音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
花に包まれた家(上)
俺の意識が間借りしている菜緒葉ちゃんの生得領域──影という概念が根絶された、暴力的なまでに純白な空間。
しかしその純白の中には、重力から解き放たれたきらら系と百合姫のポスターがゆらゆらと漂っている。空間の中心に鎮座しているのはクリスマスツリーだ。12月に入った途端、菜緒葉ちゃんが「行事、大事ですわ」と言ってセッティングを始めたものだ。
そしてツリーの傍ら、サンタコスチュームに身を包んだ彼女の特等席は、以前にも増して悪趣味に変貌していた。
歪んだ肌色の生肉を継ぎ接ぎして整形したような、脈打つ天秤形の肉塊。それがねじくれた玉座となって彼女の華奢な体を支えている。天秤のもう一方の端は俺の座る場所となっていて、尻の下からは時折、生暖かい鼓動が伝わってくる。
俺たちの魂の安定装置にして強化パーツとしてだけ存在を許される、真男佳の残滓の成れの果てだ。
その周囲を囲むのは、桐永会にあったのと同じ、12個の冷たく硬い机と椅子。どの机にも一輪挿しの花瓶が供えられている。
シュール&グロテスク。
思春期の拗らせきった美学が結晶化した、新生・菜緒葉ちゃんのマイルーム。
しかしそんな地獄のインテリアの中で、俺たちが繰り広げているのは、あまりにも世俗的で平和な出産祝いの作戦会議だった。
「男の子なんだし、普通に青か水色のベビー服でいいだろ。無難が一番だよ」
「マコくーん、そういう凝り固まった思考はよろしくありませんわ。これからはジェンダーフリーの時代ですわよ。そもそも、いつ何時『赤ちゃんも含めた全人類が美少女に強制改変される瞬間』が来るとも限りませんでしょう?」
「世界をそんな風に改造する異常者はそう言う君以外にいないんだよなぁ」
恵くんは健康な状態で誕生し、お姉様も年明けには退院できるそうだ。
真希ちゃんや真依ちゃんが生まれた時、可愛い服や知育玩具についてはたくさん調べた。
だが今回は男の子。
勝手が違いすぎて頭を抱えてしまう。
しかも問題はそれだけじゃない。
「直哉のやつ。『姉さん、俺は忙しいからこれでなんか適当にええ感じのやつ買っといてや』って、これ見よがしに万札押し付けてくる12歳、可愛げがなさすぎて震えるんだけど。てかもっと早く言えや。選ぶこっちの苦労も知らないでよぉ!」
直哉は最近色々頑張ってはいるのだが、いかんせん根本的な部分の配慮が足りない。そのたびに俺からのお説教コースだが、わかってるんだかわかってないんだか。
しかしまあ、客観的に見れば直哉は非常に上手くやっている。「双子って実は互いを高め合うラッキーシンボルの場合もあるのでは?」と禪院家内の偏見が真逆に塗り替わり始めている気配すらある程だ。外部の政治に一切関わらない俺にはよくわからないが、禪院家は今こそが黄金時代だとも言われているらしい。俺たち双子は禪院家の至宝──「じゃあ俺のことも昇級させろや」と思うが、そこは色々な政治的事情がある。代わりに数年後に京都の高専には行かせてくれるらしいので、俺の中の菜緒葉ちゃんは辛うじて我慢してくれた。
そういう訳だから、大人たちの目に映る直哉の軌跡は「性別のせいで不遇をかこつ姉のために頑張り始めた」という美しい成長譚に見えているらしい。おまけに兄が『転傷』を真男佳に使ったせいで重傷を負った件についても直哉を庇ってのものだったと報告書を偽装してあるので、反省した直哉が兄たちと和解を図るのは、傍目には少しも不自然ではない。
最初は驚愕していた周りの大人たちは「ようやく直哉も禪院の人間としての自覚を持ったか」と、好意的に受け取り始めた。
「直哉が『ご祝儀』という名の社会性を獲得したというのは凄いことですわよ。それで十分じゃない? あとの面倒は私達に任せておけばいいのよ。そこまで気を回すようになったらかわいげもクソもありませんしね」
肝心の菜緒葉ちゃんだけが直哉の「良い子ちゃんアピール」を一貫して塩対応で切り捨てている。彼女は直哉を更生させる気など毛頭ない。
