音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
演習林は深く、東京都内とは思えないレベルの鬱蒼とした緑だ。苔の匂いと夏の残り香みたいな熱気が下生えの合間に澱んで、空気そのものが湿って重い。足元には何年分かわからない落ち葉の堆積が土の表情を覆い隠し、蝉時雨が上から下から飽和して耳の中に蝋を流し込んでくるかのようだった。木漏れ日が頬を打つたびに瞼の裏がチカチカ明滅するのは、菜緒葉ちゃんの──いや、この身体の極度の緊張のせいだろう。心拍数は既に日常のそれではない。
団体戦が開始されるや否や、京都校の面々は鮮やかに分断された。いや、俺が自ら誘導して分断させたという方が正しい。先輩がたや、菜緒葉ちゃんからあれだけの仕打ちをうけてなお離れることを渋る直哉をこの林から出て行かせ、俺はただひとり木立の合間で五条と対峙している。
──先輩たちが俺に期待したのは五条の足止めだったが、五条の第一の目的は俺との話し合いだ。これまでの呪術師としての働きに免じて、俺を無害だと判断したら見逃す。有害だったらそうはいかない。おそらくはそういう判定だろう。交流会という場を指定してきたというのは「場合によっては事故ということにしてぶっ殺してやるよ」という意思表示だ。
ポケットに手を突っ込んでいるのに立ち姿に一切の隙がないその佇まいからは、溢れ出さんばかりの強者のオーラが漂っている。
本音を言えば、俺は五条に勝ちたい。
この男は、あの日以来ずっと俺達の頭上に吊り下げられている刃だ。
仮に今回地面に頭を擦りつけてギリギリ生き延びたとして、今後人類総術師計画なんて代物を進めて行けば、いずれ必ず五条は最大の敵として立ちはだかるだろう。下手したら、甚爾くんを殺したこの男を相手に、一生怯えながら命乞いをし続ける人生になる。そんなのは絶対に嫌だ。ならば、五条をボコって『定名綴魂』を使うほかない気がする。
けれども、当初「真男佳を使って五条悟の脳を弄って洗脳しましょう♡」みたいに意気軒昂に素晴らしい提案をしてくれた菜緒葉ちゃんの方が、いざ本番を前にすると、意外にも話し合いによる平和的交渉へと前のめりになっていた。理由は明白だ。彼女は、甚爾くんみたいな呆気なく理不尽な死に方は絶対にしたくないのだ。その気持ちは俺にもわかる。いや、正確に言えばわかるどころじゃない。菜緒葉ちゃんの恐怖は俺の恐怖でもある。同じ身体を共有しているのだから、彼女の心臓が跳ねれば俺の意識も揺さぶられるし、彼女の喉が引きつれば俺の声も詰まる。それに、菜緒葉ちゃんが五条に殺されようものなら、直哉は禪院家の中で本当にひとりぼっちになってしまう。甚爾くんのいない今、菜緒葉ちゃんまで死んだら、直哉は何を拠り所にして生きるんだろう。
だからまずは菜緒葉ちゃんに表に出てもらっている。前回は俺が喋って失敗したのだし、今回は菜緒葉ちゃんを出した方がいい。ただし五条の六眼の前で小細工は命取りだ。ゆえに「過剰な演技やキャラ作りはナシ、素でいけ」と厳命してある。
「菜緒葉、3ヶ月ぶり」
五条が鋭い表情で、しかし気安い挨拶を投げかけてきた。
『コ、コイツ……! 会うのが3回目の女の子を、早速下の名前で呼び捨てしましたわよ!? 昔のお見合いの時、私のことキモいとか言ってフッた癖に、どの口が言ってますの……!!』
(そういう呼び方とかをいちいち気にするのは内向的なオタクだけらしいよ……落ち着いて)
『くぅぅ……腹立たしいですわ……』
そんな、最後になるかもしれない気楽な脳内会話を交わした後、蝉時雨の中、菜緒葉ちゃんは一歩前に出た。少し引きつった、だがお嬢様としての精一杯の尊大な笑みを顔に貼り付けて、ゆっくりと口を開く。
ファイト、菜緒葉ちゃん!
