音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
焼いても遺る
直哉はおかしくなった。
俺は本気でそう考えていた。
高専の管理している火葬施設。ここには一般的な斎場のような遺族に寄り添うための意匠は一切ない。祭壇も読経も遺影すらもない、あまりに簡素な弔い。ただ白木の棺を無遠慮な鉄の扉の向こうへ押し込み、灰にするだけの直葬。いいや、それ未満の作業。
こんな場所で甚爾くんを焼くなんて、本当は耐えられない。直哉だって絶対に耐えられるはずがないと思っていた。なのに直哉は少しも泣かなかった。涙の一滴すら浮かべないその瞳は乾いているどころか、むしろ奇妙な熱をはらんでギラギラと燃え上がっている。まるで、高熱の髄膜炎に浮かされた患者が、ありもしない極彩色の幻覚を見つめているかのように。
その異様な目つきが、俺には何よりも恐ろしかった。
「ほんまにしけた施設やね。顰蹙買うの覚悟でもっとマシな花でも持ってっとけば良かったわ。甚爾くんはそんなん要らんとか言うやろけど、内心は……いや、本気で要らんて言うか。うん、絶対要らんて言うわ。せやけど俺は納得いかん。なんでココ、こうしょぼくれとるん?」
「直哉……」
「高専も高専やが禪院も禪院や。そもそも、なんで甚爾くんのお骨は禪院で保管する決まりの癖して、本家の墓には入られへんのや。そら今の甚爾くんは呪詛師みたいなもんやけど、裏じゃ普通に喋っとるし、血ぃは繋がっとるんやぞ。無理やりに骨をねじ込んで……なあ、姉さん。聞いてる?」
「……聞いてますわ」
「でも、ズルして分骨証明書を出してもらえそうなのはええね。やっぱり姉さんがいてくれてよかったわ。あとな、帰りにあの店寄ろや。ほら、駅裏の。硝子ちゃ……硝子先輩があそこ美味いって。甚爾くんも連れてったろ?」
「……」
泣き腫らして赤くなった俺の顔をずっと至近距離から覗き込み、椅子の横に肘をつきながら、直哉は延々と喋り続けていた。その顔には不自然なほど悲壮感がない。ただ、延々と、脈絡のない言葉を紡ぎ出し続けている。
呪術界の愚痴、禪院家のしきたりへの不満、美味しいお店の話、そして硝子先輩から聞いたという雑談。呼吸する間すら惜しむように、次から次へと滑り落ちる言葉のすべてが、まるで甚爾くんがまだ死んでいない、地続きの世界を必死に捏造しているかのようだった。
甚爾くんが死んだ。
直哉にとってあれほど特別で、あれほど執着し、神格化すらしていた男が、今まさに炉の中で焼かれている。
もしもほんの一瞬でも沈黙が落ちれば、その事実が音を立てて現実として襲いかかってくる。直哉はそれを本能で恐れているのだろう。だから直哉は言葉という脆い防壁を必死に積み上げて、甚爾くんの死を脳から締め出そうとしている。
クソくだらない。
本当に馬鹿じゃないのか。
俺には直哉の痛々しい現実逃避が耐えがたかった。そこから引き戻す力もない自分のことは、もっと情けなかった。直哉の虚ろな言葉にうつむき加減で相槌を打ちながら俺が考えていたのは、お姉様と、それから、甚爾くんの今の奥さんのことだった。彼女は今日、ここには来ていない。というより、来られるわけがなかった。呪術界の秘匿施設であるこの高専の火葬場に、一般人である彼女が足を踏み入れられるはずがない。いや、たとえ呪術師であったとしても、ここは罪人の妻子が平然と立ち入って涙を流すことを許されるような、優しい場所ではない。呪詛師やそれに類する人間の亡骸は本来なら焼くだけ焼いて、悪用を防ぐ処置だけして保管する。それでおしまい。今回、俺たちがこうしてお骨を拾わせてもらう約束を取り付けられたこと自体、賄賂によってようやく成立した、極めて不透明で超法規的な特例に過ぎないのだ。
