音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
妻が熱を出したのは手術から1ヶ月が経つ寸前、『転傷』による施術を5回済ませて、数値に大幅な改善が見られた直後のことだった。
患部を覆うガーゼに薄く黄色いものが滲んでいた。透明とも言えないし、膿とも言い切れない、その中間の色だった。
医者は、皮下のトンネルを菌が遡って人工心臓の装置の本体にまで達している可能性を説明した。培養の結果が出るまで広域の抗菌薬を二剤同時に流す。細かい名前は頭に残らなかった。
直蔵が警告していた合併症だった。
甚爾にできることはなくなった。祈るしか方法がない、というのは、何もできないということとほぼ同じ言い回しだ、と甚爾は今になって理解した。
抗菌薬は効果を示さなかった。
いや、効果はあったのかもしれない。けれども効果が出るより早く、菌の方が血流に入った。妻の体温は40度を超え、それから39度に落ち、それから上がりきらないまま37度台で揺らぐようになった。心拍が速い。呼吸も速い。血圧が、医者が嫌な顔をする数字で停滞している。
ICUに移すかどうかの話を医者は持ち出した。移すべきだと甚爾は思ったが、妻が必死な顔で首を横に振った。こんな状態でなお、自分で決めた。ICUに入れば面会は不可能になるからだ。昇圧剤の点滴は個室のベッドサイドで継続することになり、看護師の出入りが増えた。酸素マスクが妻の鼻と口を覆った。
主治医は廊下で、「ご家族にお会いいただける時間は意識のあるうちに、なるべく取っていただけると」と言った。穏やかな口調を保とうとして失敗していた。
看護師が一度、恵を抱いた甚爾を見て、何か言いかけて怯えを含んだ顔で口を閉じた。本来なら乳児を感染症患者の病室に長時間置くべきではない。それは甚爾も知っていたし、看護師も知っていた。けれども口に出さなかった。口に出した瞬間、この時間が終わってしまうからだった。
菜緒葉には電話をした。通常の面会時間中に親戚の子だと言えば良かったが、敗血症性ショック移行後の終末期面会は別物だ。看護師の出入りが激増し、面会者の選別が厳格化される。菜緒葉と妻の関係は戸籍上のどんな家族関係よりも深かったが、法的・医療的制度は、この関係を一切認識しない。これまで良くしてくれた直蔵によろしく言っておくようにとだけ伝えた。
最期の鮮明な会話は妻の方から始まった。
昼を回ったあたりで、妻の目に意識がぱっと戻った瞬間があった。直前まで朦朧としていたのが、急にこちらを見た。これからしばらく頭が動く、と本人にもわかったらしい。妻は浅く笑った。
「そういえば、お父さんがシクラメン育ててたんだよね」
脈絡のない言葉から、それは始まった。
「鉢でいっぱい。冬になるとリビングの窓のとこにずらーって並べてさ。私、お父さんが水あげるの見るの好きだった。ジョウロがちっちゃいのでさ、子供のおもちゃみたいで、笑っちゃう感じの」
「……オマエから家族の話を聞く日が来るなんて思わなかったよ」
「うん、初めて言ったもん」
一緒に暮らした年数のあいだ、施設に来る前の彼女の本当の家族については聞いたことがなかった。写真の一枚も見せてもらわなかった。それが彼女の選んでいた沈黙だったことくらいはハナから承知で、それは甚爾にとっても都合が良かった。その無言の協定は、今破られようとしている。
「お父さんが私が小学校あがる前に死んじゃって、みんな花どころじゃなくなっちゃった。葉っぱがぐにゃってなって、最後、土に張りつくみたいになるの、シクラメンって。だから甚爾はちゃんと私の花にお水やってね」
「……」
甚爾は頷いた。
声を出すと感情の針が振り切れそうだった。
