音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
「上等ですわ。──いいでしょう、姉の私がお父様の代わりにしつけてあげますわ」
そう言った瞬間、全身の毛穴が逆立つような感覚に襲われた。
直哉の呪力が膨れ上がる。二級呪霊ゼリーという見た目バイオハザード・味キャラメルプリンという狂気の劇薬を食す前だったら、まず間違いなく腰が抜けていただろう。今だって本音を言えば心臓の拍動が速まり、怯んでしまいそうではある。だが、ここで退けるわけがない。退いてたまるものか。
お千代さんが、ボロボロの健太郎の側で悲鳴のような声を上げた。
「お嬢様、おやめください! 健太郎さんの手当てが先です! 第一お嬢様では勝てません! 怪我人を増やしてどうなさるんですか!」
結構辛辣な評価だ。だが、妥当な心配なのであまり反論できない。むしろ直哉に殴られたばかりだというのに自分より他人の心配をする彼女の善良さには目の奥が熱くなる。しかし肝心の直哉には反省の色は欠片もなかった。
「退きィ千代ちゃん。それ以上言うんならまた叩いたる」
——やっぱりこいつは救いようのないドブカスだ。
怒りが倍加した。
「……お千代さん、私の弟がどれだけ最低かはもうわかったでしょう。健太郎さんを連れてここから離れてください」
「ですが——」
「大丈夫だから。……直哉、私が勝ったらとりあえず『非術師の女性に理不尽な暴力を振るわない』とでも約束してもらいましょうか?」
そんなことも言ってみる。
とにかく、早く行ってくれ。怪我人を庇いながら戦うのは結構しんどそうだ。だがそこで健太郎が不自然に曲がった左腕を押さえ、這いつくばったまま顔を上げた。
「菜緒葉ちゃん、無茶だ……。君みたいな女の子が直哉様に勝てるわけない……っ」
はぁ? いや、今はそういうのいいから。
気遣ってくれているのはわかる。勝てる訳ないって言われるの自体もまあ妥当だ。だけど、わざわざ女の子ってつける意味があるか?
「黙ってろ。さっさと逃げろっつってんだよ。直哉に殺されるかもしれないぞ」
──思わず素の男口調が漏れてしまった。今は緊急事態なんだ。お淑やかでか弱いお嬢様の菜緒葉ちゃんを演じている余裕はない。
健太郎とお千代さんが鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まるが、とにかく直哉を睨みつけ、指先に呪力を集める。そして、ここ数ヶ月考えていた自己強化の「縛り」を口にしようとする。健太郎の言い方はちょっとムカついたが、今の俺のままで勝てないのも事実なのだ。ここで渾身の一手を切るしかない。
──しかしその時だった。
「騒がしいなぁ」
背後から声がした。低く渋い響きは聞き間違えようがない。訓練場に面した渡り廊下。そこには片手に酒盃を携えたお父様──禪院直毘人が立っていた。午前十一時。真っ昼間。なのにこの人、もう出来上がってやがる。お父様は俺を見て、直哉を見て、倒れ伏す健太郎とお千代さんに視線を巡らせ──そして最後に再び俺を見つめ、ニヤリと笑った。
「……菜緒葉。最近頑張っとるらしいなァ」
………………え?
久しぶりに言葉をかけられた。
この人は、本当は俺の厨房での努力を認めてくれているのか?
お父様が少しでも褒めてくれることを、実はひそかにずっと期待していた。不覚にも視界が熱くなる。
だが、待て。落ち着け。
これがもし、迫害対象である甚爾くんに弟子入りを志願していることへの不快感だったら?
