音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
菜緒葉の報告を聞き終えた途端、女中頭はいつも鉄仮面のように動かないその表情をほんのわずかに引き攣らせた。
「……で、あなたはその首飾りを受け取ったと」
「はい。直哉様からは『自意識過剰だ、何もしない』とのお言葉をいただきましたので。業務の一環として、毎週水曜の夜はお部屋へお仕えに参りますわ!」
菜緒葉が一点の曇りもない澄み切った瞳で答えると、女中頭は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえて深々と溜息を吐いた。
「いいですか菜緒葉、よく聞きなさい。男の『何もしない』は99.9パーセント嘘です」
「な、なんですってー……!」
「……この家では、親族出の女中には30歳までに必ず当主様が相応の縁談を用意して始末をつけてくださる決まりです。たとえ手を出されたとしてもそれ相応の格の相手には下げ渡していただけますから、絶望する必要はありません。ですが、子供ができればまた話が変わってきますからね」
もし身籠ればよくて日陰の妾、最悪の場合は赤子ごと闇に葬られる。元・お嬢様である菜緒葉の常識からすれば耳を疑うような禪院家の生々しくもシビアな生存戦略のレクチャーが、そこから延々と続いた。
「……心得ました。ご教示ありがとうございます」
菜緒葉は深く頭を下げた。
心配しすぎだと思う。けれども教えられたことはありがたかった。年長者の言うことは大抵有意義だ。決して軽く見てはいけない。
そしてその夜。
晩酌の席で、菜緒葉は全く同じ報告を当主の元へ供した。炙った海鼠腸をつまんでいた直毘人は一部始終を聞き、菜緒葉の首元で不釣り合いに光るダイヤモンドを見ながら呼吸困難になりそうなレベルで大爆笑した。
「くくっ……ははは! あいつ、俺への当てつけのつもりか。自分が一人前の男になったとでも思っとるらしい。こいつは傑作だ!」
息子がようやく女に興味を持った。しかも家からの斡旋を突っぱねて父親の酌係を狙ってきた。反抗の形式としてこれ以上わかりやすいものはないし、同時にこれ以上に安心な反抗もない。
「……あの……当主様、どうなさいましたか?」
「いいだろう! アイツには俺から色々と吹き込んでおく。
直毘人は豪快な笑みの裏で既に冷徹な盤面操作を完了させていた。
たとえば「どっちが先にあの娘を落とすか競争だ。ただし無理強いはナシな」とでも煽り、縛りで直哉からの実力行使を禁じてしまえばいい。プライドの高い直哉は確実に乗る。
しかし菜緒葉は弟を受け入れない。ならば事は永久に起こらない。
周囲の有象無象が「当主と嫡男がひとりの若い女中を奪い合っている」と下世話な噂を立てようが、あるいは「あの小娘には直哉の手がついた」と誤解しようが、直毘人からすればどうでもいいことだった。噂は水と同じで、放っておけば低いところへ流れて勝手に乾く。
重要なのは、実態としての間違いが起きないことだ。
直哉がどれだけ自室で格好をつけて甘言を弄しようとも、菜緒葉のガードの前にはすべて不発に終わるだろう。そもそも実姉どころか通常の女でも今の直哉の手管で落ちるかは怪しい。仮にいるとしたら、次期当主に囲われるのが最良の生存戦略だと判断して落ちたふりを選ぶ計算高い女だけだ。そういう変な女に引っかかるよりは、安全な菜緒葉を相手に初歩的な部分の練習をした方が直哉の成長には役立つだろう。
やがて直哉が飽きて勝負を投げ出した頃合いを見計らい、菜緒葉を適当な術師の元へ下げ渡す体裁で処理してやれば、万事解決だ。
直哉は初恋ごっこの相手が姉であったことを永遠に知らず、立派に成長したうえで父親の設けた籠から出て行くだろう。
そう。肝心なのは、実態としての間違いが起きないこと。
──その一点において直毘人の采配は完璧だった。事実、水曜日の夜には最後まで何も起こらない。禪院家が壊滅するまでの十数年間、何も起こらないままに水曜の夜だけが積み上がって行った。