「……お父さん死んでから半年くらいで、家がカビ臭くなったんだよなぁ。お風呂とトイレからね。お母さん掃除しなくなって、シャンプーが切れててもそのままで、私、固形石鹸で洗ってた。だから嫌いなの、固形石鹸」
倹約家の彼女は、しかし多少高くても絶対に液体石鹸を買って来いと甚爾に指示していた。甚爾は犬のように従い、何も訊かなかった。しかし訊かれたら答えていたかもしれないということに、今初めて気づいた。
本当は知って、受け入れて欲しかったのだろう。それなのに訊かなかったのは、こちらの選択だった。そういう選択を、甚爾は多分何百回もしている。
「お母さんに彼氏ができてから……私、押し入れで寝るようになった」
「虐待?」
「んー、そんな感じ」
男を優先する母親の手で、子供が無理やりに閉じ込められる、という構図を甚爾は想像した。しかし妻は真逆の話を始めた。
「布団持ってって、中に入って、襖閉めて、内側からガムテープ貼って。狭いから安心するんだよね」
「……」
「なんでだろうね、甚爾とおんなじ布団で寝る時と同じ感覚」
今、初めて妻の過去の傷に触れている。甚爾は彼女がガムテープまで持ち出した理由をすぐに幾つか想像することができた。そしてこれまで触れなかったのが自分の側の臆病だったのではないかというあまりにも遅すぎる気づきを、妻の呼吸が止まろうとしているまさにその瞬間に得ている。
少し黙ってから、甚爾は答えた。
「俺の方が押し入れよりいいだろ。……だから連れ帰ったんじゃねえの?」
軽薄そのものの確認。
それ以外にできなかった。
何百回も繰り返してきたであろう愚かな失敗を思い出し、それでも好きな女にとっては自分との出会いが救いだったことを祈るための愚かな試行。
彼女がいなければ甚爾は人間になれなかった。彼女を喪うことについて、発病からの半年近く、考えて考えて考えて。胸を満たすこの感情は、今や愛とは呼べない。もっと醜く腐った気持ちの悪い何かだ。自分と出会ったせいで不幸になり、今まさに死にかけている女にとって、それでも自分が価値のある存在だと信じたいという、狂った我欲。
しかしどんどん細くなっていく枯れた花のような腕で。硝子のような、頼りない偶然で形作られているような儚い体で。
妻は言う。
「どうだろ。怖そうだったし、連れ帰ったら私大変なことになるかもなと思ってたよ。すごく優しくしてくれたからびっくりした」
「優しくしないと死ぬと思ったんだよ。ほら、体の作りが違う」
「死んで良かったんだよ、あの時は。どうしてこうなっちゃったかなー」
苦笑し「しくじった」と言う。言いながら、妻は少し泣いた。
「ねえ甚爾」
しばらく沈黙があってから、妻が呼んだ。
「ん」
「お母さんね。お父さん死んでから、私のこと見なくなった」
唐突だった。
いや、唐突ではなかったのかもしれない。
発熱で頭が混濁する最中でも、話しておきたいことが、彼女の中ではちゃんと繋がっている。
「シャンプー切れてても気づかないし、私がどれだけ悩んでいたかも気づかない。お母さんにとっての私は、お父さんが死んだ時から透明だったの。だから私はね、ずっと、お母さんになりたくなかった」
「……」
「子供できたって甚爾に言った時さぁ、私すごく嬉しくて。でも、怖かったんだ」
「……」
「私が病気になってさ。恵をちゃんと見られない日が増えてきて。なんかね、私、お母さんと同じことしてる気がするの。見なきゃいけない子のこと、見れなくなってるの」
「……お前は違うだろ」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど低かった。
「まっ、違うんだけどさ。違うって自分に言い聞かせ続けないといけないって時点で、もう、だいぶ近くない?」
「……」
「私はずっと透明だったから、本当の意味で人を見るのにも見られるのにも、最後まで慣れなかった。甚爾は私を見ようとしてくれたけど……なんか、ごめんね。失敗ばっかりで」