あるいは、呪霊クッキングのことがバレてたら? この旧弊な禪院家で、呪霊食いがどれだけ許容されるかはわからない。この酒精に浸った当主が何を考えているのか、音MADの知識だけでは全く解読不能なのだ。
ただ、でかい手が俺の頭にポンと載せられる。わしゃわしゃと雑に髪を掻き乱される。お父様は豪快に笑っていた。──泣きそうになる体の反応を鋼の意志でねじ伏せる。愛に飢えた菜緒葉ちゃんの肉体に刻まれたファザコン気味の情念は「甘えたい」と叫び続けているが、俺は男だ。これしきで、ずっと無関心だった父親を許すことなんてできない。
だからただ、唇を噛んで俯いた。「かわいくない子だと思われたらどうしよう」と菜緒葉ちゃんの魂が微かに怯えるのがわかり、一瞬どうすればいいかがわからなくなった。けれどもお父様は少しも気にしている気配がなかった。
「どうせやるならちゃんとやれ」
こともなげな調子で言う。
「部屋を用意させよう。板張りの稽古場でいいか」
「はぁ? ちょいと喧嘩しただけで何もそこまでしいひんでも……」
直哉が困惑した顔でお父様を見上げる。
「ちょ、お父様——」
「そうだ! 扇も暇しとるだろうからなァ。あいつも呼ぶか」
急に話がデカくなり始めた。
──扇のおじさまは音MAD素材としては不遇の極みだが、仮にも一級術師である。この家の底辺にいる俺からすればすごい人だ。子供のじゃれ合いに付き合う訳がない。
扇おじさまとお父様の折り合いがうっすら悪い──というか、扇おじさまが一方的に敵愾心を持っているらしいのは、厨房でもひそかに噂になっている。ひょっとしたらそれは、こういう無頓着な態度の結果じゃなかろうか。
そんな俺の思考をよそにお父様はそのまま直哉のことも引き寄せ、俺諸共に抱きしめて撫で回した。
「直哉、お前もかわいいことしとるなァ。姉ちゃんと喧嘩なぞ」
「……」
直哉は露骨に不快そうな顔をして押し黙っているだけだった。俺への怒りはもうだいぶ落ち着いて、むしろ酒臭い父親に絡まれることへの純粋な拒絶が強いようだ。考えてみれば、こいつはカッとなりやすい割に、切り替えはそこそこ早いのだ。そして、出涸らし扱いの姉と違って父親から大事にされ慣れている。
——むかつく。
お父様の酒臭さを単純に「うざい」と切り捨てられる直哉の立場は、俺の体の持ち主が喉から手が出るほどに欲しがっていたものだった。
いいだろう。
お父様にイイトコ見せて認めさせるチャンスがようやく到来したのだ。禪院菜緒葉がただの出涸らしなどではないことをここで証明してやる。
そのためなら、俺はなんだってする。
◇
稽古場は禪院家本邸の離れにあった。板張りで広さは十五畳ほど。壁は漆喰、柱は欅。天井が高い。改めて考えるとものすごい豪邸だ。自分がいるのがもっぱら昔ながらの厨房なので、あまり気にしたことがなかったけれど。
——ちなみに扇おじさまは来なかった。「子供の喧嘩に付き合う暇はない」とのことだ。半ギレで怖かった。(あの人は常にうっすらキレている)
代わりにお父様が一人で上座に胡座をかいている。お千代さんが健太郎の手当てを済ませて戻ってきて、壁際に控えている。廊下からは非番中の躯倶留隊員数人が覗いている。その中には片腕を吊った状態の健太郎もいた。ものすごく心配そうな顔だ。
直哉が中央に立つ。構えはない。出涸らしの姉相手に構える必要がないと思っているのだろうか。
「で、何すんの? 術式使ってやり合うんはいくらなんでも流石に菜緒葉ちゃんが可哀想すぎるやろ。泣いても知らんで」
「はぁ? 使いなさいよ。健太郎さんの腕を折る時には、その慈悲は枯れてましたものね」
俺は一歩踏み出す。足の裏から、板張りの凍えるような冷たさが伝わってくる。
「——でもその前に、ここにいる皆様に術式を開示しますわ」
声を張り上げた。親父に、観客に、そして目の前のドブカスに叩きつける。
