音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
目が醒めたら、そこは地獄の宴のあとでした。
俺の転生直後は悲劇のヒロインのようなオーラを醸し出していた気がする菜緒葉ちゃんは、論外のドブカスだった直哉すら霞むレベルのラスボスの卵。
そして菜緒葉ちゃんは俺の意識を強制シャットダウンするという暴挙に出た挙句──なんと直哉を泣かせた。あの直哉をだ。俺と直哉の付き合いはそろそろ6年に及ぶが、俺はコイツが泣いているのを初めて見た。完全に異常事態である。最大の脅威である羂索が去っていることだけが、唯一不幸中の幸いというべきか。
おーい、菜緒葉ちゃん?
説明責任という言葉を知っているかな?
『心外ですわ! 私はただ少しお喋りを楽しんでいただけなのに、直哉が勝手に泣き出したんですのよ?』
嘘をつけこのサディスト!!
生意気さでは特級呪霊にも引けを取らなさそうな直哉が、何をどうやったらこんなにボロ雑巾みたいに泣き崩れることになるんだよ!
『……(スッ)』
逃げた。
菜緒葉ちゃんが肝心なところで心のシャッターを下ろす時の速度は、特級術師並みだ。俺がお休みさせられているたった数分の間に人間関係のトポロジーをこれだけぐちゃぐちゃにして行ったというのは、一周回って感嘆に値する。
というか、今回の任務を通じて直哉が受けたダメージを俺の知る限りで整理してみたけど、これってジャンプ主人公ですら曇るレベルのフルコースだよね。普通に敵ポジションの直哉が太刀打ちできるレベルじゃない気がするぞ。
① 『反転術式』の先越し事件
兄がこの件で敵に付け入られて闇堕ちしてる隣で直哉は文句ひとつ言わずに自らを高めてて、本当に偉かったよ。
② メル友の正体が呪詛師だった件
悲惨のひとこと。初めてお友達ができそうな雰囲気だったのにねー。
③兄の襲撃
信頼していた(かは怪しいけど)兄が操られて襲ってくる……っていう王道展開かと思いきや、中身を確認したら「操られてはいるけど、お前への殺意は俺の素の気持ちだよ!」という地獄の種明かし展開。「日頃の行いを反省してね!」で済ませるのは、流石に憐れだろう。
④ 領域展開の感動を「人類総TS美少女化計画」で上書きされる
地味に今回一番のお労しポイントだと思う。
必死に覚醒して、1秒とはいえ未熟ながらも「領域展開」を成し遂げたんだよ? 我が家の性質を考えるな本来なら即座に「おめでとう!」「さすが直哉くん!」と胴上げされるべき場面だ。
なのにその少年漫画めいた努力の余韻を大好きな姉が速攻で「全人類をTS美少女呪術師にリミックスしますわ!」っていう、インターネットの深淵でしか許されない変態性癖で塗り潰した。
⑤ 羂索襲来
俺も滅茶苦茶怖かったし、自分がまだ生きているのが不思議な感じがする。あの人結局なんだったの?
真男佳を解体しながらあんなのと優雅にお喋りしてた菜緒葉ちゃんはマジで心臓に毛が生えすぎてる。
……俺は菜緒葉ちゃんが大物ぶって精一杯のブラフを張りまくってたのを理解してるけど、直哉視点ではあれ、世界滅亡を企む魔王軍の幹部会議みたいなもんだったんじゃないかなぁ? お茶菓子の代わりにお出しされてたのが呪霊肉(人肉にしか見えない)だったし。
そして俺がシャットダウンされてる間に菜緒葉ちゃん、まさか羂索に籠絡されてないよな?
