音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?!   作:ポ予

24 / 48
テストプレイ② 今回の食材

 田中里奈は学校を休んだ。

 仮病ではない。昨晩から頭の奥がずきずきと脈打っていて、朝には視界の端が時々ちらつくようになった。母親が心配して病院を勧めてきたが、何と説明すればいい? 「飼っていた不思議な生き物が昨夜死んでから体調が悪いんです」とでも?

 結局JRに乗り、新宿で降りた。雑居ビルの階段を上がる足取りは重い。平日の昼間、桐永会のビルは静まり返っている。授業は土曜だけだ。だが、この場所は里奈にとって塾であると同時に、もっと別の何かだった。困った時に行く場所。力をくれた人がいる場所。自分を自分にしてくれた場所。聖なる教会。

 

 里奈は昔から周りより頭が良かった。

 小学校の時に通っていた塾では常に一番上のコースだった。第一志望の名門女子校にも受かった。親は教育熱心で、里奈自身もそれに応えてきた。賢い子だらけの環境に入ってからも、里奈は依然として上位をキープしていた。

 成績が良いというのは単なる数字の問題ではない。周囲の大人が自分を見る目が変わる。「あの子は優秀だ」という評価が一度確定すると、それは鋳型のように里奈の自己像を形作った。優秀であること。選ばれた存在であること。それが里奈にとっての自分自身の輪郭だった。

 だから数ヶ月前に中学1年生になって桐永会に入塾し、それから真岡先生が力をくれたことも、里奈にとっては全部当然のことのように思えた。

 力というのは、丸い目をした甲虫のような小さな生き物のことだ。知能が高く、魔法のような力を使えて、選ばれた人の目にしか見えなくて、里奈の命令をなんでも聞く。守護霊みたいな存在。家族には見えないペット。「この子は君みたいな特別な才能がある生徒の中からしか生まれてこないんだよ。この子が大きくなるまで育てなさい」と真岡先生は言った。「面白い」と思った。そして即座に「この子には名前がいる」と思った。

 アズラエル。

 里奈はこの名前をどこかで読んだ。ライトノベルかもしれないし、宗教学の入門書かもしれない。どちらにせよ、里奈はこの名前の本来の意味を知った上で選んでいる。死を司る天使の名前。ユダヤ・イスラム系の天使学に登場する、魂を肉体から分離する役割を持つ存在。

 他者の生死すらも左右しうる神の力。

 そしてそれ以来、里奈は不思議な物を見るようになった。さらには真岡先生の『特別授業』で得た情報の断片から自分で情報を繋ぎ合わせ「魔法の力」を使った身体強化についても習得し、普通なら持ち運べないような大荷物だって持ち上げられるようになった。友達を襲った痴漢を投げ飛ばした時なんかは最高の気分だった。まるで正義の味方だ。

 里奈は単に頭がいいだけではない。

 選ばれた戦士だったのだ!

 

 里奈はアズラエルを使ってさまざまな正義を執行した。

 新聞で見つけた汚職疑惑の政治家。ニュースで報じられたブラック企業の社長。彼らの住所を調べ、アズラエルを差し向けた。もちろん殺しまではしない。一生悪いことなんかしたくなくなるように痛めつけ、重傷を負わせるだけ。里奈はそれで満足だった。世界を少し良くしている、と心から思えた。

 同じ『特別授業』を受ける仲間が、里奈の成績に嫉妬して自分のペットを差し向けてくることもあった。しかしアズラエルは最強なので、里奈は決して負けなかった。敗者は桐永会をやめたり、学校自体をやめたりした。正義は必ず勝つのだと思った。ペットを悪用する仲間のことは成敗した。そのせいで一部の男子は里奈をうざがっているが、里奈のアズラエルに彼らの攻撃は通用しない。

 真岡先生は全部知っていた。里奈がアズラエルをどう使っているか、把握していた。でも一度も止めなかった。一度も「やりすぎだ」とは言わなかった。だから正しいことだと思っていた。あの真岡先生が止めないなら、絶対に間違ってない。

 

 成績上位。そのおかげで自己肯定感が高く、気が強い。おまけに『選ばれた』彼女にとって、教室に突然現れた神秘的な姉弟は興味の対象だった。2人は里奈がなんとなく全身に巡らせて使っている「魔法の力」をとんでもなく効率的に全身に回していて、おまけに顔もかなりいい。里奈はただの男の子なんかには興味はないが、これはコバルト文庫の小説にそっくりなシチュエーションだった。転校してきた謎の美形姉弟。

