音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?!   作:ポ予

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テストプレイ④ 弱い男

 やれやれ、甚爾くんのこともお姉様のことも困らせてしまった。

 自分でも一時的にちょっとテンションがおかしくなっていた自覚はある。思春期に差し掛かった菜緒葉ちゃんの肉体の影響も大いに受けているのかもしれない。自我の境界線が思っていたよりずっと脆くなっている。事態は想像以上に深刻だ。

 

 それでうっかりあの家に長居してしまったので、先に帰っているであろう兄弟の機嫌を取るために駅前のコンビニで肉まんを3つ買った。ささやかな買収工作、もといお土産だ。兄と弟の分は棚の一番上にあった黒豚入りの高いやつ。自分の分はノーマル。こういうチョイスを自然にしてしまうのは、禪院家の女としての処世術が板についた結果かもしれない。変な波風を立てないためなのでまあいいか。

 帰ってからは人と喋るのを少なめにした方がいいかもしれない。甚爾くん達の前でやらかしたようなことを弟の前でやったら、取り返しがつかない。

 そんなことを考えながら、マンションの鍵を回した。

 

「ただいま戻りましたわ」

「おかえりー、菜緒葉ちゃん。遅かったやんか」

 

 リビングの照明の下、直哉がテーブルに向かったまま振り返って手を振ってきた。てっきりテレビでも観て退屈しているかと思いきや、目の前に広げられていたのは中学二年生用の数学チャート式。ノートには、あの直哉が書いたとは思えないほど几帳面な筆致の途中式が並んでいる。

 

「……直哉、どうしたんですの? 明日は槍でも降りますの?」

「失敬な。本当は鍛錬したいんやけど、こっちやと全開で動ける場所ないやんか」

「だからって、あなたが二次関数に興味があるなんて初耳ですわよ」

「興味なんかないわ。でも、菜緒葉ちゃんは塾の授業スラスラ解いとったからな。俺が置いていかれるんは癪やねん。いずれ勉強でも追い越したるわ」

 

 えー、マジか。向上心の塊かよ。

 俺には人生2周目というチート蓄積があるのに、これで純粋な中学生の脳に勉強で負けたら、いよいよ俺の立つ瀬もプライドも塵も残らないんだけどな。

 直哉はシャーペンを回しながら、不意に思い出したようにニヤリと笑った。

 

「そういや悟くんですらまだ反転術式できひんのやって。現時点では菜緒葉ちゃんの勝ちやな」

 

 五条悟。そんな物語の中心みたいな奴もいたな、と久々に思い出す。6歳の頃にお見合い紛いの席で一回会ったきりだが、滅茶苦茶にディスられた記憶しかない。俺の人生とはもはや無関係な存在だ。

 だが直哉の方は御三家の同年代というだけで時々比較されているらしい。あんな凄そうなのと比べられたら普通なら自己肯定感が死ぬほど下がると思うが、直哉のプライドは1ミリも折れる気配がない。ある意味すごいよね。

 

「直哉はひとまず二次関数で勝ちなさい。五条悟って数学もできるんですの?」

「無下限ってなんか理系っぽいし……絶対、鼻歌混じりで満点取ってまうやろ、最強なんやから。腹立つわぁ」

 

 直哉が毒づくのを適当に聞き流しながら、俺はビニール袋からまだ熱を帯びた黒豚肉まんを取り出して差し出した。

 

「ほら、これお土産ですわ」

「お、肉まん……あ、これまだ熱いやん。コンビニから結構歩くのになんで?」

「熱が逃げにくなるように、術式で美味しくなるカットを入れときましたの。当分は冷めませんわよ」

 

 直哉は「流石菜緒葉ちゃん」と上機嫌で頷いたかと思うと、ふと俺の手元に残った袋の中身を無遠慮に覗き込む。

 

「菜緒葉ちゃんのは?……なんや、それ一番安いやつやん」

「私はこれで十分。ノーマルが一番落ち着くんですのよ」

「……ちょっと見せて」

 

