音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
禪院菜緒葉には複数の兄がいる。その名前を禪院甚爾は何度か覚えては忘れ、また覚えては忘れてきた。実の父親である直毘人ですら全員の名を正確に言えるか怪しい以上、他人の甚爾がそうであることに差し支えはないだろうと思ってきた。とはいえ『転傷』の男だけは多少容貌が目立つ。常に白い包帯だらけで線が細い。その細さを覆い隠そうとするように、禪院らしい無意味な矜持の高さばかりを纏っていた。虚勢の皮が一枚いつも剥けかけている、そういう男だった。甚爾のことは当然「猿」と呼んでいた。本人の前で呼ぶ度胸はなく、廊下の陰で連れの者に囁くような呼び方だった。甚爾がそれを律儀に全部拾い続けていたことに、あの男は最後まで気づいていなかったのではないかと思う。
その直蔵──菜緒葉が電話口で連呼していたのでようやく名を覚えた──が、救いの手を差し伸べてくる日が来るとは。
菜緒葉の言葉を、甚爾はすぐには飲み下せなかった。
直蔵の申し出自体が罠かもしれない、と甚爾は菜緒葉に言った。猿の女房を禪院の男が救う訳がない。千代のことを忘れたのかとも言った。否、怒鳴った。
菜緒葉に対して怒鳴ったのは初めてだった。それどころか、女相手に怒鳴ったこと自体が初めてかもしれなかった。
怒鳴っている最中に片腕の中の恵が泣き出した。
甚爾は慌てて抱え直した。自分の声で息子を怯えさせた。おまけに人殺し。最悪の父親、どころの話ではない。菜緒葉にもそう言われた。
怒鳴られた。
怒鳴り合いが発生すること自体が甚爾の人生の中で初めてだった
そもそも、自分が手をつけた仕事のことが菜緒葉にここまで早々にバレたことが想定外だった。けれども、それ以上に甚爾には理解できないことがある。禪院の家を出奔した折、弾みで家の者を殺したかもしれないという報告を、甚爾はこの少女にしていた。あの時の菜緒葉は「まあそういうこともありますわ」程度の反応で優しく赦して、忌庫での窃盗まで手伝ってくれた。なのに今回は何故駄目なのか。
甚爾はそう問うた。
菜緒葉は「クソ野郎!」と怒鳴って電話を切った。
回線が断たれる音は無機質だった。泣き止まない恵を胸に抱いたまま、甚爾はしばらくその場に立ち尽くした。他人に何を言われようと甚爾は基本的には何とも思わない。思わないようにして育ってきた。しかし菜緒葉に対しては、どうしてもその決意が砕ける。
菜緒葉は甚爾に対して普通の友人のように接した。甚爾の中に他人を愛するための鋳型を最初に刻んだのはこの少女だった。だが、嫌われた。軽蔑された。
2分後に再び電話が鳴った。
「はろろーん、甚爾くん」
気の抜けた挨拶はどう考えても悪霊の方の菜緒葉のものだった。
明るく、可愛く、甚爾へ話しかけてくれる女は、もうこの女だけになったらしい。
「……おー、久しぶり……」
「アッチの私はクズの人殺しともすぐに怒鳴る余裕のない男とも、あと3日くらいはお喋りしたくないんですって。でも、私は違うから安心してね。私はあなたに、正しい行動なんて初めから1ミリも期待していないから」
「そうかよ」
「というか甚爾くん、あなた禪院家がまだ怖いんですのね。雑ぁ魚ざーこ。史上最強のフィジカルギフテッド様が、本当に惨め」
「……」
「……あら、いつもみたいに言い返してよ。黙り込むなんて、本当に余裕がないのね」
「今はそのテンションに付き合う余裕ないんだわ」
普段なら反射で皮肉を返せる声色だった。しかし気力は既に切れていた。千代が呪霊の餌にされた顛末を甚爾は覚えている。その話題を出した直後に、煽りを流暢に受け流せるほど器用ではない。禪院の男の前に妻を晒すのも、彼女が自分の子を産んだせいで弱っているということを晒すのも怖かった。怖くない訳がなかった。
