音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
「菜緒葉ちゃんが間に合うってどういうこと?」
拳は振り上げたまま、空中で止まっていた。振り下ろすことも腕を下ろすこともできず、腕の筋肉だけが馬鹿みたいに強張っている。馬乗りになった膝の下で、五条の胸郭が浅く上下しているのがわかった。焦げた下草の匂いと、鉄錆びた血の匂い。双方の破壊の結果、この林には日陰というものがなくなっていた。真夏の白い光が容赦なく差し込んで、めくれた土の断面から立ち上る湯気みたいなものを、下から順に灼いている。
いつの間にか、蝉がまた鳴き始めていた。
「だから、言葉通りの意味だって。菜緒葉は消えてない。自分の体とか心とか、人間として生きる権利みたいな物を全部オマエに『あげた』だけ」
仰向けのまま、五条は殴られて腫れた頬を気にする素振りすら見せずに言った。その青い瞳には、まるで算数の初歩を間違えた子供を見るような、呆れと冷静さが混じっていた。
俺には五条の余裕の意味がわからなかった。
「じゃあダメじゃん!」
俺は叫んだ。
「契約は結ばれたんだ! 縛りは完全に成立した! 縛りってのは、不可逆な因果の世界の話なんだぞ!」
「オマエ、術式の精度はエグいのに根本的なとこ抜けてんな。まだわかんねえの、マコ?」
「わっかんないね!」
俺には本気でわからなかった。あの子は「ぜんぶ」と言ったのだ。表に出る権利も誰かを愛する権利も、温かい体も心も術式も、全部を俺に捧げると言った。あれほど重い自己犠牲を伴った絶対的な縛りを、どうやって今更取り消せというんだ?
五条は目を眇め、心底面倒くさそうに、ふうっと長く息を吐いた。
「普通に、『いらないでーす』って突っ返せばいいんだよ」
…………は?
「あのさ、菜緒葉は『全部あげる』としか言ってないんだろ? その縛りのどこに『返品を禁ずる』なんて文言が入ってんだよ」
「……」
「あの子、相手が自分の体内に潜む式神だからって、完全な自己縛りの延長線上で都合よく完結させたつもりでいたみたいだけどさ。今のオマエらの主従関係、もう完全にグダグダの支離滅裂じゃん。菜緒葉が一方的に押し付けてきたプレゼントは、受取人であるオマエが突っ返せばいい」
「でも……っ、一度成立した縛りを壊すようなことなんて……」
「本来なら無理。でも、あの子の魂も肉体も丸ごと買い取って、この体の絶対的な所有権を得ちゃった今のオマエなら——もらった物を、好きなように使えるだろ?」
頭の中で、何かがぱたぱたと音を立ててドミノ倒しのように折り畳まれていく感覚があった。
譲渡。
贈与。
受け取り拒否。
——返品。
そうか。
俺は菜緒葉ちゃんを犠牲にしてまで強くなりたいなんて思ってない。もしそれで菜緒葉ちゃんが元に戻るなら、底なしの呪力だって喜んでクーリングオフしてやる。
瞬間、胸の奥から湧き上がってきたのは、茫漠とした歓喜と胸が締め付けられるような安堵。そして——それらを遥かに上回る、行き場のない特大の理不尽に対する怒りだった。
俺は思わず両手で五条の胸ぐらを思い切り掴み直し、ガックンガックンと乱暴に揺さぶった。
反転術式でどうにか塞ぎかけていた胸元の深い傷口が引き攣れたらしく、現代最強の呪術師が「いだだだだっ!」と情けない悲鳴を上げるが、俺は1ミリも気にしなかった。
「ッオマエさぁ!! それ、知ってて領域勝負を持ちかけたのかよ!!」
「揺らすなバカ式神、傷開く!」
「開け! 血ぃドバドバ出て干からびちゃえ! これまでどんだけ死に物狂いで殴り合ったと思ってんだ! 俺と菜緒葉ちゃんの右腕、一回根元から綺麗に吹っ飛んだんだぞ!」
「すぐ生え変わったじゃん!」
「生やす方の身にもなれ!! 俺がここまでどんな思いで……っ!」
涙目になりながら怒鳴り散らす俺の顔面を、五条はペチッと軽い平手で押し退けようとしながら、どこかバツの悪そうな顔をした。
「しょうがねーだろ。さっきまではオマエのパーツが菜緒葉の脳と心臓にまでみっしり詰まってたんだから。戦ってる途中でだんだん印象改善してきたとはいえ、そんな奴を信用して交渉できるか?」
六眼が俺の中の何かを透かし見るように細められる。
「それは……」
あれ? 待てよ。
五条の野郎、意外にもぐうの音も出ない程の正論を言ってないか?
