音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
「何やねんこのクソダサい格好は……」
動物園の正面エントランス。茹だるような夏の陽射しが降り注ぐ休日の喧騒の中、待ち合わせの場所に現れた直哉は菜緒葉の姿を頭からつま先まで胡乱な目で見下ろし、心底理解できないというように顔を顰めた。
「ダサいとは失礼な! 最近流行りの森ガールですの」
今年──2010年の流行最先端ファッションである。生成りのコットンワンピースにエスニック風の羽織を合わせ、足元はぺたんこのサンダル。メイクもふんわりとしたナチュラル系だ。
「安っぽい格好やね」
「ふふ、天神市で買った300円のワンピースに500円の羽織ですもの。私ってお買い物名人でしょう?」
「……」
「なあに直哉、感嘆しちゃった? 褒め称えてくれてもよろしくてよ!」
胸を張ってふふんと笑ってみせたが直哉は返事をしなかった。ただ短くため息を吐いて、視線を券売機の方へ流した。
弟の服装は一見するとただのTシャツにジーンズ、そしてスニーカーという非常にラフなものだ。しかしそのどれもがハイブランドの限定モデルやヴィンテージであることを菜緒葉は洗濯担当の友人から聞いていた。足元のスニーカーだけで菜緒葉の全身のコーディネートの100倍以上の値段がつく代物だろう。布の落ち方と縫い目を見ればわかる。それは労働によって身についた技能のひとつだった。
そして対する菜緒葉の鎖骨の間では、4年前に与えられた一粒のダイヤモンドが800円のチープな布地の波とは不釣り合いに燦然と輝いている。
「……アホらし。行くで」
直哉は「お買い物名人」宣言を完全に黙殺してチケット売り場へ歩き出した。その背中を小走りに追いながら、菜緒葉は少しだけ胸を撫で下ろす。文句を言いながらも、弟は帰らずにいてくれた。
──事の発端は数日前である。
直毘人から唐突に分家の男との縁談を告げられた菜緒葉は、かつてない程の喪失感に襲われた。もしこのまま結婚して屋敷を出ることになればもう二度と弟とこうして気安く話すことはできなくなる。歪で、けれども温かかった水曜日の他愛のない時間は、絶対的な父の法によって永遠に断ち切られてしまう。その事実を突きつけられた時、菜緒葉の心に浮かんだのは「どうせ終わるなら、最後にひとつくらい普通の姉弟みたいな思い出が欲しい」という月並みで感傷的な願いだった。
水曜日の夜にどうせ「は? 俺は暇ちゃうねん」と鼻で笑われて終わるだろうと思いながらダメ元で切り出した誘いに対し、直哉は拍子抜けするほどあっさり「ええよ」と頷いた。弟がなぜあんなに素直に首を縦に振ったのか、菜緒葉にはわからない。もしかすると彼もまた無意識のうちに、迫り来る終わりの気配を感じ取って名残を惜しんでいるのかもしれない。そう思えたことがこの数日の唯一の慰めだった。
「ほら、さっさと歩けや。トロいんやわ君は」
「待ってくださいな。私パンダが見たいですわ!」
「ここ京都やぞ。パンダおるわけないやろ、頭空っぽなんか?」
休日の動物園は家族連れやカップルでごった返していた。平和で凡庸な非術師の世界。その光景の中で、直哉の存在はどことなく浮いていた。対する菜緒葉は800円の森ガールルックで綿菓子を買う子供たちをニコニコと眺め、完全に風景と同化していた。
菜緒葉にとってこの動物園という空間は興味深い場所だ。コンクリートと鉄柵で区切られ、野生を模倣して作られた擬似環境。それは本物の星空の代わりにドームの天井へ光を投影し、人間の合理性によって大自然を管理・制御しようとするプラネタリウムの虚構性にも似ている。生き物たちは人間が設定した自然らしさという檻の中で、与えられた役割を演じさせられているのだ。
「あ、見て直哉。お猿さんの山ですわ」
