音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?!   作:ポ予

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よくわかる『術師殺し』の作り方(上)

 心臓の動きを助ける機械をつけるとお姉様は前回の面会で言っていた。その時は深くは聞かなかった。その手術については前世で知っていたから。日常生活はめちゃくちゃ大変になるけれど、手術が成功すればとりあえずは家に帰れる。そう思い込んでいた。

 しかし仕事から帰ってきた甚爾くんからの電話で「どうせアイツは言ってねえだろうから」という前置きとともに真実を聞かされた時、思い描いていた未来予想図は静かに砕けた。

 

 体の外にある機械に管で繋がれる。繋がれたまま動けない。退院はできない。感染症のリスクも高い。そして機器を取り外せる可能性は低い。つまりこれは治療ではなく、心臓の移植が見つかるまでの繋ぎに等しい。その移植も、日本で再開されてまだ数年しか経っていない制度だとか。

 つまりお姉様はこの病室から出られないまま、いつ届くかわからない他人の心臓を待ち続けることになる。そしてそれが間に合う保証もない。体外式の人工心臓をつけてからの平均寿命は、決して長くないのだ。

 

 俺の知識は俺が死んだ2026年付近のものだった。

 

 今日はその手術の2日前だ。

 病室は凪いでいた。窓の外に鬱蒼とした欅の梢が見える。葉先だけが時折風に揺れて、それ以外は何も動かない。鼻をつくような消毒液の匂い。点滴の管が規則正しく透明な雫を送り続けている。

 お姉様の顔色は前に来た時よりも更に悪くなっていた。唇にも色がない。ベッドの角度が少し上がっていて、完全には横になれないようだ。横になると息が苦しいのだと前回聞いていた。何本もの管が体から出ていて、枕元の機械やぶら下がった袋に繋がっている。心拍を示すらしい数字が、画面で緑色に光り続けている。

 手術が終わったら、ここにもっと大きな機械が来る。お姉様はそれに繋がれて、この部屋で暮らすことになる。それがどのくらい続くのか、誰にもわからない。

 

 俺は恵くんを膝に乗せて、ベッドの横の椅子に座っていた。恵くんは真っ黒な瞳で俺の顔をしばらく見上げてから、ぷいと顔を逸らして、点滴の管をじっと見つめ始めた。透明な液体が落ちていくその物理現象が、まるで世界の全てであるかのように。

 

「あらら。恵、点滴に興味津々だね」

 

 お姉様が笑った。笑うと少し咳き込んだ。前よりも咳の間隔が短くなっている。それでも彼女はすぐに呼吸を整え、口角を上げた。

 ──苦しいのを悟られないようにするコツは、咳が止まった直後に「何でもない」という顔をするんじゃなくて、少しだけ照れたような表情を作ること。「あ、ちょっと咳出ちゃった、えへへ」くらいの軽さがちょうどいい。

 そのことに、気づかないであげたかったな。

 

「菜緒葉ちゃん、またお花をありがとう。すごく元気な色」

「ま、私のセンスにかかればざっとこんなものです。バラくらいしか知らない粗忽な甚爾くんとは違うんですのよ」

 

 甚爾くんが「最近は色々知ってる」と低く呟いて、お姉様はそれにくすくすと笑った。

 甚爾くんは昨日の夜に仕事を終えて帰ってきたそうだ。それまでにどこで何をしてきたのか、まだ正確には知らない。でも、そのことについて、今だけは何も聞かないことにする。

 

「恵くん、お母さんの方を向いてくれない? ……ほら、お母さんだよ」

 

 お姉様がベッドの上から細い腕を伸ばして恵くんの頬をつつく。恵くんは点滴から目を離して、母親の方をちらりと見た。それから小さな口をもごもごと動かした。

 

「あっ、今、笑った? 笑いましたわよね?」

「笑ったねぇ」

「口が動いただけだろ」

 

 甚爾くんが冷静に訂正した。

 お姉様は「甚爾は夢がないなぁ」と言って、それからまた咳き込んだ。今度は少し長かった。肺の奥に水が溜まっているような、重く濁った音。甚爾くんが反射的に立ち上がりかけたが、お姉様は震える手でそれを制した。

 