「俺こそ悪かったよ」
絞り出した声は、妻に届いたかどうか怪しかった。
「ううん、悪くないよ」
世界で一番愛しい女は答えた。
「ただ、しんどかっただけ。それでも一緒にいたかった。それだけが本当」
「……」
「あとね、甚爾。あれ言っとかなきゃ。今のうちに——」
「……」
「あれ、なんだっけ」
「……」
「思い出したら、また」
それが最後の会話になった。
その夜、妻の血圧がまた一段下がった。
主治医は短く厳粛な説明のあとで「鎮静を入れます」と言った。譫妄が出始めている、苦痛も出ている、ご本人のためです、と。甚爾は頷いた。頷くこと以外、医者に向かってできることはなかった。それから妻は最後まで一度も意識を取り戻さなかった。
妻の最期の言葉は恵や菜緒葉を気遣うものですらなかった。
ただの、呪いだった。
甚爾は、自分が一体何なのかがわからなくなった。
◇
人は誰かの心の中に鏡像を結ばない限り、そこにいないのと同じだ。甚爾は多分、禪院の家にいた頃には辛うじて双子の中にいただけだった。けれども妻と出会った。彼女が明るく微笑んでくれて、欠落を赦してくれて、ようやく自分を見つけられた気がした。けれども今はよくわからない。
彼女の何も知らなかった。
知らずに世界で一番大事だと思っていた。
知らずに子供を作っていた。
知らずに「人間にして貰った」と感じていた。
本物の彼女のことを最後の最後まで知らないまま、彼女のためと自分に言い聞かせて他人の子供を殺した。
彼女に少しの傷もつけないように丁寧に触れていたその間、本当に彼女は傷ついていなかったのだろうか。
ぽっかりと空いた心の空洞は何によっても埋まらず、ずっとぐるぐると地面が回るような感覚がして、立っているのも座っているのも辛い。
愛情をこめて妻に触れた全ての瞬間の中で、本当に彼女が傷ついていなかったのかが、よくわからなくなった。
裏切られたような気もするし、単に自分が最低だっただけのようにも思う。
甚爾は彼女を救えなかった。
全てにおいて失敗した。
そう悟った瞬間、甚爾の中で何かの糸が切れた。
◇
病院で薦められるがまま、葬儀は小規模な家族葬にした。通夜は省略し、告別式のみ。宗派は適当だが、戒名はとりあえず文字数が多い物にした。聞いた話では、多ければ多いほど仏としての位が高いことになるらしい。
知り合いは夫婦2人とも全然いないので、とりあえず菜緒葉とその弟だけ呼んだ。兄の方も呼ぶべきだったかもしれないが、呼びたくなかった。動機は嫉妬と独占欲だったと思う。呪術によって彼女を救いかけた男を、自分と彼女の間にこれ以上介在させることには耐えられなかった。弟の方にしても別に来るとは思っていなかったが、意外にも焼香に来た。妻は直哉に会いたがっていたから、喜ぶだろうか。いや、彼女は死んだ。甚爾は死後の世界を1ミリも信じていない。
葬儀の手続を甚爾が一人でしたことについて菜緒葉は何故だか半信半疑のようで、色々訊かれた。全部を素直に答えると、菜緒葉は庶民的な答えを返した。
「あーあ、ぼられてますわよ、それ」
「別にいい、金ならあるから」
人を殺して稼いだ無駄な金が。
告別式の最中の菜緒葉は時々酷く泣いたが、概ね笑って送り出そうと努めていた。一方で、甚爾を責めてもいるようだった。甚爾がもっとちゃんとしていれば妻は死ななかったと、菜緒葉はそう思っているに違いない。絶対そうだ。遺影は事前に妻が選んだものがあったが、あまりにも普段の彼女と違ったので、結局別のものにした。一番高価なプランを選んだ結果の夥しい量のカサブランカの花について「ええんやない?」「でしょ?」と双子がどこか親しげに話していて、2人揃って仲良く父親の言いつけを破って来たんだと言うことは容易に推察できたが——それについても別にどうとも思わなかった。双子の喪服を親切にもこっそり用意したのは扇の妻らしいが、そんなことさえもどうでもいい。
