音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?!   作:ポ予

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主人公、トチ狂う?!

 甚爾はとにかく職質を受けやすい。濡れたアスファルトの匂いが立ち込める雨の路上で傍らに連れているのが多少なりとも面影の通う直哉であれば、言い逃れもきく。だが、高級なウールコートを纏った中学生ほどの少女となると話は全く違ってくる。おまけに彼女は今、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしているのだ。もはやどこからどうみても事案の匂いしかしない。駅前にあるチェーン経営の喫茶店に飛び込み、迷わずいちばん奥の目立たない席を選んだのは、せめて人目と厄介な制服警官から少女を隠すための、甚爾なりの防衛本能だった。

 

 深い葡萄酒色をした布張りのソファ席は、長年の客の重みでところどころが擦り切れ、色褪せていた。無言のまま菜緒葉を奥へ導いて座らせたとき、そのくたびれた赤色が、彼女が丁寧に畳んで傍らに立てかけた気品ある傘の色とちょうど同じであることに、甚爾はぼんやりと気がついた。

 泣きじゃくる彼女に構わず、ウェイトレスに「ブレンドコーヒー1杯とケーキセットをひとつ」と頼んだ時点で手持ちは底を尽き、今夜のネットカフェ代すら怪しくなった。だが、不思議と苛立ちはなかった。「俺は初手では女に奢る主義だし?」「直哉の姉だから恩を着せておくか」と打算的な理由をつけようとしたが、おそらくそれは嘘だ。

 本当のところ甚爾は菜緒葉が泣いているという事実に耐えられなかったのである。涙がひとつ睫毛を離れて落ちるたびに、甚爾は声もなくなじられているような錯覚に陥った。女に泣かれ、なじられることなど腐るほど経験してきた。けれども、目の前の少女が流すそれは痴話喧嘩のそれとは決定的に異質だった。紛れもない、甚爾の過去の罪の告発だった。生きるために忘れようとしていたはずの罪を、柔らかな指の先で確かめ直されている。

 

 甚爾はずっと、妻が死んだのは自分が彼女に子を産ませたせいだと思っていた。恵という存在ごと忘れようとしたのは、己の罪悪感から逃げるためだ。本来ならこの最低な試みは既に達成され、甚爾は未練のない根無し草として、気楽に標的を殺しているはずだった。それを、幸か不幸か奇跡的な更生を遂げつつある直哉が引き止めた。

 しかし、甚爾が抱える罪の意識には、さらに深く暗いもう一つの層がある。妻を救えたかもしれない手立てがありながら、それを使うのが遅れたという事実──その、甚爾の最大の罪を司る存在が菜緒葉である。実のところ菜緒葉は全くそんなことは考えていない。けれども甚爾は葬儀の席で菜緒葉の目に見つめられるたびに疚しさを感じた。自分を責める自分の声を、菜緒葉の声として聞いた。

 菜緒葉は甚爾にとって、妻と同じくらいに顔向けができない相手だった。あの日、火葬場の控え室で感情の制御を失い、力加減を誤って彼女の細い腕を無惨にへし折ってしまった時の、あの悍ましい感触。それを思い出すことは、妻を失った喪失感を素手で掻き回されることと同義だった。

 だからこそ、二度と会う気はなかった。必死で記憶の底へコンクリ詰めにしようとした。

 しかしひたすら過去から目を逸らしながら、甚爾は知らないはずの少女を見つめ続けてもいる。それは逃げたいのと同じくらい、笑って欲しいからだった。うっかり思い返すたびに甚爾の胸を苛むのはいつもいつも決まって彼女の泣き顔ばかりだったが、もし彼女がまたかつてのように屈託なく笑ってくれたなら、満たされていたあの時間が一瞬だけ戻ってくるような気がしていた。

 

 やがてケーキセットの紅茶とモンブランが運ばれてきた。栗の餡を細く絞り出した薄い山に粉砂糖が薄く雪のように積もり、頂きに艶のある栗がひとつ鎮座している。フォークを入れると山はあっけなく崩れて中身のクリームがのぞく。菜緒葉はその一片を口に運び、目を細めた。自然とゆるむ頰の感じは作り物ではない、同性の友人を見ているときのような気分のしてくるものだ。

