音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
1990年の日本において、夫が妻の妊婦健診に付き添うという行為はごく一部の熱心で近代的な家庭にのみ見られる風景だった。産科の待合室に成人男性がいれば、看護師のほうが軽く驚く。
だからこそ禪院直毘人は、妻からの重大な報告を口頭で聞かされただけだった。
「お医者様が言うには、ふたつ見えとるそうです。でも、この時期は片方が消えてしまうこともよくありますから、確定はもう少し先にしましょう……やって」
上質な藍鼠の着物を上品に着こなした、若く美しい後妻。光の輪を傍らに浮かせた彼女が小鳥のさえずりのように軽やかに、しかしどこか試すような声色で報告するのを眺めながら、直毘人はその豪快な風貌の内側で、冷酷で現実的な計算を巡らせていた。──もし本当に双子が生まれたら、面倒なことになる、と。
直毘人はとうに当主としての血の務めを果たし終えていた。先妻や妾との間に、既に7人もの男児をもうけている。だから若い後妻を娶ったのは半ば道楽だ。気が強くて見栄えが良く、何より自分という男の力に心底惚れ込んでいる女。そういう華やかな小鳥を籠に囲い込むのは、男として単純に気分が良かった。しかしその反面、「この女との子ならさぞかし優秀で愛らしい珠玉のような子が生まれるだろう」という甘い期待を抱いていたのも事実だった。相伝の子が欲しい。できれば十種影法術。かつては優秀な呪術師だったこの女との間になら、間違いなく才能のある子が生まれる。
だが、双子というのは不味い。呪術界において双子は凶兆として忌み嫌われる。ただでさえ少し前に五条家で六眼を持つ規格外の神童が誕生し、パワーバランスが大きく揺らいでいる最中だ。ここで当主の血筋から凶兆を生み出せば、家内での求心力は確実に削がれる。弟の扇に裏で何と言われるか、わかったものではない。
とはいえ、直毘人は女の不安を煽るほど腹の据わらない男ではなかった。
「医者がそう言うなら、次の検診まで待つしかあるまい。今ふたつ見えてるんなら、一旦2人分の祝いだ。今日は一升瓶開けるぞ! 酌しろ酌!」
そう豪快に笑い飛ばして妻を抱き寄せ、直毘人はその場を丸く収めた。
そもそも、妊娠初期の不確定な段階で頭を悩ませても詮無いことだ。この時期に双胎が確認されていても、12週未満のうちに片方の成長が止まり、自然に母体へと吸収されて幻のように消え去る現象は、臨床上頻繁に起きている。いわゆるバニシング・ツインだ。片方が消えてくれれば何の問題もない。
けれども、直毘人の顔にほんの一瞬だけよぎった翳りを見逃すほど、この若き妻は愚鈍ではなかった。直毘人が酒に飲まれ、上機嫌の頂点に達した頃合いを見計らい、女はそっと身をすり寄せて囁いた。
「ねえ、子供……実家に帰って産みたいんやけど、ええやろか?」
「わざわざ帰らずとも、この家で産めばいいだろうが」
「えー、嫌やわ。この家の人たち、みんな陰湿やし。息が詰まるんよ」
禪院本家の人間が総じて底意地が悪いのは紛れもない事実だった。
だから直毘人は鷹揚に頷き、それを了承した。
そもそも里帰り出産は当時の日本において半数近い妊婦が選択する当たり前の風習であり、当主としてそれを真っ向から拒絶する大義名分を探すほうが難しかったのだ。
──女の実家は、地方都市に建つ豪奢な洋館だった。彼女の母親と家督を継いだ実兄の一家が暮らすその館は、一族の資本主義的な欲望と変遷の歴史そのものだ。
もともとはしがない薬種商に過ぎなかったこの家は明治維新の波に乗って西洋薬の取り扱いを始め、同時に富国強兵の国策である養蚕向けの資材販売へと手を広げた。そして養蚕農家に金を貸し付け、担保として土地と設備を剥ぎ取っていくうちに、いつしか製糸業そのものに深く足を突っ込んでいた。そして大戦景気の狂乱の中で莫大な富を築き、見事な洋館を建てた。
生糸の価格が暴落し、蚕の時代が終わった後も、本業である薬の商売はしぶとく生き残った。戦後の一時期には駆虫薬の販売で一山当て、延命を果たした。
その後は細々と残った薬事の赤字をかつて掠め取った土地の不動産収入で補填するジリ貧の経営が続いていたが──そこに、日本中を狂わせたバブル経済が到来した。おまけに、禪院家という呪術界の頂点からの1億円という途方もない現金まで転がり込んだのだ。
