音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
お父様の決定に最初に声を上げたのは、意外にも俺でも菜緒葉ちゃんでもなかった。
「才能がある奴は認めるのが筋ちゃうん? 父ちゃんいっつもそう言うとるやん」
声を上げたのはよりによって直哉だった。その声にはさっきまでの虚勢も負け惜しみの残滓もない。お父様に襟首を掴まれたまま宙に浮いている情けない格好なのに、お父様をしっかりと見据えている。
「菜緒葉ちゃんは女の子やけど、カスな兄さん方よりはよっぽど才能あんで」
直哉は破壊された床の穴を指差しながらそう言った。
衝撃だった。よりによって、あのドブカス直哉が「姉の才能を正当に評価しろ」と食い下がっている。だが、今の俺にはそれを喜ぶ余裕すらなかった。さっきまでの歓喜が嘘のように指先から体温が失われていく。お父様が褒めてくれた。認めてくれた。だから術師になれると思った。なれるに決まっていると。なのに──「ダメだ」?
「……お父様。まだ……まだ私を見下していらっしゃるのですか。女だから、出涸らしだからと──」
先ほどの戦闘のせいで全身が軋む。立ち上がるのもしんどい。それでもお父様の前では綺麗に立っていたかったのに、膝が言うことを聞かなかった。やっと絞り出した声は自分でも驚くほど掠れていて、ああ、限界なのだと他人事みたいに思った。菜緒葉ちゃんの心が、ガラスの器に亀裂が走るみたいに軋んでいる。
お父様は宥めるような調子で首を横に振り、そっと屈んでこちらの両肩に手を置いた。温かい手だった。
「いや。お前の術式は面白い。センスもある。さっき言った通りだ。だが菜緒葉──オマエを術師として前線に出すのは、ほら、合理的じゃなかろう?」
「……合理的じゃ、ない?」
思わず復唱した。
この人が何を言いたいのかが全くわからない。
「ああ。我が家は一級術師クラスを常に五人から十人は抱えている。血を吐くほど鍛えたところで、そこにもう一人加わるだけだ。だがな──お前にしかできないことがある」
お父様の視線が至近距離で俺をまっすぐに射抜いた。
「コソコソやっておった呪霊料理さ」
──その言葉に、思わず絶句しそうになった。
「知っていたのですか?」
「そりゃ当主だからな。娘と下っ端の隠し事くらいは当然把握している」
この人は何もかもを知っていた。俺の努力は全部この人の手のひらの上だったのだ。
「サンプルはもう十分に溜まった。それに、今日のオマエの活躍を聞けば扇と甚壱も納得するはずだ。
「でも──」
声が震えた。反論しなくてはならないのに、言葉が形にならない。
人体実験?──俺はそんなつもりじゃなかった。
こんなことのために頑張っていたんじゃない。でも、お父様のロジックをどう突き崩せばいいかがわからない。必死に反論の糸口を探して、でも見つからない。お父様がこの家の全体のことをよく考えて喋っているのがよくわかるからだ。
直哉はそんな俺の顔をじっと見ていた。そしていかにも子供っぽい様子で言う。
「菜緒葉ちゃんの斬撃はメッチャ戦闘向きちゃうの? 料理と呪術師の両方をやればええやん」
そのあまりにも幼い言い分に、お父様は少し呆れたようだった。
「あのなあ直哉。任務のランク付けなんぞガバガバだぞ。等級詐欺で人が死ぬのすらしょっちゅうだ。──それなのに任務をこなして、帰ってきたらあの厨房で毎日食事まで作るなぞ、常識的に無理だろう」
「……」
「そもそも、菜緒葉がもし帰ってこなかったらどうする。姉にそんな危ないところに行って欲しいか?」
直哉は言葉に詰まって下を向いた。
「……それは……」
「ほらな。やはり菜緒葉には後方で頑張ってもらう方がいい。オマエも菜緒葉の作るメシが好きだろう?」
「いや、今はそういう話をしとるんちゃうと思うんやけど──」
「そういう話だ。直哉」
お父様の声は静かだった。怒ってもいない。見下してもいない。ただ、これ以上の議論を許さない空気だけが稽古場に満ちた。
直哉は唇を噛んで押し黙り、下を向いた。
「無論、ずっと厨房に閉じ込めて料理させ続けはせんさ。菜緒葉には程よい頃合いでいい家に嫁に行って、幸せになってもらう。歳の近い一級から性格が穏やかそうなのを見繕う気でいたが──張り切って特級と掛け合わせてもいいかもしれんな。クソッタレの五条家とも、そろそろ手打ちにしてもいい頃だ。ひとまず書状を送ってみよう」
……掛け合わせる。
その言葉が自分の中で意味を結ぶまでに少し時間がかかった。
そして、何かが決壊した。
「…………お父様は私をなんだと思っているのですか? 私の術式を教えに行った時も、あんなに馬鹿にして」
ずっと辛かった。
それなのにお父様は当たり前の調子で言う。
「そりゃあ、普段は直哉の分までしっかりしているオマエがあんなササクレではしゃいでいりゃ、誰だって笑うだろう」
大人のさりげない言動が本人の意図以上に子供を傷つけてしまうというのは、よくあることだ。
だからそれだけなら仕方ないのかもしれない。
「じゃあ、半年間一度も私の様子を見にきてくださらなかったのは?」
話してくれれば誤解は解けていた。けれどもお父様は、この半年ろくに話しかけてすら来なかったのだ。
「ああ、当主が厨房に降りて見に行くのもどうかと思って……
よくわかった。この人はこの人なりに菜緒葉ちゃんを気にかけていた。
気にかけていて、このレベルなのだ。
気にかけているからこそ、こうなのだ。
悪意なら戦えた。無関心なら見返せた。
でも──善意には、どう抗えばいい?