 

「美味いか?」

「ええ、とっても。甚爾くんもひとくち欲しい?」

「いらねえ」

 

 甚爾は冷めかけた自分のコーヒーにも一切手をつけなかった。しかし、菜緒葉が甘いものを幸せそうに食べているのを見るだけで、腹の底に空いた穴に少しだけ温かい泥が詰まり、何かが満ちていく。その自覚を、甚爾は率直に気味が悪いと感じた。同時に、厳重に閉ざしていたはずの記憶の蓋が軋みを上げて緩んでいく。

 

「……あっ」

 

 禪院家で自分にまとわりついていたガキと、あの家で楽しそうに笑っていたガキが、目の前にいる異様な少女の姿とようやく結びついた。

 最初の感想はただ一言「勘弁してくれよ」だった。

 目の前の少女は甚爾と同じだ。

 決して満ちることのない巨大な空洞を抱えたバケモノである。

 上品にモンブランを咀嚼するその可憐な唇が、裏では悍ましい呪霊を丸呑みにし、胃袋へ落とし込んでいるという事実。それ自体は出会った幼い頃から始まっていたことだが、今の彼女から漂う気配はあの頃とは次元が違う。間違いなく特級クラスの呪霊すら喰らっている。直毘人は娘の管理すら満足にできないのか──と内心で毒づきかけて、甚爾はすぐに思い直した。

 この女は父親の言いつけに対して表面上は「わかりましたわ」と楚々と微笑みながら、裏では「理不尽極まりないですわ!」と騒ぎ立て、最終的にはぬるりと己の我を通す気性だった。

 

 とはいえ。

 とはいえ、である。

 

「……というかオマエ、雰囲気変わってない?」

 

 かつての菜緒葉はどんな絶望的な状況でも概ね能天気で、猫を被っていてもどことなくちょろそうなオーラが滲み出るお嬢様だった。なのに今は、元々の芯の強さが鉄のように鍛え上げられた代わりに、どこかひどく冷たい。そして、見えない何かにギリギリまで追い詰められているような危うさがあった。甚爾が悪霊と呼んでいたもうひとつの人格ならともかく、いつもの菜緒葉ならこんな態度は絶対に取らない。甚爾は菜緒葉の魂が複数あることは理解していても、そのメカニズムは全く理解していないので、主に精神的な打撃の結果であろうとだけ認識している。

 ──菜緒葉を忘れて放ったらかしにしていた自分が原因だ。

 そのような後悔がひしひしと迫ってきたが、彼には今以上の罪を真っ向から背負い込めるような精神的余裕は残っていなかった。

 だから、軽く笑い飛ばすような不真面目な態度で逃げるしかできなかった。

 しかし菜緒葉は甚爾の気負いのない言葉に却って安心したらしく、赤く腫れた目元をハンカチで少し押さえてから、突如として得意げに胸を張って見せた。

 

「ココが大成長しましたからね!」

 

 効果音すらつきそうなドヤ顔があまりにもウザかったのと、どう反応しても子持ちの成人男性である甚爾の側が事案を引き起こす犯罪者っぽくなりかねないため、甚爾はコーヒーカップを見つめて完全に無視を決め込んだ。

  ──だいたい、こんな言い回しは漫画のポンコツヒロイン以外は絶対に使わない。思春期の少女から出てくる言葉として、現実的にあり得ない。元々抱いていた「作り物じみている」という印象の上に、「理解不能な宇宙人が人間のフリをしている」というような、強烈な違和感が被さる。

 

 スルーされたことにもめげず、菜緒葉はくすくすと笑った。その瞳は、雨雲を切り裂く太陽のようにまた異常な輝きを取り戻し始めている。甚爾はそれに安心したような、あるいは更なる不穏さを感じたような、ひどく複雑な気持ちを抱え込んだ。

 

 銀色のフォークを弄びながら、菜緒葉はころころと表情を変えて話を再開した。

 

「そういえばあなた、直哉と謎に大・大・大親友になってたんですのね。正直びっくりしたし嫉妬もしたけど、ちょっと嬉しいかも。あの子、昔よりすごく立派になったでしょう。……主に私のせいなんですけど、あの子は最近色々と一人で思い詰めてたから、大好きな憧れのお兄さんといっぱい話せて、きっと嬉しかったでしょうね」