⑥ 菜緒葉ちゃんの本性
彼女は賢いし、表現は独特だが愛情深い。悪い子じゃない。単に引きこもり気質の重度オタクで、社会性が欠如してて、人の心がなくて、その上自分の美学のためなら世界を魔改造してもいいと思ってる、超絶傍迷惑な子なだけなんだ……。
そして弟のダメボ愛好怪人だけあって、彼女は直哉に対して愛憎入り混じりまくってる。
菜緒葉ちゃんの男嫌いからはお父様と直哉だけは除外されていると思っていたが、そんなことはなかった。
菜緒葉ちゃんは直哉のことが大好きではあるが、1ミリも信用していない。
直哉の男尊女卑発言は元男の俺にとってはある意味他人事なのだが、菜緒葉ちゃんにとってはそうではない。直哉を恨まないために、菜緒葉ちゃんは努力を重ねた。思考を歪ませた。諸々理屈を捏ねているが、結局のところ彼女の発想は、禪院家のシステムに対する当人なりのカウンターなのだ。
⑦ 「俺」の存在を知る(※これがとどめ)
菜緒葉ちゃんに『菜切り包丁』とは別の術式があるのは俺もなんとなく知ってた。
で、「菜緒葉ちゃんの術式について詳しく教える」って話になれば「じゃあ『菜切り包丁』は何やねん」という話になって、俺の存在は必然的にバレます。
という訳で菜緒葉ちゃんは俺を一時的にシャットダウンしてる間に、ここ数年の二重人格状態の真実を直哉にも全部ぶちまけたっぽいね。
ちなみに過去の直哉が「菜緒葉ちゃんは俺の3歩後ろを歩けばええねん!」とかイキってて、将来従妹にセクハラするクソ男になるのも確実だったのが、菜緒葉ちゃんの人格の引きこもりの主要因であり、今回のイカレた計画の端緒でもある。
俺は呪霊食後の悪夢共有などで普段は強がっている彼女の傷つきを理解しているので、幼い彼女の逃げ癖を受容してしまっていたが──ぶっちゃけこれまでも直哉に対する罪悪感はあった。
しかしこの秘密は、最悪のタイミングで菜緒葉ちゃん自らの口で暴露されてしまったのだ。
①〜⑦をまだ12歳の直哉は短期間のうちに経験してしまった。そして、この手の悩みを相談できる相手なんて彼には一人もいない。
結論:直哉、生きて。
現場に復帰した俺にできたのは、泣きじゃくりながら菜緒葉ちゃんに謝り続ける直哉の頭を(菜緒葉ちゃんの闇を感じさせないように)優しく撫でながら謝り返すことだけだった。
これ、俺が今後どれだけフォローしても、直哉の心には取り返しのつかない傷が刻み込まれる気がするんだけど……大丈夫かな、これ?
◇
全然ダメでした……。
禪院の人員は結局滅茶苦茶遅れてやってきた。そして兄と気絶していた中学生達は、禪院家の息がかかった病院へ搬送された。
兄は菜緒葉ちゃんの『反転術式』で応急処置済みなので命に別状はない。とは言え脳に不可逆な損傷が出ていないかの精密検査が必要で、結果が出るまでには時間がかかるらしい。式神の破壊を回避できなかった複数人を含め、呪術界隈の病院で経過観察。
この人員の遅れについて影で糸を引いていたであろう羂索について、その後の目撃情報はなし。「香織」も「羂索」も偽名じゃないかという話も出てきているが、偽名で縛りは結べないんじゃないかと思う。ちなみに俺がシャットダウンされてた間に彼女が羂索と何を話したのか──それについては質問攻めにしてるんだが、のらりくらりと逃げられ続けている。彼女との会話については9割9分報告を伏せることにした。
そして最大の懸念事項。
直哉のメンタルについて。
泣き止んだ途端にスンとなって、冷静になって色々やり始めた。とは言え良くも悪くも即断即決というか、冷静な顔のまま突如軽率な行動に走っては失敗してキレながら帰ってくるタイプの子なので、心配以外の感情がない。
俺自身が突き放されることは何故かなかったので、帰ったら人目のないところでじっくりカウンセリングでもしてやろうと思ったんだが、今回の任務で『反転術式』『領域展開(仮)』『おそらくは1級レベルの呪霊調理』という特大の成果をぶち上げたせいで、禪院家の中は蜂の巣をつついたような大騒ぎ。直哉はここ何十年かでは最年少での『炳』への昇格が決まり、俺も……なんかすごいご褒美がもらえるらしい。(女の子には昇級とかないんか???)