俺の方だってつい数分前までは、五条に対しては「甚爾くんも菜緒葉ちゃんも奪っていくクソ野郎」という認識しか持っていなかった。マトモな交渉に応じる気なんて微塵もなかった。
それに、菜緒葉ちゃんの脳や心臓に自分のパーツが蠢いて根を張っていたなんて、俺自身にすらそんな猟奇的な自覚は微塵もなかったわけで……。
いや、だがしかし、その辺の「君、今寄生虫状態だよ」っていう現実を、最初の段階でもう少し優しく穏やかに丁寧にプレゼンしてくれていれば、俺だってもうちょっと——。
うーん……。
「あと、さっきは俺の脳みそまで直接いじり回して洗脳しようとしてきたろ。菜緒葉だって脳を物理的に弄られて、オマエを庇ってるだけの可能性だってゼロじゃなかった」
「……今も、そう思ってる訳?」
「全然思ってねえよ。だが、俺の脳に変な改変かけようとした事実は消えないからな」
胡散臭そうに見上げてくる五条。きわめて都合の悪いところを突かれた俺はとりあえず視線を逸らし、あざとくキュートに言い張ることにした。
「自衛だもん!!」
猛烈な罪悪感が胸を刺した。アレが自衛の範疇に収まるかというと微妙だし、保身のための大嘘をついている自覚はあったからだ。そもそものところには全人類を呪術師にするために五条は邪魔だという私情もあったし、精神の可塑性に干渉し、意志を書き換えるという行為は、ある意味で肉体を殺傷するよりも遥かに悪質で凶悪な侵害になり得る。
しかし五条はそれ以上追及しなかった。
「ふーん……まあいっか。今は無事だし」
あっさりと追及を打ち切られ、俺は内心胸を撫でおろした。助かった。本気で掘り返されたらぐうの音も出ない。
「──で、菜緒葉ちゃんからもらった物を突っ返すってどうやればいいの? 俺、そもそも自分が式神だっていう自覚すら怪しかったんだから、やり方なんて分かるわけないじゃん」
これこそが、戦闘を中断してでも聞き出さなければならない最重要課題だった。
六眼というこの世で最も精密で絶対的な観測機関が、今、満身創痍で俺の目の前に転がっている。複雑な感情は山ほどあるが、この規格外の男から情報を引き出して菜緒葉ちゃんを救出できるのなら、俺は悪魔にだって魂を売る。
五条の側にも、もうこちらの隙を突いて倒そうという気迫は感じられない。一時休戦だ。
「そういうアホなペットの話たまに聞くよな。自分が飼い主と同じ種族だと思い込んでんの」
「もう一回真・世界斬でぶった斬ってやろうかぁこのクソガキ? ……というか俺、式神自体数回しかナマで見たことがないんだよ」
式神遣いは呪術師の中ではメジャーな部類だが、禪院家は俺を対呪詛師任務にあてるのを避けていた。それでも、たとえば生きていた頃の真男佳のように、等級の高い呪霊には術式のうちに式神が組み込まれている者もそれなりにいたけれど……アイツらと俺が同種?
