音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
原作でろくに活躍できず娘に即殺された己の悪因悪果を呪え。
下馬評では裏腹に、扇は吐き気を催すほどの本気で警戒していた。
最大の理由は、例の刀切断事件だ。
あの日、菜緒葉の怒りに満ちた顔を見た刹那、扇の身体は反射的に鯉口を切っていた。歴戦の術師としての経験は、菜緒葉の呪力の起こりを認識しつつも、簡単に弾き返せると断じていたはずだった。だが、結果は無残にも刀身を叩き斬られた。
『菜切り包丁』に防御無視の術理が組み込まれているのか、あるいは対象の呪力を『美味しく』掻き乱すというふざけた干渉の応用か。それとも純粋に、扇の居合よりもあの娘の刃の方が格上だったのか。
認めがたい事実だが、菜緒葉は扇が同い年だった頃の10倍は強い。
昨今菜緒葉が主導する呪霊食による底上げの効果により禪院の術師の成長速度は異常で、若手の質は信じられないくらいに高い。とはいえ家全体の潮流に乗り、扇自身もまた研鑽を積んだ自負はある。以前は1級術師の中でも並のレベルに甘んじていたが、今の自分は違う。見合いの失敗以降妙に禪院家を警戒している五条家などは「禪院の連中は揃いも揃って外法に手を染めているのではないか」と疑念の目を向けて来ている程だ。
だが、それでも。
自ら望んで1級呪霊を喰らい続けている菜緒葉の上昇幅には、自分の成長速度は到底及ぶまい。
扇とて、一度だけあの娘が調理して持ち帰った1級呪霊の欠片を試そうとしたことはある。
味を改善するので精一杯だとのことで、見た目は不気味に蠢くムカデ。目を閉じ、吐き気を抑えて一口食んだ。味は驚くほどに「食える」範疇ではあった。しかし、喉を通る瞬間に脳が警報を鳴らした。これは人間が摂取していい代物ではない。生理的な拒絶と、魂が汚染されるような不快感。二度目は死んでも御免だと思った。術者だけが嫌悪を感じないよう術式に組み込まれているのか、それとも単に、あの娘の精神構造が破綻しているのか。あんな物を平気な顔で貪るなど、正気の沙汰ではない。
だが、その「狂気」こそが呪術師としての才能の別称であることを、扇は嫌というほど理解していた。
菜緒葉は決して舐めてかかれるような温い相手ではない。扇は度し難く心の狭い男ではあったが、敵を見誤るほど無能な術師ではなかった。手札が既にある程度割れている以上、初手から全開で行くしかない。
ただ、その冷静な戦力分析の裏側で、扇の肥大した被害者意識はどろどろとした怨嗟を撒き散らしている。
何故、直毘人の娘の才能ばかりがこうも鮮やかに開花するのか。優秀ならせめて孤高であればいいものを、何故わざわざ我が家の出来損ないなどに構って慈悲深さを喧伝し、こちらを惨めにさせるのか。
同じ禪院本家の双子でありながらどうして我が子達は平凡以下の存在で、菜緒葉と直哉ばかりが脚光を浴びるのか。
扇にはその不条理が理解できない。
理解できないからこそ、その象徴たる菜緒葉を激しく厭悪した。
そして、対峙する菜緒葉本人は露ほども気づいていないだろうが、扇は術師としての彼女を、この禪院家で最も自分と設計思想が近い存在だと密かに認識してもいた。
潜在能力は高いが自分の呪力では御し切れない術式を、縛りと知恵で実戦運用ができるレベルまで引き上げる。非相伝という落伍者の位置から同じように成り上がり、同じ思想を持ちながら、決定的に違うのは狂気の純度。そして才能。菜緒葉は扇にとって文字通りの上位互換だった。術師としてのキャリアの長さで辛うじて張り合えるのは、おそらく彼女が未成年の間だけだろう。それが心底気に入らない。
(本当に……どうして直毘人の娘ばかりがこんなにも才能に恵まれて、私の子はああも出来損ないなのだ)
蒼い炎の刃を構えながら、扇は心中で血を吐くような呪詛を何度も何度も繰り返す。
一方、そんな扇から格上の天才として最大級の警戒を向けられている菜緒葉(マコ)はといえば──。
◇
俺は現在進行形で焦っていた。
──なにこれ???
この火、控えめに言って異常すぎる。
禪院扇。この男が振るう呪炎の性質が、俺には未だに全く掴めない。呪力で全身を物理防御・耐熱コーティングしていてもなお、肺に吸い込む空気が熱波となって内側から喉を灼く。起きている現象は間違いなく燃焼だ。それなのに術式を応用して真空を形成しても炎の刃は少し揺らぐだけで、消えるどころかさらに輝きを増してこちらを嘲笑う。
きっとおじさまが「消えろ」と命じない限り、永遠に燃え続けるのだろう。
こんな物を果たして火と呼べるのか。
「逃げ惑うだけか、直毘人の娘。貴様の『料理』とやらはこの業火の前ではただの消し炭に過ぎぬ」
煽りと共に、炎の刃が横薙ぎに襲ってくる。火傷だけでなく、一酸化炭素中毒を避けるための呪力操作でそれをしのぐ。こんな美少女の姪っ子相手におじさまも容赦がない。
初撃の真空攻撃を凌がれたのが痛恨の極みだ。スプーンの先端のように空間を削り取る、飛ぶ斬撃によるカットアップ・サンプリング・リミックスは習得からそんなに時間が経っていないので、大きな呪霊ならまだしも対人だと精度が甘いし、一度に切り取れる量もそこまで多くはできない。これでは居合への応用すら可能な、おじさまのハイレベルな『落花の情』を突破するのは至難の業だ。
一撃でいい、カウンターが間に合わない大技を叩き込まなければ。
だが、そのためのキッカケが中々見当たらない。
炎を避けながら、それをエネルギー体ではなく、食材として解釈し直す。呪力の配合を瞬時に書き換え、その熱を『美味しく』しようと試みる。──炎は形態や温度を変更するための干渉を何故か一切受け付けなかったため、熱に襲われて失敗。慌ててバックステップで逃れた。
続いて、炎刀そのものがビームサーベルのような出力構造だと仮定する。折れた刀身と蒼炎の境界面——つまり呪力が炎として噴出する根元に切断線を入れ、供給ラインを遮断する。
視界のグリッドを一点に集中させ、20m近く離れた距離から火口を断つように指先を伸ばして斬撃を放つ。キン、と高い音が鳴るが、炎は消えず燃え盛る。
こうなったら細工抜きだ。
世界斬を放つ。
対象を空間ごと二分する、最大出力の技。おじさまが再度刀を振り下ろす瞬間、俺はその軌道そのものを、世界ごと切り裂いた。
ゴウ、と空気が悲鳴を上げる。
蒼い炎の奔流が、真っ二つに割れた。
その隙に扇のおじさまに近づき、全力の蹴りを腹にブチ込んだ。扇のおじさまは少しだけ驚いたようだったが、蹴りの効果自体は薄い。まるで古木の幹を蹴ったみたいだった。数回の攻防の末に炎が復活して、もう一度距離を取った。
駄目だ。やっぱりあの炎が滅茶苦茶に邪魔……!
