音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
夢の中の世界はうだるように蒸し暑い陽気だった。肌に纏わりつく湿気と容赦なく照りつける太陽の熱に、息をするのすら億劫になる。
場所は家族連れでごった返す、休日の喧騒に包まれた動物園だ。
直哉は分厚いアクリルガラスの向こう側で寝そべるライオンを見下ろしていた。立派な黄金の鬣を持った雄。琥珀のような色の鋭い眼をしている。「甚爾くんみたいでカッコええなあ」と、初めて見た本物のライオンの様子に感嘆していたのも束の間、そこへ雌がのしかかるように上からじゃれついてきた。雄は抵抗どころか鬱陶しがる素振りすら見せず、されるがままに腹を見せて猫そのものの所作で喉を鳴らす始末。見ている直哉はだんだん腹が立ってきた。ライオンは雌が狩りをして群れを養うらしいが、それにしてもあんな風に雌の下に組み敷かれてだらしなく媚びを売るなんて。
ふと甚爾の傍らにいた妻達の姿が脳裏を過った。 2人の妻。1人目は仕方ないが、2人目のあの女のどこがいいのか。顔は悪くなかったが、甚爾なら美人には不自由はしないだろうに。
そんな苛立ちの種を頭の中で転がしながら、直哉は一緒にこの場所へ来たはずの菜緒葉の存在などすっかり放り出して、ガラス越しの獣の檻を穴が開くほど凝視していた。どれほどの時間が経っただろうか。
「なぁおやっ! 暑いし喉乾いたでしょう?」
不意に真横から耳朶を撫でるような甘ったるい声がして、結露した冷たい水滴のついたペットボトルが視界の端から差し出された。
直哉がガラスの向こうのライオンに気を取られて勝手に苛立ちを募らせている間に、菜緒葉は気を利かせて売店まで行き、冷たい飲み物を買って戻ってきていたのだ。
振り返った菜緒葉が着ているのは風通しだけは良さそうな薄手のエスニック系の羽織りに、体のラインを隠すような淡色のゆるいワンピース。足元は踵のすり減ったサンダルを引っ掛けている。まさに凡百の女というみすぼらしい出で立ちだし、だぼついた服のせいで着太りして見える。隣どころか後ろを歩かせるにも到底相応しくない格好で、相手が菜緒葉でなければ速攻帰らせていただろう。
ただ、そんな彼女の出で立ちの中でたった一つだけ異彩を放っているものがあった。服装の貧相さには到底似合わない、鎖骨の間で冷たく光る、0.3ctの一粒ダイヤのペンダントだ。菜緒葉はまるでそれが自分を繋ぐ首輪であるかのように、大切に身につけている。
ペットボトルを受け取っても礼のひとつも言わなかったのに、菜緒葉は怒るでもなく楽しそうに細めた目で直哉を見ていた。どれだけ直哉が無碍に扱い放っておこうとも夢の中の菜緒葉は不機嫌になることもなく、いつも微笑んでいる。直哉は手の中の冷たいボトルを握りしめながら、再びガラスの向こうへ目をやって軽く言った。
「あの子達、仲ええな。夫婦やろか」
直哉の呟きを聞いた途端、菜緒葉は堪えきれないといった様子で吹き出した。
「あははっ……! やだ、直哉ったら何言って……あはは! あれ、きょうだいですわよ。同じ親から生まれた、姉と弟。あそこの説明パネル見てないの?」
ビシャリ、と。足元の汚い泥水を不意打ちで顔面へ思い切りぶち撒けられたような強烈な不快感が突き抜けた。展示ケースの中で戯れていた黄金色の獣達が、急に酷くグロテスクで悍ましい肉の塊に見えた。
「……キッショ」
直哉は胃の底からこみ上げる吐き気を催しながら顔を歪め、傍らで笑い続ける菜緒葉を冷たく見下ろした。
