音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
呪霊が発生する場所には必ず意味がある。
恐怖や悪意が凝縮された地点にして、人間の負の感情が最も純度の高い形で煮詰められる器。
真男佳にとってのそれは学習塾だった。
初めての《子》は桐永洋介。桐永会の塾長だった。
人間は何歳になっても誰かの子供で、完璧に独り立ちしている個体は滅多にいない。五十路を過ぎた塾長が抱えていたものは、創業した父への劣等感。他人に見えない物が見えるせいで友人ができなかったトラウマ。
桐永のコンプレックスや野望に「うんうん」と頷いているうち、桐永は真男佳のもとに自分の生徒達を連れてくるようになった。桐永は真男佳を神の遣いか何かだと思って、本気で信仰していた。
そして桐永が「生徒の脳をいじってくれ」と頼んできたのも、それは桐永の「自由な意思」による依頼だった──少なくとも真男佳はそう思っている。
真男佳が手を握りながら30分ほど話を聞いてやれば、大抵の人間は魂の内部構造が真男佳によって都合のいい形に再配置される。
聖者を殺人鬼にするような飛躍は無理だが、当人の思考の範疇内の堕落であれば、いくらでも誘導可能だ。
要は、術式を補助に使った超強力なマインドコントロールのようなものである。しかし日本の法律ではマインドコントロールを受けたカルト宗教の信者達にも死刑判決が下るようなので、この行為が相手の判断能力を完全に奪っているとは言えない──というのが真男佳の見解だった。真男佳は自主性を謳う教育が称揚される時代に生まれた呪霊であるからして、人間の「自由」を重んじる。この力を良い方向に使えば潜在能力を極限まで引き出して、桐永会の生徒全員を東大へ行かせることだって可能だ。まあ、所詮は呪霊なので、そんな善良なことはしないのだけれども。
二番目の《子》が吉田幸雄。彼は政治家秘書の息子だった。
愛人のもとに通う無関心な父に心を傷つけられ、ヒステリックな母親に圧迫される少年。成績が上がらないなら私立をやめて公立へ行けと彼の母親は当たり散らし、幸雄は泣いて縋るしかなかった。
どうして縋ったのか?
理由は簡単だ。
公立へ転校した先に彼の未来はないからである。
それは浅はかな思考かもしれないが、幸雄にとっては事実だった。レールから降りることは、彼のいる世界では社会的死と家族の愛情の喪失を意味する。
真男佳は幸雄の涙を見た時、自分がどんな恐怖から生まれ、そしてどうして生まれた場所が学習塾だったのかを心底から理解した。
真男佳は幸雄にある種の恩義を感じ、彼がかつて本当の兄のように慕っていた家庭教師の姿を取るようになった。
本来なら「目が合った時点で相手を《子》に変異させ始める」ほどに強い術式を大幅に弱めるのと引き換えに、自分の容姿が人間の目にはヒトの男にしか見えないようにする。呪霊としては完全に狂った行動だが、人間達と仲良くなるためにはかえって有効だった。
優しくて、賢くて、自分の話を聞いてくれて、決して否定してこない、しかし本当は無責任な立場の男。
この姿はしっくりと馴染んだ。
真男佳自身がそのような存在として生まれてきた呪霊だからだ。
真男佳はその顔で幸雄に手ずから呪詛を教え、多くの呪力を分け与えて特別製の《子》とし、それから幸雄に頼まれて、母親のことも殺してあげた。
幸雄にとっての直接の加害者は母親だった。
母親は明確に、可視的に、幸雄の心を深く傷つけていた。
でも、殺すべきは果たして本当に母親なのかな?──とは、真男佳は教えてやらなかった。
全部幸雄が自分で決めたことだから。