「大丈夫。……ね、菜緒葉ちゃん、お花の水やり、ちゃんとやってくれてる?」

「もちろん。名前も順調に覚えてきましたわよ。ペチュニアとトレニアとベゴニアと……えーと」

「ヴァーベナ」

「そう、ヴァーベナ! なんで植物って、こうも呪文みたいな名前ばかりなんですの」

 

 お姉様は嬉しそうに目を細めた。その目には相変わらず優しさだけがあった。瀕死の人間が浮かべる笑みとしては、あまりにもリアリティがなくて、だからこそ本物なのだった。

 

「でもね、ベランダの鉢……一番右のペチュニアだけ、少し元気がないかもしれませんわ。葉っぱの先っぽに黄色い所があるの」

「ああ、そういう時は、少しだけお水を減らしてあげて。あの子は構いすぎるとすぐに根腐れしちゃうの。寂しがり屋のくせに我儘なんだよね」

「……わかりましたわ。少しだけ放っておきます」

 

 会話の合間に、お姉様は時折目を閉じた。閉じる時間が少しずつ長くなっていく。体力が目に見えて削られている。それでも、目を開けるたびに笑おうとした。俺が笑っていたから、お姉様も笑った。

 前世の俺もこうやっていた。見舞いに来てくれた人の前で笑って、その人が帰った後に天井を見つめて泣いた。あちら側の気持ちを俺は知っている。死に行く側の覚悟も、遺される側への気遣いも、俺は嫌というほど知っている。だからこそ、今の自分がどう振る舞うべきかも理解できてしまう。

 でも、甚爾くんにはそれはまだ少し難しいみたいだった。自分の方が先に死んじゃいそうな顔をしていた。

 恵くんは俺の腕の中で欠伸をした。気楽でかわいかった。この世界の悲惨さを一滴も知らない、無垢で残酷な重みを感じた。

 

 お姉様はひとしきり笑った後、声のトーンを変えた。表面的な明るさを剥ぎ取り、一段だけ深い、魂の剥き出しの部分に触れる声。

 

「菜緒葉ちゃん。もし、私に何かあったら……甚爾と恵のことを、よろしくね」

「勿論ですわ。私がまとめて面倒見てあげます」

 

 即答した。

 即答できた自分が怖かった。だって俺は覚悟が固まっているから即答したのではない。この地獄のような舞台の上で、そのセリフ以外の台本が用意されていなかったからだ。

 

「あと──できれば笑って送り出して。……それが、私からのお願い」

 

 お姉様はそう言って微笑んだ。

 この人はいつだって笑う。甚爾くんの前でも、俺の前でも。死ぬかもしれない人間は、残される側のために笑うのだ。笑っておかないと、残された人間が一生自分を責めるから。

 けれども、それを見ている甚爾くんの声は掠れて消えそうだった。

 

「今からそんなこと言うなよ」

 

 気持ちはわかる。けれどもそれは、お姉様が勇気を出して口にした覚悟を聞かなかったことにする行為だ。侮辱と同じだ。こういうことを言うにしても、俺ならもっと明るく、上手くやる。

 

「そうですよ、お姉様。何年かぶりになりますけど、次は弟も連れてきます。……今日だって、喧嘩してなきゃ本当は一緒に来るはずだったんですけどね」

 

 なるべく普段通りに言った。

 結局誰にも内緒でここに来てしまった。甚爾くんへの疑いを抱えたまま、弟にも他の家族にも確認できずに。

 それでも俺は未来の約束をする。次は弟も連れてくる。それが嘘になる可能性から目を逸らして。

 お姉様は小さく頷き、恵くんの小さな手に指を触れた。

 

「ふふ。楽しみにしてる」

 

 恵くんは反射的にその指をぎゅっと握り返した。お姉様の目が一瞬だけ潤んだが、最後まで一滴の涙も零さなかった。

 しばらくそのまま、3人とも──いや、4人とも、誰も何も言わなかった。

 心拍数を示す緑の数字だけが規則正しく、誰よりも正直に、この部屋で唯一嘘をつかない声で時間を刻み続けていた。

 やがて俺は、ぐずり始めた恵くんを抱き抱えて立ち上がった。

 

「……少し、外の空気を吸ってきますわ」

 

 それだけ言って、先に病室を出た。

 甚爾くんのためにはなるべく多く夫婦2人きり時間をあげるべきだという配慮もあったが、それ以上に、俺自身がこれ以上この光景を直視できなかった。

 残された夫婦がどんな言葉を交わすのかは聞かない。聞く資格がない。仮にあったとしても、耐えられる自信はない。

 

