音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
妊娠中のお姉様に熱いものをそのまま出すのは良くない気がする。
急須に茶葉を入れ、沸かしたお湯を一度湯冷ましに移す。湯気が立つのを眺めながら、10秒ほど待つ。指先で湯冷ましの肌に触れて、もういいかなと思った頃合いで急須に注いだ。蒸らす間に湯呑みを三つ並べる。
茶托は一つだけでいい。お姉様の分。甚爾くんには要らない。この人も何日か間の護衛の仕事でひと稼ぎして帰ってきたばかりではあるけど、繊細な気遣いは不要だ。いつも元気だし、そもそも茶托なんて置いたところで、気づいた時には湯呑みが直置きされている。最初からなくたって変わらない。
お姉様は最初のうちは「自分の家でお茶を出してもらうなんて! 甚爾がやれ!」と言っていたが、俺の淹れるお茶の方が甚爾くんのそれより断然美味しいことが発覚すると、あっさり陥落した。かわいいよね。
甚爾くんとお姉様のお家の台所は狭い。禪院家のキッチンの十分の一もない。けれども温水機能はデフォルトだし、ここで作ったものは全部大好きな人の口にだけ入る。
だから、この台所に立つのが好きだ。
お盆を持ったまま、リビングに向かって話し始める。
「──で、さっきの話の続きなんですけれども、その塾で弟が女の子に声をかけられまして」
塾の授業は土曜だけなので、合間の平日は自由にしててもいい。「反転を使って疲れてるだろうし、俺達が式神の持ち主のところへ行ってる間は休んでなさい」と兄から言われ、結局ここに遊びに来た。
2人が出かけている間に行って戻ってくればいい。仮に遅れたら適当に誤魔化す。折角関東での任務なんだし、遊びに行かない方が損だ。というかそもそも、疲れなんてもうとっくに抜けてるのだ。俺を休ませたがるのは兄の自己満足だと思う。あれは心配している言い方ではなかったし、1人でいる方が正直今はしんどい。
甚爾くんはソファから可笑しげな顔をして振り返った。
「おっ、直哉の奴にもとうとう春が来たか?」
「一瞬ね。秒速で憎まれてましたわ。おかげで拠点のお部屋が破壊されて、たった1日でお引越しすることになったんですのよ」
「そりゃそうか。あいつ、あの性格のままだと将来は絶対女に刺されるぞ。間違いない」
甚爾くんはゲラゲラ笑っていた。
本当に酷い男だ。他人事だと思って。
そういうあなただって、一度や二度は刺されそうになった経験があるんじゃないのか──と、お盆を持っていない方の手を振り上げてみる。
「もう、甚爾くんのバカ!意地悪! 私の新技パンチを味わいたいんですの?」
「いや、お前の『カットアップ・サンプリング・リミックス』はたしかに強いが、俺には無効だろ」
「あっ! そうだった!」
残念残念。
そんなゆるい話をしながらお盆に湯呑みを3つ並べて運んだ。
こうしているともはや、第二の家という感じだ。
新しい拠点が結構近所だったおかげで助かった。人格融合問題と兄との軽い諍いと女子特有の体調不良が重なって、ひとりでいると気が塞いできてしまう。俺は落ち込んでる時には体を動かしていないとどんどん思考がマイナスになっていくタイプだ。1人ぼっちで見知らぬ部屋に閉じこもっているなんて論外。
今はとりあえず、お姉様の隣に座り、干し芋のパックを膝に引き寄せて1枚取る。じんわりと甘かった。あまりのおいしさに思わず頬に手を当てる。
「今日もおいしそうに食べてくれるねえ」
お姉様が慈しむような目で見つめて笑う。その笑顔はあまりに眩しくて、かわいすぎた。
この大容量パックの干し芋は、テレビを観ていたお姉様が「干し芋食べたいな」と呟いたのを聞き逃さなかった甚爾くんが、一瞬でスーパーまで疾走して買ってきたものだ。甚爾くんの足なら片道2分もかからない。帰ってきた時には息ひとつ乱れていなかった。ただ、二人では絶対にもて余す量なので、結局俺が来るたびに御相伴に預かっている。
ふと甚爾くんの横顔を盗み見ると、驚くほど穏やかな表情をしていた。禪院家では絶対に見せなかった顔。なんだか、それを見ているだけで胸の奥がじんわりと温かくなる。
