音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?!   作:ポ予

5 / 49
ランクアップと姉の威厳

 呪力による筋力強化のコツを掴み、腕立て伏せ100回をようやく成功させたことを報告しに行った日、甚爾くんが珍しく先に口を開いた。

 

「お前、最近ちょっとだけ呪力が増えたな」

「……わかりますの?」

 

 嬉しくて声が弾むが、続きの言葉を聞いた瞬間に心臓が大きく跳ねる。

 

「ああ。あと──呪力の匂いがおかしくなった。一体何食ったらそうなるんだ?」

 

 甚爾くんは平然とした調子だが、俺にとってはこれは一大事だ。

 甚爾くんはフィジカルギフテッド──将来禪院家を滅ぼす予定の真希ちゃんと同じ特殊体質の持ち主だ。呪力を全く持たない代わりに異常な身体能力があるのは知っていたが、嗅覚まで強化されているとは。呪力がないにも拘らず、並みの術師よりもよほど鋭敏に呪いを認識できている。昨夜の俺は三級呪霊2体をしぐれ煮にして食べていた。そしてそのせいで、いくら「美味しく」調律しても消しきれない呪霊の残滓が呪力に混じり始めたらしい。

 

「……私、自分では全然気づきませんでしたわ。他の方も気づいていらっしゃるのかしら?」

「あー、そのうち気づくだろ」

 

 甚爾くんは興味なさげに欠伸をし、弁当の蓋を開けながら言った。

 

「何食っててもいいが、変な死に方だけはすんなよ。弁当係がいなくなると困る」

 

 弁当係ってなんだよ。

 でも──「そのうち気づく」かぁ。

 

 呪霊クッキングは蠅頭から始めて四級は手慣れたものになり、最近では弱めの三級までなら安定して捕まえ「美味しく」できるようになった。体の中の呪力はたしかに増えている。だが体が慣れたのか、伸び自体は次第に鈍化していた。もっと呪力の多い呪霊──二級を食べなければ成長は頭打ちだ。しかし二級呪霊は独力で捕獲できない。この家の懲罰房には大量に飼われているというが、今のよわよわな菜緒葉ちゃんボディでは肉片にされて終わりだろう。

 しかし俺は呪霊クッキングのことをまだ誰にも打ち明けられていない。

 そもそも呪霊というのは人間の負の感情から生まれた存在だ。言ってみれば人間の心の膿を煮詰めて固めたようなもの。術師にとって呪霊はあくまでも「祓う」対象であって、食うものではない。当初の俺は呪術界の常識を知らなかったから「術式で美味しくすればいけるんじゃね?」と軽いノリで始めてしまったし、実際にいけたわけだが──この世界の常識を知れば知るほど、自分がやっていることの異常さが身に沁みてくる。

 打ち明けてドン引きされるくらいで済めばまだいい。しかし菜緒葉ちゃんの立場は元々ギリギリなのだ。呪霊に取り憑かれた頭のおかしい子供だと思われて、家から追い出されてしまう可能性だってあり得る。

 でも、甚爾くんが気づいたならもう時間がない。隠し通せないなら、自分から打ち明けた方がまだマシかもしれない。

 厨房の仲間たちには話せない。おばさまのことは信頼しているが、この人は禪院家の秩序の内側にいる人だし、そもそも非術師だ。呪霊を食うなどという規格外を受け入れてもらえるかについては不安だった。

 じゃあお父様?

 俺はあの人の性格すらよく知らない。菜緒葉ちゃんはお父様との交流があまりなかったようだし、俺も音MADに全然出てこないこの人のことはよくわからない。

 

 ──ならば。

 

 

 

 

 

「信朗様。ご相談がありますの」

 

 任務帰りの信朗の後ろ姿に声をかける。

 信朗は笑顔で振り返り、俺を見下ろした。

 

「おっ、お嬢ちゃん。今日は何だ?」

 

 モミアゲの特徴的な信朗は術式こそないが実力者で、躯倶留隊の次期隊長と目される人望の厚い男だ。俺の術式バフ付きの食事を禪院家の術師は皆多かれ少なかれ何度も口にしているが、その効果や味についてこれまでに礼を言ってくれたのは躯倶留隊の人たちだけだった。彼らだけが、俺の術式を認めてくれているといえる。