 そしたらアレだった。

 

 里奈は泣いた。

 悲しかったからではない。怒りのあまりだ。

 あの手の悪口は、里奈がこれまで本やアニメで見てきた「噛ませ犬の悪役」が吐く台詞そのものだ。現実でこんなことを面と向かって言う人間は、里奈の人生にはほぼ存在しなかった。なぜなら里奈の周囲にいるのは賢い人達であり、ルッキズムに汚染された暴言は「頭の悪い人間がやること」として軽蔑の対象だからだ。あんな言葉が自分に向けられたという事実が信じられなかった。

 だから馬鹿にはお仕置きが必要だと思って、あの少年と親しそうにしていた男子達から彼の最寄駅を聞き出し、アズラエルを差し向けた。里奈にとって、それは正義の行使だった。いつもと同じように。

 なのにアズラエルは帰ってこなかった。仲間と駅前のファストフード店で待機している時に突如襲ってきた。自分の中で何かが真っ二つにされたような喪失感と、あとはこの体調不良。他の2人もペットを倒されたが、こんなに酷い状態にはなっていないという。

 

 訳がわからない。真岡先生に助けて欲しかった。真岡先生はなんでも知っていて、いつも助けてくれる。

 

 エントランスを抜けると、見慣れない女の人とすれ違った。妊婦だった。上品で美しい顔立ちだが、額に傷を縫ったような痕がある。ゆったりとしたワンピースの上から腹部の膨らみが見て取れた。目が合った。その目は穏やかに笑っていたが、里奈の背筋に一瞬だけ冷たいものが走った。理由はわからない。

 生徒の誰かの母親だろうか。こんな平日の昼間に。

 里奈はそのまま通り過ぎた。

 

 一番奥の教室の扉を開けると、真岡先生はいつものようにそこにいた。

 先生は窓辺のデスクに腰掛け、片足を組んで文庫本を読んでいた。表紙が見える。最近の芥川賞受賞作だ。里奈が入ってきた気配に気づくと、本にしおりを挟んでこちらに顔を向けた。

 真岡先生は不思議な人だ。

 歳は二十代の半ばくらいに見える。明るい茶色の髪を無造作にかきあげ、清潔だがカジュアルな恰好。黒縁の眼鏡をかけていて、その奥の穏やかな目元がよく笑う。シャツの袖を肘までまくっている。塾講師というより、大学生がそのまま教壇に立ったような気安さがある。

 件のペットを持っている生徒や、これから持つ資格のある生徒にだけ、真岡先生は『特別授業』の受講を許可する。教える内容は歴史上の異能の伝承、認知科学の端っこ、東洋哲学の概念、量子力学の初歩。頑張ってこの情報を繋ぎ合わせ、里奈達は自分に与えられた力の正体を考察する。その間に思考能力が鍛えられているのか、どれも普段の勉強とは関係ないはずなのに、先生の特別授業を受けた生徒は例外なく成績が上がる。それだけならば謎めいた講師で済む話なのだが、先生にはそれ以上のものがあった。先生の言葉には不思議な重力がある。先生が「できるよ」と言えばできる気がするし、先生が「難しいね」と言えば本当に難しく感じる。先生の評価が、里奈にとっての世界の基準軸だった。

 

「先生」

 

 里奈は真岡先生の前に立った。声が震えているのが自分でもわかった。

 

「アズラエルが死にました」

 

 真岡先生はデスクから降りた。革靴が床を叩く軽い音。眼鏡を外して拭きながら、先生は里奈を見る。表情は変わらない。いつも通りの穏やかな顔。里奈が望む答えを出してくれる顔。この人は常にそうだ。テストの採点結果を返す時も、アズラエルを手渡す時も、余裕があって優しかった。

 

「アズラエル……あー、式神のことかい?」

「はい。昨日の夜、急にいなくなって……それから頭が痛くて、目がちかちかして。先生、また新しい子をもらえませんか」

「あ、それは無理」

 