お姉様は湯呑みを両手で包み、手のひらを温めながら、ふと思いついたように小首を傾げた。
「……というか、直哉くんって菜緒葉ちゃんの話を聞くたびにものすごい爆弾発言ばっかりしてるイメージだけど、女の人にトラウマでもあるの?」
「強いていうなら──お母様の亡くなられ方? でしょうか……」
「……」
口に出してから、少し後悔した。お姉様の表情が少し曇ったからだ。
この話はもうやめておくことにした。
「そんなことより直哉ったら、なんとジャガイモすらまともに切れなくって……!」
声を明るく切り替える。ここでは陰惨すぎる話はしないことに決めている。吐いた言葉があまりに醜いと、この家の穏やかな空気まで汚してしまう気がするから。
だからもちろん、内臓の位置が異常な死体の話なんかは絶対にできない。
昨日の襲撃のおかげで、事情は多少わかってきている。さらに兄が塾職員に聞き込みをして調べたところ、教師がいないのに生徒が大量に座って授業を受けているという、ホラー映画もびっくりな光景を目撃した人がいるらしい。
生徒たちに呪術師としての力を配布する、何者かの存在。
何らかの術式を使って、思春期の子供たちを精神的に籠絡している呪霊。
この二つが鍵なんだろうな、と干し芋を齧りながら考える。
兄は「これだけの情報が集まれば十分だ、すぐに撤収して本家に報告すべきだ」と慎重論を唱えていた。しかしこちらの腹は決まっている。今回は何が何でも術式持ちの呪霊を捕まえて、食べたい。
家での立場とか、取り込みたい呪霊のレベル条件とか、そんな悠長なことを言っている場合じゃなかった。毎月くるアレが想像以上にやばすぎるからだ。そして制服に袖を通して以降、この違和感への自覚が強まっている。菜緒葉ちゃんが消えて俺だけが残ってしまうのは、あまりにも恐ろしいし寂しい。菜緒葉ちゃんに何かあったら、直哉にも顔向けできない。
あいつはかわいい。今朝は当人なりに心配してなのか滅茶苦茶ご飯をおかわりさせてきた。あと、『反転術式』の使用感を根掘り葉掘り聞いてきた。俺は『落花の情』を少し使うだけで呪力が尽きてぶっ倒れそうになるし、ステゴロだって結界術の才能だって向こうの方が上っぽいから、別にこの程度のことで焦る必要なんてないだろうに。頑張ってて偉いと思う。前世の俺は一人っ子だったから、弟がこんなにかわいいものだとは知らなかった。
それと比べて兄ときたら──
「おかわりいる?」
考え事をしながら話しているうちに、いつのまにか干し芋を食べ切っていた。
「いえ、十分ですわ、お姉様」
丁寧に断って、ベランダへ出た。
ふと窓の外を見た途端、素敵なものが目に入ったからだ。
ベランダには場違いなほど立派なプランターがある。お姉様の趣味だ。ここには一年中何かしら植わっている。その葉の中に、鮮やかな色をした芋虫がいた。
それが俺の関心の的だった。
かわいい。
俺は滅茶苦茶芋虫が好きだ。大好きと言っても過言ではない。
指先をそっと差し出すと、芋虫はゆっくりと登ってきた。ぷにぷにした感触が心地よい。思わず微笑みが溢れてしまう。
甚爾くんとお姉様が、後から窓の近くに出てきた。なんとも言えない顔でこちらを見ている。
「……どうしたの菜緒葉ちゃん、様子が変だよ?」
「ああ、お姉様。実は今朝、お兄様とケンカして来たんですの。あいつ、超ムカつくんです。私があの人の使えない技を使えるようになったからって不機嫌になって、朝ごはんの品数が少ないだなんてケチをつけてきたんですのよ。そうしたら私が謝って、もう一品作るとでも思ってるのかしら? 直哉は客観的に見て私より強いからいいですけど、
猫被りは控えめの荒めの口調。気を抜いている時の、地に近い喋り方。これはいつも通り。けれども甚爾くんの視線が一気に険しくなったのが、視界の端に映った。そしてその視線の意味を考えるよりも先に、お姉様が遠慮がちに声を上げる。
「……菜緒葉ちゃんってたしか、虫キライだったよね。前にカナブンが入ってきた時、ギャーってすごい声上げて……」
え?