事前に彼女の家を訪ねた時のことは、今でも胸の奥をキリキリと痛ませる。酷く泣かれた。「アンタの家族はどうなってるのよ」と狂ったように罵られもした。もしこれがお姉様だったら、俺に何と言っただろうか。やっぱり同じようなことを言っただろうか。想像するだけで最悪の気分だった。恵くんは──自分の父親が死んだんだってこともまだよくわかっていないみたいだった。父親をきちんと覚えていない恵くんの代わりに、津美紀ちゃんの方がむしろ悲しそうにしていた。
呪術界は最悪だ。そして、甚爾くんに最後まで何もできなかった俺はもっと最悪だ。甚爾くんは俺の忠告を、結局聞き入れてはくれなかった。信じなかったのか、それとも逆に、反骨精神が出てしまったのか。いや、俺の知っている伏黒甚爾という男は、ギャンブルの場を除けば勝てない勝負には絶対に手を出さない、極めて冷徹で現実的なハンターだったはずだ。甚爾くんのこれまでの「仕事」のパターンは、ほぼ全て調べ尽くして読めている。
だったらなぜ、彼は死んだ?
あの五条悟が、甚爾くんに撤退する隙すら与えずに、狂気的な力で嬲り殺したというのか?
わからない。
俺には甚爾くんのことが最後までわからなかった。
「直哉」
俺は、堰を切ったように喋り続ける直哉の言葉を、縋りつきたいような思いで遮った。
「甚爾くんと最後に、何を話したんですの?」
お喋りがピタリと止まった。
さっきまでの饒舌さが嘘のように不自然な静寂が落ちる。直哉の顔から血の気が引いていくのが分かった。そして直哉はそのまま一言も発さなくなった。
正直、殴り飛ばしたいと思った。胸ぐらを掴んで揺さぶり、何もかもを吐き出させ、問い詰めたかった。俺の全く知らない、直哉と過ごした甚爾くんの生前の断片を毟り取りたかった。
でも、その衝動は、理性で押し殺さなければならないものだった。
俺は甚爾くんを救うことに失敗し、あの日が最後になってしまったけれど、直哉は彼と密かに、良好な関係を繋ぎ続けていたという。いくら実の姉だからといって、その聖域を暴力的なエゴで暴く権利など、あるはずもなかった。
それに、最後に交わした言葉が直哉にとって呪いとなってこびりつくような類の後悔に満ちた物だったことは、彼の今の様子がこれ以上ない程雄弁に物語っている。
重苦しい沈黙のあとで、無機質なブザー音が鳴り響いた。収骨の準備が、整ってしまった。
◇
冷たく黄色みがかったくすんだタイル壁の収骨室には、磁器の骨壷と分骨用の小さな器が既に置かれていた。そしてステンレスの台の上に、一人の男だったものが並べられている。これが喉仏の骨であるとか、拾い方の作法がどうだとか、普通の収骨作業の時にするような事務的な説明を不慣れな調子で淡々と述べる係員さんの言葉を完全に聞き流しながら、無意識のうちに独り言が漏れた。
「……綺麗に残っていますのね」
これまでに何度か参列した葬儀では、お骨はもっと脆く、頼りなく崩れていた記憶しかない。特にお母様やお姉様のように、病で長く臥せっていた人たちの骨は煤けた小さな欠片以外はほとんど残っていなかった。
「……ええ、驚きました。立派なお骨ですね」
箸を手渡そうとした係員さんが神妙に頷いた。その言葉を聞いた瞬間、直哉の瞳に不自然なまでの熱が戻った。
「そうやろ? 甚爾くんは他の禪院のカス共とは元々の出来が違うんや。 見てみ? この骨。焼けた後でもこんなに立派で、こんだけ頑強やったんなら、そりゃ悟くん相手にだって一歩も引かんわけやわ」
さらりと繰り出される誇らしげな自慢は、この静まり返った収骨室において、どこまでも的外れであり、同時に不気味だった。
甚爾くんの肉体の強靱さを、彼の生前など何一つ知りもしない、ただ単に死体の処理というタスクをこなしに来ただけの労働者に向けて誇らしげに語ることに、一体何の意味があるというのだ。