ただ、火葬場へ向かう車の助手席で揺られながら、自分の手の中に収まった白木の仮位牌のディテールだけが妙に視界の中で精細で、愛する女の亡骸だけがどうして単なる物体に思えないのかを考えていた。
本音を言えば焼きたくなかった。墓にも入れたくなかった。土の下に置き去りにするなんて耐え難かった。
銀色の分厚いエレベーターの扉のような火葬炉の前に辿り着いた後も、最後の焼香なんていうアホ臭い真似を目前にして——もしもやっぱり妻を焼くのをやめてくれと懇願したら、坊主が一体どんな顔をするのかという狂った衝動に駆られていた。
「……甚爾くん、焼香のやり方忘れてもうたん?」
後ろから恵を抱いた直哉に囁きとともに突っつかれるまで、ずっと立ち尽くしていた。
葬式中なので流石に表情は悄然としているが、どこまでも生気に満ちたガキを見下ろしていると、非常に良くない気持ちが込み上げてくる。どうしてコイツの心臓はまだ動いているのかと思えてくる。ただ、直哉が恵を不器用に抱え直すのを見て、拳を握りしめるに留めた。この子供がかつてはトテトテーっと走って来て、自分の虚像に憧れを寄せてきていたのだということを思い出しながら、大人しく焼香をした。
火葬の待ち時間、控え室には茶と茶菓子が用意されていたが、誰も手をつけなかった。
甚爾の代わりに、直哉が彼の荷物から勝手に引っ張り出した絵本の読み聞かせをしていた。しかし感謝を示す元気すらない。そもそも「アイツが死んだのにどうして俺と恵が生きてるんだ?」という問いだけが脳内で無限に繰り返されていた。
菜緒葉は甚爾の隣に静かに座った。そして自分が看取れなかった最期の話を尋ねてきた。甚爾は幾つか本当のことを言い、幾つかいい加減な嘘をついた。最後の会話は誰にも言いたくなかった。菜緒葉にとっての彼女は、聖女然とした明るい女のままにしておく。
菜緒葉は静かに聞いた。最後まで聞き終えてから言った。
「……意識が混濁していて、痛くも苦しくもなかったのなら、それだけは救いだったのかもしれませんわね」
菜緒葉が自分に言い聞かせるように呟いた言葉を甚爾は即座に拒絶した。
「……俺は、もっと話したかった」
「それは、私もですわ」
菜緒葉の横顔には、甚爾の身勝手さを憐れむような、けれど同じ痛みを知る者としての沈黙があった。彼女は手首に巻かれた数珠の粒をなぞり、絞り出すように言った。
「気を落としすぎないで、甚爾くん。恵くんにはあなたしかいないんですから。しっかりしてください」
その真っ直ぐな励ましは今の甚爾の鼓膜を滑り落ち、何一つ心には響かなかった。
「……でも、俺とのガキなんか作らなきゃ、アイツはまだ、笑って生きてたのにな」
独り言のように漏れたその言葉に、部屋の空気が凍りついた。菜緒葉は答えなかった。ただ、今まで見たこともないような、激しい憤りを含んだ瞳で甚爾を射抜いた。
その緊張を破ったのは直哉だった。
「姉さん、オムツの替え方わからん。……助けてくれへんか」
日常の延長線上にある傲岸な平熱だけが宿る声だったが、当人なりに空気が悪かったから話を変えたつもりなのが甚爾には分かった。直哉はこの種の場の空気を変えるのが下手で、変えるたびに別の悪さを呼び込む子供だった。
菜緒葉は盛大に顔をしかめた。
「……あー、はいはいはい。直哉、あなたって子は本当に手がかかりますわね。恵くん貸して。授乳室に行ってきますわ」
吐き捨てるように言って恵を受け取ると、彼女は甚爾を一度も振り返ることなく部屋を出て行った。
直哉は机に頬杖をついて、どこか酷薄な笑みを浮かべながら甚爾を見た。
「……で、どうすんの? 奥さん亡うなって、乳飲み児抱えて、男でソレはキツいやろ」
「決めてねえよ」
答えた瞬間、直哉の笑みは消えた。
