音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?!   作:ポ予

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姉妹校交流会⑦ VS五条そのよん

「私の知り合いが言っていたんですけれども、呪術師同士が死力を尽くして戦うと、たまに心と心が繋がることがあるんですって」

「へぇ。初めて聞いた」

「私も初めて経験しますわ。……マコくんじゃなくて私があなたと繋がったのは、アレが私の刃だったからかしら?」

 

 穏やかな、あまりにも穏やかな昼下がりだった。先刻までの死闘の熱はどこにもない。ただ、我が家の縁側に、菜緒葉ちゃんと五条が並んで座って話している。ぽかぽかとした陽だまりの匂い。木漏れ日が二人の肩に柔らかく落ち、庭先の木々が風に揺れて葉鳴りの音だけが静かに響いていた。まだ家にいた頃の甚爾くんとよく一緒に寝転がっていた、離れの縁側だ。古い木材の匂いとかすかな線香の香りが混ざる、俺達だけの避難所。

 板の継ぎ目に浮いた黒い節目の位置まで正確だった。踏むと軋む一枚が左から3枚目にある。それも合っている。庭石の欠けた角も雨樋の錆の垂れた筋も、記憶の中のそれと寸分違わない。

 菜緒葉ちゃんと五条は、まるで気心知れた友人であるかのように、意外なほど仲良く言葉を交わしている。制服の膝を揃えて座る少女と、長い脚を持て余して庭石に踵を投げ出している男。日向と日陰の境界線が、ちょうど二人の間を斜めに横切っていた。その麗しくも非現実的な光景を、俺はすぐ側で見ている。いや、俺の意志で見つめているのではない。「見せられている」と言うべきか。

 

「菜緒葉ちゃん!」

 

 たまらず声をかける。名前を呼ぶ。菜緒葉ちゃんには言ってやりたいことが山ほどあった。

 どうしてあんなことをしたのかとか。すごく心配してたとか。また会えて安心したとか。これからはもっと菜緒葉ちゃんへの感謝を口にするようにしたいとか。

 本当に、伝えたい言葉が沢山あった。

 

「菜緒葉ちゃん、菜緒葉ちゃん、菜緒葉ちゃん!」

 

 喉が裂けるほど、何度も何度も何度も呼んだ。けれども俺の声は、この空間の空気を一切震わせない。音として成立すらしていないようだった。庭の梢は風のままに鳴り続け、2人はこちらを振り向かないし、気がつかない。すぐ近くにいるのに、伸ばす手はおろか、俺には肉体の感覚すらなかった。観測者としての視点だけが宙に浮いている。世界から完全に切り離された、ただの透明人間になってしまったようだ。

 もどかしい。ひび割れたガラスを飲み込んだような苦しさと焦燥に息が詰まりそうになる。

 けれどもそんな俺の絶望的な焦りなどは知る由もなく、菜緒葉ちゃんはいつもの悪戯っぽく甘い声で、隣の最強に尋ねた。

 

「ねえ五条、私があなたを倒すために、ふたつの縛りを結んだのには気づいていますか?」

 

 五条は六眼を細め、肩を竦める。

 

「気づいてない気づいてない。教えろよ」

「ひとつめはね、マコくんに『全部』をあげる縛り」

 

 五条の表情が一瞬で強張った。しかし菜緒葉ちゃんは縁側に足を投げ出し、お行儀悪くゆらゆら揺らす。そして抜けるように真っ青な空を見上げながら、ひどく楽しそうに続けた。

 

「表に出て誰かとお喋りする権利も、誰かを愛する権利も。この体も心も術式も、ぜーんぶマコくんのもの。だから私は、こうして深い深い生得領域の底に引きこもっておかないといけませんの。もうマコくんとも、外の誰とも、一生お話はできません」

 

 まるで「今日の晩ごはんはハンバーグですわよ」とでも言うような、心底どうでもいい日常を語るような気軽な口調だった。その言葉には、吐き気と怒りと暴力的な衝動とが同時に込み上げた。

 

 なんだよそれ。ふざけんな。

 俺はそんなこと頼んでない。

 菜緒葉ちゃんの人生を完全に奪い取ってまで、俺は生きていたくなんかない……!