現状、通用しているのは世界斬だけ。でも、世界斬ばっかりポンポン打ってたらガス欠を起こす。おじさまを即座に圧倒できなかったからには、極力手札を暴きたいし、奥の手のために呪力は温存しておきたい。そこに、菜緒葉ちゃんからの神の託宣の如き脳内アドバイスが投下された。
『マコくん、私いま、勝利のための最高のアイデアを思い付きましたわ♡』
おー。言ってみ。
『さっきの真空攻撃を扇のおじさまの顔のそばでやれば一発で窒息させられるのでは?』
発想がこえーーーーよ。
菜緒葉ちゃん、君は呪詛師か?
そもそもだ。「術式を使って人を斬らない」という俺の縛りは、現代最強さえも傷つけたり殺したりできるというラスボス的ポテンシャルを生贄に捧げる自己誓約だ。相手の攻撃を加工して返しているだけのカットアップ・サンプリング・リミックスならともかく、プレーンな術式運用で相手を窒息させておいて「斬ってないからセーフ」なんていう一休さんの頓知みたいな理屈、果たして世界は許容してくれるのか?
『…………やっぱり、念のためやめておきましょう』
うん。もし縛りを破ったら、術式の性能が取り返しがつかないくらい劣化しちゃうかもしれないしね。
でも、じゃあどうする?
このままじゃジリ貧どころか、おじさまに燃やされて終わりだ。
『私が出てきて人斬り可の『菜切り包丁』を使うのはどうでしょう? 私の方はマコくんの縛りに干渉されませんから、最近の出力ならおじさまを一瞬でサイコロステーキにするのだってお茶の子さいさいで……』
却下!!!!!!!
投げやりになるな。
もっと真面目に、かつクリエイティブに考えて攻略しろ。
…………あっ。
初歩的なことを忘れてたかも。
◇
次の瞬間、扇を襲ったのは、鼓膜を圧し折るほどの爆音と、全方位から肉を毟り取るような不可視の暴風だった。
「──っ!?」
並の術師であれば、その場に跪き、呼吸すら奪われていただろう。扇は咄嗟に足裏に呪力を回し、地を掴むようにして踏みとどまる。手にした刀身から吹き上がる蒼炎が、荒れ狂う風に煽られて激しく揺らぎ、扇の視界を青白く明滅させた。
数メートル先。砂塵が舞う中心で、その娘は──不気味なほどに可憐な笑みを浮かべていた。
「ふふ、……ふふふ。うふふふふふ!」
その笑い声は戦場には到底不釣り合いな、無邪気な成功を喜ぶ子供のそれだった。だが、扇の目には、それが自身の積み上げてきた練達
を指先一つで分解し、弄ぼうと試みる怪物の哄笑に見えた。
「成功した……。思った通りですわ、本当に行けましたわ!」
菜緒葉は軽く首を傾げ、乱れた前髪を払う。その仕草一つに、扇のプライドは逆なでされる。安全圏からこちらの出方を見透かすような瞳。そして彼女は強風の中での術式開示を始めた。
「最初の攻撃と同じ原理ですわ。『菜切り包丁』の殺傷禁止の縛りはこの家の誰もがご存知でしょう。……でも、放射状の斬撃を同方向に繰り返し飛ばして風を作って相手を吹き飛ばすくらいなら、いっこうに問題ありませんわ。殺意ゼロですもの」
「……」
「その刀、私の風で手放させてあげる」
扇は答えず、ただ沈黙を貫く。
「でも、おじさま。その炎……不思議ですわね。形状操作はともかく燃焼の持続に呪力を使ってる形跡はなし。なのに真空状態に置かれても立ち消えず、風をぶつけても消滅しない。燃焼の物理規則に従わず、まるで永続するみたい」
扇の持つ刀を執拗に観察し分析する菜緒葉の瞳は、興味深げに輝いている。
「いえ、真の永続だったらおじさま自身も困るでしょうし、必ずどこかに終わりがあるはず。でもこれで、おじさまが刀の周辺と延長線上にしか炎を出さない理由はわかりましたわ」
「…………言ってみろ」
扇は低く言った。
「縛りでしょう? たとえば炎の発生範囲を絞ることで、呪力の消費効率を極限まで高める縛り。……こんな奇妙な炎、莫大な呪力が必要に決まってますもの。……違います?」
正解だ。
縛りがあってなお、かつての扇の炎は普通の刀をなぞる程度の頼りないものだった。それ以上の炎を作ろうとすると、呪力と体力の限界を迎える。扇の術式は呪力量に大幅に依存するものなのだ。
強風の中、彼女は続けて言う。
「燃え続けるという状態を別の縛りで固定しているのですか……? それとも、永続に近い炎というのがおじさまの術式なのかしら」
「……」
挑発によって扇の術式開示を迫る構えだ。しかし扇は口を開かない。彼にとって術式というのは己の魂を守る唯一の鎧であり、それを晒すことは死にも等しい屈辱だった。
「でも、これくらいの量の炎なら余裕で避け続けられますわ。このまま私があなたの体勢を崩すのと、私の呪力が尽きるのと、あなたの呪力が尽きるのとでは、どれが一番早いのでしょうね」
「……」
菜緒葉はまだ手の内を晒しきっていない。扇にも奥の手がある。
それを晒さないまま負ける可能性に、扇は耐えられない。大昔直毘人と手合わせした時に似たようなことがあった。あの時、本気を見せることができていれば自分は直毘人に勝っていて、今頃当主だったかもしれない。少なくとも扇の主観ではそういうことになっていた。