「ほら、この腕の骨なんて普通やったら……」
「直哉、もうやめなさい」
眉をひそめて直哉を制止しようとしたが、直哉は俺の言葉など聞こえていないかのように、なおもヘラヘラと語り続ける。それも、甚爾くんがまだ生きているみたいに。
「もうやめて。……お骨を拾わなきゃいけないんだから」
俺がはっきりと鋭いトーンで言い放つと、直哉はようやく、ひどく不満そうに口を閉ざした。
俺たちは長い箸を片方ずつ手に持ち、息を合わせて、万が一にも途中で落とすことのなさそうな、大きすぎず平たい骨をひとつ慎重に挟み上げた。カツン、と乾いた軽い音が響き、骨は骨壷へと収まった。
その後、係員さんは慣れた手つきでお骨を骨壷へと移し始めたが、大腿骨や頭蓋のあたりに差し掛かったところで、その手をピタリと止めた。
「……こちらでお骨を砕かせていただいてから、全体を収める形になりますので失礼します」
係員さんが金属製の棒のようなものを手に取った。
その瞬間。
直哉の顔から表情が消えた。そして次の瞬間、直哉はまるで生涯で最大の侮辱を突発的に叩きつけられたかのように、両目を見開いて係員を射殺さんばかりに睨みつけた。
「……は? 今、なんて言うたんや」
「ですので、ご遺族の方には大変忍びないのですが、物理的に割る段階というものがございまして」
「待てや。甚爾くんになんでそんなことすんの?」
「いえ、そうしないと骨壺に収まりきらなくて……」
「遺体損壊罪?とかになるんやないの。それ、犯罪やろ」
「いえ、ですから、これは法的に認められた火葬の通常の行程でして、それにここは呪術高専の特別施設ですので……」
「はぁ? どう考えてもおかしいやん」
おかしいのはどう考えても直哉の方だった。この場にいる100人中100人が、直哉の狂気を指摘するだろう。これは火葬における、ごく一般的で、避けては通れないプロセスに過ぎない。直哉だって、これまでの親族の火葬で何度も同じ光景を見てきたはずだ。
それなのに、直哉はまるで、格下の呪霊を前にして術式を開示しているときのような、冷静さと余裕を必死に装いながら、流暢な言葉で係員を脅し、止めようとしている。
「生きとる人にやったら駄目なことをなんで甚爾くんにすんねん。骨を砕く? アホちゃうか。折角こんなに綺麗に残っとるのに、なんでわざわざ壊さなあかんのや。甚爾くんの体に、傷一つでもつけてみ、殺したろか?」
──完全に常軌を逸していた。
「直哉、やめなさい!! 物理的に入らないんだから仕方ないでしょうが! 我儘言わないで!」
「我儘ちゃうわ。甚爾くんは特別なんや。……もっとデカい壺持ってこい。なかったら俺がこのまま持って帰る!!」
「いい加減にしなさい馬鹿!係員さんにそんな理不尽な暴力をチラつかせて困らせて、恥ずかしいと思わないの!?」
俺が声を荒らげると、直哉は深く、ひどく白けたため息をついた。
「わーったわ、姉さん。── 取り乱して乱暴な言い方をしてしまい、誠に申し訳ありませんでした。ですから、これ以上甚爾くんを傷つけないでください。お願いします。……これでええんか? 満足か?」
たしかに最近の俺は、「禪院の屋敷から外に出て呪術高専に入学したからには、あなたは一介の若手術師にすぎないのだから、年長者や外部の人間には丁寧な言葉を使いなさい」と、母親のように再三説教をしてはいた。
けれど、今のはそういう意味ではない。形ばかりの敬語で丁寧に懇願したところで、物理的な法則が変わるわけではないのだ。骨壷に入らないという事実は、どうしたって覆らない。
このままでは、まともな収骨すら終わらない。甚爾くんをこんな冷え切ったステンレスの台の上に、いつまでも晒し者にしておかなければならなくなる。
だが。
