音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?!   作:ポ予

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久々の弟回。
本質的には永遠に変われないかもしれませんが、それでもどれくらい変わったのかを見てあげてください。


フラワー・イン・クローゼット

 夢の内容はすぐに忘れる。

 小さい頃から呪霊を何体も食ってきたが、副作用の悪夢は目覚めればほぼ全部忘れる。

 

「……なら、なんで夢なんて見るんやろね」

「私になど、わかりかねますわ」

「ゆーてなんでも知っとるやん、君は」

「私のような者の知識はたかが知れております。直哉様が呪術以外のことに目を向けられぬだけのお話でしょう。——もっとも、それが直哉様の御身に必要であったかと申せば、疑わしくはございますけれど」

 

 と、禪院直哉は、姉であって姉ではない女と喋る夢を見ている。

 この夢も目が覚めたら数分で忘れるのだろう。

 この夢の中での直哉は今よりもずっと大人で、そして菜緒葉は双子の姉ではなく単なる女中だ。

 この夢は一歩間違えたら現実だった。母の実家が菜緒葉を隠そうとして失敗したと言う話は母方の伯父の口から聞いたことがある。母の実家がもう少し賢ければ、菜緒葉は母の一族の私生児として育っていたのだ。気の毒な扇の妻だって、頼れる実家があればそこを頼って真希の存在は隠そうとしたはずだ。だが、母の実家は長くは保たないだろう。そうなったら菜緒葉は表向きはただの女中としてこの家に奉公に出され、より悲劇的な形で帰還することになっていたはずだ。

 姉自身もおそらくこの話を知っている。だから自分が仮に姉でなければこのように接されていただろうというのが菜緒葉にとっての最大の恐怖であり、それが彼女の卸した真男佳の肉の味の副作用としての悪夢に現れたのだろう——というのが直哉の推理だ。

 そして姉の恐怖は正しい。

 だからこそ、これは直哉にとっても最悪の夢だった。夢の中の成長した自分は姉とは知らない姉に向かって聞くに堪えない言葉を垂れ流し続ける。今の自分が「それは流石に、人として言わんほうがええんとちゃうか……」とどれだけ躊躇しても、肉体の主導権を握るクズの完成形としての自分は、止まることを知らぬのだ。

 

 大人の菜緒葉は同じ部屋で刺繍をしている。こちらのことなどろくに見もしないし、作業に完全に没頭しているように見えるが、話しかければきちんと答える。

 驚くべきことに、夢の中の救いようのない自分でさえ、この女と話す水曜日の夜を何よりも心待ちにしているようだった。

 ノロマだから3歩後ろしか歩けないのではなく、本当は頭がいいのに、わざわざ男を立てて3歩後ろを歩いている。その作られた従順さを大人の直哉は愛でているようだった。

 

「とはいえ、女性と戯れていらっしゃる暇がおありでしたら、少しは書物でもお手に取られたらよろしいのに。……そう、夢についての分析や、深層心理の解説など。直哉様の荒んだお心の、よき癒やしになられましょう。——なんて。出過ぎた真似を申しましたかしら?」

 

 などと。

 皮肉を言う時でさえ菜緒葉の立ち居振る舞いは柳のようにしなやかで、その毒気は不思議と不快ではない。

 ——ちなみにこの夢の中での大人になった直哉はとんでもなく女癖が悪い設定だった。子供としての自我からすると「菜緒葉ちゃん、俺のことどないなモンスターやと思っとるん?」と全力で抗議したいレベルなのだが、これはあくまで夢だ。何のツッコミも発生しないままに悪夢は進行していく。

 

「はぁ? 君には俺が女遊びしてるように見えるの? 誤解やわぁ」

 

 大人の自分はお気に入りの女中の嫌味を正面から受け流し、反論する。直哉にとって、遊ぶというのはもっと楽しい行為だからだ。

 

「では、何をなさっているおつもりですの?」

「義務の遂行やね。新入りの顔がアカンくない子に声かけるくらい、みんなやってる」

 

 これは言い方は悪いが事実だ。

 正式な婚姻は政治バランスを考慮して当主が決める。だから外から雇い入れた若い女中で適当に好みを満たしておけ。ただし本気にはなるな。結婚相手が決まった時に揉めるから。

 ——と、ざっとそのような具合の教育を禪院家の相伝持ちの男は必ず受ける。

 外の女に手を出すとして、その女が何者であるかを事前に完全に検証することは不可能だ。しかし禪院家の女中は既に身元が確認され、家の管理下にある。彼女達との関係は禪院家にとって安全な処理として容認されるし、子供ができた場合は家が管理する——子供の術式を確認し、少しでも有用なら育て、そうでなければ下働きとして使うか養子に出す。だから手を伸ばす相手はその範疇で留めるべきだ。

 本当に嫌な時は女の側も「お前より身分の高い彼氏に操を立ててる」だの「今日生理です」だのの男を立てた断り文句を使うので、その時は男らしくスマートに引き下がりなさい。そんな風にも言われた。

 