しかも菜緒葉はその直毘人の面影がある笑みを浮かべて、こんなことを言い始める。
「私、思うんですのよ。そうやって奥の手を隠し続けるのって、結局自信のなさの現れでしょう。ダッサ」
風を跳ね返そうと呪力での防御を強め、火勢を高める扇を菜緒葉は見下す。いつもの様子からは信じられないような嗜虐的かつ甘ったるい声音でくすくす笑いながら、延々と扇を挑発し続ける。
「出しちゃえ♡ もっと炎出しちゃえ♡ ほら出して♡ がんばれがんばれ♡ 頑張ればちょっとは勝ち目があるかもですわよ♡ ……あら、なぁんだ。頑張ってもそんな程度ですの? つまらなーい」
普段より暗く陰湿な目つきと、にやにやと意地悪そうに上がった口元。大人を心底バカにしきった顔で笑う菜緒葉に見下された瞬間、扇は屈辱のあまりに我慢の限界を迎えた。
「術式解放『
風を跳ね返す熱波が、再び扇を中心に膨れ上がった。
◇
「術式解放『
おじさまがその名を絞り出した瞬間、刀身に凝縮されていた細い蒼炎が、限界まで圧縮された圧力を一気に解き放つように膨張する。
これだよこれ。
これを引き出したかった。
俺じゃ力不足だろうとのことで一時的に出てきてくれた菜緒葉ちゃんの煽りによって、無事に扇のおじさまをブチギレさせ、判断能力を下げることができた。流石菜緒葉ちゃんである。彼女のえらそーな態度には温厚な俺ですらたまにぶん殴りたくなるんだから、気の短いおじさまには効果覿面だっただろう。肺が灼けるような熱風を真正面から浴びながら、思わず笑みを浮かべてしまう。
術式解放。術式の100パーセント解放、あるいは術式の主軸となる運用形態の固有名を指す言葉だったと思う。
危急の際に火力を底上げするのか、あるいは縛りの限定解除による不可避の延焼か。いずれにせよ、おそらくは対象を逃がさないための絶対的な焼却。
けれど、火勢が強いからこそどうにかなる。
多少の火をカットアップ・サンプリング・リミックスで跳ね返しても、おじさまは簡単に対処してしまうだろう。だからこそ強い火が必要だったのだ。
こちら側の準備はいよいよ整った。
「領域展開──『
印を結んだ指先から、世界が白く反転する。
真っ白な空間。そこにおじさまの呪力と蒼炎が強制的に抽出され、白い空間に貼り付けられていく。『菜切り包丁』を付与した領域展開。この領域内においておじさまが放った炎は、もはやおじさまの所有物ではない。俺が切り取った素材だ。相手の攻撃を使ったジャイアントキリングが俺の定番の勝ち筋である。範囲は俺に可能な限りの最小。観戦しているお父様や治療のために待機している直蔵お兄様を巻き込まないよう、俺とおじさま、そしてその業火だけを包み込む密室の劇場を定義した。
おじさまは『落花の情』を展開し、自分の炎を自分の炎刀で叩き落としながら、震える声で呻いた。
「……屋外では使えぬ未完成領域ではなかったのか……」
それに対してはもはや、鼻で笑うしかなかった。
「アレからもう2年ですわよ。私がその間ずっとお昼寝していたとでも?」
というか、おじさまにだけは領域展開の完成報告とかする訳なくないか?
女性陣とお父様と、それから割と仲良しな部類の兄弟達と蘭太くんには報告済みだけどね!
そして俺は虚空に向けて、指を滑らせた。
おじさまの放った炎が領域の必中効果によってコピー&ペーストされ、あろうことか発信源であるおじさま自身の背後、頭上、足元に同時多発的に再配置される。
さらにおじさまの分身も設置。右におじさま。左におじさま。背後におじさま。刀を振る音をサンプリングし、完璧に整頓されたパーカッションへと変貌させる。
我ながら完璧。
「おじさまは素材が良いから、加工のしがいがありますわ」
大満足でひとり頷いていると、菜緒葉ちゃんはいっそ面白いレベルで不謹慎な反論をコメントした。
『お優しいこと。……私は大したことないと思いますわよ。音MADでのこの人、娘の悪口を言うシーンと真希ちゃんに頭を輪切りにされるシーンしか素材になってないじゃありませんか。クソコラ界では大活躍していらっしゃるようだけれども、楽器としてのパワーはせいぜい0.05直哉くらいでしょう』
直哉を単位にすな。
おじさまの炎でおじさまを焼く。
おじさまの呪力をリフレインさせ、逃げ場のない熱波のループとして叩きつける。
おじさまが死なない程度に手加減し、そして追加でひとさじのユーモアを。
「……っ、ふざけた真似を……っ! 術師の矜持を、これほどまでに愚弄するか……!」
おじさまが毒づき、蒼炎を振り払おうと刀を振った。悪くない動きだったので映像としてサンプリングし、一秒前の攻撃と一秒後の斬撃を重ね合わせ、矛盾する衝撃をおじさまにフィードバックさせる。
おじさまの『落花の情』の練度は高い。しかしこの秘伝の本領はあくまで自分の呪力を使った迎撃だから、自分のキャパ以上の攻撃は絶対に防げない。
さて、おじさまは自分自身の最高火力に勝てるだろうか?