「……まあな。禪院家もだいぶ環境が変わったんだって?」

 

 甚爾も鬼ではないので「直哉と大・大・大親友になったんじゃなくて普通にオマエを忘れ去ってただけ」とは言わない。言えない。

 

「ええ。私は実力で『炳』に入って、ちゃんと家での発言権を手に入れたの。これで恵くんを迎え入れてももう大丈夫ですわ」

「……直哉から聞いた」

 

 その言葉をどこまで信じきっていいのか、甚爾にはまだ自信が持てていない。というかそもそも、家に帰って今の妻と「今後家庭をどうしていくか」みたいな深刻な相談をするのが死ぬほど嫌だった。甚爾は戦闘における瞬間的な思考力は高いが、長期的なライフプランを構築するような一般的な人間の生き方は絶望的に苦手である。

 

「あと、直蔵お兄様はね。お姉様の一件で色々と思うところがあったみたいで、一念発起しましたのよ! なんと高認を取って、それから北海道の医大に合格したんですの」

「なんで北海道? 京都にだって腐るほどあるだろ」

「関西の国立だと競争率が高いんだそうですわ。だからお兄様、せっかくだから海鮮とか美味しい物が多い北海道がいいとか言って」

「ふーん、相変わらずみたいだな」

「そうなんですのよ! ホントにのんきというかなんというか。とはいえ、なるべく禪院の息がかからない遠くへ離れたいっていうのもあるんでしょうねぇ」

「直毘人はなんて言ってんだ?」

「面白がってましたわよ。でも『留年したら即刻やめさせる』という試練を与えるそうです」

「医大生って、死ぬほど留年率高いんじゃなかったか?」

「えっ、そうなんですの!?」

 

 素っ頓狂な声を上げる菜緒葉に軽く相槌を打ちながらも、甚爾は内心最悪の気分だった。

 医者になるのがどれほど難しく、努力が必要かくらい、甚爾だって知っている。その間、自分は何をやっていた? 汚れ仕事に没頭し、ギャンブルで金を溶かし、ヒモとして女の家を転々としていたのだ。

 劣等感というよりは、正しく前を向いて歩めなかった自分自身への強烈な嫌悪が、内臓をジリジリと灼く。しかしそれを受け流すのは、もはや完全に手慣れた作業だった。自尊心は捨てた。だからヘラヘラ笑うことも余裕でできる。だが、このいたたまれない茶会の本番はそこからだった。

 

「本人は医師免許を呪術師の仕事に役立てるなんて殊勝なことを言ってますけど──私はもっと先を見てます」

 

 菜緒葉は残りのモンブランを上品に切り崩しながら、明るく言い切った。しかし明らかに空元気だ。その痛々しい空回り方に甚爾は既視感があった。鈍りきった記憶の泥の底で、何かがチリチリと引っかかる。

 

「先?」

「前に言ったでしょう。忘れんぼさんね」

 

 ──だんだん思い出してきた。

 そういえば、前にもこの突拍子もない話を聞かされたことがある。あの病院裏のベンチでだ。

 現状、呪術師の数が圧倒的に足りていない。そして何十万もの普通の人間が通常医療の限界で無惨に死んで行っている。その数は、呪霊が殺害する人数よりも遥かに多い。しかしもしも呪霊食で呪術師を増やせれば、反転術式を含めた呪術の医療転用が容易になるし、ついでに呪力コントロールを修めた国民の増加によって呪霊の発生数も一気に減るかもしれない──たしか菜緒葉は、そんな途方もない夢物語を語っていた。

 

「私はいつか、全人類を呪術師にしたいんですの」

 

 ──いつのまにか、前に聞いた時より圧倒的に規模が大きくなってきていた。

 

 ぶっちゃけ、壮大すぎて頭が痛くなる。

 そんな構想が正気だと信じられるはずがない。自分が何も考えずに放ったらかしにしている間に、この小さな少女が世界の命運について一人で思い悩んで過ごしていたと思うだけで、ひどく気が滅入ってくる。