 廊下に出ると、消毒液の匂いがいっそう鋭くなった。面会時間の終わりが近いのか、他の病室からも人が出てきている。皆静かに歩いていて、靴底が床を叩く音だけが、蛍光灯に照らされた白い廊下に等間隔で落ちていく。

 俺は窓際の手すりに縋るようにして立った。西の空が赤い。

 恵くんの顔を覗き込む。甚爾くんによく似た顔。この子がもう少し大きくなったら、お姉様にも似た部分が出てくるだろうか。

 でも、もしお姉様が亡くなったら、この子は母親の記憶を一つも持たないまま育つことになる。お姉様の笑顔も、優しい声も、その手の温度も、この子は何一つ覚えていられない。

 

「恵くん」

 

 掠れた声で呼びかけた。当然、返事はない。

 

「……どうしよう」

 

 声に出してしまったら、喉の奥から熱い何かがせり上がってきた。 

 

「恵くん。恵くん……」

 

 名前を呼ぶことしかできなかった。この子にわかるはずがない。わかるはずがないのに呼ばずにはいられない。この腕の中の重みだけが、今の俺を現実に繋ぎ止めている。

 手術の後、お姉様はこの病院で機械に繋がれて暮らすことになる。それがいつまでなのか、誰にもわからない。ドナーが見つかるかもしれない。見つからないかもしれない。見つかったとしても、お姉様がその時まで保つかどうかもわからない。

 甚爾くんはお姉様のために、おそらくはこれまでよりも稼ぎのいい仕事に手を出した。お父様がこれまでの寛大な黙認を取り消した辺り、内容は想像がつく。常識的に考えれば、そんな仕事に手をつけるより他にやれることは何個もあるはずだから違うと自分に言い聞かせようとしても、お姉様と出会う前の甚爾くんの荒れっぷりがその希望的観測を裏切った。あの人はいつもその場しのぎだ。何かを積み上げることの下手くそな人だ。でも、そんな大それた恐ろしいことをして、甚爾くんはこれからどうやって恵くんを抱き上げるつもりなのか。お姉様にどう話すつもりなのか。一生誤魔化して生きていけるとでも思っているのか。

 心臓がやかましい。指先が冷たい。菜緒葉ちゃんの体は昔から、失うことの恐怖に弱かった。行動で打開できない局面になると、心臓がこの打ち方をして、末端から体温が引いていく。前世の俺なら深呼吸をして自分を宥められた。けれども今は菜緒葉ちゃんの体ごと怯えている。この体は覚えているのだ。お母様を失った時の、あの、世界から音が消えるような感覚を。

 

 菜緒葉ちゃんは生得領域の奥で、ここに来る前はずっと声を殺して泣いていた。ここに来てからは、彼女を悪霊認定している甚爾くんへの警戒から引っ込んでもらっていた。

 でも、今は──

 

『この後、甚爾くんを問い詰めましょう』

 

 涙の痕跡が残ったままの、けれども澄んだ声で彼女は言った。

 

「……」

『答えが最悪のモノだった場合、お姉様と恵くんのために甚爾くんを庇い続けて、お父様の意向にそむく覚悟はマコくんにはありますか? 私にはあります。甚爾くんの気持ちはわかるから。それに、お姉様との約束は、絶対に破れないから』

「……」

 

 菜緒葉ちゃんは泣き止んでいた。

 この子はいつもこうだ。まだ子供だからしょっちゅう泣くが、泣き終わったら刃物みたいに研ぎ澄まされる。

 

 『でも、この体は実質マコくんの体ですし、割を食うのはマコくんの方だから、最後はマコくんが決めてください』

 

 この子は迷っていない。覚悟を決めた後のこの子は早い。情が狭く、深い。とことん呪術師向きの性格だ。欲望のために全部を賭けられる。それが菜緒葉ちゃんの強さだ。

 ──俺はもっと弱い。切り捨てるのが下手だ。甚爾くんの選択を肯定できる気がまるでしない。

 

 面会を終えた甚爾くんが廊下に出て来た時、足音は一切しなかった。禪院の屋敷にいた頃と寸分も変わっていない。床と靴底の間に空気の層でも挟んでいるみたいに、質量を感じさせない歩行。そんな彼に恵くんを返すことは、断じてできなかった。今の暗い虚無を纏ったこの人に、無垢な重みを預けてはいけない気がした。