だからこの当時、女の兄は万能感の絶頂にいた。来年には、手持ちの土地に巨大な温浴施設を着工する計画まで立てていた。株価が前年末を境に崩れ始めていることを彼は日本経済新聞の紙面で読んで知ってはいた。だが、それはどこか遠い世界のマネーゲームの話であり、実体経済に根ざした自分の商売には一切関係のない対岸の火事だとタカを括っていた。
当時そう思い上がっていた人間は日本中に腐るほどいて、その大半が彼と全く同じ惨めな末路を辿ることになる。
──女が双子を宿していることが医学的に確定したのと、日本のバブル経済が実体として崩壊の音を立て始めたのは、奇しくもほぼ同時期だった。そして、女の妹が新婚早々に重篤な子宮の病を患い、二度と子供が産めない身体になったと宣告されたのも、まさにその頃だ。
双子の片方が〈男〉として生まれることがわかった時点で、女の式神は禪院家という巨大なシステムが抱える構造的欠陥と、やがて訪れる完全な崩壊への不可能な適応を試み始めていた。
まだこの世に影も形もない禪院真希が将来どのような惨劇を引き起こすのか。そして、禪院直哉が彼女に何を行い、結果としてどのような報復を受けることになるのか。式神の演算機能は、時間軸を超越してその破滅のプロセスを『予測』し、過負荷に悲鳴を上げ始めた。
女は心身の衰弱と共に、双子を宿した我が身の不運を心から呪った。
一方、非術師の世界でも人間の醜悪な欲望が蠢いていた。女の兄は、事業の資金繰りが悪化する中、妹の胎内にいる双子の片割れに目をつけた。禪院家の血を引く娘という極上のカードを手元に置いておけば、将来的に1億円の結納金の再来、あるいはそれ以上の強力なコネクションに利用できると目論んだのだ。
女の妹は、双子を授かりながら「片方が消えればいい」と嘆く姉の強欲さを激しく憎悪した。子を成せなくなった己の絶望の底で「いらないと言うのならその片方を私によこせ」と泣き喚いた。
一族を支配する女の母──直哉と菜緒葉の祖母は、その醜い利害関係を冷徹な目で見極め、残酷な計画を認可した。
双子の片割れの娘の呪力水準が将来高く売れるほどに潤沢であるならば、妹の子として秘密裏に引き取るという計画を。
そして、『予測』の仕様上、術式を持たない菜緒葉は莫大な呪力を内包して生まれる。
悲劇を完成させるために必要だったのは、高度な呪術でも、血生臭い暗殺でもなかった。
ただ、産科病院の院長に分厚い札束を握らせ、役所に提出する出生証明書の内容を書き換える。それだけのことだ。
──こうして1990年。バブルの崩壊と歩調を合わせるように、ひとりの少女が戸籍上の両親を偽装され、禪院直哉の双子の姉としての存在を完全に抹消されて、この狂った世界に産み落とされたのだった。
◇
菜緒葉中3の夏。山奥の全寮制お嬢様学校から一族を支配していた祖母の葬儀のためだけに実家へと呼び戻された日のことだった。
「……という訳で、菜緒葉ちゃんの本当のお父さんは禪院直毘人さんなんや」
伯父は一族の秘密を菜緒葉に打ち明けた。
茹だるような夏の盛りだった。庭の木々で狂ったように鳴き立てる蝉の鳴き声が分厚いカーテンに遮られた室内にも容赦なく響き渡っている。
かつては大戦景気の象徴として豪奢を誇ったこの洋館も、今は金唐革紙の壁が黒ずんでいる。竣工当初には電灯とガス灯の折衷のシャンデリアがかかっていた天井は、今はいくらか安っぽい蛍光灯の輪に付け替えられた。
その埃っぽく樟脳臭い応接間で、深刻ぶった顔を作る伯父に対し、菜緒葉はソーサーに乗せた冷めた紅茶を啜るような、ひどく平坦で冷え切った声で応じた。
「それくらいとっくに知ってますわよ、伯父様。本当のお母様が、亡くなる前にこっそり教えてくれましたもの」
「……は? 知っとったんか?」
伯父が間の抜けた声を出して額に浮いた脂汗をハンカチで乱暴に拭ったが、向き合って金華山織のソファに深く腰掛けた菜緒葉は微塵も表情を動かさなかった。
「ええ。ですから、今さらそんな勿体ぶってお話しされるようなことではありませんわ。むしろ、どうして今まで私が何も気づいていないと本気で信じていられたのか、伯父様たちの能天気さが不思議なくらいです」
数年前に死の淵にあった実母からその事実を告げられた時、菜緒葉の胸にストンと落ちたのは、悲劇のヒロインめいた安い感傷などではなかった。パズルの最後のピースが嵌ったような圧倒的な納得だ。
戸籍上の母親である叔母とは、物心ついた時から絶望的なまでに反りが合わなかった。ただでさえ腹を痛めて産んだ実の子ではない。そのうえ視線の定まらない虚空を見つめ、薄気味悪いお化けを日常的に視界に収めている異常な娘を誰が愛せるだろうか。