芋虫が指先からぽとりとプランターに落ちた。落ちたのを見て、反射的に拾い上げようとした。
その自分の手を見て、息が止まりそうになった。
拾おうとした。虫を。この手で。
俺は虫が嫌いだ。カブトムシをゴキブリの仲間だと本気で思っていた前世からの筋金入りだ。男らしくないなと自分でも思っていた。
女の子の体に宿ったおかげでその特徴は「かわいい」ものになった。悲鳴を上げたら誰かが代わりに追い払ってくれる。それはそれで居心地が良かった。
──本当の菜緒葉ちゃんは違った。
虫は完璧な生き物だと思っていた。無駄がなくて効率的で綺麗だから。もしかしたら人間よりよっぽど上等なのかもしれないとさえ感じていた。直哉が小さい頃にバラバラにして遊んだ蝉の死骸を、彼女は嫌がるどころか貴重な教材として眺めていた。人間の内部構造とは全然違って面白い、と。けれども虫が好きだなんて女の子らしくないので、完璧に隠した。多分誰にも気づかれなかった。
「あ──あの、これは……今のは……」
声が出たが、自分の声かどうかわからなかった。声帯は一つしかないのに、その一つがどちらの意志で振動しているのか判別できない。
指先が冷たくなる。
顔から血が引いていくのがわかる。
俺は前世からの虫嫌いだ。
菜緒葉ちゃんは虫が好きなのを隠す。
じゃあ、今の俺はなんだ?
甚爾くんは警戒した顔をしている。この人は前々から、俺が悪霊か何かに取り憑かれているのではないかと疑っているようだ。だが、この件について詳しく話したことはない。毎回はぐらかして誤魔化している。だって──どっちかっていうと俺の方が悪霊側なんだと知ったら、甚爾くんはどんな顔をするだろう。絶対に嫌われるに決まっている。もうこの家に来られなくなる。
怖い。
──ふと、肩にお姉様の手が置かれた。それから腕が回された。お腹が間にあって、ぎこちない抱擁。けれども腕の力はたしかだった。
「大丈夫だよ」
お姉様は明るく笑った。
「大丈夫だからね、菜緒葉ちゃん。菜緒葉ちゃんは菜緒葉ちゃんだから」
柔らかい言葉が、頭のてっぺんから染みていく。
まるでお母様みたいだった。
心がスッと落ち着きかける。
それと同時に思い出す。
──俺はあの時、この人のお腹の子を、当主争いから排除しようと思っていたのだ。いや、厳密には菜緒葉ちゃんか。菜緒葉ちゃんは俺に嫌われたくなくて、それを隠していた。甚爾くんに縛りを持ちかけようとして、拒絶されて、俺に丸投げして逃げて、その間に起きた出来事についてはずっと何も言わなかった。魂が別々だった頃には、俺はそれを知らないでいられた。
今はもう駄目だ。
俺達は本当に、最低なことをしてしまっていた。
お姉様は何も悪くない。お腹の子も何も悪くない。なのに俺達は、まだ名前すらない命の人生に、勝手な手を突っ込もうとしていた。
そう考えると、堪えきれなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
謝罪が漏れた。
菜緒葉ちゃんのものなのか、自分のものなのかもわからない謝罪を繰り返した。
菜緒葉ちゃんの声で、俺の涙が落ちる。それとも、俺の声で、菜緒葉ちゃんの涙が落ちているのか。もうわからない。
お姉様はぎこちない姿勢のまま、何も訊かなかった。何も訊かないまま、ただ髪を撫でてくれた。支離滅裂な俺のことを、お姉様はずっと抱いていてくれた。
◇
眼下の歩道に紺色のコートを着た小さな背中が見える。足取りはしっかりして、あんなにも泣き崩れていたのが嘘みたいだ。角を曲がる直前に一度だけ振り返って、こちらに気づいたのか軽く手を挙げた。甚爾は挙げ返さなかった。菜緒葉の姿が建物の影に消える。