 どこからどう見ても全面的に正しい理屈なので「チッまあいいわ」と思いつつも夢の中の大人の直哉はずっと退屈していて、結局のところ真に退屈でないのは菜緒葉とお喋りをする水曜日の夜だけだった。

 

 でも、菜緒葉の方が楽しんでいるかと言われると——かなり微妙だった。夢を夢だと思いながら何もできないガキの直哉にも、その程度のことはわかる。

 

「左様でございますか」

 

 そう答えつつ手元のカラフルな糸をずっとチクチクやりながら、菜緒葉は明らかにキレていた。夢を客観視しているガキの直哉にさえわかるその機微が、十分大人になっているはずの直哉には何故か伝わらない。悪夢の中であるせいかもしれないし、あるいは姉弟じゃないせいかもしれない。

 

「君なぁ。その『左様でございますか』っての、メッチャ馬鹿にしとるやろ」

 

 不服の声を上げる大人の直哉。だが、その中には本物の怒りは一滴も混じっていない。高価な玩具が自分の思い通りに動かないのを面白がっているような、そんな無邪気で残酷な響き。

 実のところ、菜緒葉にもっと構われたいだけである。構われたいなら相応の物を差し出さないと、と幼い直哉は思わずにはいられないが、女中相手の態度であれば、今の自分だってまあこんなモノかもしれない。

 

「ふふっ、まさか。直哉様を馬鹿にするなど、そのような畏れ多いことはできません」

 

 菜緒葉は少しだけ口角を上げたが、針先から目を離すことはなかった。

 

 ——この夢の空間において、思慮とプライドのある女たちは、極力直哉に近づかなくなっている。

 菜緒葉以外は。

 理由は非常に簡単で、女の価値は顔と乳だけだという思想に基づき、入ったばかりで右も左もわかっていない若い女中を容貌だけで選んで手を出す、という所業を平然と繰り返してきたせいである。

 今の直哉は顔の好みはうるさいものの、乳の良し悪しなんてものはわかっていないし、そこまで興味もない。なので夢の中の直哉は現実よりも女性の価値を2倍高く見積もっており、査定の高い女にはそこそこ優しくするよう努めている。そして、その結果女に今よりもっと嫌われている気がする。

 何故だかよくわからないので、起きた時にもし覚えていられたら、マコの方の姉に質問してみようと思った。

 

 デカい直哉は、自分を拒絶するような菜緒葉をどうにか納得させようと、饒舌に言葉を重ね始めた。

 無駄なお喋りは、決して嫌いではないのだ。

 菜緒葉以外あまり付き合ってくれないだけで。

 

「——そもそもなぁ、こっちはちゃんと『大切にしたい』思わせてくれる子に出会いたい思てんのに、向こうがその気にさしてくれへんのやから、しゃーないやんか。問題は俺やのうて女の側やわ」

「ふーん。私の仲間達が、あなたの高尚な美意識に適うほど美しく、かつ献身的になれなかったのが、すべての元凶だということですのね」

「せや。俺かて人の心くらいあんねん。本気で好きになれる、俺に相応しい素敵な子に出会えば、ちゃんと優しゅうしたる自信はあるわ。……できるんや。まだ本気を出してへんだけで」

「まぁ、お優しいこと!」

「せやろ?」

 

 菜緒葉はそこで初めて顔を上げて、ニッコリと笑った。

 

「で、その素敵な女性は、いつ頃お見えになる御予定で? 私、もう待ちくたびれてしまいそう」

 

 ——あ、これ絶対アカンやつや。

 

 直哉は夢の中の自分の愚かさに戦慄した。「姉さんと菜緒葉ちゃんがおらんかったら俺はこんなアホになっとったんか?」ともツッコミを入れたくなった。最近、ちょっぴりおかしな2人の姉のおかげで、直哉のツッコミのキレは磨かれつつある。

 

 一方で、大人の方の自分は何やら不穏なことを考え始めていた。何故なら菜緒葉の笑顔がかわいかったからだ。「冷静に考えてどうして俺はこんな美人に手を出してないん? 我が家のカスどもにバレたら絶対不能だと思われる!」などと、自尊心と見栄が首をもたげる。今の自分からすれば「ただのお気に入りのお友達って言えば済む話やん」と呆れるしかないのだが、大人の自分はそうは思っていないらしい。水曜日の夜に何も起きていないことを他の男に知られるのが恐ろしくて仕方ないのだ。

 

 だから刺繍を続ける菜緒葉の手首を握る。

 それ位の接触は何でもない。

 

「あのなぁ。俺は君さえ良ければ、もうちょっとちゃんとしたってもええと思うてんねん。そしたらもう待たせへんよ」

「『ちゃんと』というのは具体的にどのような状態を指すのですの? もっと詳しく教えて下さいな」

「……。他のは、ほら。向こうからすり寄ってくるなり、コッチが声かけりゃそれなりの反応するなり、そういうもんやろ。なのに君とはずっとこう、よおわからん感じのままやん。君はどうも俺のこと、ただの置物みたいに思っとるようやけど……」

 