正直、あんまりそういう実感は湧かない。
ただ──
「菜緒葉ちゃんのお母様が、光の輪っかみたいな綺麗な式神を従えていたんだ。俺の本体もたぶんアレと同系統の存在なんだと思うけど……でも、あの輪っかに感情や自我みたいなものは存在しなかったよ? そもそも式神に自我なんて芽生えるものなのか?」
「動物の式神は撫でたら喜ぶし、喋る式神も見たことがあるよ。高性能のAIみたいな感じでさ。だけど術者を乗っ取って八ツ橋を配り出す式神は、呪術の歴史探しても前例がねえよ」
「おっ、褒めてる? 俺、その辺の人間……例えば
場を和ませようと軽いジョークを飛ばしてみたのだが、五条はニコリともせず、ただじっと俺の──いや、菜緒葉ちゃんの体を凝視していた。
そうしながらゆっくりと上体を起こそうとして、途中で諦めて肘をつく。血溜まりが泥と混ざって、赤黒く粘っこい輪を作っている。俺はそこでようやく自分がまだコイツに馬乗りになっていることを思い出し、なんとなく気まずくなって、そっとすぐ横の地べたに座り直した。
五条はこちらの胴体──というか、俺の本体が宿っているであろう部分をガン見したまま、考え込むような調子になって言った。
「オマエの術式効果が将来の脅威への包括的な適応っぽいから……周辺環境への適応も術式に組み込まれてるんじゃない?」
「ほうほう、なるほど」
「っていうかさ、その適応の許容量がデカすぎるせいで術式自体が暴走してんだよ。今も菜緒葉の体内で、ペンダントのチェーンが絡まるみたいに光の輪っかがあちこちの神経に絡みついてる。解呪と同じ要領で、その絡まりを一本ずつ解いていけば、理論上は暴走が収まって、『返品』も上手くいくんじゃない?」
「ほえー」
五条が「『ほえー』とか言うなキモい」と言いたげな顔でこちらを睨んできた。鬱陶しい。こちとら可憐な美幼女の肉体に宿ってからというもの、調子に乗って「ほえー」と萌えキャラっぽく感嘆してみるのが密かなマイブームだったのだが、「いくら外見がかわいくても流石に『ほえー』はちょっとイタいかも」という今の年齢になってからも、たまにうっかりこうやって口が滑ってしまうのだ。
菜緒葉ちゃん本体すら、そんな間の抜けた感嘆詞は口にしないというのに……。
ともあれ俺は意識を自分の内側──菜緒葉ちゃんの肉体の深層へと沈めることを試み、探索を開始した。
初めてなのに、自分の輪郭を確かめるという行為は、その気になれば案外簡単に行った。
自分の中に輪っかが沢山あって、その輪っかは感知器官でもあるからだ。普段は自分の形状も力の使い方も意識していないからちっとも気づかなかった──あるいは、菜緒葉ちゃんが真男佳をしばいて俺が気づかないよう誤魔化していたのかもしれない。状況が状況だから受け入れざるを得なくなっているが、これは常人ならSAN値直葬案件だ。俺が逆の立場でも墓場まで持っていくと思う。
体の内側は思っていたよりずっと静かだった。肉とか血とか内臓とか、そういう生々しいものは何も感じない。あるのは呪力の流れの気配だけだ。地下の配管に耳を当てているのに似ている。どこかで水が流れている。どこかで何かが軋んでいる。その暗がりの中に、五条の言った通りのものがたしかにあった。
指輪くらいのサイズのメインの輪っかが1つあって、そこから無数の輪っかが連なって増殖し、更に輪っかを作りながら縺れ合うような具合だ。これが心臓や脳にまで達しているのが見えていたなら、さぞ気色悪かっただろう。量が減ってくれて、解きやすくなってくれているおかげで助かった。五条のお手柄かもしれない。そこに「コレと戦ってみたい!」という五条の私情が一切なかったかと言うと、それもまた少し怪しいが。
ゆっくり絡まってるものを解きながら、ふと気づく。
「──今日の縛りと同じくらい大きな何かを菜緒葉ちゃんは背負っていて、それが彼女にものすごいダメージを与えているみたいなんだけど……」
ひとりごちるように言うと、五条がのんきに仮説を挙げた。
「うーん、俺への適応?」
五条も俺のことを、無下限破りのために生み出された運命の宿敵として認識していたらしい。
「オマエへの適応にそこまで力を回してるなら、今頃オマエを2.5条にできてないとおかしいと思うんだけど……」
「いや、そういうことも普通にあるだろ。俺最強なんだから」
「うっざー! うざい! 五条うざすぎ!」
絶対それじゃないだろう。感情に任せて子供っぽく罵倒しながらも、電撃のような閃きが走る。
そうか──そういうことだったのか!
菜緒葉ちゃんは、本来なら式神である俺自身が負うべき『予測』の負荷を、その身一つで請け負っていた。
そして『予測』の最重要パートのダイジェスト──音MADの知識だけが、必要事項として俺の中にインストールされたのだ!!