「なら今決めろや。どうすんのって聞いてんねんけど」
真顔で直哉は問う。
これまでの甚爾は「直哉は本当はすごくドブカスなんですのよ」と菜緒葉に言われてもあまりぴんと来ていなかった。甚爾の前での直哉はいつも従順で無害な子供だったからだ。直哉からの好意は女中からの好意に類するもので、文字通りにたわいなかった。そう思うことで、恵まれた相伝持ちの子供への苛立ちを抑えていた。
だが、今になって初めて理解した。
これは普通の子供ではない。何かが決定的に欠けている。
直哉はどこか澱んだ目と、冷めた声で言い始めた。
「あのな、甚爾くん。一回、禪院に戻り。……取り柄のお顔はしょぼくれて惨めやけど、まだ強いんやし。ムカつく奴全員ぶっ飛ばして、今度こそウチの王様になって、恵くんのお世話は女中にやって貰ったらええんちゃう?」
直哉は明日の天気でも話すような軽やかさで提案してきた。満月のように輝く瞳も、見るからにいたいけな頬の紅潮も、かつての一切の面影が消え失せている。
こんな奴は知らない。
「……その時はオマエもぶっ殺すぞ」
そう言っても、目の前の子供の反応は変わらなかった。
「俺がおったら前みたいに一方的にはならへんよ。殺し合うのが楽しみやねぇ。台所の時みたく今度は風呂場もぶっ壊して貰て、ジャグジー付にリフォームしよっか」
流血の未来を直哉は澄まし顔で語るだけだった。
「俺もここ1年でちょっぴし人望出てきたんやけど、ぶっちゃけダルいねん。甚爾くんが当主ならええのになぁ。俺が頑張って、俺の望むような形の家にするより万倍早い」
「身内の術師の命に興味がないのか?」
「はぁ? 甚爾くんがそれ言うんか? 笑える。てか、男なら死んだら死んだで終いやろ。弱い己を怨めばええんちゃう?」
「……オマエは禪院をどんな家にしたいの?」
「他人が強くなるのを邪魔せーへん家」
「菜緒葉はお前より強いのに昇級ナシで、友禅しかもらってないもんな」
「せやね。だから甚爾くんが壊した方が早いで。なんで前の時にそうしなかったん?」
直哉が依然として自分を好いていることだけは、今の甚爾でもわかっていた。冷めた表情に騙される鈍さは甚爾にはない。しかしその異常な発言を好意として受け入れる余裕があるかと言えばまた別だった。
直哉の提案は論外だった。
禪院の人間を皆殺しにしたいなんて思ったことは一度もない。あんな家のことは思い出したくない。ひたすら忘れたい。戻りたくない。
——しかしそう冷たく切り捨てる寸前で、恵を抱いた喪服の少女が控え室に再び顔を出した。
彼女は弟の妄言に怒り狂う——ことはなかった。
「甚爾くんが当主は流石に無理ですわよ。我が家が御三家から外されておしまいです」
泣き腫らした目のままだが、どこか冷静だった。より暗く、より生々しく、呪霊を前にしている時のような妙な気配のする方の菜緒葉だ。時々出てくるけれども普段の菜緒葉とは全く性格が違う、たまに未来予知をする化け物。主に魂の知覚によって見分けられる彼女を、甚爾は勝手に悪霊と呼んでいた。自分がストレスを与えすぎたせいで人格が入れ替わったのだと甚爾は認識した。しかし直哉がどこまで姉の分裂を認識しているかは知らないので、いつものような悪霊扱いは避けた。
以前ならばこちらの菜緒葉に長々と恵を抱かせておく気にはなれなかった。だが、結局我が子を自分の罪の結晶だとしか思えない感情と、善良な方の菜緒葉との現在の折り合いの悪さが、それを許容させる。
闇の菜緒葉は賢いので、きっと弟をたしなめる。そして自分をそっとしておいてくれるはずだ。それでいい。
「え、甚爾くんなら悟くんより強いから大丈夫やない?」
馬鹿な確信を宿して言う弟に対し、菜緒葉は腕の中の恵をあやす手つきをわずかも崩さない。
「そういう所はまだ子供ですわね、あなた。まあしょうがないか。実際子供ですもの」