 ガキの直哉はハラハラしながら見ていた。

 大人の自分はだいぶインモラルなところまで来ている。ここで菜緒葉を抱き寄せて更にキショいことを言い出すのか、それとも力ずくで従わせるのか。

 怖すぎる。

 菜緒葉が姉でないだけで、自分はこんなに気色の悪い男になるのだろうか。

 直哉からすると、菜緒葉が女に生まれたのは世界のエラーだ。男に生まれれば自分より完璧な男になっていたはずの姉だ。だから菜緒葉をこうやって女のように扱うのは、甚爾か、あるいはあの五条悟くらいの格の男でなければやってはいけない冒涜なのだ。未来の自分のようなカスに許されることではなかった。

 

 しかし間抜けな大人の自分が危うい接近を重ねようとしたその時、菜緒葉はふわりと身をかわし、手にした刺繍針の先をまるで冗談のように直哉の喉元へ向けた。

 彼女は軽く小首を傾げて、穏やかな微笑みを浮かべる。脈絡の無い柔らかさはどこか麻薬じみていた。

 

「今更、『マトモ』な男を私の前でまで気取るおつもり?あなたは強いのだから、誰の前でも堂々としていればよろしいのに……無理しなくていいんですのよ。ねえ、どうして女が嫌いだって素直に言わないの?」

 

 甘い言葉だった。

 

 女を見下すのはこの家では呼吸と同じくらい当たり前のことだ。けれど女を嫌うことは男としての欠陥を意味する。だから愛でるフリをした。大切にするフリをした。ちゃんと〈男〉を演じようとした。客観的には大失敗でも、主観の上では頑張っていた。けれども本当は吐き気がするほど嫌だった。

 その理由を、子供の直哉は最近少し理解し始めている。菜緒葉は人類の原型は女だと主張した。つまり、強くなるのをやめた瞬間に男は女と大差なくなる。

 アニマの負の位相での投影。

 リリト・コンプレックス。

 あるいは、より一般的な心理学用語を使うならば──()()

 

 そういう言葉を直哉は姉の本で読んだ。

 

 姉のいない直哉は、その言葉の欠片を女中の菜緒葉から引き出すことができない。

 代わりに、存在を丸ごと肯定される。

 されてしまう。

 

 大人の直哉は不意を突かれ、しかしそれでいて同時に安堵したようだった。

 

「やっぱり君は頭いいわ。菜緒葉ちゃんは俺のことなんでも知ってるみたいや。ぶっちゃけ大嫌いやねん。女なんて。みんな雑魚だし弱いし。……一生誰も好きになれへんと思う」

 

 ちょっと楽しくなりながらそう言った。

 運命の女性なんて来ないし、自分は永久に適当な女を消費したり虐めたりするだろうと宣言した。

 よりによって、女の前で。

 

 どこまでも悪夢だ。

 

 今の直哉も、まだ女が嫌いだ。菜緒葉は例外だが、それでも菜緒葉が女であることは可哀想な欠点だと思っていた。それも、自分が押し付けた欠点。 

 その考え方のせいで、菜緒葉はいつも傷ついていたのに。

  

 夢の菜緒葉は責めるでもなく呆れるでもなく、迷子を見つけたかのような、慈しみに満ちた微笑みを浮かべた。

 

「──よく言えました」

 

 本当は、そんなことを言わせてはいけないのに。

 

 大好きな姉でない菜緒葉は、それでも外付けの自己肯定装置であり、負の感情を押し付けるためのサンドバックだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 枕元に置いたデジタル時計の無機質なアラームが鳴り響く。深夜。父の直毘人が数日ぶりに帰宅する予定の時間に合わせてセットしておいたものだ。

 意識が急速に覚醒し、直哉は身体を起こした。視界に入るのは、相伝の術式が発現した時に寝室として与えられた、十畳ほどの広さを持つ一人部屋の和室だ。生活感はかなり薄い。マコは「あなたって片付けキライそうなのに」とナチュラルに失礼なことを言ってくるし、実際、家事の類が必要になれば当然のように他人に押し付けるだろう。だが、この部屋が散らかることはなかった。理由は単純で、直哉には物欲があまりないからだ。必要な物は欲する前から常に与えられており、それ以上に自分で買い足したい物はあまりない。

 

 真男佳を食べてから随分と時間が経過しているはずだが、悪夢は継続的に見ていた。その後に1級を2回食べたのもあってか随分長引いている副作用の残滓なのか、それとも最近の目まぐるしい事態の変遷に潜在意識が悲鳴を上げた結果なのかは判然としない。原因の特定に意味はないので、考えようとも思わない。目が覚めてしばらくすれば内容はどうせ大方忘れる。ただ、夢の内容は初期と比べればかなりマイルドにはなってきている気はした。細部はもはや思い出せもしないが──真男佳を食べた直後の夢の中の自分は最も邪悪で、苛立ちに任せて女中の姉を殺しかけていた。女の胎は殴るなと散々躾けられてきたはずなのに、ピアノのある部屋で姉の胎を本気で蹴り上げ、馬乗りになって首を絞めていた。