……だとしたら。
もし、この縛りを破棄すると同時に、彼女が肩代わりさせられていた演算の記憶と負荷を、俺が正しく引き受ける契約ができたなら。
「五条、これから菜緒葉ちゃんを取り戻しにいくよ。……戻ったら3人で戦闘の続きをしような」
そう言いながらも、俺には薄々わかっている。俺が来た当初の小さな菜緒葉ちゃんの魂が沈み込んでいたのは『予測』のメモリ負荷のせいだし、初潮の後に真男佳を取り込むまで人格が混濁していたのも、多分これと関係している。つまり、俺だってダメージを喰らって数ヶ月間出てこられなくなる可能性はゼロじゃないのだ。でも、このメモリのせいで菜緒葉ちゃんが苦しんで直哉と上手く向き合えなくなっているのであれば、俺が請け負い直したい。動物園のライオンの檻の前で、菜緒葉ちゃんは一体直哉と何を話したのだろう?
「──昔、菜緒葉ちゃんのお母様と約束したんだ。菜緒葉ちゃんを絶対守るって。だから、俺がしばらく動けない間の菜緒葉ちゃんをよろしくね」
俺の内心の決意をわかっているのかいないのか──いや、本当はわかっているのだろう。五条は片眉を上げた。
「わかった。念のため縛っとく?」
「うん」
五条はあっさりと縛りを受け入れた。世界で一番憎たらしくて邪魔っけな存在のはずなのに、こうやってなんだかんだで優しいせいで憎みきれない。五条は甚爾くんを殺した癖に、菜緒葉ちゃんを助けようともしてくれた。コイツに頼るしかない今の俺を甚爾くんがどう思うのかは、上手く想像できなかった。
晩夏の風が吹き抜け、焦げた草の香りを遠くへ運んでいく。俺はそっと目を閉じ、己の存在の根幹にある光の輪へと、深く意識を差し入れていった。
◇
少女は膝を揃えて座ったまま目を閉じている。時折、眉のあたりが微かに動く。体の内側の暗がりを手探りしているのだろう。
五条は少し離れた倒木に背中を預け、腹の傷に手を当てたまま、その様子を眺めていた。反転術式の熱が腹の底でとろとろと回っている。急ぐ必要はない。どうせしばらくは動く気にもならない。
六眼に映る目を閉じた少女の姿は、最初ほど寄生虫まみれではなかった。おまけに当の寄生虫の見た目も、最初ほど不快には思えなくなってきている。骨盤の奥に収まる呪霊の核を取り囲むようにしてとぐろを巻いているその形は、まるで小蛇か何かのようだ。締まりのない輪がゆっくりと解けていく。1本ずつ。丁寧に。
それでも少女の体格は小さく、腹があまりに薄っぺらいので、何かの拍子に内臓が破けて死んでしまわないかとどうしても気にはなるのだけれども──マコが上手く菜緒葉を救出してくれるのを願うしかない。助ける予定だった女の子を死なせる瀬戸際だったというのは、五条からしてもそれなりに堪える部分はあった。
顔にかかった前髪を払う。指先に乾いた血が引っかかった。
伏黒甚爾との戦いのやり直し。
天内理子の救済のやり直し。
今にして思えば無意識に願っていたかもしれないそれらの夢想については、結局どちらも成立のしようがなかった。今回の顛末から五条が学んだのは、「自分が救えるのは他人に救われる準備がある奴だけだ」ということだった。禪院家は噂通りの場所だが、それでも菜緒葉にとっては認められたかった大事な家族らしかった。小さい頃に助けてやらなかったせいで大変な状態になってしまったのだと思っていたが、だからと言って彼女の生き方や理想を否定するのは、菜緒葉を助けることとは違った。
そして甚爾が気にしていたのがマコだけなら、「会いに行け」は「憑かれた少女を救え」ではなかったことになる。五条は、3ヶ月前に殺した男の最期の頼みを危うく正反対に実行しかけていた。マコが初対面の時から攻撃的で殺意に満ちた態度を示していたのも、単に甚爾を殺した犯人を本気で恨んでいただけだったのだろう。あの式神は本当はストレートな性格で、意外に人情家のようだ。
本物の菜緒葉の方が、むしろまだ掴めていない。束の間繋がった心の中で見たのは、六眼が処理する情報の過剰ではなく、ただの視覚だ。制服の膝を揃えて座る。足をぶらぶらさせる。棚を漁られて言い返す。涙を拭う。それだけの仕草。それだけの仕草を無垢に眺めるのが、五条にとっては生まれて初めての経験だった。