 あっさりと言われた。眼鏡をかけ直しながら。

 里奈は一瞬言葉を失った。「無理」という返答が、この先生の口から出るとは思っていなかった。先生は里奈にとって「できる」を与えてくれる人だった。「無理」は先生の語彙にない言葉のはずだった。

 

「一回きりだよ。最初に説明しなかったっけ?」

 

 真岡先生は窓際に歩いていき、ブラインドの隙間から差し込む冬の陽光に目を細める。外を見下ろす横顔は穏やかで、里奈が何を失ったかについて微塵も心を痛めていないように見えた。

 

「じゃあ、授業をしようか、田中さん。式神がいなくなったなら、今後のことを知っておいた方がいい」

「今後のこと……?」

「僕は君の魂を経由して、君の脳のデザインをいじった。術式を発動できるように、脳の中の回路の配置を組み替えたんだ。で、術式はひとり1個。式神は君の脳みその組み替えた状態を維持すると同時に、術式の出力口を兼ねるオーダーメイドの補助輪だった。非術師の魂は、魂の再デザインの上での余計な部位とか、逆に圧倒的に不足している部位とかが多すぎるから、そういうのがどうしても必要なんだ。補助輪が外れたわけだから、これから君の脳はどんどん不安定になっていくよ」

 

 先生は笑顔で説明する。そして「俺の術式だと人間の形をそこまで大きく変えられないから、こういう小手先の技術に頼るしかないんだよね」と小さく付け加える。教壇で微積分の解法を教える時と同じトーンだった。

 理解が追いつかない──なんていうことはなかった。里奈の偏差値は78だ。因果関係は一瞬で把握できた。把握できたからこそ、恐怖が腹の底からせり上がってくる。

 

「不安定って……」

「頭痛、めまい、感覚の混乱。場合によっては術式が暴走するかもしれない。放っておけば僕の術がゆっくり解けて、最終的には元の脳に戻ると思うけど──半分くらいの確率で中途半端な状態で固着して、まあ、死ぬかちょっと頭がおかしくなる可能性もあるよね!」

「そんな……そんなの、聞いてません!」

 

 本当に聞いていなかった。浮かれていたからきちんと話を聞いていなかったとかではなく、本当に教わっていなかった。

 

「ああ、言い忘れてたかな。ごめんね」

 

 ごめんね、と言うその声に謝意は微塵もなかった。むしろ「残念だったね」というような感情が滲んでいた。まるでテストの点が悪かった生徒に向ける顔。里奈は今まで、この顔を向けられる側になったことがなかった。

 里奈は両手で自分の頭を抱えた。頭痛が脈打っている。さっきよりも強い。目の奥が熱い。

 

「先生、どうすればいいんですか。私の脳、元に戻してください。お願いします!」

 

 必死に縋った。

 里奈を支配するのは純然たる恐怖だった。

 死にたくない。頭が悪くなりたくない。障害を負いたくない。

 里奈にきちんとリスクを教えてくれなかったのは真岡先生だが、助けてくれるのだって真岡先生しかいなかった。

 

「うーん、できなくもないけどさぁ……」

 

 真岡先生は窓辺を離れ、里奈の前に戻ってきた。腰を屈めて、里奈と目線を合わせる。生徒に寄り添う良い先生の姿勢。

 

「でも、式神……アズラエルちゃんだっけ? の件だけど──それは君の意思で他人を呪った結果の自己責任だよね?」

 

 先生は穏やかに言い放った。

 

「呪った? 私は正義の鉄槌を……!」

「じゃあそれでもいいや。僕はアズラエルちゃんを君に与えた。使い方は君が決めた。で、そのせいで傷ついた人が何人もいる。そうでしょう? なのに失敗した場合の責任を自分で取らないって、ちょっぴり無責任なんじゃないのかな?」

 

 里奈は何も言えなかった。

 今更怒られるとは思っていなかった。

 しかし反論できない。

 先生は常に里奈の自主性を重んじ、選択肢を与えて、選ばせてくれた。判断の主体は常に里奈だった。

 

 先生の声は優しい。

 優しいからこそ逃げ場がなかった。

 

「でも。さすがにちょっと可哀想かぁ」

 

 真岡先生は里奈の前に立ち、静かに右手を伸ばした。里奈の額に指先が触れる。冷たい指だった。

 里奈が「魔法の力」と呼ぶものが流れ込む。ぬるりとした、内臓を撫でられるような感覚。里奈は反射的に身を引こうとしたが、体が動かない。指先から伝わるその力が、里奈の体の内側で何かを──何かの位置を、静かに丁寧に、ずらしている。