 だが、とりあえず話だけは聞いてやるかと思った。

 そう思えたのは、最近似たような壮大な計画を持っている異常な女と話したばかりだからだった。唯一の女性特級呪術師である九十九由基── 彼女は菜緒葉とは全く逆のアプローチ「呪力からの脱却」に基づき呪霊のいない世界を目指しており、少し前に甚爾に接触してきていた。掴みどころのない飄々とした態度ではありつつも、世界を変えるという理想への彼女の熱意は本物だった。絶望的な苦難を燃料にして、前向きに振る舞えるタイプ。目の前の菜緒葉と同じ、そして甚爾とは決定的に対極に位置する女だ。

 だから、甚爾は逃げ出したくなるほどの胸のしんどさを、あえて冷ややかな知的好奇心で押し流すことにした。

 

「オマエの呪霊食いだけでどうにかするのは、流石に規模からしてしんどいと思うぞ。どうやんの。……天元の結界をどうたら、みたいなオタクっぽい話か?」

「脳の構造を改変する術式の大規模な併用を考えています。肝心のその術式はまだ見つかっていませんけど、術式の一斉発動に不可欠な大規模な呪力マーキングについては、もう技術を提供してくれる人の目星がついてますの──」

「おい」

 

 甚爾は遮った。

 

「……誰だよ、そのマーキングってのを寄越す怪しすぎるのは」

「いい人ではありませんわ。向こうには向こうの計画があって、私たちは使われてる側かもしれません。でも今はそれでいいの。止まってる暇はないんですもの」

 

 ──止まってる暇はない。

 

 その言葉を聞いた瞬間、甚爾は全てを理解してしまった。

 菜緒葉は強いから突き進んでいる訳でも、悲しくないから止まらない訳ではない。立ち止まってしまったら、抱えきれないほどの悲しみに押し潰されてしまうから、強制的に走り続けているだけなのだ。

 

「アレは……妻のことは、全部俺のミスだ。そういう壮大な話のダシに持っていくなよ。全人類を呪術師にするなんて、どう考えても頭がおかしいだろう」

 

 本当におかしいと思う。亡き妻がそんな大層なことを望んでいたとも思えない。

 一から十まで、ただの甚爾の個人的な悲劇であり、つまらない失敗談でしかない。甚爾は周囲の人間に頼る気がなかったし、妻もまた強がっていた。お互いが菜緒葉の前で真っ当な大人のフリをしたくて、それでもフィジカルギフテッドで健康そのものの甚爾が、この些細な間違いを早めにどうにかして頭を下げておけば良かったのに、何もかもをぶち壊しにした。ただそれだけの話だ。

 なのに、菜緒葉はあの頃と変わらない、穏やかで優しい声で言い出すのだ。

 

「甚爾くん。お姉様のこと、自分のせいだと思ってたんですの? 違うのに」

 

 その声の響きだけが記憶の中の昔のままだった。甚爾がずっと怯えていた菜緒葉からの冷たい咎めなど、どこにも存在しない幻想だった。

 しかし、その許しの代償として、もっと重たくて悍ましい何かが頭上から降ってきた。

 

 本物の方の菜緒葉まで悲しみのあまり完全に気が変になって、悪霊みたいなことを言い出している。

 それが、コーヒーカップを見つめる甚爾の、最も素直で残酷な感想だった。

 

 ──実際には本来の体の持ち主は甚爾が悪霊と呼ぶ方だし、菜緒葉(マコ)は当人なりの理屈の延長線上で大真面目に色々考えているのだが、残念ながら甚爾はそれを知らない。理解もできない。菜緒葉が個人的な悲しみを埋めるために、全人類を巻き込んで世界を作り変える無謀へと走っていると感じるだけだ。

 だからたまらず否定の言葉を口にした。

 

「……世間は大混乱だぞ。そもそも海外がどう出るか分かったもんじゃない」

 

 普段なら他人がどんなバカな夢を見ようが知ったことかと切り捨てるはずなのに、菜緒葉の言葉だけは強烈な実感を伴って甚爾の喉元にナイフを突きつけてくる。

 

