音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?!   作:ポ予

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かの有名な「俺は天才なんやって⭐︎」にエンカウント?!

 甚爾くんと仲良くなる作戦は着実に成果を上げていた。世間話くらいなら付き合ってくれるし、俺の作る飯も食べてくれる。腕立て伏せの方はといえば、呪力で筋力を増強してもなお、現在57回が限界だった。500回には程遠い。でも毎日やっている。進捗を報告すると甚爾くんは決まって鼻で笑うが、俺たちの関係は野良猫の餌付けと同じようなものだ。気長にやっていくしかないだろう。

 

 今日も弁当箱の包みを抱えて、屋敷の奥へ向かう。中身は昨夜仕込んだ鯖の味噌煮と、術式で繊維レベルまで甘みを調律した大根の煮物。甚爾くんが躯倶留隊の人と大喧嘩をしたらしく、厨房には「甚爾には食事を出すな」という指令が来た。だから、俺がこっそり持っていくことにした。我ながら会心の出来だと思う。

 そして、渡り廊下を曲がった瞬間だった。

 

「あーっ! 出涸らしの菜緒葉ちゃん!!」

 

 聞き慣れた声が響く。振り返る間もなく、小さな手が俺の空いている方の手首を掴んだ。

 そこにいるのは直哉だった。息を弾ませて、目をきらきらさせて、俺の手を握ってくる。俺のより断然上等な着物と袴。小学校には行かない代わりに自宅学習+ピアノのお稽古(音MADだといつも足で弾いてるやつ)、そしてお父様に訓練をつけてもらったり仕事へ着いていくという理想のおぼっちゃま生活を送っているクソガキと、一日中厨房にいる俺とは、滅多に関わらない。術式覚醒前の菜緒葉ちゃんは毎日寝る前に直哉の顔を見に行ってたようだけど、俺は絶対無理。4時起きだから早寝したいし、そもそもこいつと一緒にいると自分の境遇が惨めに思えてくる。

 でも、そんなことは直哉の頭にはないのだろう。

 

「ちょうどええとこにおった! なぁなぁ、聞いて聞いて!」

「ちょ、直哉、お弁当が──」

「ええからええから! こっち来て!」

 

 引っ張られた。

 直哉の握力は6歳児のそれとは思えないほど強い。さすがは天才、基礎身体能力からして違う。俺は弁当箱を落とさないよう必死に抱え直しながら、半ば引きずられるように廊下を走らされた。

 

「ちょっ、直哉、待って、走らないで──!」

「はよはよ!」

 

 直哉は振り返りもしない。ただ俺の手をぎゅっと握って、まっすぐ前を向いて走っている。その横顔が、あまりにも楽しそうで──一瞬だけ、胸の奥の菜緒葉ちゃんが涙を流している気がした。昔は毎日こうしていた。二人並んで庭を走り回っていた頃が、たしかにあった。

 

「なぁ聞いてや菜緒葉ちゃん!」

 

 走りながら直哉がまくし立てる。

 

「俺は天才なんやって!」

「…………知ってますわ」

 

 滅茶苦茶気に食わないが、実際この家ではみんなそう言っている。ライバルの五条家ではものすごい神童が爆誕したのに、今代に生まれた我が家の子はみんな弱い──大人たちが渋い顔でそう話していた矢先に、直哉の相伝の術式が発覚した。もちろん、五条の神童の数百年に一度の特級の才能には叶わない。だけど、将来一級術師になれるのは間違いなし。だから皆大喜びしているのだ。

 

「皆言っとる! 父ちゃんの次の当主は俺やって!」

「……………それも知ってますわよ」

 

 だが直哉は俺の返事なんか聞いていなかった。自分の言葉に自分で興奮して、ますます足が速くなる。

 

「でなでな、禪院家には落ちこぼれがいるんやって!」

「落ちこぼれ?」

「うん、……なんと、男のくせに呪力が1ミリもないんやって〜!」

 

 直哉は走りながら声を潜めた──つもりなのだろうが、興奮で全く潜まっていない。廊下中に響き渡っている。

 

「どんなショボくれた人なんやろ! どんな惨めな顔しとんのやろ! なぁなぁ、菜緒葉ちゃん、一緒に見に行こ!」

 

 ──出た!

