音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
ストックホルム症候群のようになっている禪院菜緒葉をどうにかしようとしたつもりだった。しかし下手を打った。救おうとした少女は寄生虫を庇い続け、その寄生虫に魂を沈められ、喰われてしまった。自分が何かを間違えたせいだ。そこまでは五条にもわかる。何を間違えたのかだけがまるでわからない。
わかるのは目に映るものだけだ。
少女の皮を被った式神は、呪力量と出力については五条よりも格上に化けた。
それが縛りの結果だということに五条は全く気がついていない。だから、これこそが式神の本気なのだと判定した。
眼前に輝く、細長い紐状の呪力の塊。その最小単位は端と端が完璧に結合して虚無を囲んだ輪。輪が絡み、絡んだ輪がまた別の輪と絡み、どこを掴んでも必ず他の全部と繋がっている。一本を引けば絡んだ相手が引かれ、その相手に絡んだ一本がまた引かれて、連鎖は末端まで伝播して止まらない。切ったところで、切断面がそのまま新しい端になって別の輪と繋がるだけだろう。隙間がない。ほどけない輪だけで、空間が余さず埋め尽くされている。
前に読んだ数学の本に似た図があった。三次元の球面を、互いにちょうど一度ずつ絡み合う無数の円で完全に分割する話。たしか、ホップ・ファイブレーションという名前。
美しい図だと思った記憶がある。
それが今、薄皮一枚の下でヒト型に収まり、殺意のままに蠕動しながら無尽蔵の呪力を湛えている。
ひとつ次元の違う怪物の姿は冒涜的だと思えた。何に対する冒涜なのかは自分でもよくわからなかった。
3ヶ月ぶり、人生二度目の敗北。
その可能性さえごく自然に脳裏をよぎる。
そして、それはそのまま充足だった。
絶対的な強者。それゆえの孤独。
それを埋め合わせるのは──。
──だが、五条は菜緒葉を殺す気はない。
暴走した式神が名門出身の呪術師の肉体を乗っ取り、一見すると完璧な社会生活を送っている──この前代未聞の事例に直面した五条は、まず親友に相談を持ちかけていた。もちろん固有名詞は出していないし、「仮にそういう呪霊の事例があったとしたら」という体裁は保った。菜緒葉の呪術師としてのキャリアや生命に関わる重大事だからという理由もあったが、何より彼女が禪院家の人間だからだ。
伏黒甚爾に敗北し、守るべきものを目の前で理不尽に奪われたばかりの夏油の心の傷は、五条のそれよりも圧倒的に深い。だから伏せた。伏せることが配慮だと思った。
しかし、一通りの状況を話し終えた後の夏油の第一声は五条にとっては思いもよらぬ角度からのものだった。
「家族は相当悩んでいるだろうね」
虚を突かれたような思いだった。
五条が最優先で考えていたのは、式神の摘出方法と、自分が子供の頃にこの問題を解決できなかったことへの据わりの悪さだ。家族の心配については半ば考慮の外だった。呪霊による憑依の事例だと、宿主を人質にとって兄弟を幼少期からマインドコントロールすることもあるので、直哉についてはなんとも言えないが、直毘人については当然気づいていないだろうと踏んでいた。
「……いや、親は全く気づいてないっぽい」
「全く?」
「うん」
「娘に興味ないんだ。そういう家だから付け込まれたんじゃないか?」
娘の中に6歳のときに別のモノが入り込んで、およそ10年放置されている家──これは夏油の理解の埒外にあるようだった。
元々最悪だった禪院家への印象は夏油のこの一言でさらに底を抜けた。伏黒甚爾がどうして呪術界に害をなす存在になったのかを想像できる程度には、五条は禪院家を知っている。そして、親が何もしない──いや、する気すらないのであれば、赤の他人の自分が代わりにやるしかないと思った。五条の中でひとつの明確な結論が下された瞬間だった。