「ええ歳した大人になってもきょうだいでこんな仲良しなんて、みっともないわ。ほんま反吐が出る」
直哉の棘のある吐き捨てた言葉を聞いても、菜緒葉は気を悪くするどころか、心底可笑しげにケラケラと笑い続けていた。
◇
「──次は、……、……です」
無機質な車内アナウンスと、レールの継ぎ目を越えるガタンという振動で、直哉は跳ね起きるように目を覚ました。
「……ッ」
額にじっとりと嫌な汗をかいている。酸素が足りないように呼吸が浅く、胸の奥では心臓がドクドクとうるさく鳴っていた。冷房の効きすぎた車内を見回すと座席はガラ空きで、ドアの上の電光掲示板の文字を見上げれば、既に降りるべきだった駅をとうの昔に過ぎているのがわかった。
「……最悪や」
悪夢の不快な余韻を振り払うように前髪を乱暴に掻き上げ、息を吐く。ただでさえ数日前から長引いていた任務のせいで、肉体的にも精神的にも疲労がピークに達していた。 そこへ来て、今日は顔も見たくない母方の祖母の告別式だ。気乗りしないどころの話ではない。疲労困憊の身体が向かうことを全力で拒否して、泥のように眠りこけてしまったのも無理はない。父が「女中をつける」だの「車を出させようか?」だのと言っていたのにおとなしく従っておくべきだった。
開始時刻には15分くらいの遅刻になりそうだ。いや、術式を使えばまだ間に合わせられる計算ではあるのだが、直哉は数秒の逡巡の末に座席に深く背中を預け直し、足を投げ出した。どうせ伯父一家と叔母しかいないささやかな場だ。あの連中の機嫌を取るために、わざわざ全力疾走してやる義理がどこにある? 次の駅に着いたら適当に降りて、葬儀場に遅刻の連絡を入れればそれで済む話だ。
車窓を流れていく知らない町の景色を、焦点の合わない目でぼんやりと眺める。それでも直哉の頭の奥底には、先ほどまで見ていた不快な悪夢の光景がこびりついて離れなかった。
夢の中の菜緒葉に向けた冷たい言葉。雑な態度。どれだけ自分が彼女を振り回し、路傍の石ころのように扱おうとも──夢の中のあの女は、不機嫌の一つも見せず、涼しい顔で微笑んで、甲斐甲斐しく直哉の世話を焼き続けていた。挙句、こちらの吐いた棘だらけの言葉に、腹を抱えて笑っていた。
気色が悪いにも程がある。
結局式場へ到着したのは告別式開始から15分過ぎた頃だった。葬儀場へは遅刻の連絡を入れておいたとはいえ、扉を開けて中へ入った直哉へ向けられたのは、親戚達の冷ややかな視線だった。
直哉が申し訳なさそうな顔ひとつ作らなかったのが、何もかも悪かったのだろう。少なくとも、頭の一つくらいは下げておくべきだった。けれども、面倒だった。この連中は直哉に媚びておかなければ後々立ち行かなくなる側で、そのくせ直哉は彼らの泣き言を聞いてやる気など微塵もないのだから、まあ、どう思われようと構わない。
続く火葬場へと向かうマイクロバスの車内でも、直哉を取り巻く空気は最悪だった。狭く密閉された空間に充満するカビ臭いエアコンの匂い。叔母のすすり泣きに混じって、明らかな陰口が直哉の耳をチクチクと撫でる。禪院の家は一体どういう教育をしているんだ、云々。直哉にとってはどれも窓ガラスに当たる雨粒以下の関心事だった。
やがて最後の焼香とともに棺が炉へ納められ、骨上げを待つだけの、間延びした時間がやってきた。控え室で乾いた喉を潤すために出された安物の番茶を一口だけ啜ったところで、とうとう痺れを切らしたように伯父が直哉の正面へと腰を据えた。
「直哉くん、君ねぇ。いくら何でも葬儀に遅れてくるなんて。亡くなったおばあちゃんに対して、それから我々親族に対して、どう思ってるんだ。大体君は昔から、周りへの配慮というものが……」