とはいえ昔から格下いじめを目撃すると都度容赦なくキレていたので、彼女の中には彼女なりの美学的正義があるのだろう。
それが人類共通のものかどうかは、甚だ怪しいが。
「でもさ。直哉は俺に出産祝いを代理で渡させる気なんだよ。そんなのただ金を出しただけの人じゃん。ちょっと虚しくない? ……それにさ、直哉って今甚爾くんのことをどう思ってるのかな。俺の持ってる知識だと、本来のあいつは……こう、狂信的な憧れを抱いてたはずなんだけど。今の疎遠な状態で憧れが維持できるのか、俺心配だな。本当は直哉だって甚爾くんと仲良くしたいはずなのに」
俺の持っている『呪術廻戦』の知識は、あくまでニコニコ動画やYouTubeの音MADという、極限まで情報が削ぎ落とされ、誇張されたミームの集積だ。
そこでの甚爾くんの出番はあまり多くないので、俺はどうしてあの子が甚爾くんに憧れているのかを深くは知らない。
しかし今の直哉はいい子ぶるためにムカつく奴を甚爾くんと比較して貶める悪癖をやめている。甚爾くんの家にも行かない。このままでは直哉にとっての甚爾くんは「昔の憧れ」止まりだ。そうなったら、彼の人生の根幹にあるかもしれない大事な物を、俺達が奪ってしまうことになる。
「いや、音MADルートの直哉は今より甚爾くんとの交流は断然薄いと思いますわよ」
「……君、本来の原作の世界(?)を『音MADルート』として認識してるの?」
滅茶苦茶シリアスな物語を悪いオタクが勝手に音MADにしただけだよ。そもそも、どっちかっつーと俺達の生きるこの現実の方が、音MADのごとく本来の素材を滅茶苦茶に切り刻んで継ぎ接ぎした結果だと言えるんじゃないかな?
「というか、交流が薄いって言える論拠は???」
「教えませーん。自分で考えなさい。……直哉はほっといてもどうせ勝手に甚爾くんのことを神格化し続けますわよ。マコくんが心配するような情緒的な問題はありませんわ」
「……なんでそんな断言できるの?」
「決まっていますわ。甚爾くんのお顔がメチャクチャに良いからですわよ」
肉の椅子に深く腰掛けた菜緒葉ちゃんが、浮遊する美少女ポスターを見つめながら、宇宙の真理を語るような口調で断言した。
「あの子、たしか『甚爾くんと甚壱くんの顔が逆やったらよかったのに』って言ってたでしょう。私達、双子なだけあって、お顔の好みだけは一致していてビックリですわよね。……あ、恋愛的な意味じゃありませんから安心してね」
「……あのなあ、菜緒葉ちゃん。たしかに直哉が君同様、好みじゃない顔の相手に死ぬほど厳しいドブカスルッキズム男なのは事実だけどさぁ……」
俺は元男として憐れな弟の代弁を試みる。
「女の子は『顔がいい』っていう一点突破な理由でアイドルやインフルエンサーを神のように崇拝したりするけど、男が男のツラだけで、自分の人生の指針にするほどの憧れを抱くことなんて、まずないんだよね!」
「な、なんですってー!」
ガーン、という古臭いSEが聞こえてきそうな表情を浮かべるサンタ帽の菜緒葉ちゃん。
「いいかい菜緒葉ちゃん。男が他の男に惚れるのは、ツラじゃなくて生き様なんだ。圧倒的な暴力とか、システムを鼻で笑う自由さとか。禪院家みたいな窮屈な場所にいる直哉にとって、呪力ゼロで家を飛び出した甚爾くんは、まんまロックスターなんだよ」
菜緒葉ちゃんは不服そうに頬を膨らませた。
「でも! でもでもでも! その『圧倒的な暴力』をパッケージングしているガワが甚爾くんだからこそ、直哉の脳はバグったんですのよね! もしも甚爾くんのお顔が甚壱くんと逆なら、直哉はせいぜい『へー、呪力なくても強いヤツおるんやな。だけど顔がアカンわ』程度で終わってましたわ! ロックスターとかいう誤解はしませんでしたわ! 断言しますわよ!」
「甚壱くんへの風評被害が酷すぎるだろ!! 」
そして直哉も、自分の敬愛する姉がこんなことを言っていると知ったら本気で憤死すると思う。
「マコくんは色々理屈をこねますけど、実際直哉、甚爾くんのことなんてこれっぽっちも理解できていないでしょう? そんなのは上っ面の憧れですわ。つまり顔。顔に憧れてんですわっ! はい論破!」