一向に二人きりの機会が持てないまま、未だかつてないほど何か言いたげな直哉を、俺は物理的にスルーし続ける形になっていた。
そんな中。
事件から3日後、真男佳の調理結果についての報告書作成や今後の方針策定がようやく落ち着いて、病院へ兄貴のお見舞いに行く準備をしていた俺の部屋に、仲良しの親戚である蘭太くんが血相を変えて飛び込んできた。
「菜緒葉さん! 直哉さんが任務中に脳に呪いを受けて、余命幾ばくもない不治の病になったってホントですか??」
開口一番、蘭太くんが泣きついてきた。
……待て、不治の病?
どこからそんな話が出てきた?
「あら。直哉は私と一緒に領域展開を成功させたのに、私を差し置いて一人だけ『炳』への昇格が決まって、今頃上機嫌でしょう?『俺は天才や、お前らカスとは違うんや』って全方位にマウント取ってウザ絡みでもしてきてるんですの? いつも通りにはっ倒しておきますわ」
俺はあえていつも通りに「傲慢な弟を管理する常識人の姉」のロールを演じてみせた。
本当は自分だけ昇格が決まったことにキレた直哉が「ウチがこんなんだから菜緒葉ちゃんがぶっ壊れたんや」と俺にこぼし、そのせいで脳内の菜緒葉ちゃんが弟に対して謎の苛々モードに入り「もう二度と話しかけてあげませんわ!」となったのを見てるので、申し訳ないが。
だが、蘭太くんの答えは予想の斜め上を行っていた。
「違うんです! 一切自慢してこないんですよ! それどころか、これまで『ポンコツ』だの『玉無し』だの『みっともないから生きてる価値ないやん』だのと煽り倒していた兄上様がたに、片っ端から真顔で謝罪行脚を始めてて……!」
…………あ、これアカンやつだ。
客観的に見て、死を悟った人間の行動だわ。
「えー……」
「最初はデマだと思ってたんですけど、僕に対しても『蘭太くんはいっつも頑張ってて立派やねぇ』とか急にほめてきたんですよ!」
直哉と蘭太くんがプライベートで親しいというイメージはない。むしろ逆だ。
正義感が強い蘭太くんはこれまで直哉にちょくちょく苦言を呈しては「俺より強くなってから言えや」と意地悪されていた。あと、俺の部屋で鉢合わせるたびに「さっさと出てけや」といじめられてもいた。オセロバトルが佳境でも構わず追い出し作業に着手してくるそのドブカスっぷりに蘭太くんが内心どう思っていたかなど、想像するまでもない。
蘭太くんからすれば直哉に優しくされるなんてのは「太陽が西から昇って、なおかつ呪霊がボランティア活動を始める」くらいの天変地異なのだ。
しかし──
「………………別に、いいことなんじゃありませんの?」
直哉の論外な性格が良くなれば、菜緒葉ちゃんの「男は全員美少女になった方がいい」という狂気あふれる思想を思い止まらせる理由になるかもしれない。
『マコくんはまた狂気溢れる思想とか言いますけど、全人類を甚壱くんの顔にするとかならまだしも、美少女にすることに何か問題ってありますの?』
脳内の菜緒葉ちゃんがナチュラルに死ぬほど無礼なことを言い出したが、無視しておこう。直哉といい菜緒葉ちゃんといい、甚壱くんの顔に何の恨みがあるんだろう。甚壱くんの良さを理解しているのは俺だけなのか。
──実のところ、事後処理のときから直哉は意外な動きを見せていた。今回の兄の醜態をある程度伏せて報告しようと自分から言い出してきたのだ。正直兄を気の毒には思っても、賛成はしづらかった。けれども直哉に何かしてあげたかったし、この子が考え方を変える機会になればと考えて、渋々提案に乗った。
