音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
「兄さーん! 兄さん聞いて!」
パタパタとせわしない足音が廊下を駆けてきて、襖が勢いよく開け放たれた。
夕暮れの斜光が、積み上がった医学書の背表紙を橙色に染めている。直蔵は編みかけのマフラーを膝に乗せたまま、編み棒の手だけ止めて顔を上げた。裏編みでちょうど一目落としかけたところだ。
飛び込んできたのはご機嫌そのものの弟。直蔵は今、人生の絶頂を享受していた。
しばらく前まで弟との仲は文字通り最悪だった。そしてそれは直蔵の本来の望みではなかった。父の後妻が、まだ幼かった頃の直蔵にとって仄かな憧れの対象だったからだ。いつも強気なのに儚げで、自分の吐く毒で自家中毒を起こして壊れていくような危うい女。双子を産んでしまったばかりに弱って実家に返された彼女に直蔵は同情していたし、可哀想な弟妹に優しくしてやろうと思っていた。最初のうちは。しかし双子は直蔵に一切懐かなかった。菜緒葉はまだ表面上は愛想よく振る舞ってくれたが、直哉は遠慮も容赦もなかった。「兄さん何しにきたん?」「じゃまやから出てって」「兄さんって何がトクイなん? えっそれだけ?」──流暢に喋り始めた瞬間からこれだ。幼児とは思えぬ毒舌のオンパレードだった。挙句に二人とも、よりによって甚爾なんかにデレ始めた。妹はちまちまと飯の差し入れに精を出し、弟はと言えば信仰じみた執心を募らせる。禪院の中での序列は甚爾よりも自分の方が上なのに。可愛さ余って憎さ百倍とはまさにこのこと。気がつけば直蔵は双子の顔を見るたびに苛立ちに支配されるようになっていた。
しかし弟はあの万年筆を握らせ直してくれた。あの時の直哉の手つきに優しさはなかったと思う。あれは紛うことなき呪いだ。本物の父親よりも確実で、偽物の父親よりも有無を言わさない呪い。
それでも、冷たく硬い感触が手に触れた瞬間、直蔵はようやく気がついた
──このクソ生意気な弟は、なんだかんだで自分のことを見てくれていたのだと。
弟も妹も自分に冷たいし興味がないのだろうと思っていたが、案外しっかり見ていたからこその冷淡さだったのかもしれない。
ただ、だからと言って、目を覚ました直蔵と直哉の仲がそこから一気に改善したかと言えば、そうでもなかった。直哉はこれまでの態度を詫び、術式の研究の手伝いなどをしてくれつつも、内心苛立っているようだった。
潮目が変わったのは甚爾の妻の治療をしていることを話した瞬間からだ。手のひらを返したように懐いてくる弟の現金さに、直蔵は危うく笑いそうになった。ついでに当時の直哉が菜緒葉と喧嘩中のようだったので無理やり同じ部屋に閉じ込めて強制的な話し合いをさせたら、何を話したのかはわからないが2人は無事に仲直りをした。以来直哉は直蔵に恩義と敬意らしき物を感じるようになったらしく、父の直毘人がくれなかった承認をこちらへと降り注がせる。
「兄さん聞いて! 姉さんがさっき無謀にも言い出したんや!」
「なにを」
「真希ちゃんと真依ちゃんの2歳のお誕生日会な、扇の叔父さんに出て欲しいって!」
「はぁ……?」
直蔵は思わず眉を寄せた。扇が娘の誕生日を祝うのは、直蔵が特級呪術師になるのと同じくらいあり得ない。それを見て、弟は我が意を得たりとばかりに身を乗り出してくる。
「な? 無謀やろ? んでなぁ、2人が喧嘩し始めたの見たパパが謎の提案を始めたんや」
「謎の提案って?」
「『術式アリで手合わせした結果で決めたらどうだ?』やて!」
「……えぇ……?」
「昇級させていいかの判定兼ねるんやて! 菜緒葉ちゃんがええ感じだったら菜緒葉ちゃんの『炳』加入の検討とあのカスのお誕生会参加! ダメやったら……何やっけ?」
「……」
「まあ菜緒葉ちゃんがよゆーで勝つやろ! あの人の術式はパッとせーへんし、一昨年なんて姉さんに剣折られたし!」
直哉は菜緒葉の勝ちを確信しているようだった。だが──
「……普通に菜緒葉が負けるだろ」
「は?」
「扇さんはベテランで特別1級だぞ。滅茶苦茶強いんだぞ」
「はぁ? 兄さんは雑魚やから菜緒葉ちゃんの凄さがわっかんないんやね」
「いや、菜緒葉が強いのはわかるけど、扇さんだって強いんだよ。すごい剣士なんだよ。オマエならともかく菜緒葉が勝てるのか?」
真希と真依が生まれたばかりの頃、一悶着あった末に菜緒葉が扇の刀を折ったという事件は、何かの間違いか単なるラッキーだろう──直蔵はそう信じている。だから、こんな敗色濃厚な戦いに菜緒葉が臨むというのに違和感があって、戸惑いを隠しきれなかった。
直哉は何とも言えない微妙な顔をした。
「術式アリやったら……今の菜緒葉ちゃんに、俺だって負けるかも」
「えっ、急にどうした??」
一体どうした。シスコンの妄言か???