 

 かつて父が主導で行った調査によれば、2級以下の呪霊を調理して摂取した場合、その副作用として現れる悪夢の6割は病気の恐怖に関するものだったという。残りの2割は家事に関連する卑近な苦労。そして更に残り2割は支離滅裂な一般的悪夢。いずれも1晩で終わるし、明日呪霊に全身をバラバラにされて殺されるかもしれない立場の呪術師から見れば、一晩で忘却の彼方に消える程度の内容でしかない。

 

 けれども1級は訳が違う。

 

 直哉は布団を跳ね除け、立ち上がった。彼は迷うことなく衣桁に掛けられた着物を手に取る。寝巻きのまま父を迎えるような無作法は、昔ならまだしも今はやらない。身支度も深夜なので自分でやる。女中を起こして呼びつけるという選択肢は取らなかった。普通の人は良心が咎めてその選択肢を「取れない」のだろうが、直哉の場合は「取らない」。それが直哉の現在地点である。

 

 

 ──帰ってきた父親の機嫌が悪そうなのはすぐにわかった。随伴の者に「酒持って来い酒」と言いつけて、自室に入って行く。何かあったんやろ、と直哉は思った。仕事上の揉め事か、他所の家との諍いか。

 しかし自分が行けば変わるだろうと思う。

 それは驕りではなく経験からくる確信だった。直毘人は息子達に大して興味を持っていないが「相伝の息子」には関心があった。酒でも注いでやりながら30分程喋れば、すぐに機嫌は元通りになる。それは直哉自身が一番よく知っている。直毘人のそういうところを直哉はうざいと思っているのだが、今日に限れば都合がいい。

 

 話したいのは甚爾のことだった。

 2日前、絶賛喧嘩中の方の大好きな姉がわざとらしくため息をつきながら久々に話しかけてきた。

 

「甚爾くんのおうち、大変なんですって。奥さんが重い病気で、手術費やら何やらで物入りみたい。可愛い盛りの恵くんを人に預けて、遠くへお仕事に行かなきゃいけないなんて……なんて可哀想な甚爾くん! あ、そういえば直哉、あんた甚爾くんに貢ぐのだけは一丁前でしたわね? ……で、貢ぎついでにお姉様のお見舞いも一緒に行こ? 来て。来なさい」

 

 ほぼ1年ぶりの会話とは思えない、煽り混じりの情報提供ではあったが、直哉の心は動いた。自分の財布からドカンとまとまった援助を捻り出せないかと考えたのだ。

 他の一族なら絶対反対するだろう。だが、父が甚爾のことを内心どう思っているのか、直哉はわかっている。

 禪院家の25代目当主だった直哉の伯父──直毘人の兄の次男が、呪力なしの甚爾だった。よりによって当主の胤から「猿」が生まれたせいで家が荒れて、おかげで当主の座はまだ若かった長男の甚壱ではなく、最速の称号を得ていた直毘人のもとに転がり込んできた。直哉が甚爾を褒めるたび「そーゆーコトはこっそり言え」と、窘めるような口調の裏にどこか苦笑を滲ませて説教してくるあたり、本音はバレバレなのだ。

 おまけに甚爾が家を半壊させて出て行った件についてもあまり怒っていなくて、他に人がいない時には定期的にネタにしている。ならば父の愛息子の自分が可愛くおねだりをすれば、自分の通帳の数字を動かす許可を得ることくらい、そう難しくはないはずだ。

 資産運用の知識があるチートな方の姉に比べ、直哉は信用が皆無に近い。「オマエに持たせといたらムダ遣いするかその辺に通帳を落っことしてくるだろ」と言われて事前の許可なしには自分名義の金を動かせない不自由な立場だが、許可を取りに行って断られたことはないので、あまり不満もなかった。

 

 厨房近くでお盆を抱えておどおどしている女中を見つけた。

 

「あー、それ俺が代わりにお酒持ってくわ」

「えっ、あ、そんな……」

「ええからええから。あの人、機嫌悪いやろ? 君が行くより俺が行った方が平和やで」

 

 有無を言わさぬ手つきで、徳利の乗った盆を奪い取り、父の部屋に行った。

 

「パパおかえり〜」

「まだ起きていたのか」

「ん。待ってたわ。寂しかったんやで?」

 

 嘘やけど。

 

 手際よくお猪口に酒を注ぐ。

 だが父の反応は予想以上に渋かった。

 直哉が注いだ酒を一気に煽ると、いつもより荒い態度で言う。

 

「どうせ何か欲しい物でもあるんだろう。……何だ、『あずまんが大王』の原作本か? 今期の覇権だもんな」

「ちゃうわ。……今回は甚爾くんにあげる金が欲しいんよ」

 

 ピタリ、と直毘人の動きが止まった

 

「…………ダメだ。却下」

 

 妙だ。今日はよほど嫌なことがあったのだろうか。

 