加虐的に見えるのに少し強く押すと壊れる女。こちらの隠しているものを一瞬で探り当てて啄んでくる女。高飛車ながらも繊細で自己卑下に満ちていたが、甚爾に偽物扱いされて、一体どんな気持ちで受け入れていたのだろう。
それを知りたい。
そのためにもう一度会って、今度は壊さないように、でも手加減はしないように戦ってみたい。
目の前の少女は微動だにしない。腹の中の虫だけが蠢いている。汗が一筋、こめかみから顎へ落ちて、土に吸われた。
──自分には珍しく特定個人に肩入れしているが、どうしてだろう。
菜緒葉の腹の中で蠢く虫を見ながら少し考えてみて、ふと思い至った。
そういえば、自分が呪術高専に入る前に無量空処を使えるようになったのは、菜緒葉が領域展開を習得したと聞いて、結界術の練習を頑張ったからだった。あの頃は誰にも言わなかったし、言う必要も感じなかった。ただ、禪院家の子が先にやったと聞いて、対抗心が沸き起こって、それだけのことで数ヶ月潰した。
そういう些細で細かな積み重ねは、五条悟の人生において、何だかんだで貴重だったのだ。
五条は倒木に頭を預け、眩しさに目を細めながら、青空を見上げた。
あの経験をくれたのはどこまでが本当の菜緒葉で、どこまでがマコだったのか、それとも2人で協力したのかは──また後で聞いてみよう。
◇
──さて。
実のところ、全ての発端は禪院直哉の相伝の発現だった。
禪院家において、相伝の術式が発現した日というのは、その子の誕生日よりも重い。
生まれた日というのは要するに、生まれたというだけの日である。誰でも一度は通る。しかし術式の発現は違う。それは禪院家が子供を人間として数え直す日であり、それまでの何年かをまとめて清算する日でもある。値札を貼る日だと言い換えてもいい。
当時の禪院家は空気が悪かった。ライバルである五条の家に数百年に一度の神童である悟が生まれたというのに、それに引き換え今代の禪院の子はみんな弱い、と大人たちは渋い顔で言い合っていた。その矢先に直哉の『投射呪法』が出た。五条の神童には遠く及ばないにせよ、将来1級になるのはまず間違いない。屋敷は一晩で明るくなった。
だが、直哉と菜緒葉の母が実家に戻されたのは、不運にもその少し前のことだった。誰も「返した」とは言わない。「養生」という言葉が使われた。菜緒葉はその欺瞞が嫌いだった。「畜生腹」という中傷が母を弱らせて追い出したことは、菜緒葉の目には自明だったからだ。でも、直哉は母親が自分達を置いて逃げたのだと言って怒っていた。菜緒葉は何度も母を庇ったが、最後は諦めた。それから、弟はバカだからそうしないと自分の心を守れないんだと考えた。
お箸を使えるようになったのも、ひらがなを書けるようになったのも、直哉よりも菜緒葉の方が断然早い。
菜緒葉は本当に賢かった。けれどもそこには「子供の割には」という但し書きが常につく。
直哉が相伝の祝いの席に向かった後、菜緒葉は厨房へ行った。行った理由は単純である。何もしないでいると、自分が「祝われる側でも祝う側でもない何か」になってしまう気がしたからだ。その日の屋敷には、その二つ以外の区分が存在しないように見えた。お給仕ができなくても、皿を洗うくらいならできないか。幼児の思考としては上出来だった。
板場では女中たちが数時間前から働いていた。菜緒葉が声をかけると、手を止めた者が3人ほどいた。
「まあ、菜緒葉お嬢様が」
「お手伝いを? そんな、とんでもない」
「まあまあ、なんてお優しい」
同情という感情は、その場ではたいてい賞賛の形をして出てくる。この年で女としての務めを理解している、いい子だと、彼女たちは口々に言った。何人かは本気で感心してもいた。
実際、菜緒葉は年齢の割には物言いがとてもしっかりしていて、敬語も使えた。元々この家の女中は皆古風な家の出身だから、話し方も古風な者が多いというのと──以前直毘人が観ているアニメのお嬢様口調を真似っこしたら、可愛いと言って貰えて嬉しかったという、ただそれだけの上っ面な模倣でしかなかったのだが。
