音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
俺達京都呪術高専の一行は、年に一度の姉妹校交流会のために忌まわしき東京校の敷地を踏み締めていた。残暑の日差しの中、表向きは名門・禪院家の令嬢として完璧な微笑みを顔に貼り付けているが、内心は闘争心でいっぱいだ。
制服も気軽な仕様の夏服は避け、ちょっと暑いが防御力の高い冬服にしている。周囲の反対のせいでフリルをつけ損ねたのが痛恨の極みなこの冬服──そのボトムスがスラックスなのは、俺のパンチラを本気で憂う甚壱くんの強い要請によるものだ(中に短パンやドロワーズを履いて自衛してもアカンらしい。厳しすぎないか)。ゴリゴリの男装と言えるほどのものでもないが、トップスの詰襟を短い丈に絞り、スラックスをハイウエストのデザインにすることで、身長相応に大して長くもない足を少しでも長く見せようと涙ぐましい努力をしている。
「夜蛾先生。こちら、我が校からのささやかな手土産ですわ。どうぞ皆様でお召し上がりになってくださいませ」
俺は京都名物・生八ツ橋(ニッキと抹茶の二種詰め合わせ)が入った紙袋を、なるべくお淑やかな所作で心掛けつつ東京校の夜蛾先生へと差し出した。
「……ああ。わざわざすまないな、禪院」
夜蛾先生は紙袋を受け取りながら、どこか懐かしむような、あるいは哀れむような複雑な表情を浮かべた。夜蛾先生は俺達の亡きお母様と年齢が近く、面識があるそうなのだ。どうも今の俺の顔は学生時代のお母様の面影を強く残しているらしく、時折、こうして昔を知る大人たちから湿っぽい視線を向けられることがある。実際にはお母様に似てるのは直哉の方で、俺も菜緒葉ちゃんも、どちらかと言えば中身も含めてあのクソ親父の方に似ていると自負しているのだが。
そして、この場の東京校のメンツの中には言うまでもなくあの男も当然いる。一つ上の先輩にあたる男、現代呪術界の頂点──五条悟だ。小柄な一方の菜緒葉ちゃんボディと違い、ナチュラルに足が長くて本当に苛立たしい。丸いサングラスの奥から、六眼が不躾かつ気持ち悪そうにこちらを覗き込んでくる。
テメエにやる八ツ橋はねえ!!と言いたいところだが、悲しいかな、俺は禪院家のお嬢様だ。顔の筋肉を総動員して引き攣りそうな笑みを強固に固定し「五条先輩もどうぞ」と事務的に菓子の箱を配る作業を続けるしかなかった。
ちなみに、周囲を見渡しても、五条と並び称されるもうひとりのウワサの特級・夏油傑の姿はどこにもなかった。理由は単純明快。彼は『殿堂入り』らしい。
どうすればそんな名誉な扱いになるのかって?
何でも去年の交流会、東京校の人数合わせとして参加した夏油は、開始の合図と同時に過去最短タイムでエリア一帯の呪霊を一人で全部やっつけてしまったのだそうだ。団体戦なのに京都校の面々が索敵する暇はおろか、味方の出番さえ与えない文字通りのワンオペ無双だったという。
そこで「あんなのゲームバランスの崩壊だ」「今年は引っ込んでろ」「他生徒の教育にならない」と、上層部から直々にストップがかかったのである。
一体
夏油先輩不在の中、五条の無遠慮なガン飛ばしはなおも続いていたが、
「あんまり1年をいじめんなよ」
気怠げな声と共に五条の背後から現れた家入先輩が、五条を小突いて止めてくれた。
例の無敵バリアって常時張ってる訳じゃないんだ?!というのは置いておいて、家入先輩は決してニコニコと愛想を振りまくようなタイプではないし、こっそり煙草を吸ってる不良だが、案外優しい。3ヶ月前の葬儀の件でも、実はお世話になっている。俺は心からの感謝を込めて、彼女には本物のスマイルを浮かべながら八ツ橋を手渡した。
一通りの挨拶と八ツ橋の配布をなんとか終えた後、俺達は京都校に割り当てられたミーティングルームへと逃げ込むように籠もった。