「じゃ、アイスブレイクはこの辺にして、本題に入りますわね」
悪霊は笑った。
「もう一人の私と直哉はお兄様に恩を売りに売っているし、実のところこちらの方が立場が上ですから、あなたが心配すべきことは一つもありません。ただ、それでも信用できないのは道理だと思いますわ。うちの兄はレイシストみたいなもので、その仲間が単にあなたのことが好きだと言っただけの人を残酷に殺したんですもの。禪院をサクッと信用できるなら、あなたは殺人以外の方法を取っていたでしょう」
妙に優しくこちらに寄り添った言い回し。善良な方の菜緒葉は違った。彼女は怒っていた。怒ってもなお綺麗な正論ばかり語った。過去の傷を盾にして、妻が助かる可能性を遠ざけている甚爾に耐えがたい苛立ちを示した。禪院そのものを一切信じられない甚爾を理解しなかった。だから悪霊の親切さには驚いた。
「あ、お前はちゃんとわかってるんだな」
「ええ、ですから私と兄の間でこの件についての縛りを交わすところを、あなたに見てもらいましょう」
「そもそもお前そのものが信用できない……って言ったら?」
「ご冗談を。私がお姉様をどれだけ好きか、甚爾くんならわかるでしょう」
「……」
同病相憐れむとしか形容しようのない、甚爾が大嫌いな調子の声で悪霊は言った。
人のフリをして失敗した猿と、理想の〈女〉になり損ね続ける少女。同じ種の破損品として並べられることは生理的な嫌悪を伴う。だが、嫌悪する資格が自分にあるのかと考え直せばそれもまた怪しかった。甚爾と彼女は同じ位置にいるからだ。正しさを演じきれない者として。しかし演じることをやめられない者として。世界の縁を歩く透明人間として。
自分の妻に抱きついていた時のこの女の幸せそうな顔を甚爾は思い出す。
天与呪縛の感覚を持ち出すまでもなく、即座に気配の差を嗅ぎ取れる明らかな厄ネタ。そのうえ煽り癖つき。このどうしようもない女ですら、妻のことだけは別枠で愛していた。甚爾自身がしばらくの間そうであったように、近頃の彼女は完全に無害化していた。
だから、信じてみることにした。
「……わかった。会ってみる」
「ありがとう。明日、直蔵お兄様を無理やりにでも連れ出します。……じゃあ、おやすみなさい。良い夢を」
受話器を置いた。
腕の中の恵は泣き止んでいた。疲れたのか、それとも父親の心音に合わせて呼吸を整えたのか、甚爾には判別できなかった。無意識に揺らし続けていた腕の動きを、甚爾はようやく止めた。
恵は不思議な子供だ。
もしかしたら呪霊がはっきり見えているのではないかと思う瞬間もあった。一般人のような徒な呪力の漏出がないのもたしかだった。いや、出来損ないの胤が特別であるわけがない。悪い種は悪い実を結ぶものだ。だが、もしも、この子が特別だったら。
──特別だったら。
ふと、思い出した。
たまに予知めいたことを言い出す悪霊は、恵が生まれることを知っていた。
甚爾が禪院を出る直前、闇の菜緒葉は「子供ができてもこの家に渡すな」と取引を持ちかけてきた。そしてその数年後、あの女は泣きながら妻に詫び続けた。それは恵が禪院にとって非常に価値のある存在で、自分達と違って禪院に厚遇されると知っていたからなのではないか。
今になって、あの涙の意味が胸の奥で結び直されかけて──
甚爾は思考を止めた。
深く考えたら、本当に気が狂う。
◇
翌日の朝、禪院兄妹が来た。
玄関を開けた20歳前後の包帯男は、甚爾の頭から爪先までを視線で素早く舐めた。何かを測るような視線は途中で意味を失い、ただの観察へと下りていった。そして直後、持ってきていたはずの怯えの色が、顔から完全に抜けた。