◇
1分30秒の『空音滞図』。
領域が崩壊した瞬間、扇は片膝を地に落とした。
領域崩壊まで耐えれば自分の勝ちだと扇は考えていた。領域展開を1回すれば、菜緒葉の呪力はほぼ枯渇状態になる。そしてフィジカルでは扇が上だ。純粋な殴り合いになれば、扇が勝利する。
しかし視界の端で何かがちらつくのは、目の毛細血管の破れだった。鼻の下を伝う湿った感触に手をやれば、指先は赤く染まっている。そしてそれを確認するだけの動作にすら、肺が痛みを伴った呼吸を要求してくる。
領域崩壊と同時に『焦眉之赳』の効果時間も切れていた。術式解放『焦眉之赳』は自身の感じている危機感に応じて、元々構築済の炎を元に燃焼の際の連鎖反応を加速させることで、構築量を倍加させるもの。代償として、持続時間が切れると刀身の火も完全に消える。手の中で蒼炎は急速に薄れ、刀身の輪郭を保てなくなり、ほどけるように虚空へと散った。
同時に、扇は柄を手放した。乾いた音を立てて、用済みになった刀の柄が土の上に転がる。
そしてその隙を逃さず、菜緒葉は獲物を屠る獣の如き速度で襲いかかってきた。低く沈み込み、風を切るような鋭い踏み込みで間合いを詰める。立ち上がろうとした扇の膝を、狙い澄ました低い回し蹴りが襲った。
「──っ!」
扇は反射的に残った呪力を膝に集中させ、防御する。鈍い衝撃。続いて、休む間もなく彼女の掌底が扇の顎を跳ね上げる。忌々しい『菜切り包丁』は使ってこない。領域展開の代償として術式の焼き切れを起こしているのだろう。扇は薄れゆく意識を歯を食いしばって繋ぎ止め、残された呪力を両腕に集約した。
「舐めるな……小娘がぁッ!!」
扇は腕を無理やり振り抜き、菜緒葉の首筋を狙って手刀を放つ。彼女はそれを紙一重でかわし、その勢いを利用して扇の懐へと潜り込んだ。少女の柔らかい髪が扇の頬を掠める。
本来ならば菜緒葉より身体能力もリーチも、体格の面でも扇が圧倒的に勝っている。歴戦の肉体が培った格闘術は、本来なら小娘の打撃など赤子の手を捻るようにあしらえるはずだった。
しかし、無傷の菜緒葉と、心身ともに磨り潰され消耗しきった扇とでは、残酷なほどに勝負が成立する。してしまう。
……ああ、そうだ。この感覚だ。
拳を突き出し、組み合い、互いの体温を至近距離で感じる中で、扇の胸中に奇妙な感慨が芽生え始めた。
もしも妻が適切な時期に、適切な才能を持った後継ぎを産んでさえいれば。こうして日々、組み手に付き合い、己の技術を伝承する悦びに浸っていたかもしれない。男児を相手にする幸福な空想は、十数年間繰り返してきた。だが、目の前で揺れる、一分の隙もない小柄な娘の輪郭をぼんやりと眺めていると、脳のどこかで「女でも、これならば」という思考が首をもたげる。こういう娘がいれば、仕事がどんなに忙しくても、相手をしたくもなるだろう。
菜緒葉と直毘人は仲が良い。
共通の趣味を語らい互いの才能を認め合う、理想的な父娘。
それは扇が結婚前に思い描き、そして無惨に打ち砕かれた未来図そのものだった。
扇の結婚は、この禪院本家においては極めて稀な、情熱に基づいた恋愛結婚だった。
相伝でも相伝の強力な派生術式でもない落伍者として人生を始めた扇には、その自由が許された。期待されていなかったからこそ許された自由だ。非術師だが身許はしっかりしている若く美しい女中に当時の扇は夢中になり、関係を進めた。親からは若干嫌な顔をされたが、押し切れる範疇だった。
あの頃の自分には一点の曇りもなかった。
自分の情熱こそが真実であり、その先に待つ未来は慎ましくも輝かしいものだと信じて疑わなかったのだ。
相伝の術式を持つ息子。
そして自分に懐いてくれる美しく可憐な娘。
そんな幸福のパズルを、扇は何度も頭の中で組み立てては、独り悦に入っていた。
しかし子供が中々できなかった。
月日が流れる毎に、かつての自由な選択は取り返しのつかない失敗へとすり替わっていく。
この後悔は我が子の誕生で憎悪に変わった。
一卵性の双子は呪術界において欠陥品だ。しかも片方は呪力すら殆どない。妻の胎は、扇の理想図の根底を裏切ったのだ。
「……ッ、がはあぁっ!!」
菜緒葉の鋭い前蹴りが、扇の腹部を正確に捉える。内臓が押し潰される衝撃に、扇は血を混じらせた唾液を吐き出しながら、それでも彼女の細い足首を掴もうと執念だけで指を伸ばした。
妻や娘達にもう少し優しく接しさえすれば、今からでもかつて夢見た温かな家庭に近い何かに手が届くのかもしれない。自分を幸せから遠ざけているのは、他ならぬ自分自身なのではないか。──その真実を扇は決して認識できない。悪いのは自分を裏切った妻であり、期待外れだった娘たちなのだ。
扇を蹴り転がした菜緒葉は一度距離を取り、懐から呪力に満ちた禍々しい紫色の球体を取り出した。それが何なのかを扇には一目で理解できた。
領域展開で枯渇した呪力を強引に補填するための、呪霊を材料とした加工食だろう。
「まあ、これ位は当然用意しときますわよね」
菜緒葉はそれを扇に見せびらかしたあと、可憐に微笑みながらそれを躊躇なく口へと放り込む。直後、彼女の体から立ち昇る呪力が、領域展開前を遥かに凌ぐ密度で膨れ上がった。
「これ、いずれは1級以上の呪霊を相手にするときの我が家の標準装備にしたいと思っているんです。今回のは、お父様向けのデモンストレーション──つまり実戦での有効性の証明ですわ」
扇は思わず声を上げた。
「……っ、貴様、反則だろうが……それはッ!!」
「いいえ。呪具の使用と何ら変わりありません。……さて」
菜緒葉の瞳が、獲物を定める冷徹な光を帯びる。その後ろには、静かに戦況を見守る直毘人と、直蔵の姿。