標準語にアジャストしているつもりだろうが、説教の節々に滲み出るのは関西特有のイントネーションだ。無視され続けた何年分かの恨みと今日の無礼で受けた屈辱を、ここで晴らしたいのだろう。真っ当な若者なら葬儀の場で年長の親族に正論で説教されれば恐縮する。けれども直哉は残念ながら違った。ふと、自分の性格の悪さは、禪院だけでなくこっち側からも濃厚に受け継いだのではないかという確信が頭をよぎる。先ほどの夢の不快感も相まって、直哉の中で何かがぷつりと音を立てた。
「ごめんちゃい♡ でも別にええやろ。俺が来ても来やんでも」
直哉は手にしていた湯呑みをコトリと卓に戻し、口角をゆっくりと吊り上げ、わざとらしく胸の前で両手を合わせてみせた。
「なっ……なんだそのふざけた態度は!」
「はぁ? 態度が悪いんは、そっちが先やんか。せっかく人がクソ忙しい合間を縫って、わざわざこんな、死人の灰が冷めるのを待つだけの退屈な寄り合いに、顔出したっちゅうのに」
ああ、これだ。
これこそが自分だ。
ここ最近の直哉は他人を傷つけないよう衝動に蓋をして、心底疲弊しながら真っ当な人間のフリをしてきた。だがこうして血が繋がっているだけの連中を見下し、その薄っぺらな自尊心を一枚一枚剥がしてやろうと算段している今は、異様な懐かしさすら覚えている。
菜緒葉があんな状態だというのに、自分の精神が平常運転すぎることに、ずっと違和感を抱いていた。だがようやく合点がいった。
直哉のような規格外に性格の悪い人間が他人を傷つけまいと己を律して生きること自体が異常事態だったのだ。マイナスにマイナスが掛け合わさって、結果的にプラスに見えていただけの歪な擬態。
マコがかつて口の悪すぎる直哉を本気で心配し『言ってはいけない悪口リスト』なるものを書き連ねて押し付けてきたことがある。
①立場をかさにきて自分より立場が弱い人いじめるの禁止!
②非戦闘員への自分からの暴力は禁止!!
③「顔があかんわ」とか言うの禁止!
④出自・性別・年齢・障害・性的指向・宗教sage禁止!(背中刺されて死んじゃいますわよ!)
⑤人を馬鹿にした持論を喋った後に「意外とおんで同じ考えの奴」とか言って数の有利をとろうとするの禁止!(むかつくから)
⑥身内にライン超えの悪口を言うの禁止!
彼女はしがないサラリーマンじみた生真面目さを発揮しては謎のリストを作りたがる悪癖があるので、その一環だったのだろう。「直哉は想像力が欠如しているから無自覚に人を傷つけるんですのね」という解釈に基づく、お節介な矯正プログラムだ。
かつて菜緒葉に対して暴言を吐いていたのは、たしかに想像力の欠如のせいだった。けれどもマコのおかげである程度精神的に成長してからの直哉は違った。本当は、自分の言葉がどれほど相手を傷つけるか理解していた。嫌いな相手がどんなに傷つこうが知ったことではないと思っていただけだ。とはいえ最近は、なるべく頑張ってリストの内容を守ろうという気にはなっている。
しかし好都合なことに、コイツらは今日限りで身内ではない。直哉の側から縁を切る。だから⑥は適用外だ。①から⑤のルールさえ厳密に守れば、どれだけラインの向こうへ踏み込んで蹂躙しても、姉との約束を破ったことにはならない。
「……そもそもさっきから偉そうに説教垂れとるけどな、伯父さんの会社、見事に傾いとるやんか。不景気やの時代が悪いやのもっともらしい言い訳しとるけど、単にあんたの経営手腕がポンコツなだけやろ。無能のくせに見栄張って手ェ広げるからそうなるんや。葬式でデカい顔して若者に説教垂れる前に、自分のケツも拭けんその情けない生き方どうにかしたらどうなん?」