だが、そのまま黙って聞いていると、彼女まで面倒なことを言い出した。
「恵くんを当主候補として迎え入れて、甚爾くんには保護者役をしてもらうという方がずっといいんじゃない?」
指先で恵の背中を一定のリズムで叩き、半ば伏せた瞼の下から、子守唄を口ずさむのと変わらない柔らかい節回しで、未来を割り振った。母性に最も近い距離で行われる動作と、甚爾の人生を勝手に組み替えようとする提案とが、何の摩擦もなく同じ口から出てくる。
姉弟揃って正気の沙汰ではなかった。
「……いい加減にしろよ。術式もまだわかってない、俺の子だ」
自分の子など連れて行っても、事故などに見せかけて殺される未来しか見えない。しかし菜緒葉は少し同情するような調子で、首を横に振った。そして恵をあやしたまま、悲しみに倦み疲れた目だけを甚爾に向ける。
「あなたの息子は十種影法術に目覚めます。私達禪院の人間が数代求めてきた、至宝ですわ」
菜緒葉ははっきりとそう断言した。
術式の有無や内容がわかるのは早ければ4歳前後、遅くて6歳。だから彼女の言葉には何の理屈も通っていない。無根拠な誘惑だ。
しかし、真実なのだろう。
ほかならぬこの悪霊女が言うのだから。
「……だから禪院家に戻ってきなさい。最終的には、甚爾くんには誰も逆らえなくなる」
先に結論があり、そこへ向けて全ての要素が逆算で配置されたような言い方だった。退屈なほど落ち着いた確信に満ちていた。実質としては子供が子供なりに一生懸命に考えた「いい方法」でしかないが、彼女なりに甚爾を気遣っている気でいるのはわかった。
その言葉が導出する光景に甘美な何かを感じなかったと言ったら、きっと嘘になる。自分とそっくりな顔をした人間に自分を貶めた人間達が跪くのは、きっと愉快だろう。あの家の頂点で立派な相伝の術式を持って暮らすのは、きっとそれなりに気持ちがいい。家を半壊させて出て行った夜、玄関で振り返った時に足元にあった衝動の延長にその感情はあった。
だが——恵が本当に全てを手に入れるなら、自分はその瞬間にこの子を殺すだろうと思った。
まだ何も知らない我が子が、甚爾は今、はっきりと憎い。甚爾が妻を傷つけて、その結果生まれた甚爾の分身が、甚爾の絶対に持てなかった物を持っている。術式を持っている。甚爾だって術式が欲しかった。別に大それた相伝でなくてもいい。『転傷』が欲しかった。妻を救える力が欲しかった。それなのに結果はこれだ。何もかも、妻の命と引き換えの結果のようにさえ思えた。
そしてこの感情は永久に薄まらないということも、同時に自覚した。これまで甚爾の中で立ち上がってきた醜い感情を、妻はその場にいるだけで昇華させてくれた。妻のいない世界で立ち上がったこの感情を消し去る手段はない。
ただ、それでも。
自分と違って妻をきちんと救うことのできていた菜緒葉の兄は、恵の名前の由来を尋ねてきた。
教えなかったけれど、ちゃんとまだ覚えている。
だから絶対に頷くわけにはいかなかった。
「葬式に来るだけでも直毘人の目を盗んでコソコソしてる癖に、夢物語はやめろよ。そもそも菜緒葉、オマエは直哉のライバルが出てきたら嫌だろ? 忌庫で縛りまで結ぼうとしてたのは、それが理由じゃねえのか。俺一人で何とかする」
きちんと言えた。
マトモな大人のフリ。またフリだ。
しかし双子は視線を合わせ、一緒に悲しそうな顔をしただけだった。それを見て、気がついた。
自分の演技は菜緒葉どころか直哉にすら見破られている。
悪霊の誘惑から逃れるため、甚爾は恵を抱いた菜緒葉の二の腕を掴み、恵を強引に奪い返した。掴んだ瞬間、自分が子供の腕を掴んでいるという感覚がワンテンポ遅れて脳に届く。喪服越しの腕の細さは思っていたよりも何倍も儚く幼かった。
——力加減を間違えた。
菜緒葉は痛みに表情を歪めた。そして同時に、腕に『反転術式』を回した。