家族の視線──禪院家の視線。
「お父様とお兄様が見ていらっしゃるから、派手なアンコールをお見せしなきゃ」
再び、空間が歪む。
「──領域展開、『
──そして、全ては再び純白に反転する。
眼前に広がる真っ白な空間の中央。そこに鎮座していたのは、ねじくれ、脈動を繰り返す巨大な肌色の肉塊だった。全裸の胴体を積み重ねてコラージュのように継ぎ接ぎしたかのような、生命への冒涜そのものの醜悪な天秤状のオブジェ。
扇はその肉塊の起伏に既視感を覚えた。
それが連想させたのはかつてこの禪院という家の頂点に君臨し、自分を落伍者と定義した父の背中であり、あるいは相伝持ちだった長兄の腕であり、あるいは自分を嘲笑している次兄直毘人の傲岸な肩のラインだ。
禪院の歴史そのものを煮凝りにしたような、呪わしくも巨大な父権のシミュラクラ。
その頂に菜緒葉が座っている。
まるで使い古したソファにでも腰掛けるような、あまりに不遜で、あまりに気軽な仕草で。
「ようこそ、私の体内に」
少女の声と同時に、ドクン、と肉塊が世界を揺らすほどの脈動を打つ。次の瞬間、肉のひだの間から丸太のように肥大化した無数の腕が、音もなく、けれど絶対的な質量を伴って扇へと殺到する。扇はもはや意地で『落花の情』を展開した。
「おのれぇッ!!」
触れたものを自動で呪力で弾く呪力プログラム。扇の持つ唯一の領域対策。
しかし──次の瞬間扇の全身は歴史そのものに絡め取られるように、無数の指によってガッチリと固定された。
「……っ、な、何故だ……!? 何故『落花』で対応できん!!」
「ごめんなさいね、おじさま。こちらのリミックスはまだ未完成なんですの。必中ですらない、単に物量にものを言わせた攻撃です」
扇の肉体は逃げ場のない血族の腕に絡め取られ、無様に宙へと吊り上げられた。徒手空拳で呪力も尽きかけている、おまけに負傷状態の扇では、もはやなすすべもない。
己を掴む手には体温がある。爪が食い込む痛みがある。それこそが、扇を戦慄させる。
「術式効果がない……?まさか、これはただの……ッ!」
「そう。これは単なる生得領域の外部展開。必中どころか領域展開のもう一つの利点であるステータス上昇すら、生憎とおぼつかない欠陥品ですの」
菜緒葉は肉の玉座から身を乗り出し、吊るし上げられた扇を見下ろす。その瞳にはもはや敵対心すら宿っていない。解剖医が被検体を見つめるような、透徹した好奇心だけがある。
今回の領域が不完全であるのが喜ばしいことである──とは思えない。勝ち目は既に無に等しく、そして何より。
「貴様……一体何をした? 何を喰らい、何を思えば、これほどまでの歪みが
彼女が何をしているのかがわからない。何をしようとしているのかがわからない。自分が何をされるのかがわからない。
「どうでもいいでしょ、そんなこと。……大の大人が怖がる必要なんて、どこにもありませんわよ。大したことはしません。ただ……」
菜緒葉が指を伸ばす。
同時に肉塊から生えた一本の腕が扇の左胸──心臓の位置に、音もなく指先で触れた。
「あなたの心に、少し触れさせていただくだけです」
◇
よし! ここからが本番だ!!
当初のプランでは、扇のおじさまを陥れて蟄居などさせるのが一番手っ取り早いと考えていた。念のため、おばさまに夫への愛が残っていないか慎重にリサーチしたが、既に家庭内別居寸前だそうで、おばさまの精神衛生上の問題も特になさそうだったし。
だが、それを強引にやると「可憐な才女の菜緒葉ちゃん」を演じてきた俺のブランドイメージに傷がつく。それに、改革されつつあるとはいえ禪院みたいな古臭い家でおじさまだけを放逐したら、残されたおばさまの肩身が狭くなる可能性は皆無ではない。何より将来、事情を知らない真希ちゃんと真依ちゃんが「父親を奪った悪女」として俺を恨むリスクだってある。
そこで俺が捻り出したのが、もっと穏やかで、しかしある意味ではもっとヤバい方法。
桐永会の真男佳を食って取り込んだ術式『定名綴魂』の応用だ。
俺たちが真男佳を取り込んだことによる『定名綴魂』は、本来なら体内限定の擬似再現にすぎない。だが生得領域というのは心の中であり、体内にも等しい。だから生得領域を体外に展開すれば、その内部では『定名綴魂』を使える。少なくとも、俺の世界観ではそういうことにした。
そして、この領域に相手を閉じ込めている間は『定名綴魂』の術理を適用できるよう、俺と菜緒葉ちゃんは死ぬ気で特訓した。
三ヶ月間、毎晩夢の中で真男佳を精神的にしばきあげ、監視と縛りを条件に社会復帰した桐永会の子供達に対する彼の所業──「真岡先生」のテクニックを徹底的にヒアリングした。なんならその子達本人にも話を聞きに行った。さらに、大事件を起こして話題になった新興宗教のマインドコントロールの手口を読み漁った。
そしてさらに多対一でのマインドコントロールを不可とする縛りを加えた結果、相手の精神状態を一時的に書き換えることくらいなら、この領域内でなら可能となった。
消耗しきった扇のおじさまを一時的に俺の〈子〉にし、俺への好感度をMAXまで高める。その状態で、自発的に不戦と協力の縛りを結ばせ、領域内での俺に取って都合の悪い記憶だけを暗示によって消去して解放する。
他者間の縛りは脅して結ばせるんじゃダメだ。
あくまで「自発的」なものでないと意味がない。
完全にダークサイドのやり口なので、できれば今回限りにするつもりだ。だけどこれで無事に誰も死なず、家庭も壊れず、みんな幸せになれるはずだ。直蔵お兄様のように当人にとっても奇跡的にいい方向に行く可能性だって……ゼロじゃないし?
