音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?!   作:ポ予

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甚爾くん餌付け大作戦!!

 禪院家の空気はいつもどこか澱んでいて、ひどく冷たい。きっとみんな、長く呪いに触れすぎてしまっているのだろう。そして私たちは──大人たちの蔑むような視線の中で、泥の底に棲む虫けらのように、ただ身を寄せ合って生きていた。

 

「……でも、不吉ですわ。よりによって双子だなんて」

「直毘人様ももっと母親を選べばよろしかったのに。あんな一族の端くれの女から、まともな術師が生まれるはずもありませんわ」

「ましてや、双子は呪力を分け合って生まれるというじゃないの。どちらも半端者の出涸らしにしかならないでしょうね」

「──しぃっ、あの子たちに聞こえますよ」

 

 障子の向こうでささめき合う女達の声。それは冬の隙間風のように、容赦なく幼い私たちの体温を奪っていった。

 

「双子は双子でも、二卵性や言うとるのに。それに俺は呪力十分にあるもん。菜緒葉ちゃんと違ってな」

 

 直哉は、家族の中ではお母様しか話さない京都弁で毒づいた。直哉はとにかく負けん気が強く、性格も物言いもきつい。でも、私と同じ大きさの手は、ほんの少しだけ震えていた。

 だから私は──

 

「そうですわね。直哉はきっと、この家で一番の術師になりますわ」

 

 いつだって、そう言ってあげることに決めていた。それが、直哉の震えを止められる唯一の呪文だと知っていたから。

 直哉は直情的なバカだから、あまり理解していなかっただろう。でも、私には全部わかっていた。

 どうしてお母様はいつも少し悲しそうなのか。どうしてお父様はなかなか会いに来てくれないのか。どうしてお兄様たちは、会うたびに私たちを睨みつけるのか。

 全部、全部、わかっていた。

 直哉は私を見下して、それで自分が最下層でないことを確認しようとしている。惨めな子だ。

 でも──それでも構わなかった。

 この呪われた暗い屋敷の中で、私は直哉の、直哉は私の、世界でたった一人の味方だった。

 私だけは直哉の苛立ちを、孤独を、何もかもを受け止めて支えてあげなくては。

 そう信じていた。

 

 

 ──直哉が術式を発現させた、あの日までは。

 

 

 あの日を境に、直哉を取り巻く世界は黄金色に塗り替えられた。

 お父様は直哉に直接稽古をつけ、兄たちの誰よりも可愛いのだと褒めそやすようになった。直哉は一瞬にしてこの家の玉座へと引き上げられ、私はかつて二人でいたはずの泥の中に、独りで取り残された。

 女はどうせ初めから期待されない。術師になれるとも思われていない。最低限の呪力と術式さえあれば、あとは種を繋ぐための器として適当な男をあてがわれて終わり。

 お父様の瞳に弱者である私の姿が映ることは、絶対にあり得ない。

 

 そして──ある日。

 光の中に立つ直哉が、影の中にいる私を見下ろして言った。

 

「……あんなぁ、菜緒葉ちゃん。お前はもう、俺の隣におったらあかんよ」

「えっ……?」

「俺は将来、この家の当主になるんや。隣に立つんは、俺と同じくらい強い奴だけやないと、俺の格好がつかへんやん?」

 

 直哉の目は無邪気に輝いていた。一族の期待、称賛、愛情──そういうものを一身に浴びて、純真に輝いていた。

 その無邪気さのままに、直哉は私を呪った。

 そして震える私の肩をポンと叩き、誇らしげな口調で言った。

 

「俺の三歩後ろ。そこがこれからの菜緒葉ちゃんの特等席や! 出涸らしのお前はそこで、俺が強くなっていくのをずっと見上げとったらええねん」

 

 直哉が私を出涸らしと呼ぶのはいつものことだった。大人たちの悪口を真似て、せめて自分の優位を確認せずにはいられない、この子のねじ曲がった防衛本能。

 けれど──かつて震えていたその手が私の肩を叩いた時、そこにあの頃の温もりは、もう残っていなかった。

 

 ──直哉の三歩後ろ。

 今やそれだけが、私がこの屋敷で許された、唯一の居場所。

 

 私はその時、生まれて初めて直哉を恨んだのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………クソみてーな夢」

 

 目が覚めてからしばらく、俺は布団の中で動けなかった。

 頬を伝う冷たい筋は──涙だ。

 