菜緒葉ちゃんの意識が沈んでいく。ついさっきまであんなに鮮烈だった彼女の存在が、深い水の底へ引きずられるように、ゆっくりと遠ざかっていく。
あまりメンタルの強そうな子ではなかった。短い人生のほぼ全部で願い続けてきたことの結末がこれでは、全部が嫌にもなるだろう。
涙が出た。悔しいのか悲しいのか怒っているのか、自分でもわからない。全部だ。全部が胸の奥で、溶岩みたいに渦を巻いている。
お父様は明らかに眉を下げた。泣いている娘の扱い方がわからないのだろう。この人はどこまでも優れた当主でしかなく、父親としての正しいやり方を知らない。そしてたぶん、それに気づいてすらいない。
「じゃ、そういうことで。……帰るぞ直哉。部屋に戻って今日の反省会だ」
「……」
直哉は渋々頷いた。お父様は困ったように笑うと直哉の肩に手を置き、稽古場を出ていく。けれど立ち去る間際、直哉は何度もこちらを振り返った。何か言いたそうな、でも何を言えばいいかわからない顔。
──そしてそれと入れ替わるように、廊下から躯倶留隊の面々が駆け寄ってくる。
片腕を吊った健太郎が、晴れやかな表情で俺を見た。
「よかったね、菜緒葉ちゃん。認められてないっていうのは誤解だったんだね。直毘人様はずっと菜緒葉ちゃんのことを見てくれてたんだ。──そんなに泣いて。感動しちゃった?」
……え?
一瞬、健太郎が何を言っているのかわからなかった。健太郎は心からの笑顔だった。健太郎は、腕を折ってきた相手の姉にも優しくできる、立派な奴だ。俺はこいつのいいところを沢山知っている。仲間だと思っている。
そして、他の隊員たちも、口々に俺を祝福した。
「おめでとう、菜緒葉ちゃん」
「よかったな、本当によかった」
術式もなく、明日死ぬかもしれない任務に日々従事している彼らから見れば、六歳の女の子が危険な戦場へ行くことを免れ、立派な術師と結婚できる未来は最高にめでたい結末なのだ。この人たちに悪意はない。いや、お父様ですら別に悪意があってやっている訳ではない。
お千代さんだけが哀しげな顔をして、そっと俺の手を握ってくれた。けれども塞ぎ込んでしまった菜緒葉ちゃんの魂は、もはやうんともすんとも言わない。
俺は涙を袖で拭った。まだ視界がぼやけている。膝はガタガタ、右肩には直哉の掌底の鈍痛が残っている。稽古場の床は俺が解体したせいでボロボロだ。さっきは菜緒葉ちゃんの幸せのために消えてもいいと思った。だけど、そういう訳にはいかなくなった。
だが──一体これからどうすればいいのだろう?