 ──他の隊員から離れた場所に移動する間、ずっと心臓がやかましかった。拒絶されて、せっかくできた居場所を失うかもしれない。でも今何も言わなくたっていずれ全部バレて、これまで黙っていたことへの不信が上乗せされる。嫌われてしまう。なら、ここで打ち明けるしかない。

 俺は意を決して切り出した。

 

「私、呪霊を食べているんですの」

 

 そう言った瞬間、信朗の笑みが凍りついた。

 

「……今、なんつった?」

「四級と三級の呪霊を食べています。術式で無毒化して、美味しく調理して。そうしたら呪力が増えました」

 

 信朗の笑みが完全に消えた。俺の顔をじっと見ている。冗談かどうかを測っている目。俺が真顔なのを確認すると、次第に顔色が変わって行った。

 

「──そりゃビックリどころの話じゃないぜ。正気か?」

「もちろん、正気ですわ」

「呪霊は人間の負の感情の塊だぞ。猛毒だ。普通は死ぬってわかってやってるのか?」

「あら、お忘れですか? 私の『菜切り包丁』はなんだって美味しくできるんですのよ」

 

 ドヤ顔で言ってみせたが、信朗は全く笑わってくれなかった。

 ──ダメか? やっぱり引かれたか。

 指先が冷たくなる。六歳の体は感情が体温に直結するからたちが悪い。

 

「……体に異変は?」

 

 信朗の声は、さっきより低くなっていた。

 

「大した問題はありません。三級呪霊を食べた日は毎回悪夢を見ます。あと、少し胃もたれがする程度。……なので私、もっと強い呪霊を調理してみたいんですの。お父様に内緒で、懲罰房の二級呪霊を何体か生け捕りにして連れてきて下さりませんか?」

「……」

「お願いします、呪霊料理に興味のある方が躯倶留隊にいらっしゃったら、ご馳走しますから、どうか……」

 

 深く頭を下げて頼む。信朗は片手で目を覆い長い溜息をついた。しかしその指の隙間から覗く目に浮かんでいるのは怒りではなかった。この人は俺を心配してくれている。

 

「あのな、お嬢ちゃんよ。これは六歳のガキが大人に言っていい頼みごとの範囲を、百里くらいぶっちぎってるぞ」

「自覚はありますわ」

「あるのかよ……」

 

 信朗はしばらく迷ったような顔をしていた。

 だが、最後には言った。

 

「……何人か、思い詰めてる若いのがいる。術式がない。呪力も足りない。でも、どうにかして強くなりたい。──ってな。そいつらに声をかけてみるよ」

 

 信朗は俺の額に指をトンと当てた。

 

「でも、三つだけ条件を出す。一、二級に手を出す時は俺が隣にいること。二、ヤバくなったら上に報告。そして三つ目──今後二度と、こういう事を一人で抱え込むな。 もっと早く、大人を頼れ」

 

 その声は酷く優しかった。そして信朗の指先が額から離れる。この人は禪院の大人なのに俺の頼みを聞いてくれて、こんなにも気遣ってくれる。

 ……ダメだ。

 泣くな。泣くな俺。

 

「……信朗様」

「ん?」

「私、この程度で感動して泣くようなちょろい女ではありませんからね」

 

 信朗はにやっと笑った。

 

「おう、わかってる。そのツラ、鼻水さえ出てなきゃ説得力あったんだがな」

「……うっさいですわ」

 

 視界は既に思いっきり歪んでいた。

 六歳女児の涙腺は、俺のプライドなんてお構いなしだ。

 

 

 

 

 

 それから二週間。

 信朗が懲罰房から極秘に運び出した二級呪霊3体を素材に新レシピの試作は捗り、俺たちの禁忌はどんどん加速した。

 信朗が仲のいい隊員の何人かに事情を説明した後、志願してきたのは三人。この間直哉にいじめられていた健太郎と、他に若手が二人。

 

 ──変化は劇的だった。

 最初に変化が現れたのは健太郎だった。三級呪霊の煮凝りを食べた翌日の朝稽古で、信朗は目を見張ったという。

 

