音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?!   作:ポ予

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彌虚葛籠と領域展延となんだか方向性の変わったヤバ叔父

 バタン、と重厚なドアが閉まる。

 

 同時に菜緒葉ちゃんは渡されたメモを両手で握りしめたまま、椅子に深く身を預けた。緊張と高揚とそれ以外の名前のつかない何かが体から抜けていくのを、俺は内側からただ見ていた。やがて菜緒葉ちゃんの意識が緩んで、肉体の手綱がそっと俺の方へ滑ってくる。

 

「マコくん、マカロン1個しか残してなくてごめんなさいね。食べて」

 

 菜緒葉ちゃんはそう言いながら意識を返した。いつも通りだ。彼女が気を張り終えた後のこの明け渡しの感触はもう何度も経験した。

 のろのろと少し冷めた紅茶のティーカップを持ち上げると、冷めた紅茶は少し苦くなっている。

 俺達は感覚を共有している。菜緒葉ちゃんが食べた物の味は伝わるし、その逆もまた然りなのだから、正直体を譲っても貰わなくても別に構わなかった。けれどもこれは菜緒葉ちゃんなりの不器用な気遣いなのだろう。

 

 

 ──菜緒葉ちゃんという女の子を、俺は誰よりも近くで、誰よりも長く見てきた。

 オタクで、口を開けば毒舌のオンパレード。奇行が目立つ。虫もラスボスも平気で、呪術師らしく頭のネジが何本も飛んでいる。

 だけど心の一番深い部分では、ガラス細工みたいに脆くて繊細な女の子だ。 

 男尊女卑という言葉すら生ぬるい禪院家の底辺で、俺が来る前のあの子がどれだけ必死に弟を想っていたかを、俺は誰よりも知っている。

 誰も見向きもしないカビ臭い書庫の片隅で、古い呪術書を指でなぞるみたいにして一字ずつ解いていったこと。大人の術師たちの、非術師や女を平気で見下すくだらない世間話を廊下の陰で息を潜めて拾い集め、この世界の生存法則を割り出していったこと。弟にさえも見下されながら、誰にも助けを求められない中で、孤独に耐えていたこと。

 元々持っていたサディスティックな素質に俺が持ち込んでしまった前世のオタク知識が最悪の形で噛み合ったせいで、菜緒葉ちゃんのパーソナリティはとんでもなく歪んだ。客観的に見れば相当にヤバい子だ。しかし根底にあった動機が善の志向だということだけは、疑いようがない。そうじゃなきゃ、どうしてあんなにも最低だった直哉に、無償の愛情と献身を注ぐことができただろうか。

 

 だから俺は彼女の夢の素晴らしい半分を実現させて、危うい半分にはブレーキをかけたい。

 その果てで、この子はもっと伸び伸びと生きられるようになるだろう。

 そう思っていた。

 

 だけど──諦めさせるべき危うい半分として扱ってきたバカげた願いの底に、菜緒葉ちゃんの最も深い傷が隠れていた。

 

 お千代さんが殺された時、甚爾くんが代わりに敵討ちをしてくれたから、俺は区切りをつけられた。だからこそ俺は今、菜緒葉ちゃんと一緒に手の届く場所から現実的に家を変えている。でもそれは、俺が大人の男の記憶を持っているからこそできた割り切りだ。

 俺という大人の知識と記憶が流れ込んでいて、凄まじくおとなびた雰囲気だったとはいえ、あの時の菜緒葉ちゃんはたったの6歳だった。

 彼女がステキだと思うのは魔法少女。みんなを守る可愛くて優しい力。しかし現実の呪術師は人を守るどころか強引に支配し、殺していた。そして信用できる唯一の身近な男である俺は、菜緒葉ちゃんの中では「TS美少女」の分類。

 そして、彼女は今も俺にも言えない何かを背負っている。

 

 

「……菜緒葉ちゃん」

 

 マカロンに小さく歯を立てながら話しかける。

 

『なぁにマコくん? さっきから様子がおかしいですわよ、どうしたの?』

「……あんまり伝えられてなかったのかもしれないけど、君は賢くてすごい子だよ。俺が菜緒葉ちゃんの助け抜きで成し遂げたことはほとんどないし、俺が来なくたって、君はなんだかんだで上手くやれてたんじゃないかな」