 有無を言わさぬ、そして驚くほど素早い手つきで、俺の手からノーマル肉まんが奪われた。

 直哉は自分の「特製黒豚肉まん」を一切の迷いなく真っ二つに割ると、白く濃厚な湯気が立ち上るその半分を俺の掌にぽんと乱暴に乗せた。そして代わりに、俺のノーマル肉まんの半分をひょいとつまみ上げていく。

 

「はい。これで半分こや」

「ちょ、直哉……別に無理に分けなくていいですわよ」

「ええねん。一人で高いもん食うても味が偏るし。それに、菜緒葉ちゃんが選んだもんがどんな味するんか、俺も食うてみたいしな」

 

 直哉はそう言って、安い肉まんの半分を口に放り込んだ。

 その光景を少し離れたソファで眺めていた兄へも、俺はコンビニ袋からもう一つの黒豚肉まんを取り出して差し出す。

 

「お兄様もお疲れ様。はい、どうぞ」

「ああ……ありがとう」

 

 兄は受け取った。だが直哉のような無邪気な反応はない。

 

「お前、今日はどこに行っていたんだ? 外は危ないから休んでいろと言ったはずだ」

「サンシャイン水族館ですわよ。あそこの深海魚コーナーが素晴らしくて。見惚れていたら、ついつい長居してしまいましたわ」

「……そうか。水族館か」

 

 若干の不信の響きがあったが、これ以上追及される前に話題を転換する。

 

「それで、お兄様達はいかがでしたの? あの子達から話は聞けました? 遠隔式の式神を差し向けて人を襲う呪詛師には、正直見えなかったのですが……」

「そのうちの一人、月見花江さんの家を突き止めて、謝罪のふりをして菓子折りを持って訪ねてみたよ。で、隙を見て捕縛するつもりだったんだけど……」

「けど?」

「あの子、どう見ても呪詛師とかじゃなくてただの中二病だったよ。呪術知識皆無で遊び半分。自分の踏み込んでる世界の深刻さなんて何も理解してない。式神はもらったんだって。で、その式神が倒されたあとはずっと具合が悪いらしいから、うちの息がかかった病院に入院させた。他の2人も月見さん経由で入院させる予定。呪詛師としての罪状を調べるのは、これからだ」

「式神を渡した真の悪党の正体は聞けましたの?」

「月見さんの話では真岡と名乗っていて、毎週火曜に通常のカリキュラムとは別の特別な指導をしてくれるらしい。ただ、そういう人物が雇われているという記録はない。月見さんの口ぶりだと相当慕われているようだが。……これ、昨日の聞き込みで出てきた透明人間のホラー授業の話だろ。多分。呪詛師じゃなくて呪霊じゃないかな。それも、滅茶苦茶知性が高い」

 

 と、そこで直哉がなんとも言えない表情を浮かべながら携帯の画面を見せてくる。

 

『禪院、明日の夜ヒマ? 22時から203号室で特別授業あるんだけど、めっちゃ面白いから来いよ。通常のカリキュラムとは別枠で、先生が直々にやってくれるやつ。マジで人生変わるぞ』

 

「……直哉、何なんですのこれ?」

「近くの席の子とメルアド交換したんや」

「はぁ???? あなたが????!!!」

 

 とんでもない衝撃。まさか直哉にそんな芸当ができたなんて……。

 意識が宇宙にとびかける。そこで兄が言った。

 

「つまり、非常に狡猾な呪霊が無知な中学生を騙して呪詛師へと仕立て上げてる可能性が濃厚だ。そういう訳だから、明日にでも本家に連絡を取って、『炳』に案件を移譲すべきだ。──菜緒葉、これは子供の手に負える相手じゃない。知能が高い。人を殺した実績もある。塾ぐるみで生徒を手駒にしているなら、向こうのホームグラウンドに飛び込むのは自殺行為だ」

 

 ふっと現実に引き戻された。

 その意見に筋が通っていないとは言わない。だけど。

 

「お兄様のご懸念はわかります。でも、『炳』を呼ぶにしてもここから本家に連絡して、人員が選定されて、東京に到着するまでの間にその呪霊が式神を増やすか、あるいは逃げたらどうしますの? お兄様の聞き込みで色々嗅ぎ回ったのはもう向こうにバレているかもしれない。式神を持ってる子達だって、過日の呪詛師の子のようにどんどん成長するかも。向こうも備えています。遅れると遅れるほど事態は悪化するのでは? ……直哉だって戦力としては既に『炳』に片足を突っ込んでいるようなものですし、私だって弱くはありませんわ。件の呪霊が逃げてしまう前に、我々で攻め込めばいいじゃありませんか。それに私、個人的にどうしてもその呪霊の調理が必要なんですのよ」

