音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?!   作:ポ予

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今回の話を書くために2000年代前半の日本の医療のことをちょっと調べたら結構えぐかった。
そしてインフォームドコンセントとかないんか?
(あるにはあるけど現場単位ではガバっぽい)


花に包まれた家(下)

 息子を連れて妻の病名を聞きに行く自信が甚爾にはどうしてもなかった。大家に恵を預ける際、無理を言っている自覚はあったが、案外優しく受け入れられた。「ひどい病気でないといいね」と大家は言った。

 

 診断名は長く、馴染みのないカタカナの羅列だった。医者はカルテの端に、心臓の図といくつかの数字を並べて書き、事務的ながらも丁寧に説明を始めた。妊娠後期から産んで数ヶ月の間に、ごく稀に、心臓の筋肉そのものが弱ってしまうことがある。妻の症状と検査の結果はそれに合致しているという。

 

「心臓がどれだけ血を送り出せているかの割合を、駆出率といいます」

 

 そう言って、医者は紙の余白に小さく図を描いた。

 

「健康な方なら6割以上ですが、奥さまは今、3割を切っています。それが全身に送るべき量の半分以下しか、送れていない状態です」

「戻るのか、これは」

「6割ほどの方が、1年ほどで元の働きに近いところまで戻られます」

「残りは」

 

 医者は甚爾の鋭い視線から逃げるように目を伏せ、少し口ごもった。

 

「後遺症が残る方が、3割ほど」

「あとの1割は」

「……1割ほどの方は、お命に関わるか、心臓の移植を考えていただくことになります」

 

 妻は医者に向かって、いつも通り礼儀正しく頷いていた。背筋をぴんと伸ばし、静かに話を聞いている。だが、膝の上に置かれた手だけが、無意識にスカートの布地を何度も握り、開くのを繰り返していた。甚爾はその細い指の震えを、ただじっと見つめることしかできなかった。

 薬の説明は、妻の方が熱心に聞いていた。水を体から抜く薬、血管を広げて心臓の仕事を軽くする薬、心拍を落ち着ける薬。朝と夜の錠剤、朝だけの粉薬、それから必要に応じて飲む頓服。医者は一つひとつを紙に書き、どれを忘れてはいけないかに印をつけた。

 

「塩分は厳禁です。味噌汁なら、朝に半杯まで」

「半杯ですか。……結構、寂しいですね」

「半杯です。水分も、一日にコップで六杯程度に制限してください」

「わかりました。頑張ります」

 

 妻は健気にメモを取っていた。甚爾はそのどこか無垢な横顔をじっと見ていた。妻はこういう時、教師に言われた通りに勉強する子供のような顔になる。

 

「それから、授乳は止めてください」

 

 医者が言った。

 妻の手が止まった。

 

「……止める、んですか」

「この薬は母乳に移行します。赤ちゃんに飲ませるわけにはいきません。今日から、ミルクに切り替えてください。母乳を止める薬も処方します」

 

 妻は小さく、消え入りそうな声で「はい」と言い、深く俯いた。しばらく顔を上げなかった。甚爾は何か言うべきだと思った。しかし絞り出せる言葉は一つもなかった。妻は夜中に起きて、眠そうな顔で、それでも嬉しそうに乳をやっていた。甚爾はそれを見ているのが好きだった。妻と恵の間にだけある、密やかで温かい時間だった。

 それが今、あっけなく終わった。

 

 診察室を出て、廊下のベンチに座り、しばらく言葉を失った。窓の外には、植え込みの紫陽花の葉が、街灯の光を浴びて黒々と光っていた。まだ花は咲いていない。

 

「粉ミルクのやり方、覚えないとね」

 

 沈黙を破ったのは、妻の方だった。

 

「ああ」

「甚爾もやってもらうことになるよ。夜中とか」

「やるよ」

「できる?」

「できる」

「嘘でしょ」

「嘘じゃねえ」

「でも、いっつも3回に1回しか起きないじゃん」

「起きる。これからはちゃんと起きる」

 

 妻は少しだけ笑って、それから激しく咳き込んだ。今までとは違う、肺の奥に水が溜まったような、重く濁った音だった。甚爾は慌ててその細い背中をさすった。掌から伝わってくる彼女の肩甲骨は、一ヶ月前よりもずっと薄く、尖っているように感じられた。

 

 帰りはタクシーを使った。電車と徒歩のいつもの帰路は、もう妻には長すぎた。

 タクシーは狭い路地に入り、二階建てアパートの前で止まった。玄関脇の小さな植え込みには、妻が去年の春に球根を埋めた花が、少しずつ芽を出している。名前は甚爾には覚えきれない。長いカタカナで、教わるたびに忘れる。そして妻は毎回「いいよ、覚えてる必要ない」と笑う。

 鉄階段を上がる際、甚爾は彼女の半歩後ろを歩いた。一度、彼女が肩を大きく上下させて立ち止まった時、甚爾はその細い腰にそっと手を添えた。彼女はその手を拒まなかった。それがここ数年で、彼女が最も明確に甚爾に依存した瞬間だった。