あたかも雌雄の芋虫が2匹糸を吐き出し合って作る、いびつな玉繭のように。
◇
水曜日の呼び出しが始まって1ヶ月目。詰所の片隅で『炳』の術師たちがコソコソと話し合っていた。
「なあ、聞いたか? 直哉が最近、毎週水曜の夜に例の女中を部屋に呼んで猛アプローチしてるらしい」
「あぁ、落ちぶれた親戚の娘だっけか。直哉もとうとうそんな年頃になったか……」
「感慨深いような、クソどうでもいいような……」
2ヶ月目。青々としたシダの茂る陰で年番の若い女中たちが掃き掃除をしながら、ひそひそと頭を寄せ合っていた。
「菜緒葉から直接聞いたんだけどさ、直哉様、まだ手すら握ってきてないらしいよ」
「えっ、まさかぁ? あの直哉様が?」
「本当だって。威張り散らしてプライドだけは一丁前なのに、いざとなると全然リードできないタイプなんじゃない? ウケる」
「菜緒葉は菜緒葉で箱入りだから、指1本触られただけでも『きゃあ! 殿方と手を繋いじゃいましたわ!』って大騒ぎしそうだもんねー」
「2人揃って純情すぎ。そこはグッと攻めに入れよ。グッと!」
3ヶ月目。躯倶留隊の男達が下世話な推測を飛ばし合っていた。
「流石に……流石に手ぇ出しただろ!」
「たかが女中ひとり相手に、3ヶ月もただお茶飲んで説教して帰してるわけないもんなー」
「だよな。男のプライドとして、一線を越えてなかったら逆にカッコつかないし」
4ヶ月目。水曜の夜。直哉は頭を抱えていた。この4ヶ月間、直哉は籠の小鳥のように警戒心のないこの女に意味深な視線を投げかけ、甘い言葉を囁き、女中の給金では到底買えない京都の老舗の高級京菓子を振る舞い続けてきた。しかし目の前に座る菜緒葉は一切の揺らぎを見せない。一粒のダイヤモンドが輝く首元を誇らしげに覗かせながら、深遠で底の見えない笑顔を向けてくるだけなのだ。
(なんで落ちへんねん……! なんでこの女、一切発情せえへんのや……!?)
完璧だったはずの勝利の方程式が跡形もなく崩れ去っていく。追い詰められた直哉はついにプライドをドブに捨てた。
「……なぁ、頼むから、俺に手を出された体裁を装ってくれへん?」
「……どうやればいいんですの?」
「簡単や。厨房のババア連中に『昨夜はどうでしたの?』って聞かれたらな、恥ずかしそうに頬を染めて、こう……言葉を濁しながら曖昧なスマイルで誤魔化すんや! 頼む……!」
なりふり構わぬ弟の迫真の頼み込みに、菜緒葉の瞳が大きく見開かれた。
「まあ……! 直哉様はお優しいのですね。私の立場をそこまで深く気遣ってくださるなんて……!」
「は!? いや、そうやなくて──」
「世間に『直哉様と特別に懇意にされている』と見せかけることで、他の下心を持った浅ましい男たちが絶っっ対に私に手をつけられないよう、陰から守ってくださるのですね!?」
「いや……まあ……庇護下におくという意味では、そう言えなくもないけど……」
「分かりましたわ! お安い御用です。直哉様の威厳とお優しい御顔を立てるためでしたら、私、精一杯の恥じらいの微笑みをお見せしてみせますわ!」
完璧な笑顔で請け負う菜緒葉を見て、直哉は「よし、これで俺の威信は保たれた……!」と胸を撫で下ろした。
──しかし、5ヶ月目。菜緒葉が厨房で披露した渾身の曖昧なスマイルと朱に染まった頬は、直哉の意図とはまったく異なる最悪の文脈として禪院家中に拡散されていた。
噂のアップデートは直哉の望む威厳ある男の方向へは一歩も進まず、さらに斜め上の、致命的な方向へと突き進んでいたのである。
抜けるような青空が広がる稽古場。日差しを浴びながら、躯倶留隊の男達が命知らずな会話を交わしていた。
「おい……あの噂、聞いたか? 直哉さんと菜緒葉の逢瀬……たったの1時間で終わってるらしいぞ」
「はあ!? あの菜緒葉ちゃん相手に、呼び出してから帰すまで1時間……!? 部屋に入って、着物脱がせて、事に及んで、着替えて出るまで全部含めて1時間〜〜!?」
「菜緒葉が顔を真っ赤にして『いつも1時間きっかりで解放していただけますの』って言って鬼の女中頭様を吹き出させたって、ウチの嫁さんが言ってたぜ!」