五条は他にも、彼なりの情報収集を行っていた。禪院菜緒葉とも自分とも交流があり、呪術界の利害関係とは無縁で、なおかつ人格面で信用のおける呪術師が身近にいる。庵歌姫だ。
歌姫は五条の中では明確に「弱っちい雑魚」の分類に入るが、人格面ではかなり高く買っている。五条にとっては気の置けない先輩だった。
(なお、歌姫の側からはデリカシーのないカスと認定されて毛嫌いされているが、一切自覚していない)
『はぁ? 菜緒葉について聞きたい??』
電話口の歌姫は初手から不機嫌全開だった。
『言っとくけど、アンタが前に言ってたような怖い子じゃなかったからね!』
「実際どうだったんだよ」
『すごく優秀で、反転術式が上手で、アンタと違って礼儀正しいわよ。ちょっとは見習ったら?』
「だから、そういう表面的なことじゃなくて、性格。素の態度はどうなんだって聞いてんの」
五条が食い下がると歌姫は少しだけ声のトーンを落とし、思い返すように語り始めた。
『……普段は如才ないというか、大人びてるんだけど。気を許すと一気に普通の女の子っぽくなる感じね。人を揶揄うのが好きな癖に、不器用で』
──五条は確信した。前者が式神の完璧な擬態で、後者が本当の菜緒葉だ。
『女子高生になったらやりたいことリストを作ってるのを見せてもらったわ。かわいいでしょ?』
「やりたいこと?」
『そうそう。カラオケに行く、プリクラを撮る、術師の友達と外食に行く、あとなんだっけ……缶ジュース買って歩きながら飲む、とか。そういうの。だからこの間ね、博多での任務の帰りにラーメン屋に連れて行ったのよ』
「うん」
『そしたらあの子、嬉し泣きし始めたのよね。ラーメンは音を立てるから女の子が食べるような物じゃないとか言われて、前の博多任務の時に親戚に頼んだら冷たく断られたんだって。あの家大丈夫?』
五条は表情が固まるのを自覚した。
「……は?」
五条家が緩い家だったかと言えば、そんなことはない。小さい頃は食事の内容も就寝の時刻も会う人間も、全部誰かの裁量で決められていた。同年代の友人はいなかった。兄弟もいなかった。高専に来るまで、対等に喋った同年代の人間はゼロだ。
それでも五条はしょっちゅう抜け出して遊びに行っていた。たとえば使用人の目を盗んで抜け出して駄菓子屋に行き、10円ガムを買って、ベンチに座って食って帰る。見つかれば小言を言われた。小言を言われるだけだった。彼が抜け出すことを、周囲の大人は完全には防がなかったし、防げるとも思っていなかった。
つまり五条にとって窮屈さとは常に破れる種類のものだった。それに対して菜緒葉はどうだ。身動きひとつ取れない檻の中で、その状態のまま1級呪術師にまでさせられている。
自分が「気持ち悪い」とだけ思って放置している間に菜緒葉の精神は少しずつ削られ、その隙を突いて式神が肉体を完全に乗っ取った。そしてその式神はとても社交的で、禪院家という異常な環境の中で完璧なご令嬢として振る舞っている。
その時点で、今回の事件は五条の中で自分の過去の失態の後始末以外の何物でもなくなった。
この件を高専の正規のルートに乗せると何が起きるか、五条にはわかっている。御三家の術師の身体が何かに乗っ取られていて、しかもそいつは呪霊食で異常成長している。総監部に上げれば、処分の対象だ。そこで五条は内密にふたつの方法を模索していた。
1つは硝子に手伝ってもらって摘出手術を行うという手だ。反転術式の使い手が横についていれば、多少乱暴に開いても後から閉じられる。理論上は成立する。五条は実際に硝子のところへ行き、名前を伏せたまま条件だけを並べて、可能かどうかを尋ねた。
硝子の返事は「見てみないと何とも言えないけど、摘出は難しいかも」だった。