 頭の痛みが引いていく。視界のちらつきが収まる。代わりに、腹部の奥に鈍い違和感が生まれた。

 数秒後、真岡は手を離した。

 

「はい、おしまいっ」

「……何を、したんですか」

「今ので頭痛、消えたんじゃない?」

 

 里奈は自分の体を見下ろした。外見に変化はない。頭は確かに楽になった。しかし何かが違う。お腹のあたりが重い。重いというより、収まりが悪い。パズルのピースが一枚だけ隣のピースと入れ替わったような、そういう種類の違和感。

 

「帰っていいよ。学校、休みすぎると内申に響くでしょ」

 

 その言葉に里奈は従った。先生の言葉には従うものだ。里奈はずっとそうしてきた。先生が「帰っていいよ」と言えば帰る。先生が「頑張ろうね」と言えば頑張る。先生が「君が決めたんだよ」と言えば自分で決めたことにする。

 里奈はよろめきながら教室を出た。廊下を歩く。足取りは来た時よりもさらに重い。

 

 すれ違いざまに、さっきの妊婦が教室の前に立っているのが見えた。壁に寄りかかり、穏やかに里奈を見つめている。

 

 里奈はそのまま階段を下り、ビルを出た。冬の風が頬を刺す。お腹の違和感は消えない。

 

 

 

 

 

 

 田中里奈が去った教室に、虎杖香織はノックもせずに入ってきた。真岡は窓辺のデスクに戻り、文庫本を手に取りかけて、やめた。大親友に対するように、香織へと満面の笑みで手を振る。

 

「よっ、カオリン」

 

 香織はうっすら微笑み返した。

 しかしあまり楽しそうな顔はしなかった。

 

「……ひどいことするね」

「どの辺が?」

「うーん、全部?」

 

 香織は上品な所作で里奈が座っていた椅子へと腰を下ろす。妊娠中の体は何をするにも不自由だが、この女はその不自由さを欠片も気にしていない様子だ。少し膨らんだ腹に手を添え、背もたれに深く体を預ける。その様子は、この体の持ち主ではない者が借り物の肉体をたまたま運用しているという印象に近い。真岡は初めて香織に会った時からそう感じていた。

 

「真岡、さっきの子の内臓いじったでしょ。死ぬんじゃない?」

「えーっ、人間誰しもいずれは死ぬよ?」

 

 大袈裟に声をあげてみせる真岡に、香織は窓から差す光の中で目を細める。陽光が額の縫い痕を明瞭に浮かび上がらせている。彼女には自分のおどけた態度や柔らかい声、心理学的な技術が一切通用しないことに真岡が気付いたのは、いつのことだっただろうか。

 

 「実は、最近呪術師に目をつけられ始めたから、病気に見せかけて人を殺す練習をしてみたくなったんだ。頭を治してあげた代わりにそれくらい、許されるだろ」

「ふーん。それで、あの女の子の式神を壊したのもその呪術師かい?」

 

 香織は本題へ入った。その表情には犠牲者への憐れみは微塵も存在しない。死はあくまでも結果のひとつだ。虎杖香織はむしろ、混沌に満ちた過程こそを愛する。

 真岡は椅子の背にもたれ両腕を頭の後ろで組みながら、のんびりと答えた。

 

「うん。新しくうちに入ってきた姉弟。式神とは常時視界を共有してるからアズラエルちゃん越しに少し見たんだけど、かなりの実力者だよ。姉の方は飛ぶ斬撃を使う。弟は速すぎて目で追えない。最近の中学生はすごいなぁ」

 

 感心しきった声。その裏に緊張はない。脅威ではなく、教え子の才能を語る講師の口調。真岡にとって、あらゆる子供は愛すべき存在だ。

 香織は軽く頷いた。

 

「禪院の子だね」

 

 真岡は少し目を見開いた。

 

「知ってるの?」

「うん、この依頼が禪院に回るように手配したのは私だから」

 

 真岡の余裕に満ちたポーズが少し崩れる。突然の裏切りに、真岡は口を尖らせて抗議する。

 