「き、貴様……っ!」
才能のなさと経営の失敗は、本人の怠惰な行動と誤った選択の結果だ。出自でも年齢でもない。セーフ。
伯父が顔面を無様に痙攣させて絶句するのを満足げに眺めると、直哉はスッと視線を横へ流し、その隣で青ざめている女を見据えた。
「嫁さんのアンタも論外。子育てが下手くそな女はアカンよ。で、従兄のお前……名前忘れたわ。親が大変な状況やのに大学中退して、家業手伝いもせずに自分探しとかほざいて親のスネ齧っとるらしいな。夢見とる暇あったらさっさとハロワでも行けやカス」
「……父さんから何吹き込まれてるかは知らないけど、俺の出来と母さんは関係ないだろ」
母の葬儀以来会っていなかった従兄が立ち上がる。見かねて仲裁に入ろうとおどおどと声を震わせたのは叔母だった。
「……ちょ、ちょっと、直哉くん。いくらなんでもそこまで言わんでもええやろ……」
直哉の死んだ母親の面影をうっすら思い出させる顔立ち。しかし常に虚勢を張って尖っていた母とは対照的に、この叔母の印象はどこまでも弱々しい。彼女は過去に、不妊を理由に離縁されている。──この辺りの古傷を指摘すれば的確に彼女を傷つけられるのは、火を見るより明らかだった。けれども直哉はその言葉を喉の奥で堪えた。良心が芽生えたからではない。自分の姉も将来子供を持たない生き方をしたがっているかもしれないと、何度か考えたことがあるからだ。姉を傷つける可能性のある言葉は、他人に向けたものであっても使いたくなかった。
「……アンタはアレやね、他人のために頭ばっか下げて、みっともないわ」
堪えた末に出てきたのは、ずいぶんと刃を丸めた、その程度の苦言だった。そして直哉は、ここへ来た本当の目的を──母方の親類に会ったら絶対に確認しようとあらかじめ腹に決めていた内容を、ついに口にすることにした。
「……伯父さん、俺がガキの頃に言うとったやろ。俺と菜緒葉ちゃんが双子なせいで禪院からの礼金が値切られたとかなんとか。それでよくこっちの品性をやいのやいの言えたもんや。……で、たしか俺の母親と叔母さん言いくるめて菜緒葉ちゃんの存在を隠そうとして、ババアに止められたんやて?」
弱り切っていた当時の母親と、気の弱い叔母が、この男に言葉巧みに言いくるめられたのは容易に想像がつく。禪院家は女にとって居心地がいい場所ではない。それを母は骨の髄まで知っていたはずだし、しかも不吉とされる双子なら、片方を信頼できる身内に任せたいと思ってもおかしくはない。叔母は叔母で、子供ができないことで精神的に思い詰めていたのだから、渡りに船だったはずだ。
「あの業突く張りも意外な徳積んだもんやと何年も感謝しとったけど……俺も最近、金勘定のことが多少はわかってきたんやわ」
「……」
「目減りしたとかいう礼金よりもな、菜緒葉ちゃんを十何年も禪院の目を忍んで食わせて育てる銭のほうが、総額で見たら何倍も高いんや。あのケチなババアが、そんな損を認めるわけがない」
「……直哉くん、君は一体何を……」
「惚けんなや。菜緒葉ちゃんは呪力が少なくて、幼少期はちゃんと呪霊が見えるのかすら心配されてた時期すらあった」
「それは……」
「オマエら、菜緒葉ちゃんが出涸らしの不良債権やなかったら、将来どうする気だったんや。……おい、答えろやカス!」
ガッと卓を蹴って立ち上がり、伯父の胸ぐらを掴んだ。湯呑みが倒れ、冷えた茶が散る。
「ひっ……!?」
伯父の口から情けない悲鳴が漏れた。胸ぐらをギリッと締め上げると、手の中にある男の顔からさぁっと血の気が引いていくのがはっきりと見えた。