襖を閉めた瞬間、畳敷きの和室の中にはまるで本当のお通夜のような重苦しい空気が満ちた。
それもそのはずだ。いくら夏油先輩という規格外のバグキャラが殿堂入りで消えたとはいえ、東京校には五条悟という理不尽の化身たるジョーカーが残っているのだから。このままでは去年と同じく蹂躙されて終わる。
「──という訳で、誰かが五条を足止めし、その隙に残りのメンバーで呪霊を祓うしかない。菜緒葉さん、頼んだよ」
車座になった先輩の一人が、血を吐くような悲痛な面持ちでそう告げた。事実上の生贄の選定である。
信頼できる人にしか話していないが、俺は無下限呪術を貫通して五条を殴れる。しかしそれは五条との戦いの最低条件であって、それができたとて簡単に勝てるものでもない。五条というのはそれだけの強敵だ。
「15分いければ上出来だと思ってるから!! その間に直哉くんと私たちでエリアを最高速度でぶち抜いてくから!!」
「待てや、行くのは俺や。領域展延使えるようになったねんから、悟くんにも触れる。姉さんをあんな化物に当てられるか!」
「もう何十回も話したでしょう、シスコン後輩。直哉くんの機動力がないと呪霊の掃討が間に合わないの!」
「俺は!! シスコンやない!!」
事前の決定についてまた直哉が文句を言い出したが、我が校の作戦としては、直哉の圧倒的なスピードを攻撃の要とするのが、最も合理的なのだ。
みんなを、というか、直哉を是非とも安心させてやりたい。
そこで俺は、最近成人版を購入した某エロゲ(前世はアニメとソシャゲしか見てなかった)に登場していたとある男性キャラクターの後ろ姿を思い浮かべつつ、優雅に言ってみることにした。
「あの、皆様。五条先輩の足止めですが……」
部屋中の視線が、おずおずと控えめに挙手した俺──完璧な令嬢の皮を被った「菜緒葉ちゃん」に集まる。
俺は、これ以上ないほど不敵で、かつ涼やかな笑みを浮かべ、脳内の弓兵に最高のリスペクトを捧げながら言い放った。
「──別に、倒してしまってもかまわないのでしょう?」
静寂。
一瞬、ミーティングルームの時が完全に止まった。
俺としては「決まった……!」と内心でガッツポーズを決め、定番のBGMが流れる幻聴すら聞いていた。だが次の瞬間、部屋中の先輩たちと直哉から、鼓膜が破れんばかりの一斉の怒号とツッコミが飛んできた。
「ちょっと菜緒葉ちゃん!? 無理しないでよぉー!!」
「正気? 禪院さん! 相手はあの五条悟だよ!? 死んじゃうよ!?」
「アホか姉さん!! やっぱり俺が行く!!」
先輩がたと直哉から寄ってたかって頭を撫で回され、全力で諭され、怒られた。
京都校のメンバーにとっての菜緒葉ちゃんは「異常者だけれどなんだかんだで可愛い箱入りのお嬢様」という認識で固定されているらしい。そんなお嬢様が特級のバケモノ相手に「ワンチャン殺せるけど?」みたいなノリで特攻しようとしたものだから、周囲は「おいたが過ぎる!」「現実が見えてない!」と大慌てで物理的に止めにかかったわけだ。
ちがう、そうじゃない。俺はいっぱい修行して、ガチで勝算を計算して、領域の対策と手数をシミュレーションした上で言っていて……と言い訳したかったが、全身を揉みくちゃにされて、それどころではなかった。
先輩たちからの寄ってたかっての物理的な制止と説教をなんとかやり過ごし、ミーティングが散会した直後のことだった。
俺は無言で近づいてきた直哉に腕を掴まれ、建物の裏手にある人気のない中庭へと強引に連れ出された。
「……ちょっと直哉、痛いんですけど。もうすぐ開始時間──」
「やっぱり、菜緒葉ちゃんと姉さんは出ない方がええと思う。あの日悟くんと何話したかは知らんけど、悟くんの視界からは未来永劫逃げ続けよう? 俺が禪院の権力とかを使ってどうにかするから」
は????????