そこで考えた2つ目の方法が、肉体を死ぬ寸前まで弱らせて式神の支配を弱め、少女と式神の呪力波長の同調率を強制的に鈍らせて引き剥がすという、極めて乱暴な手段だった。ただし、弱った宿主が救いを求めて協力的であれば、もう少し穏やかな方法を取れるかもしれない。
実際には宿主の心は式神に囚われていたため、条件は当初の想定より大幅に悪くなった。だが、菜緒葉はまだ完全に消えた訳ではない。六眼で見ればわかる。その魂が沈んでいるなら浮かせればいいだけだ。
式神を切り離し、宿主の少女を助け、それからもう一度きちんと話す。
──そう決めたとき、自分の口の端が持ち上がっていることに、五条は気づかなかった。
◇
生きていると許せない相手ばかり増える。
一番許せないのが自分。それから勝手に死にやがった甚爾くん。
あとは菜緒葉ちゃんだ。
こんなこと頼んでない。いつからこんなこと考えてたんだ。
本当に許せない。
菜緒葉ちゃんは嘘つきだし勝手だ。突如自分を投げ出して、周りがどう思うかなんて少しも考えていないんだろう。本当に最悪だ。
甚爾くんも勝手だった。
大好きで大切でずっといたくて、彼のためなら何でもするつもりだったのに、全部無視。相談なんか一言もせずに俺達を置いて行った。
いや、俺がもっと2人の話を聞けばよかったし、全部話してもらえる人になれればよかったし、もっと頑張ればよかったんだけど。
だからもっと頑張ろう。
もっと強くならなくちゃ。
もっと。もっと。もっと。もっと。もっと。もっと。もっと。もっと。もっと。もっと。もっと。もっと。もっと。もっと!
もっと強くなれば、この焦燥は消えるだろうか。
どこまで強くなれば、痛みは消えるだろうか。
その答えは目の前にある。
そしてそいつに甚爾くんがどうやって殺されたかは、現代最強の完成という英雄譚とともに語り草になっている。そのことについて考えながら、劈くような絶叫が口から飛び出す。
「『茈』を使えよ、甚爾くんのときみたいに! それも含めて叩き潰してやるからよ!」
痛かったはずだ。甚爾くんは。
だけど俺達と直哉と甚爾くんの今の奥さんくらいしか、そんなことには興味がなかった。甚爾くんが星漿体を殺した人殺しのカスだからだ。でも、五条だってどうせ、星漿体を天元様に取り込ませて死なせる気だったんじゃないのか? 入学前に『炳』で色々な経験をして実感したけど、大抵の人が人を殺さないで済んでるのは、力が足りないか単なるラッキーかのどっちかだ。許されない悪事なのはわかっているけど、それでも!
……恨ませて欲しい。
甚爾くんを悼ませて欲しい。
アイツと同じくらいの痛みを感じたい。
そのうえで、全部の仕返しをしたい。
菜緒葉ちゃんの縛りによって身体から溢れ出す、本来の出力限界をとうに超えた呪力が足元の腐葉土を爆発的に吹き飛ばす。蝉時雨すら完全に掻き消す、すさまじい呪力爆発の推進力。その理不尽な加速に乗せ、俺は真っ直ぐに五条悟の顔面へと右拳を叩き込んだ。
「使える訳ねぇだろバカ式神!これ交流戦だぞ!!」
五条が毒づきながら、間一髪で首を逸らした。拳は五条の頬を掠め、しかし確かな肉の感触を伴って、彼の背後にある大樹の幹を爆砕する。木片が驟雨のように降り注ぐ中、五条の蒼い瞳がこれまでに見せたことのない驚愕に見開かれるのがわかった。
「……ッ、なんだコレ。……俺の術式が、中和されてる……!?」
俺は展延を纏ったまま、休むことなく怒涛の連撃を放つ。右、左、回し蹴り。踏み込みのたびに腐葉土がめくれ、湿った土の匂いが跳ね上がる。
「ああクソッ! オマエさえいなければッ!!」
「……」
これは本音だ。
本音じゃなきゃいけない。
──悟くんに対抗するために、今度は菜緒葉ちゃんにどんな強引な縛りを結ばせるんや?