 

 それどころか、俺の記憶なしの菜緒葉ちゃんは今より完璧な女の子だったかもしれない。少なくとも、音MAD怪人ではなかっただろう。

 

「だから、あんまり遠くに行かないでね」 

 

 菜緒葉ちゃんのことを助けられなかったら、俺は何のためにいるのかわからない。しかし菜緒葉ちゃんは平気な態度で答えた。

 

『マコくんったら急に改まって私を褒め殺したって、何もあげませんわよ。……それにね』

 

 呆れたように、けれどどこか酷く愛おしそうな気配を滲ませてクスリと笑いながら、彼女は付け加える。

 

『私達は死ぬまで一緒なんですのよ。何があっても、絶対に離れられないんだから!』

 

 それはそうだ。

 でも、そういう問題じゃない。

 俺は何年も同じ体の中にいるのに、まだ彼女の一番深い部分の傷を救えていない。世界に対する幻滅を消してあげられるような光景を、俺は彼女に見せてあげられていない。

 

 苦い気持ちで最後の一口になったマンゴーのマカロンを口に放り込む。甘い。さっきまで菜緒葉ちゃんが幸せそうに食べていたのと同じはずの甘さ。なのに、舌の上でうまく溶けてくれない。

 

 もう少しの辛抱で京都の呪術高専に行ける。そこで普通の優しい男と会わせて、そうすれば、彼女も少しは……。

 ──って、なんでポッと出の男なんかに期待をかけなくちゃいけないんだよ。なんかムカつくな。

 菜緒葉ちゃんは理解のある彼くんにサクッと救済されちゃうようなカスい女じゃないし、第一他人任せなんて俺達には似合わないと思う。

 

「寂しいからって羂索なんかに籠絡されて、アドレスまで聞くなってことだよ。相棒なら俺がいるじゃん」

 

 そう言うと菜緒葉ちゃんは笑った。

 

『あら、籠絡なんかされてませんわよ。たしかに年上のミステリアスな女性にときめいてはいますけれども』

「おい」

『でも、これも全部、彼女から必要な呪術知識を伝授してもらうためです。呪物化以外にもいくつか教えてくれると、最初の縛りの時に羂索さんは仰っていましたよね?』

 

 思い出す。たしかにそう言っていた。

 

『何もかも、我々の目的のためですわ。今のままでは勝ち目が薄い。油断されている間にあの人から知識を吸い上げて、今後あの人の計画を乗っ取るための種にするんですのよ』

 

 菜緒葉ちゃんは前向きだった。

 本音かどうか心配だし、本音にしたってあまりにも危険な判断だとは思うが……。

 

「打倒五条でも目標にすっか……」

 

 冗談めかして言ったがガチだ。

 目標は高くデッカく。そのレベルで成長できないと割に合わない。

 俺は腹をくくることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 羂索が手始めに渡してきた情報の価値は、破格といっても過言ではないものだった。

 

 我が家の広大な敷地の隅に位置する、欅の太い柱が支える天井の高い道場。そこで俺は道着の帯を締め直し、深く息を整えた。

 両手を胸の前に伸ばして組み、脳内に領域の輪郭を描き、それを内側からぐっと締め上げる。

 

「──『彌虚葛籠』」

 

 刹那、俺の周囲に籠状の光の結界が展開される。 うん、十分形になってきた。

 御三家の人間はシン・陰流の門を潜れない。躯倶留隊の上澄みの何人かは見稽古でこっそり簡易領域の技術を盗んでいるが、本物の門弟のそれとは比べ物にならないとぼやいていた。

 そこで羂索から教わったのがこの技だ。習得難度は簡易領域より上だし、門弟仕込みの簡易領域のような詳細なプログラムも組み込みづらい。けれど、強度面だけは通常の簡易領域より上。俺が欲しかったのはまさにこの強度だ。

 

 噂によれば五条悟は反転術式こそまだだが、領域展開はもう使えるらしい。あの規格外を相手に薄っぺらい見よう見真似の簡易領域では、数秒で剥がされて終わるだろう。

 ただ、これも掌印を維持し続けなければそのうち押し負ける。両腕が塞がった状態でガンダで逃げるしかないのは、少々不格好か。

 