術式開示——自分の能力の正体を敵に曝す代わりに、能力の効果を底上げする縛り。敵に手の内を明かすリスクと引き換えに出力が上がる。『灯』の人たちにお給仕をしている最中に盗み聞きしたのだが、割とメジャーな縛りらしい。これは呪術廻戦の原作にも出てくる設定なんだろうか。滅茶苦茶かっこいいので自分でもいつか絶対やってみたいと思っていた。それに、直哉と戦うなら、使えるブーストは全部使うべきだ。
「私の術式は『菜切り包丁(仮)』。——手の指で触れた場所に呪力でできた不可視の斬撃を発生させ、斬った対象の帯びる呪力を『美味しく』する力です。直哉、あなたの夕餉のお吸い物、人参だけ可愛い形に切ってあげていたのは、他ならぬこの私ですわよ」
「菜緒葉ちゃんの仕業だったんかい。俺をガキ扱いしよってからに……」
「でも、全部平らげていましたわよね? 美味しかったんでしょう」
直哉の不平を一蹴し、俺はさらに言葉を重ねた。ここからが賭けだ。
「そこに、さらに二つの『縛り』を載せます。一つ、『術式による切断は、接触から三秒以内』。そして二つ——」
呼吸を整える。肺の奥に、呪力が熱く燻っている。
「『私はこの力で、生きた人間は生涯斬りません。その代わり——私の生み出す斬撃は今後常に、私が捨てた未来の可能性の分だけ、より大きく、より鋭くなります』」
静寂が稽古場を支配した。
俺のやりたいことを理解したのか、直哉の嘲笑が一瞬で消えた。上座で酒を煽っていたお父様の目も濁りから覚めたように細められる。
「ほう。菜緒葉、お前……センスがあるな」
低く響いたお父様の声。それはこの人が実の娘を初めて「術師」として査定している証左だった。
一つ目の縛りは、二ヶ月前から厨房で課してきたものだ。本来この術式は、触れてから数分後に切断を発動させるという時限式の暗殺に適した性質を持っている。カタログスペックとしては悪くないが、宝の持ち腐れだ。だからこそその遅延性をあえて「三秒」に縛り、代わりに斬撃形状の精密デザインを可能にしている。
2つ目の縛りについては、本来ならもっと成長してからやるつもりだった。縛りは捨てるものが大きいほど効果が増す。そして対人殺傷能力を完全放棄するというのは、修行を重ね、呪霊を食い続けた果てにはあの五条悟すら解体できるかもしれない奇跡のポテンシャルを、永久に手放すということ。
とは言え縛りの際に支払う代償として今の実力と未来のポテンシャルのどちらがより大きく評価されるのかの検証は未だできておらず、検証不足のままにこの縛りを行うことへの躊躇いは少しあった。
でも、お父様は褒めてくれた。
直哉も初めて動揺を示した。
そしてこの縛りを口にした瞬間、身体の奥で何かが軋み、呪力の流れが変わった感覚があった。
効いた。どれだけ底上げされたかは実際に使ってみるまで未知数だが——少なくとも、今この瞬間の俺は、人生で一番「術師」をやっている。
「……面白い。始めい」
上座から、お父様の短く重い声が放たれた。
その刹那、視界から直哉が消えた。
——いや、消えていない。術式を使ったのだ。1秒間を24コマに分割し、あらかじめ脳内に描いたイメージを肉体で超高速トレースする。成功すれば物理法則を無視した加速、失敗すれば1秒のフリーズを招く。直哉はこの術式を、俺の記憶が宿る前の菜緒葉ちゃんに自慢しまくっていた。
自分はコマ打ちのセンスが抜群だとよく褒められること。常にカウンターを前提に動線を組んでいること。雑魚相手なら触れるだけでフリーズさせ放題なこと。なんならお父様の前で
散々聞かされたから、全部知ってる。
初手は右からの回り込み。速い。六歳の身体でこれだけのGに耐える出力——俺には無理だ。こいつは紛れもない天才だろう。それは認める。だが、今の直哉には致命的な隙がある。
直哉はまだ俺を舐めている。本気でやり合う気なんかない。出涸らしの姉を痛めつけ、泣かせるだけの作業だと思っている。だから初手は威嚇だ。まずは速さで俺を絶望させてから、お父様の前で優雅にフィニッシュを決める。