 大家から返してもらった恵は、驚くほど静かに眠っていた。甚爾は恵を抱き上げた。この、指一本で壊せてしまいそうな重み。何度抱いても、自分の大きな手が赤ん坊にとって凶器になりはしないかと怖くなる。恵は不思議なほど泣かない子だった。誰に似ているのかはあまり考えないことにしている。考えると、申し訳ない気持ちがどこかから湧いてくる。

 恵は一瞬だけ薄く目を開けて、父親の顔を見て、特に感想もなさそうにまた眠りの中に落ちて行った。

 

「今日もおとなしいな」

「うん。よかったね」

「なんで?」

「甚爾が大変じゃないでしょ」

 

 明るく冗談めかした調子で妻は笑った。その言い方が少し辛かった。辛かったのだと思う、おそらくは。どうして俺のことを優先するんだ。俺が大変かどうかなんて、どうでもいいだろう。そう言いたかったが、喉の奥で言葉が固まった。

 その夜甚爾は初めて台所でミルクを作った。計量スプーンで粉を量り、沸かした湯を注ぐ──病院で教わった手順を、一つひとつ頭の中で復唱しながら動いた。

 

「熱すぎない?」

 

 座卓の向こうから、クッションを抱えた妻が心配そうに訊いた。

 

「……たぶん、いい」

「手首の内側につけてみて」

「ここか」

「そう」

 

 甚爾は言われた通りにした。熱くも冷たくもなかった。

 

「合格! ちゃんとできてる」

 

 甚爾は哺乳瓶を持って恵のところへ行った。抱き上げ、膝の上で少しだけ起こす形にする。恵はしばらく怪訝そうに父親の顔を見て、それから、あるかないかの速度で吸い始めた。

 

「……飲むもんなんだな」

「飲んだね。恵は偉い子だ」

 

 嬉しそうに妻が恵の頬をつつく。

 それを見て、甚爾はそのまま動けなくなった。腕の中の小さな生き物が、自分の作った液体を受け入れている。その事実の重さが、異様な圧迫感を与えていた。

 その夜、恵を寝かしつけ終えた甚爾に妻は言った。

 

「ねえ、甚爾」

「ん」

「菜緒葉ちゃんには、落ち着くまで詳しい話はしないで適当に誤魔化しておいて欲しいの。あの子は多分私をお母さんに重ねて見てるから。大人としてはさ、あんまり心配かけたくないっていうか……」

 

 甚爾はしばらく、窓の外の闇を睨みつけていた。

 菜緒葉なら。彼女の術式と『反転術式』なら、あるいは──。

 だが甚爾はすぐにその思考を捨てた。

 菜緒葉の『反転術式』は外傷に対するものだ。肉の欠損を補い、傷口を塞ぐ。しかし妻の心臓は、どこも破れていない。形も変わっていない。ただ、生命を維持する機能だけが、目に見えないレベルで摩耗しているだけ。老いに近い現象だ。そもそも心臓という繊細な電気信号の塊に、菜緒葉の粗削りな反転術式を注ぎ込んで、それが心停止を招くリスクに繋がったらどうする。

 なら、彼女に言っても意味はない。

 

「わかった」

 

 甚爾はそれだけを答えた。妻は顔を上げ、本物の笑みを浮かべた。

 

「ありがとう」

「礼言うことじゃねえよ」

「言うよ。こういうのは、ちゃんと言うの」

 

 妻の視線がベランダの鉢植えに注がれた。夜風に揺れる葉の音だけが、静かすぎる部屋に響いていた。持ち主の心臓が悲鳴を上げているというのに、彼女が植えた花ばかり暗闇の中で無神経なほど鮮やかに蕾を膨らませている。甚爾にはそれが少し腹立たしかった。

 

 

 

 

 

 病院に通いながらの薬物治療を続けていたが、症状は緩やかに、しかし逃げ場を塞ぐようにして悪化していった。

 朝、妻が台所まで歩くのに一度立ち止まるようになった。階段は一段登るごとに、肺の奥底を探るような深い呼吸を必要とした。夜は横になると肺が圧迫されるのか、仰向けで寝ることができなくなった。やがて彼女は寝室を離れ、リビングのソファで座ったまま浅い微睡みに沈むようになった。

 咳の回数が増えた。彼女はそれを甚爾に悟られぬよう、わざわざ洗面所まで移動して、蛇口から水を流しながら咳き込んだ。甚爾はその水音に混じる苦悶に気づいているということを彼女に気づかれないよう、黙っていた。彼女はまるで野生の草食動物のような女だった。出会った頃から。

 甚爾は夜中に3時間ごとに起きるようになった。恵にミルクをやる時刻に合わせて、一緒に妻の呼吸を確かめた。静かな寝息ならいい。ゼイゼイと雑音が混じる時は、薬箱から頓服の小さな錠剤を一粒取って、枕元の水差しと一緒に置く。

 恵はよく飲み、よく眠った。相変わらず、ほとんど泣かない子だった。それだけが不幸中の幸いだった。甚爾は恵の扱いやすさを密かに感謝した。妻に泣き声を聞かせたくなかった。