親に叱られた子供が、お気に入りのおもちゃを無理やり取り上げられないように、涙を堪えて必死に「いい子」を取り繕うとするような──あまりにも憐れで、あまりにも惨めなその懇願を前にして、俺ももう限界寸前だった。
誰も、俺と一緒に泣いてくれない。
誰も、普通に傷ついてさえくれない。
『──マコくん。私に30秒くれる?』
甘く冷たい声が、頭の中から響いた。
菜緒葉ちゃんだ。
その声を聞いて、俺は。
/──私は。
私は、制服の袖の上から直哉の腕を躊躇なく、強めにつねり上げた。だって、どう考えても「これでええ」訳がなかったから。
「……っ!? 痛い……菜緒葉、ちゃん……?」
痛みに顔を歪め、縋るような、そして裏切られた子供のような目で私を見つめてくる弟を、私は一瞥もせずに完全に無視した。そして慄く係員さんに向かって、極めて淑やかに、深く頭を下げた。
「愚弟がごめんなさい。この子の妄言は気にせずに、自分の仕事をまっとうなさって」
人の心がないだなんて思わないでね。
私はただ、直哉が直視できない現実を、代わりに終わらせてあげるだけだから。
係員さんがゆっくりと頷くのを見て、私は安心した。
それから恭しく告げた。
「……分骨は、まだここにある右手の指の骨にしていただけます? それでしたら、小さな器にも収まりますでしょう」
体の左側の骨はそもそもあまり残っていない、というか、肩の下から脇腹にかけての部分は、焼ける前から失くなっていた。それで思い出したけれども、結婚指輪はどこへやっちゃったんだろう。本当なら一緒に焼いてあげるべきだったのに。
そして、30秒が経った。
/── 二度と聴きたくないような、決定的な破壊の音が室内に響き渡った。その音を浴びて、直哉の中で、何かが完全に折れたのがわかった。声にならない声を吐き出し、直哉は冷たいタイルの床へと力なく座り込んだ。
もはや怒ることも、まくしたてることも、屁理屈をこねることも不可能なほどに。作業台の上で砕かれていく唯一の神の残骸を、直哉はうつろな瞳でただ見つめている。一滴の涙も流せないまま、その魂だけがボロボロに泣き崩れているような直哉の背中を、俺はただ見下ろすことしかできなかった。
すべての収骨作業が終わり、彼にお骨の入った壷を抱かせてやると、直哉はどこか憑き物が落ちたように、少しだけ穏やかに笑った。それは、幼い頃に禪院家の片隅で俺に見せていた、無防備な弟の顔だった。
その顔を見た瞬間、胸の奥がギリッと痛んだ。手渡された骨壷の重みは、あの甚爾くんの質量だと思うには、あまりにも、あまりにも軽すぎた。
本来、強力な術式を持った術師や、ましてや甚爾くんのような天与呪縛の特異な肉体を持つ人間の骨は、高専や御三家によって厳重に管理されなければならない。一般の墓地に埋葬するなど、呪術界においては法度中の法度だ。
だが、俺はどうしても、甚爾くんの一部をお姉様のお墓に入れてあげたかった。
本家のお墓に入れられないなら、どうせよくわからない冷たい蔵に封印されることになってしまうんだろうし、そんな状況だというのに滅多にないような悪用を心配して、甚爾くんを受け入れなかった呪術界のルールに唯々諾々と従うなんて、我慢できない。
だから俺は上層部や窓の人間相手に裏で手を回し、大金を積み、時には禪院の威光を使った汚い脅しまで駆使して、こっそりと分骨証明書を発行させた。
俺は係員さん相手に証明書の確認事項をでっちあげて、この収骨室を出るのをわざと遅らせるつもりだった。
直哉は泣くべきだ。
見栄を張りたい相手である俺がいなくなれば多分すぐに泣けるようになるはずだ。それでこの異常な熱に浮かされた脳を冷ましてやらなければ、こいつは本当に、二度と戻ってこれないところまで壊れてしまう。
しかし、すぐに外から直哉の声が聞こえた。
「悟くん!」