「──で、五条。六眼に映る私のこの姿が、いかに見栄えの悪いものかは重々承知しておりますけれど。私達について、あなたには色々な誤解があると思いますのよ」
あえて「先輩」や「様」の敬称を外し、対等な立ち位置を主張する菜緒葉ちゃん。しかし五条は丸いサングラスを少しだけずらし、蒼い瞳でこちらをジロリと見下ろした。そして一切の配慮も遠慮もない、身も蓋もない言葉を投げつけてきた。
「まずさ。その喋り方が何? アニメの真似? それとも深夜テンションで作った中学2年生的なキャラ設定を引きずってんの?」
ブワッと。
俺の内部で、菜緒葉ちゃんの凄まじい羞恥心と怒りがマグマのように沸騰した。正真正銘素で出た演技ナシのお嬢様言葉を、初手で真正面から煽られまくったのだ。顔が一気に熱くなるのを、俺まで強く感じる。こっちは命懸けで交渉しようとしているのに、一言目がそれか。
菜緒葉ちゃんは、殺し合いの瀬戸際とは思えない駄々っ子のような声で叫び返した。
「ア、アニメじゃありませんわ!! お父様は私のこの喋り方をカワイイって言ってくれてますもの!!」
「うわぁキッッツ。直毘人の趣味ってそんな感じなんだ。まあ、オタクなのは察してたけど」
『ち、違っ……!! クソッ、この無神経男!! マコくん、ほんの一発だけ! 一発だけあのムカつく顔面を殴り飛ばしてもよろしくて!?』
(ストップストップ!! 殺されるから!! 交渉するって言ったのそっちでしょ!!)
流石に命懸けのシリアスシーンなので、生得領域内でもふざけたメイド服は脱いで制服に戻っているのだが、テンションは依然として完全にギャグモードだ。初っ端から予想外のとんでもなくダルいノリになってしまった。だがこれでいい。五条悟が俺の存在について他の家族にどの程度喋っているかは不明だが、結局のところ五条家なんて五条悟のオマケみたいなものだ。この理不尽な男さえ上手くコントロールできれば、俺たちの生存ルートはどうとでもなる。空気が柔らかくなって、油断してもらえたら好都合だ。
菜緒葉ちゃんは半ギレになりつつもそのまま色々と喋った。喋り倒した。用意してきた話を順番に並べた。「もうひとりの自分」である俺の魂が術式効果によって召喚されたこと(そういうカバーストーリーを五条に聞かせると事前に宣言された)。菜緒葉ちゃんにとって「もうひとり」は大親友で、6歳の頃から合意のうえで仲良く共生していること。大の苦手である男相手の社交は「もうひとり」が担当なこと。「もうひとり」の存在は禪院家では直哉しか知らないこと。一緒にこれまでに祓った呪霊の等級と数。禪院家の内部で潰してきた悪習の一覧。
しかし言葉を重ねれば重ねるほど、五条の表情はどんどん渋く険しくなってゆく。菜緒葉ちゃんの熱のこもった演説を一通り聞いた上で、彼は心底つまらなそうにため息をついた。
「ベラベラ喋るじゃねえか」
五条はサングラスを外してポケットにしまった。空気がピリッと張り詰め、明らかに戦闘態勢に入りかけているサインだ。
その一瞬だけで、蝉の声がその瞬間だけ遠のいたように感じた。
「待って五条。私、そんなにまずいことを言いました? もうひとりの私がどれだけ禪院家を改革してきたか! 私達の優秀さ、有益さ、それに私達がいかに無害な存在か、よーーーーく論理的に説明できてたと思うんですけれども!!」
「あー、もういい。ストップ」
五条は鬱陶しそうにひらひらと手を振った。
「その台本丸読みみたいな薄っぺらいプレゼン、聞いてるだけで頭痛くなってくんだわ。菜緒葉、オマエじゃ話にならない。……そっちのコズミック寄生虫野郎を出せ」
「コズミックぅ??」
菜緒葉ちゃんが素っ頓狂な声を上げる。