 

「……甚爾くん。帰る前に少し、あなたの家で話したいことがありますの。……いいかしら」

 

 そう切り出した。

 甚爾くんは俺を見た。

 数秒の間があった。

 甚爾くんの目が、出会った頃の── 底知れない怒りに満ちた、手負いの肉食獣のような色に戻る。それから彼は、罰を受ける人間のような顔をして、頷いた。

 

 

 

 

 

 

 鉄階段を上がる。

 甚爾くんが先に上がり、俺が恵くんを抱いて後に続いた。階段の手すりに鉄錆の粒が浮いている。夕暮れの残光がそれを琥珀色に染めていた。

 玄関を開けると誰もいない部屋の匂いがした。換気が足りていない。洗い物がシンクに少し溜まっている。お姉様がいた頃には考えられない光景だった。

 ベビーベッドに恵くんを寝かせると、彼は一度だけふわりと手を動かし、それから深い眠りに落ちた。あまりにも手がかからないいい子で、逆に心配になる。その無垢な寝顔を確認してから、俺は台所に立ち、努めて日常的なトーンを意識して声を絞り出す。

 

「……せっかくだし、いくつか作り置きしておきますわね。私が帰った後、適当に温めて食べられるように」

「食欲ねぇからいい」

「ワガママ言わないの。……いいですか、これはあなたの為じゃなくて、あなたが倒れたら困るお姉様と恵くんの為ですわ」

 

 甚爾くんは答えなかった。反論する気力すらないのか、ズルズルと床に座り込んだだけだ。

 俺は冷蔵庫にある限られた食材を手に取り、無心で包丁を動かす。術式を使って美味しくするのは今日はやめにする。トントンと規則正しくまな板を叩く音だけが、沈黙を埋める唯一のリズムだった。鍋がコトコトと鳴り始めた頃、火を弱め、背を向けたまま本題を切り出す。

 

「……聞きます。お父様は、私に甚爾くんと会うのを控えて欲しいようです。心当たりはありますわよね?」

「あーあ、言われてんのにわざわざ来たのかよ。律儀だな」

 

 甚爾くんの声は完全に投げやりだった。

 ──なるなよ、投げやりに。

 大人なんだからちゃんとしろ。

 何から何まで全部甚爾くんの蒔いた種で、俺が甚爾くんに求めているのは、彼が何もかも正直に話すこと。ただそれだけだ。

 こっちだってそれなりに色々考えて、リスクを取ってこの場所に立っているつもりだ。それを「律儀」の一言で済ませて、勝手に投げ出すなよ。

 この人は何もわかっていない。

 

「逆に質問しますけど、たかがお達しがあった程度で私があなた方を見捨てて来なくなるとでもお思いですの?」

 

 言葉には隠しようのない棘が混じった。

 キレているのは菜緒葉ちゃんじゃなく純然たる俺自身だ。

 我が家の忌庫で一緒に泥棒をしたことがあった。アレを甚爾くんは忘れているんだろうか。

 

「……海外移植を検討するため、なんでしょう?」

「うん。具体的な金額を言ったらアイツは絶望するだろう? 代わりに色々調べるし、手術代は気にしなくていいっていうのが精一杯で」

「……」

 

 お姉様は甚爾くんがこれまでよりやばい仕事に手をつけていることを知らない。これは普段の2人を知っていれば、まあ想像通りだ。夫の呪術的かつグレーな稼業を理解しながら結婚したあの人は、だからこそ何も聞かない。そうして、刹那的な何かを、無理やりに永遠へと変えていた。

 

「一切痕跡は残さなかったはずなんだけどな」

「痕跡がなさすぎるからバレたんじゃありませんか」

「あー……そこまで考えてなかった。知ってるか菜緒葉? 呪術師を殺すのは効率がいいんだよ。一人頭数百が下限。デカいヤマなら数千。……一般人相手だったら心が痛む。 だけど呪術師を殺すくらいならまあ別に良くないか? なんつーの、資本主義的な労働の範疇?」

 

 甚爾くんの笑う声が聞こえた。

 俺は全く笑えなかった。

 甚爾くんを振り返ることすらできなかった。

 