伯父の会社の取引先でペコペコと頭を下げるしがない営業マンだった戸籍上の「父親」も、菜緒葉の異質さを気味悪がっていた。禪院からの莫大な援助が縮小され、伯父の経営する会社が明らかに再起不能の泥沼に沈むと、夫婦仲は氷点下まで冷え込み、菜緒葉が小6の時にあっさりと離婚した。その後すぐ、菜緒葉は厄介払いとばかりに伯父と叔母の手で山奥の全寮制女子校に放り込まれたのだ。
だから彼女は「私の本当のお父様は日本を裏から守るヒーローなんですのね」とたわいない慰めで心を癒やしながら、周囲の家族のことは心底侮蔑していた。
「伯父様。お祖母様がお亡くなりになって、いよいよ首が回らなくなったのですね?」
「なっ……お前、子供のくせになんちゅう言い草や!」
「図星でしょう。あの健康ランド、今では莫大な負債だけを生み出す巨大コンクリートの粗大ゴミと化していますものね。忌み子の私なんかに出すお金はもうないと言うのでしょう。──そう言われるかと思って、図書室のパソコンで奨学金の制度を調べて、公立高校の受験についても準備を進めておりましたのよ」
菜緒葉自身、エスカレーター式の今のお嬢様学校にこのまま進学するのは、どう計算しても無理だろうと見切りをつけていたのだ。だから誰にも頼らず自立して、自分の力だけでこの先を生きていこうと中学生なりに算段していた。けれども、菜緒葉の大人たちに対する見立ては、あまりにも甘かった。
「いや、菜緒葉ちゃん。菜緒葉ちゃんには禪院の家で住み込みで働いてもらう」
「……はい?」
菜緒葉は絶句した。
実のところ、この男は禁断のカードを切っていたのだ。裏で禪院直毘人に接触し、長年隠蔽してきた双子の娘の存在を突きつけて多額の現金を要求するという恐喝紛いの取引を。
「……お前かて、今のうちの状況はわかっとるやろ。向こうは引き取り金として3000万くれるんやと。あちらの懐からすれば、痛くも痒くもない端金やろうけどな」
伯父は言い訳がましく、しかしどこか大人の力で子供を物理的に脅しつけるようなねっとりとした低い声で言った。
恐喝を受けた直毘人の対応は冷酷なまでに合理的だった。今更双子の娘など出てこようものなら、愛息・直哉の絶対的な価値に泥を塗り、ひいては亡き妻の名誉や自分の立場をも著しく損ねることになる。だから直毘人は面倒な火種を紙幣の束で揉み消した。ただし、条件をつけて。
「金を払ったうえで、その娘はこちらで引き取ると言われたんや。表向きは『没落した親戚の哀れな娘を、当主の温情で下働きとして召し抱えた』……そういうことにしておく。だから今後一切、二度と禪院に関わるなと、きつく釘を刺されたわ」
3000万円はこれまでの養育費代わり。それ以上を要求してくるのなら、命も無事では済まさないということだ。ただし、伯父はその辺りの機微はあまり認識していない。とりあえずは3000万円のおかげで洋館を売るのが先延ばしになったと思って喜んでいるだけだ。
しかし菜緒葉からすると、そんなのは堪ったものではなかった。
「……3000万? たったそれだけの端金で、私を売り飛ばしたんですの?」
「人聞きの悪いこと言うな! お前の将来を思ってのことや! 禪院に行かんというなら、それもええ。だが、さっきも言った通り、お前の学費なんかもう1円も出せん。それどころか、借金の取り立てがいつこの家に来るかもわからんのやぞ!」
伯父は顔を真っ赤にして立ち上がり円卓を叩いた。激しい怒鳴り声が応接間に響き渡る。
「お前みたいな器量良しなら、ヤクザは喜んで買うやろうな!」
「……」
ヤクザに売るというのは伯父の脅しだったが、世間知らずな菜緒葉にはそれがわからなかった。「高校へ行く」と「禪院家へ行く」の二択はたちまち「体を売る」と「禪院家へ行く」の二択へと塗り替えられた。
勿論、禪院家の方が何倍もいい。
菜緒葉は立ち上がって壁際に立ち、伯父の顔をみないようにした。壁に飾られているのは内国勧業博覧会の褒賞之証状、生糸工場の竣工記念の白黒写真、健康ランドの完成予想図のパネル、それから繭の品種標本だ。白繭、黄繭、そして緑がかった野蚕。この繭はいつ普及したかというような説明が札に書いてある。
物置には逆に、異常繭の見本板が置きっぱなしになっていたのを、菜緒葉はふと思い出した。2匹の幼虫が一緒に作った玉繭。ああいうモノは、表に飾って貰えないのだろうか。
それでも、本当の家族と一緒に暮らせるなら、今より少しは幸せになれるかもしれない。
「わかりました。禪院に行きますわ、伯父様。これまで育ててくださってありがとうございました」
菜緒葉は泣くのを堪えた。