 

 自分でも驚くほど、声に力が入った。普段ならもっと優雅に、器用に立ち回れるはずだ。だが今日はそれができない。人格の融合が怖いからか。それともこの感情の波立ちこそが融合の予兆そのものなのか。ひたすらに焦燥感が背後からせっついて来ている。

 

「個人的に、とはどういう意味だ。任務の方針を一術師の私情で曲げるべきではない」

「……」

「せめて理由を聞かせてくれ」

 

 兄が踏み込んできた。真剣な目だった。この人なりに心配してくれている。それはわかる。わかるが言えない。

 ただでさえ二重人格のことは秘密なのに、人格が混ざり始めていて、術式持ち呪霊を食べなければ本体の菜緒葉ちゃんが消えるかもしれない──なんて話を、この兄にどう説明する?

 しれっと嘘をつこうかと悩んだが、ここには直哉がいる。

 下手な嘘をついたら絶対にバレるだろう。

 

「……私の術式に関わることで、今は詳しくは申し上げられませんの」

 

 結局そう答えた。兄の表情が硬くなった。

 自分は信用されてない、と兄が受け取っているのは感じた。そしてそれは──正直なところ、あまり間違っていない。

 俺はこの人のために『反転術式』を覚えたが、いざ成功させた翌朝からずっと気まずい。『転傷』は『反転術式』とは全くメカニズムが違うのだから比較不可能だし、この人に負担がかからないよう上手く併用していけばいいと思っていたのに、当の本人はずっと拗ねている。朝からずっと、態度がどことなくよそよそしいのだ。今朝は軽い喧嘩にもなった。

 それにこの人は、甚爾くんのことだって嫌いだ。だから俺は水族館へ行ったなんて嘘をつかなくてはいけなかった。

 

 直哉が真剣な調子になって言った。

 

「菜緒葉ちゃんがそう言うんやったら、理由があるんやろ。俺は行きたい。……ダメ、兄さん?」

 

 直哉は俺の判断を尊重している。理由を聞くまでもなく。

 兄の手が膝の上で拳を握った。二対一。いつも二対一だ。

 だけどそれは俺達姉弟だけのせいなのか?

 

 しばらくして、兄は立ち上がった。

 

「菜緒葉は誤魔化してばっかりだな。……もういい、少し外の空気を吸ってくる」

 

 ジャケットを掴んで玄関に向かう。背中に声をかけようとした。お兄様、と。しかし直哉が俺の袖を掴んでいた。小さく首を横に振る。

 

「ほっとけ。今何言っても兄さんを余計に怒らすだけや」

 

 直哉の声はいつもの刺々しさがなかった。この声のトーンを弟が使う時、状況を正確に把握しているが、どうにもならないと判断している時だ。

 玄関のドアが閉まった。バタンという乾いた音がリビングに響き、足音が階段を降りて遠ざかっていく。

 

 リビングに沈黙が残った。

 直哉はチャート式に視線を戻したが、シャーペンは動いていない。俺は兄が置いて行ったテーブルの上の万年筆を見ていた。食べかけの肉まんの横で、蛍光灯の光を静かに反射している。

 

「……直哉」

「ん」

「お兄様、私が水族館に行ったというのが嘘だと気づいてたんでしょうか」

「バレバレやわ。菜緒葉ちゃんが本当に水族館行ってたらもっとハイテンションで、禪院家全員用の大量のクッキー買って帰るやろ。肉まんオンリーで、しかも反省したようなツラして帰ってくるわけないやん」

 

 呆れるでもなく、責めるでもなく。ただ事実を述べる口調だった。

 

「兄さんも同じこと思ってたと思うで。あの人はポンコツやけど、そこまで鈍くないねん」

 