「オマエの言う『もうひとり』だよ」
五条のあまりの威圧感に、菜緒葉ちゃんが怯んだのがわかった。素早く俺が主導権を握り、身体の表層に浮上する。
「……はい、出ましたわ。何?」
不機嫌を隠さず睨み返すが、五条の蒼い瞳は俺の輪郭のさらに奥──魂の形そのものを暴くように細められた。
「大親友? 合意の共生? ──笑わせんなよ」
五条は心底反吐が出ると言わんばかりに吐き捨てた。
「6歳の何もわからない女の子に寄生して、10年かけて周辺環境まで都合よく作り変えて、そいつの人間関係まで乗っ取っておいて、『合意』? 随分と都合のいい言い訳だな」
えーっ。
……そんなことを言われましても。
俺だって好きで寄生した訳じゃない。
菜緒葉ちゃんの体に、菜緒葉ちゃんの記憶を共有した状態で、ある日突然前世の記憶を持って生まれ変わっただけだ。
不可抗力の事故みたいなものだ。
それに、あのままの禪院家は菜緒葉ちゃんにとってあまりにも酷い場所だった。俺の前世の記憶にアクセスして、現代日本の一般的な娯楽、そして禪院家のアレさを知ってしまった菜緒葉ちゃんが、禪院の男達との接触を嫌がるようになるのは当たり前のことだ。
俺は彼女を理不尽から守るために動いた。嫌なことは俺が代わって引き受けて、代わりに高専に上がって自由になってからは、ちゃんと菜緒葉ちゃんに体を譲って、彼女の人生を取り戻そうとしていて……。
自分なりの必死の抗弁を頭の中で必死に組み立てる。だが五条は、そんな内心の動揺をあざ笑うかのような一言を突きつけてきた。
「式神の分際でご主人サマの体を乗っ取って恥ずかしくねぇの」
……。
思考が、コンマ数秒だけ、完全に停止した。
「──俺、式神だったの?」
自分でも情けなくなるほど間の抜けた声が出た。
「はぁ? まさかとは思うけど、無自覚?」
五条の真っ青な瞳が、わずかに揺れる。
この男は今の今まで、俺が自分の正体を知らないという可能性を、検討の対象にすら入れていなかったのだ。
当たり前だ。呪力や術式の情報を視認する六眼には、主の体を乗っ取っている式神という異常な構図が、そのままの形でハッキリと見えていたのだろうから。
コイツの中での俺は、自分の正体が呪術的な産物であることを完全に承知の上で、意図的に無力な少女の中に居座り続ける狡猾で邪悪な何かだった。
五条が俺に対して敵対的な態度を取っているのは、術師として、いや人間として当たり前のことだったのだ。
俺はずっと、自分は禪院菜緒葉に転生したんだと思っていた。トラックに轢かれたわけでも神様に頼まれたわけでもないが、要するに前世の記憶を持ったまま別人の身体に入り込んだ、ネット小説にありがちな憑依転生の一例だと。
だが違った。つまり菜緒葉ちゃんは俺を誤魔化し続けていた。いや、深く考えれば手掛かりはいくらでもあったはずだ。お母様の術式──『予測』は『適応』の式神を伴っていたということ。菜緒葉ちゃんが呪詞で俺を眠らせられること。俺の術式が甚爾くんを人間として認識できなかったこと。すぐには思いつかないが、振り返れば他にも違和感は無数にあったかもしれない。
これまで信じて疑わなかった前提がガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
憑依転生。その甘美で都合のいい概念は、ただの自己都合の解釈にすぎなかった。
本当に菜緒葉ちゃんの術式の産物だという自覚があれば、ここまで気軽に菜緒葉ちゃんの体を使わなかった。俺は式神の癖に菜緒葉ちゃんの人生を食い潰していて、分業だと思ってしていたことは、五条の言うとおりに剥奪にすぎなかったのか?