少なくとも、伯父の前では。
応接間を出て、階段の辺りまで行くともう我慢できなかった。丸窓のステンドグラスから差す緑と乳白色、それから琥珀色の灯りの下で、菜緒葉は立ち止まった。
階段の壁の上りに沿った斜めの並びには、歴代の当主の肖像写真が吊られている。初代の肖像だけが油彩で、二代目からは写真だ。額は紐で吊られ、全部がわずかに前傾している。並びを見上げると、男の顔だけが続く。
女の顔がひとつもないことが、初めて気になった。
◇
ある夜のこと。直毘人が私室へ戻る廊下の隅で、躯倶留隊の若い男が恭しく平伏していた。
「当主様。先日、遠方の任務に出向きました折、珍しい地酒が手に入りましたので……どうか、お召し上がりください」
坊主頭に黒マスクの男は緊張した面持ちで桐箱に入った酒瓶を差し出す。直毘人は足を止めることもなく、ただ機嫌良さそうに目を細めた。
「おう、そりゃあ気が利くな。ご苦労だった」
適当だが愛想の良い労いの言葉をかけ、そのまま背後に控えていた菜緒葉へと顎でしゃくる。
「ほら。早速こいつを頼む」
「かしこまりました」
男が安堵したように頭を下げるのを尻目に、菜緒葉は滑らかな手つきで酒瓶を受け取り、直毘人の後を追って私室へと入った。
夜の帳が下りた当主の部屋。菜緒葉は音もなく畳に膝を滑らせ、漆塗りの角盆を据える。菜緒葉は手早く冷えた錫の薄盃を選び、手際よく酒を注いだ。酒の表面が盃の七分目まで美しく張られ、微かな吟醸香が部屋に漂う。
併せて添えたのは、夕刻に仕込んでおいた鯛の白身の昆布締めと、自家製の烏賊塩辛を軽く炙った小鉢だ。直毘人は胡座をかいたまま、何ひとつ指示を出すこともなく盃を取り、ぐっと一息に干した。
錫の盃がカツンと低い音を立てて盆に戻される。その音が響くか響かないかの刹那には、すでに菜緒葉の手から次の酒が滑らかに注がれていた。トクトクと澄んだ音が静寂を打つ。
炙った塩辛を箸でつついてから2杯目を呷り始めた直毘人は先ほどまでの鷹揚な態度から一転、菜緒葉へ向かってそっと身を乗り出し、内緒話でもするように、声を潜めて耳打ちしてくる。
「あいつの名前、誰だっけ?」
「源治様です。前にもお土産をくださりましたわ」
「あー、どっかで見た顔だと思ったんだ」
直毘人は悪びれる様子もなく破顔する。この様子だと多分、酔いが冷めた頃には今聞いた名前も忘れているだろう。
禪院家に迎え入れられてから半年以上、菜緒葉は父とも弟とも話せなかった。広大な敷地内において一介の下働きが当主や嫡男と気安く言葉を交わす機会などは存在するはずもない。
しかし、本家用の御膳所への抜擢がその距離を少しずつ変えていくことになる。
全寮制のお嬢様学校で徹底的に仕込まれた集団生活の心得と良妻賢母の教養は、皮肉なことに最高級の女中としての適性に繋がっていた。そうして御膳所での評価が揺るぎないものになると、必然的に当主である直毘人の晩酌の酌をする機会が増えていったのだ。
──お父様はいい人だ。
滑らかな所作で膳を整えながら、菜緒葉は冷めた頭の片隅でそう評価していた。娘を認知せず、女中として扱っている男は現代的な価値観からすると真っ当な善人とは言い難い。だが、浅ましい親族たちに比べれば、直毘人の態度は遥かに理性的で穏やかだ。直毘人がお金を出して引き取ってくれなければ自分は悲惨な目に遭っていただろうが、今は衣食住が保証され、凪のように平穏な日々が過ぎていく。それを思えば感謝の気持ちが込み上げてくる。皮肉なことに菜緒葉は、この呪われた屋敷で生まれて初めて自分の居場所と呼べる空間を築きつつあった。この主従関係がいつまでも続けばいい。本心からそう思っていた。
仕事を終えて洗い上げた漆器を蔵へ運ぶ途中、ひとりの女性とすれ違った。
「菜緒葉」
氷のように冷たく抑揚がない声に呼び止められ、菜緒葉は咄嗟に足を止めて深く頭を下げた。
「はい、奥様」
彼女は現在の禪院家において女中たちを束ねる女中頭であり、直毘人の弟・扇の妻でもある女性だった。灰茶色の着物を隙なく着こなし、黒髪を一糸乱れず結い上げている。整った顔からは能面のように感情が抜け落ちており、瞳の奥には光というものが一切存在しない。
「こちらでの仕事には、もう慣れましたか」
「はい。皆様の御指導のおかげで、滞りなく務めさせていただいておりますわ。お心遣い、感謝いたします」
菜緒葉が淀みなく、かつ出過ぎない謙虚さで答えると、女中頭は冷ややかな視線で菜緒葉を値踏みするように見つめた。