 たしかにそうかもしれない。

 いくらなんでも兄を傷つけすぎてしまった。

 呪霊を食べたいという方針は変えられないが、それでも家族として、兄が戻ってきたらきちんと謝るべきだろう。

 しかし直哉は何故か愉快そうに口角を上げた。

 

「……なんや、そんな顔せんといて。今日の菜緒葉ちゃんはちょっぴり悪い子やねぇ。いつもみたいに正論でお説教してくるうるさい菜緒葉ちゃんも好きやけど、こうやって身勝手にワガママ通そうとする今の菜緒葉ちゃんのことも、俺は嫌いやない」

「……そう」

 

 直哉の瞳に宿る熱っぽさに、背筋が薄ら寒くなるのを感じた。

 直哉は本来の菜緒葉ちゃんの面影を感じて素朴に喜んでいる。実際はその逆かもしれないのに。そのことが今の俺にはたまらなく悲しかった。

 

 

 

 

 兄が帰ってきたのは、日付が変わって随分と経った深夜のことだった。

 リビングのソファで、冷めきった茶を啜りながらその帰りを待っていた俺と直哉の前に、兄は音もなく現れた。

 兄が顔を上げた瞬間のその表情を見て、俺は思わず言葉を失った。

 数時間前まで、あれほど不信と絶望に濁っていたはずの兄の瞳が、今は驚くほど澄んでいる。まるで、迷いの霧が全て晴れてしまったかのような、不気味なほどに憑き物が落ちた顔。

 

「……お兄様?」

 

 どうしたのかと俺が問いかけるより先に、兄は静かに、だがはっきりとした口調で告げた。

 

「すまなかった、二人とも。俺が間違っていたよ。……お前達の意見を、そのまま受け入れることにした。撤収の選択肢は捨てよう。最後まで、俺が二人を支える」

 

 あまりの豹変ぶりに、違和感を覚える。

 けれども、それは俺にとっては都合のいいことでもあった。

 首を傾げながらも、俺達はそれを受け入れた。

 

 受け入れてしまった。

 自分たちの都合のために。

 

 

 

 

 

 

 禪院直蔵は父の直毘人のことが好きだったが、直毘人はそうでもないようだった。酔っている時の直毘人は、頻繁に息子の名前を取り違える。間違われないのは末の双子だけだ。

 それでも直毘人は直蔵が『灯』に入った時にはモンブランの万年筆をくれた。あの時の父はへべれけに酔っていて、そして少し辛そうだった。

 

「いっそお前に術式がなければ、却って普通の人生を歩ませてやれたかもしれないのに」

 

 父はそう零していた。

 これは直蔵しか知らない、父の弱さだ。

 

 直蔵は戦いが嫌いだ。呪霊の気持ち悪い姿を見るだけで足がすくむし、運動神経も良くない。おまけに趣味も軟弱で、実は編み物が好きだ。もしも『転傷』という凄まじく有用な術式がなければ、こっそりどこかに里子にでも出されていたかもしれない。そんないつ死ぬともわからない息子に情を傾ければ、傾けた分だけ父は苦しむ。

 だからこのプレゼントさえあれば良かった。

 父が本当は直蔵を愛したがっていたというその証さえあるのなら、仲間の致命傷を請け負って死線を彷徨う痛みにだって、耐えられた。

 直蔵だって禪院の男だ。

 禪院にあらずんば人に非ず。だから、人間でいるための苦しみは、胸を張って受け入れる。

 

 だからって──

 

「大人げないよな、俺……」

 

 弟妹から逃げ出した直蔵が時間を潰すために選んだのは、チェーンのコーヒー店だった。

 客の入りは8割くらいだろうか。

 とりあえずブラックコーヒーを頼んだが、直蔵はそれに手をつける気にもなれないままずっと座っている。

 

 自分の判断が間違っているとは直蔵は思っていない。しかしそれでも双子が言うことを聞かず反抗的な態度ばかり取るのは、直蔵のコンプレックスまみれの態度に苛立っているからだろう。

 それがわかっているのに、直蔵は妹と話すたびに惨めになる。

 

 氷の溶けきったブラックコーヒーは、今の直蔵の心の映し鏡のようだった。

 薄まり、冷え、苦味だけが底に淀んでいる。

 賑やかな深夜のチェーン店。試験勉強に励む学生や、終電を逃したサラリーマンの喧騒の中で、禪院直蔵という存在だけが、世界から浮いたパズルの余りピースのように座っていた。