「な、離し……暴力を、」
「暴力? アホか。……ただの確認やろ? なぁ?」
逃げようとする伯父の身体をさらに手元へと引き寄せ、耳元へ低い声を落とす。
「オマエら、もしも菜緒葉ちゃんの呪力が潤沢やったら、あのババアと結託して菜緒葉ちゃんをどう使う気やったんや。呪術界じゃ双子は凶兆やからな。それをタテに俺の父親をスキャンダルで脅して、タカリ続ける算段やったんか?」
手の中の伯父の身体がビクンと大きく跳ねた。図星を突かれた人間のあまりにもわかりやすい反応。しかし直哉は彼らの強欲さがそれにとどまらなかったことを既に察している。
「ついでに禪院に売り払って女中として働かせて、適当な男と恋仲になれば御の字やもんなぁ。俺の相伝が発現した時、伯父さんは幾ら貰ったん? 正確に幾らやったかってのはウチの父親は教えてくれへん。なんでやろね?」
伯父と祖母なら数億はせびっていても驚かない。そして父はどうも母に惚れていたらしいので、それくらいの金額なら出すだろう。それ自体が悪いこととは思わない。一般家庭の繊細な子なら落ち込むだろうが、その程度でウジウジ悩むような間抜けなヘタレは、禪院の呪術師失格だ。
だが、その思考の延長線上で姉を売り物にする瀬戸際だった連中を前にすると、流石に平静ではいられなかった。
横から震える声で取り繕おうとしたのは叔母だった。
「……っ、ち、ちゃうよ直哉くん、兄さんはただ、悩んどった私を気の毒に思って……っ」
叔母は本気でそう思っていたのかもしれない。しかし直哉が冷たく一瞥すると、彼女はヒッと喉を鳴らして泣き崩れた。
伯父の実の子であるはずの従兄は、冷め切った表情で父親を見ている。一族の絆だの助け合いだのと手紙の中で言っていた当人の家がこのザマとは。
流石にくだらなくなって、直哉は掴んでいた伯父の胸ぐらを乱暴に突き放した。たたらを踏んだ伯父はバランスを崩しパイプ椅子ごと派手な音を立てて床へひっくり返った。それでもなお、控え室の空気は完全に氷結したままで、誰も彼に手を差し伸べようとはしない。
伯父が、ぎり、と奥歯を鳴らした。
張り付いた静寂を破るように、男の喉の奥から怨嗟に満ちた声が絞り出される。
「……結局、売ってへんからええやろうが。いちいちうっさいねん、クソガキがぁ!」
先ほどまで取り繕っていた標準語も薄っぺらな媚びも、完全に剥がれ落ちていた。そしてその声は一言ごとに熱を帯び、次第に大きくなってゆく。
「たしかに俺は菜緒葉ちゃんを隠そうとした、脅しの材料にしようとした。せやけどなぁ、結局やってへん。あの子は無事に禪院で育ったんやろが。やってもないことで何を責められなあかんのや! そもそも、お前はその菜緒葉ちゃんにどんだけ優しゅうしたったんや! 」
◇
──もう、3年も前のことだ。
新宿の雑居ビル、桐永会の203号室。切れかけた蛍光灯が2本、不規則な明滅を繰り返していた。光が灯るたびに惨状が断続的に浮かび上がる。床に倒れて気を失った兄、教室の隅に折り重なった塾生たち、ひっくり返った椅子や机。誰も彼も死体のように動かない。その脆い光の中心で、菜緒葉だけが涼しい顔をして、人のカタチをした呪霊の肉を削いでいた。彼女は羂索に対し、自身の術式の説明を、真男佳の残りの肉を削ぎながら行っていた。
「私の本当の術式は『予測と適応』。術式がなくて、代わりにそれに相当する量の呪力だけがあった場合の一生のシミュレーションを式神に行わせ、シミュレーション内で確認された最大の脅威を乗り越えるに相応しい適応術式を式神に付与するというものです」