菜緒葉が指差した先には巨大なコンクリートで作られた猿山があった。頂上に陣取るボス猿が、下っ端の猿たちを威嚇しながら投げ込まれたエサを独占している。ボスの顔色を窺い、序列を確認し合う猿たちの社会。
「……アホくさ。あんな狭い山の上でイキって何が楽しいねん」
直哉は柵に寄りかかって心底つまらなそうに鼻で笑った。
「そうかしら? 私はなんだか親近感が湧きますわよ」
「は?」
「だって、私たちの家と同じでしょう? 与えられた狭い箱の中で、誰が一番偉いか、誰が一番たくさんエサをもらえるかって、一生懸命マウントを取り合って。外の世界から見れば滑稽なくらいにそっくりなんじゃありません?」
「……君、ほんまにそういう減らず口だけは一丁前やな」
直哉は鋭い視線で菜緒葉を睨みつけたが、その声に殺気はこもっていなかった。菜緒葉がさらりと口にした「私たちの家」という括りに、どこか毒気を抜かれたようでもあった。菜緒葉は涼しい顔で「ふふっ」と笑い、猿山から視線を外して歩き出す。
「見て直哉! 今度は野鳥のケージですわ! あの緑色の小さな鳥、ウグイスの仲間かしら。北米にいるムシクイみたいで、とっても愛らしい声で鳴いていますわよ」
「あー、喧しいだけやない?」
「あちらにはレッサーパンダが! カワイイ! 多分パンダよりカワイイ! あなたもあの愛らしさを見習って、禪院家の人気者を目指しましょう? 今ならきっとまだ間に合います」
「……もう帰ってええか?」
直哉は大呆れだった。獣の臭いと子供の泣き声が充満するこの空間は彼にとっては苦痛以外の何物でもないのだろう。
実際、直哉はデート相手として見ると最低もいいところだった。お昼に入った園内のレストランでは「スパイスの調合がアカンわ」と文句を言ってカレーを半分以上残すし、女をエスコートする気など微塵もない。ふれあいコーナーでは最初は「ウサギさんかわええなぁ」と柄にもなく目を細めていたのに、指先を軽く甘噛みされた途端にシームレスに「あの畜生めが」とほざき始める始末だ。
本来であれば、こんな自己中心的で幼稚な男、どんなに顔が良くても一日で愛想を尽かされるのがオチである。
しかし姉としての菜緒葉のフィルターを通せばそれは全く違った景色に見えた。動物園になんてこれまで一度も行ったことのない弟が幼児のようなワガママを言って女に甘えている。なんと滑稽で憐れで無様で、愛らしいことだろう。この規格外のモンスターを現代社会に送り出してしまった自分もまた相当なモンスター姉なのだと自覚しつつ、菜緒葉は内心で「ああ、なんてカワイイのかしら!」と、弟の横顔を大満足で見上げていた。
ただ、ひとつだけ引っかかることがあった。
今日の直哉はやけに距離を取る。人混みで肩が触れそうになるとわざわざ半歩ずれるし、ふれあいコーナーでウサギを差し出したときも、菜緒葉の手には決して触れないよう、妙に丁寧に籠ごと押し付けてきた。ここ数ヶ月のこの子は他人の領域など考えたこともないような無遠慮さで距離を詰めて来ていたのに、何かしてしまったのだろうか。
いや、嫁ぐ女に触れないようにしてくれているだけかもしれない。もしそうであれば、気遣いというものをようやく習得した弟の成長を喜ぶべきところだ。喜ぶべきだと思うのに、少しだけ寂しかった。
猛獣舎の前に着いた頃には、菜緒葉の額にはうっすらと汗が滲んでいた。夏の日差しがコンクリートの通路を白く灼いている。人いきれと獣の匂いと、どこかで鳴っている場内アナウンス。分厚いアクリルガラスの向こう、乾いた土の上に、黄金の鬣を持った雄のライオンが長々と寝そべっていた。
「わあ……!」
菜緒葉は思わず声を上げた。本物のライオンなど、当然生まれて初めて見る。金色の眼。呼吸に合わせてゆっくりと上下する脇腹。あんなに大きな生き物があんなに無防備に寝そべっているということが、なんだか不思議だった。隣の直哉も珍しくガラスに近づいて、感心したように目を細めている。
「甚爾くんみたいでカッコええなあ」
──あーあ、また出ましたわ。最悪!