俺は、あまりの唐突な言葉に絶句した。
何を言っているんだ、コイツは。
交流会開始の直前も直前、これから作戦行動に移ろうというこのタイミングでまさかのボイコット推奨である。さっき部屋で「俺が行く!」と騒いでいたのは単なるシスコンの発露だと思っていたが、どうやら本気で俺を出場させたくないらしい。
俺はじっと直哉の顔を見返した。その瞳には、かつて俺に向けるのが常だった無謬の信頼の色は、もはや微塵もなかった。
直哉はどこか諦めたような、冷たく静かな声で言った。
「姉さんを嫌いになったとか、悪人になったと思っとる訳やないけど……」
「……」
「姉さんは、結局普通……普通? まあ普通の人なんやわ。人よりできることが多いだけで。禪院の人間とは性根から違う。やっぱり呪術師向いてなかったんちゃう?」
「……はぁ?」
よりによって1級呪術師相手に「呪術師向いてない」とかほざくという、最悪の暴言。それに言い返してやろうとした矢先に、直哉は何もかもを見透かしたような調子で続ける。
「甚爾くんは甚爾くんのやりたいようにやっただけな訳で、悟くんへの意趣返しとか1ミリも望んでないやろ。悟くんをどうにかしたいんは甚爾くんどころか結局菜緒葉ちゃんの意志ですらなくて、姉さんの薄汚い自己満足なんとちゃう?」
直哉の糾弾は図星だった。
五条悟と戦って勝ちたいという意志には、菜緒葉ちゃんとの合意はあった。でも、根本的な衝動は俺の中にある甚爾くんを殺した男への複雑な感情が主導だった気がする。
直哉は、「姉さん達にまで何かあったら」とは決して言わなかった。
そういう殊勝なことを素直に口にできるような可愛い性格はしていないし、ベースは傲慢でキツい奴だが、言葉にしなくてもその根底にある不器用な庇護欲と焦燥感は伝わってくる。
けれど、だからといって今さら後戻りなんてできるわけがない。
そもそも五条は俺を人間とは思っていなくて、これから上手いこと説得できなければ殺しにかかってくる可能性すらあるんだから、避け続けるよりはなるべく早く接敵してどうにかした方がいい。
というか、今回五条を説得しきる自信が俺にはない。菜緒葉ちゃんはどうにかなるという期待を持っているようだが、俺個人としては深く悩めば悩むほどに絶望的に思えてきていた。「菜緒葉ちゃん本人の合意がある」と主張したところで、6歳の幼女に入り込んだ他人の魂(ロリコンかもしれないし、呪詛師かもしれない)なんて、五条から見れば子供を精神的に籠絡して肉体を奪った不審者にしか見えない可能性が高い。というか、俺も他人事ならそう考えるかもしれない。呪術界への貢献を必死に主張して、辛うじて処刑を先延ばしにしてもらえるか五分五分といったところだろう。
そして、この体はそろそろ成長上限に達しているが、五条はこれからどんどん強くなるのだ。たとえば昔の五条家当主が使っていたという『蒼』を応用した瞬間移動を覚えられたら最後、勝ち目はゼロになる。今こそが一番勝ち筋が見える時期なのだ。ここでやるしかない。
「……私が勝ったら、現代最強は塗り替わる。そうなれば私達には安寧が訪れる。禪院が呪術界の覇権を握れば、お父様達だって喜ぶ。直哉、あなただって……」
「自分のやりたいことに世のため人のためって理由をつける姉さんのアレな癖に俺がまだ気づいとらんとでも? 舐めんなやカス。この際はっきり言うたるわ」
直哉の言葉が鋭さを増す。
「姉さんは多分俺よりもうだいぶ強いけど、悟くん相手は流石にムリ。身の程弁えろ」
「直哉……!」
「悟くんに対抗するために、今度は菜緒葉ちゃんにどんな強引な縛りを結ばせるんや?」
その言葉に、足元がぐらりと揺れた。
俺の呪術はいくつもの縛りの上に成り立っている。一番深刻なのが、毎日欠かさず料理をしなければ、呪力量が半分に激減するという生活に根ざした縛り。転生直後、菜緒葉ちゃんの人格が復帰してくる前に結んだものだ。
つまり直哉は、俺が五条悟に対抗するため、また菜緒葉ちゃんの身体を使って無茶な代償を支払うつもりだろうと糾弾しているのだ。
「……っ、あの縛りの話は、今関係ないでしょう!」
「関係大アリやわ。姉さんが勝手に背負い込んだ縛りのせいで、菜緒葉ちゃんの身体は雁字搦めになっとるんやぞ」
「ふざけないでよ!!」
俺の堪忍袋の緒は限界を超えて弾け飛んだ。
「……あの縛りを結ばなきゃいけなくなったのは、あなた達が最低だったせいでしょう!?」
気づけば俺は、声を荒げてキレていた。
禪院家で才能に恵まれている訳でもない女が呪術師をやるには、他に方法がなかった。直哉は女も弱者も人間とは思っていなかった。前世の俺みたいな病人なんか世の中の足手まといになっているゴミとしか思っていなかっただろう。いや、それについては今ですらちょっと怪しい。だから、実の姉である菜緒葉ちゃんのことすら平気で出涸らし呼ばわりして傷つけ続けてきた。それを棚に上げて、今さら被害者ぶった正論を吐く直哉の態度が許せない。
あの頃菜緒葉ちゃんを虐待していたのは、一体どっちなんだ?