その分俺たちが詰められるポイントは増えたが、反転のアウトプットと領域展開、真男佳の調理成功という規格外の達成で、帳消しどころかお釣りがくるレベルだろう。
蘭太くんを「お兄様のお見舞いの用意があるから」と宥めて送り出し、俺はその足で直哉の部屋へと向かった。兄へのお見舞い用の東京ばな奈を携えて部屋の襖を開放する。
そして──折角色々頑張って、成長して、家中から誉められて、本来なら幸せな気持ちでいっぱいだったはずの弟の、冷たい瞳を目の当たりにする。それでも努めて明るい様子で話しかけた。
「……一緒にお兄様のお見舞いへ行きましょうよ」
普段の直哉なら「はぁ? 行かへんわ。死に損ないのツラ拝んで何が楽しいねん。時間の無駄や」とでも憎まれ口を叩くだろう。で、俺が「まあまあ、家族ですし。きちんと行けたら後でおやつをあげますから」などと説得する。
だが、その日常はなくなってしまった。
直哉は冷めた目で言った。
「
「……」
「姉さんが菜緒葉ちゃん出してくれたら行く」
姉さん。あれ以来直哉は俺をそう呼ぶようになった。
本当の姉ではなかったけれど、長い間自分を姉として育ててくれた相手への偉大なる妥協──のようだ。
……菜緒葉ちゃん、どうする?
脳内でそう問いかける。
『……お兄様のお見舞いとか絶対したくないし、直哉をまた泣かせたくないから出ませんわ』
えー、さすがにカスすぎない?
直哉は「菜緒葉ちゃんと一緒に行きたい」って言ってるんだよ。俺とじゃなくて。
『……』
いつもより少し長い沈黙の後に、菜緒葉ちゃんは静かな声で言った。
『今更善人ぶって、うわべだけ取り繕って私の機嫌を取ろうとする品性が気に食わないから出ません……って言っといて』
どうやら直哉の頑張りは逆効果だったっぽかった。
──いくらなんでもそんな酷いことを言える訳がなかった。
「……菜緒葉ちゃんはしばらく出てきたくないみたいですわ」
「あっそ」
「直哉、どうして私を怒らないの。怒ってよ、恨んでよ、またいつもみたいに最低な悪口を言ってよ」
「姉さんはアホやな。それ何度目? 泣いたり怒ったりして何の意味があんねん。それで菜緒葉ちゃんが戻る訳やないのはもうわかったし、非生産的なことって嫌いやわ」
で、「生産的」なことを始めたって訳か。
菜緒葉ちゃんは生産性なんて一切求めてないのに。
「俺の好きやった菜緒葉ちゃんはとっくに壊れとった。俺が壊した。姉さんが裏から助けて、誤魔化してくれてただけで」
「あ、自分が発端だった自覚はあるんですのね。意外」
「……」
「ごめんなさいね。今のは失言でしたわ。……帰ったらゆっくり話しましょうね、直哉」
結局そう言い残して部屋を出て、襖を閉じた。可哀想には思うが、菜緒葉ちゃんが立て籠もってしまった以上、俺に実効的な解決策をすぐに考えることはできない。
これってもしかして、何年ぶりかの姉弟喧嘩か?
菜緒葉ちゃんは基本的に直哉に怒らないが、相伝が発覚したてで一番調子に乗っていた時期の直哉には相当キレていた。というか、絶望のあまり意識の奥底に沈んでいた。それでも決闘中には直哉の股間を蹴るためだけに、わざわざ意識の表層にまで浮上してきてたっけ。
──当時の俺は菜緒葉ちゃんに心底同情していたし、実際あの子は本当に可哀想だった。
今の直哉と菜緒葉ちゃんの喧嘩?