菜緒葉は胸のうちで呟いた。
その名前が出るたびに、決まって同じ苦々しい感情が沈澱する。
伏黒甚爾。弟がこの世で唯一心から敬愛している男。連続殺人犯で、禪院家を出て行く際には死傷者まで出したという正真正銘の悪魔。犠牲者の中には女子中学生も含まれていて、五条悟による報復か何かで返り討ちに遭って死んだ。おまけに保護されたときの彼の長男はネグレクト状態で、運が悪ければ餓死していたかもしれない状態だったそうだ。
そんな親戚に憧れているというのは一般常識からすると「この子も同じ道へ行くのではないか」と危ぶまれるような状況だ。呪術師の倫理はそこまで厳しくないのかもしれないが、それでも一緒に働く先輩の中には夫や父が重傷を負って引退したとかで甚爾を恨んでいる者が何人もいる。
だから菜緒葉はその話題になると、静かに相槌を打つだけで済ませることにしていた。弟の言うことは全肯定してあげたいが、いくらなんでもこれは無理だ。嫌悪感が強すぎる。そもそも、この憧れが弟に何かを報いているとはとても思えない。
やがて日陰の方から雌が1頭歩いてきて、寝そべる雄の上に無遠慮にのしかかった。前脚で顔を押さえ込むようにして、じゃれつく。雄は抵抗するどころか鬱陶しがる素振りすら見せず、あっさりと腹を見せ、喉の奥で低くごろごろと鳴った。まるきり大きな猫だった。
菜緒葉は口元をほころばせた。かわいい。
「ライオンは雌が狩りをして群れを養うんですって。雄は縄張りを守るのがお仕事だそうですわ」
「……ふーん」
隣から漂ってくる空気が明らかに冷えた。横目で窺うと、直哉の眉間には見慣れた縦皺が寄っている。ガラスの向こうを睨みつけるその横顔は、明らかに何かに苛立っていた。
──ああ、またはじまった。
菜緒葉には弟の不機嫌の理由が手に取るようにわかる。雌の下に組み敷かれて腹を見せる雄が気に食わないのだ。
そしてその苛立ちは、放っておけばそのうち機嫌の悪さになって周囲へ撒き散らされる。今までの経験からそれは断言できた。
「私、飲み物を買ってまいりますわね」
声をかけたが、返事はなかった。直哉はガラスに穴が開くほど獣の檻を凝視していた。菜緒葉の存在などとうに忘れているのだろう。それが不快かと言われれば、別に不快ではなかった。この子は、自分の世界を占拠する対象を見つけると、他のあらゆるノイズを遮断してしまう。
立ち去ろうとして、パネルが目に入った。2頭のライオンの写真と名前、生まれた年。それから簡潔な一行。 同腹の姉弟であること。
菜緒葉は立ち止まった。
風もアナウンスも子供の声も、数秒ぶん遠のいた。
姉と、弟。
視線を上げると、ガラスの向こうで姉が弟の背に覆いかぶさり、弟が何の警戒もなく腹を晒して喉を鳴らしている。ただ並んで午後の日向に身を委ねることが、この世で最も自然で簡単なことなのだとでも言いたげな顔で。それは、菜緒葉が憧れてやまない光景だった。
立て札から目を引き剥がすのには思ったより努力が必要だった。それから売店へ向かった。歩きながら、たった今読んだ一行を、胸の内側で何度も転がしていた。誰にも言えない言葉を懐に入れて歩くことには慣れている。慣れているはずなのに、今日のそれは妙に熱を持っていた。
照り返しのきついコンクリートの上を歩きながら、菜緒葉はふと、自分の今日の選択は本当に正しかったのだろうかと考えた。
あの縁談の話を直毘人から告げられてからこのかた、ずっと足元が抜けたような心地がしている。分家のそこそこ腕が立つ、見込みのある若い術師。名前も顔も知らない。直毘人の口ぶりからして、断るという選択肢が用意された話ではなかった。
いつかはそうなると知っていた。女中頭様にも最初にそう教わった。親族のよしみで、30歳までに始末をつけていただける。それがこの家の女にとっては幸運な部類なのだということも、この4年でよく理解した。
だから悲しむのはおかしい。菜緒葉は恵まれている。とても恵まれているのだ。そもそも菜緒葉は禪院家に来なければ、ヤクザに売られて売春させられたかもしれなくて、それに比べれば──あれ?