ともあれ肉塊から無数の唇を生やす。
さて、おじさまの魂の周波数に合わせながら、話を始めよう。
ここは純白のカウンセリングルーム。
扇のおじさまは俺達の仔羊だ。
「まず、聞かせて頂戴。今のおじさまには、私のこの椅子がどう見えますか?」
「……これは、父だ。父の、肉だ」
「慧眼ですわ、おじさま」
『この気色の悪い椅子が父親ですか。一体視力がいくつだったらそう見えるのでしょう?』
……でも、順調だ。
今の言葉が発せられた瞬間、おじさまの魂に深く触れられた感覚があった。
真男佳によれば、幼い子供を持つ親には本来この術式は通じにくいらしい。しかし例外がある。それは「親としての自覚がない人間」だ。親の自覚がない人間を、一時的に〈子〉の立場へ。この領域が持続する限り、おじさまは俺に依存する〈子〉として機能する。
そして、彼の魂の底に沈んでいた最大の欲望が浮かび上がってきた。
「……なるほど。扇のおじさまは、当主になりたかったのですね」
おじさまは屈辱の表情で絶句する。
知ってたよ、そんなこと。でも、本当に当主になりたいなら俺じゃなくてお父様と真っ向から勝負するか、周囲の支持を集める徳を積むべきだったんだ。
とはいえそれを今この人に言っても単なる自己満足にしかならないので、別の話をする。
「今日のおじさまはとても立派でしたわ。永続性ゆえに燃費の悪い炎の術式を、あそこまで磨き上げた執念……。お父様よりずっと努力家で、ずっと凄いですわ」
肉塊から生えた無数の唇がバラバラのピッチで、しかし一斉に全肯定を囁く。父から子への、無限の承認。その甘美な毒が、おじさまの精神を急速に融解させていく。
おじさまの顔に笑みが浮かび始めた。
前半は本音だ。結局フィジカルでは惨敗、術式の使い方と領域のおかげで勝った形だ。おじさまがこっちの手の内をもっと知っていて、『焦眉之赳』を出さずに戦い続けていたら、結果は違っただろう。そしておじさまの術式についての全容もわからずじまいだった。何故おじさまの炎はあれ程消えづらかったのか。領域内で『落花の情』を使っている時も、真空状態でさえ、消えなかったのか。俺は何も解き明かせていない。でも多分、沢山工夫したのだろう。きっと誰かに褒めてもらいたかっただろう。大人になると他人に褒めてもらうチャンスというのはどんどん減っていくけれども、これは褒められて然ることなのではないか。
でも、ごめん。お父様より凄いっていうのは流石に嘘だ。
別に扇のおじさまが雑魚とも頑張ってないとも思わないが、お父様だって工夫してるし、そしてものすごく強い。
いま本家で一番強いのはお父様。2番目は甚壱くん。これは確実。
あとは菜緒葉ちゃんならともかく、俺単独だと直哉に勝てるか怪しい。
『多分、落花カウンター居合で投射対策ができたつもりになってたとかでしょうね。どうせ、こっちはカウンター前提で動き作っとんのやとか語録紛いのことを言われて終わりでしょうに……』
菜緒葉ちゃんの分析は、それなりにあり得そうに思えた。
同情する。
お父様も、もっと子供の頃におじさまを完膚なきまでにぶちのめしてあげればよかったのに。そうすれば誰にも責任転嫁をできなくなって、こんな年までしょーもない承認欲求を引きずらずに済んだはずだ。そっちの方が一皮剥けて、おじさまも却って幸せになれていたかも。
それでも今だけは「お前が一番だ」と言ってあげる必要がある。
それを起点に、説得に移る必要があるからだ。
扇のおじさまには、扇のおじさま自身の意思で、俺の手駒になってもらわねばならない。
そして未来の禪院家滅亡への対策のため、娘殺しを絶対にできない縛りを結ばせなければいけない。
あと、これは完全に私情だが、おばさまへの態度ももう少しマシにしたい。
「で、おじさま。いざ当主になった後は、どうするおつもりで?」
そう尋ねると、おじさまは、毒を喰らったような顔で絶句した。
「……は、何だと?」
「もしもあなたが当主になったら。その先に何をしたいのか、と聞いているのですわ」
何万もの唇で、バラバラのピッチで問いを繰り返す。
禪院家を変えたいのですか?
それとも、誰かを救いたいのですか?
などなど。
でもまあ、違うか。
扇のおじさまに限っては。
「おじさまが望んでいるのは、ただ一つ。私のお父様に勝って、周りに認めてもらうこと。……あなたがなぜそこまで他人の評価に執着するのか、私には理解できません。でも、せめて自分自身をもう少し誇っては? おじさまは十分すごいのに、自信がないからそのように刺々しい態度で虚勢を張るのでしょう?」
真男佳なら、もっと空々しい共感を寄せただろう。だが俺には本当にわからない。
扇のおじさまは俺のような一般人視点だと普通に人生の勝者なのに、何が不満なんだ?