そんなつもりではなかった。
本当に、いつもよりぼんやりしていて、力加減を間違えただけだった。
菜緒葉は俯いた。俯いた彼女の口からは、男のような口調が漏れた。
「……いい加減にしろよ。0歳児の存在を否定したかと思いきや、今度は女の子の腕折るとか流石にクソすぎるだろ。自分が何やってるのかわかってんのか?」
人格がまた入れ替わった。
息子を抱えたままの甚爾を、菜緒葉は灼けつくほどの眩しい瞳で見上げる。
「直哉はこんな時に非常識な話をしすぎだし、こっちにも悪い所は沢山あったけど……お姉様のお骨も、まだ拾ってないのに──」
菜緒葉は口調が変わる程に怒っていた。
腕を折られて怒らない方がおかしい。
甚爾は恵を抱いたまま、一歩後ろに下がる。
今、自分の人生の最低値を再び更新した。
いい加減もう限界だった。
「悪かった。オマエにこんなことするつもりじゃなかった」
謝罪の声が掠れた。
菜緒葉は泣きそうな顔で、冷たい言葉を返しただけだった。
「
「……」
その視線が驚く程の怒りに燃えていたので、考えないようにしていた仮定が初めて追いついてきた。軽い吐き気を覚える。もしも菜緒葉ですらも偽物だったなら、甚爾は菜緒葉を喪うどころか、初めから得ていなかったことになる。妻に対してそうだったかもしれないのと同じように。
しかし呪詞のようなものを小声で唱えた後、菜緒葉の視線は再び柔らかくも邪悪なものに変わった。
「██████──嘘嘘。そんな訳ないでしょう。ごめんね、甚爾くん」
「……」
「私の魂は実のところ、禪院家に『適応』するための術式の副作用によって抑留されたものなの。サイテーな禪院家に適応するための悪の人格だから、いかにも禪院って感じのドブカスな性格なんですのよ。ごめんなさいね、甚爾くん。こんな時に混乱させること言って。そんな顔ばっかりさせて」
「……」
「でも、本当の私は相当怒っているようなので、しばらく寝ててもらいますわ。お姉様を笑って送り出すって言ってたのに、バカな子。ただ、甚爾くんも今後は気をつけてね。私を殺したら善良な方の菜緒葉ちゃんも死んでしまいますのよ」
「……」
「だから、可哀想な菜緒葉ちゃんを助けてあげて」
泣きそうな顔のまま、菜緒葉は邪悪に笑っていた。甚爾はこれまで「悪霊」と呼んでいた目の前の存在についての
甚爾は思わず、直哉を見た。
直哉はただ単に、未だかつてなく冷え切った表情でこちらを見ているだけだった。姉に取り憑いた何かが甚爾を脅しているというのに、茶番劇でも見ているような態度だった。コイツもこんな顔できたんだな、と少しだけ思い、そして甚爾はまた一つ失った。
直哉は静かに言った。
「菜緒葉ちゃんがしょっちゅう引きこもってる理由、今度こそようわかったわ。ごめんね」
すると、術式によって編まれたはずの危うい怪物は涙を流した。
直哉は姉を乗っ取っているソレを、姉の体ごと躊躇い交じりに抱擁した。
すると怪物は、告別式の最中と同じくらいの心許なさで、声を押し殺してしゃくりあげ始める。
甚爾はその理由に思い至る前に、思考を続けられなくなった。自分の腕の中の、どうやって愛すればいいのかがわからなくなった息子の顔を見下ろした。菜緒葉が自分の腕の中で泣いてくれる場面を、甚爾は多分どこかで想像していた。想像していたことに、今この瞬間に気づいた。
泣き声は思ったよりも長く続いた。
もう死んでしまいたかった。これ以上菜緒葉の泣く声を聴くくらいなら死んでしまいたいと、本気で思った。この声を聴かないで済むのなら殺してくれて構わないと、心の底から願った。
◇
骨を拾う時の菜緒葉がどちらだったのかは、よく覚えていない。
◇
帰路にはタクシーを使った。骨壷の入った箱を袋に入れて片手に持ち、もう片方に子供を抱くというのは、憚られる気がした。
何にだろう?