「──おい健太郎、お前今の一振り、昨日の三割増しだぞ」

「本当ですか? ……なんか、体の芯に火が灯った感じなんです」

 

 ……なんてことがあったのだとか。

 

 残り二人にも似たような変化が現れ、俺の方も三級呪霊の安定供給のおかげで呪力の密度が着実に上がっている。すると他にも「蠅頭くらいなら試しに食べてみてもいいかな」という隊員がちらほら。そして──秘密を共有し、文字通り同じ釜の飯を食ったことで、俺と躯倶留隊の距離は変わった。彼らは俺を「お嬢ちゃん」や「直毘人様のところの娘さん」ではなく、「菜緒葉ちゃん」と呼ぶようになった。それがどれだけ嬉しいことなのか、彼らはきっと気づいていないだろう。

 

 そして──今夜。

 躯倶留隊の何人かを集めた部屋で、俺はとうとう新レシピの完成を宣言した。

 

「──皆様、お待たせしました。二級呪霊ゼリー、完成ですわ!」

 

 信朗と志願者三人、それに「見届けるだけならいいか」と様子見に来たベテランが何人か。合わせて十人ほどが俺を取り囲んでいる。

 しかし彼らは、俺の渾身の傑作を見た瞬間に表情を歪めた。

 

「……ちょっと待ってくれ菜緒葉ちゃん。これ、食い物?」

 

 信朗が引き攣った笑みで訊いてきた。

 

「──ええ、味はとっても美味しくなってますわよ!」

 

 味は、だけどな。

 今の俺のスキルだと、二級呪霊を素材に見た目と味の両方のクオリティを保つのはあまりにしんどかった。よって今回は、見た目の方を捨てさせてもらったのだ。

 

 ゼリーの色は深い紫で、常時プルプルと脈打っている。おまけにゼリーの中には無数の充血した眼球が具材のように浮き沈みしていて、スプーンを近づけるたびにそいつらが一斉にこちらをギロリと睨みつけるのだ。おまけに三十秒に一本は表面から人面花が生えてきて、小刻みに震えながらタスケテと喚き出す始末。

 正直食べるのには自分でもかなり勇気が要った。

 

「ちなみにキャラメルプリン風味ですの!」

 

 負の感情が生み出す苦味とえぐみをキャラメルっぽくアレンジするのは本当に大変だった。

 我ながら本当に頑張ったよ。多分最高傑作だ。

 

 必死にそれをアピールしてみたものの、流石に全員尻込みしている。

 

「……いや、味の問題じゃなくてだな……目ん玉がこっち見てんだよ」

「キュートな飾りと思って下さいませ♡」

 

 若手の一人が「俺ちょっと腹の調子が」と立ち上がりかけたのを、もう一人が「一人で逃げるなよ」と袖を掴んで引き戻した。

 

「僕が最初に食べます!!」

 

 結局、最初にそう名乗り出たのは健太郎だった。直哉にボコボコにされた屈辱を胸に三級呪霊を何度か食べてきた経験が、彼にこの場での一番槍を務める度胸を与えたのだろう。健太郎がスプーンをゼリーに突き立てると、表面から生えかけの人面花がヒッと短い悲鳴を上げる。全員がびくっとした。しかし健太郎は意を決した様子でゼリーを掬い上げ、眼球が一つスプーンの上でゴロリと転がるのを無視して、口に入れた。

 

 咀嚼。

 沈黙。

 全員が息を止めて健太郎の顔を見つめる。

 

「…………すごい、味は本当にキャラメルプリンだ。──それに、体の奥にじわっと火が灯る感じがする。三級の時の比じゃない。すごいよ菜緒葉ちゃん。だけど歯応えが………牛モツを生で噛んでるみたいで……。味と食感のミスマッチがすごすぎる……」

 

 見事な食レポをありがとう、健太郎。

 

 だが効果は絶大だった。「マジかよ」「キャラメルプリン?」と囁き合う声が広がり、若手二人が覚悟を決めたようにスプーンを構えた。一人が震える手でゼリーを掬い、もう一人は目を瞑ったまま一気に口に放り込む。

 

「うわ、マジだ。味だけなら今まで食った呪霊料理で一番うまい」

「食感さえ忘れれば……いや忘れられねえけど……」

 