 このシーンは知ってるぞ。ネットミームにされてるんだもん。この後、直哉は想像と正反対の存在にぶん殴られるように衝撃を受ける。

 そしてその名場面が、今まさに俺の目の前で起ころうとしているのだ。

 でも、自分で体験してみると、今の直哉はあまりにもド畜生だった。直哉は動物園に珍獣を見に行く感覚で、呪力のない人間を見物しに行こうとしている。それも、「出涸らし」と呼んでいる姉を連れて。それがどれだけ最悪なことなのか、直哉は自覚すらしていないのだろう。だって、直哉にとっての菜緒葉ちゃんは三歩後ろにいて当然の存在なのだから。

 直哉の手は小さくて、でも力が強い。興奮と好奇心で体温が上がっている。そしてこの手の感触を、菜緒葉ちゃんの体はまだ覚えている。

 そのことが少し悲しかった。

 

「…………直哉」

「何? はよ行こ!」

「お弁当が崩れるから、もう少しゆっくり走りなさいよ。私、このお弁当をその人に届けにいく最中なんですのよ」

 

 直哉は口を尖らせた。

 

「えー。あんなショボくれた猿のメシ作ってる暇あったら、俺に作ってや」

「会ったことすらない人の悪口言わないの!」

「はぁ? 出涸らしの癖に俺に説教すんなやアホ!! そもそも最近のお前は生意気なんや! 前は俺の修行が終わると毎日俺の部屋に遊びに来とったのに、最近は全然来ぃひんやん」

 

 ……かわいくな!!

 第一俺、厨房で毎日メシ作ってるじゃん。

 それをお前、毎日食ってるじゃん。

 甚爾くんは多分呪力がないことをバカにされて仕返ししたとか、そういう理由で理不尽にご飯を抜かれてて、大変なんだぞ。

 でも直哉もガキだからなぁ。弁当に憧れがあるのかもしれない。

 

「……わかりましたわ。今度、直哉のぶんも作りますわよ」

「ほんまに!?」

 

 振り返った直哉の顔がぱっと輝いた。

 

「ええ、本当です。だからもっとゆっくり走って頂戴……」

「しゃあないなぁ、菜緒葉ちゃんって本当にノロマやねぇ」

「……」

 

 要らんことを言いながらも、直哉は少しだけ速度を落とした。でも手は離さなかった。

 そして、廊下の角を曲がった瞬間、

 

「……!」

 

 世界から音が消えた。

 そこに、甚爾くんがいた。

 呪力というノイズが一切しない、完全なる真空の男。

 

 直哉の足が止まる。その喉が、ひゅっと空気の音を鳴らす。そして直哉は、壊れるんじゃないかと思うほど強く俺の手を握る。

 痛い。

 だが俺は、なぜかその手を振り払えなかった。

 

 直哉の横顔を見る。その表情からはさっきまでのきらきらした好奇心が雲散霧消していた。代わりに浮かんでいるのは俺が初めて見る表情だ。驚愕とも、恐怖とも、侮蔑ともない。自分がずっと信じてきた世界の座標軸が、足元から崩れていく瞬間の顔。恋に似て、しかし恋よりもずっと恐怖と戦慄に満ちた表情。

 ──まるで、神様でも見つけたみたいだった。

 

「……」

 

 直哉は何も言わない。

 いや、何も言えずにいるのだろう。

 

 だから俺は直哉の手を握ったまま一歩前に出て、弁当箱の包みを差し出した。

 

「甚爾様! 昨晩は腕立てを55回できましたわ。あと、鯖の味噌煮と大根の煮物を作りましたの」

「煮物ばっかりだな」

 

 甚爾くんの声は平坦だ。俺の報告にも、隣で石像になっている直哉にも、等しく興味がない。

 だが直哉は、その声を浴びた瞬間から更に体を強張らせた。俺の手を握る力が限界まで強まる。爪が掌に食い込む。ちょっと痛い。でも、今回ばかりは許してやることにする。直哉の目は、信じられないモノを見るような顔で俺を見ていた。甚爾くんと普通に言葉を交わす俺を。