「そもそもあなたがもっと素直で、ちゃんとした子だったら! 私だってこんな──!」
呪術師に向いてないとか直哉はほざいてきたけど、そもそも呪術師にならないと人間扱いしてもらえなかった。
そうだ。
直哉やお父様が普通の優しい家族だったら、ここまで頑張る必要はなかった。
未来の真希ちゃんが滅ぼしたくなるのも仕方ない禪院家で、それでも直哉には生きていて欲しくて、色々と努力したのに!
だが、俺の激昂を前にしても、直哉の表情は動かなかった。冷め切った目で俺を見下ろしたまま、直哉は静かに、ぽつりと呟いた。
「……だからこそ、なんやけど
「え……?」
「だからこそ、これ以上俺に、菜緒葉ちゃんを傷つけさせないで」
直哉はよりによって、頭を下げてきた。
異常なまでの向上心と膨大な自尊心の塊で、誰に対しても舐めた態度をとってきた、あの弟が。俺に向かって頭を下げ、哀願してきた。
それを見て、怒りなんてなくなってしまったし、逆に一気にしんどくなった。普通の人間なら姉に頭を下げるくらい普通にするかもしれない。でも、あの直哉だ。直哉にここまでさせるというのは、彼を深く傷つけているような気分だった。
俺の心が大きく揺れ動いた、その瞬間だった。
『──甘いですわね、マコくん。私に代わって。一言言ってやるから!!』
肉体の主導権を菜緒葉ちゃんが握る。そして彼女は次の瞬間、直哉の頬を全力で張り飛ばした。
「……っ!?」
直哉は避けなかった。間違いなく意識して避けなかった。そして、避けなかったが、明らかに屈辱と怒りに満ちた顔をした。
しかし菜緒葉ちゃんは一切の躊躇なく、倒れ込んだ直哉の腹に革靴の踵を容赦なく振り下ろした。
「……本っ当に笑える。あの、あんなにも絶対的で、強大で、恐ろしかったあなたが……今はこんなにも無様っ!」
純粋で昏いサディズムが渦巻く甘い声。
腹の底からはドロドロとした甘く昏い熱が這い上がってきている。菜緒葉ちゃんのその感覚は、俺にもバッチリ同期する。
可哀想な弟を貶めておいて、明らかに興奮している。
──菜緒葉ちゃん、人の心って知ってるかな?