──玄関で靴を履く頃には、菜緒葉の目元の赤みはほとんど引いていた。「今日は取り乱してしまってごめんなさい、お邪魔しました」と丁寧に頭を下げる姿は、いつもの完璧なお嬢様だった。
けれども甚爾はそれを信じきれなくて、花の咲き乱れるベランダからずっとそれを見下ろしている。
天与呪縛の優れた感覚をもってしても感じきれないほどに菜緒葉が遠くなった後、甚爾はソファに座る妻へと向き直った。
「お前、気づいてたのか?」
その問いに妻は顔を上げた。
「どれのことを言ってるの? 菜緒葉ちゃんが二重人格気味なこと? ここ1年くらいでそれが不安定化したこと? それとも、症状の周期が……」
指折り数える妻に、甚爾はそれ以上言わせなかった。
周期的な部分については甚爾も気づいていたが、身内の少女のそういうプライベートな話はしたくない。
「そこまで気づいてたのかよ」
「うん、今日はダメな日だよね」
一般人であるはずの妻が妙に鋭敏なのは、生まれ育った環境ゆえだろうか。そんなことを甚爾はふと考えた。周囲の大人の機嫌、他の子供の敵意に常に左右され、安全が保証されない環境で生き伸びた。明るい彼女は実のところ甚爾に劣らず恵まれない境遇で、頼れる家族もいないのだ。
「アイツやばいよな。悪霊女の侵蝕が強まってる」
「そう? 私は今日の方が素っぽいなと思ったよ。というか前々から思ってたけどさぁ、甚爾がちょくちょく悪霊扱いしてる方が本体じゃないの?」
「はぁ? オマエは闇の菜緒葉とあんま喋ったことないからそう言えるんだって」
誰にでも優しく、料理が上手く、空気も読める、いつも笑顔の美人。
そんな都合のいい女は普通に考えてこの世に存在しない。
だから光の菜緒葉の人格が適応用の仮面だと思われること自体は当然だ。
甚爾も最初はそう疑っていた。
しかし今は闇の菜緒葉こそが厄ネタだとしか思えない。
「何年か前の天皇賞でアイツに『やめといた方がいいですわ、ウマ娘知識で知ってるんです』っていう意味不明な理由で馬券買うのを止められたんだけど、その馬がレース中に骨折した。不吉なガキだ」
「競馬の話? よくわかんないけど、偶然じゃない?」
「あと、俺が禪院の家を出る時も急に別人みたいになって、俺に『将来子供ができても絶対にあの家に渡すな』って取引を持ちかけてきた。俺がまだ誰とも付き合ってもいない時期に、子供ができる前提で」
「予言したんじゃなくて、リスクに備えたんじゃないの? あの子、明らかにファザコンだしブラコンじゃん」
「都合が悪くなった瞬間に逃げやがったぞ」
「二重人格って、ストレスが溜まると別の人格が出てくるっていうでしょ。それこそ甚爾の顔が怖かったんだよ」
言いながら妻が頬に触れてくる。明らかに面白半分な仕草で揉んでくる。その感触に甚爾はされるがままになる。甚爾は妻を相手に身体的な抵抗をしたことは一切ない。
でも。
「……やることやりゃ子供ができる、みたいなことも言ってきた……」
まだ小さな少女が、である。
将来できるかもしれない子供の話。当時はまだ生まれていなかった「真希ちゃん」の話。どちらも不気味な予知めいているが、結局とどめとなったのはこれだ。
時折他人の悪意にとんでもなく疎くなる、太陽みたいな菜緒葉からあの言葉が出てきたときの生理的嫌悪感──うっかり存在を忘れて放置していた野菜の袋を開けたら大量の虫が出てきたような感覚。
あの不快を、甚爾は今も忘れられない。
純粋で善良な菜緒葉があんなことを言うはずがない。