「それは……」
菜緒葉ちゃんは色々アレだし、今のは軽く殴りたくなった。だが、甚爾くんが直哉の思うほどには完成された強者ではないのは事実だった。
肉体のスペックの話ではない。
魂の在り方の問題だ。
彼は自分自身を嫌っているように見えた。その空白はお姉様が埋めてくれたけれども、それもまだ仮の物である気がする。
菜緒葉ちゃんは机の上の花を一輪手に取る。
「マコくん、私思うんですのよ。直哉が甚爾くんのことが本気で好きなら、ポンコツのお兄様方とは仲良くするフリすらできないんじゃないの? あの子が反省して、甚爾くんを猿と呼んでたお兄様方に謝罪して、甚爾くんの話題を減らして、立派な呪術師になって上から目線でこの家の女に施しをして……で、私がそれで『わぁい直哉大好き♡』と言うとでも? あの子はどこまで愚かになれば気が済むの?」
花を片手に、菜緒葉ちゃんは冷たく言い放った。彼女の指先が触れた瞬間、花弁が黒く変色し、ボロボロと崩れ落ちる。
彼女の声が孕む糾弾の響きは俺を居心地悪くさせた。
俺がやっていることもぶっちゃけ直哉と同じだからだ。
「直哉は我慢してるんだ。地道な努力は必要だよ。現に直哉がこれまでギャンギャン騒いでも、みんなの甚爾くんへの考えは変わんなかったじゃん。俺達と同じ方法論を取り始めただけなんだよ、あの子は」
そう言った。
「それは、私達が女の体を持って生まれたから、他に方法がないだけなのでは?」
「……俺は男のときからそんな感じだったよ。よっぽど強い人以外は、みんなそうなんじゃない?」
前世でもこういうことはあった。
誰にでも優しくて仕事も滅茶苦茶良くできる派遣のおばさんが、特定の国の話をする時だけなんだか異様に口汚くなる。「俺その国に友達いるんだけど」と思いながらも、結局最後まで言い返せなかった。他にいい所の沢山ある人だし、最後まで普通に仲良くしていた。
良くないことなのはわかっていた。でも、職場で上手くやるために口を噤んだ。
今だって同じだ。俺はいつもそうだ。
責められて当然なのはわかっているけれども、チクチクと責められているようだった。
菜緒葉ちゃんは少しだけ申し訳なさそうな顔になった。
「あなたを責めてる訳じゃありませんわ。けれども、直哉にだけはそんなめんどくさいことはして欲しくなかった。……私達は女だから仕方ないけど、私が犠牲になって楽しいままでいさせたはずの弟が、どうして泥の中に戻るような真似をしなきゃいけないの?」
小さい頃の菜緒葉ちゃんはいつだってワガママを言うことを我慢していた。そしてその自己犠牲は、直哉が思う存分ワガママを言うことで報われていた。直哉が口に出して大人に怒られる内容の半分以上は、菜緒葉ちゃんが賢さから口にしないだけのことだったのだ。
直哉が本当にいい子の男の子になったら、菜緒葉ちゃんの頑張りは彼女の主観においては完全に無駄になる。
だから──
「……」
だから、俺は答えられなかった。
たとえば「あいつなりに菜緒葉ちゃんのために頑張ってるんだよ」と諭しても、返ってくるのは「頼んでませんわ」というそっけない回答だけだろう。
「前の直哉の方が、やり方は死ぬほど稚拙でも、この家の嫌な部分と戦ってるんだなって思えてかわいかったなぁ」
サンタ服の少女はそう言って、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
それを見ながら俺が考えていたのは──「この娘、悪霊呼ばわりされてる割には案外甚爾くんのことが好きなんだなぁ」ということだった。菜緒葉ちゃんはお姉様目当てで甚爾くんの家に行っているふしがあったのだけれども──本当は、甚爾くんにもすごく共感していたのだろうか。それはいいことで、そして少しだけ悲しいことだと思った。
◇
禪院甚爾は菜緒葉同様禪院家に壊された人間の一人であり、それ自体は決して珍しい話ではない。
禪院家に生まれて完全にまともな人間はおそらくいない。何百年もの間、同じ庭に同じ種を蒔き続けた土は養分が枯れる。そこに育つものがどれも歪で脆いのは、当たり前のことだ。