 甚爾くんは俺が差し出した弁当箱をひょいと受け取ると、俺の隣で固まっている直哉を一瞥すらしないままに言った。

 

「……今日はオマケがいるんだな」

「弟の直哉ですわ。甚爾様にお会いしたい……というか、その、見てみたいと申しておりまして」

「ふん」

 

 見るからに興味のなさそうな反応だ。それ以上、話題は広がらなかった。

 

「……明日は肉にしろ。あと、五十五回じゃ話にならねえ。やるなら百回超えてから報告に来い」

「努力いたしますわ!」

 

 甚爾くんはそのまま、一度も直哉と目を合わせることなく、ゆらりと歩き去っていった。

 その背中が曲がり角を曲がって見えなくなるまで、直哉は微動だにせず、ただ一点を見つめ続けていた。そして──甚爾くんの姿が見えなくなった瞬間、直哉はその場に座り込んだ。直哉の手が俺から離れる。汗ばんだ指が一本ずつ解けていく。最後に薬指が離れて、掌に直哉の体温だけが残った。

 

「……大丈夫?」

 

 俺が声をかけると、直哉の肩がびくりと跳ねた。直哉はゆっくりと俺の方を向く。その瞳は、抗いようもなく偉大なモノを見てしまった熱に浮かされていた。

 

「……なぁ、菜緒葉ちゃん」

「何かしら」

「今の……今の人は、何なんや」

 

 さっきまでの甚爾くんを「ショボくれた猿」とか言っていた傲慢さは、霧散していた。

 

「……甚爾様ですわ。貴方が落ちこぼれと呼んでいた、あの方よ」

「あんなん……あんなん、嘘や」

 

 直哉が、うわごとのように呟く。

 

「あんなんが猿なわけないやんか。なんであんなに……あんなに、強そうなん……パパ以外で見たことない……いや、パパよりも……」

 

 直哉の価値観が音を立てて崩壊していくのがはっきりと見える。呪術が全て、術式が全て。そう教え込まれてきた天才児の前に現れた、「呪力ゼロ」の究極の完成形。音MADで「アッチ側」と叫び続けていた直哉の──これが、原体験か。

 勘づいてはいたけど、俺が面白いメロディとして消費していたシーンの数々は、滅茶苦茶シリアスだったのか。直哉も──もしかしたらただのネタキャラのかませ犬ではなかったり?

 直哉はがばっと立ち上がると、俺の両肩をがしっと掴んだ。

 

「なんで菜緒葉ちゃんはあの人と堂々と喋れるんや! なんでメシ食わせてるんや! 腕立てって何や! 百回って何の話やねん!!」

「ひゃ、ひゃあ! 揺らさないで頂戴、目が回るわ!」

「教えろ! 俺にも教えろ! あの人と何しとるんや!!」

 

 詰め寄る直哉の顔は必死そのものだった。

 さっきまでの「三歩後ろを歩け」という態度はどこへやら。今の直哉にとって、俺は「甚爾という神」に最も近い存在に見えているらしい。直哉が肩を掴む指には遠慮の欠片もなかった。こいつは欲しいものがあるといつだって力づくで奪いに来る。この性根が将来あのドブカスを形成していくのだろう。

 ──だから。

 俺は、直哉の手をぱしんと払った。

 

「嫌ですわ」

「は?」

「教えてあげませんわ」

 

 直哉が目を丸くした。この反応は想定外だったらしい。それはそうだ。思えば禪院菜緒葉は、これまで一度だって直哉の要求を拒んだことがない。

 

「な、なんでや!」

「なんで、ですって?」

 

 俺はわざとらしく首を傾げてみせた。腕を組んで、直哉を見下ろす──いや、同じ身長だから物理的には見下ろせないのだが、気持ちの上では完全に見下ろしている。

 

「だって直哉、さっき私のこと何て呼びました?」

「……え?」

「『出涸らし』。そう呼びましたわよね」

 

 直哉の顔に戸惑いが広がった。何を怒られているのかさっぱりわからない、という顔だ。直哉にとって「出涸らし」は悪口ですらない。空は青いとか、郵便ポストは赤いとか、そういうのと全く同じ感覚で、姉を出涸らしと呼んでいる。