息が止まりそうになった。
五条悟が、ここに来ている。
甚爾くんを殺した張本人が。
それなのに、直哉の口から繰り出されたのは、あまりにも場違いで狂った問いかけだった。
「悟くん。甚爾くん……強かったやろっ?」
──俺まで気が狂うかと思った。
「強かったよ。ってか、俺、1回ほぼ死んだんだけど。聞いてない?」
「……悟くんが、死にかけた?」
「うん」
「どうやって!? どんな風に!? 教えろや、今すぐに!」
直哉がふらつく足取りで、狂気的な熱を宿して五条に詰め寄るのが見えた。だが、彼が五条の体に触れる直前、その前進は物理的に制止された。五条の周囲に展開されている常時発動のバリア——無下限呪術の見えない壁に弾かれ、押し返されたのだ。けれども直哉は自分が拒絶されたことすら全く気にかけていなかった。ただ、胸に大事そうに抱え込んだ骨壷の袋に弾かれた衝撃がいかないよう、咄嗟に我が身を縮めて庇う仕草を見せただけだ。自分の体も理屈も面子もどうでもいい。ただ、壊れてはいけないものは、この袋の中にしかないのだとでもいうように。
およそ10年ぶりに見る五条は、直哉より背が高くなっていた。多分190くらいはあるんじゃないかと思う。頭は白くて、目は青くて、とんでもなく目立つ。シンプルに怖かった。
直哉は感じていないのだろうか。目の前にいる男との、絶対的な格の差を。俺はこの距離にいるだけで、もし今ここで五条と殺し合いになれば、絶対に勝てないだろうということを感じてしまう。特級呪霊とだって何度か渡り合ってきた自負はあるが、今の五条悟と比べれば、あの程度の敵はただの羽虫に等しい。
禪院家と五条家は、平時から顔を合わせれば罵り合う犬猿の仲だ。ましてや、次期当主候補である直哉のこのような脆弱極まりない姿を、今の五条にこれ以上晒し続けるわけにはいかない。俺は当初の企てを諦め、静かに収骨室の敷居を跨いだ。
「直哉、はしたないですわよ」
声色を調整し、いつもの『禪院菜緒葉』の仮面を被る。五条に対しては一分の隙も見せられないし、きちんとした大人として振舞う必要があった。
「五条悟様。この度は、身内がとんだご迷惑を。……あら、ご迷惑をおかけしたのは、迷惑どころの話ではありませんでしたわね」
死にかけたらしいし。
俺は頭まで下げた。よりによって、甚爾くんを殺した男を相手に、頭を下げたのだ。
しかし五条の反応は決して「大人」とは言い切れなかった。彼はかけていた丸サングラスを少しだけ下にずらし、青い瞳でこちらを凝視しながら、心底気味の悪いものを見るかのように顔を歪めた。
「……スパゲッティとか食えなくなりそー」
──やはり、見えているのだ。
彼の六眼にはどうせ、この身体の中で絡み合う俺と菜緒葉ちゃんの魂が、グロテスクなものとして可視化されているのだろう。
だが、腹の底から込み上げてきたのは、恐怖の総量を遥かに凌ぐどす黒い怒りだった。
勿論、五条には一切の罪がない。
彼はただ、与えられた任務を全うしようとしただけの未成年の学生だ。明らかに正当防衛だろう。そして彼はその過程で、下手したら自分が護衛していた少女が死ぬのを目の当たりにさえしたかもしれない。
彼女は星漿体であり、最終的には天元様と同化して死ぬ運命にあった。五条もそれを受け入れて護衛をしていたはずだ。とはいえ、儀式と暗殺者に理不尽に殺されるのとは全く違う。甚爾くんは最悪だったし、五条が甚爾くんを殺したことに何の非もない。論理的に考えれば、俺が五条を責める権利などどこにもない。
五条を責める暇があるなら俺は俺自身を責めるべきだ。それはわかっている。わかっているが──どうして俺達は、大切な人の死を普通に悲しむための最低限の時間すら奪われ、挙句の果てに、殺した張本人から侮辱されなければならないんだ?