「移行期の秩序設計の細部はまだまだ粗削りですけれど、一応の道筋は考えてあります。人類発祥の地であるアフリカ大陸──海外展開はそこからのつもりで、毎晩色々考えていますわ……」

 

 何事もないように、さも楽しげな旅行の計画でも語るかのように、菜緒葉がスケールの狂った詳細を説明し始める。甚爾は強烈な吐き気を覚えた。殺人への罪悪感などもはや何一つ感じない『術師殺し』が、たかだか小娘の妄言にひどい泥酔のような目眩を覚えている。

 甚爾は別の、より現実的で決定的な問いを強引に挟み込んだ。菜緒葉の口を塞ぎたかったからだ。

 

「前も言ったが、呪術規定はどうすんだよ。そう簡単にひっくり返せないだろう?」

「直哉と一緒に優秀な若手を抱き込んで、少しずつこちらの陣営の仲間にしておりますの。これから呪術高専へ行って、さらに賛同者を増やします。学生時代の純粋な時期に培った思想と人脈というのは、彼らが大人になり家の実権を握ってからも、極めて有効に機能しますからね」

 

 圧倒的な違和感だった。

 菜緒葉はこんなに計算高い女だっただろうか。甚爾が悪霊と呼んでいた人格はともかく、慣れ親しんだあの朗らかな光の方は。

 あの無邪気で健気だった少女は、何かが決定的に変わってしまっている。

 

 冷めた紅茶で上品に喉を潤してから、菜緒葉は淡々と続けた。

 

「それから、表の政治に食い込むことも必須と考えています」

 

 甚爾はそれに対してはあまりリアリティを感じなかった。

 たしかに禪院家は与党の大物議員や警察上層部への太いパイプを持っている。しかしそれは五条家や加茂家も全く同じ条件だ。仮に禪院が法改正に向けて圧力をかけたとしても、五条や加茂が同格の議員を使って逆ロビー工作をかければ陳情合戦は相殺され、結局は泥沼の末に現状維持が勝つ。それが権力構造の基本原理だ。

 

「直哉は以前、『自分たちの都合のいい新興宗教を作って、莫大な献金を政党に流し込んで総理を裏から操る』なんて息巻いて語ってくれましたけど……ぶっちゃけそれでは邪悪なカルト宗教みたいですし、そもそもよく考えたら、基盤が脆弱すぎますわ」

 

 菜緒葉は、弟の野望を鼻で笑うように目を伏せた。

 

「宗教団体を政治利用する本当の凄さは、金の力などではありません。数万票という固い票田と、タダで手足となるボランティア動員力です。私が狙うのは総理の首輪ではありません。与野党をまたいだ無数の議員群を特定の狭いイシューに限って支援し、縛り付けることですの。分散配置された超党派への影響力は世間や他家からは極めて検知されにくいし、はるかに頑健で確実ですわ」

 

 冷徹な分析が菜緒葉の口から淀みなくこぼれ落ちる。ぶっちゃけそれだって十分カルトっぽくないか?と甚爾がツッコミを入れる暇もない。

 

「議会に影響を与えた後のプロセスについても、『なし崩しでぶち抜いたる』なんて直哉は言っていましたけど、それは乱暴ですわよねぇ。ラチェット式の個別法改正が適切なんじゃないかと思いますの。まずは医療分野から、それぞれが単体で見れば正当化可能で、世間の同情を集めやすく、なおかつ技術的に枠づけられた小さな改正を積み重ねていくんです。たとえば、特定疾患に対する民間療法の研究例外、慈善医療への規制緩和、特定の宗教的医療行為への保護──とかね。もちろん、隠れ蓑にする宗教自体もひとつにとどめる必要はありません。潰れかけの地方の寺社をいくつも買収し、ダミーとして使って──」

 

 本当はこれ以上1秒たりとも聞きたくなかった。甚爾が当たるはずのない馬券やパチンコに金を溶かして自暴自棄になっている間。あの陰湿な禪院家の屋敷の奥で、この少女は孤独に、こんな狂った計画をずっと考え続けていたのだ。