「なんで? 菜緒葉ちゃんから聞いたんやけど、奥さんが心臓の病気なんやって。パパかて、もし大事な相手が重い病気になって、俺を置いて遠くにお仕事行かなアカンってなったら、めちゃくちゃ寂しいやろ? それにほら、俺と菜緒葉ちゃんが生まれた時、禪院からあのクソ実家に金あげたやん。恵くんは持ってる側っぽいらしいし、あの時と似たような感じでなんとか……」

 

 もっともらしい理屈を並べ立て、首を傾げて上目遣いのポーズをとる。マコの方の姉には何故か一切通用しないが、本当の菜緒葉相手にこうすると、絶対言うことを聞いてくれる。

 だが内心は「どないせよ」と毒づくのに忙しかった。目の前のこの酒臭い男が自分如きと別れる程度で寂しがる姿など、これっぽっちも想像できない。

 

 直毘人の表情が険しく変わった。

 

 本音を見透かされたのだろうか。

 直哉なりのいい子の演技は結局上っ面なので、しょっちゅう底を見透かされる。

 所詮は本当の菜緒葉の真似でしかない。

 マコの真似でしかない。

 だから姉達のようには上手くいかない。

 だって本当は全員嫌いだから。

 兄達も女中達も扇も父も、完全には好きになれない。特に兄達は嫌いだ。けれども父は弟を──扇を軽んじたせいで恨みを買っている。ならば自分は兄達を軽んじない。少なくとも軽んじているように見せない。これ以上家族の心を壊せない。たとえ兄達が、弱い癖に甚爾を馬鹿にするゴミでも。

 常時湧き上がる軽蔑を飲み込むために使う筋肉は、最近では慢性的な鈍痛を残すようになっていた。

 

 しかし、父の返答は意外なものだった。

 

「お前、甚爾が今何の仕事してるか知ってるか」

 

 妙に静かな、そして底冷えするような声だった。

 

 知る訳がない。

 直哉は別に甚爾と仲良しではないし、理解できるとも思わない。甚爾が結婚した辺りから、なるべく連絡を取らないようにしている。それでも憧れの気持ちは変わらず「甚爾くんはすごい」「甚爾くんこそ最強なんや!」と去年までは人前でもうるさく大騒ぎしていたが──本当はわかっている。甚爾は菜緒葉以外の禪院が嫌いだ。姉のおまけで構ってもらえていたが、弱っちい癖に相伝だからとチヤホヤされているガキなんて、本当は苛ついて仕方なかっただろう。直哉が甚爾の立場なら、自分のようなガキは間違いなく100回くらいどついている。

 その確信があるからこそ、父の問い掛けは直哉の心の奥底にある劣等感を否応なく刺激した。

 

「はぁ? 知らんわ。菜緒葉ちゃんに訊いたら? パパもそれ目当てで黙認してたんとちゃう?」

 

 直哉は乱雑に言い放った。菜緒葉が2人分甚爾と仲良くしてくれているだけで、直哉としては大満足だ。しかし父から「お前は甚爾のことを何も知らない」と突きつけられるのは耐え難い屈辱だった。自分が甚爾にとって何者でもないという事実を、残酷に証明されるようなものだからだ。

 

 父は見たこともないほど深いため息をついた。

 

「…………今日行った家で聞かれた。厳重な結界を幾重にも張り完璧な警備体制を敷いていたにも関わらず跡取り候補が暗殺されて、残穢の痕跡もゼロだった。そんなのお前ん家の『猿』くらいなんじゃないかとな」

「……」

 

 直哉は、黙って父を見た。

 

「先方は激怒していたが、とりあえずは知らぬ存ぜぬで通した。証拠もないのに無茶言うなよ、そもそも甚爾は赤の他人だ、とな」

 

 父は鞄の中のクリアファイルから何枚か写真を取り出し、その内1枚を直哉に渡す。

 写真の中では直哉と同じ年頃の子供が笑っていた。誕生日祝いの最中らしい。未来に何の不安もなさそうな、幸せそうな顔をしていた。

 渡されなかった方の写真は、ちらりと見えたが残酷なものだった。

 

 それを見て、直哉は。

 直哉は。

 

 ──なぁんにも、思わなかった。

 

 その程度で甚爾を嫌いになんてならない。

 

 嫌いになる訳がない。なれる訳がない。

 

 甚爾はこの子供を殺す時に一瞬たりとも直哉のことを思い出さなかっただろうし、仮に思い出してもどうとも感じなかったのだろう。

 それでいい。

 思い出してもらえなくたっていい。

 最悪なこの家で、世界を憎んでいるような真っ暗な目をして、それでも少しも惨めな顔なんてしていなかった。あの強さの延長がそれなら、別にいい。強者は鬱陶しい道徳なんて気にしなくてもいい。

 

 そもそも、呪術師に虐げられてきた人間が、どうして呪術師の命を尊ぶ必要があるのか?