「ぷッ……! まだ若いから(笑)」
「それにしたって早すぎるよな! 疾風迅雷か? 夜も『投射呪法』で最高速度でぶち抜いてるんかぁ……? 」
「ぶはははは! 誰がうま──」
「──今日も絶好の稽古日和やね。今からつきっきりでお前らにつけたるわ……『稽古』」
「ぎゃあああああああッ!!? な、直哉さん!? おはよーございますッ!!?」
氷点下の声とともに背後から放たれた極大の殺気に、男たちは文字通り悲鳴を上げた。
──という訳で、直哉は未曾有の危機に瀕していた。プライドという概念が受肉して書生服を着て歩いているような直哉にとって、己が見下している路傍の石ころ以下の下っ端達から男としての性能を値踏みされ嘲笑の的にされるなど、魂の尊厳を汚されるに等しい屈辱だった。
アッチ側に近づきたいがゆえに、直哉は呑気にシモの噂話で盛り上がっている連中の何十倍、何百倍も血を吐くような鍛錬を積み、術式を極め、自らの肉体を研ぎ澄ませてきたのだ。それなのに、なぜ家中の有象無象から俗悪で原始的な尺度で自身の価値を測られなければならないのか。
一般的な思春期の男子であればこの時点で自尊心が完全にへし折れ、自室に引きこもって二度と顔を出さなくなってもおかしくはない。しかし幸いなことに直哉の精神構造は極めてポジティブにできていた。鬱々と塞ぎ込むという選択肢は彼の辞書には存在しない。己の完璧な経歴に泥を塗るノイズがあるのならすぐさま原因を特定し、物理的に排除する。それが禪院直哉のブレない生存戦略である。
このふざけた事態の原因は極めて明確だった。
第一に相手が菜緒葉という異常者だったこと。どれほど甘い言葉や高級菓子を与えても、まるで分厚い豆腐に針を刺すように手応えがない。
1時間の区切りは、当初は相手のことをよく知らないまま沈黙が続く気まずさを回避するための防衛策だった。しかし現実には菜緒葉の傾聴スキルにより、会話が途切れることは一度もなかった。それにもかかわらず己が設定した無意味なタイムリミットのせいで、極めて屈辱的な誤解を招いてしまった。
「……という訳やから、今日から時間制限は撤廃や。朝までおれ」
5ヶ月目の第3水曜日。
直哉は自室の座布団の上から不機嫌極まりない声で宣言した。
対する菜緒葉は意味がわからないというようにパチパチと長い睫毛を瞬かせた。
「朝まで……でございますか?」
「おん。1時間できっちり帰すから外のカス共に『疾風迅雷』やらと舐めたこと言われんねん。君が朝までこの部屋におったら、流石に連中も物理的な計算が合わんようになって黙るやろ」
直哉の言い分は極めて短絡的だったが、菜緒葉は全く咎めなかった。
「まあ……! 直哉様、ご自身の睡眠時間を削ってまで、私を朝まで護衛してくださるのですね!?」
「は?」
「一晩中同じ部屋にいれば、他の男たちは絶対に手出しできませんものね。私、直哉様のその海よりも深いお慈悲に、どう報いればよいのか……!」
感極まったように両手を胸の前で組み、潤んだ瞳で直哉を見つめる菜緒葉。その表情を前に、直哉は盛大なため息を吐き出しながら顔を逸らした。
「……お、おう。まぁ、そういうことや。せやから適当に隅っこで寝とけ」
会話の成立を完全に諦めて投げやりに言い捨てた直哉だったが、彼の頭脳は既にひとつの決断を下していた。菜緒葉を朝まで部屋に留め置いたところで、それはあくまで疑惑の払拭にとどまる。一度ついた「シモの性能が最悪」という不名誉なレッテルを完全にひっくり返すには、具体的な成功体験の流布が必要不可欠だ。
要するに手っ取り早く別の女中を抱いて、その女の口から「直哉様は疾風迅雷なんかじゃない!」と証言させればいいのである。
仮にも同年代の男と密室で二人きりだというのに、なんの警戒心もなく安心しきった顔でスヤスヤと寝息を立て始めた菜緒葉の寝顔を冷ややかに見下ろしながら、直哉はただ舌打ちをした。
ターゲットの選定は容易かった。
