音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
相伝の術式『投射呪法』を継げたのがわかった日のことを禪院直哉は今でも鮮明に、温度や匂いまで伴って覚えている。視界が黄金色に染まり、自分という存在が世界の中心に据えられたかのような、人生で一番嬉しかった日だ。
初めて褒められた。これまでは渋面で廊下を歩いていた大人たちが手のひらを返したように直哉を取り囲み、口々に賛辞を送り、競うようにして頭を撫でてくれた──その手の数だけ自尊心は甘やかに膨れ上がった。
今になってあの日のできごとを列挙してみれば後悔と呪いの連続でしかないのだが。とはいえ当時の直哉にそれを知る術はなかったし、思い返している今でさえ、胸の奥を焦がすような「嬉しかった」という記憶が、毒のように先に立つ。
その日の夕刻、宴に備える直哉は女中と乳母に囲まれて着付けをされていた。糊のきいた新しい着物の重みに直哉がはしゃいでいるのを、背後から菜緒葉が慈しむような、それでいてどこか遠くを見るような瞳で見守っていた。
「ねえねえ、直哉のおいわいに私はどの着物をきていくの?」
菜緒葉の問いかけに、直哉の腰紐を締めていた女中の手がぴたりと止まった。女中は困惑したように視線を泳がせ、少し不自然な笑みを菜緒葉に向けた。
「お嬢様……。慶事の席というのは、男の術師の方以外は給仕をすることになっているのです」
「お給仕? 私も?」
「いえ……。お嬢様はまだお小さいですし、火傷でもされたら大変です。ですから、今日はお部屋でお待ちいただいて……」
「え?」
鏡越しに見える菜緒葉の顔から表情が抜け落ちた。
「つまり、お嬢様は、参加できないのです」
女中はとても言いづらそうな、とはいえ誤魔化すのも残酷だと判断したらしい率直さで口にした。その言葉は幼い菜緒葉の純粋な期待を無慈悲に切り裂いた。しかし当時の直哉の心に湧いたのは、姉への同情でもなければ、理不尽に対する憤りでもなかった。ただ、自分は選ばれた存在であり、彼女はそうではないという、残酷なまでの納得感だけだった。それがこの家の「当たり前」なのだと、幼い直哉は本能で理解してしまったのだ。
そして菜緒葉も、年齢に見合わぬ達観の持ち主だった。彼女はふっと顔を上げると、いつもより少し高い、鈴を転がすような声で笑ってみせた。
「なぁんだ。直哉、1人でもいい子にするのよ。……お兄様たちはうざったいし、おじさまはいつもイジワル。じんいちくんは……お顔がなんだかイヤですわ。だから私、そんなトコいけなくても全っ然へーきだし、気にしないで楽しんでよね!」
直哉は早く主役の座へ行きたくて、皆が待っているのだからと気が急いて、「わかってるわかってる」と適当に頷いただけだった。 菜緒葉が来ないのは、冬になれば雪が降るのと同じくらい当然のことだと受け取っていた。襖をくぐる際一度だけ振り返ると、菜緒葉はまだこちらへ小さな手を振っていた。その手のひらが、自分たちの間に引かれた見えない国境線のように見えた。
──だが、そんな感傷すら廊下を数歩も行かないうちに、期待と興奮によって頭から綺麗に抜け落ちた。
宴の場には男衆が集まり、酒が出ていた。少し前まで冷ややかな視線を並べていた大人たちが相好を崩して彼を迎え入れた。物心ついて以来初めて、父・直毘人が直哉を抱き上げた。その膝は硬くてそう居心地が良くもなかったが、それでもなぜだか自分が特別な玉座に座っているかのような錯覚を覚えた。最初のうちは。
食事は子供が喜ぶようなものではなかった。並んでいるのは肴の干物や塩辛いものばかり。会話の内容も総監部がどうだの御三家がどうだのと、面白くもないことばかりだ。直哉はすぐに退屈した。
手持ち無沙汰の指先で、すぐ脇の障子を何の気なしに突いてみた。ぷつ、と小気味のいい音を立てて、白い紙に小さな穴が空いた。それが面白くて続けざまに突いていくと、たちまち障子は穴だらけになった。