俺は常に泣いてる方の味方なんだ。
◇
普段はあまり話さない他の兄達もお見舞いに誘ったが、「今忙しい」「あいつと話すこととか特にないしな」と普通に断られたので、結局一人寂しく病院へ行くことになった。東京ばな奈の紙袋をぶら下げ、場違いなほど真っ白で無機質な病棟を歩く。病室の重い引き戸を開ける。
そこには、体のあちこちを包帯とガーゼで固められた痛々しい姿の兄がいた。
一瞬、目を疑った。
怪我のせいじゃない。
典型的な禪院の男である兄が細い鉤針を魔法のように器用に操り、真っ白な糸で雪の結晶のような繊細な模様を編み上げていたからだ。
この流れるような作業。確実に年季が入っている。昨日今日、入院中の暇潰しに看護師さんに教わったなんてレベルじゃない。
そのまま、3秒ほどお互いに硬直した。
「……お兄様」
「……」
「それ」
「……違うんだ菜緒葉」
「何が違うんですの? 誰がどう見ても繊細なドイリーを錬成している真っ最中でしょうに」
俺はあえていつもの菜緒葉ちゃんの調子でツッコミを入れた。
「その……リハビリの一環?」
「レース編みがリハビリって何ですの」
「……」
兄は恥ずかしそうな顔をした。
禪院の男として生まれた以上、この手の趣味に耽ることは弱さであり恥だとでも思っているんだろうか。
俺はそれを見て後悔した。
「私、お兄様が何が好きなのか、考えてみれば、全然知ろうとしてませんでしたわね。何を話せばいいかよくわからなくて、いつも困っていました」
「……だって、言える訳ないじゃないか。変だし」
「私は変だなんて思いません」
兄は眩しげに目を細めた後、膝の上のレースに視線を落とした。そして、吐き出すようにぽつりと言った。
「……お前と話してると時々惨めになるよ」
「知ってますわ」
しかし、どう接するのが正しいかはわからない。この人が女を見下しているうちは、何を言ってもコンプレックスを抱かせるだけのような気もする。
「というか菜緒葉、お前……滅茶苦茶呪力総量が増えたって聞いたけどどうしたんだ」
「真男佳を食べましたの。熟成された呪力の塊でしたわ」
「まじか。ああ、あの時、珍しく出撃に対して前のめりになっていたのはそういうことか。……で、なんで俺なんかを助けた? 『反転術式』を使う価値も、報告を誤魔化す価値も、俺にはなかったはずだ。てっきり俺は家を追い出されるんじゃないかと……」
「家族ですから。それ以外に理由がいりますの?」
「そんな綺麗な話、この家じゃ通らないだろ。俺はお前たちを裏切った。実の弟を殺そうとしたんだぞ」
「真男佳の洗脳のせいもありますし……」
──いや、奴の能力は調理ついでに解析済みだ。あの殺意は増幅されてはいたが、種火は間違いなく兄自身の内側にあったものだった。ここで建前を語るのは彼に対して不誠実だろう。
「……お兄様。正直に言いますわ。私はお兄様のことが嫌いでした。お兄様が昔、私のことを『賢すぎる女の子は嫌われるから、もっとバカなふりをしなさい』って言った時からですわ。あれはアドバイスのつもりだったのでしょうけれど、私にとっては毒でしかありませんでしたの」
それは俺が宿る前の菜緒葉ちゃんの方の記憶だ。禪院家なんてそんなものだし、兄も一般常識を言っただけという具合だった。俺にはこの人も弱さゆえに苦労していたんだとわかるし、すごく気の毒だとも感じるけれども、それでも、なんだろうな。菜緒葉ちゃんがこの人を毛嫌いするのを狭量だと否定するのは、厳しかった。
甚爾くんに対する態度のことも……あるし。
──兄は眉を寄せた。数秒、本気で記憶を探って、それから首を振った。
「……言ったっけ、そんなこと。ごめんな」