他の《子》達は基本的に自主性を尊重して育ててみた。誘導しすぎるようなことはせず、しかしこの年頃の子が好きそうな情報を沢山与えた。人間についてもっと詳しく知りたくなったからだ。けれども皆似たような形に育った。
それは人間という種族の底の浅さなのか。
それとも、真男佳の《父》としての機能が孕む必然的な結果なのか。
真男佳にはよくわからなかった。
今でもずっと、考えている。
古代と比べて〈父〉への恐怖は圧倒的に弱くなったが、しかし消えた訳ではない。
現代の〈父〉は禁止しない。罰さない。
代わりに誘う。
自ら選べ。自ら享楽せよ、と。
この狡猾な標語のもとで〈父〉の機能は非常に弱まり、見えづらくなった。
それでも家庭にある父と子の間には感情的紐帯がある。
学校には義務教育という旧来の強制がある。
しかし、毎週土曜に塾へ通うのは強制ではなく選択である。
──ならば結果は何もかもが自己責任。
それが吉田幸雄を追い詰めた恐怖であり、だからこそ真男佳は「真岡先生」になったのだ。
真男佳の行動には劇的な演出も殺気じみた予備動作もなかった。
ただ、教壇から降りて無造作に一歩を踏み出しただけ。
しかしその一歩は203号室の空間を物理的に歪めたかのような錯覚を禪院菜緒葉に与えた。
「菜緒葉ちゃん!!」
鼓膜を劈くような直哉の叫びと視界がとんでもない速度で横へ流れる衝撃は、菜緒葉にとってほぼ同時だった。
壁に背中が打ちつけられる痛みとともに、菜緒葉は遅れて理解する。
自分がいた場所を真男佳の掌が通過していた。
直哉に突き飛ばされていなければ、その掌は菜緒葉に触れていた。
直哉は姉を弾き飛ばした慣性をそのまま利用し、全開の呪力出力を『投射呪法』のフレームで叩き込む。その掌底が、真男佳の側頭部、その眼鏡の奥の瞳を正確に撃ち抜かんと迫る。
だが当たらない。
真男佳は半歩、音もなく横にずれただけだった。渾身の一撃は虚しく空を切る。突風だけが教室のカーテンを荒々しく揺らし、窓ガラスに亀裂を走らせる。
直哉は盛大に舌打ちするが、真男佳は直哉を迎撃することには欠片の興味も示していない。直哉を無視し、再び壁際の菜緒葉へと狙いを定める。
真男佳の狙いは最初から菜緒葉だ。
田中里奈の術式は優秀だったのに「飛ぶ斬撃」は彼女の式神アズラエルを一撃で破壊した。ならば──動きが遅く呪力量も乏しい、しかしその危険性においては弟を遥かに凌駕する姉を、先に《子》にする方が合理的である。
真男佳の腕が伸び、指先が菜緒葉の前髪を掠める寸前で、菜緒葉は斬撃でその腕を切り落とす。同時に直哉の蹴りが横合いから真男佳の肋骨を抉る。
菜緒葉はほっと息をついた。真男佳があまりにも人間のような顔をしているので、『菜切り包丁』の刃が通用するのか不安視していた。
真男佳の身体が数メートル吹き飛ぶ。
教卓をなぎ倒し、壁に激突してようやく止まる。
だが、立ち上がった真男佳の表情には苦痛の色は微塵もない。嬉しそうに笑いながら腕を生やし直し、即座に直哉へ距離を詰める。
まだ1秒24コマのフレームを重ねきれていない直哉の加速と12人の生徒の呪力を背負った真男佳の速度はほぼ拮抗していた。
とはいえ、戦況は直哉に圧倒的に不利だ。真男佳は直哉の打撃を完全に回避する必要がない。肉体の損傷は吸い上げた呪力で即座に修復できるからだ。真岡の術式は自分自身にも常時作用し、魂の形質をある程度は恒常化する。
しかし人間の側はそうはいかない。
重傷に関しては近くで隠れて待機している直蔵の『転傷』が発動すると、禪院姉弟は当然のように想定している。けれどもそれはあくまでも最終手段。兄の負傷や痛みを菜緒葉は望まない。それに、恐ろしいのは怪我だけでもない。