 蠅頭料理にも慣れ、初めて手を出した三級呪霊の調理にも成功した。食べた直後は確かに力が湧いた。だが昨夜は夜通し悪夢を見た。可哀想だった菜緒葉ちゃんの記憶が、夢の中で鮮明に蘇ってきたのだ。

 呪霊を食う度に、菜緒葉ちゃんの魂が揺さぶられているのかもしれない。負の記憶の蓋が、呪力の変動で少しずつ開いていく──そんな感覚がある。

 

 立ち上がると体が少し重かった。胃の腑の奥に昨夜の呪霊の呪力がわだかまっている。消化しきれていないのか、それとも呪力が増えたことに体が追いついていないのか。鈍い吐き気が喉の奥でくすぶっている。

 

 ……あの頃の菜緒葉ちゃんは本当に可哀想だった。

 でも、今は違う。強くなるために、俺は呪霊クッキングの他にもう一つ、俺は作戦を立てている。

 その鍵となるのが──直哉音MADに頻出する「甚爾くん」だ。

 

 ここで一度、直哉音MADの主な登場人物を整理しておこう。この著作権を無視したネタ動画群が俺の持つ原作知識の9割だと思うと泣けてくるが、ないよりはマシだろう。

 

 ①禪院直哉

 語録を喋るか無様を晒すかの二択。原作を知らない俺は真希ちゃんのかませ犬だと舐めていたが、実際に同じ屋根の下で暮らしてみてそのすごさが骨身に沁みた。……原作を読んでいれば音MADをもっと楽しめたのかな、と今さら思う。

 

 ②真希ちゃん

 俺と直哉のいとこ。まだこの世に生まれていない、めちゃつよ火傷ガール。呪力がないので直哉にバカにされていたが、覚醒して直哉をボコボコにし返す。呪術廻戦の主な舞台は呪術高専らしいから、サブヒロインであろう真希ちゃんも高専生のはずだ。……あの強さと貫禄で女子高生?

 

 ③真依ちゃん

 真希ちゃんの双子の妹。音MADでは毎回のように直哉にセクハラされている。禪院家壊滅の時点では故人。「全部壊して、全部だからね」という幼少期の台詞だけが、素材として使い回されている。

 

 ④甚壱くん

 ありとあらゆる音MADでも直哉に顔をディスられている、非常に可哀想な扱いの人。真希ちゃんに生首を池に捨てられるシーンも頻出素材。菜緒葉ちゃんの記憶によれば、この家で二番目に強いらしい。顔はワイルドでかっこいいと俺は思う。

 

 ⑤扇のおじさま

 時々出て来ては自分の娘を殺そうとして、返り討ちにされる人。罪状で言えばセクハラ祭りの直哉を超えるが、正直キャラが薄いというか、パッとしないイメージだ。面白いことを言ってくれないし、どうして娘を殺したのかもよくわからない。理不尽な恨み言を言っているシーンは知っているが、まさかあれだけが動機ということはないだろう。きっと、ラップ調のネタ動画にする過程などで削ぎ落とされた何か込み入った事情があるんだ。だって、そうじゃなきゃただのカスになっちゃうし。

 

 ⑥直哉のバトル相手の人

 しょっちゅう登場するが、名前は不明。禪院の人間ではなさそうだし、今は考えなくていいだろう。「びっくらポン」や「キッショ」の素材になっているマイナー勢たちと同じ棚に置いておく。

 

 そして──⑦甚爾くん

 彼が一番重要だ。

 

 甚爾くん自身は音MADに直接登場することがほぼない。だが、名前はちょくちょく出てくる。直哉は彼を「アッチ側」と呼び、「アッチ側」に立つことを渇望し、甚爾くんと同じ体質で超最強の真希ちゃんに嫉妬して、「お前は甚爾くんやない!!」と叫ぶのだ。

 直哉が甚爾くんを呼ぶ声は、明らかに好意的だったように記憶している。

 ……聞いた話では、甚爾くんは「呪力もない」「呪霊も見えん」。直哉が一番バカにしそうな人種だ。なのに、憧れている。

 

 これが意味するのは一つ。

 甚爾くんは、直哉の価値体系を根底から覆す存在だということだ。

 

 ──鏡の前で身支度をする。

 映っているのは俺──禪院菜緒葉。ちょっとキツめの顔立ちだけど、なかなか可愛らしい和風のお嬢様。

 弟に三歩後ろしか許されていない、女。

 

 禪院家にとって、女が術師を目指すなんていうのは趣味みたいなものだ。毎日綺麗にして、家事もきちんとやって、将来は子供を産む。術師はその合間の余技。真希ちゃんと真依ちゃんが原作でどうして高専に行けたのかは知らないが、おそらく「双子のうえに片方が『猿』だなんて家中じゃ婿の見つかりようがないから、せめて外で自由恋愛でもさせておこう」みたいなことを大人が考えたのだろう。

 

 女、おまけに呪力はクソ雑魚。禪院菜緒葉の戦士としてのスタートラインは、あまりにも不利だ。

 そんな姉を軽蔑しきっている直哉が、どうして呪力のない甚爾くんを崇める?