昔の菜緒葉ちゃんを傷つけた言葉は、この人にとってはその程度だった。
でもまあ、そんなものか。
俺は大人なので、そんなことだろうとはなんとなく察していた。
だから怒ったりはできなかった。
「私はお父様にしかるべき報告をすべきだと今も思っています。だから、お礼なら直哉に言って。……でも、次にお見舞いに来る時は、素敵な編み図でも持ってきますわね。あなたの好きな物も大切な物も知らなかったような妹ですけれども、それでもいつかは、あなたと本当の家族になりたいと思っています」
俺はベッドの横のサイドテーブルに、東京ばな奈を置いた。兄は呆然と俺を見つめ、小さく頷いた。
──お見舞いの間、本当の菜緒葉ちゃんは結局一言も喋らなかった。
まあ、この人について菜緒葉ちゃんが頑張ってどうにかなることはあまりないと思う。
そもそもどんなにパーフェクトコミュニケーションを重ねたところで、この人が本当に認められたがっている相手はお父様だ。
そしてその欲求は永遠に満たされない。
この欠落を少しでも補える人間がいるとしたら、それは「禪院菜緒葉」ではなく、この人に万年筆を渡し直すことができたアイツで──。
その先に何かいいことがあれば、菜緒葉ちゃんが考えを変える日は来るだろうか?
それはまだ、よくわからない。
◇
病室の張り詰めた空気から一転、帰路につく時の心は、ぬかるみの中を歩くような気だるい重苦しさに沈んでいた。
石段を登り、屋敷に戻り、直哉の部屋の前に立つ。
大切な相手に核心的な話を切り出さなければならない場面は、いつだってひたすらに気が重くなるものだ。しかも相手は12歳の子供で、しかもその子供は3日前に俺の正体を知ったばかり。それでも俺を「姉さん」と呼んでくれている。襖を開ける決意を固めるまでに、1分かけた。
「……ただいま」
弟は本を読んでいた。俺が声をかけると、初めてページから目を上げた。その瞳にはかつてあった、世界中に存在を肯定されているかのような無邪気な輝きも、その裏返しでたびたび覗く侮蔑もない。ただ、月の光のように静かで、底の見えない感情が揺れている。
読んでいた本は菜緒葉ちゃんお気に入りの『少女コレクション序説』。澁澤龍彦だ。直哉一人では絶対に手に取らないし、多分面白さも一切理解しないタイプの本。姉の考えていることを知りたかったのかもしれない。
──しかし直哉の努力は菜緒葉ちゃんにはおそらく1mmも響いていない。たとえば兄の「ごめんな」という、あまりにも軽すぎた謝罪。それとほとんど区別がないだろう。
「姉さん。お見舞い終わったん?」
「ええ。お兄様は思っていたよりもお元気そうでしたわ。……それでね直哉、単刀直入に訊きますわ。あなたは本当の菜緒葉ちゃんから、私の存在について、どう聞かされていますの?」
努めて冷静に切り出した。
ここで曖昧にしても何もいいことはない。直哉が何を知っていて何を知らないかによって、俺の取るべき対応が全く変わる。
「……姉さんは白馬の王子様みたいにどこからともなく突然菜緒葉ちゃんの中に舞い降りてきて、菜緒葉ちゃんのために、菜緒葉ちゃんの代わりを──『禪院菜緒葉』という役割を、ずっとやっとるんやってね」
──白馬の王子様、ねえ。
俺が菜緒葉ちゃんに差し出したのはキラキラ光るガラスの靴ではなく薄汚れた音MADの知識だったのだが、随分詩的に誤魔化してもらえているようだ。
「王子様は買い被りすぎだと思いますけど?」
「本物の菜緒葉ちゃんは毎日1人で朝4時になんて起きられんくて、俺が5時に起きてお部屋へ顔見に行くといっつもグースカ寝とるような子やし。ぶっちゃけおかしい思っとったわ」