 それを聞いて、ベテランが興味深げな顔をした。

 

「……俺ぁ蠅頭しか食ったことねえが、そんな美味いのか?」

 

 しかし眼球三つにギロリと睨まれると、ベテランはあっさり諦めた。

 

「……やっぱ無理だわ。」

 

 部屋に笑い声が満ちた。

 信朗が腹を抱え、ベテランが「笑うなこの野郎」と毒づき、若手が互いの肩を叩き合っている。健太郎は二口目を食べながら、小さく笑っていた。

 俺はゼリーの表面からまた生えてきた人面花をスプーンの背で丁寧に潰しながら、この部屋の空気を吸い込んだ。ちょっと前まで一人で深夜の厨房に籠って蠅頭の活け作りを貪っていたというのが、嘘みたいだ。

 俺の料理がみんなを強くするためにも役立つのだと思うと、嬉しいし誇らしい。

 

「……信朗様」

「ん?」

「次はもうちょっと見た目を改善しますわ。眼球は非表示もあんまり見えないよう研究します」

「頼むわ。あれ夢に出そうだもん」

「副作用の悪夢よりも、見た目のトラウマの方がお辛い?」

「どっちも勘弁してくれ」

 

 

 

 ──試食会が終わると、一人また一人と部屋を出ていく。信朗が最後に「明日の稽古、遅刻すんなよ」と他の仲間に声をかけながら障子を閉め、足音が廊下の奥に消えた。笑い声が残響のように消えていく。

 最後に部屋に残ったのは、俺と健太郎だった。

 

「……なぁ、菜緒葉ちゃん」

 

 健太郎は呟くように言った。かつて直哉の暴力に青あざを作っていた少年の顔には、今や戦士の精悍さが宿っている。だが今この瞬間の健太郎の表情は、戦士のそれではない。もっと柔らかくて、少しだけ不思議そうだ。

 

「君は女の子なのに、なんでそこまでして強くなりたいんだい?」

 

 素朴な様子で彼は尋ねた。 

 俺は少しだけ考えてから、お淑やかなお嬢様の仮面を脱ぎ捨てて中身の本音を吐き出した。

 

「直哉やお父様──あのドブカス共を正面からぶん殴れるようになりたいんですの。あの方々は、自分より強い人間の言葉しか聞き取れない、特殊な耳をお持ちでしょう?」

 

 菜緒葉ちゃんはお父様のことも直哉のことも好きだった。

 なのに2人は、菜緒葉ちゃんのことをずっと軽んじている。

 俺は絶対に菜緒葉ちゃんの無念を果たしてやる。女だろうが出涸らしだろうが強くなれるってことを、あいつらに見せつけるんだ。

 ──結構真剣な気持ちで打ち明けた話だったが、健太郎は吹き出した。健太郎のような禪院の男からすると、俺の野望はちょっとばかり無謀な覚悟に聞こえるのかもしれない。

 

「菜緒葉ちゃんって時々……いや、結構な頻度で口が悪いよね。今のを直毘人様が聞いたら、きっと卒倒するよ」

「直哉の姉ですもの。血筋は争えませんわ。……お嫌?」

 

 わざとらしく首を傾げてお嬢様っぽく言ってみせると、健太郎は困ったように笑い、少しだけ目を伏せる。

 

「いや、すごいと思うよ。本当に。……だってさ、直哉様からは出涸らし呼ばわりされて、お父様の直毘人様に至っては、もう半年も君に話しかけてないだろ? 普通なら心が折れてもおかしくないのに、こんなグロい物まで頑張って食べて……」

「あら。忘れ去られているのは好都合ですわ。お父様は無関心すぎて、もう私の顔すら忘れているかもしれませんわね。でも、それでいいんですの。出涸らしだと思って油断しているドブカス共の顔面に、全力で拳を叩き込む瞬間を想像するだけで、毎日のお料理が楽しくて仕方がありません」

 

 3分の1は強がり、だけど残りは本音だ。

 努力は絶対に裏切らない。俺はいつだってそう信じている。

 胸を張る俺に、健太郎はどこか複雑な表情を浮かべた。

 