流石にそこまで言わずとも……。
俺は菜緒葉ちゃんを止めようか悩んだ。しかし悩んでいる間に彼女は言葉を続けた。
「五条と私達の戦いに、あなたは足手まといなの。せいぜいおとなしく指を咥えて、無力を噛み締めていなさいな。私はずっとそうしてたんだから、あなたにだってそれくらいはできるはず。女の子の私にもできたことなんだから、男ならヨユーですわよね?」
「……」
「あなたは私に、いつまでも無力な雑魚のままでいて欲しかったのね。自分が庇護してやらなければ生きていけない、惨めな姉でいてほしかったのでしょう? ……まあ、たしかに姉さえいなければ、あなたの今の苦しみの大部分はありませんでしたからね。その点には同情しますわ」
そこまで言って、菜緒葉ちゃんはふふっと嗜虐的な笑みをこぼした。
「とはいえ、その場合のあなたも、ラスト数日ではもっと酷いことにはなるけれど」
音MADのネタバレか。それとも菜緒葉ちゃん自身の『予測』の術式か。いや、両方か。その手の内容は、直哉には秘密にしていたんだけど。
「菜緒葉ちゃん、俺が死ぬトコまで術式で見たんやね……」
「あっ! ネタバレしちゃいましたわ♡ 忘れて忘れて!! ……刺し殺されるトコなんて一切見てませんわ! 私の『予測』に出てくる直哉は28歳で最高にイケてるビジュになって特級チート転生してくるなろう主人公で、河童や侍とパーティーを組んだヒロインにざまぁを試みるんですのよ」
「絶対嘘や!!!!!!」
だよねー。
原作エアプだけど、呪術廻戦にチート転生も河童も登場の余地がないのはわかりきっている。菜緒葉ちゃんはなんでそんなバレバレの嘘でダミーのネタバレを撒こうとするんだ。
というか、直哉はチート転生しなくたって十分ビジュはいいと思う。いや、死ぬ時には真希ちゃんのパンチで顔の良さを失ってしまう予定な訳だが──
「でも、『予測』のあなたが領域展開すらできないまま人としての人生がおしまいになっていたのは本当ですのよ。惨めね」
「……は?」
「さっき言ってた領域展延だって、当然最期まで使えなかったと思いますわ。だからマコくんに『ありがとう』を言って!」
理不尽極まりない要求とともに菜緒葉ちゃんは足を振り上げ、直哉をさらにもう一発踏もうとした。
というか、その足は明らかに股間狙いだ。
ストップ! 菜緒葉ちゃんストップ!
姉弟の構図として人様に言い訳が効かないのはもちろん、一歩間違えば禪院家の未来が物理的に終わるから!!
流石にヤバいと思い、俺の仏心と前世の男としての本能で強引に足を止めると同時に、体の主導権も一気にこちらに引き戻した。
「あ……ありがとう? 姉さん??」
困惑混じりにとりあえず言う直哉に、俺も返す。
「えーっと、どういたしまして?」
──菜緒葉ちゃんの理不尽きわまりない暴力をすんでのところで阻止したものの、俺と直哉の間には、いまだかつてないほど気まずい空気が流れていた。
ジリジリと肌を焼く残暑の陽射しと、鼓膜を劈くような蝉時雨。交流会の開始位置へと向かう道すがら、並んで歩く俺たちの間には完全な無言が落ちていた。それぞれ、わざわざ道の端っこを歩いている。
このいたたまれない沈黙をやり過ごすため、俺は制服のポケットからこっそりイヤホンを取り出し、装着した。年季の入ったウォークマンから流れ出すのは、純粋に俺(というか菜緒葉ちゃん)を慕っていた頃の直哉の声をサンプリングして切り貼りしたものだ。
洗練されたテクノビートに乗せて、幼い直哉の「菜緒葉ちゃん!」「菜緒葉ちゃん♡」「菜緒葉ちゃーん!!」という声変わり前の愛らしいボイスがループする。
今やすっかり生意気なクソデカ男になってしまった直哉だが、この頃は本当に天使みたいに可愛かったのだ。
中身は……まあうん。
あの時点ですでに選民思想バチバチの純粋培養されたドブカスだった気もするが、声帯はかわいかった。あと、素直だった。
ともあれ姉弟の仲直りのため、俺は引っ込ませてしまった菜緒葉ちゃんに提案する。
──この戦いが終わったら、直哉も誘って北海道旅行へ行かない?、と。
『何何何。急に死亡フラグを立てないで頂戴』
いや、死亡フラグじゃなくて。お兄様に久しぶりに会いに行こうよって話だ。
息の詰まる京都の屋敷から離れて、久々に顔を出しに行きたいって前々から言ってたし。あそこなら直哉も、禪院家でのプレッシャーから離れて少しは気兼ねなく羽を伸ばせるだろう。