「……ッ!」
一瞬にして右肩にずしんと重い衝撃が走った。呪力を帯びた掌底だ。右半身に意識を割き、身体強化で耐えたが、それでも身体が大きくよろめく。骨に響く痛み。だが、その代償に俺の指先は直哉の上等な着物の袖を確実に捉えていた。お坊ちゃん育ちが災いしたな。そんなひらひらした袖の和服で、
——術式発動。
バサリ、と音を立てて直哉の袖が床に落ちた。
「……!?」
直哉の顔に驚愕が走る。斬撃の効果が術式発覚直後にササクレから凄まじい進化を遂げているから——ではない。直哉だってバカじゃないんだから、俺が縛りを口にした時点でそれ位は想像していただろう。こいつを驚かせているのはむしろ、拳に宿る呪力の乱れだ。——袖を斬る際に一緒に切れ目を入れた直哉自身の纏う呪力を、俺にとって「美味しく」書き換えたのだ。1秒も持たない一時的なデバフだが、精密な身体強化を狂わせるには十分すぎるスパイス。そしてそのまま、体勢が崩れる勢いを利用して床に這いつくばるように指先を突き立てる。
次の瞬間、ガガッ、と乾いた音を立てて、直哉が踏み込むはずだった足場——直径30センチの板張りが円形に解体された。
縛りを入れる前の俺なら数分はかかったであろう解体が、今は0コンマ数秒で完了する。
「なっ、何やこれ……!?」
投射の使い手にとって、イメージにない落とし穴は死活問題だ。脳内の24コマが現実と衝突し、直哉の動きが少しフリーズする。その隙に無防備な脇腹へ蹴りを叩き込んだ。だが、俺の脚力ではこいつを倒すには程遠い。フリーズから復帰した直哉が、すぐに俺を殴り返す。顔が一番近かったのに、こいつは少し迷ってから左肩を殴りやがった。痛みを堪えながら睨みつけてやる。
「……今の、顔を狙うべきだったんじゃありませんの?」
「そんなカスなことせえへんわ。折角別嬪さんの女の子やのに」
忌々しそうに直哉は吐き捨てた。
──なんなんだよ今更。お千代さんのことは叩いたくせに。
でも、これで直哉の攻撃パターンが読めた。顔は殴らない。そして腹も殴らないだろう。この家の男は、女の胎を殴るのは論外だという躾を受けているから。ラッキー? いやいや。乳母にそう言い聞かされる弟の姿を、菜緒葉ちゃんがどんな気持ちで見ていたかを俺は知っている。だからそれがいいことだとはどうしても思えない。
どこまでも馬鹿にしている。「禪院菜緒葉」という存在を見下しているのか。それとも女を見下しているのか。それともその両方か。
ムカつく。
再度直哉が動く。ただ、その動きからは慢心が消え始めている。投射呪法の圧倒的な速度は俺の反応速度を完全に置き去りにした。一撃離脱に全振りした点攻撃。狙いは顔でも腹でもない──肩、足、そして手首。術式発動の封殺と機動力の剥奪を兼ねた、明確な意図を持つ攻め。速い。狙いが事前にわかっていれば行けるかと思ったのに、全然回避できない。さすが天才。
右膝と左の脹脛に呪力を帯びた打撃が突き刺さる。機動力を奪うための攻撃。被弾の衝撃で一瞬意識が白く飛び、倒れ込みそうになる。
痛い。
死にそうに痛い。
でも、負けられない。直哉が俺の顔と腹を殴らないのは、俺を対等な敵と認めていないからだ。俺の体が女だから手加減している。俺の術式も、縛りも、この半年の全てを見せているのに、こいつはまだ俺の性別を見ている。それは優しさじゃない。そのことに、俺以上に菜緒葉ちゃんの魂がざわめいている。これまでで一番、彼女の存在を強く感じる。痛みに心が折れるどころか熱を帯びる視界、戦闘の歓びに震える内臓は──菜緒葉ちゃんが手加減されたがるような軟弱な女の子でないことを、どこまでも証明している。
──いいだろう。直哉が手を抜くなら、全力で叩き潰して後悔させてやる。
投射呪法は視界を画角にしている。それが活路だ。だから倒れながら——その視線の先を目で追って、床に先に触れた。
全力だ。
細かい計算はもう無理。
だから最大出力、最大威力。
ガガガガガガガガガッ!!