自分がこれからすることと売春のあいだに、果たしてどの程度の差があるというのだろう?
いや、深く考えるのはよそう。
菜緒葉は笑顔を作り直した。
「なぁおやっ! 暑いし喉乾いたでしょう?」
直哉は振り返りもせず、視界の端に差し出されたボトルを無造作に受け取った。礼のひとつもない。人からものを受け取るときの直哉の手つきは、いつだって「当然そこにあるべきものがあった」というだけの手つきだった。結露の水滴が、菜緒葉の指先を伝って地面に落ちる。
菜緒葉は怒る気にもならず、目を細めて弟の横顔を眺めた。今日は帰らずにいてくれた。ダサいと散々言われた服のことも、結局それきり触れられなかった。それだけで十分だった。
「あの子達、仲ええな。夫婦やろか」
ボトルの蓋を捻りながら直哉が軽く言った。菜緒葉は堪えきれずに吹き出した。
「あははっ……! やだ、直哉ったら何言って……あはは! あれ、きょうだいですわよ。同じ親から生まれた、姉と弟。あそこの説明パネル見てないの?」
言ってしまってから胸の奥が妙に熱くなった。
姉と弟。
自分の口から出たその言葉が甘やかに舌に残る。ライオンの話をしているだけだ。誰も咎めない。誰にも気づかれない。今日この場所でだけは、その言葉を声に出しても許される。
思わず笑いがこみ上げる。
しかし直哉はそれに耐えられないとでも言うように、底なしの嫌悪感をありありと表情に滲ませた。
「……キッショ。ええ歳した大人になってもきょうだいでこんな仲良しなんて、みっともないわ。ほんま反吐が出る」
「……」
菜緒葉は声を上げて笑った。笑うしかなかった。
それを言うなら、自分たちが毎週水曜の夜に密室でしていることはみっともないどころの騒ぎではない。
気色悪い。
その自覚はある。
けれども他に方法はなかった。
笑い出すと止まらなくなるのは昔からの癖だった。初めてこの子と言葉を交わした夜も、こうして暗い廊下でひとりで笑い転げていた。あのときはそのうち涙が出た。
「ちょっとお化粧を直してきます」
数分後、そう言い残してその場を離れた。華やかな猛獣舎の喧騒から少し離れた園内の外れ、夏草の匂いが漂う象の展示場の近く。象の獣舎まわりは臭いがきつくて人が長居しない。誰もいない木陰のベンチに腰を下ろした瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れた。
溢れ出した涙を止めることはできなかった。ハンカチで押さえる間もなく、ぽろぽろと雫が膝の上の生成りのコットンワンピースに染み込んでいく。
もう嫌だ、と心の底から思った。
何も言えなくても姉弟の絆はあるんだと期待していたが、実際はどうだったのだろう。これは単なる気持ちの悪い執着にすぎないのかもしれない。次第に家族みたいな関係になれてきたと思っていたが、向こうはそうでもなかったのかもしれない。
古びた分厚いコンクリートの囲いの向こうでは、途方もない巨体を誇る雌の象が、退屈と諦念の入り混じった足取りで長い鼻を力なく揺らし、泥水を地面に撒き散らしている。ただ前脚を軸にして体を単調に揺らし、行っては戻り、行っては戻る。展示場のあまりの狭さに、精神が摩耗しきっているかのようだった。
菜緒葉は元来涙脆い人間だった。この数年間で直面してきた理不尽と冷酷の数々のおかげでこれでもいくらか心は硬くなったつもりだったけれど、中学生の頃までは周囲に呆れられるほどの泣き虫として通っていたのだ。
どのくらいそうしていたのか。体感では数分だったのか、あるいはもっと長かったのかもわからない。不意に、うなだれる頭の上から冷ややかな声が降ってきた。