 花の世話は、いつの間にか甚爾がやるようになっていた。最初のうちは妻が指示を出していた。

 

「そこのジョウロ。一番手前の、その子だけでいいよ」

「これか」

「違う、その右側」

「これか」

「そうそう。今日はその子だけ多めにあげて」

 

 そうやって二人で水をやる時間が、甚爾は嫌いではなかった。だがやがて指示の回数は次第に減り、妻は最後にこう言った。

 

「適当でいいから、甚爾の好きなようにやってみて」

 

 甚爾は加減というものを知らない男だった。だから結局、毎朝、鉢を左から右へ機械的に、全く同じ量ずつの水を注いだ。名前を覚えないまま、ただ溢れさせないようにだけ気をつけた。花は案外、その無機質な献身によって咲き続けた。時折、妻がガラス戸の向こうからその様子を眺めていることがあった。甚爾が振り返ると、彼女は悪いことをした子供のように、慌てて視線を逸らした。

 

 ある夜。ミルクを終えて恵を寝かしつけ、甚爾はベランダに出た。薬の副作用で、妻は一晩に何度も手洗いに立つ。今もトイレの小窓から明かりが漏れていた。甚爾はそれを視界の端に捉えながら、しかし中へ助けに行こうとはしなかった。

 彼女は自分の足でトイレに立てる間は、一人で行きたいのだ。それが、彼女が彼女であるための最後の砦なのだと、甚爾には最近ようやく理解できていた。

 夜風の中で、ふと頭の中に言葉が浮かんだ。

 

 ──俺のせいじゃねえのか、全部。

 

 浮かんだ瞬間、甚爾は自分でもぎょっとした。

 医者はそんなことは一言も言っていない。

 わかっている。わかっているのに、甚爾の頭の中で、言葉は勝手に続きを作った。

 

 ──俺が子を作らせなきゃ、この女はこんな病気にならなかった。

 

 甚爾は手すりを握り締めた。冷たい鉄の感触。指先が微かに、しかし確かに震えているのを、他人事のように眺めた。

 

 やめろ、と声に出さずに言った。

 やめろ。今はそれどころじゃねえ。

 

 考えるべき現実は山のようにある。こんな根拠のない罪悪感に引きずり込まれている時間は一秒もない。

 甚爾はそう自分を叱咤し、部屋へ戻ろうとした。その時、ふと思い至る。花の名前をいい加減に覚えておこう。

 名前さえ知れば、何かがほんの少しだけ、マシになる気がした。

 

 

 やがて、夜中に妻の呼吸が初めて本当に危うくなった日があった。甚爾は恵を片腕に、妻を反対の腕に支えて、タクシーを呼び、夜間外来に駆け込んだ。

 そこから2週間、妻は入院することになった。病室は大部屋だった。妻が自分で選んだ。

 

「私ね、別に一人部屋じゃなくてもいいよ。隣の人とお喋りできた方が楽しいし」

 

 妻が入院の手続きの紙を見ながら言った。

 

 嘘だな、と甚爾は思った。妻は本当は一人部屋の方が気が楽なたちで、他人に弱っている姿を見せるのを極端に嫌う。

 ただ、入院費に差額ベッド代が上乗せされることを嫌がっただけだ。

 治療費は保険や高額医療費制度のおかげで月に10万円くらい。甚爾は定期的に知人が紹介してくれる仕事で大きく稼ぐ性質で、妻も倹約家なので産休前からの貯金がある。だからそれくらいなら問題なく払えるが、1日12000円が上乗せされると少し事情が変わってくる。恵の将来のために1円でも多く残しておきたいのだろう。

 

 甚爾は面会時間の許す限りずっと恵を抱いて、よくわからない管を全身に繋がれた妻の横に座っていた。恵がぐずり始めた時だけは外に出た。だがそれは稀だった。恵は大抵真っ黒な瞳で天井の蛍光灯をじっと見ていた。時折、妻の方へ鼻先を向け、小さく口を動かす。母親の匂いを、その本能が求めている。

 甚爾はそれを見て、やめろ、と言いたくなるのを堪えた。誰に向けるでもない、やり場のない憤怒。

 

「恵、こっちおいで」

 

 妻がベッドから腕を伸ばした。甚爾は恵を妻の胸の上にそっと乗せた。妻は恵の小さな背中に指を這わせた。

 

「すっごく、重たくなったね」

「いや、まだ軽い」

「甚爾にはね。私にはすっごく重いの」

 

 その弱々しげな笑みを見ていると、また思考が疼く。全部自分のせいだ。この重さを、彼女に背負わせたのは──。

 

「甚爾。顔、近くに寄せて」

 

 妻の手が、甚爾の頬を頼りなげになぞった。

 

「……なんで急に撫でた?」

「いや、叩いたんだけど。今、絶対変なこと考えてたでしょ」

「考えてねえよ」

「うそつき。まあ、いいや。……ねえ甚爾。最近、ちゃんと名前を呼んであげてる? 恵のこと」

「……呼んでるよ」

「本当に?」

「本当だ」

「じゃ、呼んでみてよ。私の前で」

「……恵」

「もっと、優しく」

「恵。……めぐみ」

「うん。いい名前だよね。素敵な名前をつけてくれてありがとう」

 

