音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
言うまでもないことだが、直哉は曲がりなりにも呪術師である。葬儀帰りの人間に塩を撒いて穢れを祓うなどという非術師の作法に実効性が一片たりともないことくらいは百も承知だった。台所の戸棚の白い結晶を肩越しにパラパラやった程度で呪霊が退散してくれるなら、禪院家は家業を畳み、菜緒葉がときどき思い出したように言い出す通り、宮崎でマンゴー農家にでもなった方がいい。
この行為の根源的な滑稽さを塩の壺を抱えて突っ立っている目の前の女中に向かって懇切丁寧に詰めて遊んでやりたい衝動は直哉の中に確実にあった。「なぁ君、それ振りかけて俺が1ミリでも清まると本気で思うてやっとるん?」と、徹底的に。
だがやめておいた。
目の前の女中は姉の友人かもしれない。そうでなくとも余計な悪態をつけば、彼女がこぼした愚痴が屋敷中を光の速度で駆け巡る。今日中に必ず姉の耳へと届く。そして姉は「直哉って本当にドブカス」と言い放つのだ。
牙は、こういう小さな我慢の積み重ねで抜かれていく。
「直哉、おかえりなさぁい!」
ぱたぱたと駆け寄ってくる足音。無駄にきらきらした目の輝きと人懐っこい出迎えの温度で、今この身体の表に出ているのがどちらの姉かは見るまでもなくわかった。昔ならともかく、今の菜緒葉なら弟の帰宅ごときでこんな尻尾の振り方はしない。
「聞いたんですけど、お祖母様のお葬式だったんですって? 言ってくれれば行ったのに。 でも、行きたくなかったのでありがとう」
支離滅裂な言い分をひといきに言い切る無邪気さに、直哉は返す言葉に詰まる。
「姉さん……」
「あなたが1人で立派に葬儀に参列してくるなんて、私感動ですわ」
姉は笑顔で続けたが、内実は立派どころか地獄の見本市だった。
15分遅刻してきたせいで親戚一同からドン引きされ、伯父の悪事を暴露するもカウンターの正論を喰らった直哉の危機を救ったのは、まさかの散々ディスったはずの従兄だった。従兄は実の父を一発殴り、何故か直哉に頭を下げ、ついでに「世の中には児童相談所っていうものがあってね」と見当違いの配慮まで差し出してきた。
いやいやいや。
上の兄達はさておき自分達双子はむしろ過剰に甘やかされている側だし、そもそも天下の禪院家を相手取って児童相談所が動くわけがないやろアホか──と喉元まで競り上がった全力の反論を、直哉はどうにか飲み下した。飲み下したせいで無性にムカついて、結局従兄にはろくに礼も言えずに帰ってきた。
要するに立派な要素などゼロで、この一部始終が姉にバレたら詰む。
特に今表に出てきている方の姉は、ナチュラルに扇をしもべ扱いしてはばからない恐ろしさがある。*1菜緒葉が普段うっすらサディスト気味なのは、幼い頃「カナブンの裏っ側って気色悪いからイヤや!」と言った直哉にそれを見せつけて追いかけ回してきた、あの性格の悪さの素朴な延長なので、直哉目線だとむしろかわいい。だが──こちらの姉のサディズムは全く質が違う。あの宿儺の指を平然と弄ぶ女だ。「これで扇のおじさまは私に奉仕できてハッピー、妻子はデカい顔をされずハッピー、私は手駒が増えてハッピー、三方良しですわね」という慈愛と支配の見分けのつかぬ思考を平然と回していかねない。*2この女は社会のため、衆生のためと称しながら、既に半ば抜かれかけている直哉の牙の残りの1本までも笑顔で引っこ抜いてくるだろう。
そんな直哉の戦慄をよそに、姉は次の小さな爆弾をいとも軽やかに投げてよこす。
「ついでにねぇ、これもさっき小耳に挟んだんですけれども。あなた、ほぼ知らない非術師の従兄とメールアドレスを交換してきたんですって? ……お姉ちゃん、もう大号泣ですわ」