「ちょっと〜カオリン、俺たちは友達じゃなかったのかい?」

「うーん。君の術式はキライじゃないよ。非術師を術師に近づけるアプローチの一例としては、なかなか面白い。ただ、外部補助なしでは維持できないのが弱点だね。式神が壊れた瞬間に全部瓦解するんじゃ、スケールしない」

 

 図星だった。それは真岡自身が最もよく理解している限界だった。式神を配れる人数にも制限があって、香織の求める1000人単位には到底及ばない。

 真岡は子供たちを我が子として扱い、式神というプレゼントまで与える。それは普通の人間には理解できないだろうが、真岡にとっては楽しい趣味。

 そして異常者である香織にとっては──

 

「選民意識の強い思春期の子供に術式を与えたら勝手にデスゲームが開催されるかと思ったら、思いのほか盛り上がらなかったのも痛いね。気に入らない弱者をいたぶる子達ばかりだ。殺人を犯す者がほぼいないのは、流石に高偏差値の賜物かな。でもつまらない」

 

 最初は興味津々だった香織は、次第に桐永会に飽きて来ているようだった。

 

「そんなこと言われてもなぁ……」

 

 真岡は困ってみせる。けれども香織はあまり構う様子を見せなかった。香織は真岡のような生き物を少し軽蔑しているらしい。

 

「で、私は禪院の始めた『呪霊食』にも少し興味がある。禪院家は術式持ち呪霊の調理を諦めたと表向きは言っているが、それは事実だろうか? 君はどんな味がするのか、禪院の娘にインタビューしてもいいかもしれない」

「俺、実験台?」

「いやいや。実験台と呼ぶほど大げさなものでもないかな。どっちが勝つかもわからないんだし、君がこれからずらかるって手もある」

 

 真岡は唇の端を歪めた。笑みではない。苦味に近い。眼鏡を外し、蛍光灯にかざして汚れを確認する仕草。動揺を隠しているのだと香織も理解しているだろう。

 

「逃げる訳ないだろ。ここは俺の家なんだ。ここには俺の子供達がいるんだ」

「はいはい、そう言うと思った」

「カオリンは随分と正直だね」

「嘘をつく理由がないからさ。君の術式の原理は興味深い。式神を通じた脳の再配置は、私がずっと考えてきた問題の──非術師と術師の壁をどう超えるかという問題の、一つの解答ではある。不完全だけど」

「不完全、ね」

「補助輪なしで成立しないシステムは、結局のところ管理者に依存する。管理者が消えれば全部崩壊する。それじゃあ足りない。私が欲しいのは、管理者がいなくても自律的に回り続ける混沌だ」

 

 真岡はその言葉の意味するところを静かに理解した。

 この女にとって、真岡は使い物にならない試作品だ。原理は参考にするが、システムとしては採用しない。式神に依存する真岡のネットワークは、管理者としての真岡が消えた瞬間に瓦解する。この女が求めているのは、もっと根本的な──魂そのものを書き換えて、外部補助なしに非術師を術師に変換する方法だ。真岡の「再配置」ではなく、「変形」。

 それができる存在をこの女はまだ見つけていない。だから真岡のような不完全な代替品を眺めて暇を潰している。

 

「最近の私はむしろ、君自身に興味がある。君ほど社会に溶け込んでるのは、ここ1000年でちょっと見たことがないかな。どうして教師なんかやってるんだい?」

 

 真岡は眼鏡をかけ直した。少し考えてから答えた。

 

「実はね。塾長の桐永さんが誘ってくれたんだ。彼、所謂霊感みたいなのがあるタイプだったんだけど、呪術界のことなんか全然知らなくて。俺の術式で脳の神経をいじって、子供の頭を良くできるんじゃないかって期待したみたい」

「できるの、それ?」

「つまんなーい。呪術師に改造する方が楽しい。で、改造しまくってたら塾長の奴、『話が違う』とか言い出してさ。生徒の脳をいじるのを最初に頼んできたのはオマエだろって思って、ムカついて殺しちゃった!」

「……」

「俺は結局のところ、大人が嫌いだ。子供達のことだけが好きなんだよ。やっぱり真っ当に、順当にみんなが頑張るのを見る方が楽しいよねぇ。うん。彼らの中に眠っている力を引き出すのはとても楽しい! テストの結果が上がって喜ぶみんなの顔を見るのも好きだ。『先生のおかげです』と言われるのも、悪い気分じゃないしさ」