外部から雇い入れられたばかりの新人女中。菜緒葉のような得体の知れなさも育ちの良さそうな雰囲気もない、上昇志向と野心に満ちた、分かりやすい女。けれども何故か人気がある。以前兄の1人がやっていたのを真似して「時代錯誤やない? 今時雑巾掛けとか」などと母屋の廊下で適当にナンパしてみたら、ノコノコ着いてきた。彼女も菜緒葉が直哉の部屋に毎週通っていることは知っているはずなのに、女という生き物は救いようがないほど浅はかで愚かだ。
けれども直哉が今回欲しているのは心のときめきでなく、自分の肉体が正常に駆動するかの確認だ。菜緒葉と一緒にいても、直哉の心臓は一向に高鳴らなかった。これまで女にあまり興味を持てなかったのは単に「相手のレベルが低いから」だと思い込んでいた。しかし菜緒葉の容姿は極めて優れており、落ち度などない。それなのに心臓がドキドキするどころか肉体すらまともに反応の兆しを見せないというのは絶対におかしい。何かの病気だったらどうしよう。
そう不安になる気持ちを押し隠しつつ、その夜直哉は大人たちの自慢話や知識として蓄えていた手順を完璧になぞった。女は期待通り従順に身を任せた。
「…………」
事が終わった後、直哉は自室の天井の木目を死んだような目で見つめた。隣では新人の女中が直哉の腕に擦り寄りながら満足げな寝息を立てている。その生温かい体温が拭いがたい不快感を刺激した。
(……なんやこれ。全然おもんない)
直哉の胸の奥底で重く渦巻いていたのは征服を果たした達成感でも男としての自信でもなかった。ただ果てしなく広がる、漆黒の虚無である。肉体的な機能としては一応の成功を収めた。しかし結局のところ、直哉の魂は1ミリたりとも震えなかった。
女という生命体が、直哉は根本的に好きになれない。肌は柔らかくて脆い。力は弱く、少し乱暴に扱えばすぐに壊れてしまう。
直哉が心臓が爆発するほどのドキドキを感じた相手は、今は亡き伏黒甚爾ただ一人である。
あの圧倒的な暴力。理不尽なまでの強さ。すべてを捻り潰す絶対的な存在感。それこそが直哉にとっての至高の美であり、己の魂を根底から揺さぶる唯一の光だったのだ。
それに比べて、女と交わる行為のなんと矮小で退屈なことか。
この女は口が軽そうだから、水曜日までには菜緒葉は全部を知ってしまうだろう。その時に自分を男として見ない彼女が悲しそうにするのなら、きっと今の作業にも意味が生まれるはずなのだが。
──そう思っているうちに水曜日がまた巡ってきた。
今日、あの女はどんな顔をしてこの部屋に現れるのだろうか。自分が別の女を抱いたことは間違いなく菜緒葉の耳にも入っている。泣くのか怒るのか、それとも見損なったと軽蔑の眼差しを向けるのか。どんな反応であれ、彼女のあの得体の知れない無垢な信頼が粉々に打ち砕かれる瞬間が見られるはずだ。そうすれば、この不快な虚無感も少しは晴れるかもしれない。
ぴったり刻限通りの時間に、静かに襖が滑る音がした。
「失礼いたします、直哉様」
三つ指をついて頭を下げる菜緒葉の姿は、何かが決定的に違っていた。
結い上げた黒髪も質素な暗色の着物も先週と何一つ変わらない。首元には直哉が与えた一粒のダイヤモンドが冷たく光っている。
けれどもこれまで彼女をすっぽりと包み込んでいたピントのずれた薄布のような無垢さだけが、跡形もなく消え去っていた。
代わりにそこにあったのは甘く重たい底なし沼の静謐さだ。彼女が畳の上を滑るように進み、正面に座を占めただけで、見られる側と見る側の関係性が直哉は音もなく逆転したような錯覚に陥った。
菜緒葉は手慣れた所作で持ってきた盆から茶器を下ろし、微かに湯気を立てる煎茶を直哉の前に置く。その目には微かな笑いさえ湛えられている。
「……何か言いたいことでもあるん?」
耐えきれず、直哉は低い声で威嚇するように問うた。そうすれば菜緒葉は怯えるだろうと思った。宴席で酔漢に絡まれていたときと同じように。だが、彼女は妖艶な笑みを浮かべたままだった。
「お耳汚しな噂ばかりが飛び交う屋敷ですもの。色々と聞こえてはまいりましたけれど……ええ、そうですね。私がお聞きしたいのは、たったひとつだけ」
菜緒葉はことりと小首を傾げ、まるで母親が幼い子供に「今日はお外で上手に遊べた?」と尋ねるような優しく甘い声で聞いた。