「五条〜!! 折角その辺りを未来永劫回避してお喋りしようと頑張ってたのに、余計なこと言わないでくださる?」
菜緒葉ちゃんが怒る。五条は軽く肩をすくめる。
「言わないほうがよかった? ……いや、こういうのは遅かれ早かれだろ。隠す気でいたんなら正気を疑うんだけど」
この男は今、俺の存在の土台を吹き飛ばしたことに気づいた上で、気にしないことに決めた。だが、主張の内容自体は五条が正しい。
「なんで黙ってたの!」
声が裏返った。
ショックだった。
俺は人間じゃなかった。どうやら式神らしい。それもグロテスクでおぞましいコズミック寄生虫的なビジュアルだという。
「だって、ふつう式神に魂が宿って人格が生えると思わないでしょう! 私の感覚としては、諸事情あって式神を食べちゃって、それからしばらくしたらあなたがいたの! でもだからって、イコール術式効果の一部だっていう確証はなかったし、変に上下関係ができちゃったら気まずいし? そもそも、ちゃんとした魂まである現代日本人を真男佳みたいにしばけと? 知らない方が幸せだと思ったんですのよ!」
菜緒葉ちゃんの言い分はわかる。わかるが──。
「それは確かにありがたい気遣いだけど、じゃあ俺が持ってるこの人格とか、前世の記憶とかって一体何なの!? もしや、本作にありがちだと噂の『存在しない記憶』──?」
「それは違いますわ!禪院家音MADの愉快な記憶は? 初恋の桐原先輩との甘酸っぱいファーストキスは!? こんなディテールに富んだ記憶、どんな高度な術式だって捏造の余地なんてないでしょう!! 少なくともそういう機能があるってことは私も把握してません!!」
パニックに陥る俺の意識の底で、菜緒葉ちゃんの切羽詰まった声が響く──いや、違う。現実に、口から両方の声が交互に飛び出していた。
完全にヤバい二重人格の危ない奴みたいになっている。
すー、はー、と大きく深呼吸をする。
菜緒葉ちゃんが?
いや、俺がだ。
混乱の極みの中、菜緒葉ちゃんが強引に口を動かす。
「──五条。そういうことですわ。彼はなんの悪気もないの。選べるなら普通の術師の温かい家とか、御三家ならせめてあなたの五条家みたいな比較的マシな場所にやって来れれば幸せだっただろうに、運悪く禪院家なんていうアレな家にやって来ちゃった、ただの不幸な人なのよ!!」
「へえ」
五条は胡乱げな顔で肩を竦めた。
「要するに、見た目がクソキモいだけのいい奴だと」
「そうそう、そうですの! 五条、あなたって案外話せばわかる人なのね! ……えっ。俺、そんなにキモいの?」
「キモいよ。で、暴走もしてるよな」
「暴走って何のこと? ……ああ。そういえば呪詞は最近効かないけど、別に困ってませんわよ? むしろ安心しているの。対等な親友に対して、無理やり命令を聞かせる呪詞を使うなんて不道徳だっていう自覚はありましたので!」
寝耳に水な暴走の件について、菜緒葉ちゃんが必死に答えてくれたが──どう考えてもそれは愚策だ。俺が五条ならガチギレする。
俺は俺が何者なのだかよくわかってなくて、菜緒葉ちゃんもわかっていない。俺には暴走の自覚がない。そして菜緒葉ちゃんは、俺を制御する手段を持っていない。つまり、菜緒葉ちゃんの体の安全や今後の人生は、俺の理性と倫理観という、極めて不確かなものに依存していることになる。
それを部外者が聞いて「じゃあ安心だな! あとはよろしく頼むぜ⭐︎」と納得するかといえば、確実にノーだ。
自分の正体すら認識していないポンコツをイマジナリーフレンドに仕立て上げ、安全装置を放棄してしまった可哀想な妄想少女だと菜緒葉ちゃんが憐れまれて終わりだろう。
いや、もっと最悪のシナリオもある。
たとえば、菜緒葉ちゃんごと殺されるとか。お尋ね者にされるとか。
案の定五条は鼻で笑った。
「言い訳すんなよ半端術師。術者が式神の手綱をマトモに握れてねえなんてのは、どう理由を取り繕っても間抜けの所業だろ」