『でもこれ、戦前に失伝した秘技を私が独力で復活させた……という体裁で売り出せば、家での立場固めにも使えますわよね』

 

 脳内の菜緒葉ちゃんが生得領域の肉の椅子に深く腰掛け、ちゃっかりとした政治的提案をしてきた

 まったくもってその通りだ。 出所が羂索だなんて口が裂けても言えないが、カリキュラムに落とし込んで家全体に配れば、等級査定をミスった時の死人だって確実に減らせる。次回の勉強会の事例発表の枠で、まずは方法論から共有しよう。我が家くらい人材が豊富なら、誰かしらが改良案を思いつく可能性もある

 

 で、もうひとつ。並行で教えてもらった『領域展延』の方も大体感覚を掴めた。

 『彌虚葛籠』を解き、今度は自身の体に膜のように術式の付与されていないごく薄い領域を展開する。

 

 ──うん、できる。

 

 俺の場合は生得術式だけで無下限破りは可能なのであまり意味はないけれど、羂索は「五条の無下限破りにも使えるよ」と得意げだった。防御力も桁違いに上がるはずだ。 だが、この技の使用中には生得術式が使用不可能になる。有利を作るには、徒手空拳での能力が相当に高くないと話にならない。

 身体的なハンデを生得術式を応用しての呪力操作攪乱で補っている俺の場合、『領域展延』はあくまで防御専門技として運用し、生得術式との即時切り替えを極めるのが生存戦略として正しいはずだが──

 

「……でも、この切り替えの練習が、あまりにも難しすぎる……」

 

 冷や汗がこめかみを伝う。呪力の循環を瞬時に組み替える作業は、脳を直接かき回されるような疲労感を伴った。

 

『弱気ですわねマコくん。でも、その試行錯誤こそが美少女への階段を一歩ずつ登るステップになるんですのよ!』

 

 どんな階段だよ。

 

『──なんて冗談は置いておいて。これ、もしかしたら直哉辺りに教えてあげた方が上手く使いこなすんじゃありません? 体術も処理速度も私達より断然上だし、それでいて無下限攻略がムリなのを気にしてますし』

 

 菜緒葉ちゃんから弟想いな提案が出てきた。

 けれどもすぐにというのは賛同できない。これは古い本にもほぼ乗っていない、独学での習得が困難な技だ。直哉なら俺たちと羂索の危険すぎる関係に絶対に勘づくし、勘づいたら絶対に動揺する。

 最近は空気を爆発させる謎の技を練習しているみたいだし、それが落ち着いた後で声をかけるのでもいいだろう。

 

 苦笑しながら俺は一息つき、水筒の水を一気に煽った。喉を潤す冷たい水が鍛錬で火照った体に染み渡る。そして一息ついたところで携帯電話を取り出す。菜緒葉ちゃんの趣味で控えめ系のデコ電になっており、白と青のラインストーンで右下の部分が上品に彩られている。

 羂索のアドレス——「i.kaori」から始まるアドレスを呼び出し、鍛錬の進捗を打ち込んで送信した。

 

「……菜緒葉」

 

 突然背後からかけられた静かな声に、俺の背筋が凍りついた。 慌てて携帯を隠しながら振り返ると、そこには禪院扇が立っていた。任務帰りになんとなく道場を覗いてみたと言った様子だ。

 何年か前の彼なら、俺を見るだけで姪に対する険悪な殺意を宿していただろう。だが、今の彼の瞳に宿っているのはどこか恍惚とした親愛の色だった。

 

「お、おじさま……。いつからそこに?」

「先ほどだ。邪魔をするつもりはなかったのだが……お前の放つ呪力の煌めきがあまりに尊く、つい見惚れてしまった。まさか『領域展延』を物にするとは……」

 

 おじさまは慈しむように俺の肩を軽く叩く。

 

 コイツ何??????? 怖すぎだろ!!

 

『本当に怖すぎですわー。見てご覧なさい、おじさまのあの解脱したような顔……』

 

 このレベルで都合のいいことってある?