「……億単位のお金でお姉様の心臓を買いたいからって、数百万ぽっちで他の人にとっての大事な人の心臓を止めてきたって訳?」

 

 心底軽蔑する。無辜の人間が不当に殺されることを、考えるだけで吐きそうになる。そして、悲しくなる。甚爾くんは好きこのんで人を殺すような人じゃなかった。理由のない暴力は良くないと考えるモラルくらいは持ち合わせていた。

 それなのに──。

 

「……どうして、言ってくれなかったの。……どうして、私に相談しなかったんですか」

 

 言ってくれたら止めた。一緒に違う方法を考えた。こんなにも酷いことになっていて、この時代の医療ではどうにもならない可能性の方が高いのだともっと早くわかっていたなら、医者に任せておとなしく待つことなんかなかった。もっと違う方法を考えた。

 悔しくて悲しい。

 なのに甚爾くんは、馬鹿みたいなことを言ってくる。

 

「……俺がこんなことを考えてるって言ってたら、お前はキレるだろ」

「当たり前でしょ!!」

 

 思わず叫んでしまった。振り返ることはしない。振り返ったら、この人の顔を見たら、もう冷静ではいられなくなる。包丁を握るのも一度やめた。包丁を持ったままだと、俺はこの人を傷つけるかもしれない。正面から突き刺しにいくかもしれない。

 

「やっていいことと悪いことの区別もつかないの? 私達はあなたのためになんでもするつもりだったのに……人を殺すのって、私に相談するよりも……禪院に頼るよりも軽い選択肢だったんですか?!」

 

 そんな訳がない。甚爾くんに殺された人にも泣いている家族がいる。それは甚爾くんだって想像できるはずなのに、どうして。

 俺にはわからなかった。

 全くわからなかった。

 でも、甚爾くんは答えた。

 

「軽いよ。ずっと軽い」

 

 その声は変に柔らかかった。これまで聞いたことがないほどに優しかった。だから俺は、甚爾くんの方を初めて振り返った。

 甚爾くんは完全に打ちのめされたような顔をしていた。叱られるのを怖がっているようにも見えた。表情にそういう感情が出ている訳ではないけれど、直感的にそう感じた。

 

 それを見て──ああ、甚爾くんって子供なんだ、と。初めて、そう気がついた。

 

 脆い部分があること自体はわかっていた。でも、俺にとってはなんだかんだで禪院家をぶっ壊してくれた師匠だった。直哉の憧れのお兄さんだった。お姉様と出会ってからは全然違う人みたいになって、傷痕は次第に癒えて来ているのだと思っていた。

 違った。

 太陽の光を受けた月のようなものだったのかもしれない。あるいは、大人のフリをしていたのかもしれない。好きな女に好きになってもらうための演技なんて、どんな男でもやる。甚爾くんは大多数の男よりそれが上手かっただろう。

 

 幼稚だ。

 本当に、見下げ果てた奴。

 

 でも、可哀想だった。お姉様ならどう対処したんだろう。お姉様はどういう風に甚爾くんを支えて、光の下に連れ出せたんだろう。俺には駄目だった。俺は甚爾くんに何もしてあげられなかった。この人にとって、俺は何だったんだろう。不甲斐なかった。申し訳なかった。

 

 俺が怒鳴ったせいで、恵くんが泣き出した。「ごめんね、怖かったね」と言いながら抱き上げに行って、それから甚爾くんに言う。

 

「それでも……そんなことしても、お姉様は喜びませんわ」

 

 絞り出すような俺の言葉に甚爾くんは答えなかった。もう十分わかっている。この人は精神的にボロボロだ。限界をとうに超えて、壊れる寸前で踏みとどまっているだけ。

 そしてお姉様は、俺に甚爾くんと恵くんを託した。

 

 俺は深く息を吐いた。

 今この友人をここで追い詰めて正論で殴り殺すのは簡単だ。だがそれはお姉様の願いじゃない。

 包丁を洗って片付ける。『菜切り包丁』の術式を使っての料理を再開する。

 

『……マコくん』

 

 菜緒葉ちゃんが恐る恐るといった調子で語りかけてきた。

 

 ──彼女には悪いけど、俺は甚爾くんをこれまでと全く同じような気持ちではもう見られないと思う。

 それでも、お姉様との約束は絶対に守る。

 

 

 