甚爾について特別な点が一点だけあるとしたら、本当は誰にも負けないくらいに強かったことだった。
しかしそのことに彼が気づいた頃には、全てが手遅れだった。
幼い頃、呪霊の巣窟に放り込まれても、父も兄も助けには来なかった。肉体が硬いから死ななかっただけで、痛覚はある。だから結局、自分に親切にしてくる女中に媚びる以外に人として生きる道を知らず──いや、正確に言えば、それだって人として生きる道ではなかった。女中達が泣いた。手当てをしてくれた。名前を呼んでくれた。だから何だ。彼女達には何の力もなかった。猿と番おうとする女だと蔑まれて、本当に呪霊の餌にされてしまった女すらいた。猿を人だと勘違いしてしまうほどに弱い女を騙して、殺したようなものだ。こんなことならもっと早くに家を出ていれば良かった。
まるでサーカスの象の寓話だ。
仔象のうちに杭と鎖で繋がれると、大人になって杭を引き抜く力がついても、象は逃亡を試みない。鎖の感触が皮膚に染みついている。鎖が肌に食い込めば痛い。逃げようとしても無駄だ。その学習が骨の髄まで沁み込んで、周りがこんなに弱いなんて、いざ暴れてみるまで気づきもしない。
そしてそれもまた、珍しい話ではない。外の世界に出てみて初めて、自分を苛んでいた価値観の矮小さに気づく。
あらがえない下り坂をどんどん転げ落ちて行くような恋をした。真実の愛を知り、その女に溺れた。これだって、ありふれた話だろう。彼女の愛を勝ち得たことは、甚爾の人生で初めての価値ある達成だった。果てしない喜びだった。
彼女は寂しがり屋だった。いつも一緒に食事をして、一緒に寝たいと言われて、嬉しかった。本当の家族はそんなことはしてくれなかった。ずっと放置されて育ってきた。
彼女は花が好きだった。ベランダで花を育てていた。その花を、毎日眺めた。 毎日、毎日。目に焼きつけるように。
そして彼女は、甚爾の子供を産んでくれると言った。世界で一番大好きな女性が、自分なんかの子を産んでくれる。一緒に子を育てたいと言ってくれる。それは存在を丸ごと肯定してもらうというのと同じだった。
お互いに真っ当な家族なんていなかったけれど、2人で手探りでも頑張って行こうと話した。1人では絶対にできない。けれども、彼女がいればきっと大丈夫だ。
特段、物珍しくもない物語だ。
どこまでも孤独な男が同じように孤独な女に愛され、心を溶かされ、救われる。
そして祈る。
この子は自分と全く違う人生を送れますように。この子に全ての祝福が降り注ぎますように。この子が恵まれて育ちますように、と。
祈ることを、甚爾は初めて自らに許した。
祈りは、人間にしか許されない行為だ。
自分が人間だということを信じてみようと、甚爾は決めたのだ。
そうなればあとは結末だけだ。
まるで夢物語のような幸せな家庭が、未来で待っている。
いつもの何気ない時間に、1人増えて。休みの日には公園にでも行って、夫婦で可愛らしい子供と手を繋いで、仲睦まじく小道を歩くのだろうか。
たまに菜緒葉も遊びに来て。
木漏れ日の差す並木道を恵と菜緒葉が手を繋いで歩くのを後ろから見守って。
菜緒葉はやっぱり恵よりも少し前を歩いて──恵はそれを心強いと思うのだろうか。そうだといいな、と甚爾は思う。
これは本当に、よくある話だった。
◇
成人の日にちょっといい着物を着て、俺は甚爾くんの家へ出産祝いに訪れた。持ち込んだのは、俺が個人的にセレクトした実用性重視の知育玩具と、ライトグリーンのベビー服だ。これを選ぶまでの経緯はまた山あり谷ありだったのだが、ここでは割愛しておく。
恵くんは滅茶苦茶おとなしい子だった。全然泣かない。抱っこさせてもらって最初に思ったのは「男の子って硬いんだなぁ」ということだった。真希ちゃんや真依ちゃんを抱っこする時にはもっとマシュマロみたいにふわふわした感触があった。人見知りの真依ちゃんは俺が抱っこしようとするたびに暴れて、おばさまもちょっとビックリするレベルなのだけれども、力そのものはよわよわだ。その点、恵くんはがっしりしているというか、骨の太さがこの年齢の頃から違う感じがある。男女の身体的な違いってこんな時期から既にあるんだな、といっそ衝撃すら受ける。