などと言いつつ姉の笑顔は1ミリも崩れていない。禪院家の噂ネットワークは時に事実を歪曲する。
「交換してへんわ。押し付けられただけや」
それを出迎えの女中相手に愚痴ったのは数分前なのだが、この家の情報網はどうなっているのだろう。
「突っ返してないだけで進化ですわ!」
「姉さんは俺がそこまですると……?」
いや、する。本来の自分なら普通にする。
「従兄ってたしか今頃大学生でしたっけ? どこに入学したの?」
「いや、辞めて途上国支援のNPO法人に入ったらしいわ」
伯父が金をせびる手紙の中で「自分探しとほざいて親のスネを齧り続けてる」と盛りに盛って書き連ねていただけで、実際のところあの男は全くもって無職などではなかったのだ。手紙の嘘を微塵も疑わずに鵜呑みにし、従兄の母親まで煽り倒してきた手前、この真実は直哉の胸の内に最悪の後味を残していた。
結局己の根底の部分というのは変えられないのだろうか。
後悔を持て余しながら廊下を並んで歩いていると、やがて庭に面した一角へ差しかかった。障子はあらかた開け放たれ、午後の斜光が縁側の板を橙に温めている。その光の降る庭先で、とんでもなくかわいい顔をした小さな双子の姉妹が、植え込みの根方にしゃがみ込んで何かに夢中になっていた。
「あら、真希ちゃん、真依ちゃん」
姉が縁側に寄る。その声に双子の片方の顔がぱっと跳ね上がった。真希だ。この双子は同じ顔をしているが、判別は常に容易だった。
「こんにちはナオハ! みてみて、カミキリムシ!」
言うが早いか真希は白い水玉模様のある黒い虫を勢いよく姉の鼻先へと突き出す。
「きゃっ……」
姉の喉から小さな悲鳴が漏れたが、その怯えは即座に塗り替えられた。次の瞬間、太陽に雲が掛かるように翳った瞳が、艶然と細められる。
「あらあら、スタイリッシュで素敵ですわね。真希ちゃん、こんな立派なのを捕まえるなんてお手柄ですわよ。逃がす前に私のケータイで一緒にお写真を撮りましょうか?」
「やったー!」
菜緒葉は自分の上等な着物が床につくのを一切構わず、真希と同じ目の高さで膝をついた。真希は得意げに胸を張り、真依は真希の半歩後ろからその様子をそろそろと窺っている。
──姉と双子はいつも楽しそうに話す。双子というか、厳密には真希だ。真依は真希の後ろに隠れているだけだった。3歳か4歳かという年齢を置いておいても、惨めな有様だと直哉は思う。世間の真っ当な人間なら人見知りでかわいいと言って目を細めるだろうが、生憎直哉は性格が悪い。だから「惨め」以外の感想が出てこない。
姉達はどちらもかなりの子供好きだが、直哉はそうでもなかった。漠然と不潔だと感じる。自分達が幼い頃だって、碌な物を触っていなかったように思う。
菜緒葉がデコ電を取り出して虫を撮ったり真希を撮ったりしているあいだに真依と目が合ったが、余り物同士での会話なんてしなかった。話しかけられたら応じてやってもいいが、少なくとも直哉から配慮してやる筋合いはない。挨拶は立場の弱い側が先にすべきだ。小さい頃の菜緒葉は、どんなに怖そうな大人が相手でも絶対にそうしていた。
そんな直哉に菜緒葉はどこか冷たい眼差しを向けたあと、真依にも何やら優しく甘い声で話しかけ始めた。
直哉は結局無言でその場を去ることに決めた。真依のおどおどとした視線を憎悪をこめて見下ろす。真希の「ナオハ、ナオハ」とはしゃぐ声が、背後で遠ざかる。
縁側の角を曲がり、双子の声が風の音に紛れて聞こえなくなってしばらくした頃──菜緒葉が追いついてきた。本来の菜緒葉のままだ。
おそらくは怒っている。普段のワガママの延長線上のようなどこか甘えた怒り方ではなく、本気の怒りだ。菜緒葉は直哉がいい子ぶっていると不機嫌になるが、悪人すぎても普通に嫌がる。
「挨拶くらいはしてあげなさいよ。真依ちゃん怖がってましたわよ」