 

 叫んだつもりの言葉はやはり一音も鳴らない。風だけが、俺を素通りして庭を撫でてゆく。

 五条は心の底から苛立った顔をした。術師としての確固たる矜持を傷つけられたような顔。

 

「死んでも勝つってヤツ? 俺はオマエにそんなことして欲しくて色々言ったんじゃないんだけど」

「あら、呪術師なら誰でもやっていることでしょうに」

「アレは『それくらい気合い入れろ』って話で、死ねって話じゃねーんだよ。命を投げ出すのと、命を懸けるのは全く別モンだろ」

「でも、マコくんも一緒に死んじゃうリスクとか、私の体が腐ってマコくんがホラー映画のゾンビ状態になっちゃうリスクとかを考慮して……絶命の縛りはやめましたのよ」

「そういう問題かよ! コッチはそもそも……!」

 

 五条はしばらく本気でショックを受けた様子で声を荒げていたが、ふっと何かに気がついたようにポンと手を打つと、急に穏やかな顔になった。蒼い瞳が心底面白そうに菜緒葉ちゃんを捉える。

 

「……あ。でもオマエ今、俺と喋ってんじゃん」

 

 菜緒葉ちゃんはにんまりと笑う。

 

「だってあなた、不法侵入者ですもの。 私の心に勝手に入ってきた不審者とお喋りしても、ノーカウントですわ」

「屁理屈!」

 

 五条は何の悩みもなさそうな顔になって言い返した。2人は笑い合う。俺は少しも笑えなかった。訳がわからなかったし、地獄の底から2人を見上げているような気分だった。

 

「で、ふたつめの縛りは?」

「内緒♡」

「ケチくさ!!」

 

 菜緒葉ちゃんはくすくす笑ったまま、それから恥じらうように手元をいじる。一見するとかわいくあざとく、けれども腹黒さが丸出しの邪悪な表情だ。俺はこの仕草を知っている。自慢したくてたまらないのを我慢している時の癖だ。

 

「だってぇ……、お手軽で素晴らしくて凶悪で天才的すぎる縛りなんですもの! 思いついた時、私自身、ぞくぞくしちゃった。もしも教えたら、あなたピンチのたびに絶対に真似っこするでしょう?」

「しねぇよ」

「いーや、絶対しますわ!」

 

 菜緒葉ちゃんの断言とともに、パチン、と。古い映画のフィルムが切り替わるように、唐突に景色が飛んだ。

 今度は禪院家の稽古場だ。板張りで広さは十五畳ほど。壁は漆喰、柱は欅。天井が高い。床は飴色で、菜緒葉ちゃんと五条の2人だけがそこに立っている。高窓から差し込む光が斜めの柱となって埃を浮かび上がらせ、その粒のひとつひとつまでがゆっくりと回転している。酷く静謐で、いっそ神聖でさえある空間だった。

 菜緒葉ちゃんは背中の後ろで指を組み、自慢げな顔をして五条を振り返り、見上げた。

 

「この道場でねぇ、小さい頃に弟の股間をキックしてやったんですのよ」

「うわー、えぐっ」

 

 五条は本気で引いた顔をして、それから少し笑った。

 

「だってムカつくでしょう。女を弱い者扱いして、顔とかお腹は絶対に殴ってこないの。舐められてるみたいで腹が立つ。私は手加減なんかされたくないのよ。あなたが先刻、私の右腕を容赦なく吹っ飛ばしてくれたようにね」

 

 菜緒葉ちゃんは自分の右腕を持ち上げ、制服の袖をまくって、何事もない白い肘の内側を五条に見せた。

 

「……アレは、テンションが上がってたんだよ。久々に」

「責めてませんわよ、別に。私こそ年甲斐もなくはしゃいじゃった。強い人に本気で構ってもらえて」

 

 そうは言いつつも、菜緒葉ちゃんはどこか達観した大人の顔をしていた。言っていることは一般常識からすれば完全に異常者のソレだ。戦闘狂のイカレ女。

 でも、彼女の気持ちを否定はできない。五条の術式はたしかに暴力的なまでに美しく、洗練されていた。命を刈り取るような巨大な技を真正面からぶつけられ、自分は寄生虫みたいなモノだったんだと思わされた後で、やっぱりひとりの術師みたいに名前を呼ばれて。俺もあんなにボロボロにされたのに、不思議と嫌じゃなかった。女の体を〈女〉として扱わないというのは、それはそれで、俺達にとってはある意味愛情よりもよほど希少な贈り物だったのだ。

 五条も菜緒葉ちゃんの言葉に何か通じ合うものを感じたのか、静かに納得の表情を浮かべていた。反論も茶化しもしないまま、稽古場の高い天井を仰いでいる。

 