「てか……この子、甚爾くんにとんでもなく似てますわね」
「目つきが悪い所がか?」
「うーん。全体的に?」
恵くんは生後間もないにもかかわらず、将来確実にパパ似になることを確約された造形をしていた。良かったねー。
甚爾くんは不器用な手つきで俺から恵くんを取り上げて、不思議そうに恵くんの顔を覗き込む。未知に向き合う仕草だった。深い慈しみとそれ以上の戸惑いが混ざり合って、どこか危うい。
お姉様は少し顔色が白かったけれど、穏やかに笑っていた。
「菜緒葉ちゃん、いつも本当にありがとう。……直哉くんにもプレゼントありがとうって伝えておいてね」
「お姉様、お加減は大丈夫ですの? その……少し、顔色が優れないようですけれども」
「へーきへーき。さすがに産後だから少し疲れが溜まっているのと、ちょっと風邪気味なだけだから」
明るくそう言いながらもお姉様は咳き込む。どれだけ深く空気を吸い込んでも肺の最深部まで届いていないような、空虚でもどかしい響きがした。
「病院へ行こうって、お前がくる前から何度も言ってるんだがな。頑固なんだよ、こいつは」
甚爾くんが苛立ちと不安を隠そうともせずに言う。
「大げさだよ甚爾。退院したてなのに病院にすぐ逆戻りなんて馬鹿らしいし。風邪なんて美味しいもの食べて寝れば治っちゃうよ? だっていつもそうじゃん」
「……本当か、これ?」
甚爾くんは風邪のひとつも引いたことがない鉄人だ。だからこそ、目の前の愛する人が深刻な状態なのか、それともよくある体調不良なのかを測る物差しを持っていない。これまでも「心配して大騒ぎしたけれど、結局寝たら治った」という空振りが3回ほどあったそうだ。
でも、今回は流石に産後だしなぁ。
そう思って、甚爾くんに加勢することにした。
「私も、一度お医者様に診ていただいた方がよろしいと思いますわ。産後は体力が落ちると聞きますし、風邪がこじれて肺炎になっていたら一大事ですもの。……何より、甚爾くんが心配のあまり死にそうな顔をしていますわよ?」
そう言うと、甚爾くんは図星を突かれた子供のように、気まずげに視線を逸らした。その表情の幼さに、お姉様もようやく観念したように息を吐く。
「はいはい、わかったよ。明日一緒に来てね、甚爾」
お姉様はそう言って、恵くんの柔らかな頭に指を這わせた。
その仕草をみていて、俺の心の中で何かが動く。いや、俺自身じゃなくて菜緒葉ちゃんだ。早くにお母さんを亡くしてるから、恵くんが羨ましいのかもしれない。
これ以上お邪魔してお姉様の安静を無視する訳にはいかない。「絶対に病院に行ってくださいね」と念を押しまくってから花の咲き乱れるアパートを辞去した。
石段を上って帰宅した禪院家はどこか静かだった。
今日は久々の完全オフ。夕餉の支度を手伝い始めるまでには、まだたっぷりと時間がある。
数年前までは薄暗い廊下の隅や庭などにうじゃうじゃと湧いていた低級呪霊も、最近ではほぼいない。この家に暮らす非術師の負の感情が、生活環境の改善とともに減ったからかもしれない。
生活環境の変化はそれだけじゃない。廊下の角にある当番表の管理も、長年使われてきた年季の入った黒ずんだ木札から、誰が導入したのかホワイトボードに変わっている。あと10年もすればこれがグループウェアのアプリか何かに切り替わるのだろう。
カビ臭い伝統に現代の利便性が少しずつ侵食していく。その過渡期の歪さは、今の俺たちの立場によく似ている気がした。
手持ち無沙汰になった俺は、組み手の相手でも探そうと訓練場付近をうろつき、ちょうど非番だった蘭太くんを捕まえた。
背後から気配を完全に消して近づき、そのまだ細い細い手首をぎゅっと掴んで、わざと高めの声を出す。
「蘭太くん、あーそぼ!」
蘭太くんは驚いて飛び退くというよりも、もっと根本的にバグったような反応を示した。
「はわ……はわわっ」
顔を真っ赤にして挙動不審になる彼を見て、ふと思う。……もしかして今の俺、客観的に見て相当にあざと可愛かったんじゃないか?