「……酷いなぁ。真依ちゃんに関わるなって言うたのは菜緒葉ちゃんや。だから関わらんかったし悪口も言わんかった。これ以上ないくらいに立派やろ?」
「あれは『酷いことをしないで』って意味に決まっているでしょう。あなたはそのくだらない言葉遊びで、私をどこまで怒らせたいの?」
文句を言われて嫌だったから言いこめてやりたかっただけで、別に怒らせたい訳ではない。しかしそう答えると逆に怒られそうだ。上手いこと機嫌を取ることにする。
「ところで真希ちゃんは物怖じせんで立派やね。昔の菜緒葉ちゃんを思い出すわ。別嬪さんやし」
「……そういう小手先の機嫌取り、バレバレですわよ」
「チッ、なんでバレんねん」
──立派と思っていないのが秒でバレた。
とはいえ実のところ、真希が昔の菜緒葉に似ているというのは一応本音だ。しかし同じような状況で、甚壱にろくな挨拶をしない直哉の頭を、菜緒葉は無理やり叩いて下げさせてきていた。それもまあ、直哉が相伝だとわかる前までのことだったけれども。
そういえば他の親類は、むしろ真依と菜緒葉の類似を語る。特に最近の扇が。しきりに。いとこなんだから似ていること自体は当たり前で、けれども類似は「同じ」を意味しない。菜緒葉の代わりは要らない。そこで直哉は愛らしい童女達と記憶の中の幼い菜緒葉を比べてはなるべく違う場所を探し、自分達とは全く違う双子への侮蔑を重ねていた。
けれども菜緒葉は不快げな表情で、しかし声だけは甘いままに言う。
「ねえ直哉。小さい頃によく知らない大人の人に挨拶をする時にすごく緊張したの、頭の軽いあなたはもう忘れちゃったかしら。真依ちゃんがまだ不器用だって別にいいんじゃない? 自分達が怖かったことを真依ちゃんにさせないような大人になれたら、あなただってきっとその方が気持ちが良くなれると思うの」
菜緒葉は弱者を己のように愛している。
直哉とは正反対だ。
直哉は弱者を踏みつけたい。弱者を踏みつけて、過去を乗り越えて、より輝かしい場所を目指したい。これはもう本能で、常に自覚して抑えつけないと無意識に心がそのように走り出してしまう。菜緒葉を壊してさえこの有り様なので、生まれつき魂の形がそうなっているのかもしれない。
しかしその素直な感情を口にすることだけはやめたから、
「菜緒葉ちゃんは優しいなぁ、昔っから」
とだけ返した。それでもその返答の裏にどんな呪いがあるのかを菜緒葉はきちんと見抜いているらしく、憐れみと蔑みと愛情の混ざった態度で直哉をじっと見上げてから、訝しげに首を傾げた。
「あのね。真希ちゃん達が救われる家は、甚爾くんが救われる家でもあるの。私達はそこについてだけは全く同じ夢を見られていると、そう信じていたのですけれども……」
その点については半分同意だ。
将来自分に息子や、より直近で新たな弟などができた時、その子が甚爾を馬鹿にし始めたら耐えられない。逆に、その子が甚爾のような目に遭うのも怖い。子供には少しでもマシな居場所を渡したい。そういうこと程度は、ここ数年で少しずつ考え始めるようになっていた。
けれども。
「真希ちゃんは甚爾くんやない」
「……」
「そもそも、姉さん達のやっとることとやろうとしとることとで、甚爾くん自身は本当に救われるんかな?」
この数年で、直哉は深く考えたり自分の生き方を見つめたりしなくてはならなくなった。元々の直哉はそういうことをする人間では断じてないが、自分自身の歪んだ鏡であるかのような分身の少女が目の前にいて、直哉のせいで壊れたともなれば、流石に心はかなり揺れ動いていたからだ。
そして結局は今でも、自分自身と折りあいをつけられていない。
だからこそ、きちんと思考を巡らせる前からずっとずっとずっとよく考えていた甚爾に関してだけは、新しく設けた善悪の指針とは全く別種の、確固たる考えを持っていた。