でも、実際のところ、その日の厨房に、幼児へ振れる仕事はひとつもなかった。女中の労働というのは外から想像されるよりも遥かに技能的で、遥かに殺伐としている。まして当主が在宅で、宴が立つ日の膳だ。豆を選らせるにも教える人手を割かねばならず、割いた分だけどこかが遅れる。
だから菜緒葉は、ずっと板場の隅に立っていた。邪魔にならないようにと思って選んだ場所は、二度ほど「お嬢様、そこは」と言われて動かされた。三度目に落ち着いたのは、火からも水からも遠い場所だった。つまり、何も起きない場所である。菜緒葉にはお手伝いができる能力はなかったが、自分が邪魔になっていると察せる程度には賢かった。
菜緒葉は立ったまま泣きべそをかき始めたが、それを慰める余裕さえ誰にもなかった。相伝の祝いで粗相がありでもしたら、自分達が明日どうなるかもわからない。そのまま日が落ち、膳が座敷へ運ばれていった後のことだった。
「──この子には、私が食べさせますから」
女中頭──扇の妻が菜緒葉の肩を抱いた。衿は寸分の乱れもなく合わさっていて、帯の結び目は一日の立ち働いた後にもかかわらず端正だ。彼女が菜緒葉を連れて行ったのは、廊下の突き当たりの空き部屋だった。使われていない八畳。隅に埃の輪郭がある。
そこで彼女は菜緒葉に食事を食べさせた。冷めた米とお吸い物と、煮物の残り。別に意地悪や理不尽でそうした訳ではない。この当時の禪院家には保温ジャーも電子レンジもなかった。そしてそれを理不尽だと呼ぶ者はいなかった。理不尽と呼ぶにはあまりにも当たり前の日常だからだ。菜緒葉は箸を持ったまま、しばらく動かなかった。
それからまた泣いた。
不味かったからではない。その盆が自分のためにわざわざ用意された物だとはっきりわかってしまったからだ。他の女中は立ったまま食事をしていた。それと同じことを菜緒葉にさせるのがあまりにも憐れだと、扇の妻は気遣ってくれた。その情けの中身さえ、これだった。
「こういうことは、これから何回もあるのよ」
扇の妻は淡々と言った。賢い菜緒葉に嘘をついて希望を持たせることこそかえって残酷になるのだと、同じように聡明な彼女は知っていたからだ。菜緒葉は人生最悪のこの日がこれからも何回も続くのだと知ってしまって、それでも泣きながら用意されたものを全部食べた。残すという選択肢が思いつかなかっただけで、それ以上の意味はない。
──夜、直哉が帰ってくるまでに涙を止めて笑顔を作ったのは、意地だった。嫉妬したり泣いたりするのはダサい。
直哉は宴席がどれだけ楽しかったのかの自慢を沢山した。その一言一言に菜緒葉は心をナイフで抉られるような思いだったが、ニコニコ笑っていた。弟の幸せを喜べないような酷い姉にはなりたくなかった。
「……で、明日から5時おきやねん」
「なら、私もいっしょにおきますわ!」
菜緒葉は即座にそう宣言した。
我ながらいい思いつきだと思った。特訓の中身には参加できなくても、起きる時間になら並べる。直哉とはなるべく全部をお揃いのままにしたい。
「えー、菜緒葉ちゃんにはムリやない?」
「ゼッタイおきますわ!!」
「ゆーてムリやろ……」
「じゃあムリにでもおこしなさいよ」
直哉は約束してくれた。それだけがこの日の救いだった。
けれどもその約束は破られたし、数日後には直哉だけが別の広い部屋に移された。
菜緒葉は1人の部屋でまた泣いた。
1人の時はいつも泣くようになった。
どうして自分がこんな目に遭わなくてはいけないのかがさっぱりわからなかった。菜緒葉は直哉より賢くて、いつも直哉を守る側だった。大人は菜緒葉の賢さを褒めて、直哉にも「少しは見習え」といつも言っていた。──そこに少しも見下しの快感がなかったとは言えない。そのバチが当たったのだろうか。他に思い当たる悪行なんて、菜緒葉には何一つなかった。
でも、直哉だって菜緒葉を出涸らしと呼んでいた。菜緒葉はそれを許していた。
許していたのに!