乾いた音が稽古場に響く。
床の板材を支える横木ごと、縦に三分割。跳ね上がった床板が跳ね上がる。跳ね上がった床板は、最短距離で関節を抜きに来る直哉にとっては、物理法則を無視して現れた壁に等しい。24コマと現実が乖離する。
──よし。
ここで顔面を殴る。こいつが俺には絶対に振るわなかった拳を、俺はこいつに叩き込──
(──あなたは少々優しすぎますわ)
その瞬間、心の中に声が響いた。
ゾクリ、と背筋が凍る感覚。
声の主はわかっている。この体の持ち主である、真の菜緒葉ちゃんだ。
今この瞬間──呪力と感情が極限まで昂ったこの瞬間に、彼女は遂に覚醒した。
俺の意識がブレーキをかけるよりも早く、「菜緒葉」の肉体が、まるで獲物を仕留める機械のように跳ねた。
負傷した関節はガタガタ、呪力もろくに練れない。でも急所狙い。
直哉の表情が痛みに歪む。
………………引くわ。そこは狙わないだろ、普通。
しかし、シン・菜緒葉ちゃんは容赦がなかった。
「さらに……もう一発!」
菜緒葉ちゃんはそう叫び、足を振り上げる。
直哉は、急所を蹴られた直後ですらよくやった。振り上げた足は掴まれ、引き倒される──が、倒れ込みながら、シン・菜緒葉ちゃんはもう片方の足で直哉の脛を払った。二人もつれ合うように板張りの上に転がり込み、そのまま泥試合が始まる。
そこに。
「──そこまで」
お父様の声が響いた。気づいた時には、俺と直哉の間にお父様の腕が割り込んでいた。いつ動いたのかすらわからなかった。直哉と同じ投射呪法を何十年も磨き続けた、最速の術師の名は伊達ではない。
「この辺にしておけ。これ以上稽古場を壊したら、扇に嫌味を言われて面倒だ」
冗談めかした口調だった。
直哉が息を荒げながら立ち上がる。
「俺はまだ負けてな……っ」
その瞬間、お父様の手が直哉の襟首を子猫のように掴み上げた。直哉の足が宙に浮く。
──『まだ負けてない』。
それはつまり「このまま続けたら負ける可能性もある」という意味だ。
舐めプしていたとはいえ、厨房で料理しているだけの出涸らしの姉との戦闘が成立してしまった。それも、躯倶留隊の面々が廊下から見ている前で。これだけでも、次期当主候補としての面目は丸潰れと言える。お父様が直哉の言葉を途中で遮ったのは、息子を守るための親心だったのかもしれない。
直哉はそのことに気づいているだろうか。多分、気づいていない。気づけるような奴なら、もうちょっとマシな性格に育っているだろう。
──襟首を掴まれたままの直哉の視線がちらりと俺に向いた。
その目に浮かんでいるのは意外にも怒りでも屈辱でもなく──何か、もっと複雑で、名前のつかないものだった。それが何なのかをきちんと確かめたい気もしたが、体の主導権はもうほとんどが菜緒葉ちゃんに移っていた。
ひとりでに、口が動く。
菜緒葉ちゃんの言葉が溢れる。
「今の戦闘、録画しておけばよかったですわね」
うっとりと甘い、はちみつみたいな声。
「──
──ちょ、菜緒葉ちゃん?