──マコと菜緒葉では、絶対に甚爾を救えない。天と地がひっくり返っても、そんなことはあり得ない。
しかし菜緒葉は珍しく、直哉の気持ちを少しも理解してくれなかった。
「相伝を持って生まれて、天才だって持て囃されてた──そんな恵まれたあなたに、甚爾くんの何がわかるの?」
その言葉を前にした直哉は結局何も言い返せなくなり、姉弟での久々の長い会話は終わった。
◇
姉達──厳密にはマコは、周囲の人間を少しずつ、より善良なものへと仕立て直そうとしている。そしてそのように削り直され、誘導されていくことの抗いがたい魅力に、既に随分な数の人間が陥落している。菜緒葉を壊した件について自覚するまではマコのありがたい訓戒さえもあまり耳に入らなかった、環境に流されているだけの他の悪人達とは格が違う直哉自身ですら、安易な自分本位や他人を傷つける際の甘やかな快楽というものがあまりにも深く骨肉に馴染みすぎているだけで、本来の性格よりは相当矯正されつつあるはずだ。
そしてその改革が捧げられた祭壇の上にいるのが双子の真希と真依であり、甚爾なのである。
改革は間違いなく真希のためにはなっているだろう。
真希を見かけると優しく声を掛けたり、菓子や玩具などをやる者さえ既に何人か出てきている。呪力の有無による差別さえ取り払ってしまえば真希は愛らしい童女だし、彼女は周囲の環境をそのまま映す鏡のような気性の持ち主なので、優しくすればするだけ順当になついてきてかわいいのだそうだ。「もう一人、真希みたいな妹がいてもかわいいかもね」と兄が言っていた。その調子の良さに呆れながらも「菜緒葉ちゃんだけで二人ぶんかわええやろ」と返しておいた。菜緒葉は実際、ふたりいるので。
また、最近始めたばかりの種々の試みについても、十数年も経てば屋敷の床板のように当然のものとして定着するだろう。将来仮に真希が呪術師を志したとして、その頃にはそれを後押しする体制は整っているはずだ。直哉個人としても、もしそういうことがあれば彼女を応援してやろうという気持ちが徐々に芽生えてきている。仲良くする気は微塵も湧かないが、仲良くしなくてもできることはあるだろう。
一方で、以前の禪院家でなら「年頃になるまで給仕をこなし、適当な分家に嫁に行っておしまい」というようなしょうもないルートを辿っていたであろう真依に関しても、最近扇の方から「何としてもエリート呪術師になれ」という圧が静かに掛かっている気配がある。
近頃の扇は、菜緒葉が4歳の時分にはどんな娘だったかを執拗なほど直哉に問うてくる。一緒に蟻を踏み潰したり、巣穴に水を流し込んで遊んだりしていた──などと馬鹿正直に答えようものならあの男はまたぞろ癇癪を起こしかねないので、直哉は専ら、漢字を山ほど読めて賢い子だったという姉の美点の方だけをこれ見よがしに自慢し倒していた。結果、幼い双子がこれから平仮名片仮名漢字のドリルを大量に課されるであろうことについてはまあどうでもいいし──この間、双子の母親が笑っているのを初めて見た。放置されるよりは今の方が幸せなはずだ。
ちなみに直哉は成長した真依に酷いことをする可能性があるらしく──いくら自分がカスとはいえ、単なる女中や下っ端の術師の娘ならまだしも、扇の娘に手荒な真似をするとはあまり思えないのだが、そんな理性すら消え失せるレベルの美人に真依は成長したりするのだろうか?──菜緒葉はそれを最大の懸念事項とみなしてどこか怯えているようだ。これについても直哉は「年下好きは人としてアカンわ……」という態度を年単位で取っておくことで対処しようと決めていた。そうすれば菜緒葉は安心してくれて、真依の未来も虹色に光り輝くはずだ。ぶっちゃけ真依の未来が何色だろうが心底どうでもいいけれど、菜緒葉のためなら彼女の幸福を祈ってやろう。
しかし、甚爾はどうだろう?