弟は怒っていなかった。単に気だるげに見えた。あるいは呆れているようにも見えた。
「そういう所も嫌いじゃない癖に。だからわざわざ見に行ってたんでしょ」
「わー、キッショ。姉さんって俺がシスコンだと思って話してはんの?」
すごい被害妄想だ。
俺は事実を羅列しただけで、揶揄おうとした訳じゃない。菜緒葉ちゃんと違って、そういう趣味はないし。
「で、本当の菜緒葉ちゃんの術式の詳細についても教えてくださる? 無理やり寝かされちゃって、私は全然聞けてないんですのよ」
この問いを投げた瞬間、直哉の表情に迷いの影が差すのがわかった。
「……姉さんがもし菜緒葉ちゃんの術式の正体を知らんのやとしたら、知らんままの方が、姉さん自身にとっても都合がええと思う」
「……そうですか」
この子は仮にも当主の息子なので、何を誰に話すかを計算する訓練は幼い頃から積んでいるはずだ。無理やり聞き出したら嫌われるパターンだ。それには耐えられなかった。
同時に、嫌な予感もしていた。
深追いすれば、俺自身の存在を根底から揺るがすような不快な事実に触れることになるかもしれない。俺はこれ以上、弟を問い詰める気力が湧かなかった。
直哉はずっと冷静だった。
これは俺の想像していた展開とは全く違う。
きっと直哉は、俺が現在「禪院菜緒葉」として振る舞い続けているのはほかならぬ菜緒葉ちゃん自身の意志だと、あの夜菜緒葉ちゃん自身から説明されているのだ。つまり、コイツが責めている対象は俺ではなくて──。
で、直哉にそう思わせるのは、俺も辛かった。
これまでの6年間、俺はこのクソガキと喧嘩し、たしなめ、共に歩んできた。その積み重ねをすべて偽物だったと断罪される方が、今のこの状態よりも数倍マシだった。
菜緒葉ちゃんがどうして直哉を矯正したがらなかったのか、今ようやく本当の意味でわかった気がする。自分勝手で歯に衣着せなくて、全然泣かなくて、他人に噛みついてばっかりのバカな子供のこの子が好きだった。
「なんでもするから、もっと元気を出してくださいな」
「じゃあ、菜緒葉ちゃんを助けて」
「……言われなくたってそのつもりですわよ。お母様とも約束したし。6歳のあの日から、私はあの子のために何でもするつもりでいます」
菜緒葉ちゃんの心がどれだけ奇妙奇天烈な思想に支配されていても、どんなに呪いでいっぱいでも、俺はその呪いと共生する。菜緒葉ちゃんがそうしているように、だ。
「あ、人類総TS美少女術師計画には反対ですわよ。菜緒葉ちゃんが呪詛師扱いされて指名手配されたら嫌ですから」
露骨に「良かったぁ」という顔をする直哉。「非術師皆殺しとか男皆殺しとか言ってる訳でもないのに呪詛師扱いされるとしたら、それは社会の側の問題であって……」と菜緒葉ちゃんは言うだろうけれど、そんな危ない橋を渡らせるとでも?
俺達は互いが魂の寄る辺。他人にはよくわからないだろうが、そういうものなのだ。
菜緒葉ちゃんだけが俺と生きようとしてくれて、俺だけが菜緒葉ちゃんの原初の悲しみを身をもって理解できる。
でも、その先が違いすぎる。
俺は菜緒葉ちゃんと直哉を助けることができるのだろうか。
それはまだわからない。
はっきり言えるのは──真希ちゃんの手による禪院家壊滅に匹敵する巨大な爆弾が俺自身の中に眠っているということ、ただそれだけだった。
なるべく明るくまとめようとして誤魔化しきれていない要素ばかりが積み上がってきていますが、とりあえず第2部完!
読んでくださっている方、感想や評価を下さる方、いつも誤字修正を下さる方、本当にありがとうございます
第3部は短めで、多分5話くらいで終わると思います。
主に甚爾くん家の話と高専行きまでの経緯、そして曇らせになります。