しかし妻は甚爾の頰を揉みながら、ふと真剣な顔になった。
「それってさぁ──あの家で女の子として育った子の当たり前の言葉なんじゃない?」
甚爾は言葉に詰まった。
女が子供を産むための道具として扱われる家。女の価値が子宮で測られる家。娘の生殖能力を確認できたことを、一族総出で祝う家。
それが禪院だった。
しかしそれでも、甚爾は妻の言葉をどうしても受け入れることができなかった。
闇の菜緒葉の方がきちんと知り合う前の原初の菜緒葉により良く似ていることは認識している。妻の言う通り、論理的にはそちらが本物かもしれない。
しかし甚爾はその論理を絶対に採用しない。
この説を採用したら、あの明るい少女がいずれ消える運命の幻だということになる。
その結論だけは許容できない。
甚爾はあの家で生まれながらに否定され続けてきた。認められなかった。褒められなかった。見てもらえなかった。大切にされなかった。女中達は別だったが、それはロマンスへの期待に基づく優しさだった。
甚爾が強い男だから表面上の問題は起こらなかったが、彼が禪院で受けたその優しさを男女逆にしてみれば、構図のグロテスクさは即座にわかるだろう。そんな状況で菜緒葉が現れた。
概ね誰にでも親切な子供。
甚爾の顔に惹かれたのでは決してあり得ない女。
そんな子供がなついてきた。
甚爾にとって菜緒葉の好意は、人生で初めて受けた無条件の好意だった。
その好意が、仮に禪院家のせいで狂った少女の適応の産物に過ぎなかったとしたら──そこまで考えて、甚爾は思考を止めた。
いや、本当のところ甚爾は既に何度もこの仮説に辿り着いている。そして辿り着くたびに忘れている。甚爾の出来のいい頭は、都合の悪いことを忘れる時でさえ優秀だった。
妻が困ったように微笑んで立ち上がり、甚爾を抱擁する。
「……ごめんね、変な話をした」
「……」
「実家のこととか、余計なこと考えさせちゃったね。この話はまた今度にしよっか」
まるで教師か何かのような言い方だった。
実際、妻はいつだって甚爾の教師だ。
一緒に住み始めたころにスーパーで適当に卵を買ってこいと言われて、とりあえず高い煮卵を買って行ったら叱られたことがある。40℃の熱を出した妻を大焦りで抱き上げ、全速力で病院に連れて行ったら受付で「保険証をお願いします」と言われて首を傾げたことがある。
思えば、料理のやり方も、税金の払い方も、全部妻から教わった。
結局甚爾は、大人のフリをしているだけだ。
菜緒葉がいるから。
……恵が、生まれるから。
妻の体温が腕越しに伝わってくる。
さっきもこうだった。菜緒葉が泣いた時、立ち上がったのは妻の方で、抱きしめたのも妻の方だった。甚爾は見ていただけだ。そして今もまた妻の方が甚爾を抱いている。身重の体で。
いつもこうだ。
身寄りがなく、苦労してきた同士なのに──いつも妻の方がきちんとしている。いつも守られている。与えられている。
甚爾は妻の腕をそっと解いた。
「座ってろ。腹、重いだろ」
「え、うん。まあ」
「茶、また淹れるよ」
甚爾の淹れる茶は菜緒葉のほど美味しくないらしい。妻に直接そう言われた。
だが、それでも何かしたくなった。
──その作業に没頭し、甚爾は結果的に、菜緒葉に関する問題をまた先送りにしたのだった。
パパ黒といえばネグレクトキメた毒親ですが、毒親以前にそもそも親になる準備自体が全然できてなかった人なんじゃないかという気もしますね。恵の名前の件からして当人なりに頑張ってた時期はありそうだし、奥さんがもっと長く生きていればちゃんとしたお父さんになれたかもしれませんが…