「……働きぶりについては私も耳にしています。当主様のお酌に指名されるなど、随分と重宝されているようですね」
「恐れ入ります」
「ですが、勘違いをしないことです」
女中頭は言った。
「あなたはあくまで、下働きの女中に過ぎません。少しばかり器量がいいからといって、分不相応な野心を抱くことは絶対に許されませんよ」
「野心など……そのようなものは一切」
「口答えは不要です」
女中頭は感情のない黒々とした瞳で菜緒葉を射抜いた。過去にこの屋敷でそのたぐいの過ちを犯し、無惨に散っていった女たちを数え切れないほど見てきた者の目だった。
女中頭は菜緒葉の素性を知らない。彼女にとって目の前にいる少女は、単に当主の妻の姪であるというだけだ。ただ、彼女の雰囲気や所作が健康だった頃の義姉にそっくりだというのは強く意識していた。この容姿と佇まいでは確実に男の目を引くし、そのことがいずれ確実に災厄を招く。
「当主様のお側へ行くのは構いませんが、適切な距離は保ちなさい。そして、それ以外の男……とりわけ、直哉様をはじめとする当主の御子息がたや、『炳』の術師には、決して自分から近づいてはなりません。言葉を交わすのは、話しかけられた時に必要最低限だけ。ましてや、人気のない場所で二人きりになることなどは、絶対にあってはならないことです」
「……」
菜緒葉は、弟の直哉とは──まだ話したことすらない。遠目に見かけて、髪を金色に染めているのが不良のようで怖そうだと思った程度だ。ただ、先輩がたの話によれば酷く傲慢な性格だそうだ。おまけに、この家ではタブー扱いされている甚爾という人物が少し前に亡くなって以降は、扱いづらさに磨きがかかったと専らの噂である。
「禪院の男にとって、女は道具か、それ以下の存在です。厄介な男に目をつけられれば、あなたなど虫けらのように潰される。……自分の身を守りたいのであれば、石のように、影のように、ただ息を潜めて働きなさい。わかりましたね」
「はい。肝に銘じます」
菜緒葉が深く一礼すると、女中頭はそれ以上何も言わず、興味を失ったように背を向けた。その後ろ姿を見送りながら、菜緒葉はそっと息を吐き出した。
女中頭の言葉は冷たく厳格だったが、菜緒葉の中に反発や怒りは湧かなかった。女中頭の感情を殺しきった声の奥底に親切心めいたものが感じ取ったからだ。
──男と二人きりになるな。
言われるまでもない。
菜緒葉は誰かに愛されたいとも、玉の輿を狙って成り上がりたいとも思っていない。ただ、本当の自分の家にいたいだけだ。
直哉についても、秘密を隠し続けるためには深く知り合わない方がいい。
この家で双子がどういう扱いを受けるか、菜緒葉は女中頭の娘達のおかげで思い知らされた。そうなると、直哉と会って話したいという希望は持ちづらくなった。
彼とは一生、赤の他人でいい。互いの素性を知らぬまま、この広大な屋敷の片隅でただ静かに生きていけるのなら、それで構わない。
◇
それから数ヶ月後。禪院家の広間ではちょっとした酒宴が開かれていた。直哉の昇級と精鋭部隊である『炳』への加入祝いだ。それが早い出世なのか順当な結果なのかは菜緒葉にはわからない。ただ周囲の熱狂に呑まれるようにして、与えられた役割を全うするだけだった。
この席は完全に力ある男達のためのものであり、飛び交う符丁のような術式の話も、派閥のきな臭い噂話も、菜緒葉の頭の上を通り過ぎていく。上座では直毘人が上機嫌で朱塗りの盃を重ねていたが、そのすぐ隣で主役であるはずの直哉はどこか退屈そうに、冷めた目で宴の有様を見下ろしていた。
夜が更け、酒の回りが男たちの理性を溶かし始めると下座の空気が明確に変質し始めた。給仕に立ち回る菜緒葉に向かう一部の男たちの視線が、次第に粘着質になり、露骨な劣情の熱を帯びてきたのだ。膳を下げる際にわざとらしく手が触れそうになる、不快極まりない距離感。酒の匂いと男たちの脂ぎった息遣いが、息苦しいほどに距離を詰めてくる。
下座の男のひとりに強引に袖を引かれたのは、4度目に空の徳利を下げるべく広間に戻った時だった。
「君いくつ?」
「……16になりましたわ」
「ふーん」
這うような指先が二の腕から肩の線をなぞる。着物の生地一枚を隔てているはずなのに、その一枚が急に濡れた紙のように薄く頼りなく感じられた。菜緒葉は顔に張り付けた営業用の微笑みを1ミリも崩さず、盆の縁を白くなるほど強く握り直した。
「後で俺の部屋に来いよ」
「……申し訳ございません。本日は、その、体の障りがございまして」