『年収一千万超えで美人の奧さんと娘がいる時点で、本来なら圧倒的な勝ち組ですものねぇ。それで満足しないから、おじさまは寂しいんですのよ』
うんうん。
お父様は当主なんて面倒くさいお役目、酒を飲む合間に楽しくもなさそうにやってるだけだ。直哉ですら、言うほど当主の座自体に興味があるようには見えない。あくまで自分のやりたいことのための通過地点といった様子だ。
やりたいこともないのに当主の座に執着してコンプレックスを爆発させるなんて、ただの無駄だと思う。同期との出世スピード差を気にするサラリーマンかよ。
「黙れ……黙れぇッ!!」
扇のおじさまは実に繊細な様子で叫んだ。
情緒不安定なおじさまに、俺はなるべくかわいらしく微笑んでみせる。
「いいえ、黙りませんわ。本当にお父様に勝ちたいのなら、それに相応しい振る舞いをしていただかないと。あなたに夢はありますか? 私にはあります。お父様とは違う、新しい時代の夢が」
願わくばこの夢が、扇のおじさまにとっても魅力的でありますように。
まあ、素のおじさまが思わなくても、無理やり思わせるしかないんだけれども。
肉の椅子の上で立ち上がり、くるりと一周回ってからおじさまを見下ろす。そして夢を語る。
「私は衆生を救いたいのです。呪力至上主義と術式至上主義を廃し、呪術師が『猿』と蔑む階級を消滅させます。そして世界に呪力を配布し、全人類を呪術師に近づけることで、本来治せるはずの病気や不幸で死ぬ人を減らしたい。なるべく穏健な形での、呪力の最適化。それが私の目指す地平です。……まずはこの、禪院家から始めましょう?」
俺達は既に始めている。
おじさま自身を含め、呪力量に悩む術師の悩みを解消した。多くの人の理解を得て、術式がない人が馬鹿にされないようにし、非術師である女中の仕事が尊重されるようにした。
あとは甚爾くんと未来の真希ちゃんを上手いことどうにかして、直哉と協力し、合法的に人類総術師計画を進める。
お兄様の仲立ちで直哉と仲直りした時、菜緒葉ちゃんを犯罪者にしないために将来呪術規定8条をゆるくしたいって言ってたし、過去を反省したせいかここ最近ずっと優しいし、それを抜きにしてもアイツってたぶんちょっぴりシスコン入ってるから……菜緒葉ちゃんがかわいくお願いすればきっと協力してくれるだろ!
『そして全人類を美少女に…』
それは……流石にどうかなぁ?
『とか言って本当は〜?』
しないっつってるじゃん。
でもどうだろう。
ちょっと前までは人類総術師計画だって完全に狂ってると思ってたからなぁ。
「……貴様は狂っている」
おじさまですら言った。
不当な罵倒ではない。俺自身ですら、今でもちょっぴりそう思う。
でも、呪術を知らないせいで治せるかもしれない病気で死ぬ人間がいっぱいいるんだと考えると、堪らなく腹が立ってくる。前世の俺も、お姉様も、今も世界中で苦しんでいる人達も、無知で無力なままに死んでいくのが自然の摂理だとでもいうのだろうか。元はと言えば禪院家の呪力至上主義のせいであの家族は滅茶苦茶になったのに、そのうえ更に救いを奪われたようなものじゃないのか?
前世ならまだしもこの世界には呪術という本来あり得ない力があるのに、たかが一見実現不可能だというだけの理由で、この理不尽を諦められるはずがない。
何もせずにこのままのうのうと生きているなんて耐えられない。
俺は、失ったものを無駄にしたくない。
「頑張る前から諦めるのは良くありませんわ。泥にまみれながら、自分の目指す美しき世界のために抗い、一歩を踏み出す。それが本物の気高さだと、私はそう思うのです」
『……』
それは菜緒葉ちゃんがかつて羂索に対して言っていたことだった。菜緒葉ちゃんの発想にはいびつな部分が多々あったけれど、それでも自分より圧倒的に強い相手を前に直哉を守りながら、堂々と自分の指針を話していた。その勇気と前向きさを俺は心の奥底から尊敬する。
まずは一歩踏み出す。
泥にまみれても、遠い極星を目指す。
俺と菜緒葉ちゃんは恵くんと甚爾くんを取り戻して、幸せな世界を作って、それから恵くんに、お姉様の話をいっぱい聞かせてあげるんだ。
「私の目指す世界で、あなたの娘は『猿』ではなくなる。蔑まれることもない」
「……」
「あなたはあなたを重んじる訳でもない世界の理を受け入れて、随分とお悩みだったようですが、これからは違う。あなたは素晴らしい『父親』になれるのです。想像なさい。真希ちゃんも真依ちゃんも立派な術師として成長し、あなたを尊敬し、『お父様、大好き』と言って微笑む未来を」
真男佳曰く、『定名綴魂』は自信を持って楽しく話せば話すほど、よく効くらしい。だから、なるべく幸せな未来を思い描いた。
まだ何もわからない年齢の真希ちゃんと真依ちゃんは、その未来を喜ぶだろうか。よくわからない。
俺が「家族全員揃って幸せに暮らしてくれますように」とずっと考えていたのは全く別の一家のことで、これは所詮、単なる身勝手な投影だった。
それでもおじさまの表情に微かな、本当に微かな揺らぎが生じた。
今だ。
「だから、まずは奥様と娘たちに優しくすること。……曖昧な言い方では縛りの効きが悪いでしょうか。とりあえず今ここで、彼女たちに絶対に暴力を振るわないという縛りを結びなさい。殴る蹴るはもちろん、剣を向けることも、殺めることも、決して許されません。ネグレクトも駄目。きちんと綺麗な服を着せて、玩具も色々買ってあげて」
「……わかった。それは、構わん」
おじさまは案外あっさり承諾した。
将来は娘を殺そうとするクズになるおじさまだが、現時点ではまだ1歳児相手にそこまでの殺意は持っていないらしい。今のうちに縛っておけば、変質する前に防げるだろう。
「そしてもうひとつ縛りを結んでください。私と協力関係になりましょう。私の方針に従い、私の邪魔をしないこと。……私を助けて一族の信望を集めるのと、『猿の親』として未来永劫蔑まれながら孤独に死ぬの、どちらがよろしいかしら?」
この二択は論理的には完全に破綻しているが、『定名綴魂』の暗示下にある彼には、逃げ道のない二者択一に見えるはずだ。
「さあ、私に従ってください。おじさま」
そう迫る。
「……ああ。……わかった、菜緒葉」
言質取ったり。はい縛り!