『マコくんはいっつもかわいいですわよ♡ ついでに今日の着物がカワイイのもポイントが高かったんでしょうね。マコくんこそまさに禪院の至宝ですわ!』
脳内の菜緒葉ちゃんがドヤ顔でサムズアップしているのが見えた気がしたが、君はそうやってすぐに人を揶揄っちゃいけません。
でもまあ、思い当たるふしはあった。最近の家内での俺の待遇は、文字通りお姫様だ。欲しいと言えば最新のゲームだって何だって買ってもらえるし、綺麗な着物は言わなくても大量に届く。そして念願のケータイもゲットした。
ただ、着物が華やかになってからというもの、躯倶留隊のみんなとの距離は若干ギクシャクしている。「若い隊士の集中力が散漫になるから、差し入れを持って頻繁に出入りするのをやめて欲しい」と、新隊長になったばかりの信朗に婉曲に釘を刺されたのだ。
たしかに、菜緒葉ちゃんの体は小柄だけど、発育はかなり良い方だ。まだ12歳なのに、中3か高1くらいでも通用しそうな艶っぽさが出てきている。思春期の男の子たちには刺激が強すぎるのかもしれない。しゃーなしか。
とりあえず道着用の袴に急いで着替えて来て、サクッと3戦3勝。
真男佳を食べたおかげで、身体強化に割ける呪力の総量と密度が一気に高まった。感覚としては、今まで50ccの原付で走っていたのが、いきなり1000ccのリッターバイクに乗り換えたような万能感がある。
「……参りました。菜緒葉さん、最近本当にとんでもなく強くなりましたね。直哉さんにも勝てるんじゃないですか?」
蘭太くんが肩で息をしながら尊敬の眼差しを向けてくる。かわいい後輩からのこういうキラキラした視線は、本当に気持ちいい。
「うーん。一度、わからせてやりたいところではありますけれども」
「みんな言ってますよ。菜緒葉さんはもっと正当な階級と立場を得るべきだって! ……当主様と扇さん以外は」
真男佳討伐のご褒美は友禅の着物だった。目が眩むような美しい色彩、四季の意匠を熟練の職人が魂を削って染め上げた、伝統工芸の極みのような代物だ。あまりの美しさに菜緒葉ちゃんは大はしゃぎだった。俺も驚いた。おそらく高級外車1台くらいは買える値段だろう。
けれどもそれだけだった。
対外的な役職も呪術界における階級も、未だ何一つ与えられていない。
弟を立てるためというのもあるだろうが、それだけではない。
お父様は、俺が真男佳に関する一件で報告を誤魔化しまくったことも、妙な呪詛師に目をつけられていることも察している。だから当分は俺を隠しておきたいのだ。
呪霊食の供給者、甚爾くんとの唯一のパイプ、そして直哉の精神的支柱。それを失いたくないという政治的判断を一概に責める気にはならない。
「将来高専へ行って1級になるから別にいいですわ。当分我慢します。……そういえば蘭太くん。再来週、扇のおじさまのところの真希ちゃんと真依ちゃんが1歳のお誕生日なんですのよ。当日にぬいぐるみを渡しに行こうと思っているのですけれど……あの人、またキレちゃいますわよね?」
俺はタオルで汗を拭いながら、何気ない風を装って問いかけた。蘭太くんの方を見ると、彼は複雑そうな顔をして視線を落とした。
「あの人は常時菜緒葉さんにキレてますから、プレゼントを持って行った程度で悪くなる程度の機嫌は誤差でしょうけど……。でも、扇さん自身が娘の誕生日プレゼントを買ってるか怪しい状況ですよ。それでも行くんですか?」