「姉想いなんだね。俺の術式の効きが良くないのは、呪術師だからってだけじゃないな。アレだろ。お姉さんが親代わり?」
「……呪霊の分際でよう喋って喧しいわ」
「ごめんごめん。とは言え、7回タッチすれば防壁を破って《子》にできそうだ」
攻防の最中、真男佳はまるで小テストの問題を読み上げるようなトーンで直哉の腕を掴んで投げ飛ばす。
『定名綴魂』の術式開示。
自らの手の内を晒すことで、術式の効果を跳ね上げる縛り。
これによって開示された「7回」はブラフとなり、実際にはその半分、わずか3回か4回の接触で直哉の防壁は決壊するだろう。
菜緒葉はそれを見抜く。彼女の下位人格にして主人格にあたる魂「マコ」の戦闘中の状況判断能力は決して低くなく、上位人格にして副人格である真なる菜緒葉の知性も、年齢を大幅に超えている。
弟の危機を、菜緒葉は弟自身以上に真に迫って察知する。
直哉を投げ飛ばした勢いのまま、真男佳は再びセーラー服の少女──菜緒葉の前に立つ。
内臓に仕掛けを施して肉体的な苦痛を与えるのも悪くない、と真男佳は考えている。真男佳は呪霊だ。他者の痛みを愛している。けれども究極的には、調査に来た3人全員を取り込んで時間を稼ぐのが第一目標だった。
禪院家が家族としては明らかに機能不全であることを、呪霊としてはかなり聡明な部類である真男佳は完全に見抜いている。子供達が、父親の愛情という報酬を取り合っている家。こういう家では一見扱いのいい子供でさえ、その実根源的な飢餓感を抱えているのが常だ。
菜緒葉は指先に呪力を集中させ、真男佳の頬に手を伸ばす。
「……弟に触れるな……ッ!」
普段の菜緒葉にはあり得ない怒りの表情。
「マコ」の人格がこの体の真の持ち主に駆動されたのか、「マコ」自身何年も一緒に過ごした弟に愛情が湧いているのか、あるいは融合しかけた魂の怒りなのか。
弟を守らなければならないという一念で放つ、人を斬れない縛りによって極限まで研ぎ澄まされた刃。それを指先に纏わせ、真男佳の苛立たしい澄まし顔を切り裂かんと、手を伸ばす。
しかし真男佳は慈愛に満ちた表情で首を傾げ、その攻撃を紙一重で回避。空を切った菜緒葉の手の手首を、真男佳の掌は強引に掴み取った。
その瞬間──
「…………え?」
動揺させられたのは真男佳の方だった。
真男佳の眼鏡の奥の瞳がこれまでにないほど大きく見開かれる。
真男佳の術式『定名綴魂』は、対象を《子》と定義し、その魂の内部構造を真男佳の望む形に「再配置」する力だ。
──しかしもし、融合しかけた魂が2つあったら?
生後半年程度の真男佳にとっては初めて見る、数奇きわまりない事例。
禪院菜緒葉という肉体の中に宿る2つの魂は高性能なフィルターを通された泥水のように、澄んだ水と泥に分かれる。
『……マコくんのおかげで私、ここ数ヶ月は滅茶苦茶性格が良くなっていませんでした?』
(俺の心は逆に滅茶苦茶汚されてなかった??!!)
掴まれた手首から流れ込む呪力の濁流が、溶け合っていた二人の自我の境界を鮮明に定義し直す。
ここ数ヶ月、「マコ」の処世スキルは、主に相性の悪い兄に対して当人比では少々精彩を欠く結果になっていた。しかし元々操作的な一面のあった真なる菜緒葉からすると、マコとの融合によって他者への優しさを学べたとも言える。
解決してしまえば、そこまで悪い話でもなかったのである。
この攻撃の意外な効果を受けての菜緒葉の判断は一瞬だった。
「直哉、ここからはあなたはサポートに徹しなさい」
「はぁ?アイツ強いで。 菜緒葉ちゃんにはちょっと荷が──」
「彼の術式は私には通用しませんわ。絶対勝てます。あなたの力を借りれば」
菜緒葉の迷いのない瞳に直哉は明らかに目を輝かせ、ニヤリと不敵に笑った。