それは古参の先輩女中から教わった処世術だった。「今日いくら言い寄っても絶対にエッチなことには発展しない」という物理的な免罪符にして絶対的な防壁。酷い時は月に3回も4回も来ている計算になってしまっているが、背に腹は代えられない。
だが、今夜の男は酒の勢いも手伝ってか引き下がらなかった。
「あぁ? ちょっと体調が悪くて休みたいんだったら、尚更俺の部屋来いよ。優しくしてやるからさ」
「……」
絶対的な防壁がいとも簡単に無効化された。他の女中や近くにいる男達は、誰も助けてくれない。生理的な嫌悪感で総毛立ち、反射的に腕を振り払おうとして、己の立場を思い出し体が硬直した。その、息が詰まるような瞬間のことだった。
「──ぶっちゃけダサいと思とんねん。いい年したおっさんが若い子口説くの。そうでもせんと女ひとつ口説けへん、魅力のない雑魚ですって自分で触れ回っとるようなもんやろ。みっともないにも程があるわ」
菜緒葉は視線だけを上げた。すぐ後ろに双子の弟がいる。今日の主役がなぜこんな下座の隅に立っているのか、菜緒葉には見当もつかない。
酔って絡んでいた男は直哉の姿を認めるなり途端に周章狼狽し、血の気を引かせた。
「い、いや直哉さん、これはそういうのではなくて……ほんの出来心というか……」
「どっからどう見てもそういうのやろ、カスが。この子、当主のお気に入りやで? 手ぇ出して、ほんまにタダで済むと思とるん?」
直哉の容赦ない嘲笑に、男は赤い顔を今度は恥辱でますます赤くして、誤魔化すように酒器の方へ手を伸ばした。しかし伸ばした先に何もなかったので、その手は畳の上で意味もなく虚しく指を折った。
それを見た直哉は鼻で笑った。
座敷のざわめきが堰を外したように戻ってくる。菜緒葉は畳に額がつくほど頭を下げ、盆を抱えて退がった。近くにいた先輩女中が鋭い目で広間の空気と菜緒葉の顔色を瞬時に秤にかけ、「今夜はもう下がりなさい」と短く命じた。
転びそうになる足をもつれさせながら広間を抜け出し、冷たい夜気が這う廊下に出て、角をふたつ曲がる。遠ざかる宴の喧騒。暗く冷え切った配膳室の前の暗がりで、菜緒葉は盆を胸に抱え込んだまま、崩れ落ちるように立ち止まった。
「……ふ、ふふ」
声が漏れた。
笑い声だった。菜緒葉は自分でも驚いて口を押さえたが、押さえた手の下から、ひ、ひ、と息の抜けるような音が続けて出てくる。可笑しくて、どうしようもなく可笑しくてたまらなかった。
助けられた。
直哉は母にそっくりだった。
やけに気が合った、本当の母の方だ。あの淀んだ生家の中で呪霊という異形の存在を視ることができたのは、菜緒葉以外には祖母と彼女だけだった。だから唯一分かり合えるのだと、彼女が亡くなる寸前まで、菜緒葉はそう信じていた。だが違った。呪いが見えるからではない。血が、逃れようのない濃い血が惹き合っていただけなのだ。
口が悪いのにかわいい人だった。なのに葬儀にも出席させて貰えなかった。その人が死んで何年も経つのに、同じ喋り方と言い回しだけが直哉の口から出てきた。
血というのは本当にどうしようもない。誰の許可も取らず、こんな場所で勝手に顔を出して姉弟を繋いでみせる。
声を殺して笑い転げているうちに、不意に視界が熱く滲み、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。
「……何しとん、君」
顔を上げた。直哉が来ていた。
いつの間にか、直哉が暗がりの中に立っていた。自分を心配して追いかけて来てくれたのだろうか。菜緒葉の混乱した頭はそう判断した。弟がそんな優しい性格の持ち主ではないことを、彼女はまだ知らなかった。
慌てて着物の袖で目元を乱暴に拭う。しかし拭った傍から涙はとめどなく溢れ続け、口の端はまだひきつるように笑みの形を作ったままだった。
笑いながら涙を流している女中を、直哉は心底嫌そうな顔で見た。
「泣くんか笑うんかどっちかにせえや。キモ……。情緒イカれとんのか」
「ふふっ、申し、訳ありま、せん……ただ、直哉様が、なんだか、すごく……似てるなって、思って……」
「はあ? 誰にやねん」
「……私の、お母様……」
いけない、我慢しなければ。
そうわかっているのに、どうしても感情を制御しきれない。本当は、自分達が同じ胎から生まれた双子なのだと打ち明けたい。何年分もの姉弟の旧交を温めたい。その巨大な衝動を辛うじて押さえ込み、ただしゃくり上げる。
そんな気味の悪い女中を不思議な引力に囚われたかのように凝視していた直哉は、やがて納得したように目を細めた。
「似てて当然やわ。君の母親、俺の母親と姉妹やし」
「……え?」