 甚爾くんはきっと、直哉が本能的に「勝てない」と感じさせる何かを持っているのだ。そしてその何かは、禪院家の呪力至上主義では測れない。

 俺は、その「何か」が欲しい。

 

 早朝の厨房で下拵えをしながら、俺はそれとなく、一番歳の近い新人の女中・お千代さんに話を振ってみた。

 

「ねえ、お千代さん。甚爾様ってどんな方なの?」

 

 お千代さんの手が止まった。包丁を握る指に力が入り、頬がほんのりと上気する。

 ……おい、お千代さん。あんた今、一瞬で恋する乙女の顔になったぞ。

 

「あら、菜緒葉お嬢様。甚爾様に興味がおありで?」

「ええ、とてもお強いのだと聞いて。何度か部屋を訪ねたんですが、なかなかお逢いできなくて……」

 

 お千代さんは困ったように、しかしどこか誇らしげに周囲をキョロキョロと見回した。他の女中たちも、手は動かしたまま耳だけをこちらに向けているのがわかる。この話題、食いつきが異常に良い。

 

「日中は基本的に出かけておられますの。あまり大きな声では言えませんけれど……甚爾様は、呪力も、呪霊を見る目もお持ちでないお方です。この家では『落ちこぼれの猿』と呼ばれていらっしゃいます。きっとこの家には居づらいんでしょうね」

「えっ、そうなんですの?」

 

 知ってた。知ってたけど一応驚いておく。

 しかし、ここからお千代さんの語調に火がついた。

 

「でもねお嬢様。あの方は──特別ですわ。天与呪縛のフィジカルギフテッドで、純粋な格闘技でいえばこの家で最強。それに、あんなに冷たくて、乱暴で、それでいて寂しそうな目をするお方は他にいませんもの」

 

 お千代さんの目がキラキラ光り始めた。完全にスイッチが入っている。

 

「先日も私がこっそりお食事を持っていって差し上げたら、『……邪魔だ』っておっしゃって。そのくせ私が立ち去るまで、ずっとその場にいてくださったんですのよ!」

 

 いや、それ単に追い払われただけじゃねーかな。

 すると、横からベテランの女中がボソッと口を挟んだ。

 

「お千代、あんたはチョロいわね。あの方はそうやって女の同情を引くのがお上手なのよ。若い子はみんな甚爾様に同情してこっそりご飯を持っていったり手当てしたり。……かく言う私もあの子がまだか弱い美少年だった頃に──」

 

 あんたもかよ。

 

 ……わかったこと。甚爾くんは「呪力ゼロ」のコンプレックスを抱えた影のあるイケメン。そして禪院家の女中達による非公式の給食サービスの受益者。体術は家中最強。

 つまり俺は甚爾くんを最高に美味い飯で餌付けして、代わりに体術を教えてもらえばいい。この最低な家で見下されている者同士、きっと上手くやれるはずだ。

 

 直哉はきっと地団駄踏んで羨ましがるだろーなー!

 

 俺はニヤリと笑い、指先でジャガイモの皮をパシシシッと高速で剥きながら訊いた。

 

「……お千代さん、甚爾様がよくいらっしゃる場所、教えてくださる?」

 

 お千代さんは軽く首をかしげ、指を折りながら答えた。

 

「競艇場、競馬場、パチンコ屋……かしら」

 

 ……。

 そんな場所、6歳児の俺が行ける訳がねーだろうが。

 

 

 

 

 

 

 

 結局、甚爾くんに会うまでにはさらに一週間かかった。

 

 ある朝のことだ。屋敷の縁側に見慣れない人影があった。

 遠目でもわかる異様な存在感。

 それは背の高い若い男だった。漆黒の着流しはよれよれで、裾に泥が跳ねている。それでも、柱に背を預けてぼんやりと空を見上げるその姿には、周囲の空気ごと塗り変えてしまうような迫力があった。

 近づくにつれて、ディテールが見えてくる。体の厚みが常人と違う。肩から腕にかけての筋肉が、着流しの布地を内側から押し上げている。そして眼光は鋭く、冷たい。手負いの野生動物のようだ──近寄ったら最後、何をされるかわからないと、本能が警告してくる。