少し気を抜いた瞬間に、直哉の言葉を思い出す。思い出したら進めなくなる。自分がクソだっていうことを思い出してしまう。直哉はいつだって、意外に正しいことを言う。本当はとても聡い子で、物事の本質を見抜いている。俺と違って。直哉は俺が寄生虫だっていうことを知っていたんだろうか。考えるだけで辛い。俺は直哉をどれだけ嫌な目に遭わせれば気が済むんだろう。
本当は俺が菜緒葉ちゃんのために全部を差し出さなくちゃいけなかったのにな。
どうすればよかったんだろうな。
五条の周囲に展開されているはずの無限は、展延の空っぽの領域と接触するたびに相殺され、俺の打撃は確実に五条の肉体へと届いていた。しかし、相手は六眼を持つ最強の天才。初見の技術に対する驚きを見せたのは一瞬だけだ。即座に展延の性質を理解し、体術による苛烈な迎撃へとシフトした。
息詰まる攻防の末、鈍い衝撃音と共に肋骨が軋む。五条の裏拳が俺の脇腹を正確に捉えた。それもただの打撃じゃない。殴られた瞬間、俺の身体は本来吹き飛ぶはずの方向とは逆──五条の拳の内側へと、不自然に吸い寄せられたのだ。
「ガハッ……!」
体勢が大きく崩れる。重力が一瞬だけバグを起こしたような、強烈な吸引力。内臓が引っ張られ、脳が揺れるような嫌な感覚の直後、バランスを崩した顔面に、五条の容赦ない膝蹴りが叩き込まれ、鼻が折れる痛みを感じる。視界の中心に白い光が散って、口の中に鉄の味が広がった。
「……なるほどね。中和されるなら、中和しきれない出力で押し潰せばいい」
五条は笑っている。
口から血を吐き出しながら、俺は反転術式を回した。
間違いない。コイツは打撃の瞬間に『蒼』を拳の表面に纏わせている。殴るという物理的ベクトルのなかに、空間を引き寄せるベクトルを混ぜ込んでいるのだ。だから打撃の反動が相殺されるどころか、殴られたこちらの身体が吸い寄せられ、致命的な隙を晒すことになる。展延で中和していなければダメージはこの比ではなかったはずだ。
いっそ『グラニュラー・シンセシス』を使うか?
極小の刃を数万単位で顕現させ、全身の表面わずか数ミリの空間へと這わせ、高速回転させる。そこに世界を断つ斬撃の性質を混ぜ込めば、無下限の突破は可能だ。拳が五条に届く。
……いや、駄目だ。
ギリリと奥歯を噛み締め、誘惑をねじ伏せる。この程度ならまだ、展延と反転術式で問題なく凌げるはずだ。五条には菜緒葉ちゃんの術式──俺という式神が見えている。だが、俺自身の持つ式神の術式はおそらく見えていない。小さい頃のお見合いの時に話した、斬った物を『美味しく』できるというところまでしか知らないはずだ。つまり、俺が五条の無下限を突破し、確実にダメージを与えられるという情報のアドバンテージこそが、現状における俺の最大の有利だ。『赫』か『茈』という手札を向こうが切るまでは、こちらも極力術式は温存しておきたい。
だが、純粋な体術で言えば五条が断然上だ。呪力出力の底上げのおかげで表面上は互角の勝負ができているが、五条の体格は日本人には珍しいほどの長躯なのに、こちらは平均よりも小柄な少女にすぎない。
五条は流れるような連撃を叩き込んでくる。掌底、肘打ち、そして変則的な蹴り。そのすべてに『蒼』の引力が薄く乗せられており、捌くたびに体勢を崩されそうになる。
リーチ差と、おそらく数倍はある素の筋力差が絶望的に重い。こちらは泥臭く地面を転がり、足元の土砂を蹴り上げて目くらましにしながら、泥試合に持ち込むしかなかった。
ずるい。才能の差が。体格の差が。鮮やかすぎる程にわかる。
ずるしてるのはむしろこっちなのに、菜緒葉ちゃんを乗っ取った最悪の化け物を相手にしているのに、どうして五条は遊んでいるみたいな顔をするんだろう。
「オマエさ、」
五条が距離を取ろうとしながら言った。
「その技誰に習った? 領域展延なんて本でしか読んだことねぇんだけど」