「当然。そんな状況だったら、尚更行かなくちゃ」
この家において、そろそろ1歳になる真希ちゃんが現在受けている扱いはあまりにも不遇だ。扇のおじさまの荒れようのせいで、大人の術師たちの間では、彼女の話題を出すこと自体が半ばタブーのようになっている。
一方女衆の間ではおばさまへの苦労への同情や共感はあるのだが、それはあくまで「優秀な上司が障碍のある娘さんと非協力的な旦那さんのせいで苦労している」というものだ。成長した真希ちゃんに対してどう接するかは全く読めない。彼女はまだ小さくて、世界中が全部自分の味方だと信じていてもいい時期だというのに。
「……あの二人には、少しでも寄り添ってくれる友だちが必要だと思うんですのよ。蘭太くん、あなたは真希ちゃんについて……あの子たちの未来をどう思います?」
俺は少し距離を詰め、蘭太くんの瞳を覗き込むようにして真剣に尋ねた。
蘭太くんは一瞬、顔を近づけられたことに「ひっ」と喉を鳴らして固まったが、俺はそれを深刻な話題への緊張だと解釈した。
「可哀想だとは……思います。でも、女中頭様とも扇さんとも交流はないし。それに、呪力がないっていうのは、この家では……」
「じゃあ、せめて私たちだけでも、真希ちゃんを『人間』として見てあげましょう。とりあえずは、歳が近くて言い返せそうな相手にだけでいいから、あの双子を悪く言う奴がいたら庇ってあげて。私たちがこの家の空気を塗り替えられなければ、あの子は……真希ちゃんは、いつか甚爾くんみたいになるかもしれません」
説き伏せるように言った。甚爾くんへの複雑な感情を抱える蘭太くんにとって、これが重い言葉なのはわかっている。蘭太くんは拳を握りしめ、意を決したように俺を見つめ返した。
「……菜緒葉さん。僕の父のことは知っていますよね」
「……ええ。甚爾くんの出奔を止めようとして返り討ちに遭って、結局まだ本調子には戻っていないんでしょう?」
「だから僕は、甚爾を絶対に許せません。……でも、同時にわかってはいるんです。甚爾にそうさせたのには父や、禪院家の術師全体の問題だったんじゃないかって」
蘭太くんの瞳が、熱を帯びて俺を射抜く。
「僕は、術式や呪力だけで人を切り捨てる基準を、僕の代で終わりにしたい。綺麗事だと言われるでしょうが、どの人にも、普通に、人として優しくありたい。菜緒葉さんが変えようとしているこの家を、僕も支えたいんです……!」
それは綺麗事じゃない。心からの言葉だった。
蘭太くんは目に映る範囲の全員にすごく優しくて、術式至上主義への反感もある子だ。それは俺が影響を及ぼしたとかではなくて、元々の気質だろう。「いい後輩を持ったなぁ」という頼もしさと、菜緒葉ちゃん側から伝わる慈愛が混ざり合った感情で、彼の肩をポンと叩く。
「蘭太くんは本当にいい子ですわね。頼りにしていますわよ。……真希ちゃんたち双子が大きくなった時、灯や躯倶留隊に入るのか、それとも普通の女の子として生きるのかはまだわからないけけれど。その時、彼女たちの隣に蘭太くんみたいな人がいてくれたら、きっと救われるはずですわ」
俺が微笑むと、蘭太くんは「はいっ!」と熱をこめて返事をした。
騎士か何かのように真っ直ぐな視線は晴れやかで、みているだけで微笑ましい気持ちになる。
『マコくん……あなた、今の蘭太くんの顔を見て何も思いませんの?』
え? 何が?