 

 色々考えていると笑えてきた。

 笑った。

 笑うしかなかった。

 

「直哉。オマエが菜緒葉を止めろ。甚爾にはもう近づくなと、オマエ自身の口から言え。詳しい事情までは話さなくていいから」

 

 父の声はいつもの陽気さを完全に脱いでいた。

 

 命令であると同時に試金石。最近猫をかぶっている息子が、きちんと「いい子」をできるか。父はそれを見ているのだろう。

 

 直哉はおとなしく頷いた。

 

 父は何を思ったか、不器用に頭を撫でてきた。何回されても、この人は本当に他人の頭を撫でるのが下手やなぁと思う。

 だが、拒まなかった。

 拒まない自分が気持ち悪かった。

 

 

 

 

 

 父の部屋から戻った後、直哉は眠り直すことがなかなかできなかった。

 

 人を殺したら何円くらいもらえるのだろう。相場はよくわからないが、直哉の通帳のお金よりも断然沢山に違いない。人の命なのだから。そもそも、禪院家に頼るのと人を殺すのなら、甚爾にとっては後者の方がまだハードルが低いのかもしれない。いや、そもそも親類に頼るという常識的な選択肢があの人の頭の中から出てきていたかも怪しい。結局、直哉があの人のためにできることなんて何もなかったのだ。

 だが、呪詛師なんて絶対長生きしない。

 直哉の理想の男ナンバーワンは今でも依然甚爾だが、それはそれとして、甚爾はそのうち報いを受けるだろう。

 その辺りを混同する程直哉は馬鹿ではない。

 

 ──そやけど、それ菜緒葉ちゃん達にどー言えと?

 

 朝1でいい結果を報告して本物の菜緒葉に表に出てきてもらおうと思っていたが、どう考えてもそんな場合ではなくなった。

 

 2人とも直哉とは違う。

 いつも直哉に人倫を説く優しくていい子の姉も、悪い子の癖に案外優しいところもあるおかしな姉も、甚爾がどういう子を殺したかを知れば、きっと傷つく。菜緒葉はまだしも、マコの方は絶対に甚爾を許さない。許す訳がない。

 

 

 ようやく眠りにつけたのは、東の空が白み始めた頃だった。軽い悪夢を見たが、そんなに酷いものではなかった。家が壊されて、甚爾に殺される夢。「本物」に抱かれて殺されるなら、そんなに悪い話ではなかった。だが、その安息とも呼べない惰眠は、無遠慮な温もりと重みによって唐突に破られた。

 

「……ん、なん、や……」

 

 頬に、柔らかくも執拗な指先の感触。一定のリズムで突っつかれる感触に、直哉は顔を顰めた。

 ゆっくりと目を開けると、視界の半分を紺鼠色の着物の袖が占拠している。

 視線を上げれば、そこには我が物顔で直哉の布団の端に腰を下ろし、身を乗り出して覗き込んでいる菜緒葉の姿があった。

 

「ごきげんよう、直哉。こないだ大物を食べたばっかりですけれども、怖い夢は見なかった?」

 

 その響きはさっぱりしていて、弟を心配する健全な姉のものでしかない。間違いなく、本物の菜緒葉がマコと呼んでいる方の人格だ。

 

「……見る訳ないやろ、鬱陶しいわ」

 

 直哉は掠れた声で毒づきながら、その手を払い除けた。そのまま布団を頭まで被ろうとしたが、マコはそれを許さず、シーツの上から直哉の肩をぐいと揺さぶる。

 

「あら、そんなこと言って。さっきまでうなされていた癖に」

「……朝っぱらから声がデカいねん。喧しい」

 

 直哉は観念して上体を起こした。乱れた髪を乱雑にかき上げ、無理やり頭を覚醒させる。

 朝の光が格子戸越しに差し込み、畳の上に細長い縞模様を作っている。

 目の前のマコは、直哉の不機嫌などどこ吹く風といった様子で、膝の上に綺麗に手を重ねて微笑んでいた

 2人の姉を見分けるのは容易い。態度はきついくせに6歳の頃のままの甘やかし方でしょっちゅう抱きついてくる方が本物。そして、落ち着き払った動作でお嬢様を演じる、常識人ぶった異常者がこのマコだ。

 本音を言えば、直哉はマコと過ごす時間が嫌いではなかった。むしろ本物よりも話が通じる分、気楽ですらある。だが同時に、マコと仲良くしすぎると、本物の菜緒葉が拗ねて余計に引っ込んでしまうのではないかという子供じみた不安も抱えていた。

 本物の姉は滅多に話しかけてこない。去年までは自分がまだ雑魚くて不甲斐ないからだと思っていたが、純粋に会話する価値を見出していないのかもしれない。

 

「で、結局したんですの? お父様への『おねだり』。……なんならお姉様へのお見舞いも、やっぱり一緒に行きます? あなたは最近すごくいい子にしてるから、監視の目も緩んできているでしょう」

 

 マコが期待に満ちた瞳を向けてくる。その瞳の奥には、甚爾の妻を救いたいという、純粋すぎて反吐が出るほどの善意が宿っていた。

 直哉は一瞬、昨夜見たあの写真のことを思い出した。目の前の綺麗な姉に、血生臭い真実を突きつけることはできない。

 無理やり表情を作る気怠さに、再度襲われ始める。

 

「……姉さん。甚爾くんとこ行くの、しばらく控えてくれへん?」

 