「直哉様、お行儀が悪いですよ」
窘めかけた女中を、兄の1人が笑って押し止めた。
「まあまあ、こんなめでたい席で叱らないでやろうよ。男の子ならこれくらいヤンチャでも……」
誰も本気で怒っていない。それどころか、期待の眼差しを向けてきている。直哉は悪いことをしている気がまるでしなかった。だからもっと突いた。穴だらけになった障子の向こうから廊下の闇が点々と漏れて、なんだか綺麗だった。
「明日からは特訓だ。習い事もさせるから、これからは5時に起きろ」
自分もそうやって強くなったのだと言って笑う父の言葉にも、直哉は素直に頷いた。本当はシンプルに面倒くさかった。直哉は布団から全然出られない質で、いつも朝はうだうだと温い闇の中で粘っていたので、5時起きなど想像するだけで気が滅入った。けれども強くなるためだし、これまで何もしていなかった分覚えなくてはいけないことは沢山ある。しかし続けて「あと数日したら菜緒葉と部屋を分ける」と言い渡された時には、駄々をこねた。
「イヤや! 菜緒葉ちゃんと一緒がいい!」
そう騒いでいたら普通に叩かれた。生まれて初めて叩かれたので、泣いた。そして泣いたら余計に叱られた。
「オマエは呪霊に攻撃された時でもそうやってビービー泣いてる気か?」
言い返す言葉が見つからなかった。直哉は頬の熱さに耐えながらすぐに納得した。これから自分は立派な呪術師になり、いずれ禪院家の当主になるのだから、軽く叩かれた程度で泣いている暇はない。
──あれはカスを更なるカスへと育て上げるのに長けている禪院家で、数えるほどしかなかったマトモな躾の一つだった。
しかし欲を言えば、障子を破った時点ではっ倒されておきたかった。 あるいは一人で手を振っていた菜緒葉を無視して部屋を出た、あの瞬間にこそ。
宴の席で菓子が出たら菜緒葉に持って帰ってやろうと考えていた。 しかし酒に溺れる男たちの場に甘い菓子などあろうはずもなく、結局、直哉は手ぶらで自室へ戻るしかなかった。
夜、菜緒葉は寝ることもなく、たった一人で起きて待っていた。
「……おかえりなさい、直哉。たのしかった?」
菜緒葉には叩かれて泣いたなんてダサい話はできなかった。できる訳がなかった。
だから、自分がどれだけ期待されているかという自慢話だけをひたすらに並べ立てた。出涸らしの菜緒葉ちゃんと違って、俺は特別なんやって、と。
今になって思えば、それは酷い言葉の暴力だった。
それなのに5時起きのことを話した途端、菜緒葉はこれからは自分も一緒に起きると言ってくれた。
「ゼッタイおきますわ!!」
と、胸を張って。
ゆーて無理やろ。と、直哉は思ってしまった。なにせこの姉は自分以上に蒲団から出られない子だ。周りの大人が無関心だったのをいいことに毎晩 2人してずるずると夜更かしをしていたせいもあるだろう。太陽が昇ってもずっと夢の続きみたいな顔で、いつまでも蒲団にくるまっている。そんな姉が5時に起きられるはずがない。
言い淀んでいると、姉は当たり前のような顔をして言った。
「じゃあムリにでもおこしなさいよ」
で、翌朝。
案の定菜緒葉は起きられなかった。
まだ青い闇の残る時刻。目覚まし時計の音で目を覚まして隣を見た。姉はまだ眠っていた。口を半分開けて、昨夜の威勢などどこにもない間の抜けた無防備な顔。「ゼッタイおきますわ」と豪語した本人が、誰よりも深く眠りこけている。
それでも手を伸ばせば、強く肩を揺すれば、菜緒葉だって起きてくれたはずだ。むりやりにでも起こしていいと菜緒葉自身が言った。
これまでだったら絶対に叩き起こしていたと思う。自分の行く場所には菜緒葉はいつだって一緒に来るべきだし、自分だけが不自由を強いられるなんて論外だと思っていたからだ。直哉はどこまでも身勝手な人間だった。