 また景色が切り替わる。今度は厨房だ。

 だが、見慣れた今のシステムキッチンではない。俺がこの体に転生してきてすぐの頃の、薄暗い台所。土間に据えられた竈。壁に一列に並んだ、磨き込まれた包丁。まな板の木目に刻まれた無数の深い傷。窓は小さく、光は床まで届かない。

 

「禪院家の台所?? 嘘だろ」

 

 五条は本気で信じられないという顔をして、竈の縁を指でなぞろうとして、途中でやめた。

 

「私が7歳の時まではこうだったの。何時代?って感じでしょう。冬なんて最悪、お湯なんて出ないのよ。ここで立ったまま、冷たいごはんを食べたことが何度もあります。マコくんが派手に壊したんだけど、甚爾くんのせいになって。それからマコくんが署名を集めてお父様に直談判して、綺麗なシステムキッチンに変えてくれたの」

 

 語りながら、菜緒葉ちゃんの視線は蛇口の一点に留まっていた。温水の出ない古びた銀の蛇口。俺は、菜緒葉ちゃんが五条に何を伝えたいのかを朧げにだが理解し始めた。

 

 パチン。

 今度は、見慣れた俺と菜緒葉ちゃんの自室。壁にはポスター、棚にはあらゆるジャンルの無数の本。それからゲームとフィギュア。カーテンは閉め切られ、ディスプレイの薄い光だけが色を持っている。床には座椅子と、まだ開けていない段ボール。

 五条は平然と棚を漁り始めていた。曲がりなりにも乙女の聖域に対して遠慮がなさすぎる。

 

「これ本当に女の部屋?? オタク部屋じゃん。……うっわ、エロゲあるし」

 

 五条が手に取ったのは、前世に「全然エロくない」と友人一同が太鼓判を押していたので「エロはおまけなんだ!」と思ってこっそり買ったFate/stay nightのパッケージだ。しかしいざプレイするとかなりシリアスなシーンでアルトリアと遠坂凛が謎にいちゃつき始め、呪術高専1年生な菜緒葉ちゃんの体だと普通に刺激が強すぎる。恥部の暴露に繊細な菜緒葉ちゃんは恥じらうかと思いきや、逆に開き直って言い返した。

 

「五条エッロー。パッケージ見ただけでエロゲとかわかっちゃう方がエロいんですのよ! 直哉なんて、Fateは文学でAIRは芸術だという私の嘘を、未だに信じてるのに」

 

 勿論五条の反応は冷たかった。彼は白けた表情になる。

 

「絶対バレてんぞその嘘」

 

 パッケージを棚に戻す手つきだけは意外にも丁寧だった。そんな五条に、菜緒葉ちゃんは躍起になって言い返した。

 

「バレてませーん! 直哉は、私とマコくんの言うことなら、だいたい何でも信じてくれるもん」

 

 ──いや、流石にバレてたと思う。どうせ姉への情けで気づいてないフリをしていただけだ。

 ここ何年かで気づいたことだが、直哉はかなり勘が鋭く、そして自分の考えたことを碌に周りに話さない。まるで本心の開示は損で、攻撃性の表出は得だとでも思っているみたいに。残念ながら「禪院の男」としての正解の大抵はそれだ。だから〈女〉になっちゃった俺では、直哉が本当に考えていることの全部は、未来永劫掴みきれないんだと思う。

 

 五条がふと思い立った様子で尋ねた。

 

「そういやアイツ、オマエらの二重人格みたいな仕様、知ってたの?」

 

 その問いを受けて、ムキになっていた菜緒葉ちゃんの表情がすっと冷めた。

 

「……知ってから、私のことをずっと腫れ物扱い。おまけにいい子ぶりっ子。クッソうざいですわ。私はそんなこと頼んでない。ただ、私に無邪気についてきてくれた、4歳くらいの頃の直哉に戻って欲しいだけなのに……」

「4歳はきついって。アイツもう高校生だろ」

 

 五条のツッコミは至極真っ当な正論だ。高校生の弟に対して4歳児の頃の無条件の依存と反応を求める姉なんて、控えめに言って頭がおかしい。不健全かつ独善的なブラコンだ。けれども菜緒葉ちゃんはひどく悲しそうにするだけだった。反論もせず、笑い飛ばしもせず、下を向いた。閉め切ったカーテンの隙間から漏れる細い光の線が、床の上でわずかに震えていた。

 