「……やっぱり君はすごいよ。僕は直哉様に勝とうなんて、一度も思えなかった。でも──菜緒葉ちゃんが持ってくる食事を食べてると、不思議と勇気が湧いてくるんだ。……僕、どうせこの家の底辺なんだと思って諦めかけてたけど、最近はまた訓練が楽しくなってきたよ。僕も頑張るね、菜緒葉ちゃん」

「健太郎さん……」

 

 健太郎のその言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。毎日厨房に立っているけれど、こういう事を言ってもらえるのは本当に珍しい。ちゃんと他人の役に立てているんだと思うだけで、俺はどこまでも頑張れる気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 初めて口にした二級呪霊は、俺にひとつの悪夢を見せた。あまりにも現実的な悪夢だ。その夢は、胃袋を通り越して魂にまで毒を回すかのようだった。

 

 

 

 

 ──。

 

 

 

 

 毎日厨房で料理を作り続ける。

 夏は沸騰する大鍋の湯気に巻かれ、こめかみを伝う汗を拭う暇もない。冬は一転して、凍てつく水で泥だらけの根菜を洗う日々。指先の感覚はとうに消え、あかぎれに裂けた傷口から滲む鮮血が冷水の中で紅い糸を引く。

 どんなに工夫を凝らし、丹精を込めても、当たり前のことだから誰にも褒められない。

 どれほど美しく飾り切りをしても、どれほど出汁を完璧に引いても、誰からも評価されない。

 どれも当たり前のことだから。呪術師として命懸けで呪霊と戦うことと比べたら、料理なんて何の価値もないと思われているから。

 この家において、料理は価値を持たない。それはただ、食材を排泄物に変えるための、取るに足らない準備工程の一部に過ぎないのだ。

 外の世界の女の子は、学校へ行き、恋をして、自分の稼いだ金で好きな服を買えるのだという。けれど、禪院の女には学歴も貯金も頼れる伝手もない。生活保護という制度があることは風の噂で知っていても、その申請書の一枚すらどこで手に入れるのかはこの屋敷の壁に囲まれた女の身では調べられない。

 結局は、この薄暗い厨房で野菜の皮を剥き続けるのが禪院の女の分相応なのだ。

 

 それを実感しながら、俺は──()は大人になる。

 

 直哉よりは多少マシというだけの有象無象の男たちから息を吐くように卑猥な言葉を投げられ、品定めするように身体を触られるようになる。それでも結婚や、子供を作ることだけは必死に回避して……。行き遅れだと同僚の女中たちから陰で嘲笑され、泥のような日常を泳ぎ続けるだけの毎日。

 

 そんなある日。実家に帰ってきた真希ちゃんが、あの扇のおじさまのことを殺したという報せが厨房まで届く。

 そしてそれを聴きながら私は笑う。

 なぁんだ、と思う。

 他人を見下す暗い快感が胸の奥で濁った泡を立てながら弾ける。

 

 真希ちゃんは私たちと違っていつも格好良くて、キラキラしていた。女の子らしいことなんて一つもせず、厨房を回す私たちのことを見下して、一丁前に「この家を変える」なんていきがっていた。でも、結局は単なる短絡的な殺人鬼に成り下がっちゃったんだね。

 叶わない夢をいきがって語って全力を尽くした結果がこれだなんて、笑える。

 本当にみっともない。

 親殺しの真希ちゃんなんか、直哉に殺されちゃえばいいんだ。ああいう弁えない女がいるせいで、私がサボっているみたいになる。毎日惨めでしょうがなくなる。

 

 汚濁した感情で肺を満たしながら、私は今日も野菜を刻む。いつからか虚無の目をするようになったおばさまの隣で、無味乾燥な食事を何十人分も作る。

 誇り高かったおばさまは娘の真希ちゃんのことで扇のおじさまに責められ続け、甥の直哉からは都合のいい下女として貶められ続けて、完全に壊れてしまっていた。

 夫が娘の手で殺され、娘もこれからほかの親族の手で誅殺されるというのに、平気で食事を作っている。

 でも、これは私自身の未来でもある。

 私たちは飯炊き女以外の何者にもなれない。

 明日も、明後日も、この先ずっとそう。

 私たちはそうやって、この家の一部として朽ち果てていくのだ──。

 