 甚爾は、自分が彼女から妻を死なせた罪で責められているものとばかり思い込んでいた。だが現実は違った。もっと酷く、取り返しのつかないことになっていた。

 直接的な言葉による糾弾などより、遥かに強く責められている気分だった。菜緒葉には何もしないでいて欲しかった。ただ泣いて、甚爾を罵ってほしかった。

 彼女の今のその姿そのものが、無言のうちに甚爾の逃亡と無責任をなじっているような気がしてならなかった。

 

「……宗教ってのはな」

 

 甚爾はたまらず、彼女の演説をへし折るように話を逸らした。

 

「呪術の存在自体がバレなくても、その裏の繋がり自体が世間にバレたらマズいんじゃねぇのか。スピってる怪しいカルトが政権とつるんでるだの何だのと週刊誌に騒がれて、政権交代?とかいうやつが起きたりさ」

 

 必死に粗探しをして論破しようとした甚爾だったが、実際のところ甚爾はテレビのニュースなど自発的には見ないし、選挙の投票にだって一度も行ったことがない。政治も世間も誰が総理大臣になるかも、どうでもいいことだったからだ。ただ、目の前の少女の歩みを止めるための理屈が欲しかっただけだ。

 

 しかし菜緒葉は目を丸くして、それから昔のように愛らしく、くすくすと笑った。

 

「──まあ。甚爾くんってば、『どこかの宗教が政治家と癒着して、マイナーな医療法規が少し変わった』程度のニュースで関係者が全員逮捕されたり、簡単に政権交代が起きたりすると思っているんですの? 本当に、純粋なのね」

 

 裏社会の住人に向かって、少女は「純粋だ」と言い放った。その口元は見覚えのある、あの頃のままの弧を描いていた。

 けれども甚爾を見つめ返すその瞳の奥にある光は、彼が記憶の底に大切に沈めていたあの優しい温度ではなかった。

 どうやって論破してやれるのかもわからなくなった。

 

「よくわかんねえけど、まあ……頑張れ?」

 

 ひどい疲労感で泥のように重くなった思考を無理やり動かし、甚爾はなんとかそれだけを絞り出した。死にたくなりながらも、適当な相槌で菜緒葉をいなす以外のいい方法を思いつかなかったのだ。

 すると菜緒葉は眉を吊り上げた。

 

「えーっ、何言ってんの? 甚爾くんも一緒にやるんですのよ、人類総術師計画!!」

「……………………は?」

 

 甚爾の思考は完全に停止した。

 何言ってんだコイツ。いや、本気で何を言っているんだ?

 予想外すぎる言葉の被弾に、甚爾は己の耳を疑うことすら忘れ、ただ間抜けな面を晒して硬直するしかなかった。

 

「聞いてくださいな! 散々試行錯誤しましたけど、2級以下の呪霊食に伴う悪夢や拒絶反応は、ほぼなくせるようになってきましたの! だから、記念すべき被験者第一号として、甚爾くんには私お手製の『呪力獲得フルコース』を食べてもらおうと思って!」

「……………………なんで?」

「そりゃあ甚爾くんに呪力をあげたいからですわよ。フィジカルギフテッドが呪霊食を食べたら、呪力が空転して何も変わらないか、今の規格外の身体能力にプラスして呪力と術式が生えてきて、文句なしのさいきょーになるか。あるいは──天与の縛りが無効化されて、普通の人間と同等の身体能力を持った、そこそこの呪術師になるか、ですわ」

「……………………」

「3分の1の確率で、甚爾くんは世界最強になっちゃいますわねっ! すっごいロマンですわ!」

「……………………」

「……ごめんなさい。気まずくて、少しふざけてしまいました。甚爾くん的に複雑なのはわかりますわ。私なんかがわかるって言っていいのかわかりませんけれども。ハズレ引くのだって不安ですわよね」

「……………………」

「でも──でもですわよ? ぶっちゃけ甚爾くんが良くない仕事をしているのって、今の特殊体質のせいじゃありませんか。人はね、世のため人のために普通に働いて生きるのがいちばん幸せなんですわよ。あなたは恵くんのお父さんなんだから、早く元に戻って、しっかりしてくれなくちゃ」