 妻はそれで満足したようだった。満足すると、眠りに近いところへ落ちていった。甚爾はしばらく動かずに座っていた。妻の腕の下で恵が静かに呼吸を続けていた。甚爾は二つの呼吸を、同時に数えていた。数えている間は、自分の呼吸は数えないでよかった。

 

 

 

 

 

 2日目の回診のあと、病状が悪化した。結局病室は個室に変えることになった。そして3日目の回診のあと、主治医が甚爾を別室に呼んだ。

 廊下の突き当たりの、資料棚と小さな机しかない部屋だった。看護師が恵を抱いて廊下で待ってくれていた。普段はそういう扱いを受けない種類の男だから、甚爾はその気遣いを少し居心地悪く受け取った。

 

「奥さまの前ではお話ししにくかったものですから」

 

 主治医はそう切り出した。甚爾は頷いた。

 医者がこういう口調で話す時にはろくなことがないというのは、甚爾にもだんだんわかるようになっていた。

 

「今の薬でもうしばらく様子を見ます。ただ、この先、回復の方向に行かない場合は、補助人工心臓の装着をご検討いただくことになります。その上で、心臓の移植も選択肢の一つとして頭に置いておいてください」

「……は?」

 

 訳がわからなかった。

 

「胸を開いて、心臓の働きを補助するポンプを取り付けます。国内で使えるのは体外式のみですので、感染症のリスクから、装着後は原則として退院できません。病室で過ごしていただくことになります」

「一生か?」

「移植までの橋渡しの治療です。ただ、装着した状態で長くお過ごしいただくのは、お体への負担も大きく……厳しい治療になります」

「……」

「そして、日本で心臓移植が制度として再開されたのは、ほんの数年前のことです。実績のある病院でも、年に数件。待機リストに並ぶための資格は厳しく、奥さまの病状はその資格を満たしますが、並んでから順番が回ってくる方は、統計上ごくわずかです」

 

 ドラマでしか見かけないような話に理解が追いついた途端、怒りが沸騰した。

 何故自分の妻がこんな目に遭うんだ。

 しかし、主治医に怒ってもなんの意味もない。激情は喉の奥に押し戻した。

 

「海外での移植もできると聞いたことがあるが、その場合はいくらかかる?」

 

 主治医は怯えた顔をした。

 

「……渡航費、手術費、滞在費。全て保険外になりますので」

「ざっくりでいい」

「億の単位で、お考えください」

 

 甚爾の頭は即座に数字を動かし始めた。そして即座に、このままでは足りないという結論に着いた。

 

「奥さまには」

「俺から話す」

「そうしていただけますか」

 

 医者は頭を下げた。甚爾も下げた。下げながら、甚爾は自分がこの話を妻にどう伝えるのかを、一つも決めていないことに気付いた。

 

 廊下で恵を受け取って、甚爾はベンチに一度座った。座らないと膝の力が抜けそうだった。

 この間の仕事の報酬が500万。すぐに買い手のつきそうな呪具を全部吐き出しても、上限で5000万にどうにか届くか届かないか。億には一桁足りない。特級呪具を売れば億に届くだろうだが、安全に売るための手段を現状の甚爾は持っていない。

 ただ、頭の奥には何年も閉じていた引き出しがあった。甚爾はその取っ手に手をかけた。妻のためなら開けられる引き出しだった。

 これまでは避けて来た仕事だ。

 呪術師は基本的に嫌いだ。だから大抵の場合は殺しても多分どうとも思わない。それでも自分に懐いてくる菜緒葉の笑顔を見ていると流石に常識的な嫌悪感が込み上げたし、妻と出会ってからは仕事を受けることを考えることさえしなかった。

 だが、この引き出しを開ければ、もしかしたら──届くかもしれない。いや、届かせる。

 

 病室に戻って、甚爾は眠る妻の手の甲に自分の手を重ねた。

 重ねている間、頭の中で声がした。お前が子を作らせたせいでこの女はこうなったのだ、と。その声を今度は跳ね返せなかった。

 正確ではない言い方だ、と甚爾は自分で知っていた。子は二人で作るもので、妻は自分から望んでくれた。医者も原因ははっきりしないと言った。わかっている。理屈としては全部わかっている。それでも甚爾の胸の奥には、理屈より古い声が住んでいた。禪院家で猿と呼ばれていた頃の声だった。

 甚爾は妻の手を弱く握った。強く握ると妻が目を覚まして自分を見るだろう。妻の目にこの考えを読まれるのが、何より怖かった。

 片手で抱いている小さな恵の方を見た。恵は甚爾の腕の中で目を開けていた。甚爾は恵の目も見ていられなくなって、視線を外した。恵は自分を恨んでいる気がした。気のせいだとわかっていたのに、目を戻せなかった。

 妻が小さく身じろぎした。甚爾は手の力をもう一段緩めた。

 