そう思って呆れていると……
「そもそも、アレが剣士……? 兄さんがそう思って憧れてるなら別にええけど、兄さんってやっぱりソッチの才能ゼロなんやね。カワイソ」
凄まじい勢いでディスられた。
直蔵は納得が行かなかった。
「直哉、どういうこと?」
「何でもすぐ聞くなや」
直蔵は考えてみたが、よくわからなかった。手合わせの日までに自分より戦闘センスのある友人に聞いてみようと決めた。
◇
扇と菜緒葉の手合わせ。
その日付が公示された朝、家中が奇妙にざわついた。翌週月曜の午前。直毘人立会いの下、屋敷の庭で行う。菜緒葉の反転アウトプットだけでは対処しきれない場合のために、一応直蔵をはじめとする医療班が控える──のだが、正直胃の辺りが重くなるような気分だ。
父親との久々の会話の内容が最悪だったためである。
「直蔵」
「はい」
「当日は『転傷』を使え」
「わかってます」
「……菜緒葉を最優先だ。扇は二番でいい」
「……はい。ちなみに父上は、菜緒葉と扇さんのどちらが勝つと?」
「さあな。菜緒葉が奴の領域対策をどこまで突破できるか次第だろうが」
意外にも、微妙に含みのある返答だった。そして父に呼ばれる期待でドキドキしたのに、結局これだけのやり取りで終わってしまった。
──それもあって直蔵は、扇に判官贔屓のような感情を抱いた。呪霊に出会うたびに内心怯えている弱者の直蔵に同情や共感を寄せられてもあの伯父はキレるだけだろうが、可哀想なものは可哀想だ。自分の兄弟に心配してもらえないなんて。そして、直毘人はそもそもどうしてこんな手合わせを成立させたのだろうと考えた。
父や菜緒葉に直接質問したらどうせ誤魔化されるので、試しに分家の友人に聞いてみた。『灯』の主力で、直蔵と違って戦闘センスのある男である。彼はあっさり答えてくれた。
「そりゃ扇さんのガス抜きだ。刀切り事件に始まり領域展開事件まであって、相当鬱憤が溜まってるはずだろ?」
「そうなのかなぁ……」
直蔵の観察した範囲では、菜緒葉が弟と一緒に真男佳を仕留めて以来、扇は菜緒葉への露骨な妨害をやめているように見える。直哉が次期当主でほぼ内定らしい雰囲気が出てきたせいではないかと直蔵は勝手に想像していた。
「とはいえだぞ。あの菜緒葉が扇さんに付け入られるような隙を作るのってちょっと違和感がないか?」
そう言うと友人は怪訝な顔をした。
「えー。年相応の可愛いワガママじゃないか?」
「いやいや、菜緒葉が年相応だったこととかないよ」
「たしかに……」
「そもそもうちの父親だって、菜緒葉どころか直哉のことだってろくすっぽ祝ってなかったぞ。なのにアイツが急に扇さん程度にキレるか?」
我が子の誕生日に一緒にいられる呪術師というのがそもそも稀だ。我が子を恥だと思っている扇は極端な例だが、極端なだけで例外ではない。その程度のことを知らない程菜緒葉は間抜けではないはずだ。
しかし友人は言った。
「逆に小さい子に自分と同じ目にあって欲しくないって思うことだってあるんじゃないのか? 」
「……うーん」
自分より強く優秀な友人が言うのだから、その思考の方が正しいのかもしれない。とはいえ若干の違和感はあったが、わざわざ指摘してギスギスするのも面倒だと思い、直蔵は話を変えた。
「で、ここだけの話、俺の妹の勝ち目ってある?」
「ないない。あの子の術式の攻撃能力、普通に扇さんより下でしょ」
「直哉は、菜緒葉と戦ったら自分でも負けるかもって言ってた」
「はぁ? 単にコンプレックスで自信なくしてるだけじゃないのかぁ? 呪霊退治でなら反転アウトプットのできる菜緒葉ちゃんの方が対応幅は広いけど、結局は人を斬れないし女の子なんだから。……でも、俺は好きだなぁ、菜緒葉ちゃんみたいな娘。猿にまで慈悲深い女の子とか、将来絶対いいお母さんになるよ」