 

「悲しそうだね。どうしたの?」

 

 上から降ってきたのは、驚くほど澄んだ、心地よいバリトンの声だった。

 直蔵が顔を上げると、そこには端正な顔立ちの青年が立っていた。

 直蔵は目を見開く。背筋に氷水を流し込まれたような戦慄が走る。

 

 呪霊だ。

 

 一見すれば、自分と同年代らしい、感じのいい男。これまでに見たことのないほど人間らしい姿をした呪霊。

 流暢に喋る奴は何度か見たことはあるが、ここまで知性が高そうなのになると等級もよくわからない。生徒達に授業をしていたというのも、幻惑や暗示ではなく事実なのかもしれない。

 月見花江が、心酔しきった顔で呼んでいた名前が脳裏をよぎる。

 

「……真岡」

「正解。初めて会うのに名前を知ってくれているなんて、光栄だね。座ってもいいかな?」

 

 許可を待たず、真岡は対面の席に滑り込んだ。足音も、衣擦れの音さえもしなかった。

 直蔵の身体は硬直した。指先一つ動かせない。今は何故か友好的に振る舞って来ているが、直蔵のような雑魚は一瞬で殺される。周りも殺されるかもしれない。だから動けない。

 しかも真岡の好感に満ちた瞳を見た瞬間、直蔵の中の何かがどろりと溶けた。彼の中で乾ききっていた何かが、真岡の好感に満ちた瞳を見た瞬間に猛烈な勢いで水を吸い始める。

 

「君、俺を殺しにきたんだよね?」

「いや。俺はただの下見だ。本家の『炳』に増援を頼むまでの、繋ぎに過ぎない……」

 

 そう言ってから、自分が何を言ったのか理解した。無用な情報を、相手に渡した。なぜ。何のために。聞かれてもいないのに。

 

「……っ、今のは……」

 

 真岡が浮かべているのは、敵意もない。ただ穏やかな、どこまでも穏やかな微笑。その瞳と視線が合うたびに、脳の奥の鍵がひとつずつ、音もなく外れていくような感覚に襲われる。

 

「困ったなぁ。一級レベルの術師がわんさか来たら、俺、確実に死んじゃうじゃないか」

「当たり前だ……。化け物は祓われるのが道理だろう」

 

 直蔵がそう言うと、真岡は教え子の突拍子もない冗談を聞いたかのように、屈託なく笑った。

 

「そんなこと言われても、俺は死にたくない。君だってそうだろう? 誰だって、自分の居場所を守りたい。……ということで、軽い術式開示をしよう」

「……何?」

「君は仮にも呪術師だからね。もう少し深いところまで届くために、きちんと手の内を晒すよ」 

 

 術式開示。呪術において自らの手の内を晒す行為は、リスクと引き換えに術式の効果を底上げする。つまり真岡は今から術式の威力を上げると宣言している。

 それなのに抵抗感を覚えない。

 不思議だった。

 これは何を司る呪霊なのだろう。

 

「生後半年。呪術師と戦うなんて初めて。だから俺が欲しいのは時間だ。《子》を殖やし、育ててあいつらに対抗するための時間」

「……《子》……?」

「そう。俺が触れた相手は、俺の定義する役割……つまり《子》になって、魂を『再配置』される。魂を弄れば体にも影響が及ぶ。効果が及ぶのは体内だけで、あまり大掛かりなことはできないけどね。でもそれで十分だよ。年若い非術師なら一瞬。術師はもう少し手間がかかる。でも君みたいに、呪力の守りがあっても目が合った時点で半分落ちるような人も、稀にいる」

「……」

「さっき聞いてもいない情報を喋ったのが、その証拠さ。どうして君に俺の術式が効きやすいか、わかるかい?」

 

 直蔵は答えない。立ち上がろうとした。膝が震えた。自分はもう駄目になっているのだとわかった。だが、真岡の指先がテーブルを滑り、直蔵の手にそっと触れた。それは暴力的な接触ではなく、震える生徒を勇気づける教師の、温かな接触だった。