菜緒葉が指先を添えるだけで不可視の刃が走る。骨から薄く肉が剥がれ落ちる。もう骸骨と大差ないところまで削がれた真男佳が、それでも直哉の目には奇妙なほどに人間そっくりに見えた。喉の奥で時折、空気の漏れるような呻きが鳴る。命乞いの言葉はもう形にならない。
人の死を、直哉は数え切れないほど祈ってきた。あいつが死ねばいい、こいつが消えればいい。けれどそれは口先の話で、生きた人間の形状をした存在を自分の手で生きたまま捌いて口に入れる覚悟なんて、当時の直哉には欠片もなかった。だから姉の落ち着き払いようが、ただただ異様だった。菜緒葉は慶事の懐石でも味わうように真男佳の肉を咀嚼する。その所作には嫌悪も躊躇も見当たらなかった。
大きく胎を膨らませた羂索は教壇の椅子にゆったりと腰掛けていた。彼女は、まるで放課後に恋バナの続きでもねだる少女のような、茶目っ気のある笑みで菜緒葉を眺めている。肉を削ぐ音も、この怪物には舞台の書き割り程度の意味しか持たない。
「強いじゃない? まるで八握剣異戒神将魔虚羅のコンパクト版だね」
「うふふ、元からの強者が持てば、ですわ。普通の術師でも……3級や4級程度の呪霊を細々と祓っている間は、楽ができるでしょうね。でもそこから先は地獄ですのよ。脅威が苛烈すぎて、シミュレーションの結果が『死』一択な場合……適応術式の実装が進まない時のWindows更新みたいな状態になって、式神が術者の呪力を吸い取りながらフリーズしてしまいますの。おまけに病気にまで適応を試み始めるせいで、同じ術式の持ち主だったお母様は、弱って死んじゃいましたし」
お互いの術式のことはよく知っていたつもりだった。他の家族とは違って、自分達だけはきちんと仲良しなのだと信じきっていた。
「菜緒葉ちゃん、なんで今まで言ってくれんかったの?」
声が掠れた。傷を押さえた手のひらに、ぬるい血が滲んで張りついている。菜緒葉は手を止めず、蛍光灯の明滅の合間にちらりとこちらを窺うような目を寄越した。その一瞥が宿していたのは、意外にも不安の色だった。
「あら直哉。忘れてしまいましたの? あなた、お母様の術式を、『パッとしない式神遣いやね』って、死ぬほどバカにしていたでしょう?」
「あ……」
事実、バカにしまくっていた。
実家に返された敗残者の母のことを考えるだけで腹が立ったからだ。自分があの人の子なのだと思うだけで、どこまでも弱くなっていくような気分だった。その気持ちを外へ押し出すために、悪口を言っていた。
それだけだ。
菜緒葉がどう思うかなんて、気にしてすらいなかった。
「直哉にバレたら永遠に見下されると思って、その式神……
自分の式神を咄嗟に食べた、と菜緒葉は言った。さも昨日の夕飯の話でもするように。式神を食べたら普通はどうなるかなんて、直哉は知らない。でも、食べたせいで死ぬ可能性もある。直哉の軽はずみな言葉のせいで、姉は死んでいたかもしれなかったのだ。
けれども当の菜緒葉は自分がどれだけ危ない橋を渡っていたのかについて、気づいていないようだった。
「私、こう見えて結構胃袋が強いみたいですし、式神を破壊されるリスクもないからこれはこれで、とっても便利なんですのよ?」
少し自慢するような口調で菜緒葉は言う。
羂索は興味深げに身を乗り出した。
「能力だけ引き出しての憑依運用もやりやすいと?」
「ええ、あとは更に使い勝手を良くするために、『予測』も『適応』も、どういう結果になろうが1回きりに留める縛り、それから『予測』の負荷を式神ではなくこちらで肩代わりする縛りをプラスしました」