本当のことを言えば、死ぬほど恨んでいる。
甚爾くんを殺した五条が憎い。
そして何より、甚爾くんを殺した癖にこの場を無神経に土足で踏み荒らそうとするコイツを、俺は絶対に許さない。
だから、一刻も早く。
直哉の視界からこの男を消してやりたい。
「……? なんのことでしょう?」
はらわたが煮えくり返っているのを笑顔で隠し、小首を傾げた。五条はサングラスを定位置に戻し、大きく伸びをした。
「いや、こっちの話。伏黒甚爾は最後に『菜緒葉』って名前呼んでた。直哉、姉貴をちょっと借りていいか?」
その言葉を聞いた瞬間、直哉の体が弾かれたように動き、無言で俺の前に立ちふさがった。
直哉の方が弟で、今は精神的にもボロボロのくせに、それでも俺を守ろうと盾になろうとしてくれている。その背中を見た瞬間、俺の胸の中で、一つの冷徹な決意が凝固した。
俺自身が、前に出るしかない。
直哉をこの危険な怪物から引き離すには、俺が五条の誘いに乗る以外に選択肢はないのだ。
「……直哉。少し、五条様とお話ししてきますわ。あなたはそこで、甚爾くんをちゃんと守っていてあげて」
小さい頃のようになるべく優しくそう言った。直哉が頷くのを確認して、
白いリノリウムの階段を上がり、エレベーターの横にあった、今は使われていない空っぽの控え室に入る。背後で重い防音扉が閉まった瞬間、部屋の中の空気が、ガラスがひび割れるような緊張感へと一変した。
俺は笑顔の仮面を脱ぎ捨て、冷え切った目で現代最強の呪術師を睨みつけた。
「……で、何ですの?」
「わかってんだろ、目黒寄生虫記念館女」
「ご挨拶ですわね。私には、あなたが何を仰っているのか皆目見当もつきませんけれど」
五条は室内に置かれていたパイプ椅子に無造作に腰掛け、長い足を組んで、容赦のない言葉を吐いた。
「前に会った時から更に100倍キモくなってるぞ、オマエ」
「……」
「いや、前に会った時とまだ同一人物なのかは知らねーけどさ」
五条はこの体の中に俺と菜緒葉ちゃんの2人が同居しているという構造を、六眼によって正確に視認している。それだけは間違いなかった。
「俺のこと、覚えてる?」
「……不躾なガキ」
本当に不躾としか言いようがなかった。五条は一瞬だけ目を瞠り、それから短く愉快そうに笑い声を上げた。
「あははっ、ようやく本性出したか」
「……本性? 任務の一環とはいえ人の身内を殺しておいて、暴言までぶつけてくる不逞の輩を『不躾なガキ』と称して、何の問題がありますの? 意味不明な言いがかりをつけるためだけに、私を直哉から引き離したのですか?」
「言いがかり? ……笑わせんなよ。自分が祓われて当然の存在って自覚がねぇの?」
「私がこれまでに、何匹の呪霊を祓っているとお思いで?」
人類の害になるようなことなど、一度だってした覚えはない。
たしかに、音MADの知識を持って禪院菜緒葉という女児にTS憑依転生してしまったことについては、倫理的にも宗教的にも大いに議論の余地があるだろう。だが、実際には菜緒葉ちゃんとは互いに手を取り合って親友のように仲良くやっている。直哉の男尊女卑も音MADより数段マシな方向に叩き直したし、禪院家の内部構造を改革し、ゆくゆくは呪術界全体をシステムから救おうと、地道な努力を続けているのだ。
その俺を祓う?