 ──だが、そんな絶望さえ唐突な終焉によって断ち切られた。

 

 厨房の戸が乱暴に開け放たれる。現れたのは、血染めの真希ちゃんだった。携えた刀からボタボタと滴る鮮血が、私の聖域(ちゅうぼう)の床を汚していく。

 絶叫も、逃走も、頭に浮かばない。

 そこに立っていたのは、一人の人間ではない。形を成した終末、あるいは美しい鬼神。その瞳に宿る、何もかもを焼き尽くした後の徹底的な暗黒を見つめながら、私は呆然と呟いた。

 

「…………()()()()()()?」

 

 答えはわかっていた。

 なのに私はその言葉を口にせずにはいられなかった。

 私と少し似た境遇の、けれども私よりも強い女の子。私は真希ちゃんを妬みながらも、真依ちゃんには同情していた。

 私は彼女に幸せになって欲しかった。

 

 しかしその願いはあっさりと潰え、そしてこの虚しい疑問が、私の最後の言葉になった。

 

 

 ──。

 

 

 

 

 

 目が覚めたのか、いや、まだ夢の中なのか。気がつけば俺は何もない真っ白な空間の中に立ち尽くしていた。 

 目の前には二十代半ばほどの地味な和服を着た女性が佇んでいる。

 一瞬、俺たちを産んだ後に衰弱し、実家に戻されたお母様かと思った。だが、違う。目つきがもっと鋭く、それでいて酷く虚ろだ。顔立ちは音MADで見慣れた真希ちゃんにどこか似ているが、雰囲気は全然違う。髪は長く、その肩は折れそうなほどに華奢だった。

 

 ……これはきっと、俺が強くなることを諦めた場合の、大人になった「菜緒葉ちゃん」だ。

 

「君は何を望む?」

 

 茫然と、声が漏れた。

 

 呪霊料理を食べるたび、俺は菜緒葉ちゃんの夢を見る。悲しい過去や、あり得るかもしれない悲惨な未来の夢を。そうして時折、彼女と直接会話を交わすこともある。

 でも、こんなにはっきりと彼女の姿が見えるのは初めてだった。

 いつもは顔を合わせるたびに直哉や父への呪詛を、あるいは自分の運命への恨みを吐露する彼女だが、今回は別のことを答えた。

 

「真希ちゃん達みたいに学校へ行きたかったな」

 

 あまりにも平凡で切実な願いだ。

 どうにか彼女を助けてあげたくて俺は言う。

 

「わかった。俺、お父様を説得して呪術高専に行く許可をもぎ取るよ」

 

 とにかく必死でそう言った。

 俺の記憶の音MAD以外の部分は、総じてどことなくぼんやりしている。菜緒葉ちゃんの肉体に紐づいた記憶が鮮烈すぎるからだ。けれども、高校に行けずに死んだ悔しさについてはよく覚えていた。

 この家の人間は普通学校には行かないけれど、家に居づらい人や、相伝でない術式を新しいアプローチで磨きたいという人は呪術高専に行くこともある。

 俺が厨房に放り込まれて放置されてるのは、呪力の少ない雑魚だったから。だけどもしも覚悟と実力を示せるようになれば、お父様はきっと俺が呪術高専に行くことを許してくれるだろう。

 

 そう言うと菜緒葉ちゃんは嬉しそうに頷き──そしてそれと同時に、周囲の景色は明るくぼやけていった。

 

 

 

 

 

 

 翌朝、泥を飲んだような重苦しさの中で目が覚めた。二級呪霊ゼリーの副作用は三級のそれとは一線を画しているらしい。神経の末端にまで薄汚い粘膜が絡みつくようで、指先ひとつ動かすのにも誰かの怨念を押し退けるような労力が要る。その分呪力も増えているので許容範囲ではあるけれども、本当に、信じられないほどリアルな夢だった。音MADからは考えられないシリアスさ。脱構築されて断片を切り貼りされる前の「原作」での殺戮も、本当はこのようにじっとりと救いがないものだったのだろう。

 ──音MADしか知らずにこの世界に来て、かえって良かったのかもしれない。あまりに絶望的な展開を事前に知ってしまったら、頑張る気力を失っていただろう。

 