菜緒葉との口論では、あまりにも痛いところを突かれたせいで持ち出せなかった。けれどもそれはずっと前から直哉の喉の奥につかえていた本物の疑問だった。
仮に禪院家が呪力で人を区別しないようになったとして、そして将来、甚爾の妻と同じ病気の患者全員を呪術で救えるようになったとして──それで未来の何万人が救われようが甚爾の妻が生き返る訳ではないのだし、真希がどれだけ周囲に愛されようが、禪院家が甚爾に詫びる日が来ようが、過去は消えない。
姉2人の主導した戦果を甚爾が見たとして、「だから何だ?」としか言わない気がしてならないのは、真希と甚爾を絶対に重ねることのできない、そんな直哉の性格がカスだからだろうか。
革命の志が姉達自身の悲しみを埋める手段でもあるのはわかっていたので「これで甚爾くんも救われますわ!」という言葉を否定せずに見守ってきたが──本気でそう思っているなら、今のうちに止めておいた方が傷が浅いのか。それとも、幸せな夢を見せておいた方がいいのか。
──そんなことを考えながら、直哉は甚爾を見ている。彼の妻の葬儀の日、菜緒葉には内緒でこれからもこっそり会いに行くと言った。その約束は1年くらい前から守っている。彼を探し出すのはそれなりに大変だったし、会話をしてもらうのはもっと大変だった。結局、金と食事の提供で、辛うじて相手をしてもらっている。
場所は郊外のロードサイドにある、どこにでもあるファミリーレストランだ。白すぎる照明、当たり障りのない有線のBGM、ビニール張りの広い座席。直哉が奢ると言ったので、甚爾はハンバーグだのステーキだのを次々と頼んだ。自分も育ち盛りでそれなりに食べるほうだと思っていた直哉が、まるで追いつけない量だった。なのにその食べ方には飢えの気配がない。底の抜けた器に、ただ延々と注ぎ込んでいるだけ。なのに本人すら、満ちないことを気にしていなかった。
「最近さあ」
肉を切りながら、甚爾がどうでもよさそうに口を開いた。
「津美紀に、おままごとに付き合わされんだよ」
「は? おままごと? 甚爾くんが?」
直哉は思わず訊き返した。想像した途端に口の端が勝手に引き攣りそうになる。
「そうそう。『お父さん役やって』ってうるさいんだよ。『はい、どうぞ』ってなんか色々渡してくるから食う真似してやると、すげえ嬉しそうな顔する」
甚爾はフォークの先で、付け合わせの人参を意味もなく転がした。
「女はガキの頃から男に飯食わせんの好きだよな。どこで覚えて来るんだろ。保育園か?」
「姉さんは保育園なんて行っとらんかったけど」
「……? 今の嫁もやたら食わせたがるんだよ。前に久々に帰った時、外で食ってきたっつったらキレられて泣かれた」
「それは甚爾くんが新婚早々ウワキばっかしとるからやな、ドアホ」
食わせたい側の気持ちなんか、甚爾には一生わからないだろう。直哉も本当は甚爾に飯を奢るのが楽しいけれど、「禪院の」という枕詞を抜きにしてさえ男としてはあるまじきことな気がするので、口が裂けても言えない。
そもそも、誰かを大事に思っているとか心配しているとか、そういう言葉を口に出すこと自体、直哉の性に合わない。だから代わりに財布を出す。ハンバーグでもステーキでも好きなだけ頼ませて、それを向かいで眺める。腹を満たしてやることでしか伝えられる気がしない。これはたぶん、直哉なりの「はい、どうぞ」なのだった。
「……あんな甚爾くん。俺はな、台所に入ったらアカン決まりになっとんねん」
直哉はなんとなく、独り言みたいに言った。
「『男児厨房に入らず』っちゅうやつや。料理は女中の仕事。──せやのに俺、料理にちょっと興味あんねん。アホやろ?」
甚爾は「ふーん」とも言わなかった。ただ次の皿を頼むために、だるそうに片手を上げた。
「甚爾くんが前はエプロンして作っとったん、ちょっとカッコよくて羨ましかったわ」
「あー……?」
「料理、全部前の奥さんに教わったって言うとったやろ」
「覚えてねえな、そんなん」
覚えていたくないのだろう、と言い返してやろうかと思ったが、甚爾の精神状態を考慮してやめる。
「あ。それと、これは別にどうでもええ話なんやけど……最近、姉さんが分子ガストロノミーっちゅうのにハマっとってな。料理を科学でやるやつ。エスプーマがどうとか低温で何度何分がどうとか球状化がどうとか、横文字ばーっと並べてすらすら喋るねん。いっつも『私、ド文系ですわよ』とか抜かしとる癖に」