真男佳のようなテクニックが俺にはないからか、魂に触れてみてさえおじさまは俺にとって理解不能な人だった。だが、縛りさえ結んでしまえば、この人が今後俺の脅威になることはないだろう。あとはおじさまが『定名綴魂』の術式効果に気づいてしまいそうな記憶を適当に封じ、俺へのうっすらとした好意と縛りのことだけを覚えているようにしよう。
「ありがとうございます、おじさま。これで私の用事はおしまい。領域は解除して差し上げますね」
そう言いながら記憶操作のために椅子から生やした手を一本翳した瞬間、おじさまは呆然と尋ねてきた。
「何故……仲良くしようなどと。貴様ならもっと乱暴な措置を押し通せただろう?」
は?
急に何なんだ。
「『猿』を救う私がどうしてあなた程度を慈しまないと?」
現状この人、お金目当てで人を殺してない分甚爾くんよりだいぶマシだもんね。
それに、お父さんと子供には普通に仲良くしていて欲しいもん。甚爾くんが今できていないであろうことを、俺はこの家で成立させる。
「さあ、もっと生きやすい世界を私と作りましょう。きっとおじさまのお気にも召しますわ」
そして──
『そして願わくば同じ夢を、どうか沢山の人が一緒に見てくれるようになりますように』
領域を解除すると、ボロボロになった扇のおじさまがその場に倒れ込んだ。
「扇さん!」
お兄様が急いで駆け寄ってきたが、この人に手間をかけるのも何なので、俺が軽く反転をかけた。これで、ちょっと休めば回復するだろう。俺が傷つけ俺が癒やす。我ながら凄まじいマッチポンプだが、まあいっか。
「……う、あ……」
「おじさま。少し眠っていてください。目が覚めたときには、きっとすべてが晴れやかになっていますわ」
ニッコリとそう笑っておく。
お兄様は意識を失ったおじさまを小脇に抱えつつ、表情を輝かせていた。
「菜緒葉、やったな! まさか扇さんをあんな風に圧倒するなんて……オマエってやっぱり最高にすごい妹だ!」
「ありがとう、お兄様!」
そのままお兄様と3回連続でハイタッチした。お兄様は楽しげに笑っていた。たったこれだけのやり取りが、お兄様にとってはすごく嬉しいらしい。いつのまにか、自分でも気づかないうちに、俺達はごく普通の兄妹になっていたようだった。
お父様はと言えば、とても真剣な目でこちらを見つめた。
「……菜緒葉」
泥の中で淡く光る砂金を見るような眼差しで、聞いたこともないような、どこか切羽詰まった不思議な響きの声で、お父様は、全部の神経を集中させてこちらを見ていた。
この世でいちばん大事な宝物を名指すかのように、「菜緒葉」という名前を呼んでくれた。
俺を。菜緒葉ちゃんを。
お父様が見ている。
それだけのことであらゆる感覚が敏感になって、青空とかそよ風とか、そういうものの全部がいつもよりも鮮やかに美しく感じられた。世界の全部の綺麗に見えた。お父様が見てくれるというだけのことが、俺達にとっては心底誇らしかった。多分、幾つになっても誇らしいんだろうと思う。
──駄目だなぁ、俺達は。
「ほら、私、強くなったでしょう?」
そう言った瞬間、ものすごい速さで腕を背中に回されて、前が全く見えなくなった。
お父様は子供の抱きしめ方が本当に下手くそで、何もかもがなってなかった。ぎゅうぎゅう締めつけられて息が苦しいし、体がちょっと痛いし、なんだか酒臭いし。おそらくは真男佳の方が、一万倍上手いと思う。
でも、それでも、全然許せた。
頭の斜め上でお兄様の声がした。
「ちょっとお父さん、何泣いてるんですか? ひょっとして……菜緒葉が大活躍して、感動しちゃった?」
「……いちいちうるさいな、オマエは」
お父様はぶっきらぼうに言って、それから、抱きしめる力が余計に強くなった。
──この、クソ親父。
本当に馬鹿な人だよ。大馬鹿だ。
俺は大人だからわかってあげられるけど、こんなんじゃ子供には何も伝わらないよ。
でも、良かったね、菜緒葉ちゃん。
『……』
菜緒葉ちゃんは何も答えなかった。
それでも、この感覚の全部を、菜緒葉ちゃんも一緒に感じている。
禪院菜緒葉の人生は沢山間違えて、沢山取り零して、強くなってさえ上手く行かないことばかりだけれども、俺はお父様に、大きくなった菜緒葉ちゃんの友禅姿を絶対に見せてあげたいなぁと思った。夢の中で、本当に綺麗に見えたから。
俺も菜緒葉ちゃんも、お父様の喜ぶような優しくて従順で無害な娘には、絶対になれないけれど。俺がさっきやったことを知ったら、もしかしたら悲しむかもしれないけれど。
それでも俺達は、呪術師になる。
そして研ぎ澄ます。
お父様とお母様からもらった血から生まれた呪いを。この世界への嘆きを。お父様が必死に守って来たこの家が、それでも打ち捨ててきたものに対する愛を。
──ごめんね、お父様。
大好き。
第3部はこれにて完結です。
投票者数がもうすぐ200! 皆様ありがとうございます!!
ご感想・誤字修正も非常にありがたいです!
第4部は『人類総魔法少女化計画始動編』。
マコの現在の思想の位置についても、詳しくはそこで。
菜緒葉と羂索の水着回を入れる予定なので虎杖香織に着て欲しい水着のことを今は一生懸命に考えていますが、他人の体で勝手に出産したり勝手に水着着たりする羂索、ガチで許せねーな…