 検温の看護師が入ってきたのを潮に、甚爾は一度病室を出た。恵を抱いたまま、廊下の奥の公衆電話まで歩いた。携帯は家に忘れた。ポケットの小銭を確かめた。テレホンカードは持っていなかった。菜緒葉の携帯の番号は覚えていた。甚爾は生きるために必要なことを絶対に忘れない。それを賢いと褒めてきたのは、菜緒葉に取り憑いている悪霊くらいのものだったが。 

 甚爾は菜緒葉を呼ぼうと決めた。

 詳しいことは教えない。ただ、このまま会わせずにおくのは駄目だ。

 公衆電話の前に立って、甚爾は一度だけ深く息を吸った。片腕の中で恵はおとなしかった。もう片方の手で硬貨を数えた。十円玉が何枚かあった。受話器を持ち上げ、硬貨を落とし、番号を押した。数字は指が覚えていた。

 コール音が三回。四回目の途中で切れた。

 

『甚爾くん?』

 

 菜緒葉の声は明るかった。甚爾が連絡しないでいた数週間を、菜緒葉が明るいまま保っていたという事実が、受話器の向こうから先に届いた。

 

「よう」

『珍しいじゃない。どうしたんですの、わざわざ電話なんて』

「……ちょっと、な」

『お姉様はもう良くなったんですの? 治ったらまた遊びに来ていいって言ってましたものね!』

 

 甚爾は受話器を握り直した。菜緒葉の言葉の一つ一つが、甚爾の胸の内側を引っ掻いて苛む。もう回復の途中にあるはずという前提の訊き方を菜緒葉がしてくるせいだ。

 

「……入院したんだよ、あいつ」

『え』

「3日前にな」

 

 受話器の向こうで菜緒葉が息を呑む音がした。それから、少し慌てた声になった。

 

『え、ちょっと、なんで言ってくれないんですの。1年で完全に元に治るって言ってたじゃない、甚爾くん』

 

 6割の確率で本当にそうなるはずだった。

 最初に連絡をした時には、嘘をついたつもりはなかった。少し誤魔化しただけのつもりだった。その誤魔化しは継続していくうちに嘘になった。その嘘を詫びるべきだった。

 だが甚爾はそうせず、結局また嘘をついた。

 

「すぐ治る。……ただ、ちょっと呼吸が苦しいって言うもんだから、念のためにな。点滴だの何だのを受けさせたほうが楽だろうって医者が言ってて」

『……入院期間は?』

「5週間。とにかく、見舞いに来てくれ」

 

 甚爾は直截に言った。これ以上迂回したくなかった。迂回すれば余計な言葉が増えて、余計な言葉は全部嘘だ。

 菜緒葉はそれ以上追及せず、ひどく静かな調子で入院場所と面会時間について尋ねてきた。

 その声を聞きながら、甚爾は妻にどう伝えるかということばかり考えていた。

 

 

 

 

 

 白い壁と無機質な消毒液の匂いが、逃げ場のない静寂をより強調していた。個室という空間は、外界の喧騒からの平穏な隔離と引き換えに、ある種の冷たさがある。

 妻に恵を一人で抱かせるのが怖くて、甚爾は彼女の背中を、そして恵を包む腕を横から支えている。今の彼女の腕には恵は重いかもしれないから。

 

 

「……菜緒葉ちゃんがお見舞いに来る?」

 

 ベッドの上で恵を抱いていた妻の表情に怒りが浮かんだ。

 

「どうして……言わないでって言ったじゃない、甚爾! 約束したのに、なんでそんな勝手なことするの!」

「知らせておいた方がいいと思った。それだけだ」

「はぁ? 何それ。意味がわからない! 知らせていいか決めるのは、私でしょう!」

 

 声を荒らげた反動で、彼女は激しく咳き込んだ。心臓が悲鳴を上げ、肺に溜まった水分が呼吸を阻害する。それでも、彼女は甚爾を睨みつけ、言葉を止めなかった。

 

「あの子に余計な心配をかけたくないって、何度も言ったよね。……甚爾だってわかってるはずじゃない、あの子がどれだけ大変な重荷を背負って生きてるか」

 

 わかっている。

 甚爾の知る限りでも菜緒葉は1桁の年齢の頃に実母と姉代わりのような友人を早くに亡くしている。家は男尊女卑で、普通の男の倍頑張らなくてはいけない。しかも闇の人格がいる。

 禪院家ではよくある話だが、なんでこれで普段は明るいのかが不思議だった。これ以上の負担を掛けたくないという妻の気持ちはわかる。

 だが、この期に及んでその気遣いを続けるのは、残酷な逃げでしかないと甚爾は確信していた。

 このまま何も告げずに永遠の別れを迎えてしまったら、それこそどうなる。

 菜緒葉は呪術師だ。

 普通の同年代の少女と違って、このことを受け入れられるはずだ。

 甚爾は黙ったまま、彼女の怒りをすべて受け止めた。その無言の肯定が、かえって彼女の防衛本能を瓦解させた。

 激しい怒りの熱が去った後には、鋭利な事実だけが残される。

 