 実際どういう事情なんだろうね。

 

 でもまあ、今は『領域展延』について口止めするのが先だ。

 

「あら、おじさまは『領域展延』をご存知ですの。博学ですのね。……でも、まだ実戦には使えなくて恥ずかしいので、お父様たちには内緒の、二人だけの秘密にしてくださいね?」

 

 俺は完璧なお嬢様スマイルを貼り付け、かわいい上目遣いで小首を傾げて頼み込んだ。

 

「ふふ、二人だけの秘密か。いいだろう。お前の成長を特等席で見守れるのは、叔父としての誉れだ。……そう言えば、真希が昨日お前の絵を描いていてな」

「えーっ! 見たい見たい見たいですわ! 稽古は一段落ついたので、このまま一緒に着いていってよろしくて?」

 

 ガチで見たい。というかもらえないかな?

 

「ああ、もちろんだ。あの子たちもお前を待っているだろう」

 

 扇のおじさまは満足げに頷いた。

 

 

 

 

 

 廊下を歩く間、おじさまは俺の半歩後ろをガーディアンのように付き従ってきた。時折すれ違う躯倶留隊の隊員たちが二度見どころか三度見して絶句している。ドン引きする彼らに優雅に手を振りつつも、俺の脳内は疑問符でいっぱいだ。

 この人は一体なんなんだろう。

 俺の仮説では、自分が完膚なきまでに負けた相手をカスだと思うよりは、自分を凌駕する神聖な何かだと思い込んだ方が精神衛生上いい、っていう防衛本能だと思うんだけど……。

 

『あら、私はもっと政治的な理由だと思いますわよ。今、家内では「真希ちゃんと真依ちゃんに呪霊食を食べさせるか」という議論が活発化していますでしょう?』

 

 ──これは俺も『炳』に入ってからお父様に詳細を聞かされたのだが、一卵性の双子に呪霊食を支給すべきかどうかは、彼女達が誕生した瞬間からお父様と扇のおじさまの間で口論になっていたらしい。

 

『お父様は「真希には絶対食べさせない」と即決しましたわ。天与呪縛の肉体に呪霊食がどう作用するか不明ですし、他の術師に食べさせた方が効率がいいと。……問題は真依ちゃんですのよ』

 

 悪名高き天才・加茂憲倫の論文によれば、呪術上一卵性双生児は同一人物。現代人的な感性からすると理解不能だし、呪術界においても決して一般的な知識ではない。御三家の術師でさえ、双子は持って生まれる呪力や術式が分散する事例が多いのだと体感で知っているだけ。

 けれどもお父様は当主だけあって知識も豊富だ。だから何も知らなかったおじさまに「真依に呪霊食を与えても、呪術的に繋がっている真希の方へ呪力が流れて効果が半減するから食わせたくない」というようなことを言った。その時の言い方が最悪だったようで──おじさまはガチギレ。自分の子供達は未来永劫に出来損ないなのだと決めつけて、拗ねてしまったのだ。

 

『その怒りがお父様のもとに生まれた双子である私達の活躍に向いていたというのが、傍迷惑極まりないですけれどもねぇ……』

 

 でも、多少は同情できるかもしれん。で、おじさまは、今さら俺に媚を売ることで、その方針を覆そうとしてるってことか?

 

『その通りですわ。『炳』に加入し家内運営の発言権を無事ゲットした禪院の至宝たる私達が「食べさせる」派に回れば、形勢は逆転します。おじさまは私の機嫌を取ることで、真依ちゃんの強化の権利を優先的に回してもらおうとしているのでしょう。……実に強欲で愛らしくありませんこと?』

 

 菜緒葉ちゃんの嘲笑混じりの解説を聞きながら、俺は少し困った。

 

 実は、この件については直哉にも軽く意見を聞いた。直哉は双子は呪術上同一人物であること自体は元々知っていたようなのだが、フィジギフオタクゆえかお父様とはまた違う見解で「真依ちゃんの呪力は普通に増えるけど、その分真希ちゃんが雑魚になるんちゃう?」と言っていた。

 お父様の説の通りに効力が半分になるだけならおじさまの味方をするのもやぶさかではないが、直哉の説の方が正しいのなら無理だ。

 禪院家の誰より強くなれる才能のある真希ちゃんからその才能を奪うなんて、許されっこない。

 

 

 