 しかしそのか細い光が一気に強まり、数秒後には強烈な太陽の光が射し込んだ。また景色が変わっている。足元はコンクリートで固められていて、視線を前に向ければ、分厚いアクリルガラスの向こうで雄と雌のライオンが、身を寄せ合うようにして一緒に眠っている。たてがみの様子からして、まだ若い。きょうだいだろうか。遠くで聞こえる幼く甲高い声、何かのアナウンス。夏の光がガラスに反射して、こちら側にいる菜緒葉ちゃんの輪郭を白く縁取っていた。

 

「いつだったっけ。『姉弟が大人になっても仲良しだなんて、気持ち悪い』だったかしら。直哉にそう言われちゃったの。私はあの後、隠れて泣いてしまったんですけど……今はもう、マコくんなしでは直哉に向かい合う勇気もない」

 

 菜緒葉ちゃんは眠るライオンを見つめながら寂しそうに微笑んでいた。ガラス越しの2頭は、腹をすり合わせたまま、規則正しく呼吸をしている。並んで眠るということが、世界で一番簡単で当たり前だという様子だった。

 俺は激しい混乱に陥っていた。

 直哉のその言葉を俺は覚えていない。というか、どこからどう考えても、直哉がそんなことを言う訳がない。俺が見てきた直哉は、普通に菜緒葉ちゃんと仲良くしたがっている不器用な弟だ。お互い難儀な性格をしているせいで、菜緒葉ちゃんとの間にヤマアラシのジレンマを起こしているだけだった。俺では菜緒葉ちゃんの代わりには絶対なれない。なのに彼女がどうしてここまで自虐的なことを言い出したのか、少しも理解できなかった。

 それに何より──俺はこの世界に転生してきてから、動物園になんて一度も行ったことがない。この記憶は、おそらく『予測』の中のものだ。彼女が傷つきながら一人で抱え込んでいた記憶だろう。

 

 最後に、景色は全てを白く塗り潰すように消失した。ライオンもガラスも日差しも、輪郭から順に溶けていった。

 

 果てしなく広がる純白の空間。

 その中央に、無機質なプラネタリウムの投影機がポツンと残されている。片側の傾き切った天秤のように、宇宙を制御可能なミニチュアとして手中に収めるための、ダンベル型の投影機。星座を映すための幻影装置。父性呪霊の成れの果て。ジジ……と微かな機械音を立てるそのすぐ下には、花の鉢植えが幾つかと2つのソファが置かれている。本来なら、それぞれ俺と菜緒葉ちゃん用。菜緒葉ちゃんはそのソファの片方へと歩み寄り、全てを終えたような顔で深く深く体を預けた。もう片方は空いたままだった。俺のためのその席は、これから先ずっと、誰も座らないままその白に晒され続けるのだろうか。

 

「──これだけ見たらもうわかったでしょう、五条。私は乗っ取られて洗脳された可哀想な被害者じゃない。あなたが寄生虫と呼ぶ人は、私にとっては大事な人で。あなたが意味なんてないという改革は、私にとっては人生の全部。ごめんなさいね、非常識な女で。でも……ありがとう。私を見つけてくれたことだけは、嬉しかったかもしれません」

 

 菜緒葉ちゃんは嬉しそうに笑って五条にお礼を言った。気の抜けた態度で、普通に笑う。そういう普通の女の子みたいな菜緒葉ちゃんは、真っ当にかわいかった。

 

 俺はそれを聴きながら、ずっとある種の絶望を覚えていた。

 菜緒葉ちゃんには、もっと色々してあげられていると思ってた。でも、お父様にも誰にも認めてもらえなかったあの頃の気持ちが、まだ菜緒葉ちゃんの中には残っていて、俺はそれを救い切れていなかった。

 六眼に映る俺の姿がもう少しマシだったら、6歳の時点でもう少し冷静な話ができて、五条は案外あっさり菜緒葉ちゃんを救ったかもしれない。いや、あの頃の弱い俺達には五条は見向きもしないか。それはもう、確かめようがないけれど──。

 

 とにかく、菜緒葉ちゃんと今すぐ話したい。

 なのに縛りのせいで声が届かない。

 

 五条はプラネタリウムを弄りながらなんとも言えない表情を浮かべて、小さく首を傾げた。

 

「伏黒甚爾はオマエじゃなくて、オマエらを気にしてたのかな」

 

 菜緒葉ちゃんは膝の上の手のひらをぎゅっと握りしめる。

 

「……いいえ。マコくんだけです」

「はぁ?」

「甚爾くんは私の方をこの体に取り憑いた悪霊だと思っていました」

「……」

 