出会い頭によくもそんな横暴なことを言えたものだ。
しかし五条は言った。
「伏黒甚爾の遺言だよ。アイツ、死ぬ間際に何て言ったと思う?」
「……」
「『禪院菜緒葉は何かに憑かれている』『会いに行け』そう言い残して死んだ」
そう、言われて、俺は──
「…… 甚爾くんが、私を……心配して?」
甚爾くんにとって俺はどうでもいい存在ではなかった。甚爾くんはちゃんと俺のことを考えていてくれた。頬が緩みそうになる。同時に泣きそうにもなる。
けれども五条はそっけない。
「知らねーよ。ただ、もしあの男が何かを憂いていたんだとしたら、それは今俺の前にいるバケモノのオマエじゃなくて、中身を食い荒らされる前のこの子だろ」
五条は何も知らない。甚爾くんが俺を本体だと思ったままだったことすら知らない。
──そうか。俺は五条から「悪霊」だと思われている訳か。二重人格にせよ二重魂にせよ、他の人間に知らせれば知らせる程リスクになる。けれども五条には隠し事が一切通用しない。それなら──
『マコくんマコくん、ここは私が話をつけて差し上げますわ! コイツも呪術師ですし、キモい術式や特異な肉体は見慣れているはず。本体である私が実は元気いっぱいに生きていて、マコくんとは脳内でツーカーの親友なんですの!って懇切丁寧に説明すれば、きっと警戒を解いてくれますわ。それに……』
それに?
『五条悟もしょせん男!マコくんの存在の不自然さに由来しているであろうキモさが100分の1にダウンした私の一世一代のウルウルお目目(色仕掛け)にかかれば、イチコロに決まってますわ!』
俺の前世のインターネットで女子にものすごく人気のあった五条悟に色仕掛け??
本気なの???
自分のスタンスがアンチの大量発生必至な、生粋の悪役令嬢だっていう自覚あんの??
そう脳内で全力のツッコミを叩き込みたい気持ちはやまやまだったが、今の俺には、いつものテンションでメタな会話を繰り広げるだけの気力は残っていなかった。
俺のなけなしの原作知識が確かならば、五条悟という男は、後に両面宿儺に肉体を乗っ取られた被害者の主人公(虎杖悠仁)を、自らの権力を使って全力で保護してくれる根は善人な人物のなはずだ。か弱い女の子が涙目で説得すれば、いくら六眼で違和感が見えていようとも、態度を軟化させる可能性が1%くらいはあるかもしれない。
そして、菜緒葉ちゃんは。
/私は。
「五条様。おそらく、あなたの目には、私が呪霊や呪物に肉体を乗っ取られた哀れな傀儡に見えているのでしょうね。でも、違いますの。私は……」
なるべくかわいく憐れっぽく、そして儚げに言う。マコくんの真似っこをすれば楽勝……楽勝だ。五条は背が高くて圧迫感があって、しかも甚爾くんを体の一部が完全に吹っ飛ぶようなえげつない方法で殺した人で、近づくだけで少し気まずくて怖いので、目を潤ませるのは全く難しくない。でも──
「いや、見えてるよ。全部見えてる」
かなり怒っていそうな様子で五条は答えた。
──まずい。これはひょっとしたら、マコくんに私の呪詞が効かない状態なのも、完全にバレているかもしれない。
似合いもしない無害でかわいい女の子なんて演じるべきではなかった。本性のドブカスガールとして堂々と交渉するべきだった。
私はやっぱり、男に媚びるのがマコくんより下手なのだろう。
「ここで私を殺したら、直哉もお父様も黙っていませんわよ?」
とりあえず脅してみた。
マコくんと私の術式の関係性について、マコくんもいい加減察しているだろうけれど、これはできれば永久に有耶無耶にしておきたいポイントだ。だからマコくんを誤魔化しつつ、五条ともなるべく深い会話をしなくて済むようにする。
すると少しの沈黙の後、五条は口元を不敵に歪めた。
「三ヶ月後。京都校との交流会があるだろ」
「……」
「出ろよ」
提案でも勧誘でもなく、強制の色を孕んだ指示だった。精一杯の拒絶を、淑女の言葉遣いで包み込んで投げ返す。
「私はまだ1年生ですわ。アレは本来、上級生の先輩方が出場なさるべき行事です。私がでしゃばるような場ではございません」
姉妹校交流会は2年生や3年生の参加がメイン。1年生は何年かに一度数合わせで加えられる程度だったように思う。慣習、学年の壁──それらを盾にして、五条を引き下がらせようとする。普通なら、このロジックは十分に通用したはずだ。
けれども、五条は言った。
「俺も出る」
はっきりと紡がれた言葉に、今度こそ私の思考がコンマ数秒、完全に停止した。
──天下の五条悟が、学生同士が切磋琢磨するための行事に参加する?