 おばさまの部屋の前に着くと、俺は軽く咳払いをしてから襖を開けた。

 

「ごきげんよう。おじさまと一緒に遊びに来ましたわ」

 

 部屋の中ではおばさまが赤い着物を着た真希ちゃんと真依ちゃんの側で、静かに事務作業をしていた。俺の後ろに立つおじさまの姿を認めた瞬間、彼女の瞳に一瞬警戒が走ったが、おじさまが殊勝な顔をして視線を落とすのを見て、呆れた表情になった。

 それと同時に──

 

「ナオハ! ナオハだー!」

 

 真希ちゃんが、満面の笑みで俺に飛びついてきた。3歳になったばかりの子とは思えない凄まじい勢いと身体能力だ。真希ちゃんは活発で、俺に猛烈に懐いている。お喋りはまだたどたどしいが、「パパ」という言葉より先に「ナオハ」を覚えたほどだ。

 

「真希ちゃん、今日も元気ですわね」

 

 抱っこして真希ちゃんの柔らかな髪を撫でる。一方、妹の真依ちゃんは真希ちゃんのように飛びついてはこない。それどころか俺の姿を認めると、びくりと肩を震わせておばさまの着物の裾をぎゅっと掴んだ。

 

「……」

「真依ちゃんもおいで。大丈夫ですわよ」

 

 けれども真依ちゃんは全然動かない。彼女は完全な人見知りだ。

 

「ごめんなさいね、菜緒葉。真依は本当に内弁慶で。家族だけの時は強気なのよ」

「いいえ、おばさま。小さな子供が人見知りをするのは当然のことですわ。……それより、真希ちゃんが私の絵を描いてくれたというのは本当ですの?」

 

 俺が話を逸らすと真希ちゃんは「あ!」と思い出したように声を上げ、俺の腕からするりと抜け出した。そして部屋の隅に置いてあった画用紙を両手で大事そうに抱え、タタタッと足音を響かせて戻ってきた。

 

「ナオハ、これ! まきがかいた!」

 

 差し出された画用紙には、クレヨンでぐるぐると力強く描かれた俺の姿があった。3歳児の描く絵だ。丸い顔に目と口がぽつぽつとあるだけの拙いもの。……だけど、俺はその絵の異質さに、思わず息を呑んだ。

 真希ちゃんが描いた俺の、背後。

 そこには黒と紫のクレヨンが画用紙が破れんばかりの筆圧で重ねられ、まるで巨大な異形の影のようなものが描かれていたのだ。

 

『あら……。私達、背後にこんな禍々しいスタンドを背負っているように見えていまして?』

 

 驚愕する菜緒葉ちゃん。

 

「まいがこーみえるって! ゴキブリのおかげ? まきもゴキブリたべたい!」

 

 なるほど、呪力かぁ。

 どうやら真依ちゃんが俺の呪力を感じ取って恐怖し、それを真希ちゃんに告げ口(?)した結果、真希ちゃんがそれをそのままクレヨンでキャンバスにぶちまけたらしい。

 ……えっ、こんなに禍々しい感じなの?

 それはそれとして、強くなるためならゴキブリ食いを厭わない真希ちゃんは、菜緒葉ちゃんや直哉の同類。将来大物になる予兆が既に見えている。

 

「ゴキブリは真希ちゃんが食べたらおなかを壊すからダメですわ。……真希ちゃん。この絵、私の宝物にしてよろしくて?」

「うん! ナオハにあげる!」

 

 そう言って胸を張る真希ちゃんの頭を、俺は優しく撫でた。

 

 マジでかわいいな、この子。

 

 そして俺がこんなにも懐かれているということは、あの悲惨な禪院家壊滅フラグも完全に折れたのではないか。

 扇のおじさまも物理的に子殺し不可になったことだしな!