 努めて平坦に、突き放すような声で言った。

 その瞬間、マコの表情が冷える。

 

「はぁ?」

 

 その声からは、先ほどまでのお嬢様の皮膜が完全に剥がれ落ちていた。低く冷めた響きだ。

 本物の菜緒葉があの夜謎の妊婦と直哉に開示した説明によれば「マコくんの魂が私に宿ったことは最大の想定外にして僥倖でした。だって、マコくんの演じる私こそが理想形の完璧な美少女にしてお嬢様なのだもの」とのことらしいが、直哉には全然わからない。マコという人格は、普段こそ直哉に対して母性的な、あるいは兄貴分のような余裕を見せているが、一度火がつくと誰よりも理知的で、かつ執拗だ。

 

「どうしてそんなこと言うんですの? 今更お父様が私達の関係を見逃すのをやめたの? それとも意地悪な扇のおじさまが何か言った?」

 

 矢継ぎ早に詰問された。

 しかし直哉はマコに口喧嘩で勝てたことがない。他の人間が相手なら、ヘラヘラしながら相手の気にしていそうなことを指摘し続ければ十中八九勝てるのだが、マコ相手だと「今それ関係ないですわよね? で、今の発言はあとで音MADにさせてもらいますわ」と言われて終わるからだ。

そうでなくともどうせマコには頭が上がらない。

 話すとボロが出る。だから誤魔化す。

 

「うっさいなぁ。とにかくしばらくは我慢せえ」

 

 これは父に言われた任務であって、自分の意志ではない。自分の意志ではないことを自分の声で言わなければならない苦痛が、声帯を締め上げた。

 マコはそれに気づかなかった。

 

「嫌ですわ。お姉様が入院しているんですのよ? 甚爾くんの家のお花に水やりに行くという重大任務があるんです!」

「それが駄目やっちゅーてんねん!」

 

 マコが抱いているであろう理想の甚爾くん像を粉々に砕いてやれればどんなに楽だろうか。しかしそれはできない。今の甚爾がどんなクソ野郎でも、菜緒葉とマコには甚爾のことが純粋に好きなままでいて欲しいと思うからだ。

 片割れの彼女が女の子に生まれたことで得た幸せがあるとしたらきっとそれだけだから、それを貶めることはできない。自分ひとりが泥を被り、不条理なわがまま弟を演じ続ける方がまだマシに決まっている。

 しかし高圧的な態度で強引に押し通そうとした瞬間、マコの光り輝くような明るい目が数秒かけて趣を変えた。理知の方向性が全く異なる、暗く冷えた、それでいて愉悦を含んだ挑発的な目。

 

「……最近いい子ぶってるの、あなたも私とおんなじで性格よくないからまあ即諦めるだろうと思ってたんですけど。案外頑張っているようで、偉いですわね。少し見ないあいだに随分変わったじゃない?」

 

 本物だ。本物が出てきてくれた!

 

「で、ここからどうするの? お父様のワンちゃんに劣化しただけみたいな気がするけど」

 

 一言一言に毒が混じっていた。マコのような教育的な厳しさはない。急所を正確に抉るための言葉だ。だが、全然痛くない。

 会えて嬉しい。

 今すぐ手を取ってこれまでのことを謝罪したいが、今は父の命令を完遂しなくてはいけない。聡い姉が事情を知ってショックを受けて甚爾を突き放したりするよりは、強権的に引き離した方がマシだ。

 なるべく冷静さを装って返す。

「犬ゆーけど、前みたいにギャンギャンイキってても誰も着いて来ぃひんわ。菜緒葉ちゃんが教えてくれたんやないの。あれ、姉さんやっけ。姉さんは菜緒葉ちゃんと違って俺に優しいもんな」

「私だって本音では優しくしたいんですのよ? でも、露骨にぼーりょく的な男は可愛げがあって許せるけど、今のあなたみたいなのは世界で一番嫌いなの。実質お顔がかわいいだけの甚壱くんじゃない? 今のあなたの音源で気持ちよくなれる気がしないんだけど」

「そもそもキショい趣味やめろやブラコン女」

 

 趣味の気持ち悪さ以外に言い返せることは一つもなかった。どれも正論だったからだ。

 

 ──俺も嫌いやわ、今の俺は。

 でも誰のためにやってると思っとんねん。

 

 直哉にとっての理想の女の子は菜緒葉だ。

 マコではない。本物の菜緒葉。

 いつも自分のために譲ってくれた、絶対に自分を好きでいてくれた、何でも知ってる女の子。

 直哉は幼い頃から理解していた。菜緒葉は自分のために賢く、その賢さすら、自分への贈り物なのだと。

 それでいて彼女は宵っぱりでぐうたらで口が滅茶苦茶悪くて不器用で、そういう姉を受容しているときには、自分は男なのだと思えた。その欠落をこそ女だろうと思った。

 