 

「出涸らしの私が天才の直哉にモノを教える義理はありませんわ。だって出涸らしですもの。出涸らしのお茶は味がしないでしょう? 出涸らしの知識にだって価値なんかありませんわよね?」

「いや、そういう意味ちゃう──」

「あら、じゃあどういう意味?」

「それは……」

 

 直哉が言葉に詰まる。

 屈辱と焦燥で顔を真っ赤にする。

 

「直哉はもうちょっと『人の心』を理解した方がいいと思いますわ! 何が悪いか理解して謝るまで、お弁当だって作ってあげないんだから……」

 

 ……言ってやった。

 前世で100万回くらい聞いたフレーズを、今、このドブカスに逆に叩き込んでやった。直哉の顔は、茹で上がったタコみたいに真っ赤だ。

 はっきり言って、これまでの菜緒葉ちゃんは直哉を甘やかしすぎていたと思う。このドブカスには一回ガツンと言ってやらなきゃいけないと、俺は前々から思っていたのだ。

 

「ふっ──ふざけんなや! なんで俺が出涸らしに頭下げなあかんねん! 出涸……菜緒葉ちゃんの意地悪!!」

 

 直哉はそう叫ぶと、ものすごいスピードで走り去っていった。──今お前、術式使ったな?!

 でも、俺を置き去りにするその背中は、なぜかいつもより小さく弱々しく見えた。

 

 

 

 

 夕方の厨房はいつも通りに忙しい。

 夕餉に使う蓮根の飾り切りは全部俺の担当だ。俺が来る前はこれを何人もの女中が長い時間をかけて普通の包丁でやっていたのだと思うと、頭の下がる思いがする。

 

 パシシシッ。

 

 指先が蓮根の表面を滑るたび、花の形の薄切りが均一にまな板の上に並んでいく。穴の部分を残して花弁のように切り出す。この作業は繊維の走り方に合わせて呪力の角度を微調整するのが肝で、最初の頃は何度も失敗したが、今では手慣れたものだ。

 ──でも、時々無意識に手が止まる。

 昼間の喧嘩のことをどうしても思い出してしまうのだ。

 

(直哉に対して少し言いすぎたんじゃないか)

 

 俺の中の菜緒葉ちゃんの部分が、そう囁いている。胸の奥が、ちくちくと痛む。

 でも──俺はそうは思わない。見下されっぱなしでいるよりは、これくらいの距離があった方がいい。言わなきゃわからないことは、言わなきゃわからないんだ。

 

「菜緒葉、手元が乱れていますよ」

 

 おばさまの声が飛んでくる。俺はびくっとして姿勢を正した。

 

「ごめんなさい、なんでもありません!」

 

 いけない、集中集中。

 俺の呪力は最近ほんの少しだけ底上げされてきている。毎晩キモい呪霊を「美味しくなぁれ♡」と毒抜きして食い続けた成果だ。まあ、そうは言っても、弟の二割にも満たない雀の涙だけどな。でも燃費の方は、高級外車に対する軽トラのごとき執念で磨き上げている。一滴の呪力も無駄にしない精密操作。これだけは誰にも負けない自信がある。

 直哉との喧嘩のことは、しばらく考えないことにしよう。呪力を使った筋トレのこととか、もっと強い呪霊を調理するにはそろそろ大人に相談した方がいいかとか、あいつに追いつくための課題は山積みなのだ。

 

 と、その時だった。

 

「──菜緒葉ちゃん!」

 

 厨房の入口から声が響いた。直哉だ。

 一瞬、厨房の空気が凍った。

 女中たちの手が止まり、視線が一斉に入口に集まる。無理もない。この厨房に直哉が足を踏み入れたことは、今まで一度もなかったはずだ。当主の跡継ぎが来る場所じゃない。

 直哉は──なんというか、妙な顔をしていた。

 怒っているような。気まずいような。それでいて、何か別のことに気を取られているような。さっき別れた時の勢いはどこへやら、廊下でしばらくウロウロしてから意を決して来ました、という雰囲気が全身から滲み出ている。

 

「……あんなぁ。菜緒葉ちゃん」

「何?」

「……さっきの。……昼間のやつ。……その」

 

 ものすごく言い出しづらそうに直哉が口ごもる。

 ──えっ。

 もしかして、これ、謝ろうとしてる?