直蔵は少し遅れてこの言葉の意味を理解して、前みたいには笑って頷けない自分に気がついた。甚爾の奥さんと子どもまで見た後では無理だった。
最近こういう感覚を抱くことがだんだん多くなってきていて、ひょっとしたらこの家はクソなのではないかと直蔵は気づきつつあった。直哉がどうして常に苛立っていたのか、今ならわかる。
しかし何も言うことはできず、その場では強引に話題を変えただけで終わった。
──ともあれ、よく話す知り合いは皆同じような意見だった。菜緒葉の術式は切断とそれを媒介にした対象の呪力書き換えで、人を斬れない縛り付き。扇の術式の攻撃性には圧倒的に劣る。よって菜緒葉の思春期の少女らしい可憐なワガママは、大人の現実に叩き潰される。それでも手合わせという名目があるからにはそこまで大変なことにはならないだろう。菜緒葉も一矢くらいは報いてそれを当主に認めてもらえればいい、少なくとも特別2級くらいの実力は絶対にあるだろうし──程度の熱量。
例外は直蔵のお気に入りの後輩である蘭太で、菜緒葉の領域展開は扇の『落花の情』より上だと主張した。しかしこの少年は明らかに菜緒葉贔屓で扇に興味がなさそうなので、あまりあてにはならない。
女中頭である扇の妻にも話を聞いてみようかと思ったが、あの女は非術師の癖に異様に迫力があって怖いのでやめた。代わりに他の女中に扇の妻がどう思っているのかについて水を向けてみた。心に余裕のなかった時期の直蔵は「俺は日々死にかけてるのにアイツらは楽そうでいいな」と女中達に対してまあまあ酷いことを考えていたが、最近では普通に雑談する関係になっているので、普通に答えてもらえる。そこで聞いた話によれば、扇の妻は、夫よりも菜緒葉を全面的に信頼しているらしい。「菜緒葉お嬢様に何かあったらあの人、扇様を刺し殺しかねませんよ」とのことだ。当日は菜緒葉に傷一つ残さず治療してほしいと懇願されてしまった。
よって、手合わせについて聞いた時の困惑は次第に心配へと変わった。
「怪我したら絶対俺が請け負うから安心しろよ!」
事態を総合して見たうえで菜緒葉にそう言ったら、薄く笑われた。
「自前の『反転術式』でどうにもならない怪我をする気はありませんわよ」
──そう自信満々に言われてしまうと菜緒葉はやはり何か企んでいる気がするが、直蔵はその思惑にまでは辿り着けない。
実のところ、直蔵の預かり知らぬ事情が3つあった。
ひとつ目。直毘人は内心焦っている。
禪院家が今、御三家相手に層の厚さを誇っているのは、ひとえに『菜切り包丁』の呪霊食が戦力を底上げしているからだ。だからこそ直毘人は、娘が外で名を売ることを望んでいない。単独任務には絶対に行かせたくないし、禪院以外の術師とも接触させたくない。だから昇級など論外だ。
そこで直毘人は、扇の悪意を都合よく使った。娘の等級を据え置きで通すことへの不満が出るたび、顔をしかめて「扇がキレそうでなぁ」と零した。
気の毒なのは、発端は自業自得だったとはいえ、知らぬうちに盾として運用されている扇である。
ふたつ目。菜緒葉自身がそれを察し、扇という盾の無効化を企てた。
直毘人は娘の意図を察してあまり乗り気でなかったが、娘がどれくらい強くなったのかを、見てみたいという気持ちも抱いていた。おまけに扇側が屈辱の蓄積で限界を迎えそうだったので、「術師として忙しい扇のスケジュールを娘のお誕生日に空けておくかどうか」というほっこりする名目での手合わせに、立会人として座ることに同意した。
──この辺りの事情を知らないのは直蔵ばかりではなかった。当事者達と、追加で甚壱しか理解していないだろう。