言いながら直哉は内心でもう一人の姉を誇らしく思っていた。ああいう話をする時の彼女は急に賢くなる。淀みなく知識を語る横顔は、いつものやや能天気な様子とは違った。女に押し付けられる下等な仕事とされていたそれに別の光を当てて直哉の視野を広げてくれたのは、こちらの姉だった。
「好きな人のために何か作るんは絶対に楽しいんやろな。でも、好きな人のためやなかったらイヤやわ。……店員とか女中とか、そういう人らには感謝せなアカンね。俺やったらクソ客に出すのには何入れるかわからんわ」
「……」
「姉さんって、どういう気分で毎日お料理してはるんやろ」
「……」
甚爾は顔も上げず、ライスを掻き込む手も止めなかった。
「甚爾くん、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
「……まあ、ええわ」
甚爾は女が好き──というより、男という生き物があまり好きではないらしい。そして直哉はガキといえど男で、おまけに禪院。それを思えば十分優しくされている方だと思う。だが、しばらくしてから甚爾が言い始めた言葉については流石に堪えた。
「
再会した当初はもっと酷くて、恵のことすら忘れていた。滅茶苦茶頑張ってどうにか思い出させ、本当に十種が発現したら今の妻ごと禪院の金で面倒を見るということで現在交渉中だ。「その時はタダとは言わず直毘人に金せびるわ(笑)」と虚ろな目でドクズな発言を始めた甚爾をかなり頑張ってぶん殴り──だって、投げやりになってそんなことをしたら、後で絶対後悔するのがわかりきっている──今も少し揉めているが、そのうちなんとかなりそうな感触は見えてきた。とはいえ甚爾の今の妻というのは禪院家育ちの人間から見るとマトモとは言えないような職業についている女なので、早いところ転職させなければ恵以前に津美紀の教育に悪いのではないかというのが直哉の考えなのだが──。
喫緊の問題は菜緒葉だ。
菜緒葉のことは毎回話題には出しているのに、甚爾は都度忘れる。最初は嫌われて意地悪されているだけだと思ったのに、ガチだった。
──大事な人間の頭が、揃いも揃って変になっている。これは何かの罰なのだろうか。「ええ子にしとるから、菜緒葉ちゃんと甚爾くんを元通りに治してください」と、誰にも内緒で信じてもいない神様に祈ってみたりもしたが、神様はどこにもいないので、当然どうにもならなかった。
というか、思い出させたとて──。
「今の危なすぎる甚爾くんに、俺の超大事な菜緒葉ちゃんを会わせられる訳ないやろ……」
バレないように姉達の甚爾探しを邪魔するために、直哉がどれだけ苦労しているか。きっと誰も想像もしていないだろう。
甚爾は魂の知覚のようなことができるようなのだが、どちらの菜緒葉が本体なのかということについては履き違えっぱなしだ。
そして甚爾が本物だと思っている方の菜緒葉さえ、甚爾が道を踏み外したせいで安定を欠きつつある。甚爾がとうとう自らの記憶まで改竄し始めたことまで知ったら、どんな暴走を始めるかわからない。
それなのに、甚爾は直哉の気も知らずにとんでもない最低発言を繰り出した。
「会っても食わねーよ、オマエの姉なんて。禪院の女だしガキだし、大した金持ってないだろ、どうせ。俺は自立してる女にしか手を出さねぇ主義なんだよ」
「そうやないとヒモをやれへんから?」
「うん」
──なんで俺、こんな男のことがまだ大好きなんやろ。
直哉の憧れは打ちのめされてべコンベコンだ。というか、甚爾のこの状況は明らかにガキの直哉如きがどうにかできる範疇ではない。もはやなんらかの医療の助けが必要なレベルだった。しかし西暦2000年代はメンタルヘルスに対する理解のまだあまりない時代であり、おまけに直哉は禪院育ちだ。甚爾のヤバさを正確には認識できず、「甚爾くんってどう考えてもヤバいしカスやけど、俺もカスやし、甚爾くんは『本物』でもある訳やし……」と謎の擁護を脳内で済ませて終わった。
「そもそも、俺個人としては最高の男には最高の女が相応しいと思っとるし、菜緒葉ちゃんは将来自分で稼げる女になるんが確定なんで……甚爾くんと菜緒葉ちゃんがどんな関係になろうが、それ自体は本来全然オッケーなんやけど……」