 五条は返す言葉もないという調子でプラネタリウムのボタンに目をやった。当初の予定を1からひっくり返された訳だから、妥当な反応か。まさか、菜緒葉ちゃんを憐れんでくれる程のいい奴ではないだろう。

 

「甚爾くんの遺言のために来たなら、あなたが倒さなくてはいけないのは私。だから、お願い。マコくんを殺さないで」

 

 菜緒葉ちゃんが目に涙を溜めているのが俺には見えたが、五条はプラネタリウムに目線を向けて、少しもそれを見ていない。女の子が泣いているのに気づかないなんて、とんでもない野郎だ。俺の方は菜緒葉ちゃんをどんなに慰めたくても、何もできない。手のひとつも握れないのに。

 この件については、菜緒葉ちゃんにばかり負担を掛けすぎていた。あまり気にしていないように振る舞っていたが、実態は相当怪しい。菜緒葉ちゃんは普段は割とすぐ泣くけれども、甚爾くん関連のことについては俺と直哉を気遣って人一倍気丈に振る舞っていたからだ。

 五条はプラネタリウム──真男佳をバンバンと叩いたり、ボタンらしき部分を乱暴に連打したりしている。叩かれるたびにレンズの奥で光が跳ね、真男佳が抗議するように短く明滅していたが、誰も気にしなかった。

 激しい明滅の後、プラネタリウムはサファイアのように輝く海の中を投影した。白かった空間の全体が上から順に青へと沈んでいく。天井のあたりは陽の透ける浅葱色、足元へ向かうほど濃紺に落ちていって、その境目のどこにも継ぎ目がない。水面から差し込む光の柱が幾筋も揺らめきながら降りてきて、床の上で網目状に絡み合い、ゆっくりと形を変え続ける。

 

 その光景に、泣いていた菜緒葉ちゃんが目を瞠った。

 

 背後を銀色の魚群がさっと輝きながら通り過ぎる。何千という個体が、一匹の巨大な生き物のように向きを揃えて翻り、そのたびに鱗が光を弾いて、白い閃光の帯になる。

 やがて、青の彼方に薄く一枚の面が浮かび上がった。正面の、途方もなく大きなアクリルパネル。厚みのある縁の部分だけが、僅かに光を屈折させている。これは大海原じゃない。水槽だ。それも、ちょっとやそっとの規模じゃない。

 

 ──五条は満足したように頷くと、あっけらかんと菜緒葉ちゃんを振り返って言った。

 

「マコを完全破壊する気ならもうねぇよ」

 

 青い光に照らされた菜緒葉ちゃんはびくんと肩を震わせた後、大慌てで涙を拭い、澄まし顔を装って優雅に言い返した。

 

「あら。本当かしら? 助けたいみたいなこと言っておいて、救出しようとしていた乙女のか弱い体だってことを忘れる勢いで乱暴ばっかりして、テンション爆上げで実質殺しにかかってた癖に?」

 

 数秒前までは悄然として泣く寸前だったとは思えないような高圧的な口調だ。けれども、青い光が、その頬の濡れた跡を一瞬だけ銀色に光らせたことに、五条は気づいているだろうか。

 

「…………わ、忘れてない忘れてない!」

 

 五条の答えは少し棒読みだった。

 

 ──十中八九忘れてたな。

 というかコイツ、菜緒葉ちゃんを助けたいというか、俺と戦ってみたいという気持ちが元々強くあったんじゃなかろうか。

 

 だが、五条はそこからしれっと立て直した。

 

「だってマコ、そこそこやるじゃん。暴走させて腐らせとくのは勿体ないよ。操縦桿を手放したのは式神遣いにあるまじき醜態だけど、オマエも本気を出せばそこまで悪くはなさそうだし」

「……勝手ですわね。お節介な王子様ごっこを勝手に始めておいて、今度は別の遊びを始めるの? 私達がそれに付き合う訳がないじゃない」

 

 菜緒葉ちゃんは偽物の海を見上げて嘲るように微笑む。逆さになった光の網が、その喉元から下でゆっくりと揺れていた。

 

「悪かったよ。反省してる」

 

 五条は少し真面目な表情になった。

 

 俺の横をエイが翼のような胸鰭を波打たせて滑っていった。白い腹をこちらに晒しながら、まるで水そのものを撫でるように旋回する。それに続いて、頭上を巨大な斑模様の鮫が悠然と通過し、大きな影が落ちた。ジンベエザメだ。俺はどっちも行ったことがないけれど、たしか海遊館か美ら海水族館にしかいないんじゃなかったか。