「そっか。……わざわざあの子を呼ぶってことは、私、そんなにやばいんだ」

 

 妻は、自嘲気味に、そしてすとんと腑に落ちたような調子で言った。

 

「お医者さんに、何か言われたんでしょ」

「手術をするかもしれない、って」

「……そっか」

「でも大丈夫だ。……どうにかする。俺が全部、なんとかしてやるから」

 

 励ましというよりは自己防御だったかもしれない。最愛の女に向けて吐いた言葉は、自分でも反吐が出るほどに虚しかった。

 億単位の金をどうにか用意できたとして、その後も問題は山積みだ。どれも暴力では決して解決できない。甚爾が唯一得意なことは、何も役に立たない。

 そしてその虚しい約束が、彼女の最後の糸を切った。

 

「死にたくない……」

 

 言葉が、迸るように流れ出した。

 

「死にたくない。恵を置いて死にたくない。甚爾を置いて死にたくない。恵が歩くところを見たい。喋るところを見たい。私のこと『お母さん』って呼ぶところを、一回でいいから聞きたい。一回でいいの。一回聞けたら、あとはもういい。ううん、嘘。一回じゃ足りない。千回は聞きたい。一万回聞きたい。死にたくない甚爾、死にたくない、死にたくないよ。助けて」

「……」

「私、馬鹿だよね。大丈夫だって、すぐ治るって、そう思おうとしてた。そう思わないと怖くて息ができないから、思わないことにしてた。思わないことにしてたら、本当に思わなくなれた。えらいでしょ。私、そういうの昔から上手いの。嫌なこと、考えないことにするの。甚爾と暮らし始めてから、もっと上手くなった。甚爾といると考えなくていいことが多かったから。でももう駄目だよもう。限界だって」

 

 妻は目の前の夫を一切見ていなかった。恵の上に涙が落ちる。ぽたぽたと落ちる。それを幼子は全く理解していない。不思議そうに母親を見上げているだけだった。

 妻は泣き続けた。

 妻が声を殺さずに泣くのを見るのは初めてだった。

 甚爾は何もできなかった。

 何もできない時間の長さは、甚爾のこれまでの人生の中で最も苦しかった。

 

 やがて妻は泣き疲れ、微笑みながら甚爾を見た。

 

「菜緒葉ちゃんの前ではこんな風に泣かないようにしないとね。あの子は私をお姉様って呼んでくれるもん。そんなガラじゃないのにね、私。あの子がいなきゃもっと子供だっただろうなぁ。甚爾も私も」

「俺と違ってお前はちゃんと大人だったろ、最初から」

「甚爾が捨て犬みたいでかわいかったから、好きになって欲しくてかっこつけてただけだよ。……でさ、もし私が死んだら、恵にはたくさん私の話をしてあげて」

「……」

「写真だけじゃ足りないの。私が何の花が好きだったとか、恵が大きくなったら全部話してあげて」

 

 しかし甚爾はあまりにも弱かった。

 

「……お前が話せよ。お前が治って、お前の口から話せ」

 

 他に言えることは何もなかった。

 

 

 

 面会時間は30分だけにした。医者の指示というより、妻が菜緒葉の前で体裁を保つための体力の問題だった。

 

 病室のドアを開けた菜緒葉は、季節を先取りした絽の訪問着に身を包んでいた。淡い萌黄色の地に繊細な撫子が描かれたその着物は、一目で高級品とわかる。禪院家内での彼女の成功の証だ。しかし代わりに洋服はあまり持っていないと、前に聞いた。そもそも特別4級の菜緒葉は自分で自由にできる金をあまり持っていない。小遣いはそこそこにもらっているだろうが、長期投資と他人へのプレゼントという、年頃の少女らしい欲求とはかけ離れた使い道にそれを費やしている。禪院の女というのはどれほど華やかに見えてもそういうものだ。

 禪院家は最悪だ。どれだけマシになったと菜緒葉が言っていても、甚爾は全くそれを信用できない。彼女自身が不遇の中にいるからだ。

 

「遅くなってごめんなさいね、お姉様。もっと早くお邪魔すればよかったですわ」

 

 キラキラと明るい瞳で菜緒葉は言った。

 妻はにこっと笑った。

 

「ううん、いいの。私が来なくていいよって言ってたんだから」

 

 完璧な笑みだ、と甚爾は思った。

 昨夜あれだけ泣いた女と同じ顔だとは思えなかった。妻は完璧に自分を組み立て直している。髪を整え、瞼を意識的に持ち上げ、肺に溜まった水が喉を塞ごうとするのを、鋼のような意志で押しとどめている。

 

「そう言われても、お邪魔すべきでしたわ。……これ、お気に召すかわかりませんけれど」

 

 菜緒葉は紙袋を妻の枕元の机に置いた。中身の説明はしなかった。甚爾は横目でその紙袋を見た。菓子折りだったら食べられないな、と思ったが、どうやらタオルかハンカチのようだった。菜緒葉はいつも大人並みに気が利く。

 