けれども菜緒葉の寝顔は穏やかすぎた。起きている時の姉はいつも何かを気にしていて、賢く立ち回っていて、その下で本当はくたびれていた。直哉には薄々わかっていた。眠っている菜緒葉だけが、何も背負っていない顔をしていた。
──朝5時に起きるのが菜緒葉ちゃんやなくて良かった。
心の底からそう思った。
本当は、父も母も兄も親戚もこの家も全然好きではなかった。そもそも直哉は、この世に存在する大半のものを1ミリたりとも好きじゃなかった。それでも、褒められれば流石に嬉しかったけれど──。
今ならわかる。相伝にしか興味のなかった家族達は腐り切っていて、そしてそんな相手からの承認に大はしゃぎしていた程度の間抜けの人生に、幸せなことなんて何一つ起こりっこない。今後どんなに歩き続けても、到達すべきゴールには辿り着けない。呪術が多少使えるだけの人間にとっては、呪術界は狭い檻も同然だ。
はっきり言って、アッチ側の存在以外の何もかもが腐っている。
自分の立っている場所が、偽物の権威が、この目に映る世界の大部分が白蟻に寄生されているのだと、日に日に気づく。醜さに気づき続ける。
菜緒葉がいなければ、一生気づかないで済んだのだろうか。それとも、甚爾を知った時点でやっぱり台無しになっていたのだろうか。
それは、確認しようのないことだけれども。
何もわからないうちから、姉のことだけは大事だった。大事な相手にすらあの態度だったのか?と誰かに問われたら、もう返す言葉もないのだが──とりあえず、好きなだけ寝て欲しいとは思っていた。
◇
今の菜緒葉は毎朝4時に起きている。
それだけでも直哉にとっては最悪の極みだった。
あのとき温い闇の中でいつまでも夢の続きを見ていてほしかった姉はいまや直哉よりも早くに蒲団を蹴り飛ばし、誰もついていけない速度で世界をリミックスし始めている。
特級呪霊をクッキングしたり、全人類を美少女呪術師へ強制改造したがったり。直哉の目には、姉が壊れてしまったようにしか見えていない。
そもそも人格分裂の絡繰からして自分に責任があることは確実だ。くだらない自責でなく、単なる因果関係として。よって「菜緒葉ちゃんがもうどうしようもなくなったら、俺が地獄の底までお供したる!」と観念していた。しかし同時に、そうなる前にもう1人の姉がブレーキ役になってくれるだろうとも思っていた。直哉は子供で、そしてなんだかんだでもう1人の姉には全幅の信頼を置いていたのだ。
もう1人の姉──マコ。菜緒葉曰く、上位世界から来た神の魂。あるいは、術式行使時のトラウマから精神を守るために彼女が無意識に拵え、厨二設定を付与しただけの別人格かもしれない。もう1人の姉の正体がどちらであるのか、実は直哉は未だに確信を持てずにいる。しかしいずれにせよ、その存在が本物の菜緒葉とはまた別のベクトルで、自分にとって絶対に失ってはならない大切な相手であることだけはたしかだった。
傷ついた菜緒葉の防波堤となり、可愛げのかけらもない生意気な弟をわざわざ根気強く、優しく育ててくれた人。生涯かけても返しきれない巨大な恩がある相手。
直哉に「良識」という概念を教えてくれた、前向きで、光属性の善人。
文字通り、最後の頼みの綱。
──の、はずだった。
しかし、その唯一の頼みの綱の最近の動向はどうだ?
若手を煽動して革命戦士に育成したり、あろうことか宿儺の指でラーメンの出汁を取ったり。
全人類を美少女にしたがる常軌を逸した趣味や実の弟を素材にして音MADを作って悦に入る陰湿な奇癖に比べれば、特級呪物ラーメンなど可愛いものだ。だから直哉も「菜緒葉ちゃんも相変わらず悪ノリが過ぎるなぁ」と微笑ましく思って、一緒になって遊んでやっていたのだ。
まさかその一連の狂気のプロデュースにおける主犯が、一見常識人な方の姉だったとは。
……常識人って、一体何やったっけ?