 毎朝4時に起きる完璧な「姉」は違う。

 すべては菜緒葉の歪み切った努力の賜物だ。

 ずっとわかっていた。

 とはいえ別の魂だとまでは思っていなかったから、2人で一緒に強くなれれば、万事解決だと思っていた。

 領域展開を覚えて、直哉はやっと負債を返した。

 母親の胎内にいた時から迫害していた、それを笑って許してくれた姉に報いた。

 これ以上頑張らなくても、菜緒葉は家のみんなから認められる。

 それで、この物語は、優しく続いていくはずだった。

 

 けれども本物の姉はとっくに壊れていた。直哉が壊していた。ガラスの小瓶に詰めたような幸せの中で、直哉は人形を抱きしめて喜んで。その外に、本当の姉だけがいた。そして真男佳を取り込んだことで彼女は完全に弟を追い抜いて行ったが、まだ壊れている。

 

 これは償いだ。

 ()()()()8()()*1()()()

 きちんと周りから信用される当主になって、誰一人逆らえないような力を手に入れて、それを叶える。

 菜緒葉が呪詛師に堕ちないようにするために他に自分にできることというのが、直哉には思い浮かばない。

 

 それなのに菜緒葉は言う。

 

「本当はあなただって甚爾くんを支えたいでしょう。なのにどうして、大人なんかの言うことを聞くの? お姉様が大事にしてた花に水くらいやりにいっても、別にいいじゃない? 男のくせにそれすらやれない弱虫が、どうして私達の邪魔をするの。男の癖に」

 

 女に生まれた場合の自分が言う。甚爾に会いに行ける自分が言う。直哉が滅茶苦茶に踏み躙っていた、もう一人の自分が言う。

 

「……とにかく! 私あなたの言うことなんて聞きませんから。いいでしょ、あなたはどうせ私のこと呪詛師予備軍だと思ってるんだし。私たちが悪い子で、家の言うこと聞かなくたって……少しくらいは」

 

 状況は菜緒葉ちゃんが思ってるよりやばいんやて。そう言うのを必死に堪える。

 好きでこんなことをやっている訳ではない。直哉が菜緒葉の言うところの「ワンちゃん」をやめたら、父が直接注意するだけだ。その時に父がどんな言い方をするかもわからない。

 

「別に呪詛師予備軍とまでは思ってへんわ。そもそも現状の菜緒葉ちゃんはただの引きこもりや。姉さんにおんぶにだっこの癖して偉そうに口きくなや」

 

 ──軽い憎まれ口を返しただけのつもりだった。

 別に本心で菜緒葉をダメダメだと思っている訳ではない。領域展開も反転術式も、菜緒葉にも同じポテンシャルがあるからこそ成し得たものだ。菜緒葉の術式はそういう仕様になっている。直哉はそれをちゃんとわかっている。

 

 それなのに──。

 

「……」

 

 いつもなら倍以上の毒舌で返してくるはずの菜緒葉が、ぴたりと動きを止めた。

 その大きな瞳にたちまち涙が溜まり始める。

 直哉は「今ので泣くんか?」というパニックに精神を支配された。そんなに酷いことを言ったつもりはなかった。菜緒葉はどんな呪霊も怖がらない。怪しい呪詛師の女とだって対等に渡り合って、自分の思想をはっきり口にできる強者だ。それに、直哉のプライドを抉る意地悪な言葉を並べ立ててきていたのは彼女の方だった。少なくとも今回に限っては。

 もしかして菜緒葉は──偉そうな態度ほど自分に自信がある訳ではない?

 

「……えっ、ちょ、マジで? これで泣くん? ごめん菜緒葉ちゃん、今の、なし! 嘘や! 言い過ぎたわ!」

 

 慌てて身を乗り出し、彼女の肩に手をかけようとする。だが、時はすでに遅かった。彼女は声を殺して泣き始めてしまった。

 

 1分経過。

 2分経過。

 ──3分経過。

 

 直哉の懸命な謝罪も空しく、部屋には彼女の嗚咽だけが響く。

 そして。

 

「……ごめんね、直哉。今日の菜緒葉ちゃんタイムは終了ですわ」

 

 顔を上げた「姉」の目は、すでにマコのそれに切り替わっていた。涙の跡を指で拭いながらも、その視線はぬるい憐れみに満ちている。

 

「ちょっ、待てや。姉さん、菜緒葉ちゃん出して! もう一回謝らせて!!」

「はいはい、何が悪かったのか当分反省してからね。……今のは流石に、ちょっとまずかったぞ……ですの! 今日の朝ごはんを作るから、そろそろ帰りますわね」

「姉さんは菜緒葉ちゃんに甘すぎんねん! そーやって過保護になんでもやったってるから菜緒葉ちゃんが変に自信なくすんやろがい! バーカ、アーホ! 菜緒葉ちゃん出せや!!」

 

 去っていく背中に向かって、直哉はなりふり構わず怒鳴り散らした。

 しかし結局、広すぎる部屋に自分一人が取り残された。

 

 またやらかした、と自覚した。

 どうしてこんなにも何もかも上手くいかないのだろう。

*1
非術師に呪術の存在を明かしてはならない、ただ脅威が迫ってる場合はよし

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