そして、更に菜緒葉本人以外は知らない事情がまたひとつ。
菜緒葉は扇に
扇の悪意と、娘達への悪虐によって将来齎される災厄。
その外的要因であった禪院家全体の陰湿さをゆっくり改善し、扇の将来の改心を期待するという方針を菜緒葉は完全に放棄した。
扇に気を遣うのは時間の無駄である。
どうせこのまま行けば自分の娘を殺すような人間なのだから。
しかし、その八つ当たりが扇の妻子にだけは絶対向かないようにする必要がある。つまり、菜緒葉は扇を圧倒し、自分に永遠に逆らえない位置に固定しなくてはいけないのだ。
しかし他の人間同様何もわかっていない直蔵は何も知らないなりに妹を案じ、扇を憐れみ、当日に向けて憂鬱になっていた。
◇
そして手合わせを翌日に控えた夕刻。
直蔵は改めて弟から尋ねられた。
「で、兄さん。アレを剣士扱いする兄さんに俺があの時どうして呆れ果てたか、そろそろわかったん?」
最近の弟は妙に直蔵の部屋によく顔を出す。控えめに言って嬉しい。
しかし直蔵は反射的に視線を逸らした。
「あっ、考えるの忘れてた」
だって、面倒くさかったんだもん。
それに、結局友達に聞くのも忘れていた。
「チッ……」
「今舌打ちしたな? ……でもさ直哉、世間の評価は扇さん圧倒的優勢なんだよ。お前こそ少数派だって自覚しろよ」
直蔵は慌てて言い訳を重ねる。機嫌を損ねた弟の毒舌を浴びるのは御免だった。しかし直哉は憐れむような、あるいは知能の低い生き物を見るような眼差しで、深く、長くため息をついた。
「……ま、菜緒葉ちゃんの術式の本領を知らん連中なら、当然そうなるか」
子供を諭す教師のような優越感。その仕草に直蔵は微かな動揺を覚えた。最近の直哉は、いよいよ父親である直毘人に似てきている気がする。直蔵としてはそれは結構嬉しい。父からの承認をほぼ得られなかった直蔵にとって、その面影を宿した弟が構ってくれるのは幸せなことだ。
「で、兄さん。そもそもあの人を凄い剣士やと思った根拠はなんなん?」
「……前に任務を共にした時だよ。俺はいつもの肉盾係だったんだが、そこで見たんだ。扇さんが居合一閃、巨大な呪霊をスパーンと真っ二つにしてさ……」
あの時の白刃の閃きは、未だに脳裏に焼きついている。刀が鞘から抜かれたのが目では追えないほどの速度で、しかも呪霊は一撃で跡形もなく霧散した。あんなのを目の当たりにすれば、誰だって剣豪と呼ぶに決まっている。
しかし直哉は冷たく言い放つ。
「アレは『落花の情』の応用やね。呪力が触れた瞬間にカウンターを行うんよ」
『落花の情』──御三家の秘伝、直蔵にはモノにできなかった、対領域用の高度な呪力操作技術だ。
「要するに、呪力を使って物理的な抜刀スピードを無理やりブーストしとるだけ。単なる反射の自動化。わかったか、ポンコツの兄さん?」
「……??? つまり剣術じゃないの???」
「だから兄さんに大呆れしたんやわ。俺は」
衝撃的なことに、どうやら扇は剣豪ではなかったらしい。
しかしもしそうだとしたら、納得がいかないことが一つある。
「でも、それなら刀切断事件はどう説明するんだよ? 菜緒葉の斬撃が飛んできた瞬間にカウンターが発動するなら、扇さんの刀が切られるなんてまぐれは起きないはずだろ」
「だから、それはカウンターの居合発動よりも菜緒葉ちゃんの方が早かったか……あるいは『落花の情』そのものを無効化してたんちゃう? ……多分、後者やろね」
直哉は事も無げに言うが、その推測は直蔵にとって戦慄すべきものだ。
前者なら菜緒葉の反射神経が特別1級術師を凌駕しているということだし、後者なら扇の防御すら完全無効になるような斬撃を菜緒葉が生み出しているということになる。どちらの可能性も直蔵にとっては信じがたい。