そしてある日、直哉は言った。
「俺の三歩後ろ。そこがこれからの菜緒葉ちゃんの特等席や! 出涸らしのお前はそこで、俺が強くなっていくのをずっと見上げとったらええねん」
菜緒葉はその時初めて弟を恨んだ。しかし、以後、菜緒葉はそのように振る舞った。振る舞いながら思い詰めていった。
考えていたことは単純である。呪術師になりたい。直哉のように。
しかし女は基本的に呪術師にならない。普通のやり方では無理だ。普通でないものが要る。
十種影法術が欲しかった。
あれなら投射呪法よりすごい。女でも当主になれるかもしれない。お父様が直哉だけでなく自分もかわいがってくれるかもしれない。母を呼び戻せるかもしれない。
それを祈る夜が、何百夜。
目が覚めると、隣には誰もいない。
そして、術式が出た。
『予測と適応』。
母の術式だった。
この術式の仕組みは突き詰めれば二段構えの機構でしかない。術式が未来における最大の脅威を予測しては、その脅威を乗り越えるに相応しい術式を術者と命を共有する1体の式神へと随時実装する。それだけだ。
その出力は術者本人の器の大きさをそのまま上限とする。式神が、己がおらず、代わりに己の存在に相当する量の呪力を持っていた場合の術者の人生のIFを演算するためだ。
また、式神そのものが一般的には術者の呪力から生じ、術者の思考回路を鋳型として形を得る。
だから強い者が持てば強く、弱い者が持てば弱い。
欠陥はそれだけに留まらない。術式の実装は術者の意思と無関係に起動し、その間、式神は動けず、術者の呪力は際限なく吸い上げられ続ける。中断は許されない。強引に止めれば負荷は術者に返る。そして脅威が術者の器を上回りすぎている場合──すなわち予測の結論が死の一択に収束してしまった場合、適応は完了することなく空転を続け、術者の呪力と生命だけを喰い続ける。
ひとりぼっちの部屋に浮かぶ光の輪に、菜緒葉はまずは名前をつけた。
欲しかった名前から、届かなかった一文字を落とした名前である。
次の手順で悩んだ。誰にも言える気がしなかった。言えば直哉に追いつける可能性が本当にゼロになると思ったからだ。
そして廊下からの大きめの足音を聞いた瞬間、菜緒葉はそれを飲んだ。
考えて飲んだのではない。咄嗟だった。直哉に見つかったら永遠に見下される、という一点だけが頭にあった。
式神と術者は命を共有する。それを胃に収めるというのは、要するに自分の命を自分の内側に隠す作業でもあった。とはいえ当時の菜緒葉はその無茶さを正確には理解していなかった。見つからない場所に置いておきたい、とだけ考えていた。
続けて、縛りを2つ足した。
『予測』も『適応』も、どういう結果になろうが一回きりに留める縛り。
『予測』の負荷を式神ではなく自分自身が肩代わりする縛り。
そして祈った。
──二度とこんな目に遭わなくていいのなら、何でもします。そのためなら、死んでもいいです。そして、直哉と一緒に、両面宿儺みたいな最強の呪術師になれますように。直哉に置いていかれるくらいなら、死にます。もう二度と、直哉よりお寝坊しませんから、私にそのための力をください。
縛りとして成立したかも、成立したとしてもどの程度術式性能の向上に貢献したかも認識できないままの祈りだった。しかしこれらの言葉は全部、後の彼女の術式の輪郭に混ざり込むことになる。
この時、菜緒葉は自分を世界で一番不幸な子供だと思っていた。
勿論そんなことはない。世の中には、この時点の菜緒葉より不幸な子供がいくらでもいる。何十人も何百人も、何万人もいる。禪院の屋敷の外どころか、屋敷の中にもいた。たとえば弟に置いて行かれることは、実の家族から呪霊の群れの中に投げ込まれることよりも不幸だろうか?
もしも世界の残酷さをもっとよく知っていたなら、もう少し違う願い方をしただろう。もう少し狭く、もう少し臆病に、もう少し取り消しの効く形で。
だが、菜緒葉はどこまでも子供だった。
斯くして、『予測』が始まった。
投票者300人突破しました。
読んでくださっている皆様、本当にありがとうございます!
『予測』ツアーが5話程度続いてから後半戦の予定ですので、今後ともよろしくお願いいたします…!