決意を新たにした良いツラしてるじゃん。
蘭太くんを見送ってから、俺は汗を拭いつつ訓練場を後にした。夕方の空気はまだ冷たくて、道着の襟元から首筋に忍び込んでくる。
『それにしてもマコくんったら罪なTS美少女ですわね……』
菜緒葉ちゃんが揶揄ってくる。
別に俺は何もしてないんだよなぁ。蘭太くんはまだ子供だし、仲良しのお姉さんに一過性の感情をちょろっと抱いただけだよ。すぐ忘れて普通の恋愛をするに決まってるじゃん。無視無視。
「ねえ菜緒葉ちゃん、ちょっと真面目な話していい?」
渡り廊下を歩きながら、わざと声に出して呟いてみる。見られたら独り言を言う変な子だと思われるが、誰もいないので大丈夫。
「俺さ、蘭太くんの顔見てたら、希望持っちゃったんだよね」
『……』
「呪霊食でそこそこの術師がちゃんと戦える時代になって、女の人の労働環境も大幅改善。お兄様は最近なんだか優しいし、直哉も直哉なりに頑張って、蘭太くんまで本気でこっち側だって言ってくれて。……これなら、わざわざ君が過激なことを考えなくても、我が家は普通の家になるんじゃない?」
『そう思って、前も裏切られたでしょう』
「蘭太くんはああいうクズとは違うよ」
菜緒葉ちゃんは少し黙ってから、案外真摯な調子で答えた。
『たしかに、私も蘭太くんのことは尊敬できると思いました』
「君が……尊敬?」
『私だって他人へのリスペクトくらいあります。マコくんが稼いだ好感度ありきとはいえ、尊敬する家族を甚爾くんに半殺しにされたのに「術式や呪力で人を切り捨てる基準を僕の代で終わりにしたい」と宣言したんですのよ、あの子』
「うん、言ったね」
『あれは、甚爾くん本人でさえ口にできなかった言葉ですわ』
俺は菜緒葉ちゃんの言葉を反芻した。
甚爾くんは禪院家の犠牲者で、けれども、自分を壊した仕組みとの戦い方を知っていたかというと──多分、知らなかった。彼は禪院家を半壊させた。彼より強い人はこの家にいなかった。それでも、彼はやっぱり負けたのだ。
『蘭太くんは甚爾くんが言葉にすらできなかった無念を引き継いだ。その一点だけで、私はあの子を評価する。愚弟とは大違いですもの』
「……」
『安心なさい、マコくん。私、直哉のことは別に見捨ててませんわよ。ただ、今の直哉の頑張りを「成長」と呼んで褒める気にだけはなれないの。あの子の一番いい部分は、もっと別のところにあったから』
菜緒葉ちゃんは少しだけ疲れたように笑った。
「──そうは言ってもさぁ」
俺はアイツを否定する気にはなれない。
姉が二重人格状態なのに、その秘密を守る。怒らない。泣いたのは一度だけ。冷静になって即動き出して、俺を「姉さん」と呼ぶ。
12歳の子ができるはずがない振る舞いを、あの子はやっている。
そして何より、直哉の今のやり方には明らかに実効性がある。
禪院家は実力主義イデオロギーを掲げつつ、実際には既得権のある男性術師が回す構造で動いている。この種の家では、若年層のキーパーソンが周囲に敵を作らずに昇格し続けると、10年単位で権力構造を静かに乗っ取れる。
菜緒葉ちゃんはボロクソ言っているが、俺が禪院の男に転生していれば、確実に直哉と同じ戦略をとっていたはずだ。
「……だから、その頃に我が家が甚爾くんがお姉様と一緒に恵くんを連れて来られる家になってれば、それでもう十分じゃないか? そういう家なら、真希ちゃんも滅ぼそうとは思わないだろうしさ」
『……』
菜緒葉ちゃんが黙ったタイミングで、帯の内側に差しておいた携帯が震えた。
「お、珍しい。……甚爾くんからだ」
受信トレイを開く。
件名は空欄。本文は簡潔だった。
『心臓の病気だったらしい。
詳しくはまた今度話す』