直哉は、人生で何度目になるか分からない思考放棄を選択した。
そうでもしなければ、自分の貧弱な脳みその方が先に焼き切れてしまうと確信したからだ。
あまり口に出しては言わないが、直哉は菜緒葉のためなら何でもしたいと思っている。桐永会の暗い教室で菜緒葉が並べ立てた計画の半分以上が、直哉の耳には悲鳴にしか聞こえなかった。計画の異様なまでの壮大さは、直哉にとっては自分のせいで姉が壊れたという証拠の量でしかない。
しかし菜緒葉の望みを素直に叶えた先にあるのが彼女の破滅だけなら話は別だ。あの場所で語られた中で一番真っ当かつ実現可能性の高そうな「呪霊食で呪術師を増やす」というアイデアでさえ──今の規定でどう足掻いても呪詛師一直線。呪術師の不足は大問題で、それを解決すること自体は紛れもない善行のはず。なのにこのままでは菜緒葉は破滅する。だから彼女が男に生まれれば自分の代わりに当然得ていたであろう次期当主の立場を使って、本来なら明らかに死刑確定なこの夢を、どうにか穏当に実現させてやれないか──それだけを考え続けてきたのが、直哉の直近の3年間だった。
しかし、8条への例外規定追加の繰り返しと、数十年後の撤廃を見越しての宗教団体設立以上の方法は思いつけなかった。
過激思想が大好きな菜緒葉はこれで十分喜んでくれるだろうし、そうでなくてもせめて「俺なりに一生懸命考えたわ」という一点だけは伝えたかった。自分も最近性格が良くなってきた気がするし、これを機に仲直りをしてもらえる可能性もある。だが同時に、もう1人の姉は絶対に途中から咎めてくるとも思っていた。あるいは他の参加者──たとえば善良な性格のおかげで、両方の菜緒葉から気に入られている蘭太辺りが。
なんなら批判を期待してさえいた。というか「普通にみんなドン引けや!(菜緒葉ちゃん以外)」というのが本音だった。
いちばん過激なアイデアを最初に置いて交渉すれば、以後の議論はその極端を基準点に据えて進む。粗を探す目はまずそこへ集まり、ひとしきり消耗し、最後には誰もが適当な線へと自然に滑り落ちていく。父が以前教えてくれた方法だ。
過激なアイデアに対する適切な批判と改善案こそが、菜緒葉を救う可能性を高めてくれる。菜緒葉をこれ以上突き放せない自分はどこまでも堕ちていくしかないのかもしれないが、残りの人間は善良で正気なはずなので、どうにかなるだろうと思っていた。
ところが菜緒葉は1ミリも反応してくれなかった。
しかも碌な否定が入らなかった。
挙句の果てには、彼女の情緒的な演説に皆が熱狂し始めた。誰ひとり、もっとマシなアイデアを提案できなかった。
役立たずのカス共め。
正気の奴とかおらんのか?以外の感想はない。
8条の秘匿体制に菜緒葉の願いを叶えるための例外を継ぎ足し、部分改正へ持ち込む。それだけでも何年もの準備と、一歩踏み外せば当主の座から引きずり下ろされかねない強引な手を要する大業だ。
その上さらに宗教?
よほど精緻に骨組みを組まなければ8条改正どころか御三家から除名されて終わるのだから、もう少ししっかりして欲しい。
あの場での論理には明確な穴があった。
植民地主義的だから規定で非術師を無知のままに留めるのはよくない──そう言った参加者がいた。ならば同じ論法で宗教団体内での呪霊食投与スキームについても斬って然るべきだ。植民地主義の善悪なんぞハナから興味はないが、善人達は確実にそこを突くと見越していた。
なのに菜緒葉に知性と善良さを吸い取られて生まれてきたのだと幼い頃から言われ続けた直哉ですらわかるような陥穽を、参加者の中の誰一人突こうとはしなかった。
コイツらを今後コントロールしていかなくてはいけないと思うと、あまりの向いてなさに頭がくらくらしてくる。姉達と違って人に好かれるタイプでない自分に、果たしてそんな采配が可能なのだろうか。
──で、どうすんのコレ?
姉さんは相変わらずええ人のはずなのにブレーキ役としてはあんまりアテにならんくなったし、それどころか使えへん応援団まで増えてもうたし、ほんまにどうすんの?