「──ちゃんとできましたの?」
直哉の背筋にぞくりと冷たいものが走った。男のプライドを無造作にえぐるようなその問いかけ。だが、彼女の声には嫌味も嫉妬も含まれていない。ただ純粋に、直哉の機能を案じているのだ。
「……ッ、当然やろ! 俺を誰やと思とんねん!」
反射的に声を荒げた直哉に対し、菜緒葉はその威嚇を柳のようにふわりと躱し「まあ、ようございました」と心底安堵したように胸を撫で下ろした。
「私、心配しておりましたのよ。直哉様のような繊細で気高い方が、そこらで摘んできたような野花で本当にご自身を満たすことができるのかしらって。でも、無事に殿方としての務めを果たされたのなら、何よりですわ」
その言葉の奥底にある、自分を見透かしたような視線。直哉は一瞬だけ苛立ちを覚えかけたが、すぐに考え直す。
そうか。この女は今、必死に平静を装っているのだ。そう解釈を書き換えることで、直哉の顔にいつもの傲慢で余裕のある笑みが戻ってきた。
「……君、強がっとるんか? 俺が他の女抱いたんやぞ。悲しないんか、悔しくないんか?」
直哉はわざと声のトーンを落とし、甘く絡みつくような口調で試すように尋ねた。嫉妬を隠すための芝居だとしたら、随分と可愛らしいではないか。
しかし菜緒葉は面白くてたまらないというようにくすくすと肩を揺らして笑った。
「ふふっ。どうして私が悲しむ必要がありますの? 私、全然気になりませんわ。むしろ、もっと自由になさればよろしいのにって思いますの」
菜緒葉はそっと膝行し、直哉との距離を詰める。甘い匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。彼女は直哉の膝のすぐ傍に白い手を置き、小鳥の囀るような声音で語り始めた。
「私がもし男の人だったら……そうですわね、月曜から土曜まで、毎日違う女の子をこのお部屋に呼んで、たっぷりと愛して差し上げますわ。顔立ちの整った子、声の愛らしい子、素直な子から、ちょっと生意気な子まで。この大きな屋敷の隅々からかき集めて、ぜぇんぶ私のものにしてしまうの。そして日曜日には、その子たち全員を大集合させて、盛大なパジャマパーティーをしますのよ。誰が一番愛されているかで恋人達が髪を引っ張り合っていがみ合うのを、お菓子を食べながら鑑賞するんです」
直哉は無言で彼女の横顔を見つめた。その突拍子もない妄想の奥底に、何らかの真意が隠されているのを探るために。しかし沈んでいたものは直哉の予想より遥かに簡単だった。菜緒葉は顔を上げ、自分の言葉をあっさり取り消したのだ。
「……ううん、嘘。本当は、ひとりぼっちで誰の目も気にせず、何にもせずにお家で死んだように眠っている日が一つは欲しい。……そうではありませんこと? 直哉様」
「……何が言いたいねん」
直哉は口角を上げたまま、面白がるように目を細めてみせた。
「いくら私だってあんなに高級なお菓子を出されて『君にだけ特別や♡』なんて言われたら、口説かれていることくらい気づきます。それでも鈍い女のフリを続けていたのは、後で絶対に後悔なさるだろうと思ったからですよ。一緒にお話できるだけで過分な幸福だと思っていましたし」
嘘だ、と直哉は思った。
そもそも、自分が「一緒に話すだけで楽しい」と言われるタイプでないことくらいは直哉だって百も承知だった。この女が何を企み、何を考えているのかがわからない。
「あ! あと、『疾風迅雷』の件は、本当に申し訳ないと思っておりますのよ。私、平均的な所要時間を存じませんでしたの」
「……」
「だって、所詮は入れて出すだけでしょう? 10分もあれば足りる作業だとばかり。もっとかかるだなんて、なんだか少し薄気味悪いですわねぇ」
直哉は完全に固まった。
この女は今、屋敷中の男の尊厳をまとめて畳に叩きつけて、それを侮辱だとすら思っていない。心の底から親切のつもりで言っている。
やはり馬鹿なのか。馬鹿のフリをしているだけなのか。判別する手立てが、直哉にはない。
「……なあ君。俺が他の女呼んだら、君はどうなると思う」