◇
「いいだろ別に。生まれつき猿呼ばわりで透明人間みたいな扱いの俺より、よっぽどマシな境遇じゃねえか」
甚爾くんはおやつの大福を頬張りながら言った。離れの縁側。いつもの場所、いつもの姿勢。春先の風が庭の梅を揺らして、穏やかな午後だ。なのにこの人の声だけが今日は少し棘を帯びている。
「そうかもしれないけど、でも──」
「何が不満なんだ。いい縁談だろ。嫌なら嫌でとっとと直毘人に言ったらどうだ?」
──あれから1週間。
驚いたことにお父様の正気とは思えない提案は五条家から切り捨てられることはなく「まあ一旦会わせてから考えてみますか」という話になりそうだという。
こっちは6歳。向こうは7歳だっけ? そんな年齢の子を将来政略結婚させるという計画が、現代日本で許される訳がない。今は自由恋愛の時代だ。
だが、呪術界ではそういう訳にはいかない。
「どうせ直毘人の思い通りになんかなる気ないんだろう?」
甚爾くんはそう言う。たしかに普段の俺ならそうだ。
だが、今回ばかりは自信がなかった。
「腕立て伏せは……今何回だっけ?」
「150回」
甚爾くんの眉がほんの少し動いた。五百回達成したら体術を教えてくれるという約束。まだ三分の一にも届いていないが、あの試合の前は百回がやっとだった。
「ほらな。直哉と戦ってボロボロにされた次の日も厨房に立って、更に鍛錬も続けてる。呪霊も食ってる。お前はまだ諦めてねぇ」
大福の最後のひと欠片を口に放り込みながら、甚爾くんはこちらを見もせずに言った。普段の俺なら──「勿論ですわ」とでも返す。けれども今日は違った。
「……ただの意地ですわ」
弱気なことしか言えない。
あれ以来、菜緒葉ちゃんの魂はうんともすんとも言わなくなってしまった。強くなっても、上がったのは胎盤としての価値だけだった。その事実が菜緒葉ちゃんのような女の子にどれほどのダメージを与えたか、考えるのも怖い。彼女の存在を感じ取るのはこれまでになく難しくなった。呪霊を食べた後の悪夢の中で、白い空間にうずくまる菜緒葉ちゃんの姿を遠目に見かけるだけで──ああ、まだ消えていない、と逆に安心するほどだ。
音MADでは直哉のポリコレ無視な言動ばかりがネタにされていたから、男尊女卑の代表である直哉さえボコせば菜緒葉ちゃんはハッピーになれると思っていた。だが、事態はそう単純ではなかったらしい。
禪院家の問題は思った以上に根深かった。
お父様は直哉と違って、女を見下している訳じゃないと思う。ただ、禪院家という組織が何百年もかけて最適化してきたシステムの中で、当主として合理的に判断した結果があれなのだ。それを感情だけで覆せるとは思えない。
そもそも、お父様はあの人なりの善意で俺に婚約者を見繕おうとしている。そこが最も厄介な要素だ。
「縁談の話、悪い話ではないのはわかっています。……いいえ、これよりいい縁談はこの先もう二度と来ないでしょう」
実は今回の縁談、菜緒葉ちゃんにとって客観的に見れば最上のものだ。お相手はあの五条悟なのである。
五条悟は音MADには全然出てこなくても知ってるレベルの最強キャラだ。というか……音MADというのはひっそり楽しまれるコンテンツであって、世の中の中心とかでは断じてない。虎杖、野薔薇ちゃん、伏黒恵、そして五条悟──俺はみんなの名前をユ○バのアトラクションと缶コーヒーを経由して知った。宣伝に起用しても差別発言が問題になってブランドの価値を毀損するだけであろう直哉(と愉快な音MADの仲間たち)に比べれば、五条悟はきっと聖人みたいな男だろう。菜緒葉ちゃんの旦那には不足あるまい。
菜緒葉ちゃんの記憶を参照してみても、その印象は変わらないどころか強化されるばかりだ。
「──五条悟は呪術界の頂点。私たちとあんまり年変わらないのに呪詛師たちから懸賞金を掛けられてて、それなのに全部返り討ちにしているすごい人だと聞きます」
「……らしいな」
「直哉だってお父様と同じ相伝の天才だと言われて持ち上げられてはいるけど、天才の中にも格ってものがあるでしょう。私のような弱い女から見れば、もはや神ですわ」
菜緒葉ちゃんにとっての直哉は世界の中心。その直哉が逆立ちしても勝てないという評判の存在なんて、神以外の何物でもない。直哉自身は無謀な挑戦だというこを百も承知で追い付きたがってるんだろうから、この言い方はちょっと可哀想かもしれないけどな。
男と結婚なんて、俺自身としては論外だ。でも、「禪院の女」の幸せはいい人と結婚することだと、みんなが言っている。その方が楽なのかもしれないと、俺も思う。五条悟に取り入って結婚するのが菜緒葉ちゃんの幸せなら、その方針で頑張るべきなのか?