「なぁんだ。普通にしょぼくれてるし、全然惨めじゃん。直哉を連れて来なくてよかった」
挨拶代わりに侮蔑が差し出された。
反応する気にはなれなかった。
この男はかわいい弟が猿に傾倒していることに昔からずっと怒っていた。一族が猿と呼び捨てて蔑む人間に、跡取りの弟が心酔している。実の兄が享受すべき敬意と承認の全てが、猿に注がれている。その構図の屈辱をこの男は長年直哉にではなく、甚爾の方へ向けて背負わせ続けてきた。甚爾の零落を見て直蔵が安堵するのなら、それは直蔵の長年の鬱憤のささやかな清算なのだろう。甚爾の側の事情などもとより汲んでもらえる類のものではない。
直哉が実際にどう思うかについては考えないでおく。妻との結婚を報告した直後から、直哉との距離が露骨に開いた理由を、甚爾は今も綺麗に言語化できない。ただ、感覚でわかっている。あの子が何を嫌がったのかも、そして甚爾がどうなろうと何をしようと──直哉と同じ歳の少年を殺そうと、それどころか直哉本人の足をへし折ろうと──あの子が実の兄ではなく自分を選び続けることは、はっきりわかる。直蔵が決して埋められない場所に、甚爾はただ居座り続けてきたというだけのことだ。だからどんなに失望させても、また適当に絡め取れると思う。まあ別に、そこまでして絡め取るような執着心は一切ないのだけれども。
菜緒葉の方も同じくらい簡単ならよかった。今回来ているのが善良な方の菜緒葉でないのは、ついに甚爾に心を閉ざしたからか。箸の持ち方とか、くだらないことについてまで何でもかんでも諭して来ていたあの少女は、この局面になって甚爾と向き合うことを諦めたらしい。
兄の直蔵は妹の人格分裂に全然気づいていなさそうな態度だった。そして、その一点だけでも、甚爾から見た禪院家は既にこれっぽっちも信用に値しない。
ただし「甚爾くんが怖がってるから、悪いけど私と縛りを結んで欲しいんですの」と妹に言われた時の直蔵の態度だけは、少し意外だったかもしれない。
「縛り? あーハイハイ。いいよ。……人殺しの癖に臆病だな。こっちもリスク取って来てるんだよ。菜緒葉が可哀想だし。あと、直哉は俺がオマエを助けたって聞いたら、本気で俺のこと好きになっちゃうかもなと思って」
家への裏切りを平然と行い、そうのたまう。直哉に対してはだいぶグロテスクな愛憎が混じっていそうだが、菜緒葉のことは普通に好きそうだった。楽しげに小指を絡めていた。菜緒葉は一体どうやってこの兄を籠絡したのだろう。
甚爾は二人を座卓に通し、余計な前置きを挟まずに妻の病状を話した。医者の書いた紙片の順序通りの話を、直蔵は万年筆でメモを取りながら聞いていた。包帯を巻いた指は薬指と小指が曲がりにくいのか、筆を支える角度が少し不自然だった。
「もう3ヶ月早く相談して欲しかったな。そっちの方が生存確率が上がったのに」
直蔵はぼそりと言った。声からは身構えていた皮肉の成分が抜け落ちていた。
「まあ。済んだ話をしてもしゃーないか。じゃあ端的に結論を言うね。……散在性の心筋細胞死と死んだ心筋細胞のあった場所に生じる線維化瘢痕は、俺の術式なら半量にして横隔膜に落とせそう。理論上はな。根底の原因になる機序が今の医学だと不明だから、症状が進展した今だと根治はムリだから2人目の子は諦めてほしいけど、半年以内に感染症を起こさない状態のままで術式行使に成功できてたら、退院できる可能性は十分にある。──ここまでの説明について何か質問は?」
早口で、医師のような親切さは皆無。半分呪文だった。
「お兄様、もう一回お願いします」
情報量のおおさに菜緒葉が先にダウンした。