だから質問を変えた。ここが急所のはずだった。この家で当主の息子に飽きられた女中がどう処理されるかをこの女が知らないはずがない。
「どこかへ下げ渡していただけるのでしょう」
菜緒葉は湯呑みの位置を直しながら、天気の話のように答えた。
「けれど、飽きられるのが早ければ早いほど、たわいのない女だと軽蔑されますものね。女中頭様がそう教えてくださいましたわ」
「……」
「ですからこうして、期限を延ばしていただきに参りましたの」
直哉はようやく理解した。この女は今夜、値切りに来ている。無垢の膜を自分から剥いだのはそのためだ。あれを着たままでは交渉ができないから。
「……なんで、あんな子にしたか聞かんの」
自分でも思いがけないほど拗ねた声が出た。
「お聞きしてもよろしくて?」
「聞けや」
「じゃあ、どうして?」
菜緒葉は心底楽しそうに訊いた。直哉はもはや動じなかった。むしろ、この女が自分に対してどこまで踏み込んでくるのかが楽しくなってきた。女受けがいいという自覚のある蠱惑的で意地悪な笑みを、直哉はわざと浮かべてみせた。
「だってあの子、最近人気あるやろ。他の連中も欲しがっとるやろし、『横取りしたろ♡』思て」
軽口を叩いてみせる直哉を、菜緒葉はすべてお見通しだと言いたげな慈愛に満ちた目でじっと見つめた。
「よく言えました」
優しく相槌を打つその声は、まるであやしつける母親のそれだった。
「ちゃんと好きになれる相手は、これからじっくり探しましょう? それでも、世間体を保つための都合の良い隠れ蓑や苛立ちをぶつけるためのはけ口には、どうか私を使ってくださいませ、直哉様」
◇
初めのうちは、菜緒葉は弟がそのうち運命の女の子を見つけると本気で思っていた。
あの夜、弟は下座で酔漢に絡まれていた自分を、見かねて助けてくれた。そのあとわざわざ自腹でペンダントまで買ってきて、部屋に来いと言った。その拙い善意が歪んだ噂として一人歩きし、可哀想な弟は屋敷中の好奇の目に追い立てられた。そのせいで意味深な視線と甘い言葉と高級京菓子を使った迷走が始まった。全部がおままごとみたいというか、本気で菜緒葉を抱きたがっている様子など微塵もない、あまりに情実の伴わない不器用極まりない口説き方は、見ているだけで胸が痛む程だった。
──それが菜緒葉の視点から見た『真実』だった。
いくら可哀想だからと言って畜生道に落ちるような真似を受け入れられる訳がない。けれども下手に突っぱねて生き別れの弟との繋がりを失うのも嫌だった。だから密室で口説かれても何も気づかない、察しの悪い天然女のフリをして誤魔化し続けるしかなかったのだ。だが、その頑なな防衛線が却って弟を追い詰めた。
そこにかさねて菜緒葉は世間知らずゆえの無邪気な失言で弟の自尊心をズタズタにして屋敷中の笑い物にしてしまい、直哉はその汚名を返上するためだけに、好きでもない相手と関係を持つ羽目になった。
ならば──弟の弱さも滑稽さもすべてを受け入れて肯定し、支え続けるのが姉としての責任なのだと。
──そう健気な決意を固めたはずなのに、そのまま虚しく2年が経過した。
朝の冷え込みが肌を刺すようになってきた、晩秋のこと。女中達が共同で使うボロボロの洗面所で、冷たい水がタイル張りの流しに落ちる音に混じって、菜緒葉の隣で紗季が忌々しげなため息を吐き出した。
「菜緒葉、アンタさー。もうちょい化粧しなよ。勿体無い」
鏡の前で入念に紅を引いていた紗季は、髪の跳ねを気にしている菜緒葉を見て呆れたように言った。
「ふふ、ありがとうございます。でも、お勝手仕事ですぐに落ちてしまいますし、分不相応なお金もかけられませんから」
「そういう隙だらけの顔して甘やかすから、アイツが図に乗るのよ」
菜緒葉を鏡越しに睨みつけ、紗季はドンッと乱暴にメイクキープミストを洗面台に置いた。
「いい加減、直哉様の手綱握れないの? 一緒の部屋の新人が昨日も夜通しギャン泣きしてて、こっちまで大迷惑なんだけど」
「そう言われましても、私で満足してくださらないことにはね」
「はぁ? 本気で言ってんの?」