 

 俺がじっと観察していると、横からお千代さんが袖をつついてきた。

 

「菜緒葉お嬢様、甚爾様がお戻りになりましたわ……!」

 

 頬が赤い。瞳が潤んでいる。完全に恋する乙女の顔だった。

 

「お千代さんって、ワイルド系の殿方がお好みでしたのね……」

「きゃ♡ 揶揄わないでくださいまし♡♡」

 

 そんなお千代さんに笑いかけながらも、俺は甚爾くんから目を離せなかった。たしかに顔はいい。だがそれ以上に──近寄りがたい。呪力は微塵も感じないのに、纏っている空気の質が根本的に違う。これが、あの直哉が大人になっても尊敬し続ける人間の迫力か。

 

 今朝お千代さんと一緒に仕込んだ弁当箱を、俺は抱え直した。中身はおにぎりと煮物。相手は初対面で、しかも呪力ゼロだ。いきなり呪霊料理なんていうゲテモノは出せない。まずは純粋に、最高に美味い飯を出す。その胃袋を射止めてから、交渉に入る。

 

 縁側まで、数歩。

 近づいただけで空気が変わった。肌がぴりぴりする。

 

 甚爾くんの視線は空を向いたままだ。こちらを見てすらいない。なのに、心臓の拍動が「それ以上近づくな」と警告するように速まっていく。呪力は微塵も感じない。一般人以下だ。なのに──見えない壁が、確かにそこにある。

 思わず身がすくみ、足が止まった。

 甚爾くんが横目でこちらを見た。

 

「……あァ?」

 

 低く、地を這うような声。

 その一音だけで、背筋が勝手に伸びた。

 

「……あの、甚爾様。私、直毘人の娘の菜緒葉と申します」

「あぁ。あの酔っ払いのガキか。何の用だ」

 

 俺はお淑やかなお嬢様スマイルを顔面に貼り付け、弁当箱を差し出した。

 

「厨房で余ったもので恐縮ですが、お一ついかがかしらと思いまして」

 

 甚爾くんの視線が弁当箱に落ちた。

 一拍の間の後、弁当箱が無造作にひったくられる。蓋が開き、おにぎりが──一口で消えた。

 咀嚼。沈黙。

 米の一粒一粒に呪力を通し、旨味を限界まで引き出した俺の現時点での最高傑作だ。この人は、俺の傑作をどう感じて──

 

「……ふん。悪くねえ」

 

 それだけ言って、甚爾くんは煮物にも箸を伸ばす。お礼の言葉はゼロ。この家の男にはよくあることだ。だが、箸の動きが止まらないのが答えだろう。少し嬉しい。

 俺は一つ深呼吸をしてから本題を切り出した。

 

「……甚爾様。わたくし、貴方に体術を教えていただきたいのです」

 

 甚爾くんが鼻で笑った。その笑いに混じっているのは侮蔑ですらなかった。飛んできた虫を一瞥して、また空を見上げるような──完全な無関心。

 

「体術? 呪力不足の出涸らしが今さら何を始める気だ。ガキのままごとに付き合う気はねえよ」

 

 甚爾くんは言う。

 ──出涸らし。

 その言葉が、胸の奥の古い傷に引っかかる。

 直哉が俺を呼ぶのと同じ言葉だ。この家の人間は皆、同じ言葉で禪院菜緒葉を切り捨てる。まるで全員で申し合わせたみたいに。

 

「ままごとなんかではありませんわ!」

 

 声が思ったより強く出た。

 甚爾くんの目がわずかに見開かれる。

 

「私、強くなって──あの馬鹿な弟を、ボコボコにしてやりたいのです」

 

 沈黙が落ちた。

 さっきまでとは質の違う沈黙だ。

 

 一秒。二秒。三秒。

 甚爾くんの視線が、俺の全身を上から下まで舐めるように這う。六歳の体躯、細い腕、小さな手。この体で何ができるのかを、彼は本気で測っている。その視線の重さに、俺は奥歯を噛んで踏みとどまった。六歳の体で受け止めるには、少し堪える重圧だった。

 

 そして、甚爾くんがゆっくりと立ち上がる。

 でかい。本当にでかい──改めてそう思う。 

 逆光で顔が陰になり、表情が読めない。

 

「明日から毎日、腕立て伏せを五百回。六歳のガキの細腕が、へし折れるまでやり続けろ」

「ご、五百回!?」

「あァ。それができるようになってから出直してこい」

 