「……………………」

「もう、あなたはこれ以上自分を貶めて、傷つけるようなことばっかりしなくていいんですの。私が全部、治してあげますから。私と恵くんと、3人で。……ううん、直哉も巻き込んで、みんなで昔みたいに幸せに暮らしましょう? 甚爾くんがまた笑って幸せになることが、きっとお姉様の、一番の望みだと思うの」

 

 一切の陰りもない、透き通るような眼差し。菜緒葉は混じり気のない、100パーセントの純粋な善意で言っている。それは甚爾の濁りきった目から見ても、絶対に疑いようのない事実だった。

 だが、だからこそ。

 だからこそ、救いようがないほどに残酷だった。

 ──甚爾がこの瞬間に感じていた絶対的な絶望と吐き気を想像できる人間も、正しく言語化できる人間も、きっとこの世に存在しないだろう。

 自尊心などとうの昔にドブに捨てた。完全に捨て切って、空っぽになったつもりでいた。誰に侮蔑されても、泥水を啜ってでもヘラヘラ笑って生きられると思っていた。

 それでも、限度というものがあった。

 

 甚爾はせめてもの見栄で口角を無理やり引き上げて余裕ありげに肩を竦めた。そして、こめかみの辺りに人差し指を当てて、くるくる〜っと回してみせた。「頭イカレてんのか?」のポーズである。

 そして、伝票を持ってひとり席を立ち上がった。背後から「あっ、甚爾くん逃げますの!? ちょっと!」という菜緒葉の焦った声が聞こえたが、振り返ることはできなかった。

 傘も持たずに雨の街へ飛び出すことになろうとも、もはや彼にできることは、菜緒葉の前から逃げ出すことだけだった。

 

 

 

 ──と、甚爾は彼女の言葉を「混じり気のない善意」「無邪気な光に基づく独善」「孤独による狂気」などとして受け取り、それに耐えきれなかった訳だが──

 

 

 実際の菜緒葉(マコ)はもう少し正気で、そしてもっとドス黒い怒りを抱えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カラン、とドアベルの気の抜けた音が響き、冷たい雨の匂いが少しだけ店内に流れ込んで、すぐに消えた。残されたのは、一口も手をつけていない冷めたコーヒーだけだ。

 同時に、白い生得領域で肉の天秤に背中を預けて眠るように横たわっていた菜緒葉ちゃんが目を開ける。彼女の声はどこか遠慮がちだった。

 

『あの……マコくん? 甚爾くんのこと、早く追いかけなくていいの?』

 

 ……。

 

 賢くて強くて、特級呪霊すら平気で胃袋に放り込む菜緒葉ちゃんも、やっぱり根っこは子供なのだとこういう時に思う。

 菜緒葉ちゃんはわかっていないのだろうか。俺達がこの対面のあいだ、久しぶりに会えた甚爾くんに一貫して見下され、虚仮にされていたんだということを。

 

 お姉様を失った後の世界をどう変えるかということについて、俺達は俺達なりに頑張って考えてきた。過激な自覚はある。けれど、人生をかけた真剣な思索だった。そのために危ない橋をいくつも渡った。ストレスで何度か奇行に走った。直哉との関係だって、このままだと風前の灯だ。

 なのに甚爾くんが返したのは、議論のテーブルにすらつかない、無責任な全拒否だけ!!

 甚爾くんは、自分は何もしていない癖に、俺達の計画を狂人の妄言と切り捨てやがった。

 雨の中でわざわざ傘を差しかけてくれたり、ケーキを奢ってくれたりする辺り、あの男の中に昔の優しさの残滓があるのはわかっている。そして、甚爾くんがまだ傷ついていて、心底自分を罰して欲しがっているのも話の途中でわかった。

 でも、そんなこと絶対してやらねー。

 

 甚爾くんも辛いのはわかってるからなるべく露骨に怒らないよう我慢したけど、限度ってものがある。

 

 何やってんだ、あのクソダサい男は。

 

 悲劇の主人公ぶって絶望に浸るのは勝手だが、結局のところこの男は、世界を変える覚悟も想像力もないから自責に逃げて、息子を放ったらかして平気で人殺しなんてやってるんだろう。

 

 ——で。

 甚爾くんがクズみたいな生活をして恵くんを放置できるのは、呪力がない特異体質のせいだよな?