「それは……」
「オマエの言うことは何一つ信用ならねぇよ、菜緒葉」
「……」
「結構やる術師だってことは知ってる。禪院家の至宝とか言われてるのもな。その上で、全部どうでもいい。問題は中身を乗っ取られて、それを親にも気にされてないことだ。そもそも、オマエが男と喋んのが下手って所から既に大嘘だろうが。現在進行形で俺と普通に喋れてるだろ。アニサキス式神に都合のいい洗脳でもされてんの?」
「……」
「歌姫に聞いたんだけど、オマエ、反転術式が超上手いんだって? なら、一旦脳みそ吹っ飛ばして冷静にしてやっても問題ないよな?」
背骨に沿って氷を落とし込まれたような感覚がした。五条は冗談で言ってない。この男の中では、それは治療のプロセスの一つとして真面目に検討されている。壊してから治せばいい。治せる見込みがあるなら壊してもいい。
そして俺にとって最も痛かったのは、五条の指摘が決して完全な的外れではなかったことだった。菜緒葉ちゃんは男嫌いだが、別に全く話せない訳じゃない。サボって俺に交流を投げていただけとも言える。こういう場合、どういう行動が正解なのかは俺にはまだわかっていない。「菜緒葉ちゃんが外に出たくなる環境を整えれば大丈夫」なんて思考をせずに、菜緒葉ちゃんを強引にでも禪院の男の前に出した方が、彼女のためには良かったんだろうか。
しかし、口がひとりでに動いた。
俺の思考を置き去りにして、菜緒葉ちゃんが堂々と五条を見据えて言った。
「さっきから聞いていれば、現代最強の特級呪術師様が聞いて呆れる。まるで非術師家庭の生まれの子みたいな甘ったれたことを仰いますのね」
「は?」
「現行の社会において、呪術師は呪霊を祓うためだけに存在しています。それさえ果たしていれば、大抵の非道は許される。事によっては殺人も隠蔽できる身分でしょう。人格なんてどうでもいいのよ? なら、悪いことなんか何一つしていない私の中身がどうであれ、意味はあるのでしょうか」
いつもの高圧的な声で、しかし彼女は俺を庇うために必死で言葉を紡いでいる。その不遜さのほとんどは痩せ我慢だろうし、言葉の内容に至ってはひたすら彼女自身の価値を貶めるものだった。恐ろしいのは、彼女の声が本気に聞こえることだった。少なくとも直哉は「禪院菜緒葉」の中身に滅茶苦茶興味を持っている。あいつが聞いていなくて本当によかった。あいつが聞いたら、きっと俺と同じくらいに傷つく。
「呪術師が呪いを祓う機能であるように、禪院家における〈女〉も機能です。跡取りを産む機能。他家との縁を繋ぐ機能。座敷で微笑んで、お酌をして、褒められる機能。……私という人間が誰から見ても成立しているのなら、中身は私でなくても構わないのではなくて? 現に直哉と甚爾くん以外の禪院の人間は、誰も私達のことに気づきませんでしたわ」
こんなことを言わせるために俺は頑張った訳じゃない。五条の野郎、菜緒葉ちゃんに何言わせるんだ。──いや、俺か。俺が悪いのか。
菜緒葉ちゃんと話せるようになってすぐの頃、言っていたことを思い出す。「あなたは私より優秀な『禪院の女』として振る舞った、だから元に戻ってももう意味がない」。そんな話。菜緒葉ちゃんは立ち直って、その考えはとっくに撤回されたとばかり思っていた。でも、本当は──。
風が強い。日差しが暑い。
蝉の声がうるさい。
もうやめてくれ。
菜緒葉ちゃん。
そんな嫌な言い方は。こんな話を聞いて楽しそうに、まるで同族でも見るような顔をして笑うのは羂索くらいだ。
そう言いたい。けれども声すら上げられない。
五条を前にしたこの状況で、菜緒葉ちゃんに何を言えば正解なのかがわからない。「そんなことない、菜緒葉ちゃんの人生は機能なんかじゃない」と言いたいが──言う資格があるのか? その人生を奪ったのが俺だと、五条に言われてしまったのに?