「うわ、キモ」
キモくない。
小さい頃は本気でそうなって欲しかった。
そうすれば甚爾に一番近づけるから。
けれども──。
「あの葬儀の日に甚爾くんがやったことについて、俺はまだ怒っとんねん。あの子は気にしてへんみたいやけど……俺には菜緒葉ちゃんをこれ以上壊さないための責任がある訳で。でも、どっからどう考えても、次に会ったら姉さんが甚爾くんのメンタルにとどめを刺すか、甚爾くんが菜緒葉ちゃんを今度こそ完全に壊すかのどっちかやない?」
甚爾は多分永遠に元には戻らないし、次は彼の妻の葬儀の日よりももっと酷いことが起きるという気がしてならない。マコと菜緒葉が考えている「甚爾を救うための作戦」が、直哉の価値観からすると、甚爾を地獄へ叩き落とす代物でしかないからだ。だから菜緒葉には、甚爾の居場所を知っているということを絶対に教えない。
──甚爾の亡くなった妻を紹介してもらった時のことは今でも覚えている。
あまりにもピッタリの相手で驚いた。これ以上ないというくらいに二人は嵌まり合っていた。互いが互いを観測し、その観測によって互いの輪郭が確かめられ、それで完成している小宇宙。外から光を当てる必要のない、自分たちだけで発光している球体。あの家は自分などが近づいていい場所ではないのだと、即座に理解した。
甚爾が本当に好きな女にどのように接するのかを、直哉はあの日初めて見た。菜緒葉や自分と遊んでくれた時とは全然違って──それ自体は今にして思えば、感情の濃淡以前に種類が違っているのだから当たり前なのだが、当時はピンと来ていなかった。だからひたすら、未知だった。
甚爾が妻に触れる時の、あの手つき。とにかく甘やかして、甘やかして、甘やかして、壊れ物に触るような、いや、壊れ物よりももっと丁寧な、優しく優しく優しく触るような触り方。
直哉は人生においてあんな触り方をしたこともされたこともない。
亡くなった彼女はあそこまで愛されて果報者だ。率直にそう思う。同時に抱く感情が羨望なのか畏怖なのか、それとも自分には永遠に立ち入れない場所を覗き込んだことに対する戦慄なのか。直哉にはその区別がつかない。
人を愛するという気持ちが、直哉にはよくわからない。一番身近な相手すら、上手く大切にできなかった。
──甚爾は理解不能な物を見るような目をしていた。
重油があふれてヘドロでかたまった冬の海みたいな目だった。他のどこも直哉の視点からすると完璧なのに、目だけが傷んで、倦み疲れている。これが大切な相手を亡くした人間の在るべき目だと思いながら、飽くなく食べ物の運ばれる口元を見つめる。
するとふと、その鋭い歯で自分の中のまだ弱い部分を引きちぎって欲しいような、これから自分で頑張って変えて行かなければいけないはずの全部を頭から爪先まで食べられてしまいたい衝動に駆られた。
その欲望の重たさには自分でも戸惑った。
自分の後ろ暗さを隠すように目を伏せかけると、甚爾の目つきが冷たく鋭くなった。ずるりと、黒く大きな生き物が這い出てくるような暗い呟きが漏れる。
「菜緒葉……」
呪いのように、かすれた囁きが漏れた。勿論それは呪いではない。砂の一粒にさえ呪力があるこの世界において、甚爾は呪いを持たずに生まれた。甚爾は大勢の呪術師を殺しているのに、それだけの理由で、呪詛師認定からも逃れている。でも、彼の呪いを受けることができたらいいと思った。そうしたらきっと、甚爾の心の飢えは満たされる。
「甚爾くんがいつかちゃんと俺の姉さんを思い出して、偶然会うことがあって、その時に甚爾くんに少しでも余裕があったら……ちゃんと優しゅうして、できれば菜緒葉ちゃんのことを見たってね」
会わずに済めばいいと思いつつも、直哉は一応そう言ってみる。
今、自分が最も恐れている事態を想像する。
そうしながら甚爾の喉元に目をやり、そこでふと思い浮かんだのは、人を斬らないように調整された『菜切り包丁』の仕様が、そもそも甚爾をヒトとして認めるのかということだった。
隠し事の多すぎる姉弟関係ですね…
ということで、直哉くんの恐れるカタストロフは間もなく到来することでしょう!
次の更新は2週間後くらいになります!
息抜き回ひとつ挟んで第4部クライマックスに入る予定です〜