「甚爾くんがね、昨日お電話くれたんですのよ。びっくりしちゃった」

「そうなんだ。ごめんね、心配かけたね」

「いいえ。でも、私に連絡しないまま何かあったら私、一生甚爾くんのこと恨んじゃうところでしたわよ」

 

 菜緒葉の言い方は軽かった。あまりに軽かったので、甚爾は彼女が何も察していないのだと思って安心した。

 

 妻と菜緒葉はしばらく他愛のない話をした。菜緒葉の幼い従妹達の話や、妻が入院前に買おうか悩んでいたという服の話。会話の途中で、妻は一度だけ咳き込んだ。軽くだった。軽く見えるように妻が調整したのだと甚爾にはわかった。菜緒葉が気づいているのかはわからなかった。

 甚爾は一切口を挟まなかった。途中で恵のために病室を出もした。

 戻ってきた時、2人は笑い合っていた。菜緒葉は甚爾が父親らしいことをしているのが面白くて仕方ないと言って無邪気に笑っていた。

 そして30分があっという間に過ぎた。

 

「……そろそろ、面会時間が終わってしまいますわね」

 

 菜緒葉が、名残惜しそうに立ち上がった。

 彼女は妻の元へ歩み寄り細い手を伸ばした。

 

「また来ますわね、お姉様。次は、もっといい知らせを持って」

「うん。待ってる。菜緒葉ちゃんの顔を見ると、なんだか本当に治る気がするよ」

 

 二人は自然に小指を絡め合った。

 妻の小指は細く白かった。それに対する菜緒葉の指もまだひどく頼りない。だが、妻のものと比べれば健康で丈夫そうに見えた。

 

 菜緒葉がドアの外に出るのを、甚爾は廊下まで見送った。ドアが閉まった瞬間、菜緒葉の顔からすべての表情が抜けた。

 

「……個室なんですのね」

 

 囁くように菜緒葉は言った。

 

「人いるとこだと寝つきが悪いタイプなんだよ、アイツ」

「個室は1日1万円くらいはするんでしょう。服1着買うのも渋るお姉様が個室にいるっていうのは、それだけ病状が重いってことなんじゃないの?」

 

 菜緒葉はゆっくりと甚爾の方を向いた。その瞳は、先ほどまでの無邪気で明るいものとは違う。菜緒葉は時々とんでもなく鈍いが、その鈍感さが発揮されるのは主に悪意や負の感情に対してだ。普段はかなり観察眼のある方だと言ってもいい。たとえば自分のために体調不良を隠している女の優しさとプライドだとか、そんなものはお見通しだったのだろう。

 

「病院都合なら免除される場合もあるって聞いたことがあるから、お医者様に訊いてみた方がいいですわ」

「ガキの癖になんでそんなこと知ってんだよ」

「……経験者だから」

 

 萌黄色の着物の袖に目を落とし、菜緒葉は自分を落ち着かせるように一度深く息を吸った。

 

「甚爾くん。明日、15時にウチの近くで待ち合わせましょう。犬の形の遊具が置いてある公園がありますわよね。……そこで、お話がありますの」

 

 

 

 

 犬の形の遊具がぽつんと一つあるだけの、小さな公園だった。平日の午後のこの時間だというのに、誰もいない。何年か前に人が死んだからだ。それでも、平日の昼下がりに一人で乳児を抱えてベンチに座っている父親というのは、それだけで目立つ。時折通りかかる誰かに目で追われる感覚はあった。甚爾は視線には慣れていた。禪院家で何年も浴び続けてきた視線よりは、今のこれはずっと軽かった。

 菜緒葉は地味なブラウスとスカートで現れた。去年か一昨年に買ったのだろう、裾が少し短くなっている。手には風呂敷包み。甚爾の腕の中の恵を見て、瞬き一つ分だけ足を止めた。そしてそのまま隣に座った。

 

「何も相談してくれなかったこと、本当は怒ってますけど、怒りませんわ。甚爾くん達の方が辛かったのはわかっていますから」

「悪かった」

「私の反転では手に負えない病気ですの?」

「うん」

「ですわよね。じゃあ、これを差し上げます。私の持ち物の中では最も価値のある物です」

 

 そう言いながら、菜緒葉は膝に置いた風呂敷の結び目を器用に解いた。中から漆塗りの細長い箱が出てきた。

 

 蓋を開けた。畳まれた布地が入っていた。極限まで薄い鳥の子紙に包まれて、それでも色が透けていた。染めの色だった。甚爾は指先で鳥の子紙を一枚だけ慎重にめくった。

 

 そして、息を止めた。

 

 最初に目に飛び込んできたのは、色だった。地色は朝焼けの空をそのまま切り取ってきたような、淡く澄んだ薄紅。しかしそれは一様な薄紅ではなかった。光の当たる角度によって、ある場所では白に近い桃色に、ある場所では血のように深い紅に、連続的に階調を変えていく。職人が刷毛の運びを何十回と重ねて、絹の繊維一本一本に色を浸み込ませた結果の、息遣いそのものの色合いだった。