「……そもそもオマエの術式の仕様を詳しく聞いてないんだけど」
甚爾が言うと直蔵の口の端がわずかに下がった。自分の説明が前提とする知識が相手にないことに気づいた時の、軽い苛立ちに似た表情。
「ああ、甚爾はボッチだったから俺の術式を知らないのか」
口では辛辣なことを言いながらも、直蔵は改めて几帳面な説明を始める。
「普段の俺は『事前に指定した相手が致命傷を負った瞬間、そのダメージを丸ごと自分のところに引き取って、来る途中で半分に薄める』って仕様の技を使ってる」
「そこまでは菜緒葉から電話で聞いた」
「あっそ。で、その技は前線で役に立てるように縛りを使ってアレンジした物なんだよね。本当は呪詞をダラダラ唱え続けて細かい要件定義を重ねれば、致命傷以外も引き取れる。特定の傷だけ持ってくことだって可能だ」
菜緒葉がわずかに驚いた顔をした。
「これについては私も初耳ですの」
「軽々しく言わない方がいいって父に言われてるから。大っぴらにしたらベッドから離れられない生活になりそうだし……術式の仕様を細かく話すほどの仲じゃなかっただろう? 最近までの俺達は」
「人間、仲良くなるキッカケって案外些細ですわよね」
「……些細だったっけ? アレを些細と言える菜緒葉のこと、俺はちょっと怖いよ……」
甚爾は改めて、菜緒葉と親しげに言い合いをしている直蔵の包帯を見た。彼に同情はしなかったが、理解はできた。共感もできた。
「ごめん甚爾、話を戻すわ。……術式対象になる『傷』ってのは実は物理的な破損じゃなく、組織の状態ごと移してる。ただし、細菌とか病原菌とか癌細胞とかは基本対象外。頑張ればいけるかもだけど、めんどくさいことになるからやだ。あとは生まれつきの奇形とかも移せない。更に、請け負う時に『傷』の量は半分にして、なるべくダメージの小さい場所へずらす仕様だ。隣接器官への移動くらいまでならいけるから、心臓の『傷』には理論上対応できるよ。ただし『傷』のサイズが小さすぎて超精密な操作が要る。練習が必要になるが……そこは、なんとかするよ」
菜緒葉の表情に、初めて小さな明るさが混じった。直蔵の術式の汎用性を、この場でようやく正確に把握した顔だった。
「そういう仕様でしたの? 『反転術式』と違って俺の『転傷』なんかどうせゴミだよ〜とか言って拗ねてませんでした? 思った以上に全然違うし、結局あの後自己反転もできるようになってるし。お兄様って普通にすごい人だったんですのね。医学部とか行かないんですか?」
菜緒葉は冗談めかして少し楽しそうに言う。光の菜緒葉ならもう少し別の反応をしただろう。だが、今この場に適任なのはこの抜け目のない女の方なのかもしれなかった。
直蔵は妹の軽口に軽口で返した。
「小学校すら行ってない俺が医学部なんて無理に決まってるだろ菜緒葉。……で、甚爾くんの奥さんの場合は心筋全体に散らばるようにあちこちで細胞死が発生している。この瘢痕を健康な心筋に戻すには、瘢痕があるという状態ごとよそに移すのが手っ取り早い。これは『反転術式』のアプローチによる欠損組織の形状的再構築とは別レイヤーの操作。つまり俺の術式の出番って訳」
「治せるってことか?」
甚爾は自分の声が自分で気づかないうちに前のめりになっているのを自覚した。
直蔵は気怠げに肩をすくめた。
「気が早いよ甚爾。まだ試してないし、一発で全部持っていける『傷』の数じゃない。あと、根底の原因は取り除けないから再発リスクもある。それからドライブライン感染で敗血症が起きたら、その時は俺じゃどうにもならないからまず無理だと思ってくれ」
「何ですの、それ?」
「人工心臓の装置の管が皮膚を貫いている部分から、菌が体の中に入ることだよ。重いのだったら高熱が出たりしてそのまま亡くなるし、この場合は甚爾の考えてた移植だって無理だろうね」