紗季は心底うんざりしたように肩をすくめた。
あの一夜から2年。水曜日の夜の奇妙な逢瀬はだらだらとした悪習としてすっかり定着している。
紗季は2年前に直哉の男としての機能確認のための最初の犠牲者となり、翌朝にはゴミのように見向きもされなくなった女だ。当時周囲から「一晩で飽きられた」と嘲笑された彼女は、鬱憤を晴らすように『本命』扱いされている菜緒葉にさんざん突っかかっていた。廊下ですれ違いざまに肩をぶつけたり、嫌味を言ったりと、古典的な小競り合いを繰り返していたのだ。菜緒葉は菜緒葉で、最初に紗季が「2ヶ月も手を握らせないような取り澄ました女よりは私と遊んだ方が男の子だって楽しいに決まってるよねぇ(笑)」と言ったことをしばらく恨みに思っていたのだが、熾烈なキャットファイトの末に女の友情が芽生えた。今では朝の洗面所で顔を合わせるたびに仲良く盛り上がる、腐れ縁の悪友になっている。
「アイツ、最近カスさに磨きが掛かってるじゃん。女は3歩下がって歩けだのなんだの偉そうに抜かすくせに、顔のいい新人が入ってきたら片っ端から手ぇ出して、飽きたらポイ捨て。完全にアンタを都合のいいキープにして、好き勝手遊び歩いてるだけじゃん。その尻拭いで夜通し新人の慰め役やらされるこっちの身にもなってよね。寝不足で肌荒れちゃうんだけど」
実際、現在の直哉の女性関係は最悪の一途を辿っていた。術師としての実力をつけ、『炳』の筆頭として次期当主の座を確固たるものにしつつあるのをいいことに、直哉は屋敷内の女をただの消費財として扱っている。かつて未熟さを嗤われたトラウマの反動もあるのだろう。だが、どれだけ女を泣かせようと彼の魂の空洞が満たされることはない。絶対的な強者たる伏黒甚爾の幻影に永遠に追いつけない焦燥感を、反抗しない立場の弱い女を壊すことで必死に誤魔化しているだけなのだ。
「でも、私のこの慰め役も、あと少しの我慢だけどね」
紅を引き終えた紗季が自分の唇を指先でなぞった。
「あら、部屋割りの変更は半年後では?」
菜緒葉が小首を傾げると、紗季は洗面所に他の誰もいないことを確認し、悪戯っぽく唇の端を歪めた。
「実はねぇ……辞めるのよ、このクソみたいな屋敷。……できちゃったんだ!」
「えっ」
「いつも勝手口に出入りしてる、酒屋の若旦那。あっちの親父さんも、『うちのバカ息子が手ぇ出したなら、孫の顔見るまで死ねねえ』って、うちの親に話つけてくれてさ。来月には籍入れるんだ」
紗季の顔には2年前の夜に見せていたような安っぽい野心ではなく、地に足の着いた逞しさが宿っていた。
「まあ……! おめでとうございます、紗季さん!」
菜緒葉は弾んだ声を上げて紗季の手を取った。男が身勝手なプライドで思うほど、女は深く絶望を引きずりはしない。禪院家の次期当主候補にヤリ捨てされたという烙印を押された女でも、屋敷を一歩出ればあっさりと平凡で温かな幸せを掴み取ることができる。直哉の傲慢な征服など、この屋敷という狭い箱を一歩外に出れば何の意味も持たないのだ。
「アンタもさぁ、いつまでもあんな中身空っぽのドブカスにくっついてないで、さっさと逃げなよ。顔はいいんだから、他にいくらでもいい男が捕まるって」
「──あの子は孤独で、きっと色々悩んでるんですのよ。いつかはきっと……」
「アンタ、たまにアホなこと言うよね。ダメンズウォーカーってやつ?」
「…………返す言葉もございませんわ」
初対面で上限まで跳ね上がった弟への好感度にも、流石に陰りが見え始めている。
今の直哉は、歳の近さと顔の良さを除けば、あの宴席で自分に下品な手を伸ばしてきたセクハラ男達と大差がない。大差がないどころか、当主の威光を背負っている分、タチの悪さで言えば格段に酷い言動を重ねている事実を、菜緒葉も認めざるを得なくなっていた。
それでも、菜緒葉にはその行為がより冷たく動物的に見えた。雌を鎮める種牡馬の役割。主人が奴隷に果たすべき義務。まあ、直哉がその頭の中で何を考えているのかは、菜緒葉には到底理解できなかったけれど──考えてみれば、この世に生まれ落ちたその瞬間から
ああ、可哀想に!