 その地の上に、季節を越えた花々が咲き乱れている。枝垂れ桜の一房が袖の辺りから流れるように描かれ、花びらの一枚一枚に金の糸で細い輪郭が刺してある。その下に藤の紫。そのさらに下に菖蒲の青。裾に向かって牡丹が大輪を開き、牡丹の隙間に秋の菊が控えめに顔を覗かせている。一枚の布の中で、春が夏を抱き、夏が秋を迎え、秋の奥で冬の椿が赤く灯る。四季の全てを一枚に閉じ込めた構図。

 刺繍の糸は金と銀の二色で、それぞれが光の波長を違う角度で跳ね返した。公園の木漏れ日がわずかに動いただけで、布の上の花々は色を変えた。桜が一瞬だけ銀色に輝いて、次の瞬間には金色に沈む。まるで布自体が呼吸をしているかのようだった。

 

 美しさがそのまま価格に変換される世界があることは知っていた。この布はその世界で取引される種類の物だった。

 

 甚爾は去年菜緒葉から貰った写メを思い出した。畳の上に広げられた友禅の布地の隣で、菜緒葉が袖の一部をつまんで見せていた。本文は「お父様からのご褒美。出世の方がよかった」だった。文字は不満の表明だったが、構図には誇らしげな気配があった。甚爾は返信に「よかったな」とだけ打って送った。

 

「学習塾での任務の後、お父様からいただいたものですわ。着物はもう十分ありますの。これ一枚くらい、なくなってもしばらくは気付かれませんわ」

「……」

 

 これは直毘人の傾けた愛の証だった。あの男は「お前はこれだけの価値がある」と、この布の形で娘に告げている。父親になる前の甚爾は理解できなかった。けれども今ならわかる。わかってしまう。

 

「……菜緒葉」

「何ですの?」

「お前の親父が気づいたら何と言うか」

「気づかれた時には既に何もかもが終わってますわよ」

 

 菜緒葉は薄く笑った。滅多にしない笑い方だ。忌庫でもこのように笑っていた気がする。

  

 友禅一枚。古物市場の相場。買い叩かれる分を引いて、手取りで200から300。いい筋を掴めば500。

 普通の病気ならこれで十分だろうし、今回のような場合でも、この友禅はかなりの足しに──。

 

 そこまで考えて、やめた。

 これは絶対換金してはいけないものだった。

 こんな重い物まで背負いきれない。

 

「……いらねえよ」

 

 甚爾は箱の蓋を閉じた。

 そしてそれを突き返した。

 昔は与えられる物を何の呵責もなく受け取っていた。そうしないと生きていけないと思っていたし、他人にも尊ぶべきものがあるのだということを少しもわかっていなかった。

 その頃にはもう戻れなかった。

 だが、甚爾は依然として最低の人間だった。

 見知らぬ誰かの命と菜緒葉の大切なものを秤にかけ、迷わず後者を取ることを決めた。

 誰かにとっての最愛の相手を、尊ばないことを選んだ。

 

「仕事で稼ぐから平気だ。ガキにたかるほど困ってねえ」

「甚爾くん、前はそんなんじゃなかったでしょう?」

「変わったんだよ。持って帰ってタンスにしまっとけ」

 

 菜緒葉は唇を噛んだ。噛んだことを甚爾に見られたのに気づいて、すぐに元の顔に戻した。

 甚爾はポケットから鍵を一本取り出した。合鍵だった。去年、妻が「念のため」と言って近所の鍵屋で作らせた一本だ。

 甚爾はその鍵を菜緒葉に差し出した。

 

「これは?」

「合鍵だ。しばらく家に帰らない仕事が入るかもしれねぇ。その間、花に水をやってくれるか?」

 

ペチュニア。トレニア。ベゴニア。ヴァーベナ。

 花の名前はいつのまにか覚えていた。毎朝、鉢を左から右へ水をやっているうちに、小さなプレートの文字が、読みたくもないのに目に染み込んでいた。しかし覚えたところで、もうわざわざ話すこともなかった。

 

「恵くんはどうするんですの?」

「預け先を探す」

 

 心当たりはあった。しかしそう言った瞬間、大人の言うことなどまだ何もわからない年齢のはずなのに、恵が泣き出した。

 泣きたいのはこっちだった。

 

 甚爾は腕の中の小さな顔を見下ろした。涙に潤んだ黒い目が、自分によく似ていた。

 母親似だったら良かったのに──もしもその面差しが最愛の面影を宿していれば、抱きしめるたびに愛しさが蘇ったはずなのに、この子はどこまでも自分に似ていた。

 ──お前のせいで。

 声に出さずに甚爾は思った。

 一緒に子どもの成長を見守って。時に叱り、時に慈しみ、なんて。そのうち兄弟姉妹が生まれて、なんて。どうしてそんな馬鹿なことを考えていたのだろう。自分にそんなことができるはずがなかった。

 子供を産んだせいで妻の心臓は弱って、たったの数ヶ月でこんなことになった。

 

 恵は、父親が何を思ったのかを当然知らないまま、泣き続けた。

 

 

 

 

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