 

『うーん。でも、直哉がいますからね……』

 

 脳内の菜緒葉ちゃんのその一言に、俺の楽観的な思考はピタリと止まった。

 

 ……。

 

 実のところ、音MADの主役的ポジションであるはずの直哉が、俺の目線からするとこの家の中で最も謎めいている。何故なら、音MADで出てくる類の言動をことごとく叩き直しすぎた結果、予測不能になったから。

 得物は使う。兄姉とは仲良し。どれだけ取り繕おうが生まれ持った根っこがキツいせいで、躯倶留隊などからは震え上がられているが、表向きはだいぶマトモになった直哉。

 双子の姉という異分子のせいで決定的に変わっている彼も、本質は原作と共通のはず。けれども俺は、コイツの原作での芯の部分を一切理解できていないままだ。

 

 女を差別しながら真希ちゃんを追い詰める、禪院家の腐敗の典型。

 ……では、多分ないのだろう。

 直哉は最初に持っていたイメージよりも頭がいいし、冷静な子だ。

 俺が直哉の立場だったら、姉にもう一つの人格が宿っているという事実だけでも気が変になりかけていると思う。そこに追加で呪霊食の悪夢まで見ているのに、直哉は少しも揺らがないし、俺に対しても割と優しい。

 なんで直哉がそんなに強いのかはよくわからない。沢山泣いたり怒ったりしてくれればいいのに絶対にそれをしない弟の強さが、俺には理解できていない。

 それでも、周りの悪口を信じて根拠もなく真希ちゃんをいじめて、それを楽しむような人間じゃないのだけは、はっきりわかっている。

 そもそも音MADから読み取れる範囲だけを見ても、直哉のスタンスは禪院のテンプレとは根本的に違う。呪力なしと女では前者の方がより見下されるはずのこの家において呪力のない男を擁護する割には、女については平均以上に見下し、執拗に執着する──っつーのが、まずもって構造的におかしな話なのだ。

 しかし、だからと言って、原作の真希ちゃんが直哉を怒らせるような酷いことをしたとも思えなかった。嫌味を言われてきつく言い返したくらいはあるかもしれないけれども、俺と菜緒葉ちゃんが改革を進める前の禪院家は、女の子がそれ以上のことをできる場所ではないと思う。

 じゃあ、真希ちゃんの何がそんなに気に入らなかったんだ?

 直哉が真希ちゃんを虐げていたのはただ単にシステムに流された結果ではなく、彼自身の意志で犯した重罪のはず。だが俺には、この期に及んでさえその理由がわかっていない。直哉はこの美幼女双子の話題を出すたびに、今でもキレたナイフのような雰囲気になる。

 そして最悪なことに、直哉は姉からの説教でどうにかなるような年齢を脱しつつあった。

 かわいげのあるカスな部分と頑張り屋さんな部分とあれで姉想いな部分を大好きだとは思っているが、直哉は前世の俺が絶対に深く接触しなかったタイプの男子だ。

 

 直哉から語録を遠ざけたら、俺にとっては理解不能な部分だけが残った。そして直哉がもしも依然として小さな子達を傷つけるのなら、俺は絶対許せない。でももう、見限れもしないとも思ってる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 禪院菜緒葉は知らないことだが、禪院真依は引っ込み思案でも人見知りでもない。少し繊細で、怖がりなのは事実だ。けれどもそれは、夜の廊下を一人で歩けないとか、呪霊を見ると足が竦むとか、知らない大人に話しかけられると上手く話せなくなるとか、その程度の普通の女の子の繊細さの範疇に収まっている。おまけに年齢の割に賢くて、容姿も既に際立っている。

 

 もしも通常の幼稚園に通っていれば、おしゃまでかわいい子だと先生にも他の子の親達からも評されていただろう。

 更に順調に育てば小・中・高と常に女子の輪の中心になって、カースト上位に君臨するのは間違いなし。オシャレにこだわれば、街でスカウトだってされるかもしれない。

 地味なオタクの机に遠慮なく座って同じようにかわいい友人と笑い合い、学年で人気のある男子に告白されてはほんの少し気に入らないところがあっただけでフッて、それを武勇伝として語る。

 真依はそういう、典型的な女王様気質なのだ。

 しかし彼女は不幸なことに、エリート呪術師の家系、禪院家に生まれてしまった。

 

 真依の最初の記憶──それは父が母を相手に怒鳴り散らしているというものだ。何を言っているのかはわからない。3歳の耳でわかるのは、声の大きさと、母がそれに一言も言い返さないことと、部屋の空気が急に硬くなることだけだ。そしてその硬さのまんなかに自分と真希がいるらしいということを、真依は言葉よりも先に、皮膚で理解した。