「菜緒葉ちゃん、何こんな所でメソメソ泣いとんの」
◇
象舎の近くは悪臭がした。よりによってこんな場所を選ぶあたり、この女はやはりどこかおかしい。デートっぽい外形の外出で800円の服を自慢するのも、普通の男から見たらドン引きの対象だろう。直哉はベンチの前に立ったまま、顔を上げた菜緒葉を見下ろした。目の縁が赤い。
「菜緒葉ちゃん、何こんな所でメソメソ泣いとんの」
「泣いてなど……いませんわ」
「嘘つけ。目が真っ赤やん」
この女が涙を流して泣いている顔を見るのは、直哉にとってはこれでやっと二度目だった。一度目は最初に会話した時で、その時の直哉は「泣くんか笑うんかどっちかにせえや」と吐き捨てた。情緒のイカれた気味の悪い女だと思ったからだ。実際そうも言った。そしてそれから4年間、直哉は一度も菜緒葉の泣き顔を見ていなかった。よくよく考えてみれば異常な話だった。禪院家という伏魔殿で、直哉のような自己中心的な男の傍にいて、泣かずに済む女など本来いるはずがないのだ。「お前みたいなつまらん女、もう飽きたわ。適当な下っ端にでも下げ渡したろか」と、わざと彼女を試すように飽きたふりをちらつかせて脅したことは一度や二度ではない。なんなら、連れ込んだ女との行為を見せつけたこともある。それでも菜緒葉は常に笑っていた。暖簾に腕押しのようにすべてを受け流し、決して感情を乱さなかった。
直哉は彼女のその特異な在り方を密かに高く評価していた。
直哉にとって、女という生き物は根本的に不快なのがデフォルトだ。キャンキャン喚くか媚びへつらうか、あるいは身の程を弁えずに男の領域を侵そうとするか。だからこそ、すべての女は菜緒葉くらいには自分に阿り、弁えるべきだとすら思っていた。
菜緒葉には才能があった。呪力の総量だけで言えば、禪院の外で偉ぶっている有象無象の女呪術師共の大部分よりも断然上だ。自覚の有無は不明だが、本腰を入れて鍛錬を積めば、躯倶留隊の隊長クラスくらいなら余裕で目指せそうなポテンシャルを秘めている。それなのに彼女は男の領域である闘いには一切手を出そうとせず、ただひたすらに大人しく料理や掃除をこなし、直哉の仕事を「凄いですわね」と本気で尊敬してみせる。呪術師をヒーローか何かと勘違いしていそうなアホさはいただけないが、褒められるのは心地よいので放置している。
言葉遣いが少々生意気で口が悪いところは欠点かもしれない。しかしそれはあくまでポーズであり、自分が弱い女であるという立ち位置を心底理解した上での強がりだから全然セーフだ。こう見えて直哉は女の口の悪さにはかなり寛容なのだ。その度量に感心してくれた者は今のところひとりもいないが。
要するに、菜緒葉という女は直哉にとってこの上なく都合が良かった。精神の安全基地として完璧に機能していた。手放せるわけがない。ましてや自分より格下の男にくれてやるなど、男としてのプライドが許さない。
だから縁談の話を耳にした直後、実は直哉は父の部屋に乗り込んでいたのだ。
「菜緒葉ちゃんの縁談って何やねん! そんなん聞いてへんぞ!」
昼間から酒盛りを決め込んでいた直毘人は、上座で寝転がったまま気怠げに片目を開けた。
「……騒々しい奴だ。ノックくらい覚えんか、バカ息子が」
「話逸らすなや。菜緒葉ちゃんは俺の女なんやけど」
「寝てないんだから結局オマエの女じゃないじゃん」
完膚なきまでの正論だった。毎週水曜日の夜に部屋に呼び出しておきながら、手を出さずにただ眠りにつくフリをして彼女の気配を感じているだけ──そんな直哉の情けなさくらい、直毘人はお見通しだったのだ。いい加減に、屋敷中が騙され終えた頃だと思っていたのに!