 

 

 

 帰路、電車の窓に映る自分の顔は使い物にならないくらいに強張っていた。家に着いてすぐにキッチンに入り、周りに少し心配されながらも上手いこと誤魔化して翌朝の仕込みを始めた。手を動かしていないと今日見たものに潰される。何を切っても何を煮ても、甚爾くんとお姉様と恵くんのことを思い出す。

 仕込みを終えた後、俺は兄の部屋へ向かった。

 

 英語の医学書がまるで知性の要塞のように積み上げられている。そんな要塞の如き直蔵お兄様の部屋のただ中で、俺は優雅に──あるいは現実逃避の手段として──毛糸を編み、直蔵お兄様と取り留めのない会話を交わしていた。

 病院から帰宅し、あの絶望的な経験をした後でさえこうして何事もなかったかのように日常を演じている自分に、時折吐き気がする。

 いつもなら直哉を揶揄いに行くが、喧嘩継続中の今は無理だ。アイツの本心は察したが、俺はそれに応えてやれない。そこでお兄様だ。

 お兄様はいつも通り、いや、いつも以上に明るい。

 

「直哉に色々相談に乗ってもらって、ようやく術式反転がさまになってきたんだよな。いやぁ呪詛師相手ならそのうち無双できちゃうかもなコレ!!」

 

 前はこんな感じじゃなかった気がするが、当時は俺の『反転術式』もなく、ほぼ常にどこかしらに甚大なダメージを抱えていたので、軽い鬱症状みたいな状態になっていたのかもしれない。自画自賛するお兄様を相手に、俺は編み物の手を止めずに微笑んだ。

 

「直蔵お兄様、さっすがー! 禪院の次代を担うのはお兄様ですわね!」

 

 直哉としっかり仲良くやっているようで大変結構だ。ついでに術式反転自体も本当にすごいと思う。最近は反転による治療も拒否してアレコレ頑張っていたのが、ついに実を結んだのだ。

 けれども、今は共感を寄せる元気がない。

 

『……マコくん、その棒読みのヨイショ、そろそろ限界じゃありません?』

 

 生得領域からは菜緒葉ちゃんの冷ややかなツッコミが飛んでくる。

 わかってる。わかってるけど、これが一番精神衛生上いいんだよ。菜緒葉ちゃんを演じての我が家への適応と改革が俺の仕事だ。仕事をこなしているという実感だけが、無力感を一時的に麻痺させてくれる。

 

 ──正直に言えば、以前の俺にとって直蔵お兄様は苦手な人だった。禪院の規範を几帳面に演じ、その実、中身がまるで見えない。俺に対しては「女の分際で」「まだ子供なんだから」とテンプレ通りの台詞を吐き捨て、甚爾くんを「猿」と蔑む側の人種。常時怪我をしている悲惨さとそのあまりに不幸な境遇に同情して、内心の不満を飲み込んで接してきた。

 ところが、真男佳に「どしたん話聞こか?」されたお兄様の頭のネジが飛んだという事件があって以来、この男のメッキはド派手に剥がれ落ちた。

 儚げで弱々しい雰囲気に誤魔化されてきたが、実のところナチュラルに受け身で面倒くさがりや。しかしながらチョロくて甘え上手で、たまに謎の愛嬌を出してくる。そして致命的なまでに呪術師に向いていない。前世にダラダラと愚痴をこぼし合っていた友達に近いその質感に、今では奇妙な親しみさえ感じている。

 

「でさ、高専の補助監督の子が俺のことカッコいいって。連絡先もらっちゃった。……あ、こればっかりはみんなにはチクるなよ、菜緒葉」

「別に誰にも言いませんわよ。そもそも私は別にルールにうるさくありません」

 

 前世の俺は違法コンテンツを日常的に消費していたし、今だって甚爾くんの家にも通っている。だけど、なぜだかこの家の人々は、俺を「禪院家で最も常識的で品行方正なお嬢様」だと思い込んでいる。皮肉なものだ。俺の演技が上手すぎるのか、それともこの家の人々の目が曇っているのか。

 

「というかさっきからどうしたんだ? 菜緒葉。元気ないし、編み物の目も飛ばしまくってるけど」

 