「……じゃあ、今回も扇さんの刀は確定で切られるってこと?」
「おん。で、当然炎出してくるやろな」
「あの技もカッコよくてすごいよねー。あの炎の量、菜緒葉の呪霊食のおかげで滅茶苦茶増えたらしいよ」
「増えたのに菜緒葉ちゃんに意地悪してんの? ……性格歪んどるわ、ホンマ」
扇だって流石に直哉には言われたくないだろう。
「……まあ、男のプライドってのは厄介なんだよ。でも、それなら菜緒葉はどうする? 流石にあの火力への対策はないだろ……」
皆そう言っていた。
カットアップ・サンプリング・リミックスを使ってある程度炎を切り取って跳ね返せるとしても、扇の呪力量と火力、そして剣速を鑑みれば長引くほどしんどいだろう。
しかし弟は言う。
「いや。菜緒葉ちゃんには、炎対策は何個かあるで」
「えっ。たとえば?」
「兄さん、知っとる? 火って真空状態やと一瞬で消えるんや」
茶化された気がして直蔵はやや不機嫌に返した
「はぁ? それ位俺だって知ってるよ。でもそれと今の話に何の関係が……」
「で、こないだ菜緒葉ちゃんが鴨の朴葉包み焼き作ってくれたやん」
「ああ、美味しかったよなー!!! 前に任務帰りに本場の長野県で食ったやつより良かった!」
話題が食べ物の方向に逸れた瞬間、直蔵の意識は完全にそちらへ持っていかれてしまった。
朴葉の香りが熱気と一緒にふわっと鼻先を撫でていく、あの瞬間のたまらなさ。白いご飯の上に箸でちょっと寄せて口に運んだ時の、鴨の脂の甘みと味噌の味と葉の野趣の三重奏ときたら!
「……一緒に包まれていたきのこがまた最高だったよなー! しかもさ、オマエみたいなガキにはまだわかんないだろうけど、アレって酒ともメッチャ合うんだよ。毎週作ってもらえないかな?」
「は? 食レポはいらんわ」
「……」
直哉にあっさり一蹴されて、直蔵は少し残念に思った。あの素晴らしさをもう少し噛みしめていたかったのに。
「アレな、焼く時に葉っぱと食材の境目の空気を何回か術式で抜くんやって」
「え、どういうこと?」
「だから、切断対象を空気だけに選択した斬撃を一点から放出するんや。そしたら直後に空気が戻ってくるまでの短い間、内部に低圧空間──いわば擬似的な真空が生じる」
「あー、それで朴葉の匂いがあんなに鴨肉に移ってたのか……」
「本来なら数時間はかかる甘鯛の昆布締めを菜緒葉ちゃんが数十分で作っとるのも、大体おんなじ原理やね。微々たるもんやけど、火を消すきっかけには十分すぎると思わん? 俺の見る限り、あの人って発火と炎の形状操作にしか呪力使ってへんもん。燃焼の持続度は普通の火同様なんとちゃう?」
呪力を現材料にした炎とはいえ、炎は炎。物理現象としての火の延長線上だ。呪力で発火させる、温度を上げる、形を保つ、というのはあるが、生成された炎自体は普通の炎としての物理的性質を引きずる。つまり、扇の炎も真空状態ではほぼ瞬時に消えるだろう。
「それって……」
直蔵は純粋な気持ちで驚愕した。菜緒葉はキッチンで料理をする片手間に、なんと扇対策の必殺技を完成させていたのだ。
直哉は誇らしげに頷く。
「ああ、叔父さんは詰み。菜緒葉ちゃんの圧勝や」
◇
弟の話を聞いて、直蔵は手合わせの日にも心に余裕ができた。
大きな火傷は『反転術式』と『転傷』を併用しないと痕を消しづらい。うっかり菜緒葉に火傷痕が残ったらと思うとゾッとするし、そしてそもそも菜緒葉の傷つく姿は見たくない。だが、昨日の直哉の話通りなら勝負は一瞬で終わる。刀を切り、炎を消し、再点火までの間に一撃を入れればいいだけだ。そして菜緒葉が圧勝するなら、『転傷』の発動は絶対に不要になる。