「……しゃあないな。合わせろや、菜緒葉ちゃん!」
──『投射呪法』の応用による異能の連携。
仲の悪い家族には術式の情報を教えないことすらしばしばある禪院家だが、この双子に限っては違う。同じ胎で十月十日を過ごしたため──否、その後の歳月がゆえに互いの術式について知り抜いた双子は、「触れられてから24fpsで術者の想定する動きを行うことに成功すれば1秒加速、失敗したらフリーズ」という術式効果の後者のデメリットを踏み倒すことが可能である。
現状では事前に打ち合わせをしている幾つかの動きしかできず、回数を重ねると敵に読まれやすくなるという欠点があるものの、年齢を考えれば十分に将来有望だ。
手を触れ合うと投射の加速を纏い、菜緒葉は自身の術式の空振りに混乱したままの真男佳に肉薄する。 同時に菜緒葉の指が真男佳の首筋を掠めた。『菜切り包丁』が発動し、切断線が真男佳の喉元を走る。
斬った。
たしかに斬った。
しかし切断面が即座に塞がった。
この治癒が『定名綴魂』の自己適用の結果であると菜緒葉──「マコ」は即時に判断。
禪院菜緒葉の呪力量は決して多くない。ここで1日数回しか撃てない飛ぶ斬撃のカードを切ることにはリスクがある。
『ここは私達の必殺技、カットアップ・サンプリング・リミックスを使いますわよ、マコくん』
菜緒葉──「マコ」の意識の中で、真の菜緒葉が囁いた。
カットアップ・サンプリング・リミックス。
対人戦闘時に相手の呪力の『味』を変える技術の発展形。
対象が纏う呪力、あるいは表出した術式効果の一部を微細な刃でカットアップ/サンプリングし、リミックスして相手に送り返す。
通常の切断よりも呪力消費は少なく、かつ相手の強度が高ければ高いほど威力が増す、最悪の反射攻撃にして『菜切り包丁』の秘奥。
(オッケー菜緒葉ちゃん! 俺もそれがいいと思ってた!)
──なお、この絶技が音MAD作成中にふと思いついたものであることは、禪院家の誰も知らない。
菜緒葉は弟との再接触で得た加速を利用し、真男佳の胴体を殴り飛ばした一瞬の接触で呪力を採取。それを瞬時にリミックスし、不可視の衝撃として射出する。
「──ッ!?」
効いた。
真男佳の胸部が内側から弾けた。
それは彼自身の術式による「再配置」の結果であり、彼自身の呪力による破壊だった。
自分の力で自分の構造を歪められる、耐え難い拒絶反応。
真男佳は口から漆黒の体液を溢れさせながら、それでも嬉しそうに笑った。生徒に予想外の解答を返された教師の顔だった。
「なるほど。……素晴らしい回答だ。君の魂の件と言い、生徒に予想外の解を突きつけられるのは、教師冥利に尽きるよ。……でも、俺の授業はまだ終わらない。終わらせない!」
真男佳が後退しながら、教室内を指差した。
その瞬間、床に転がる机や椅子が一斉に浮かび上がる。
「『子供のモノは自分のモノ』っちゅー訳か!」
「直哉くん100点! 花丸をあげようか!」
浮かび上がった10個の学習机が、質量兵器となって姉弟を襲う。宙を舞う机。飛ぶ斬撃をもってしても砕き落としきれないその一つが菜緒葉の頭上から降り注ごうとした瞬間、直哉の掌がその天板を叩く。
菜緒葉の中の2つの魂はその意図を瞬時に汲み取った。フリーズした机を蹴って飛ぶ。
弟の決死のサポートを受けての2対1の攻防の末に2度目のリミックスが成功。
ドォォン! と、教室を震わせる衝撃音。真男佳の頭部が半分吹き飛ぶ。
「……あ、がっ……」
真男佳の膨大な呪力量が目に見えて霧散していく。先ほどまでの圧倒的な圧力が一気に半分以下へと削ぎ落とされた。
──いや、違う。今の呪力減少は殴る直前に起きていた。
(こいつ、呪力をどこに送った?)