 小さな子供でも、父と母の口論には心を削られる。削られた分は、もう戻らない。

 そのせいか、母は表情の乏しい人だった。

 それでも母は双子の娘に優しかった。

 

 

 ──本来この女性は、狭量な夫からの暴言と日々の過酷な労働、そして最低最悪の甥に精神を削られ「これも全て双子を産んでしまったせいだ」と娘達を憎み始める運命にあった。

 しかし菜緒葉がその運命を変えた。

 真希と真依に対して「産まなければよかった」と思いそうになる気持ちを、彼女は菜緒葉の存在と周囲の女中達の手助けによって、押し戻し続けることができた。それでも、押し戻し続けるという行為は、それ自体が労働だ。

 だからこそ、微かな歪みが現れる。

 

「菜緒葉みたいになりなさい」

 

 真希と真依に向けて、その言葉は繰り返し降り注いだ。

 真依はそう言われるたびに居心地が悪かった。理由は自覚できなかったが、その短い言葉にこめられた期待には、幼子には抱えきれないほどの重量があった。

 「菜緒葉のような女でなければ恵まれない環境から這い上がれない」という怯え。「自分の娘も菜緒葉のように優秀であってほしい」という願い。そして、「産まなければよかった」を毎日押し戻している母が、その押し戻しの代わりに娘へ差し出せる、愛のカタチをした何か。

 どの感情もまったく同じ濃さで本当だった。だから幼い真依のもとには重さだけがまるごと残り、漠然とした不気味さだけを感じた。

 

 呪いは無自覚なモノで、そして真希はその言葉に呪われなかった。

 真希はその言葉をにわか雨くらいの軽さで受けて、すぐに乾かした。真依だけが濡れ続けた。顔はそっくりなのに、どうして姉妹でここまで性格が違うのだろう。

 

 菜緒葉が土産を持って優しく訪ねてきて、大好きな真希が菜緒葉に勢いよく抱きつきに行くたび、真依の胸の奥はモヤモヤした。

 土産はいつもちゃんと2人分あった。けれども真依は、それを菜緒葉の手から直接受け取りに行くことがどうしてもできなかった。

 菜緒葉が帰ると、真依は「おねえちゃんキライ!」と、真希に意味もなく八つ当たりをした。

 本当は真希を嫌いなのではない。自分よりも菜緒葉と仲良くする真希が嫌いなのだ。しかしその区別が自分でつけられるようになるには、真依はまだ何年も足りなかった。

 

 

 

 

 ──父・禪院扇は、ある日を境に突然真依達に優しくなった。それは扇が菜緒葉との間に縛りを結んだからなのだが、真依は勿論、家中の誰一人としてそれを知らない。ただ、菜緒葉が扇を改心させたらしい、ということだけは、皆がなんとなく知っていた。そして、扇も真依に言い始めた。

 

「禪院菜緒葉になれ」

 

 母は「みたいになりなさい」と言った。

 父は「になれ」と言った。

 似ろ、ではなく、なれ。

 その一語のあいだで、真依という名前のための場所が、また少し狭くなった。

 

 

 

 

 ──どういう経緯で領域の中で菜緒葉と「娘達を傷つけない」という縛りを結んだのか、扇はもう思い出せなくなっている。けれどもこの縛りを結ぶこと自体には、扇には元からまるで抵抗感がなかった。娘たちはこの家で適当に下働きをこなし、適当な家に嫁いで終わるのだろう──そう思うと落胆と絶望があったが、まあ、殺す程の憎悪ではなかったのだ。将来、真希が呪術師になるなどと言い出して扇の恥を衆目に晒すなら、そのときは殺意も芽生えるのだろうが、縛りを結んだ時の扇はそこまで先を見据えてはいなかった。

 

 第二の「今後菜緒葉の味方をしろ」という縛りについても、実は『定名綴魂』の効果抜きでもそんなに嫌ではなかった。自分はこの少女には絶対に勝てないのだという確信が、はっきりとできあがっていたからだ。

