式神の外殻へと叩き込まれた。
切断線が式神の体表面に走る。
次の瞬間、式神は砕けて霧消していた。
防御無視の、飛ぶ斬撃。
菜緒葉は、直哉が直毘人から貰った絵コンテ集を見ながら、その発想を口にしていた。『自分の視界をコンテの1枚であると定義して、その紙ごと切るイメージで世界そのものに刃を置くイメージをすれば斬撃は飛ぶし、上手くいけば防御無視にもできるはずですわ!』と。
直哉は絶対に無理だと思った。
だってどこからどう考えても不可能だからだ。
しかし菜緒葉は成し遂げた。
最初は呪詞の詠唱を重ね、複雑な掌印を必須とした。それを3年かけて極限まで省略し、ついには世界の理をねじ伏せた。
しかも『菜切り包丁』はかなり燃費がよく、縛りの影響で『調理』用途に限れば呪力ロス率も凄まじく低いので、数年間呪霊食を続けた今の菜緒葉なら、これを1日複数回は撃てる。
紛れもないアッチ側。
人を斬らない縛りがなければ、理論上はあの五条悟さえ殺せるのではないか。
控えめな菜緒葉はその偉業をひけらかさず、詳しいメカニズムは直哉にしか話していない。自分の凄さをどれだけ理解しているのかも判然としないような有様だ。
最初に聞いた時、直哉は吐きそうになった。
自分が菜緒葉の友達に八つ当たりをして菜緒葉を怒らせなければ、人を斬らない縛りなんて必要なかった。
それがなければ、姉はどこまで行っていたのか。
菜緒葉自身は「呪力が少ないから、どの道この縛りなしでは辿り着けませんでしたわ」と笑う。
呪力さえもっと多ければ、そして男だったなら、父は菜緒葉を当主にしただろう。菜緒葉が胎の中で直哉に呪力を譲って、女なんかに生まれてしまったばかりに、こんなことになった。あの完璧な姉が、たった2つ、呪力量と性別という取り返しのつかない欠損を背負って生きている。
そしてそれらはもしかしたら昔からの言い伝えのように、自分が胎の中で奪ったものなのかもしれない。菜緒葉が男に生まれることこそが本来の形だったのかもしれない──。
いや、考えても無駄だ。
このままでは追いつかれてしまう。そう思って焦ってとりあえず『落花の情』を特訓して、今は『反転術式』についても勉強中だ。前者はともかく、後者は全然上手くいかない。ひょっとしたら自分にはセンスがないのではないかとたまに心配になるが、弱気な感情はすぐに振り払う。
今はただ、菜緒葉や甚爾と同じ側に立つ。
それだけが直哉の生きる座標だ。
──菜緒葉はふぅと短く息を吐くと、すぐに振り返って直哉の右腕を凝視した。ほんの一瞬、その瞳に痛切な色が混じる。心配しているのだ。
「……見せてくださる?」
菜緒葉の冷たい指先が、直哉の傷口に触れる。
その瞬間、かつて経験したことのない衝撃が駆け抜けた。
本来は負の性質を持つ呪力が逆転し、失われた欠片を強引に埋めていく、澄み渡った、それでいて圧倒的な圧を伴う力。
『反転術式』のアウトプットによる、他者への治癒。
数秒後、菜緒葉がぱっと表情を輝かせた。
「よっしゃー、大成功! 呪霊食スキルのレベルアップより優先して、古の資料を漁りまくっといて良かったですわ!」
菜緒葉は千代を失った教訓から、「失う前に手を打つ」方向に適応した。反転術式の勉強もその延長線上にある。兄を肉壁にしろという父の命令に逆らえない代わり、兄の死亡率を下げるための手段を用意しておく。菜緒葉は兄をよく思っていないが、直哉のような残酷なことは絶対に考えない。
とは言え『反転術式』の行使には才能が必要である。他人へのアウトプットも尚更で、普通はどんなにやろうとしてもできない。
菜緒葉の術式は呪力を『美味しく』するモノで、当人の呪力操作も一級品。だからこそ成し得た奇跡がこれだ。
「……菜緒葉ちゃんって、ほんまに……」
天才だ。
姉は昔のように前を歩いていくようになるのかもしれない。そうなったら直哉に残されるのは相伝という生まれついての優位だけだが、その優位が虚構であることは、甚爾から既に教わっている。
どうしたら、姉の前を歩けるようになるのだろう。
けれども当の菜緒葉はどこまでもお気楽だった。
「……あー、でも、やっぱり呪力をほぼ使い切っちゃいましたわ。これは戦闘中の実践的な使用は絶対無理ですわね。『ざけんなや 呪力が練れん ドブカスが』ってなっちゃいますもの」
「……何それ菜緒葉ちゃん、俳句?」
菜緒葉は答えなかった。満足げな笑みを浮かべ、その場で立ったまま寝落ちしそうになっている。仕方なく直哉は力の抜けた姉を抱き上げた。さっきまで確かに穴が開いていた腕には傷跡一つ残っていない。痛みすら、遠い記憶の向こう側だ。
「……」
兄と静かに目を合わせたが、結局お互い何も言わずに終わった。
多分、今は兄の方がしんどいだろう。
だからって先程吐いた言葉を飲み込むような真似は、直哉にはできないが。
こうならないために、ちゃんと〈男〉でい続けるために、生涯努力をし続けなくてはいけないのだと思った。生まれつき男なのに。
一族の他の人間と違ってすごく正直に生きているつもりなのに、どうして嘘つきのような気分になるのかは、自分でも不思議だった。
対人無効とはいえ世界を断つ斬撃は流石にやりすぎじゃない??とびっくりされてそうですが、理屈は滅茶苦茶考えてます。そのうちわかるはずです。ちなみに少しだけ手掛かりを述べておくと、この技は現状マコ人格の方しか使えません!