その最悪の想定に「マコ」が行き着くと同時に、背後でよく知る呪力が膨れ上がる。
刹那。
教室の扉ごと破るようにして、一筋の銀光が閃いた。それは真男佳への追撃ではない。
「直哉ッ、避けなさい!!」
菜緒葉の叫びよりも早く、直哉の生存本能が作動していた。
不意打ち。それも、気配を完全に断った一撃。直哉は空中で無理やり体を捻り、コンマ数ミリの差で銀閃を躱した。
刀を持っているのは兄の直蔵。真男佳の特別製の《末子》。
「この、ポンコツがぁ……っ!」
直哉が激昂する。怒りは真男佳ではなく兄に向いている。
自分達を裏切って呪霊に加担した兄に。
「洗脳? そんなことまでできたんですのね……」
菜緒葉の言葉に、真男佳は大仰な所作で肩を竦めるだけだった。
「教育と言ってくれよ。君らのパパが不甲斐なかった分、俺がこの《子》を育てたんだ」
──菜緒葉と直哉が12人の子供達と向かい合っているのと同時刻、真男佳は『定名綴魂』を直蔵の心の最も深い部分まで行使していた。
魂の内部構造の再配置──この術式は人の精神構造を大幅に変えることはできない。しかし元々の方向性をもとに上手く誘導することなら可能だ。
禪院直蔵を「無能」にしていたのは非相伝ゆえのコンプレックス。自己肯定感の低さ。それゆえに女や呪力のない者を見下し、自らの位置を保つ心の弱さ。加えてただ他人の傷を請け負うという意志を表明するだけで十分以上の役割を果たせてしまうことによる、強くなろうという意志の欠如。それゆえの戦闘IQの低さ。
けれども彼は頭が悪い訳ではない。一般社会に出ていればそこそこ優秀な部類で通っただろう。禪院家の子でさえなければ、自分のことを「無能」だなんて、永遠に思わずに済んでいたはずだ。
そんな直蔵の素敵な《父》になって彼の自己肯定感を上げ、思考を誘導するのは、名講師「真岡先生」として桐永会に君臨する真男佳にとっては容易だった。《父》からの呪力供給、そして思考の最適化により、直蔵の実力は本来の実力より2等級近く上昇している。
斯くして新たな《父》を手に入れた直蔵の憎しみは──常に自分を否定し、罵倒し続けてきた相伝済みの弟へと向いた。
◇
そしてその状況を受けて──真なる菜緒葉様は、俺の脳内でかつてないほどのハイピッチでブチギレている。
『はぁあああああ!? なんなんですのあのクソ兄! 直哉をおもちゃにしていじめていいのは私だけなのに! 泥棒猫ならぬ泥棒親父にあっさりNTRれて、実の弟に刃を向けるなんて……恥を知りなさいませ!』
外面から見れば割とクールでプロフェッショナルな禪院菜緒葉だが、脳内会議では大騒ぎである。
でも落ち着こうよ、菜緒葉ちゃん……。
正直、俺達があの人にちょっと冷たくしていたのにも問題はあるんだよ。
いくら直哉と一緒に肉じゃがを作るのに水を差されてムカついたからって、伝統的な禪院家の男として育ってきた人に「あなたは無能なんだから女みたいに家事やってろよ(意訳)」なんて言えば、プライドは粉々だろう。
その数時間後に『反転術式』を披露したのもタイミングがあまり良くなかった。
それでメンタルがおから並みにボロボロになったところに、妹が甚爾くん(物理的な男らしさの極致)の家に入り浸れば、そりゃあ拗ねて外で飲んだくれもする。
そこを真男佳に付け入られたんだ。
もっと普段から気遣って、深い兄妹の絆を再構築していれば、洗脳の予兆にも気づけていたはずなのに。
『でも私、あの時なけなしのポケットマネーでお兄様にコンビニのレジ横にある一番お高い肉まんを買って差し上げましたわよね!? 絆の再構築、試みましたよね??!』
と、菜緒葉ちゃんは未だに納得がいかないご様子だが。
残念ながらそれだけだと一般的な禪院の価値基準だと「立てるべき兄への当然の貢ぎ物」として右から左へ受け流されて、好感度フラグには1ミリも寄与しないんだよ……。
純正の俺なら「お兄様に食べて欲しくて♡」くらいのことは言って、愛想を振り撒きまくったね!