でも、それって負けじゃないか?
菜緒葉ちゃんの意志がわからない今、どうするのが正解なんだ?
そもそも、菜緒葉ちゃんはどんな男がタイプなんだ?
わからない。
「……一応、いろいろ考えたんですの」
俺はできるだけ冷静に、自分でもどこまで本気かわからないまま話し始めた。
「禪院家と五条家は同じ御三家でありながらずっと仲が悪い。ご存知ですわよね?」
「知ってるよ」
「元を辿れば江戸時代の御前試合だと聞いています。禪院側があの八握剣異戒神将魔虚羅を召喚するという自爆前提としか思えない戦術を取って、結局対戦者が両方死んでしまった」
「ああ」
「この国のためを思うなら、両家はいい加減に手を携えるべきですわ。御三家のうち二家が対立したままでは、呪霊から人を守る体制だって万全になりません」
懸念事項のひとつ、未来に起きる東京壊滅。
それをどうにかするためには、禪院家が真面目に五条悟をバックアップするしかないように思う。もっとピンポイントな対策を練るには、俺の原作知識が乏しすぎる。
「──私がその橋渡しになれるなら、それは意味のあることだと思いません?」
そう言うと、甚爾くんは滅茶苦茶つまらないモノをみる目をした。心底蔑むと同時に、どこかがっかりしている顔。
「呪術師を日本を影から守るヒーローだとか思ってんのか?」
「……違いますの?」
人助けをしてるんだからヒーローだろう。禪院家は割とアレだけど、それは原作での禪院家が悪役一族──というか、真希ちゃんの噛ませ犬ポジションだった結果だ。特例だろう。
甚爾くんは鼻で笑った。その笑いは乾いて冷たかった。
「……まあ、そんなに言うなら見合いをするだけしてみろよ。OKされるかもわかんないけど」
「え? こんなに美少女で条件のいい私が断られるはずがないでしょう?」
「俺が五条悟なら、打算で嫁に来るような女は真っ先に殺したくなるがな」
えっ? どういうこと?
甚爾くんはそれ以上説明しなかった。その目はもうこちらを見ていない。縁側の先、梅の木をぼんやりと眺めている。
「というか、猿の俺より弟の……直……、なんだっけ? 名前忘れたけどあいつに相談しろよ。身内の方がお前の苦労を理解するんじゃないのか?」
「イヤですわ。直哉がお千代さんと健太郎さんに謝罪するまで口なんて利きません」
直哉とはあれ以来喋っていない。正確には時々やってくるあいつを俺がシカトしている。お父様から庇ってもらった恩はあるけど、あいつの性格は悪すぎる。あれは外の世界なら傷害罪だ。このまま成長したら背後から刺されるのは確実だと思う。ただでさえ悩み事がいっぱいなのに、術師にすらなれないかもしれない菜緒葉ちゃんと違ってお父様に甘やかされまくりの直哉をさらに甘やかす筋合いはない。
「……あと、猿とかいう自虐は反応に困るのでやめてくださいな、甚爾様。私もあの子も、そんなこと思ってませんからね」
「お前ら双子の頭がおかしいだけだ。いつもウロチョロと鬱陶しいんだよ」
「もう……」
甚爾くんはどこか投げやりな人だ。いかにも強い男といった雰囲気があって近寄りがたいのに、どこか自己評価の低そうな荒んだ気配もある。俺は音MADの直哉みたいな甚爾くんのファンボーイ(肉体的にはファンガール)ではないけれど、もうちょっとどうにかならないものかと思う。
──そんなことを考えていると、背後からガサッと物音がした。振り返る。だが、誰もいない。猫か何かだろうか。甚爾くんは急にニヤリと笑った。何かわかっている顔だ。
「とにかく、姉弟仲良くしとけよ」
甚爾くんは立ち上がった。
「イヤだと申し上げていますのに……! あんな自分勝手なドブカスのクソガキ……!」
「今のお前もまあまあ自分のことばっかりだけどな」
この人は直哉の肩を持つのか。俺は日本全体の未来のことまでちゃんと考えているつもりなのに、自分のことばかりだなんて。
甚爾くんはそれ以上何も言わず、縁側を上がって離れの奥へ消えていった。
◇
夕餉の支度を始めた頃、直哉が厨房にやってきた。おばさまがいないか気にしているのか、入り口周辺を行ったり来たりしている不審な動きを繰り返している。