「じゃあ菜緒葉オマエ、たとえばもしも式神が気持ち悪いオッサンと結婚するって決めたら、するのか?」
「するに決まっているでしょう」
菜緒葉ちゃんは即答した。
「──〈女〉を装いながら禪院家を改革するには、私という人格は不適格でした。幸いもっとよくできる人が私の中にいましたから、任せたんですの。それだけのお話ですわ。
五条はもう、心底わからないという顔をしていた。俺達を嘲ってはいなかった。怒ってもいなかった。ただ純粋に、聞き取った言語の意味を処理したくないという顔だった。
この男は禪院家がどういう場所かを知らない訳じゃない。むしろよく知っているはずだ。禪院家の旧弊は業界ではよく知られている。だから五条は、檻の囚人が看守を弁護し始めたことに驚いているのだろう。
「マジで言ってんの? 賢いつもりでペラペラ喋ってるけど、要するに『家のために自分を捨てて寄生虫に人生投げ出しました』って言ってるだけじゃん。『人格なんてどうでもいい』? 『誰も困ってなかった』? ……マジで一度脳みそ吹き飛ばして、目を覚まさせてやった方がいい?」
「だから、何度も言った通り寄生虫じゃなくて友達なんですってば」
「社会の役に立ってれば寄生虫じゃないと。ふーん。で? そもそもそこまでして家を改革する必要ってある?」
「……はい?」
喉の奥から呆然と菜緒葉ちゃんの声が漏れる。
言うまでもなく、改革はする必要があるに決まっている。
立場の強い男の機嫌によって、女が殺されるような家なんだから。
俺はあの日以来、甚爾くん以外の禪院の大人の男を完全に信頼できたことがない。好きな相手でも大事な人でも、最後の最後で価値観の違いが出るかもしれない。出涸らし時代の虐待に片足突っ込んだ扱いの菜緒葉ちゃんですら、まだマシな待遇。それが禪院家の女の位置だ。
そしてそれが何を意味するのかは、五条みたいな奴には言ってもわからないだろう。小さい頃から大切にされてきたんだから。
「まだガキなのに、クソみたいな家のためにそこまで人生犠牲にする必要あるのかっつってんだよ。……普通に生きればいい話じゃん」
そう言う五条は心底嫌そうだった。それでいて、人間じゃないみたいに超然として見えた。あるいは五条こそが人間で、俺が人間未満なだけか。
でも──。
その言葉に、菜緒葉ちゃんが初めて本当に崩れた。
「普通って何? 私達の人生に『普通』なんてないんですけど! お姉様がいなくなって、甚爾くんが殺し屋なんかになっちゃった時点で、普通なんてあり得ないの! 甚爾くんがあなたに殺されたせいで、もっとあり得なくなった!! だから私は普通なんか要らない! 普通に生きたかったのはあなたが殺した甚爾くんの方だったはずなのに、なんで今更いい人みたいなフリをして私達まで追い詰めるのよ!!」
捲し立てるように叫ぶ。少し泣く。彼女の目に光がなくなるのを内側から生々しく感じる。
それなのに、五条は「甚爾くん」という名前に微かに反応した以外は、眉間を指で押さえて、心底面倒くさそうに息を吐いただけだった。
「……は? そんな抽象的な、非術師っぽい『普通』の幸せの話なんかしてねぇけど」
「……え」
「式神の寄生ナシじゃ生き延びられないし改革とやらもままならないその変な家を出て、東京来いって話。転入の書類くらい俺が通すし」
蝉時雨が音量を取り戻した気がした。
菜緒葉ちゃんの中で、何かが空回りしている。全力で振り抜いた腕が、何もない空間を切った時の感覚。彼女がたった今、命を削る思いで叩き返した球は、そもそも投げられてすらいなかった。