希望の情報と希望を打ち消す情報が、同じ男の口から続けざまに出てきた。甚爾はそれを、差し出される順番のまま受け取った。受け取るしかなかった。
帰り際。直蔵は甚爾の腕の中の恵を覗き込んだ。甚爾は反射で腕を引いた。引いた後で、自分の動作の露骨さに気づいて動きを止めた。
線の細い男の半分包帯で隠れた眼差しは空中で一度だけ迷って甚爾に何か言おうとしたようだったが、結局どこにも着地しなかった。
ドアが閉まる寸前に菜緒葉が元の綺麗な方の菜緒葉に戻って、そんな兄を愛おしげな目で見上げた。父親でも弟でも妻でも自分でもない相手を、菜緒葉は家族として処遇していた。その横顔が、甚爾の思考にしばらく焼きついた。それを見ている自分がどういう顔をしていたのかは、甚爾にはわからなかった。
でもまあ、良かった。
これでどうにかなるかもしれない。
けれども信じきるほど、次に来る最悪は酷くなる。それも禪院の家で何度も経験した。
安心と不安が綯交ぜになったまま、恵を抱えてベランダへ出た。色鮮やかに咲く花に水をやろうとして、ふと、ある思考が心臓を掴んだ。
——最初から、こうしておけば良かったんじゃないか?
禪院家は信用できない。その判断自体は間違っていなかったはずだ。だが、菜緒葉に隠し通そうとしたのは正解だったのか。
妻はそれを望み、自分も同意した。あの腐った家で毅然と立つ菜緒葉にとって、自分たちは頼れる大人でありたかった。
で、得意技を活かして人まで殺して来た訳だが──投薬治療をしていた時期に菜緒葉に洗いざらい全てを打ち明けておけば、別にこんな手間は要らなかったのでは?
結局世の中、いい感じの術式のある人間が勝つのでは?
菜緒葉に何を言われても辛うじて平気だったのは、菜緒葉に相談してもどうにもならないと考えていたからだ。
それから、妻のことを考えた。
──アイツを殺しかけてるの、やっぱり俺だな。
濡れた色鮮やかな花を見つめながら、確信した。今度の確信は真実だった。
◇
補助人工心臓の装着手術の前日、直蔵が1人で病室に来た。直蔵は妻に頭を下げた。妻は初めて会う夫の親類の全身を彩る包帯については何も訊かなかった。彼女の観察眼はいつも、他人の触れられたくない部分に触れないために用いられる。
「奥さん、初めまして。直蔵っていいます。菜緒葉の兄です」
「あ、はい。……えっと、ご丁寧に。お話は伺っています」
「いやいや。菜緒葉が泣いてうるさかったんで、しゃーなしですよ」
直蔵は冗談めかした態度で笑った。初めて見るような表情だった。
「あの菜緒葉ちゃんが?」
「滅多に泣かないんで、断れないんですよ。あいつが泣くと俺、本気でビビるんで」
「ふふ。可愛いお兄さんですね」
「うわ、それは違いますよってば。俺は単に妹の機嫌取らないと家にいられないクズなんで」
妻はもう一度笑った。笑って咳き込んだ。直蔵は咳が止むまで黙っていた。
「で、奥さん。これから何回かに分けて、奥さんの心筋の傷んでる部分、俺の方に引き取れるか実験します。呪術で」
「……それってあなたは大丈夫なんですか?」
「引き取りの時にダメージ少なくできるんで、まあ大丈夫ですよ。痛いのは慣れてるんで。腕吹っ飛びかけたこともあるし、モツがはみ出たこともあるんで、そんなのに比べたらまだマシ」
「それはマシではないと思いますけど……」
「いやー、奥さん、術師の世界ってそういうとこあるんで全然平気ですってば。でもお医者さんには内緒ですよ?」
直蔵が妻と話す時の調子は明らかに手慣れたものだ。軽口で笑わせ、自虐で警戒を解き、深刻な話を冗談の合間に滑り込ませる。そして医者に秘密でのこの作業があまり褒められたことではないのだということはおくびにも出さない。