どうすんのって聞いてんねんけど。
答えろや
◇
そんなことを考えながら適当に相槌を打ち続けていると、
「最近寝てるか」
唐突に父が言った。問い詰めるでもなく、世間話の体ですらない。妙に平坦な声音だった。
「……菜緒葉ちゃんよりかは寝とるわ」
直哉は肩を竦めて返す。事実だった。狂神の如きスケジュールで動く姉に比べれば、自分はまだ人間らしい時間に蒲団へ入っているほうだ。もっとも、泥のような浅い眠りの中では菜緒葉をいじめるカスな自分の夢か、全人類魔法少女化罪(!)で菜緒葉が死刑になる夢ばかり見ているから、休まった気はまるでしないが。
「つまり寝てないのか。じゃあオマエら、大物呪霊食べるのは当分禁止な特級は論外、1級も食うな」
「はぁ!? 何言うとんねんクソ親父。それで俺が菜緒葉ちゃんに完全にボロ負けして、置いていかれたらどうしてくれんの。該当人物が多すぎて表ではよう言えへんけど──ぶっちゃけ、女にも劣る男とか生きてる価値ないやろ」
「オマエはまだそんなことを言ってるのか」
父の声に隠しきれない疲労が混じった。
「事実やん」
直哉は短く言い捨て、わざとけらけらと品性下劣に笑ってみせた。
正直なところ、毎日が十三階段でも上っている気分なのだ。いつ首吊り縄が巻き付いて、足元の床が抜けるかも分からない焦燥。それに気づかれないよう一段ずつを踏みしめて、余裕のある強者のフリをし続けなければならない。
「あんなちまこい娘に勝てへんとか、飛車角落とされた盤面でまだ負けるみたいなモンやわ。恥や恥、禪院のツラ汚しや」
「全負けしとる訳でもないのに、そう独りで勝手に落ち込むな」
父がぽつりと言った。
直哉は引き攣った笑みのまま意外な思いで顔を上げる。この男がこういう言い方で息子を慰めるなど、天地がひっくり返っても無いことだと思っていた。
「術師としての地位も横並びだろう。オマエだって、外へ連れ回しても呪術界のどこに出しても、何一つ恥ずかしくない感じに育ってきた。……俺はそう思ってるぞ」
「パパと叔父さんかて等級は横並びやね。そもそも等級すらアレやん。菜緒葉ちゃんが作ってくれる呪霊食と超次元戦闘アドバイスで履かせて貰っただけのドデカい下駄やわ。俺の実力やない」
「その下駄を履きこなして自分の足で走っとるのはオマエだ。仮にそれ抜きにしても、普段通りの禪院の基準で行けば、オマエは10年に一度の天才と持て囃される器よ。それのどこに不満がある」
常夜灯の橙が父の頬の翳りを一段深くする。酒で僅かに濁った目が、まっすぐにこちらを見ていた。普段なら、子供の名前すら酔えば取り違えるような適当な男だ。それなのに今夜は、たしかに直哉だけを見ている。
「……うわ。急に何なん、キショ。どしたんパパ、明日雨でも降るん? それか槍?」
直哉はたまらず顔を顰め、いつもの軽薄な防壁を大急ぎで張り直した。
そうするより他になかった。受け止め方がわからなかったからだ。父からの賞賛を喜んでいいのか、信じていいのか、その回路が最初から壊れている。舌の上に金属を乗せたように、言葉の輪郭ははっきりしているのに、温度だけがいつまでも伝わってこない。だから軽口で弾いて外側に押しやる。受け取り損ねた言葉が、橙色の薄明かりのなかに、行き場をなくして寂しげに漂った気がした。
父は、それ以上は何も言わなかった。ただ面白くなさそうに鼻を鳴らしただけだ。それから手元に放り出していた書類のほうへ視線を移し、思い出したように口を開いた。
「ところで……向こうの家からまた手紙が来た」
文明開化の残り香みたいな洋館に住んでいた、母方の親類のことだ。父とあの家との仲は、ここ数年ですっかり冷え込んでいた。
そしてここ数年、伯父からは直哉宛に同情を乞うような見苦しい手紙がしきりと届いていた。事業が完全に破綻し、あれほど豪奢だった古い洋館もこないだとうとう他人に売り払ったらしい。困窮を訴え血縁を恩着せがましく持ち出す手紙に、直哉は一切返事をして来なかった。
「全部燃やしとけや。読む価値ないわ」
直哉は吐き捨てるように言った。今までもそうしてきたのだから、これからもそうするつもりだった。あの落ちぶれた有象無象どもから来るものに、意味のある内容などあるはずがない。
「いや、今回は訃報だ」
直哉はぴたりと口をつぐんだ。
──聞けば母方の祖母が亡くなったのだという。実の娘の死を目前にしてなお大して悲しそうな顔もせず、男孫である直哉だけに媚を売り続けていた気色の悪い女だ。本音を言えば、一度も好意を抱けたことはない。
「どうする。行くか?」