 ふざけた加虐の声に煽られて負け、直蔵辺りが広めたのか「扇さんマゾ覚醒説」まで囁かれる始末。この状況で再度「わからせ」に失敗したら今度こそ扇はおしまいだ。

 そして菜緒葉はこちらから喧嘩を売りさえしなければ温厚──なんなら菩薩の部類なのも扇は承知していた。元々はそういう所が逆に腹立たしかったのが、今はそうでもない。

 

 ──頑張る前から諦めるのは良くありませんわ。泥にまみれながら、自分の目指す美しき世界のために抗い、一歩を踏み出す。それが本物の気高さだと、私はそう思うのです。

 

 どういう文脈で発せられたのかはもう思い出せない菜緒葉のその言葉が、扇を完全に作り変えたからだ。

 

 精神の安定のために出涸らしと見下していた姪が、ここまで至った。

 その事実から、扇はあることに気づいたのだ。

 

 頑張らせる前から諦めるのは、良くない。

 諦めるのは、同じ出涸らしの娘を泥にまみれさせて、一歩を踏み出させてからでも遅くない。

 つまり、真依を菜緒葉にすればいいのだ。

 

 それは泥の中から立ち上がるための言葉だったはずだ。しかし扇はこの言葉を、娘を泥に沈めてよいという許可として受け取った。

 

 

 

 

 

 ──扇は勿論それを口には出さない。

 けれどもどんなに小さな子供だって、父親が本当に自分を愛している訳ではないことくらい、本能的に理解できるものだ。

 

 

 

 

 真依は先日、生まれて初めて父親と手を繋いだ。扇がそうしたのは、稽古の場へ連れて行くためだった。

 そこで真依は、戦う菜緒葉を見せられた。

 

 禪院家以外の呪術師を知らない菜緒葉は感覚が麻痺して一切気がついていないが、呪霊料理によって増やした呪力は禍々しさを帯びる。五条家や加茂家が呪霊食の技術を警戒しているのも、実はそのせいだ。

 ましてや1級や特級呪霊まで口にしている菜緒葉の呪力は、怖がりな童女を怯えさせるには十分なモノになっていた。喩えて言うなら、何百もの呪霊をかき集めてミキサーにかけたようなものだ。

 怖くて怖くて、真依は扇の手を握る指に、無意識に力をこめた。

 

 父の手は大きくて、乾いていて、温かかった。生まれて初めて握ったその手が温かかったということが、真依にはうまく飲み込めなかった。

 

 怖い、と思った。

 怖い、としか思えなかった。

 

「真依、お前もああなれ」

 

 扇は初めて娘に笑みを向けた。たった3歳の子供なのだからすぐに忘れてしまうかもしれないと考えつつも、幸福な祈りをこめて。真依がどんな子なのかも、それが真依にとって何を意味するかなど、考えもせずに。

 

 

 




今回書いた「呪術上一卵性双生児は同一人物」という情報周りの認知度に関する描写は完全なる妄想ですが、一応以下3点に基づいています。

①一卵性双生児という概念が入ってきたのは明治以降だし、割と新しい学説だろう
②ましてや天与も絡んでくると事例が少ないので原理がブラックボックス化するのは自然な気がする
③そもそもこの辺りの情報がメジャーだったら、真依が呪力持っていく可能性を考慮せずにトドメを呪霊に任せた扇がいくらなんでも大マヌケすぎ

真依はファンブックによれば座学9点で賢いので、自分が死ねば姉が強化されるという真実に自分で辿り着いたのかもしれません。あるいは身近にいる性格の悪い呪術師が「これが俺の考えた『真希ちゃんが偽物な理由100選』や!」みたいなノリで仮説をベラベラ喋ったのかも。
マコは「元々甚爾くんみたいに強かった子が妹の死で無敵の人になっちゃったんだな」という先入観に基づいたストーリーを脳内で組み立てて疑ってないので、この辺りまだ細かくは理解していません。まさか、真依が生きてる限り真希はせいぜい2級レベルだなんて!

ちなみに五条はどっかの双子に触発されて原作の同じ時期より結界術のスキルツリーを優先的に伸ばしているらしいです。その分反転や赫の練習時間はだいぶ減ってるけど、死にかければどのみち一瞬でマスターすることでしょう。早く出したい。
直哉くんについてはマコ達が激ニブなだけで行間で色々苦しんでます。
数話以内にメイン回がある予定です。
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