直哉がなんとも言えない顔をしている。困惑か、衝撃か。それとも「オトマッドってなんやねん」という純粋な疑念か。
音MADという言葉を菜緒葉ちゃんがそれを口にしたということは、俺が彼女の記憶を見ているように、彼女もまた俺の記憶を見ているということだろう。自分の弟がインターネットの玩具になっている光景を、彼女がどのように認識しているかは謎だ。
でも、二つの魂の境界は、確実に溶け始めている。
俺は──いや、菜緒葉ちゃんは、直哉に駆け寄る。両手が直哉の頬に触れる。弟の顔を至近距離で覗き込むと、心臓がばくばく言う。ドキドキ言う。キュンキュン言う。口元はどんどん勝手にほころんでしまう。
菜緒葉ちゃんはずっと直哉の陰にいた。直哉と比べれば自分なんて何の価値もないと思っていた。いや、思わされていた。けれどようやく、一矢報いることができたのだ。3歩後ろの女だなんて、もう二度と言わせない。
「そうやって苦しそうな顔をしていると、あなたは昔みたいにすごく可愛いですわ、直哉。これで私たち、昔みたいにまた隣にいられるようになりますわよね?」
菜緒葉ちゃんはそう言いながら笑った。
……菜緒葉ちゃーん???
けなげでかわいそうな被害者の女の子だとばかり思っていたが、ドブカスの姉だけあってサディストの一面もあったらしい。
でも、直哉の目は揺れた。
そして菜緒葉ちゃんは、それを心底かわいいなぁと思っている。昔と同じ、守ってあげなくてはいけない弟に戻ってくれたんだと思って見ている。
──お父様が笑い出した。心底おかしそうな、腹を抱えるような笑いだ。
「直哉、これに懲りたら善良な女中には優しくするんだな。なんなら縛りにしとくか?」
「……」
直哉はちょっと拗ねてる。いい気味だ。こいつのことはガンガン縛って行ったほうがいいと思うし、しっかり謝罪もさせたい。
「で──菜緒葉」
お父様の声のトーンが変わった。
お父様は優しげに頭を撫でながら言った。
「お前はよく頑張った。頭がいい。センスも悪くない。呪力効率は大人顔負けだし、この歳でマニュアルなしの術式をここまで深く理解しているのは、知る限りでは類例がない」
──その言葉を聞いた瞬間、菜緒葉ちゃんの心臓が跳ねた。ドキドキなんてレベルじゃない。全身の血液が一斉に沸騰するような、圧倒的な歓喜。その感情があまりにも大きくて、鮮烈で、俺自身の輪郭がじわじわと薄れていく。水に落とした墨が広がるように、「俺」という存在の境界線が溶けていく。
……もしかして、俺、消えるのか?
──菜緒葉ちゃんが引っ込んでいたのは、誰にも必要とされない痛みに耐えきれなかったからだ。お父様に認めてもらえないこと。直哉の隣にいられないこと。その絶望がこの子の魂を深い眠りに追いやった。
でも今は違う。菜緒葉ちゃんはお父様に褒められた。料理も腕立て伏せもいっぱい頑張って、ようやく報われたんだ。
だったら、もう俺の出番じゃないだろう。
考えてみれば、俺がここにいること自体がおかしな話だったのだ。自分の弟のダメージボイスを切り貼りしてる音楽を愛好する異常者の幽霊に乗っ取られ続けるなんて、菜緒葉ちゃんのためにならない。この子の人生は、この子のものだ。菜緒葉ちゃんの幸せを願うなら──俺は引っ込んだ方がいい。
口が動く。もう、どちらの意志で動いているのか、自分でもわからない。
「お父様」
声は菜緒葉ちゃんのものだ。この言葉を口にすることを選んだのは俺かもしれないし、彼女かもしれない。もはや区別がつかない。でも、それでいいと思った。
「じゃあ私、これからはお父様に稽古をつけてもらって、直哉みたいに術師に──」
こんなに褒められたんだから。認められたんだから。
きっとお父様は「ああ」と言ってくれる。
禪院菜緒葉の未来は、これから開ける。
──俺はその期待と確信と共に、安心して目を閉じかけた。
けれどもお父様は少し困ったように、眉を下げた。
そしてその表情が、菜緒葉ちゃんの歓喜ごと俺の意識を猛烈な速度で引き戻す。
「いや。それはダメだ」
なんでさ?????
実のところ菜緒葉ちゃんはかなりの「禪院の女」です。
俺くんと菜緒葉ちゃんの関係は、外形的な現象としては来栖華さんと天使の関係に近いかもしれません。メカニズムとしてはまた全然異なりますので、そのうち文中で説明を入れようと思います。