『……そうですわね。今回は私にも少し非がありましたし、マコくんがそこまで言うなら、付き合ってあげてもよろしくてよ』
少しツンとした、しかし満更でもなさそうな菜緒葉ちゃんの声が脳内に響く。よし、これで姉弟関係の修復プランは決まりだ。
そんな現実逃避めいた脳内会議を繰り広げていると、不意に正面から声が降ってきた。
「やあ。さっき少し見かけたんだけど……喧嘩してたみたいだけど、大丈夫かい?」
顔を上げると、そこには見知らぬ東京校の上級生が立っていた。
前髪を一束だけ奇妙に垂らし、耳には大きめの拡張ピアス。制服のズボンは所謂ボンタンというやつで、一見するとガラの悪い不良のようだが、その口調や声は清流を思わせるほど穏やかで、涼やかな気品すら感じさせる。
俺は慌ててイヤホンを片耳から外し、令嬢スマイルを顔面に貼り付けた。
「あら。お見苦しいところをお見せして申し訳ありませんわ。姉弟の些細なじゃれ合いですので、お気になさらず。私は京都校の禪院菜緒葉と申しますが……先輩は?」
「私は夏油傑。東京校の2年だよ」
夏油傑。
その名前を聞いた瞬間、俺の脳内データベースが高速で検索を始めた。
彼が例の去年の交流戦でワンオペで呪霊を全滅させて殿堂入りしたバグキャラであることは、聞き知っている。
だが、それよりも。
初対面のはずなのに、この特徴的な前髪と、どこか胡散臭い糸目スマイルには、滅茶苦茶見覚えがあった。首を傾げて記憶を探る俺を、夏油先輩は不思議そうに見つめ返している。
その時だった。
『菜、菜、菜緒葉ちゃーん!!(ピコピコ音)』
耳から外して胸元に垂れ下がっていたイヤホンから、微かな音漏れが生じた。
特級呪術師である夏油先輩の研ぎ澄まされた感覚が、その異音を逃すはずもなかった。彼は眉をひそめ、少々戸惑うとともに、その音の正体を探ろうと少しだけ身を乗り出してきた。
「……何だい、これ。何か妙な呪いの音声でも……?」
夏油先輩が怪訝な顔で問う。呪術界の暗部を知る者特有の、警戒を含んだ視線。聞かれてしまったからには誤魔化しようがない。別に恥ずかしい趣味じゃないんだ、胸を張ろう。俺はニッコリと微笑んだまま、一切の迷いなく真実を告げた。
「弟の音MADですわ」
「……は?」
夏油先輩の笑顔が綺麗に固まった。
「音MADという日本最良のインターネット文化をご存知でないんですの? 実に嘆かわしい。私は弟の声をキャプチャして、音楽に乗せて楽しんで聞いているんです♡ 」
夏油先輩はゆっくりと視線を動かし、俺の背後に立っている直哉を見た。そして、何か見てはいけない凄惨な事件の被害者を見るような、深い同情の滲む青ざめた顔で直哉に問いかけた。
「えーっと、禪院? 君のお姉さん、大丈夫かい……?」
暗に「君の姉、頭がおかしいんじゃないか?」と気遣ってくれている。ある意味真っ当な反応だ。だが直哉は辛そうな顔をするどころか、どこか誇らしげに、人を食ったような傲慢な笑みを浮かべた。
「
「…………は?」
「他の家族は素材としてパッとせぇへん。真希ちゃん・真依ちゃんや扇の叔父さんはええ線行っとるけど、その兄──俺の父親は論外。兄さんがたはみんな普通やし……従兄の甚壱くんはなぁ、顔が、なんというか……」
俺と菜緒葉ちゃんの趣味に巻き込まれ続けた結果、直哉の頭も別のベクトルで完全に仕上がってしまっていた。フレーム単位での見栄えや音声の抜けの良さといった素材としての使い勝手を意識して日常の動作を最適化する呪術師など、前代未聞だろう。
夏油先輩は青ざめた顔で小さく呟いた。
「……キ、キッショ……」
その瞬間、俺の脳内にバチバチと電流が走った。
全てが、繋がった。
「あああああああっ!!」
俺は思わず、お行儀悪く夏油先輩を指差して叫んでいた。
全てが繋がった。
思い出した。直哉の音MADを漁っていると、たまに謎の素材として差し込まれる、パカッと開けた自分の頭の上半分を持った状態で脳みそを見せびらかしながら「キッショ」と吐き捨てる袈裟姿の男。
原作未読の俺にとって、夏油傑という男の認識は五条に並ぶ特級呪術師ではなく──直哉の音MADに登場する、脳みそ剥き出しの便利なツッコミポジションにすぎなかったのだ!
「え? な、何の話かな……?」
ドン引きして後ずさる「キッショ」の人をよそに、俺のテンションは無限に跳ね上がっていくのであった。