「……何を、仰って……禪院家が、そんなこと許すわけが」
「許可いる? あの家が文句言ってきたら俺が行くけど。それで解決じゃね」
あまりにもあっさりとした声だった。
五条の顔はまるで面倒な計算を打ち切るときのようだった。
「──それとも、俺が潰してやろうか?」
空気が止まった。
蝉が鳴いている。日が照っている。木漏れ日が揺れている。
なのに音がしない。
「……」
「別に難しくねぇよ。伏黒甚爾は別として、オマエんちが俺に勝ったことなんか1回もないだろ」
軽い。あまりにも軽い。
この神様みたいな男は、菜緒葉ちゃんと俺の泥にまみれた日々を一瞬で片付けられる簡単な仕事だと宣言し、見下した。事実そうなのだ。禪院家は五条悟に勝てない。
とはいえ俺は気にしなかった。五条はまだ子供だからそういうお気楽なことを言えるだけだ。もっと大人になれば色々な人と関わって、力だけでは解決できない何かに出会う。
だけど、同時に俺は感じてしまった。
菜緒葉ちゃんの心拍が跳ねた。恐怖のせいじゃない。
同じ身体を共有しているから、誤魔化しようもなくわかった。
半秒。ほんの半秒だけ、甚爾くんや、未来の真希ちゃんが作り出した景色を思い出して──彼女は
膝が震える。立っていられなくなる。その場に座り込む。五条にも聞こえないような小さな囁きが、甘く口の中でだけ零れる。
「……ねえ、マコくん。やっぱり五条、やっつけちゃおっか」
菜緒葉ちゃんの声が聞こえた。絶望と怒りにひび割れた声だった。そうしなければ禪院家には二度と帰れないし、直哉とも会えないのだとでも言いたげな声だった。
「いいの? 五条を敵に回したら、本当に後戻りできなくなる。俺は別に全然いいんだけど、アイツは菜緒葉ちゃんを……」
救おうとしている。それだけは間違いなかった。
「もう、いいの。やっぱり、あなたの言う通りだったのね。言葉を交わして戦闘を避けられるなんて……そんなの、ただの滑稽な幻想でしたわ」
ふふ、と。乾いた、ひび割れたような笑い声が響く。
「ねえ、体を代わってあげる。私の全部をあげるから、『禪院菜緒葉』の誇りにかけて、絶対に五条をやっつけて。甚爾くんの仇を討って。私の夢を叶えて……呪術界をぶっ壊して、全人類をかわいくして。あと、直哉にはごめんねって言っておいて。私の大事な人を、あなたも大事にしてくれてるのはわかってるけど……」
菜緒葉ちゃんの囁きの温度は明らかにおかしかった。
底知れぬ絶望の果てで唐突に極性が反転したかのように、妙にふんわりとした、背筋が凍るような異様なハイテンションへと切り替わっていた。狂気という名の逃避。正気を保つための、最後の自己防衛機能だったのかもしれない。
「菜緒葉ちゃん。待って──」
「じゃあ、私のぜんぶ、マコくんにあげちゃう。大事にしてね♡」
ほとんど聴き取れない位に小さく、甘ったるい声音。
でも、そこに感情の温度は一切なかった。ただ記号としての可愛い女の子の皮を被った、空虚なひび割れの音がした。
その言葉を最後に、菜緒葉ちゃんの気配が、俺の中からスッと消えた。
「………………え?」
何が起きたのか、脳が処理を拒否している。
「……菜緒葉ちゃん?」
俺は意識の奥底に向かって呼びかけた。返事はない。いつもなら冗談や下らないオタクトークがすぐに返ってくるはずの空間が、鼓膜が痛くなるほどの、恐ろしい静寂に包まれている。
慌てて意識を内側へ、生得領域へと沈め込もうとする。
……入れない。
転生した当初の、呪霊食もあまりしていなかった頃と同じだ。
菜緒葉ちゃんが閉じこもって、動かなくなっているのだけを感じる。
どうやって起こす?