「……」
答えられる訳がない。答える代わりに俺は指を五条の目に突っ込もうとした。
「うわキッタネ!!」
五条がまるで子供のような態度で心底楽しそうに叫んで、上体を捻る。指先が瞼を掠め、爪が眉の上を裂いた。血が五条の白い睫毛を赤く濡らす。返す手で顎を掴もうとしたが、そこには既にいない。
「交流戦は人殺し以外アリっつったって、目ぇ狙うヤツいる? やば」
「……ルールブックに、目潰し禁止って書いてあったか?」
「書いてねーけどさぁ!」
右膝が飛んでくる。腕でブロックする。骨が軋む。そしてその次の攻撃。鳩尾に拳がめり込んで、胃液が逆流した。
立ち上がる。反転術式を行使する。折れた肋骨が繋がる。
──痛みと後悔に溺れている場合ではない。『菜切り包丁』では五条悟の肉はどう頑張っても1ミリも斬れない。だから俺の目的は単純なダメージレースでの勝利ではなく、五条悟に領域展開の手札を切らせることだ。
五条は既に領域展開を習得している。俺と直哉が領域展開を覚えた後、1年後くらいの頃に何やら話題になっていた。お父様が散々五条家にマウントを取った後の出来事なので、対抗心での習得かもしれない。
そしてどれだけ規格外の呪術師でも、領域展開の直後には必ず術式の焼き切れが起きる。無下限呪術という絶対の防御が剥がれ落ち肉体的な疲労もピークに達したタイミング、そこが『定名綴魂』を撃ち込むチャンスだ。今の呪力量かつ五条が術式を使えない状態なら、かつて扇のおじさまに対してそうしたよりも強制力の強い術式行使が可能になる。完全な洗脳さえ実現できるかもしれない。
菜緒葉ちゃんの体で人殺しなんてしたくない。
それに、死ぬより嫌なことは世の中にいくらでもある。たとえば俺自身が今まさに味わっている感覚は、自分がもう死ぬって前世に理解した瞬間もよりさらに最悪だった。これを強者に噛み締めさせる側に回るのは、中々悪くないかもしれない。
が、問題はどうやって五条に領域を展開させるか、そして展開された領域をどうやって凌ぐかだ。俺は五条の領域の正確な仕様を知らない。音MADやネットのクソコラの断片的な情報しか持っていない俺にとって、それは「なんかヤバい必中効果がある最強の領域」という程度の認識でしかなかった。だが、恐れることはない。
領域の必中効果自体は展延で中和し続けるか、あるいは『彌虚葛籠』でやり過ごせるはずだ。
戦いながら、五条の領域を誘発する方法を考える。
三段フェイントを入れてから、肘で五条の膝頭を潰す。骨と骨がぶつかる嫌な音。五条の体勢が初めて崩れた。そのまま右手で襟を、左手で肘を掴む。掴めた。展延を纏った俺の手は五条の無下限の内側にある。
巴投げ。
俺は背中から腐葉土に倒れ込み、腹に足を差し込んで、五条の身体を上へ放り投げた。呪力放出を組み込んで、五条をそのまま遠くへ吹き飛ばす。
だが、五条は空中で笑った。
「──『蒼』」
パキッ、と空間そのものがガラスのように砕ける音が響いた。直後、身体を四方から凄まじい力が襲った。前、後、左、右。同時に発生した『蒼』──すなわち空間の強力な引き込み作用が、俺という存在の中心座標を引き裂こうとする。
一つの巨大な引力ではない。まるで複数のブラックホールに、四肢と胴体をそれぞれ別の方向へ全力で引っ張られるような絶望的な感覚。
交流戦だから手加減をして大技を避けるようなことを言っていたが、手加減してこれかよ。やっぱり五条は信用ならない。
仕方ない。
なるべく温存する気だった手札を早々に切ることに決める。
領域展延から『菜切り包丁』への、完全には滑らかになりきらない切り替えのほんのコンマ数秒。身体が凄惨な悲鳴を上げる。関節が外れかけ、筋肉の繊維がブチブチと断裂していく音が体内から響き渡る。
だが、間に合った。
──『グラニュラー・シンセシス』、発動。
さらにその刃で四方の『蒼』を