直哉には理屈の細部がわからず、つい聞き流しかけた。けれども羂索が言った。
「それ、子供が使えるレベルの術じゃないだろう。頭壊れるリスクがあるんじゃない?」
羂索の問いは軽い。世間話の相槌と変わらない。そして菜緒葉の答えも軽かった。
「ええ。余裕でぶっ壊れましたわよ」
壊れた。
その一語が直哉の頭の中をすっと白く塗り潰した。傷の疼きが一気に遠のく。それでも彼女の言い方はあまりにも軽かったので、却って直哉の頭はその意味を受けつけられなかった。何かの聞き間違いであってくれと、本気で願った。
「お母様がシミュレーションを式神任せにしてた理由がよ〜くわかりました。親のやることというのは、常に意味があるものなのですね。その結果、私の意識、何ヶ月もずっと沈んでましたし。ついでに、折角肩代わりした『予測』の記憶もほぼ全部封じられちゃって……」
ぼやく菜緒葉。
「記憶が消えちゃうなんて、余程ショックな内容だったのかい?」
「ええ。覚えてる範囲でも、すごーくショックでしたわ。朧げな記憶によれば、シミュレーション内の私は禪院本家の人間ですらなかったようで……。お父様に捨てられちゃったのかしら? ──いや、それについては落ち込み尽くしましたし、大した問題ではありません。問題はどちらかというと、直哉の男尊女卑迷言集の数々ですわ。禪院の男が女に対してどんな態度を取るかは、羂索さんもご存じでしょう?」
菜緒葉が姉でなかったらどれだけ酷いことをしていたのかは、直哉自身でも見当がつかないレベルだった。羂索まで、自分もヤバ女な癖に直哉の方をドン引きの呆れ顔で見てくる。
「菜緒葉の記憶が飛んだの、アレじゃない? 生き別れの弟に使い捨ての女として弄ばれたとか……」
「そうなん菜緒葉ちゃん?!」
大焦りどころの話ではない。
その、焦りに焦っている直哉の顔は菜緒葉からすると面白くて仕方なかったらしかった。大笑いされた。
「はぁ? 私達がヨスガる*1なんて天地がひっくり返ってもある訳ないじゃありませんか。第一ねぇ……いくら禪院が悪役一族とはいえ、そんなの、この世界のジャンルが変わっちゃいますわ!」
「この世界にジャンルとかあったんか?」
「少年漫画ですの!」
よくわからないが「姉弟の絆は、離れ離れでもちゃんとありますもの」と菜緒葉が付け加えてくれて、安心してしまった。
続きの言葉を聞くまでは。
「で、気づいたら私の中になぜかもう1人の人格がいたんですのよね」
菜緒葉は少し気まずそうに切り出した。
「たぶん、上位世界からやってきた……神様みたいなものですわ。この世界を著作権法違反の音MAD動画によって楽しんでるおんこーな常識人で、白馬の王子様みたいにかっこよくて、なのに理想の美少女! そう、最強のTS美少女なんですわ!!」
だからあんまりもうひとりの私を責めないでね、と言わんばかりの口調で、彼女は直哉を見る。二重人格状態を黙っていたことで、もうひとりの自分が責められると思っているらしい。
しかし。
「あー、ハイハイハイ、式神にそういう妄想設定をつけたんだね。そういう年頃ってあるよね。斯く言う
常識的に考えて、誰だってこういう反応にしかならない。菜緒葉は周囲のぬるい目に堪えられなくなったらしく、涙目で必死の主張を始める。
「違います〜!! 理屈はよくわからないけれども、マコくんは憑依転生異世界人で、本当にいるんです! 魂もここに来る前の記憶もあるし、いっぱいお喋りしてくれるし、最高のパートナーですわ! あと、私の失われた『予測』の芸術的なダイジェスト版*2も多数持ってて、私の代わりにほとんどずっと禪院の女を演じてくれていて、直哉ともお父様と仲良くなってくれて……私、マコくんが助けてくれなかったら完全に気が狂ってたんだから! だからマコくんは絶対にいるもん!!」