禪院家の人間は嘘つきだらけだ。甚爾を含めて。
直蔵は残りの面会時間の殆どを使って呪詞を唱えた。呪術めいた玄雅さはなく、無味乾燥な手術のような手順だった。
「あー……ちょっとだけ吸い取れた気しますけど、細かいところはお医者さんに診てもらってください。
「ありがとうございます、少し息が楽に……」
「礼は菜緒葉に言ってやってください。俺、菜緒葉のためにやってるんで」
「ふふ、直蔵さん、本当にいいお兄さんですね」
直蔵は少し嬉しそうにした。
帰り際、廊下で直蔵は甚爾と恵を見た。甚爾は何も言わなかった。直蔵と話したいことなど一つもない。最も大切な物をこの男に預けていることに嫌悪感がある。妻が良くなったとわかるまでは、礼を言っていいかどうかも判断がつかない。先に礼を言うのは、妻の命を直蔵の手に預けたことを認める動作になる。預けてはいるが、認める段階ではまだない。
「甚爾」
「ああ」
「奥さんいい人だねー。菜緒葉と言い、ああいう明るい雰囲気の子が好きなのか、甚爾」
「……」
「やっぱり禪院家を出てよかったんじゃない?」
声の調子は軽くも重くもなかった。事実を確認する程度の、奇妙に平坦な声だ。見下していた相手への同情と妥協と、しかし謝罪にまでは至らないプライドがこもっている。
「……なんだよそれ」
コイツは今更何なんだ。
腕の中で、恵がわずかに身じろぎした。重さが少しだけ右に移った。その重さゆえに堪えた。菜緒葉の兄で、妻を助けてくれるかもしれない相手を殺す程、甚爾は間抜けではない。打算が殺意を抑えた。打算がなければ抑えていなかったかもしれない。それも自覚した。
直蔵は気まずそうに肩をすくめてからエレベーター前まで歩いて、振り返らずに乗り込んだ。
甚爾は廊下に残った。
恵が目を覚ました。父親の顔をじっと見上げた。父親が今どんな顔をしているのか、甚爾自身にはわからなかった。
翌日の検査で、駆出率は微改善していた。
手術を先延ばしにする程の数字ではなかった。けれども、改善は確かにあった。誤差の範囲ではない、と医師は言葉を選んで言った。
甚爾はその数字を、廊下で殺意を堪えた事実と並べて受け取った。
手術は予定通り行われた。
甚爾は待合室で恵を抱いて待った。看護師が一度コーヒーを差し入れてくれた。飲まなかった。手術は成功した。医師は「予想された範囲内です」と言った。それは「手術自体は」という限定付きの成功だった。
翌々日、妻はICUを出て個室に移った。その翌日、直蔵が来た。
直蔵はベッドの脇に座り、両手を妻の胸の少し上にかざし、2時間ほど呪詞を唱え続けた。甚爾は壁際に立って見ていた。腕の中の恵もそれを見ていた。途中で恵がぐずったが、すぐに眠った。妻も眠った。眠った妻の呼吸は、術前とは比べ物にならないほど深かった。それが手術の疲れなのか、直蔵の処置の効果なのか、甚爾には区別のつけ方が分からなかった。
処置の最後、直蔵は自分の脇腹を強く押さえた。
「……いってえ」
顔を顰めた。甚爾は支えようとした。直蔵は片手を振って制した。
「平気平気。これくらい慣れてるって言ったろ。あとで呪詛師にでも移して攻撃に使うし。術式反転覚えてよかったー」
「……」
「あー、しんど。ちょっと廊下で休んでから帰るわ」
直蔵は廊下のベンチに座って、しばらく動かなかった。甚爾は自販機で水を買ってきてやった。他にやれることは特になかった。直蔵は受け取って、半分ほど一気に飲んだ。それからベンチの背もたれに体を預けて、しばらく目を閉じた。30秒ほどそうしていた。それから目を開けて、低い声で言った。