憚る世間はなくなった。
神も仏も信じていないし、極楽も地獄もないと思っている。
葬儀を執り行ったのは、それが彼女を愛し尊んでいたという証になる気がしたからだが、この体たらくではよくわからない。
玄関に置いていた写真を棺に入れて焼いたのは失敗だった気もする。当初妻が選んでいた遺影用の写真だけを出しっぱなしにしていたのを、帰ってから思い出した。化粧が濃く、明らかに作り笑い。それでも当人の選択だったものを退けた。退ける資格があったのかどうか、もう確かめようがない。
家に帰って最初にしたのは四十九日までの後飾りの祭壇をだらだらと飾ることだったが、恵を構ったり、ぼんやりと妻の私物を手に取ったりしていると、数時間経っていた。そう難しい作業でもないのに遅々として進まない。
片手で恵を構いながら線香立てに灰を入れていると、結構な分量が零れた。それを見下ろしながら、別れ際に直哉が小さく言ってきた言葉を思い出した。
「正直これ以上菜緒葉ちゃんを刺激したくないので、四十九日を最後に、菜緒葉ちゃんは甚爾くんのとこにはなるべく来させへんことにします」
「……うん」
「代わりに俺がコッソリ来たるから。でも奥さんのお花とかはなるべく菜緒葉ちゃんに分けたげてね。今の甚爾くん、絶対枯らすやん?」
──思う所は色々あったが「別に来なくていいよ」とは言わなかった。姉に怪我をさせた男に対しては温情のあり過ぎる程の措置だと理解する程度の理性は残っていたからだ。
それより、自分は本当に花を枯らして、子供を虐待する人間になるのだろうか、ということの方が気になった。そうはなりたくないが、なる気がする。なる気しかしない。絶対なると思う。喪服越しに掴んだ菜緒葉の腕の細さが、指先の記憶に被さってくる。骨が折れるか折れないかの境目を、自分は数時間前に越えた。乳児の腕など、もっと軽く越えられる。抱いているのが怖くなり、ベッドに下ろす。このままでは、そのうち子供を殺して新聞の記事に載るのが目に見えている。
いや──深く考えるのはよそう。嫌なことは全部忘れよう。どうせ思考の負荷にしかならないのが目に見えている。最近何を考えても頭の中にゴミが詰まっているようでいまいち上手くいかないので、きちんと頭の中を整頓しなくてはいけない。整理整頓さえ済めばもう少しマシになるはずだ。呪力がない分思考を巡らせなければいけないとは常々考えているが、それを人生で初めて褒められたのは、出奔するほんの少し前のことだった。「甚爾くん天才!」とかわいらしい声で歓声を上げていたのは──誰だっけ? まあどうでもいいや。自分に残った物についてだけ考えるべきだ。
と言っても、尊ぶべきだと思っていたモノは全部自分で壊した。
手元にはもはや碌なモノが残っていなかった。
骨。恵。花。呪術師を殺した罪。
1つ目はもう妻ではなかった。話さないし笑わないし子供を抱くこともできない。甚爾がそうしてしまった。
2つ目は大切にしなくてはいけないが、大切に思えなくなってきた。自分は最期に妻が恐れていたのと同じ存在になっている。
3つ目は菜緒葉に任せればいい。彼女ならどうせ、甚爾よりも何倍も美しく咲かせ続けるだろう。
4つ目は本音を言えば楽しかった。最中は嫌だったはずだが、何の意味もなくなった今では微かな快楽だけを思い出す。他人の瞳という鏡に囚われる行為を呪縛と呼び直すならば、甚爾はあの日生まれて初めて呪術師達から「正しい呪い」を受け取れる位置に立った。こちらを見下してきた相手が本気でこちらを呪ってきて、しかし最後は死んで行った。甚爾は相手の裏をかくのが得意なのかもしれなかった。綺羅星のような才能が碌な使い道のない金如きのために奪われたというのは、呪術師の側からすると、一体どんな気分だったのだろうか。呪術師が何を考えているかなど甚爾の知ったことではないが、決して残虐だと思わないでほしい。非術師というのは誰しも呪術に対しては無力なのだ。だからこそ知恵と暴力で立ち向かうしかない。それは地味な作業と手順の絶え間ない繰り返しだけれども、紙を42回折り続けると月にまで届くらしい。紙を折っている間は、恵を思い出す暇もないだろう。
そして呪術界はその果てに甚爾を
──悪くない。
線香の火を点けた。
煙が一筋立ち上った。
四十九日を終えたら、全部捨てよう。
そう決めた瞬間、数ヶ月ぶりに息がしやすくなった。