──だから菜緒葉は弟の部屋に今夜も向かう。実態のなさを覆うためだけに吐き出され続けている、噂という糸に覆われた、本当は何ひとつ起きていない部屋に。
「……なぁ。君、ほんまに俺の横で平気なん?」
同じ布団の中で直哉がぬるりと身を翻した。長い指先が首元へ滑り込み、あの秋に買い与えられた一粒のダイヤの鎖を、ゆっくりと指に巻き取っていく。プラチナは肌の温度を吸わないので、ひんやりと冷たい。菜緒葉は呆れて目を細めた。
「平気、とは?」
「ほら、アレや。俺も男やし?」
直哉はたまに思い出したように際どいことを言った。所詮姉でしかない菜緒葉からするとそんな言葉を並べ立てられても「気まずい」以外の感情はないのだが、最初の頃よりは多少上手になった気がする。外から雇われたばかりで屋敷の力学も直哉の性格も知らず、直哉に選ばれることの意味を過大評価している段階の娘からすると、王子様みたいに見えるかもしれない。しかしそれは菜緒葉には一切通用しない手管だった。
「ふふ。直哉様は、そんな乱暴なお方ではございませんもの」
弟の本能は菜緒葉が姉だということを間違いなく察知していた。しかし、顔も胸のサイズも悪くない相手に何も感じず、相手にもそれを見透かされている状況というのは明らかに男の名折れなので、色々と迷走しているのだ。
「……チッ、そういうとこやぞ。菜緒葉ちゃんってほんまに気味悪いわ」
直哉はそう吐き捨てると巻き取った鎖をそっと解き、菜緒葉の額に指先をこつんと当てて押し戻した。その様子は、どこか安心しているようでもあった。
いくら顔が良かろうが胸が大きかろうが実の姉に反応していたらその方がよっぽど異常者なのだが、憐れな直哉は相手が姉だと知らない。だから己の本能が発する強烈な拒絶反応の正体も分からぬままに、己の不甲斐なさと目の前の女の底知れなさに、ずっと怯えているのだ。
だが、菜緒葉には本当のことなど口が裂けても言えるはずがなかった。「自分は出生の瞬間から実の姉の存在を抹消して辛うじて名誉を保っている歪な存在である」という残酷な真実。ついでに「姉を下らない見栄のために必死で口説いて大失敗し続けた」という恥ずかしすぎる黒歴史。自尊心の塊のような直哉に、それを背負わせるのはあまりにも心が痛む。
何より、菜緒葉は直毘人を絶対に裏切りたくなかった。
◇
しかしこの均衡も次第に崩れてゆくこととなる。
発端は、とうとう耐えられなくなった菜緒葉がある夜、ついつい直哉の女嫌いの本心を指摘したことだ。放っておくと本当に姉弟としての危うい一線を踏まれかねなかったからというのもあるが、それだけではない。菜緒葉は男の見える欠点を突かずにい続けられる程に従順な女ではないのだ。
直哉の運命の女の子探しに付き合うことへの放棄について、一切葛藤がなかった訳ではなかった。何故なら、女性に対してこんな態度を取り続けていたら直哉はいつか必ず取り返しのつかないことになる。どれ程強くなろうとも、他者を尊重することを覚えなければ、その魂は空洞のままだ。
だが、その空洞が完全に崩落して彼が地に堕ちる時に特等席から見下ろして優しく頭を撫でてやるという想像は、それなりに甘美でもあった。
落ちぶれた弟が相手なら、ようやく自分との釣り合いが取れる。
そしてそれ以降、直哉は二度と際どい言葉で菜緒葉を試すような真似をしなくなった。屋敷の女中を引っ掛けて部屋に連れ込む回数も劇的に減り、水曜日の夜はただ静かに、2人で同じ空間を分かち合う時間へと変わっていった。その結果「直哉様」という他人行儀な呼び名は、いつしか「直哉さん」に変わり──やがて密室で二人きりの時には、ごく自然に「直哉」と呼び捨てる関係になった。男と女としてではなく、かといって主君と奴隷でもない。歪で、けれど誰よりも深く魂が寄り添う、平穏な共犯関係。
──そんな矢先のことである。
当主である直毘人が、菜緒葉に縁談を用意したと言い出した。
「オマエにいつまでもこんな間の抜けたことさせておくわけにもいかんしな。ちょうどいい機会だ」
朱塗りの盃を傾け、爛々とした酒やけの目で直毘人は笑った。
「分家の……うーん、名前はなんだったかな。そこそこ腕の立つ、かなり見込みのある若いのがおってな。『菜緒葉さんってカワイイですね』と言うモンだから、『やろうか?』と言ってやったらまァ満更でもなさそうで。気づけばオマエも適齢期だしなぁ」
酒の勢いに任せた軽いノリで、まるで庭の鉢植えを分け与えるかのように語られる縁談。
……え?
本気で言ってますの、この父親……??
もし自分が嫁ぐとなれば、直哉との水曜日の密室劇もこの歪な姉弟の共犯関係も、すべて強制終了する。何より、この事実を知った時の直哉の反応は?
ガハハと機嫌良く笑う直毘人の前で菜緒葉は呆然とするほかなかった。
いつもご感想・投票・お気に入り等ありがとうございます!
とっても嬉しいです!!
ちなみに今回出てきた直哉くんの水曜日については第3部の「花物語」「フラワー・イン・クローゼット」に詳細がありますので、忘れちゃったなーという方は読み直すと面白いかもしれません♡