「甚爾。もし俺が上手くやれれば、海外移植以外の道が出てくるかもしれない」
「……」
「自然回復で人工心臓を外す線だ。普通なら厳しいけど、俺の術式が効けば可能性は一気に上がる」
甚爾は何も言わなかった。直蔵は脇腹をまだ片手で押さえていた。信じていいのだろうか。
「俺なんかに頼るのは不安だろうけど──それでも、他の方法が出てきた訳だし、もう汚れ仕事はやめてくれない?」
「……まあ、そう言うか。そりゃ言うよな」
直蔵もリスクを背負っている。やめると言わないと治療は続けてもらえないだろう。
「言っとくけど、俺は甚爾のためでも禪院の都合でもなく、恵くんのために言ってるんだよ」
直蔵は短く言い切った。
少し息を整えてから、続けた。
「人を殺しに行く暇があったら自分の子をいっぱい抱いてあげな。で、お見舞いの回数も増やせ。──恵くん、か。甚爾がつけた名前だって菜緒葉から聞いたぞ。どうしてそういう名前にしたの?」
答えなかった。それを話す程にはこの男を信頼できない。代わりに軽口で誤魔化した。
「そんな性格だったか、オマエ? もっとしょうもない奴だっただろ。急にどうした?」
「親離れしただけだよ。俺は戦闘要員としちゃヘボだし、父親に名前を覚えられてるかも怪しいけど、優しくてかわいー妹と弟がいるから」
「ふーん」
「ただ、菜緒葉は俺のこと本当に好きだけど、直哉はまだ俺のこと本気で好きになってくれないんだよなぁ」
「……」
肯定も否定もしづらいので、女の愚痴を聞かされる時と同じ顔でヘラヘラ笑って聞いた。この男は父親からの愛に飢えているのだ、とも理解した。父親と同じ術式を持つ弟からの愛情は、さぞ遠くも甘く思えるだろう。
「直哉だいぶ思い詰めてるみたいだよ。しばらく殺しを避けてくれるんなら、直哉にこっそりこのこと打ち明けてもいいかなと思ってる」
「アイツが思い詰めることとかあんの?」
「表面上は普通。俺じゃなきゃ見逃してただろうね」
直蔵は胸ポケットに入れた万年筆に触れながら謎のマウントを取ってきた。いくら暫定恩人とはいえ禪院の男相手に突っ込みを入れてやる義理はないので、黙って聞いていた。
それから、菜緒葉が連れてきたこの男を少しだけ信じてみることに決めた。
術式の行使は数日に一度のペースで続いた。直蔵は毎回憔悴した状態で帰った。それでも妻の心筋の負担は緩んでいるらしく、主治医の反応は良くなった。
そして悩んだ。人を殺さないという道を選ぶのが正しいかどうか。ただ祈るというだけの作業に、甚爾は既に耐えられなくなっていた。人間でいることは、甚爾には少し難しかった。
菜緒葉とは相変わらず気まずかった。
邪悪な方の菜緒葉は普段通りだ。煽って、揶揄って、急所を鋭く突いてはまた離れていく。妙な話だが、その態度が崩れないことは甚爾の支えになりつつあった。
だが、甚爾を真っ当に人間扱いしていた方の菜緒葉の視線は、これまでとは決定的に変わった。妻の前では取り繕うが、その目にもはや無謬の信頼はない。
その日、病院の裏手のベンチがあるだけの小さな庭で、甚爾はベンチの端に座って、ベビーカーのバーを握っていた。恵はその中で、毛布にくるまれて軽く寝ている。ベンチに並んで腰掛けてからも、菜緒葉はしばらく何も言わなかった。
「最近、よく考えるんですの。直蔵お兄様の『転傷』が使えるって、私がもっと早く気づけていたら。お姉様自身が自分の症状を隠さなくて済むくらい、私が大人だったら。一般的な医療と呪術医療の境目がもう少し厳密でなかったら。……だから、何もかもが甚爾くんだけの責任ではないと、私は思ってます」
「……」
甚爾は黙って菜緒葉を見た。