 その体質のせいで禪院家から迫害されたから、真っ当に生きられなくなった。

 その体質のおかげで呪詛師として捕捉されることもないし、差別されてきた怒りがあるから呪術師を殺すことにも躊躇いがない。

 ……なるほど、完璧な言い訳だ。

 甚爾くんの強さは立派だし、ハズレスキルでチート無双する展開自体は嫌いじゃない。けど、そのスキルがろくでもないこと——自分をすり減らして周りを不幸にするための免罪符にしか使われてないなら話は別だ。

 だったら俺があの男を呪術師にしてやる。言い訳の材料は全部俺が消してやる。

 

 そして、絶対に逃げられないよう首根っこを掴んで、こう言ってやるのだ。

 さあ、これであなたは『可哀想な特別扱いされる被害者』ではなくなりました。だからさっさと真っ当に働いて、お姉様の遺言通り父親としての責任を果たしなさい、とな。

 

『マコくん、誰もがそう前向きに生きられる訳じゃありませんのよ。そんなきつい言葉を突然ぶつけたら、甚爾くんは本当に壊れちゃうんじゃ……』

 

 うるさい。

 

『……ごめんなさい』

 

 生得領域の菜緒葉ちゃんは珍しく怯えた顔をした。いつもは特級呪霊にもビビらない癖に。

 

 勘弁してくれよ。

 俺だって必死なのに、これじゃまるで俺が悪役みたいじゃないか。じゃあどうすりゃいいんだよ。可哀想ですねって一緒に泣いてやればいいのか? 恵くんの方が圧倒的に可哀想だろ。

 そもそも、そんなふうに甘やかして放置していたら、遠からず甚爾くんは死ぬ。五条相手に運良く死ななかったとしても、甚爾くんはこれから先も誰かを殺し続ける。そうしたら恨みを買って、いつかは絶対殺される。

 お姉様は「甚爾くんと恵くんをよろしく」と言った。お姉様が、真っ暗な穴底にいた甚爾くんを普通の暮らしに引き戻したのだ。あの優しさを忘れて、普通の暮らしを甚爾くんが勝手に捨ててしまうなら、お姉様が生きた意味はどこにある?

 

 俺は甚爾くんを五条の野郎に殺させないためならなんでもする。必要なら腕の1本、足の1本くらいは切り落として監禁でもする覚悟だ。

 いや、それでもまだ足りない。

 アイツはお姉様を忘れたのか?

 寄生虫みたいに見知らぬ女の家を転々としてヒモライフを満喫し、どれだけおぞましい不義を働いたら気が済む?

 別の女を使ってお姉様を忘れるだなんて、俺は絶対に許さない。

 

 そこで、俺の思考はふと奇妙な熱を帯び始めた。

 

 そういえば、菜緒葉ちゃんがよく言っている妄言がある。世界中が美少女になれば男に泣かされる女もいなくなって、かわいいとかわいいが相乗効果を起こす地上の楽園が繰り広げられるのだという夢物語だ。

 極まった男嫌いの菜緒葉ちゃんと違って、俺は「全人類を美少女にしよう」だなんて狂った野望は持っていない。でも、甚爾くんが他の女を引っ掛けまくって堕落しているのは、前世では超絶虚弱男性として不遇を託ってきた俺からすると羨ましい感情しか湧いてこないようなあの肉体があるからだろう?

 なら、甚爾くんが女になってしまえば、ヒモとして女を引っ掛けて回るようなクソみたいな生活は未来永劫物理的に不可能になるんじゃないか?

 

 ……完璧な論理だ。

 

『……あのぉ。マコくーん?』

 

 狂ってるけど、論理自体は完璧。

 これはお姉様への弔いだし、甚爾くんへの意趣返しでもある。

 甚爾くんも俺みたいになれば、俺の気持ちをわかってくれる。

 甚爾くんが俺の話を真面目に聞かないのに、俺が甚爾くんの言うことを聞く必要とか、ない気がしてきた。

 

 モンブランにグサリとフォークを突き刺しながら、考える。

 

 

 

 

 

 ——そうだ。

 甚爾くんを、魔法少女にしよう。

 

 

 

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