菜緒葉は息を飲んだ。
「ご存知でしたの? 私などのことを」
「まあ。で、君、俺の父親のコレなんか?」
直哉が顔の横でくいっと小指を立てるジェスチャーを作った。しかし、隠語や俗悪な知識に疎いお嬢様育ちの菜緒葉には、その指が示す「愛人」「妾」という意味がまったく理解できなかった。
「??? ……コレ、とは?」
きょとんとする菜緒葉を見て、直哉の表情は底意地の悪い優越感に綻んだ。
「なるほど、まだなのはよーくわかったわ」
扇や甚壱といった本家の大人達は当主の姪という触れ込みで現れたこの新人女中が実際は直毘人の娘であるという事実を薄々察し「したんだな、姉妹丼を……」と勝手に納得していた。
妻の妊娠中に義妹に手を出すというのは禪院家の歪な風土からするとあり得そうなことだし、呼び戻した娘に罪悪感から少しだけ特別扱いするという筋書きもいかにもありがちだ。それ以上は詮索する価値すらない。
しかし直哉にはその機微を酌の光景から汲み取るための人生経験がまだ不足していた。
亡母に似た女中を直毘人が手元に置き、夜の酌をさせている。その事実から直哉が導き出した仮説は「父親が亡き母の面影を持つ若い娘を金で買い、いずれは愛人として飼い慣らそうとしている」という、単純極まりないものだった。彼女が自分の双子の姉であるなどという可能性は、直哉の頭脳には1ミリも存在していない。ただ、たまたま目の前にあった当主の備品を、無礼な男から引き剥がしてマウントをとっただけだ。
しかし菜緒葉にはそんなことは全くわからない。一見不良じみた弟の優しさと姉弟の絆に感動し、救われたような気持ちを抱いた。
そして直哉の方も、純粋な感謝の表情を向けられているうちに何やら別の感情が湧き始めていた。愛おしくてしょうがないという目。ちょっとセクハラから助けただけでこれか?というレベルの目。他人からこんな風に見られたのは生まれて初めてだ。だが同時に、直哉の中には残酷で不快な認識もある。この女は放っておけば確実に父親の愛人になる。それを辛うじて逃れても、まあ似たり寄ったりの運命を辿るだろう。
最後まで甚爾を理解しなかった我が家。いい歳して息子と同年代の女を側に置いて、ちょっと楽しそうにしている父親。直哉は両方とも嫌いだった。
だから、菜緒葉について3日間考えた。
──そして3日後。
傾きかけた午後の陽射しが、渡り廊下の磨き抜かれた板張りを飴色に温めていた。術師たちが集う詰め所へ茶菓子の補充を終え、漆塗りの空の菓子盆を抱えて母屋を一周した帰り道。菜緒葉は前方の角から気怠げに歩いてくる金色の頭部を認め、反射的に廊下の端へ寄り、深く目を伏せた。 3日前、下座で酔っ払いに絡まれたところを助けられたのは、気まぐれな奇跡のようなものだ。あれきりのことだと、自分に言い聞かせていた。女中頭の厳命を破るわけにはいかない。息を殺し、ただの風景の一部と同化してすれ違う。
そのはずだった。
「これ、つけとき」
すれ違いざま、頭上から降ってきた唐突な声とともに、視界の下に何かが突き出された。
有無を言わさぬ響きに急き立てられ、反射的に受け取ってしまってから、それが小さな紙袋なのだと気がついた。呪術界の泥臭い因習とは無縁の、目が覚めるような鮮やかなミントブルー。中学時代、同級生が「パパからもらったの」と自慢していた気がする。
純白のシルクリボンを解こうとして、指先が不格好に引っかかった。朝から晩まで冷水と洗剤で水仕事をしているせいで、菜緒葉の手は年相応の潤いを失い、荒れ果てている。絹の滑らかな表面に爪の脇のささくれが触れるたび、ちり、ちり、と微かに糸が毛羽立つ音がした。それが己の身分と不釣り合いな代物を手にしてしまった証左のようで、菜緒葉は情けなくなりながらそっと小箱の蓋を開けた。
そして、息を呑んだ。
黒いベルベットの台座の中央で、華奢なプラチナのチェーンに繋がれた一粒のダイヤモンドが、秋の西日を反射して冷たく、そして鋭い光を放っている。小粒ではあるが、素人目にも一級品だとわかる澄み切った輝きだった。
「……直哉様、これは?」
「見りゃわかるやろ。それ、今日から首から下げとけ。ほんで、これからは毎週水曜の夜、一時間くらい俺の部屋に来い。それだけしとったら、もうこの家のカス共も君にセクハラまがいのことようせんくなるわ」
直哉はどこか冷たい笑顔で言い放った。
次期当主の所有物だとマーキングしておけば他の有象無象は手を出せない。極めて野蛮な、しかしこの禪院家においては最も理に適った解決策だ。