俺がいなきゃダメだと思っていた。俺が彼女を守っているのだと。
でも違った。俺は彼女の精神という土壌に根を張っていただけの寄生虫で、それなのに菜緒葉ちゃんを犠牲にしてしまった。
どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。
どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう。
彼女の意識の完全な沈下と反比例するように、この身体に巡る呪力が、異常な熱を帯びて爆発的に膨張し始めていた。
リミッターが外れたのだ。
おそらくは縛りだ。菜緒葉ちゃんの中の何かを犠牲にした縛り。
だが、湧き上がる力に高揚感なんて欠片もない。ただただおぞましかった。これは菜緒葉ちゃんを燃やして生まれる熱かもしれない。彼女が俺に、人生も魂の行き場も、全てを丸投げして壊れてしまった明確な証明だった。
全ては6歳の時に戻った。
あの時はがむしゃらに頑張った。
でも今度は、どうすれば彼女を起こせるかもわからない。
「菜緒葉?! ……おい、式神! 何をした?!」
木立の向こうで、五条が鋭く声を上げた。
その顔には先程までの余裕や苛立ちはなく、明確な焦燥が張り付いていた。六眼を通して、彼にはこの身体の中で何が起きたのかがはっきりと見えたのだろう。菜緒葉ちゃんの魂が沈められ、式神が完全に肉体を掌握した瞬間が。
つまり、こいつの見立てが正しかったということだ。寄生。乗っ取り。10年かけて周辺環境まで作り変えて、最後に中身を追い出した何か。
それが俺だ。
彼は本気で菜緒葉ちゃんを心配していた。
でも、俺から見ると全部コイツのせいだった。
甚爾くんも菜緒葉ちゃんもコイツに奪われた。
いや、違う。やっぱり俺が菜緒葉ちゃんを壊した。
自分が何者なのか、何のためにここにいるのかすら霧散していく。
彼女はもう戻らないかもしれない。もう何もかもが取り返しがつかない。全部、全部──。
なら、せめて。
彼女が最後に残した願いだけは、この空っぽの身体で叶えなければならない。目の前で引き金を引いたこの男を、旧き呪術界の象徴として。
「──ぶっ潰してやるよ、クソガキ」
口をついて出たのは、濁りきった呪詛だけだった。
俺の殺気を受け止め、五条の表情から一切の動揺が消え失せる。
六眼が輝く。狩りの前の獣が姿勢を整えるように、肩の力を抜き、首を軽く傾げると、五条はその身に圧倒的な呪力を練り上げた。
「……あぁ、そうかよ」
蝉の声が完全に止む。周囲の空気が歪み、軋むような音が響く。木立の葉が五条の呪力の余波で千切れ飛び、下生えが吹き飛ばされる。
「菜緒葉のことは、オマエをどうにかしてから考える」
五条ははっきりとそう言った。