 黒い体表に散った白い斑点が、光の筋を横切るたびに星座みたいに浮かび上がる。

 

 それを見ながら、ふと考えた。

 もしかしたら、これは五条の思い出の場所なのかもしれない。

 

「少し前に友達が死んだんだ」

 

 五条がジンベエザメに視線をやりながら言った。

 

「俺は呪術師だし、一切引きずってないつもりだったけど、意外にやり直したかったのかもな」

「やり直し? 何の?」

「学校へ行きたがってた女の子が、キモい宇宙人みたいなのと一体化する宿命を無視して、平和に青春を送るのを見てみたかった……みたいな? 案外人間っぽいだろ?」

「──それはどうかしら。五条、別に誤魔化さなくたっていいのよ。あなたって、私のことをまるで簡単に植え替えできるお花か何かみたいに扱うでしょう。誰にでもそうやって、生き物としての線引きをしていらっしゃるの?」

 

 菜緒葉ちゃんと五条のやり取りは湿っぽい気がする内容の割には至極フラットで、いっそ冷たいようですらあったかもしれない。

 五条は虚をつかれたという訳でもなく、どうでもいい小テストが返ってきたときのような反応をしただけだった。「メンドクセー女」と顔に書いてある。仕方ない。菜緒葉ちゃんは現に面倒くさい女だ。

 

「花は好きだよ。綺麗だから」

 

 五条は五条で菜緒葉ちゃんよりも変だった。男が女の子を花に喩えるというのは、常識的に考えれば口説きの一環なのだが、五条が言うとワンチャンすらなさそうな雰囲気になる。

 とはいえ、五条が善意に満ちていることは改めてわかった。ちょっとばかり弱者の心に疎くて、ついでに軽い戦闘狂なだけだ。

 

「……そーゆートコですわよ、五条悟。というか、花が好きなら虫も可愛がりなさいよ。花と虫は共生関係なんですのよ」

「限度があんだろ。そもそも、俺はマコ自体がダメって言いたかったんじゃなくてさぁ、オマエに……」

 

 

 

 

 

 水槽は消えた。

 菜緒葉ちゃんの姿はもう見ることができない。

 

 アレは妄想か幻覚だったのだろうか。

 わからないし、確認するつもりもない。

 

 ただ、俺は目の前の現実を見つめる。

 

 目の前に座り込む五条の胸元から腹部にかけて、交差した傷口から血が滲み出していた。そこから溢れた鮮血は土に染み込みきらずに溢れて、赤黒い血溜まりを作っている。荒い息に伴い、肩が小さく上下していた。

 致命傷こそ辛うじて免れ、反転術式を回しているようだが、意識を保つのも辛いくらいの痛みを覚えているはずだ。それなのに、見上げてくるその瞳には未だ鋭い光が宿っている。精密にカットされた宝石が光を乱反射させているのと同じくらいの、人間離れした輝きだ。

 素晴らしい毛皮の野生動物が車に轢かれているのを見つけてしまったかのような息苦しさで、俺はそれを見下ろした。

 五条はまだ子供なのに可哀想だと思ったし、後ろ暗さもあった。

 とはいえ、もっと最低な気分になるものだと予想していた。人間を傷つけたんだから、恐ろしい代償が返ってくるものだと恐怖していた。縛りとは関係のない、倫理の結末として。神のごとき存在を地に伏せさせたことに対する、恐ろしい因果の代償が返ってくるはずだと思っていた。

 けれども現実は拍子抜けするほど淡々と、単なる自然の摂理としてそこにあった。食物連鎖の頂点に君臨する絶対者であろうと、ただ1頭の害獣と変わりなく倒れる。ただそれだけのことだった。

 

 それでも五条は、傷口を抑えていた腕を持ち上げた。

 大量の失血と激痛のせいで、その腕は痙攣するように揺れている。今や重力すらも枷になっているはずだ。それなのに俺から一切目を逸らさない。泥に汚れ、己の血に塗れながらも、その視線の奥にある青い光はどこまでも澄んでいる。

 気づけば俺は、這いつくばったまま底なしの空に見下ろされているような錯覚に陥っていた。

 

 五条は血に濡れたその指を交差させ、唱えた。

 

「——領域展開『無量空処』」

 

 静かな宣告とともに、五条は俺に余力のすべてをぶつけることにしたようだった。

 

 

 

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