必死にそう主張されてもまだ半信半疑だったが、これ以上下手に触れたら菜緒葉の精神の均衡は危うくなる。羂索もそれに気づいたらしく、あっさり話題を変えた。
「で、『菜切り包丁』は
その問いには菜緒葉は寂しげな、けれども狂おしいほどに甘い微笑を浮かべて答えた。
「ごめんなさい、今はまだ思い出せません。強いて言えば『直哉と一緒に両面宿儺みたいな最強の呪術師になれますように!』ってお祈りしながら『予測』を開始したからでしょうか? あとは『直哉に置いてかれるくらいなら死ぬ』とか『もう二度と直哉よりお寝坊しません』……とか考えたのが、バフになったとか?」
あまりのことに直哉は吐きそうになった。つまり──直哉の軽はずみな言葉に傷ついて焦った姉は無理をして大変な術を使って、そこでもっと悲惨な光景を見た。理屈の詳細は不明だがそのせいで人格が分裂して、その後数年間のうちのほとんどの時間を別人格に代行させていた。そして今は、全人類を美少女にする計画を本気で練っている。完全に壊れたのかと思いきや、その状態さえも別人格に助けられて辛うじて回復した結果だという。
「菜緒葉ちゃん……」
──元凶、ことごとく俺やない????
直哉だって別に悪気があった訳では──いや、悪気はあった。悪気しかなかった。雑魚とか女とか、そういうムカつくものを素直にムカつくと言っていた。その結果もたらされる災いというのはどうせ雑魚や女が起こすのに相応なしょうもない物だろうと思っていて、気にも留めなかった。
そうしたらこんなことになってしまった。
常識的に考えてこんなことになるとは誰も思わんやろ──と全世界に向けて主張したいが、現にそうなっているのだから何も言えない。
これまで音MADにされる程度のお仕置きしかされていなかったのが奇跡的なレベルだ。どうすれば菜緒葉に許してもらえて、菜緒葉の思想が普通に戻って、また元通りの関係に戻れるのかが全くわからなかった。
「なんでそんな顔をするの?言っておくけど、私はマコくんが頑張って呪霊を食べてくれたおかげでラッキーにも人格が再浮上してきただけで、身の丈に合わない術式の行使のせいで1回死んだも同然なの。今はせっかく心機一転頑張ってるんだから、あの頃のバカで雑魚な私のことは忘れて頂戴。ぶっちゃけ黒歴史なの。もう思い出したくもない」
「じゃあ、俺はこれからどうすれば……」
「自分で決めなさいよ、それくらい。それか、もうひとりの『菜緒葉』に聞いて。私より生きるのが上手い人だから」
「……」
「直哉、マコくんのおかげでこの何年かで私の弟だった時より何倍も強くていい子になれたでしょ。……それに、私とあんまりお喋りできなくたって、何年も平気だったじゃない? これからだってどうにかなるわ」
菜緒葉は直哉を慰めるように言った。
「私は根っから禪院の女だから、男の子には女の3歩前を歩く気概を持ってほしいけど……やっぱりあなたの後ろを歩くのは辛くて耐えられないし、女を後ろに追いやりながら生き続けることは、いつかあなた自身を破滅させるのかもしれない。だから、そういうのはもうやめましょう?」
「……」
「──と、いう訳で。男の子の3歩後ろしか許されない無様な禪院菜緒葉は無事に壊れていなくなったのですわ」
めでたしめでたし──と言いたげな口調で菜緒葉は締め括った。
その日直哉は、自分の存在がどのように姉を呪っていたのかということを、初めて自覚したのだった。