 あのドブカス直哉が? 真希ちゃんについて「三歩後ろ歩かれへん女は背中刺されて死んだらええ」とかのたまう予定の、封建制度の擬人化が?

 俺が驚きのあまり手を止めかけた、その瞬間だった。直哉の目が、俺の作業中の指先に釘付けになった。

 

「…………何やこれ」

「え?」

「……お前、今。何したんや」

 

 直哉がズカズカと土足に近い勢いで厨房に降りてきた。

 

「なんやのその精密操作。なんで厨房でメシ作ってるだけでこんなに上手になっとるん。それにお前──呪力、増えてへんか? 前よりちょっと……ほんのちょっとだけやけど」

 

 ……さすがに鋭い。呪霊クッキングの成果が、天才の目には丸見えだったか。

 

「その呪力の回し方、俺にも教えて!」

 

 謝罪の気配はどこへやら。ギラギラした目で、また俺の肩を掴みにくる。

 いつものことながらこいつは本当に──。

 しかしその瞬間、

 

「──直哉様」

 

 背後から凍てつくような声が響いた。

 そこに立っていたのは、おばさまだった。

 おたまを手にし、いつものように寸分の狂いもない和服の着こなしだ。

 

「将来禪院の長となるお方が、このような卑しい場所に足を踏み入れるなど……家の品位を汚すのも大概になさい」

 

 その声は落ち着いて穏やかだった。だからこそ、逆らう余地がない。

 

「っ……!!」

 

 直哉が息を呑んだ。

 どれだけ才能があろうと今の直哉はまだ子供だ。そしてこの家において、家の規律そのものを体現する大人の言葉は、拳よりも重い。

 直哉は俺の肩から手を離すと、屈辱に顔を歪めて俺を睨みつけた。

 

「……けっ! こんなとこ、二度と来るか! 菜緒葉ちゃんのケチ! アホ! 出涸らし!」

 

 最後はお決まりの悪口を三連射して、直哉は脱兎のごとく厨房を去った。

 ──出涸らし、か。結局まだ言うのか。

 やっぱりちょっと堪えるなぁ。

 

 嵐が過ぎ去ったような静寂が厨房に落ちた。

 

 「…………」

 

 おばさまは何事もなかったかのように持ち場に戻り、汁物の味見をしている。直哉を追い出したことについて一言の説明もない。当然のことをしただけだ、という態度だ。

 

「お千代、火が強すぎます」

「は、はい!」

 

 日常が戻ってくる。女中たちがまた手を動かし始める。

 

 俺は蓮根に視線を戻した。

 パシシシッ。指先が蓮根を撫で、花弁の薄切りがまな板に並ぶ。

 でも、頭の隅っこで、どうしても考えてしまう。さっきの直哉は、もしかして本当に謝るつもりでここに来たのか……?

 でも、あいつはあの直哉だぞ?

 脳内で、音MADでの直哉の語録集がエンドレスに再生される。「別嬪さんやけど真希ちゃんはアカン♪」「その点真依ちゃんは立派やね」「三歩後ろ歩かれへん女は背中刺されて死んだらええ」──こんな奴が、出涸らしの姉に頭を下げる? ありえない。

 直哉はきっと、新しい術式の使い方を見つけて自慢しに来ただけだ。うん。絶対そうだ。

 

 ──でも。

 俺の修行の成果に気づく前の直哉は、明らかに何か言いたげだった。

 術式を使って蓮根を切る。いつもより少しだけ力が入りすぎて、花弁の一枚が不揃いになった。

 

「菜緒葉。集中なさい」

 

 おばさまの声──今日は直哉のせいで怒られてばっかりだ。俺は蓮根に視線を戻す。

 今度は綺麗に、均一に切らなくては。

 そう自分に言い聞かせる。

 考えるな。期待するな。あいつはドブカスだ。音MADが証明している。

 

 ──だけど、音MADの直哉と違って、俺の弟はまだ6歳なんだ。

 

 その思考は、胸の中に小さな棘のように引っかかって消えなかった。

 

 

 

 

 

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