父の問いは強制でも勧めでもなかった。それでもわざわざ直哉に伝えてきたのは、教えないのもさすがに据わりが悪いと、父なりに判断したのだろう。こういうところで、この男は妙に律儀だった。
直哉は少し考えた。
あの家にもう一度足を運ぶ。想像しただけで気が滅入る。
けれども。
「……俺だけで行くわ」
直哉は冷たく答えた。
「姉さんには言わんでもええかな。あの人、二度とあの家の敷居跨ぎたなさそうやったし。そもそも忙しすぎて向こうの家の存在自体忘れてそうやしな」
衰亡を嗤ってやるのも面白いかもしれない──それが本音だった。最近はストレスが溜まっているし、あの家の人間に会ったら聞いておきたいと思っていたことも、そう言えばある。
父は手元の猪口を傾け、残り少ない酒を喉に流し込んだ。そしてふと、本当に何気ない世間話のトーンで口にした。
「最近は若手集めて勉強会なんてものもやってるんだってなぁ。菜緒葉は、俺にはクッキーやらケーキやらは焼いてくれないのか?」
直哉は盛大に舌打ちした。
直哉が2人の勉強会に積極的に関与し協力しているのは、得意分野を活かして自分の考えを話していくうちに、菜緒葉にもちゃんと普通の友達ができて、もっと表に出てきてくれるようになるんじゃないかと期待したからだ。一般的な価値観に触れて、計画を考え直す機会ができるかもしれないとも考えていた。けれども結果は逆だった。勉強会の参加者たちの胃袋と心を掌握するため、マコがお菓子作りなんぞを始めてしまったからだ。
直哉はそれが嫌で仕方なかった。
そもそも菜緒葉の心が引きこもっているのは、男のためにクッキーなど焼くような人生が嫌だったからではないのか。壮大な計画のためと称してそんなパフォーマンスを続けていたら、菜緒葉が自分らしくいられる居場所が本当になくなってしまう。
その危惧から数ヶ月前、直哉はたまらず菜緒葉に口出しした。「こんな真似せんでええやろ。下らんわ」と。
だが、返ってきたのは絶望的なまでにピントのずれた答えだった。
──作っているのは私じゃありませんもの!
──それに……健気にお菓子作りをして場を和ませるもう一人の私って、最高に萌え萌えな美少女でしょう?
話が全く通じなかった。
自らの肉体が男に愛嬌を振りまく道具として使われているというのに、菜緒葉はそれをまるで安全なモニター越しにアニメでも鑑賞しているかのように、完全に切り離して楽しんでいたのだ。
直哉からすると「気ぃ狂っとるんちゃう?」としか言いようがない。しかし「手作りクッキーを配るもう一人の私」という完璧な虚像は本物の菜緒葉にとって、自らを外界の抑圧から隔絶し、安全なフィクションの奥底へ逃げ込むための、分厚く強固な防壁なのだろう。
昔は誰よりも理性的で賢くて大人っぽかったはずの菜緒葉が、こんな幼稚なことを言い出している。
それなのにどいつもこいつも無邪気に姉を神輿に担ぎ上げ、父のような大人は無神経にその偶像の成果物をねだる。
本物の菜緒葉はクッキーを焼く女の子じゃないのに。そしてお菓子作りをする菜緒葉を周りが好きになればなるほど、本物はますますフィクションの奥深くに鍵をかけて引きこもっていくというのに。その最悪なループに気づいていて、彼女を現実に引き戻そうと足掻いているのは、この世界でもう直哉しかいないのだ。
一瞬、父に何もかも全部ぶち撒けてやりたくなった。父が菜緒葉の状況を知れば、何と言うかを考えた。流石に悲しむだろうか。死にたいくらい後悔するだろうか。
常人ならそうなるだろう。
呪術師だって。
もう1人の姉が好感を持てる相手だったことを考慮に入れても、直哉は自分の心の動きが不思議でしょうがなかった。もしかしたら自分はとんでもない人でなしの異常者で、だからこの喪失にも耐えられているのだろうか。強い甚爾でさえ、大した年数一緒にいた訳でもない妻を喪ってああなったのに。
この調子だと、うっかり菜緒葉が殉職したりしても、自分は案外平然としていたりするのだろうか。狂人相手の人形遊びを何年も続けていられた程度の性根なのだし。
「……酒飲みのイカレた舌には、姉さんの作る繊細なお菓子は勿体ないわ」
直哉はこみ上げる真っ黒な感情をすべて胃の奥に押し込み、軽薄な作り笑いを顔面に貼り付けた。
父は呆れたような、どこか得心のいったような顔をした。
「オマエは昔っから本当に菜緒葉が好きだな」
「好き」という安易な記号に括られて、直哉は心の内で冷ややかに爪を立てた。ただの「好き」だなんて、自分の感情はどれだけ浅いのだろう。
甚爾に比べれば今の自分はあまりにも薄情で、ほんの浅瀬に立ち尽くしているだけだ。それが、自分の人生の何よりも赦しがたい欠陥のように思えてならなかった。