 

「正解はまだ教えませーん。自分で考えるのが大事だから。俺は愛しい我が子には、自分の頭で考えられる子になって欲しい。自分の頭で考えた上で、俺に従って欲しいんだ」

 

 膝の震えが止まった。しかし同時に、椅子から立ち上がるべきだという判断そのものが、水面下に沈んでいく。自分の中の何かが、パチンと音を立てて切り替わるのを感じる。絶望の中に、抗いがたい恍惚が混じる。

 その最中に思い出したのは──

 

「……弟にも言われた」

 

 思い出したのは、ついさっきまで自分を苛んでいた直哉の言葉だった。

 

「俺は何も考えてないって。父親に依存している。思考停止している。だから弱いんだって……弟にそうなじられたんだ」

 

 真岡は柔らかい仕草で少し首を傾げた。

 

「君はどう思うの? 本当に考えてない?」

「……わからない」

 

 それが正直な答えだった。

 

「考えてるつもりだよ。でも上手くいかない。そもそも俺の考えてることになんか、そもそも誰も興味ないだろう」

 

 父はそうだった。

 父の優秀な血を最も強く受け継いだ双子もそうだ。

 あの双子は、時々父にそっくりの笑い方をする。

 けれども落ち込む直蔵に、真岡はにっこりと微笑みかけた。

 

「へー、俺は興味あるけど」

「えっ……」

「弟さんってちょっと厳しいね。俺ならそんな酷いこと言わないのにな」

「……いや、あいつは正しい。相伝持ちの天才で、俺の何倍も努力してて。あいつが強ければ強いほど、禪院は安泰だし──俺は、安心する」

 

 直哉が相伝持ちであること。禪院の次期当主候補であること。それだけで直蔵にとっての直哉のすべては肯定すべき対象だった。

 

「ふーん。弟さんのことが好きなんだ」

「……好きだよ。誇りに思ってる。性格は最悪で人の心なんかこれっぽっちも持ってないクズだけど──禪院の未来を背負えるのはあいつだけだ」

 

 言葉はとめどなく流れる。真岡の指がまだ手の甲に触れている。温かい。この温もりに引きずられて、隠していたものが次々と水面に浮かんでくる。

 そう、直蔵が弟を愛するのは、弟が禪院にとって必要なパーツだから。人格なんて関係ない。むしろ、人格は邪魔かもしれない。

 何故なら──

 

「ただ、あいつは甚爾に入れ込んでる。禪院を出ていった、呪力なしの猿だ」

 

 言いながら、怒りのあまり声が震えた。久しぶりに、誰にも見せていない怒りが漏れた。

 

「猿を敬うなんて禪院の人間のやることじゃない。だけど、何年も前に1回──俺がそれを直哉に言った時、あいつは……」

 

 言葉が途切れた。あの時の直哉の目を思い出した。氷よりも冷たい、底なしの軽蔑。何をされたかは正確には覚えていない。正確には覚えていないのは、脳が自衛のために記憶を溶かしたからだ。ただ、あの日以来、直蔵は甚爾の話題を弟の前で口にできなくなった。

 

「……本当はあいつらを矯正したいんだ。甚爾は猿だ。あんな奴に入れ込んでも直哉のためにならない。菜緒葉のためにもならない。俺は兄なのに、それすら言えない。言っても聞いてもらえない」

 

 真岡はしばらく黙っていた。慰めもしなかった。否定もしなかった。ただ聞いていた。

 それから、静かに言った。

 

「菜緒葉っていうのはどんな子?」

「──菜緒葉はすごい奴だよ」

 

 そう言いながら、直蔵の中には苦渋が滲んだ。

 

「たしかあいつが7つの時だ。甚爾が暴れて屋敷が壊れて、厨房もそれに巻き込まれて壊れた。……本来ならそれだけの話だ。修繕して終わり。だけど菜緒葉は違った」

 

 直蔵はブラックコーヒーのカップに視線を落とした。

 

「設備を最新式にする署名を集めたんだ。『和食だけじゃなくて洋食も作れるようになる』『もっと手の込んだ料理を頻繁に作れるようになる』『男性の皆さんにももっと喜んでもらえるようにしたい』って。……本音は多分違う。女中の仕事を楽にしたいだけだ」