菜緒葉から注がれるその視線は捕虫網のように息苦しく、かつての愛情には蔑みと悲しみが入り混じる。標本箱の中に針で留められた蝶の気分というのを甚爾は最近よく経験するようになっていた。既に死んだ記録への愛だけが、自分には注がれている。
菜緒葉は甚爾を許してはいない。許してはいないが、責めるのもやめたいのだろう。そんなことは、どうせできない癖に。
無理やりに作ったような明るさで、菜緒葉は話し始めた。
「そもそも呪術医療がもしもっと一般的だったら、こんなクソみたいなことにはならなかったんじゃありません?お医者様にかかるみたいに、術師の手当てが普通に手の届くものだったら良かったのに」
「たしかにな。だが術師の数が圧倒的に足りねぇ。呪術の存在が公開されたら、呪霊も更に増えて手が回らないんじゃねえの?」
「でも、呪術師を増やせるかもしれない方法なら私の手の中にありますわ」
その言い方は子供の戯言というよりももう少し切羽詰まっていた。少し危うく感じた。
もう何もかも全部俺が悪いってことでいいだろ。現実逃避はやめろよ。そう思った。
「……無茶なこと考えるなよ。呪術規定を無視したら、お前が家族にどんな目に遭わされるか」
完全に忘れかけていた大人のフリを引っ張り出してきて、言いかける。
しかしその言葉は真っ直ぐな子供の瞳で切り捨てられた。
「それは私の都合の話で、病気になった人の都合とは一切関係がありませんわよね?」
菜緒葉は立ち上がる。初夏の日差しの中で、蝶の模様の着物に織り込まれた銀の糸が光っているのが、やけに鮮明に見える。
「お姉様だけじゃないんです。何十万人ものごく普通の人たちが、普通の医療では力及ばずに亡くなっています。呪霊が殺す数よりいっぱいだわ。それにね、昨日直哉と仲直りをしたときに言われたんだけど──もしも呪術師の数が増えたら、呪霊の誕生する数だって減るんじゃない? 呪霊を生み出すのは、非術師がコントロールしきれない負の感情なのだから」
甚爾は素直に考えてみた。
菜緒葉の言う新世界。呪術医療が当たり前になる世界。呪力を扱える人間がそこかしこにいるような世界。そういう世界に、甚爾みたいな男がぽつんと混じっていたとして──
その世界では、甚爾を猿と呼ぶ人間が、確実に今より増える。
それが、ぼんやりとした結論だった。
今の甚爾の周りには呪術師なんていない。呪力を持たないということが目立たない場所で、甚爾は普通の男として息ができている。
菜緒葉の新世界はそれを反転させる。檻の中の猿を眺める見物人の頭数が増える。もしそういう世界だったら、妻ももっとマシな男を選んでいただろう。
そんなことを考えていると、菜緒葉は急に妖艶な顔になって──
「勿論その新世界では、甚爾くんにもちゃんと呪いをあげる。その世界の甚爾くんは透明なんかじゃなくて、おまけに魔法少女みたいに誰からも愛されてかわい…………くはしませんわよ! そこまでの過激思考ではありませんの、私はね」
言葉の途中ですぐに健全で楚々とした顔に戻った。
菜緒葉は誤魔化すように口角だけを器用に上げ、ベビーカーの中の恵を覗き込む素振りをする。甚爾は何も言わずに、菜緒葉の横顔を見た。
自分を愛する者も自分を愛した者も、全部壊れてゆくのではないかという直感が、再び繰り返された。
◇
妻の発熱は、その数日後のことだった。
行間で直哉と菜緒葉がサクッと仲直りしてますが、ここはお兄ちゃんが裏で滅茶苦茶頑張りました。ちょっと構成ミスったかもですが2、3話後で説明入れるつもりです。
真男佳にNTRれかけたお兄ちゃんが学んだのは、父親ポジションからの承認はいくらでも代替可能で、ついでにお兄ちゃんポジションの再奪還も頑張れば可能かもしれないということでした。彼は甚爾とは対照的に、今人生で最もいい空気を吸っています。