『……なんですの、その救いようのない文化体系は……ッ! カモン真希ちゃん、全部は壊さないで欲しいけど2割くらい壊して……!』
脳内会議は紛糾し、生まれたばかりの真希ちゃんへの凶悪なオーダーまで飛び出す始末だったが、現実は俺達を待ってくれない。容赦なく、そして暴力的に加速する。
「……っ!」
廊下へ突き抜けた直哉と兄の呪力が激突し、爆音とともに二人の姿が視界から消えた。
普段の兄相手であれば直哉はたとえマシンガンをぶっ放されようが負けないだろうが、真男佳による詳細不明のバフがかかっている今はまずい。
直哉の援護は、当分期待できない。
「2人きりだね、菜緒葉さん。いや、本当は3人かな?」
真男佳が教壇から滑り落ちるように、重力を無視した速度で肉薄してくる。
速い。
『投射呪法』での24fpsの加速というズルがない状態だと、真男佳の動きは受け流すので手一杯だ。
「よくもお兄様を……あんな風に!」
俺は指先に呪力を集中させ、『菜切り包丁』を振るう。しかし、真岡は柳に風とばかりに、わずかな予備動作を読み切って回避する。
「いやいや、誤解しないでよ。俺は我が子が本気で嫌がることはさせない主義なんだ。……元々あの子、弟のことが死ぬほど嫌いだったんじゃないかな? 俺はただ、その正直な気持ちを少しだけ肯定して、背中を押してあげただけだよ。父親らしく、ね」
「……っ」
俺からしても菜緒葉ちゃんからしても心当たりがありすぎて、ぐうの音すら出なかった。
同時に真男佳の拳が腹に当たる。
ドッ、という鈍い衝撃。
内臓を直接シャッフルされるような不快な呪力が流れ込む。魂が2つあるせいで効き目はほぼないが、純粋に痛い。胃の内容物が逆流しそうな感覚に、俺は歯を食いしばる。
さらに真男佳がパチンと指を鳴らすだけで、教室内にある30近い机や椅子が一斉に意思を持った猛獣のように牙を剥いた。
「君らこそ、どうしてそんなに弟のことが好きなの? 禪院家というシステムの中で、彼は君達の抑圧者になるはずの存在だろう?」
「うるさい……ですわよ……っ!」
飛来する学習机を斬撃で真っ二つにするが、割れた天板が左右から挟み込むように俺を襲ってくる。
回避、斬撃、防御。その繰り返し。
完全に後手に回っている。
俺は過去最高に追い詰められていた。斬撃はすぐ治る。カットアップは投射の速度で叩き込めば確実に効くが、投射の援護がなければ当たらない。そして呪力と体力は時間を追っては確実に削り取られていく。
そこで脳内の菜緒葉ちゃんが唐突にハイテンションになって言い出した。
『マコくん。私、この状況を打開するサイコーに素晴らしい作戦を思い付きましたわ!』
ぶっちゃけ今は余裕がない。彼女のojousama・トンチキに付き合っている場合ではないのだが、「何? 逆転の一手があるなら早く言って!」と藁にもすがる思いで訊いてみた。
『領域展開を展開しますのよ!』
無理無理無理!
何言ってんの!?
領域展開と言えば、呪術の極致、必中必殺の奥義だ。それをこの年齢、このスペックで? 呪力量も結界術のスキルも、おまけに構築するセンスだって足りなすぎる。
無駄な期待をした俺が馬鹿だった。菜緒葉ちゃんの提案を意識の隅へ追いやり、目の前の真男佳に全神経を集中させた。全呪力をスッカラカンにする覚悟で、最大出力の飛ぶ斬撃を全方位に放つか?
『いやいや、待ってマコくん。落ち着きなさいませ。誰が「完成された」領域展開をしろと言いました? ……この教室という密閉空間。この四方の壁を「外殻」の代わりに利用するのですわ。とりあえず生得領域のイメージを外に漏らし、必中効果だけを付与する。それなら最大2秒はいけますわよ』
彼女の提案は、狂っているが理に適っていた。異常趣味のオタクなうえにサディストな菜緒葉ちゃんだが、その分析力とセンスだけはガチなのだ。
しかし最大2秒ではあまりに心もとない。発動後の術式焼き切れのリスクを通常の5倍にする縛りを加えれば、展開時間をもう少し稼げるか?
さらに、成功率を高めるための術式開示の手間をどう省くか。この嵐のような攻撃の中で、悠長に説明している暇はない。領域そのものを「情報」として提示するしかない。
『やってみましょうよ、マコくん。……この父親ヅラしたパチモンに、私達の音MAD領域展開を見せつけて差し上げるのですわ!』
菜緒葉ちゃんは大ピンチにもかかわらず意気軒昂だった。彼女がやる気を出しているのに、俺がヘタレている訳にはいかない。
乗り掛かった舟だ、心中してやるよ。
菜緒葉ちゃん!
俺と菜緒葉ちゃんの意志が完全に同期する。
俺達には、前世に培った著作権無視の情熱と、今世の他者を踏みつけにする禪院家の才能がある。
だからきっとやれる。
俺は印を組み、叫んだ。
「領域展開──『