それは直蔵にとっては嬉しい話だった。
呪霊退治ならまだしも、単なる内輪のバトルで肉盾を務めるのは、本音を言えば普通に気が重いのだ。
菜緒葉が無事に完勝してくれるならそっちの方がいい。
「どうした? 機嫌がいいな」
朝の挨拶をして早々、直毘人におかしな物を見る目で見られた。
「……別に。普通ですよ」
冷ややかにそう答えつつも直蔵は少し嬉しかった。父が自分の機嫌に興味があるなんて知らなかったからだ。しかしそれをなるべく表には出さないよう頑張り、視線を静まり返った禪院家の奥庭に向ける。遮るもののない土の平場には、二つの影が対峙していた。扇と菜緒葉。こうして見ると、菜緒葉は実年齢以上に小柄で、どこか危ういほどに愛らしく見える。父の背中に隠れるようにして、こっそりと小さく手を振ってみると、彼女は顔の近くでぱたぱたと手を振り返してくれた。
「扇、家までは燃やすなよ」
直毘人のややふざけた調子での制止に、扇は「燃やすわけがなかろう」と苛立ちを隠さずに吐き捨てる。奔放でだらしなく見える兄と、生真面目で神経質に見える弟。相変わらず、噛み合わない兄弟だ。
開始の合図と共に、扇が抜刀した。
それと同時に、折れた鋼の刀身が地へと放り捨てられる。しかしその手元に残った柄からは、凄まじい呪力の凝縮と共に蒼い炎が吹き出した。炎は一瞬にして刀の形を構築し、元の刀身の数倍にも及ぶ巨大な炎の刃となる。
対する菜緒葉が、静かに片手を差し出した。呪力の起こりと同時に、扇の炎の中に複数の「点」が生まれる。それは一瞬にして放射状に拡散し、球状の斬撃となって地面まで削り取った。
直哉が事前に言っていた通りの、擬似的な真空状態の現出。
去年の同時期とは比較にならないほど、規模も密度も増したその一撃。
本来なら、この瞬間火は消えるはずだった。酸素を奪われ、燃焼を維持できなくなるはずだった。だが、蒼い炎は消えなかった。
菜緒葉の表情が初めて強張った。菜緒葉は反射的に、自身の攻撃の余波を縫うようにしてその場を飛び退く。次の瞬間、その場所を蒼炎が焼く。
見ている直蔵も動揺した。
常識で考えれば火力が維持される道理がない。だとすれば、あの炎は物理的な「火」ではないのか。あるいは、もっと別の……。
たまらず、父に耳打ちするように尋ねる。
「扇さんのあの火……なんで消えないんですか? 火っぽく見えて火じゃない? それとも術式の特性か何かで?」
問われた直毘人は、ただ面倒そうに肩をすくめただけだった。
「知らん」
「……いや。実の兄弟なんだから、流石に多少は把握してるでしょう。俺でさえ兄弟全員の術式は知ってますよ。そりゃ細かい仕様や応用の仕方までは無理でしょうけど、予想の材料くらいはあるんじゃないですか……」
そう言い募っても、直毘人の反応は変わらなかった。
「本当に一切知らんのだ。アイツの術式で何をどこまでできるのかもな。思い返してみたら昔は居合だけで、炎は出していなかった」
「はい???」
「アイツの『焦眉之赳』も何やってんだかさっぱりワカラン。なんかいつもより燃えとるなーとは思うが、パッと見普段と組成がそう変わっているようにも見えんし……」
直蔵は天を仰ぎたくなった。
兄弟仲が悪いのは今に始まったことではないが、流石にその程度の情報すら共有されていないとは。
兄弟仲が……絶望的に悪すぎる……。
自分達はここまで不仲でなくて良かったな。
そう思いながら、直蔵は妹の無事を祈った。
扇の術式がわからなさすぎるので独自解釈しつつちょっぴり盛ります。
でも本作では呪霊食のおかげで禪院家みんな強くなってるんで、当主の座は残念ながら…(泣)
次回第三部最終回!
「VS扇そのさん〜領域展開おかわりの巻〜」