 四時に起きて厨房に入り、いつも通り朝餉の仕込みをこなした。米を研ぎ、出汁を引き、魚の下処理。二時間、手は止まらなかった。止めたらあの夢のことを思い出してしまう。包丁を握るたびにこの厨房が血に染まった光景が脳裏によぎるのを、手を動かし続けることで振り払った。

 

「菜緒葉、今日は顔色が優れませんね」

 

 朝餉の支度を終えた厨房で、おばさまが俺の顔を覗き込んだ。いつも通りに表情が薄いが、彼女の心配ははっきりわかった。

 

「昼餉の仕込みは私たちでやります。お昼まで休んでいらっしゃい」

「……本当に申し訳ございません、おばさま」

「全くです。体調の管理も仕事のうちですよ」

 

 おばさまは少しだけ柔らかい調子でそう言うと、二度と俺を見なかった。彼女の後ろ姿は相も変わらず一分の隙もなく背筋が伸びている。──大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。夢の中のこの人は二十年かけて壊れていったけれど……あれはあくまで夢だ。現実になんてさせない。

 

 自室で横になったが眠気は来なかった。目を閉じれば夢の内容が蘇る。じっとしているほうがよほど辛い。起き上がって身支度を整えた。

 健太郎に会おう。昨夜の呪霊ゼリーがどんな変化をもたらしたか確かめたいし、酷い悪夢を見ていないかも心配だ。

 

 しかし彼のよくいる訓練場に近づいた時、最初に聞こえたのは聴き慣れたあの声だった。

 

「──強くなった? これで? 本気で言うとるんやったら、お前、救いようのないアホやな」

 

 厨房の一件以来口を利いていない直哉だ。そしてその目の前には、健太郎が倒れていた。健太郎の口角からは鮮血が滴り、左腕は不自然な方向に折れ曲がっている。傍らには彼の木刀がまるでゴミのように真っ二つに叩き折られて転がっていた。

 それでも、地面に這いつくばりながら、健太郎が咆哮している。

 

「僕は、僕は……強くなったんだ……!」

 

 その目に宿る昨夜見た執念の灯火はまだ消えていない。

 しかし直哉はその言葉を笑いながら反芻した。

 

「強くなった、なぁ。……たしかに前戦った時よりはマシやねぇ。菜緒葉ちゃんと何かコソコソやっとるおかげか?」

 

 直哉は屈み込み、健太郎の髪を乱暴に掴み上げた。

 

「それって要するに菜緒葉ちゃんがすごいだけやろ。俺みたいなガキにすら勝てずに女に泣きついて介護してもらって、恥ずかしくないんか? 玉なしが」

 

 健太郎の頭が地面に叩きつけられ、鈍い音が響いた。急いで駆け寄る。しかし俺が声を上げるより一瞬早く、別の影が割り込んだ。

 

「直哉様、いい加減におやめください!」

 

 お千代さんだった。乳母の明子さんが体調を崩して、ここ数日は直哉の面倒を見る担当に当たっている。お千代さんの顔は蒼白だったが、健太郎を庇うように広げた両手は決して怯んでいなかった。

 

「もう十分ですわ。この人が死んでしまいます!」

「はぁ? お前に指図される覚えなんて一ミリもないんやけど」

 

 直哉の声から一切の温度が消えた。

 

「そういや千代ちゃん、いっつも甚爾くんにベタベタしとるやろ。ぶっちゃけキショいねんアレ。あの人はお前みたいな下等な女が擦り寄っていい人やないよ。きっと甚爾くんもメイワクしてると思う」

 

 乾いた音が静まり返った練兵場に響き渡った。直哉の手の甲がお千代さんの頬を容赦なく弾いたのだ。彼女の体が横に揺れ、頬が一瞬で赤紫に腫れ上がる。

 

「雑魚の罪は強さを知らんこと。その点はここのポンコツも千代ちゃんも同じやね」

 

 直哉がつまらなさそうにそう言うのを聞いた瞬間、俺の中で何かが切れた。

 

 こいつはダメだ。

 なんだかんだで弟だと思ってた。俺が本物の女ならこいつの語録にもうちょい嫌悪感とかあったかもしれないけど、ぶっちゃけ「ホントにクズだな」と思いながらも面白かったし。菜緒葉ちゃんのボディの記憶があるから、こんな家に育って性格が良く育つ訳もないっていう同情もあった。