数分間は無視を決め込んでいたが、あまりに視界の端でチョロチョロされるのが鬱陶しい。術式で豆腐パックの蓋を「切断」しながら、声をかけた。
「……入ってきたらいかが? おばさまなら買い出しに行っていますから」
「ラッキーやね」
待ってましたと言わんばかりに、直哉がそそくさと厨房へ降りてきた。彼はお千代さんのそばへ歩み寄ると、珍しく逡巡するように視線を泳がせ、それから幼子のようにかわいらしく両手を合わせた。そしてにっこり笑って口を開いた。
「千代ちゃん、叩いて悪かった。あと、躯倶留隊の奴にもやりすぎた。ごめんちゃい♡」
語尾だけは妙に甘える調子だ。
──耳を疑った。音MADで数十回、いいや、数百回は聴いたあのフレーズの本物が、3Dの実写で、しかも本人(生身)の口から出力されたのだ。
「……直哉、そんなのが女性の顔を叩いた謝罪になると思ってますの?」
一瞬はっ倒してやろうかとも悩んだ。しかし直哉は、まるでノーベル平和賞でも受賞したかのような誇らしげな顔で胸を張った。
「済むやろ。この俺が謝ったんやぞ? 異例中の異例や。父ちゃんかて驚くわ」
なんて奴だ。だが、その瞳には一点の曇りもなかった。こいつは悪意すら超越し、純粋無垢にドブカスなのだ。あまりの傲慢さに逆に毒気を抜かれ、俺はため息をつくことしかできなくなった。
お千代さんは穏やかに微笑んだ。
「私はもう気にしていません。傷も残らなさそうですし。……菜緒葉お嬢様、そろそろ直哉様と仲直りしてあげてもいいのでは?」
少し迷った。少し迷った。だが、被害者本人が許容している以上、外野の俺が意地を張るのは、少し違う気もする。
「……しょうがないですわね。もうああいうことはやめなさいよ……」
言い聞かせるようにそう答えると、直哉は瞬く間に目を輝かせた。
「よーし言質取ったり。菜緒葉ちゃん、こっち来て!」
直哉は俺の腕を強引に掴む。
「ちょっと! 今お豆腐を切っているところですわ!」
「そんなん後でええねん!」
六歳の少女の腕力では、直哉の力に抗いようがない。お千代さんや他の女中さんが「行ってらっしゃい」と困ったように手を振る中、俺はズルズルと厨房から引きずり出された。
連れてこられたのは、夕闇が迫り、鴉の声だけが響く中庭だった。直哉は俺の腕を離すと、バツが悪そうに庭石を蹴りながら尋ねてきた。
「……父ちゃんの言うこと、まだ気にしとるん?」
「はぁ? 当たり前でしょう。こんなに頑張ってるのに術師になれないなんて……」
睨みつけてそう答えると、直哉は答える。
「アホ。親父は『前線に出したくない』言うただけや。実力を認めとらんわけやない。……というか、あんな酔っ払いの言うこと、真に受けすぎやねん」
「……え?」
「ええか、菜緒葉ちゃん。この家は強さが全てや。父ちゃんが何と言おうと、俺が当主になったら全部変えたる。菜緒葉ちゃんを厨房に閉じ込めるなんて、そんな勿体ないこと俺がさせへん」
この家で最悪の性格の持ち主。ドブカス発言の権化。ポリコレの天敵。あの禪院直哉が、今、全人類を代表する「理想の弟」みたいな台詞を吐いた?
どういう風の吹き回しなんだろう。
あまりの衝撃に凍りついていると、直哉はさらに追い打ちをかけてきた。
「こっそり手合わせとか修行とか手伝ったる。あと、菜緒葉ちゃんがそれで嬉しいなら、俺の声で『オトマッド』?とやらも作ってええよ」
「いいの????????????」
素材使用許諾、出たぁぁぁぁ!!
なんて憐れな生贄だろう。
直哉は、自分が今、次期当主としての尊厳をデジタルデータの海に投げ出し、永久に玩具にされる契約を結んだことに気づいていない。無知ゆえの慈悲。そして、姉に対するあまりにも不器用で、一方的な懐柔。
だが、最悪なことに。
お父様の冷酷さにへし折られ、水の底へ沈み込んでいた菜緒葉ちゃんの魂が──この瞬間、ドブカスの素材使用許諾を聞いて、ほんのりと温かくなっていくのを感じてしまった。
……そんなことってある??
この世界の中心みたいなキャラとのお見合いよりも、弟を素材にした音MADを作り放題になった方が嬉しいってこと??
菜緒葉ちゃん、どういう趣味してるの???