「……あの、お気持ちは大変ありがたいのですが、こんな高価なものは、私のような者にはいただけませんわ。禪院家がいくら御立派なお家でも、当主様のお金でこのようなものを──」
「はぁ? 誰がアイツの金なんか使うか。自分で稼いだ任務の報酬で買うたんやけど!」
直哉が心底不愉快そうに眉を寄せた。自分の甲斐性を疑われたことがよほど腹に据えかねたらしい。菜緒葉はしまったと思い、慌てて深く頭を下げた。
「申し訳ございません」
受け取るのは怖かった。受け取らないのはもっと怖かった。目上の男がわざわざ自腹まで切って差し出したものを押し返す作法など、この屋敷に存在しない。
ただ、菜緒葉にはひとつだけ、どうしても己の身の安全のために確かめておかねばならない懸案事項があった。
弟がほぼ初対面の女中のためにわざわざ高い金を出して防衛策を講じてくれたらしいことは純粋に嬉しい。感動すらしている。
しかし女中頭からは「男と人気のない場所で二人きりになるな」と、それこそ命に関わるトーンで厳命されているのだ。ましてや「絶対に自分から近づくな」と名指しで危険視されていた相手のプライベートルームへと毎週夜に上がり込むのである。
菜緒葉はミントブルーの箱を胸にぎゅっと抱え込んだまま、思い切って顔を上げ、生き別れの弟を見つめた。
「あの……お部屋に伺っても、何もしませんわよね?」
「せんわカス。自意識過剰やぞ」
菜緒葉の決死の警戒を鼻で笑い飛ばし、直哉は心底馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに吐き捨てた。その一切の色気を含まない暴力的なまでの否定の言葉を聞いて、菜緒葉の全身から強張りが抜けた。ふうっと深い安堵の息が漏れる。
──よかった。
この瞬間、菜緒葉の中で弟に対する好感度は事実上の上限を突破した。不良が雨の日に段ボールの捨て猫を拾うだけで世間の評価が不当に跳ね上がるのと同じだ。厨房の先輩がたからの評判は最悪だし、そうなっても仕方のない口の悪さの持ち主ではあるが、なんという不器用で愛くるしい弟だろうか!
しかし直哉の内心は菜緒葉の暢気な解釈とは全く異なる次元で黒く渦巻いていた。
最近、「お前もいい加減に女の1人や2人作ったらどうだ?」「なんなら俺が適当な娘を見繕ってやろうか」とうざったく干渉してくる父親。お気に入りの玩具を実の息子に横取りされたと知ったら、あの男はどんな顔をするだろう?
今は「何もしない」と突っぱねておいて、水曜ごとに部屋に呼び、適当に甘い言葉をかけたり優しくしてやればいい。3日前の夜に少し下座の雑魚を威圧して助けてやっただけで、この女は廊下の暗がりでぼろぼろと涙をこぼし、直哉を熱っぽい、縋るような瞳で見つめていたではないか。あれは間違いなく、圧倒的な強者に対する憧憬と恋慕の情が入り混じった目だ。あの従順な様子なら、2ヶ月もすれば向こうから勝手に発情して誘ってきて、自動的にそういう関係になるだろう。
年長者達の自慢話を聞いている限り、女との恋愛などというものは、金と力さえあればそういうシステムで動くものらしいのだから。
直哉の脳内には父親への当てつけと己の男としての格付けを同時に完了させる、完全無欠の勝利の方程式が組み上がっていた。
一方の菜緒葉はといえば、そんな弟のドロドロとしたエディプス・コンプレックスなど露知らず、「せんわカス」という乱暴な言葉を字面通りの絶対的な安全保障として受け取り、晴れやかな気分に包まれていた。
弟からプレゼントをもらってしまった!
だが、女中頭や当主様に露見したら「たぶらかした」と誤解されて恐ろしいお仕置きを受けるかもしれない。
そうだ。後で絶対に面倒なことにならないよう、今日のうちに当主様と女中頭様に『直哉様から自衛のためにいただきました。水曜の夜の件もご指名ですので、業務の一環として伺います』と、きっちりホウレンソウをしておこう!
「ありがとうございます、直哉様。──私、大事にしますわ!」
菜緒葉は花がほころぶような純粋な笑みを浮かべた。そしてその場で箱からプラチナの鎖を取り出すと、躊躇いというものを一切見せずに自分の首の後ろへ両手を回した。カチリと留め金の噛み合う小さな音が、静寂に包まれた渡り廊下に響く。鎖骨の間でダイヤモンドがきらりと光る。
その、今にも踊りださんばかりの無防備で嬉しそうな姿、微塵の警戒も抱いていないその笑顔を見て──禪院直哉は腹の底でほくそ笑み、「ほら見ろ、やっぱり俺にベタ惚れやないか。なんつーチョロい女や!」と、極めて致命的な最終結論を下したのだった。