「……」

「でも、あいつをマスコット視している躯倶留隊の連中はみんな何も気づかずに署名した。──周りも『食事がもっと美味しくなるならいいことじゃん』ってノリノリで……みんな書き始めたら、自分だけ書かないわけにもいかないだろ。器が小さいと思われるのも嫌だったし……だから名前を書いた。結果的に菜緒葉の言う通り飯のレパートリーは増えたし、あれは正しかったんだと思う。7歳でああいうことができる妹を、俺は……」

「……」

 

 それ以上は言えない。妹に嫉妬しているだなんて言えない。けれども真岡は、直蔵の言葉の続きをただ待っていた。

 

「とにかく、その後も菜緒葉はどんどん先に行った。反転術式を覚えたんだ。俺のためだと思う」

「君のために?」

「俺の術式は『転傷』だ。事前に指定した相手が致命傷を負った時、そのダメージを俺が丸ごと引き受けて、自分の中で半分にする。でもこんなの、正の呪力を回して傷を完全に治すのに比べたらただの劣化版じゃないか。直哉に庇われたってだけでも俺は父上の期待を裏切ってるのに、こんなことまで報告書に書かなきゃいけない俺の立場がわかるか?」

「……」

「アイツは俺の居場所を奪おうとしてる」

 

 真岡が静かに言った。

 

「それで拗ねてるんだ。でも、『転傷』は俺からすると『反転術式』より断然魅惑的だよ」

「……何故?」

「自分で考えなさい」

 

 周りの客が不審な目を向け始めた。

 一般人の目には直蔵の姿は、独りでブツブツと虚空に喋り、泣き出しそうな顔をしている単なる異常者にしか見えない。

 だが直蔵には見えていた。

 自分を否定せず、ただ『子』として愛そうとする、この世界で唯一の理解者の姿が。

 

 真岡は直蔵の額に触れる。

 頭の中で何かが変わるのを感じる。手の甲に触れられた時よりもずっと深い場所で、回路がゆっくりと並べ替えられていく。恐怖はある。しかし安堵が恐怖を上回った。ずっと噛み合わなかった何かが、初めて正しい位置に──いや、動かされた。精神の地形が変わり、ある種の結論が、もう導かれている。

 直蔵は孤独に涙をこぼす。

 

「……お前は呪霊で、俺は呪術師なのに」

「そうだね」

 

 真岡はあっさりと認めた。それから、少しだけ寂しそうな顔をした。

 

「君が撤退して、もっと強い術師をわんさか連れてきたら、俺は確実に死ぬ」

「……」

「ねえ、俺に死んでほしくないなら、撤退しないでよ」

 

 真岡は言う。

 

 それは命令ではなかった。お願いですらなかったかもしれない。

 

 ただの事実の確認。君が撤退すれば俺は死ぬ。君が撤退しなければ俺は生きる。どちらを選ぶかは君次第。

 

 しかし直蔵は自分が何を選ぶかをもう知っていた。真岡と目が合った瞬間から知っていた。

 

 答えられない直蔵を、真岡は笑う。それまでの穏やかな微笑みとは違う、どこか悪戯っぽい笑み。彼は直蔵の頭をくしゃくしゃと撫で回し、「じゃ、よろしくね」とだけ言って席を立った。

 直蔵はしばらくそのままでいた。あんな笑い方をする誰かに、前にも会ったことがある。豪快で、少し乱暴で、悪気があるんだかないんだかわからない。思い出せないのに懐かしかった。

 

 そして、真岡の手にまた撫でられてみたい、と感じた。

 

 

 




こういう、扇の雑魚バージョンみたいな男の人を出さずに禪院家の話をするのは片手落ちになるんじゃないかという気がずっとしていました。
(扇は舐められがちですが特別1級の超エリートですからね!)

ちなみに今回のマコの兄への当たりの強さは「シン菜緒葉由来のドブカス因子混入」+「女の子の日」+「人格融合への焦り」の3要因によりますが、それはそれとしてこの兄はマコに好かれることは特にしてませんので、内心では元から「うっすらニガテな同僚」くらいの距離感でした…
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