 だけど、いくらなんでも……これはないだろ。

 

「じゃあ、強さとは何かを出涸らしの私におしえていただけますこと?」

 

 一歩前に出て、吐き捨てる。

 

 本当に気持ち悪かった。菜緒葉ちゃんはどうしてこんな奴の言うことをずっと肯定し続けてたんだろう。それとも、菜緒葉ちゃんがずっと甘やかしていたせいでこんなことになっちゃったんだろうか。

 全然わからない。

 

 俺の表情を見た途端、直哉の雰囲気は変わった。

 

「菜緒葉ちゃん。なんでそんなに怒っとるん?」

 

 悪戯を見咎められて、許しを乞うような顔だ。こういう顔をするから、直哉のことが心底わからなくなる。もちろん、直哉の行動はかわいい悪戯の範疇には絶対におさまらない。

 

「私の友達をいじめておいて、言うことはそれですの?」

 

 直哉は一瞬きょとんとした。本気で何を言われているのかわからない、という顔。それから合点がいったようにため息をついた。まるで姉がとんでもなく的外れなことを言い出したとでもいうように。

 

「あのなあ、菜緒葉ちゃん。友達は選んだ方がええよ。菜緒葉ちゃんは優しいからわかっとらんのかもしれへんけど……」

 

 呆れたような声だった。もしかしたら本人は本気で俺のためを思って言っているのかもしれない。でも、その神経が俺には理解できなかった。だから最後まで聞かずに言い返した。

 

「おあいにく様。厳選しています」

 

 その瞬間、直哉の表情が変わった。菜緒葉ちゃんなら怖がるかもしれない。でも、俺は違う。

 

「あなた、随分驕っているようですけれども、あなたが術師として生活していけるのが周りの人が支えてくれるからだってこと、本当にわかっているの?」

 

 はっきりとそう言ってやった。

 俺にはこのドブカスのことが本当に理解できない。こいつはこの禪院家で一番恵まれた人間だ。お父様に可愛がられて、何不自由なく暮らしている。なのにどうして他人を踏みつけるようなことしかしないんだろう。

 一体お父様は何をしているんだ。次期当主の教育は当主の仕事だ。殴ってでも矯正しようとは思わないんだろうか。

 

「……」

 

 直哉は悔しそうにする。

 でも、まだ言い足りない。

 

「あなたみたいな愚か者が家を率いるなんて悪夢ですわ。案外いらっしゃると思いますよ。同じ考えの人」

 

 語録を引用して煽ってやった。

 直哉の顔が怒りに歪んだ。厳密には怒り以外の感情も混ざっている気がするが、よくわからない。わかりたいとも今は思えない。こいつは俺の仲間の腕をへし折り、非術師の女を殴るクソ野郎だ。──音MAD知識しかなくたって、こいつが結局当主にはなれずじまいで終わるのは知ってる。どう考えても順当だよ。だって、こんなクソ野郎に誰が着いていきたいと思うんだ?

 

「ほーん、そんなに言うなら俺と殺り合ってみるか?」

 

 直哉の呪力が膨れ上がった。

 ──叱ったら逆ギレかよ。なんなんだ、本当に。

 でも、ここで退いたらあの夢と同じだ。

 全部を諦める夢は、死ぬより惨めで辛かった。あんな風になるくらいなら、死んだ方がずっとマシだ。

 俺は笑ってやった。

 

「上等ですわ。──いいでしょう、姉の私がお父様の代わりにしつけてあげますわ」

 

 ずっと刃を研いできた。

 こいつと戦うための戦略も用意している。

 ただ、お嬢様らしい優雅さをかなぐり捨てた自分の笑い方が少し直哉に似ているのに気づくと、それだけは少し癪だった。

 




本作の直哉くんは二卵性とはいえ双子ですし、原作より家での扱いがちょっぴり悪かったと思います。おかげでお姉ちゃんのことは普通に大好き&人の心を学ぶチャンスも何度かありましたが、残念ながらなにぶん性格がアカンので…
次回、姉弟喧嘩回です。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。