 いっそ少し打ち明けてみようか。

 そう思いかけた瞬間、気がつく。

 直蔵お兄様の術式反転。それは自己の負傷を完治させた上で、本来負っていたはずのダメージを任意の対象へ半分転嫁するという因果の押し付けだ。

 ──もし。この術式を極限まで突き詰めたら。

 

「……お兄様。ちょっと踏み込んだことを訊いてもいいですか。お兄様の、その『転傷』の術式反転のことなんですけれども」

『マコくん、ちょっと唐突すぎません? もう少し段階を踏みなさいな。急に術式の詳細な仕様を聞くのは家族でも失礼ですわ。怒られるかも』

 

 菜緒葉ちゃんに窘められるが、俺の頭は既に計算を始めている。

 

「お兄様のその術式反転。たとえば、怪我のような物理的な破損ではなく……確実に死に至るレベルの内臓の機能不全。あるいは、不治の病のようなものも、対象に移譲することは可能ですの?」

 

 少し前のめりになりながら聞いた。

 しかしお兄様の返答は拍子抜けするほどあっさりしたものだった。

 

「えっ、やったことない。順転ですら考えたこともない」

 

 一瞬、編み針を持つ手が止まった。

 

「……試そうとも、研究しようとも思わなかったんですの?」

「だってさぁ。万が一そんなことできちゃったら、それこそ上の連中に『あいつを治せ』だの『この老いぼれを延命させろ』だの、便利屋みたいに使われるだろ? めんどくさいし、何より今以上に痛い思いをするのは御免だよ」

 

 ……絶句した。

 この男は、自分の才能が秘める無限の可能性を「面倒くさい」という極めて個人的な怠惰で封印しているのだ。

 

「……お兄様。たしかに家に報告したらそうなるでしょうけど、ご自分でこっそり実験したり、デメリットの解消方法を模索したりすればいいだけの話じゃありません? ……私なら、死に物狂いで術式の解釈を拡張しますけれど」

「菜緒葉はストイックすぎるんだよ。前例もないのに勝手に呪霊を貪り始めるような異常者のお前と、俺を一緒にしないでくれ」

 

 昨日、病室で見たお姉様の蒼白い顔。

 死ぬための準備として笑っていた、あの凛とした、けれどあまりにも脆い笑顔。

 甚爾くんが手を汚してまで買い取ろうとしている、絶望的なほど細い希望の糸。

 それら全てを救い上げる鍵を、このお兄様はこたつでみかんを剥くような気軽さでゴミ箱に捨てている。

 術式反転だって、真男佳に脳をいじられるまで練習すらしようとしなかった男だ。俺からすれば、理解の範疇を超えている。せっかく男として生まれ、生まれつきそこそこ豊富な呪力を持ちながら、彼は強くなることにも戦うことにも興味がないのだ。

 

『お兄様はそんなにぐうたらだからパッとせえへんとか直哉に言われるんですのよ。呪術師なら根性見せなさいな! ……って、言っていいですか?』

 

 ダメです。

 今それを言ったら、彼は「菜緒葉って怖い子だったんだな」と殻に閉じこもるだけだ。直蔵お兄様のような相手に呪術師としての矜持を刺激しても意味がない。

 

「で、何。急にそんなこと聞いて。怖いよお前の顔」

「もしも、その術式順転で……誰かの心臓の病気を一度お兄様に移して、その後反転で、呪詛師や呪霊なんかにその病状を移譲できないかと思って」

「えっ。……いけるかもしれないけど、絶対にやだ」

「なんでですの」

「循環器系はあんまり詳しくないけど、心臓病っつったって色々あるんだよ。物によっては中間でミスって俺が死ぬ可能性もあるし。ハイリスクすぎる」

「……」

「そもそもそれって、先週言ってた甚爾の奥さんの話だろ。普通の病院で診てもらってる非術師で、しかももうすぐ手術なんだよな。そんな患者が急に全快したらおおごとだよ。論文になっちゃうレベルだろうし、呪術規定的には多分黒かグレー。……ダメだったらそれが寿命だよ。諦めな」

 

 寿命。

 その言葉の響きがあまりにも残酷で、俺は編み針を強く握りしめた。

 どうしてあっさりそんなことを言えるんだろう。

 直蔵お兄様には人を救いたいという執着も、自分を向上させたいという渇望もない。要するに「呪い」が足りないのだ。戦う者としての資質が、根本的に欠落している。

 