「……ふぅん。それ、普通に小学校でも良くない?」

「いや、学校の機能は煩雑すぎる。道徳教育とか部活動とかオトモダチとか。だけどここはシンプル。大抵の子供はテストを怖がるけど、それはテスト自体が怖いんじゃない。何が怖いのか、カオリンはわかるかい?」

「『テストを見て評価する人』だろう?」

「正解。……現代社会では、父親は伝統的な父親じゃない。それどころか、家族の概念そのものが変わり始めている。だけどその機能は社会の中にバラバラに保持されて、そして学習塾に集中しているのさ! ここにいる子達は本当にかわいいよねぇ。自主性を高める教育、その結果があの子達なんだもの」

 

 香織は胎を撫でさすりながら、じっと真岡の話を聞いていた。長い時間をかけて何かを測っているような目つきだった。教室の蛍光灯が二人の顔を均等に照らしている。窓の外では新宿の雑踏の音が、薄いガラス越しに遠く聞こえている。

 

「…………で?」

 

 出来の悪い大学生の発表を最後まで聞いたゼミ教授のように、香織は顔をしかめて尋ねる。

 真岡はそれに肩をすくめて答えた。

 

「で、もなにも。それだけだよ」

 

 両手を広げて、何も隠していないという仕草を作る。まるで海外の映画のような仕草だ。

 

「俺はこの仕事が好きなんだ。向いていると思うし、生徒達も僕のことを好いてくれている。それの何がおかしい?」

「おかしくはないよ。ただ」

 

 香織は腹部に添えていた手を離し、少し考えた。正確に言えば考えるフリをした。香織の答えは最初から決まっている。

 

「──正直に言うと、ちょっとつまらないかな」

 

 ちょっとつまらない、という顔ではなかった。

 真岡は黙った。

 蛍光灯がジジ、と点滅する。

 

「君の次の一手はその術式と君のやり方から論理的に導ける。驚きがないんだよね。そうは言ってもかなり珍しいサンプルだから、もう少し面白いことを言ってくれないかと期待したが、やっぱりダメだったか。君達はいつもそうだよ」

「カオリンは俺に何を期待してたの」

「もう少し……人間っぽいものかなぁ。矛盾とか、逸脱とか、自分でも理由のわからない衝動とか。だけど君にはそれがない。君は自分のやり方を忠実に実行してるだけ。そこから外に出ることがない。出ようとすらしない。だからつまらない」

 

 香織は失望し切った顔で椅子から立ち上がった。膨らんだ腹を片手で支え、もう片方の手で髪を耳にかける。冬の光が額の縫い痕を横切る。

 

「うちの子が生まれたら、こんな塾なんかに入れずに田舎で伸び伸び育てるよ」

「どの口で言ってるんだよ。子供のことなんか愛していない癖に」

「私はこの子の未来の可能性を愛しているよ」

「……」

「──もし万が一、何か予測不能なことをしてくれたら、君のこともちょっとだけ見直すかもしれないね」

「……」

 

 真岡は答えなかった。

 香織はそのまま教室を出ていく。廊下に足音が遠ざかり、階段を降りる気配が消える。

 真岡はその後ろ姿に攻撃しようとは思わなかった。一人残された教室で天井を見上げる。

 蛍光灯の白い光が、まっすぐに降り注いでいる。デスクの上に置いたままの文庫本が、読みかけのページを開いたまま伏せてある。

 

「……あーあ。つまらないなんて、初めて言われたなぁ」

 

 呪術師、厳密には呪詛師の卵となった生徒達への特別授業は楽しい。子供達は真岡を「面白い先生」だと言う。授業が面白い。説明がわかりやすい。先生といると自分が賢くなった気がする。そう言ってみんな真岡を好いてくれる。田中里奈もそうだった。──しかし考えてみれば、それは真岡の授業が面白いのであって、真岡自身が面白いのではないのだろう。真岡のやり方が優れているだけだ。やり方を取り去った真岡に、何が残る?

 

 

 しかし真岡は、結局思考を放棄した。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 




とうとうオモロに真摯なあの人が出てきました。
そしてあの人に露骨に飽きられ始めている真岡先生が今章のボスです。
さて、彼はいったい何の呪霊なんでしょうね…?
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。