 欠伸をひとつ。

 

「戦いはお前がやってる厨房のおままごととは違えんだよ」

 

 それだけ言い捨てると、甚爾くんは俺のことなど最初から存在しなかったかのように屋敷の奥へ消えた。

 縁側には、空になった弁当箱だけが残されている。

 弁当は完食。しかし答えはノー。

 俺はしばらくその場に立ち尽くし──それから、拳を握り締めて叫んだ。

 

「……やってやろうじゃありませんの、ドブカス二号がァ!!」

 

 その声は屋敷の廊下にまで響き渡ったらしい。柱の陰からこちらを窺っていたお千代さんが、目を丸くしながら駆け寄ってきた。

 

「お、お嬢様!? 甚爾様に何かひどいことを言われましたの!?」

「大丈夫ですわ、お千代さん。体術を教えてほしいって言ったら、毎日腕立て五百回やれって言われただけ」

「腕立て五百回……!?」

 

 お千代さんは一瞬絶句し、それからゆっくりと、複雑な表情を浮かべた。

 

「……それ。もしかして、甚爾様なりの優しさかもしれませんよ」

「は?」

 

 いくら甚爾くんに恋してるからって、好意的すぎる見方じゃないか。でも、お千代さんが後に続けた言葉は、案外納得のいくモノだった。

 

「だって──本当に教える気がなければ、条件すら出さないと思いません? 」

 

 ……言われてみれば、そうかもしれない。

 あの人は、俺にチャンスをくれたのか? 「腕立て五百回できたら出直せ」というのは、裏を返せば「五百回できたら話を聞いてやる」ということだ。

 お千代さんは両手を胸の前で組んで、うっとりとした目で甚爾くんが消えた廊下の奥を見つめた。

 

「やっぱり甚爾様って本当に素敵……。ぶっきらぼうだけど、心の奥は温かいんですね……」

 

 お千代さん、あんたのその解釈能力はある意味すごいと思う。あいつは6歳の女の子を出涸らし呼ばわりしてるんだぞ。

 お千代さんはしばらくうっとりしてから、ハッと我に返った。

 

「そ、それよりお嬢様。本当に腕立て五百回をなさるおつもりですの? お嬢様のお体は六歳の女の子ですのよ?」

「頑張りますわ。今日の厨房でのお勤めが終わったら、すぐに始めます」

「まあ……!」

 

 お千代さんは目を見開き──それから、ふっと微笑んだ。おばさまのそれよりもずっと柔らかい、春の陽だまりのような笑みだった。

 

「……わかりました。でしたら、私もお手伝いいたします。甚爾様にお食事を届ける時、お嬢様の頑張りもそれとなくお伝えしておきますわ」

「お千代さん……! あんた最高だよ!」

 

 あまりの喜びにうっかり心の中の男口調が出てしまう。すると、お千代さんは人差し指を唇に当てて、悪戯っぽく笑った

 

「あら。そんなお言葉遣いをなさっては、女中頭さまに叱られますわよ」

 

 この人は──きっとこの家には珍しい、素直な人なのだろう。おばさまが鉄の鎧で自分を守る人だとすれば、お千代さんは鎧なしで笑っていられる人だ。そのぶん傷つきやすいだろうに、それでも笑っている。

 

 俺は空の弁当箱を拾い上げ、お千代さんと並んで厨房へ戻った。

 厨房ではおばさまが無表情のまま待っていた。

 

「菜緒葉。ずいぶんと遅かったですね」

「申し訳ございません、おばさま。甚爾様にご挨拶をしていて」

「……甚爾に?」

 

 おばさまの眉がかすかに動いた。それ以上は何も言わなかったが、その一瞬の反応の中に、何か複雑なものが渦巻いているのを俺は見逃さなかった。

 甚爾くんへの感情は、この家の人間それぞれで違うのだろう。蔑み、同情、畏怖、嫉妬──。おばさまの場合はなんだろう? 将来直哉を刺すかもしれないこの人が抱えている何かに、俺はまだ触れられていない。

 おばさまは淡々と命じた。

 

「……仕込みの続きをしなさい」

「はい、おばさま」

 

 俺は竈の前に立ち、指先に呪力を集中させた。今日からは料理と並行して、腕立て伏せだ。午前四時起き、調理、掃除、洗濯、そして筋トレ。前世の俺が「有給取らせろ」と叫ぶ声が脳内で一段と大きくなったが、知ったことか。

 

 ──俺の禪院家サバイバルは、今日もBPM220で回り続ける。

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