俺の術式は生きた人間を斬れない。だが、呪力は斬れる。術式効果は斬れる。五条が纏っているものは全部俺の食材だ。
『グラニュラー・シンセシス』による世界を断つ数万の刃。そこに、五条自身の『蒼』の引力ベクトルを反転・同調させて上乗せする。
四方から迫る『蒼』の空間歪曲を、あえて波のように利用し、その破壊力を指先に集約、撃ち返す。
『蒼』対『蒼』。
五条と俺の間に横たわる無限。本来なら絶対に届かないはずのアキレスと亀のパラドックス。だが、世界を断つ『カットアップ・サンプリング・リミックス』は、その無限に刻まれた距離を刻み目ごとキャンバスを裂くナイフのように断ち切り、そこに跳ね返した『蒼』の引力を流し込む。
演習林の木々が、地鳴りと共に扇状に消し飛んだ。
衝撃波だけで土砂が捲れ上がり、巨大なクレーターが穿たれる。木漏れ日を遮っていた天蓋のような枝葉が一瞬で蒸発し、夏の強烈な太陽がむき出しの地面を無惨に照らし出した。
完全な無音。蝉が鳴き止んだ。
演習林ひとつ分の蝉が、同時に。
土煙が舞う中、荒い息を吐きながら前を睨みつけた。左肩を無理やり入れ直し、反転術式で膝を繋ぐ。五条の攻撃を受けてから、体の中で何かが蠢き、疼くのを感じ続けている。五条の呪力だって消えてない。
ひどい吐き気を覚えた口から、何かが溢れ出す。大量の光る輪を組み合わせて構成された紐のような、異質な何か。
それは咳と一緒に喉を通り、痛みもなく、宙へ滑り出た。
式神としての俺自身の一部か。
それは尾を喰う条虫のように輪を作る。その輪は天使の光輪のようにも、断ち切られた鎖の環のようにも見えた。端と端が完璧に閉じていて、その内側には何もない。何もないものを、囲っている。
輪はウネウネと回転しながらゆっくり浮上し、頭上に収まった。
──そしてついに五条が立ち上がる。無下限を破って『蒼』を当てた結果、何ヶ所か切れているようだ。血が流れていた。
「アハハハハハハッ!!!」
狂ったような大爆笑。
五条は血まみれの顔を天に仰ぎ、心底愉快そうに、そして底知れぬ狂気を孕んだ笑い声を上げる。その顔に張り付いていたのは、神様のような超然とした冷たさでも、害虫を見るような嫌悪でもなかった。純粋な戦いへの法悦。命のやり取りに魂を焦がす、戦闘狂のそれだった。
「無下限呪術を突破できるのか。空間にも干渉できる術式? いいね、最高じゃん。俺に『蒼』をぶつけるなんてさぁ……!!」
五条の六眼がギラギラと異常な光を放ちながら俺を射抜く。
「ここまでやられんのは3ヶ月ぶりだわ」
3ヶ月ぶり。
その言葉が意味するものを、俺は知っている。
この男は今、俺に対して甚爾くんと同じ手触りを感じていると言っている。とても名誉なことだ。俺は今、友達の近くに立てている。
でも、引き摺り出される感情はそれだけではない。
俺のすべてが、五条とのこの日のためにあったんじゃないかという感覚。五条に適応し終えた結果が俺の存在なのだという確信。
──五条悟、俺は甚爾くんのことがある前から、オマエに対してぼんやりとした対抗心を抱いていた。
それは禪院家と五条家という家同士の比較から来るコンプレックスだと思っていた。あるいは俺達のことをキモいと言い放った無神経な男への反発だと。
でも、違う。
頭上で回る輪の気配を感じながら、俺は確信した。
そんなチンケな感情じゃない。これはもっと根本的で、本能的なものだ。
オマエはこの世界の均衡を乱した。
そして俺は──
「……俺は」
ボロボロになった右腕から血を滴らせながら、俺はゆっくりと顔を上げた。
「オマエみたいなのをわからすために、ここに来たのかもな、クソガキ」
「……」
五条はこの挑発に反応しない。
俺の頭上に浮かぶ輪を見て、笑い続けている。
「教えてやるよ、敗北の味を」
俺も血に塗れた口元を歪め、最強の呪術師に向かって、改めての宣戦布告を叩きつけた。