「お兄様」

「何」

「今日、その方に言われましたの。『もし私に何かあったら、甚爾と恵のことをよろしくね』と」

 

 お兄様の手が止まった。

 俺は編み針を膝に置いて、まっすぐにお兄様を見た。

 

「お姉様は、0歳の子を残して行く覚悟をしています。私の前では涙を堪えて。……私はその笑顔を『寿命だから仕方ないね』で済ませたくない」

 

 声が震えた。震えたことに自分で驚いた。

 そして俺は、最近のことをお兄様に全部ぶちまけた。お姉様が心臓移植が必要な段階に差し掛かっていることや、甚爾くんが大変なことになってしまったこと。それがキッカケで弟とも喧嘩中で、全然口を利いてないということまで。

 話を聞きながら、お兄様は困ったような、居心地が悪そうな顔でこちらを覗き込んできていた。

 

「……そんなに心配なの、あの一家が?」

「……」

 

 心配に決まっている。俺はもう、お姉様との約束をこの胸に刻んでしまったのだから。

 沈黙を続ける俺を見て、直蔵お兄様は小さくため息をつき、膝の上の編み物を放り出した。

 

「そこまで思い詰めた顔するな。……お前も俺と一緒で、普通に愛してくれる家族が欲しかったんだよな。俺にとってそれは呪霊で、お前にとっては人殺しの猿だった。お前の方が億倍マシだ。というかそもそも、実の家族の俺がろくに家族やってなかったせいだよな。ごめん」

 

 お兄様の声のトーンが、わずかに柔らかくなった。

 

「ぶっちゃけ、心室腔の拡大、心筋壁の菲薄化、散在する線維化斑。その辺は静態的スナップショットとして転写できる気がする。一刻も早く甚爾に会わせて。奥さんの病状、細かく聞きたい。どうせ闇落ちして呪詛師になりかけたところをお前らにもみ消してもらった身だし、貸し一つってことでいいよ」

「お兄様……!」

「ただ、サポート用にお前も『反転術式』をさらに磨いてくれ。医療知識があった方がいいらしいし、俺の部屋に来てくれたら、これから色々教えるよ。整形外科なら大体わかるし、お前が一人で抱え込んでパンクするよりはマシだろ」

 

 思わぬ言葉に、俺は顔を上げた。

 直蔵お兄様は、照れ隠しのように積み上げられた医学書の一冊を指で弾いた。

 

「あなたから、そんな言葉を聞く日が来るなんて」

「確かにな。……お前の才能に、変に嫉妬して意地張ってないで、今回の話抜きでも、本当はもっとこうすべきだったんだろうな」

 

 お兄様の声がだいぶ優しかったので少し目が潤んだ。気づかれたくないなと思った。お兄様は一瞬狼狽えた顔をしたが、何も言わなかった。代わりに、膝の上の編み物をもう一度手に取り、何事もなかったように針を動かし始めた。

 俺もそれに倣った。

 

 

 

 

 

 

 

 ちょっとだけ希望が見えた。

 そう思った。

 そして同時に考えた。

 世の中には病気の人が大勢いて、それを呪術で解決できるかもしれないのに、その技術が秘匿されているというのは、よく考えたらおかしいんじゃないのか。

 呪術師の数は圧倒的に少ないから仕方ない。それはわかっているけれども……。

 

『あ、気がつきました? それもあって、私は全人類を呪術師にすべきだと思うんですのよ」

 

 菜緒葉ちゃんの声が頭の中で響き始める。俺はそれを冷静に否定しようとする。社会の混乱が酷いことになるだろう、と。

 しかしすぐに言い返された。

 

『何事も功罪はあるし、社会なんて常時混乱してるでしょう。マコくんの前世の記憶に出てくるチャットGPTっていうのが出てきた時も大騒ぎだったし、そういうビッグな技術革新というのは数十年に一度くらいはあるんじゃありませんか?』

 

 ……。

 

 俺は普通の男だった。真男佳がこないだ言ってた程善良なつもりはない。なんとなく周りに迷惑をかけちゃいけないと思いながら生きてきて、目の前で人が傷つけられているのを見れば義憤も覚える。だけど、具体的な法律やルールを常にきちんと認識して真摯に守ってきたかというと微妙でしかない。

 俺の「常識」ってやつは、案外たよりない砂上の楼閣なんじゃないだろうか。

 

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