1年生の私達にはまだ関係ないイベントだと思って、深く考えてこなかったが、今年2年生の五条が交流会に出場するというのは、不自然ではない。けれども、特級呪術師の五条が本気で参戦して来ようものなら──私の通う京都校はボロ負け間違いなしだ。去年も京都校が負けているらしいから、このままでは3年にいる一般出の先輩は後がなくなるかもしれない。
「そうなれば、京都校もオマエら姉弟っていう最高戦力を引きずり出さざるを得なくなる。初日の団体戦のドサクサなら、二人きりで内緒話をするのにも都合がいいだろ?」
それは、私の正体を徹底的に暴き、マコくんとの関係性を解剖してやるという冷酷な予告状だった。
「……」
五条は立ち上がり、それ以上の反論を許さないまま、振り返ることなく、無造作に控え室のドアノブに手をかけた。
彼がいなくなった。
その瞬間、私は無人になった控え室でお行儀悪く突っ伏した。
『やっぱりダメだった……。色仕掛けっていうから何するのかと思いきや、キョドりすぎなんだよ。デフォルトの菜緒葉ちゃんのメスガキお嬢様ムーブの方がまだ色気があると思うな。やっぱり男への応対を9割9分俺に投げてるのが良くないんじゃない?』
マコくんがすごく失礼なことを言ってきているが、無視だ、無視。
「……扇のおじさまに『定名綴魂』を使った時みたいに、交流会中に隙をついて縛りを結ばせましょう。私の状態についてこれ以上他言しない縛りと、ついでに人類総術師計画に協力させるための縛りを結ばせましょう」
冷たい机に頬をくっつけて、提案する。この作戦にどれだけの実現可能性があるのかはわからなかったけれども、とりあえず他に思いつく切り抜け方はあまりなかった。それに、過激なことを言ってみて、安心したい気持ちもあった。けれどもマコくんは私の頭の中で、疲れて冷めた声で答えた。
『丁寧に話し合っても、どうしてもダメだったらね』
扇のおじさまに対してやったのを最後に、洗脳みたいな悪行は二度とやめようとマコくんとは約束していた。マコくんは約束を破るのがキライな人で、こういうことを言えば、必ず叱られる。でも、今のマコくんには怒る元気もないみたいだった。
「絶対反対すると思ってましたわ。マコくんなら……」
そう口ごもりながらさらに突っ伏す。
蛍光灯の光さえもう見たくなかった。
しかしマコくんの答えは私が想像していた以上に冷静だった。
『夢を叶えたいなら、どの道いつかは五条には勝たなくちゃいけないんだよ。俺は甚爾くんに負けた。じゃあ、甚爾くんより弱い俺が交流会で五条をコテンパンにぶちのめしてやれば、やっぱり甚爾くんが最強ってことになるよな?』
──マコくんはいつも前に進もうとする。
どんな状況でも自分にできそうなことを見つけて、前進しようとする。
そんなマコくんに、私は──。