「……それでも他の男に渡すんはイヤなんや」
「オマエと不毛な時間をダラダラ過ごしとるより、他の男と結婚した方が菜緒葉はぜーったい幸せになれると思うがな」
これもぐうの音も出ない正論だった。しかし直哉は己の内に渦巻く所有欲と焦燥感を抑えきれず、過去の縛りを引きずり出した。
「4年前の話、忘れたとは言わせへんで」
「なんの話だ」
「惚けんなや。『どっちが先にあの娘を落とすか競争だ』──そう言うたんはそっちやろ。『ただし無理強いはナシな』っちゅう縛りまで丁寧に付けて」
直毘人は天井を仰ぎ、心底面倒くさそうにした。
「……あー。あったな、そんなん」
「あったな、て」
「酒の席の戯れ言だろうが。オマエが女の一人も知らんまま鼻高々なのが見ていられなかっただけだ。ガキに練習させてやろうと思ってな」
「……練習」
数年間の自分のてんやわんやが全部父親の手のひらの上だったという真実は、直哉のプライドをかなり傷つけた。
「そうだ。で、練習にしちゃあ随分と長くやったな。オマエのことだから、どうせ半年くらいで終わると思っていたんだが」
「……」
「直哉」
直毘人の声のトーンが不意に低く重いものへと変わった。酒に酔いしれた老人のそれではなく、禪院家を束ねる当主としての冷徹な重圧が、部屋の空気を圧迫する。
「何や」
「アレは俺の子だ」
──言葉の意味が脳に届き、噛み合わさるまでに、たっぷり数秒の時間がかかった。
その数秒のあいだ、直哉は思考を停止させたまま、ただ無心に畳の目の数を数えていた。カトン、と父が静かに盃を膳に置く音が響く。
「わかったら、下がれ」
「……」
直毘人は有無を言わせなかった。
父親が自分の母と叔母との間で二股をかけて作らせたのが菜緒葉という存在であり、彼女は正真正銘、自分と濃い血を分けた存在だったのだと──直哉はそう認識した。禪院家においてはそういうドロドロした血縁の乱れは珍しい話ではない。
そういえば、以前従兄の甚壱から「菜緒葉はやめとけ、絶対後悔するぞ」と10回以上もしつこく忠告されていたことを思い出す。「不細工の甚壱くんの恋愛アドバイスなんてアテにできる訳ないやろ」と高を括り、適当にはぐらかし続けていたが、あれは「あの女は姉だからやめろ」という血縁上の警告だったのだ。
が、問題はそこではない。
──菜緒葉は?
彼女はどんな気持ちで、あの夜を過ごしていたのだ?
自分が直毘人の私生児であることも、直哉の姉であることも、彼女はとうの昔に知っていたはずだ。その上で、実の弟からの執拗で歪んだアプローチや試すような言動を、あの女は毎週水曜日、ニコニコと笑いながら平然と受け流していたというのか?
(……完全に狂っとるやんけ……!)
自分がどれほど激ヤバな倫理の境界線を踏み越え、恐ろしいタブーの崖っぷちに立っていたのかを、直哉はここで初めて明確に理解した。向こうは内心恐怖しながらも禪院の女の務めとして、従順さと愛情を差し出していたのだろうか。そう思ってみても、やはり底知れなさすぎる。
今更菜緒葉には何も言えない。謝るのは恥ずかしすぎて嫌だ。だからとりあえずは知らん顔して行きたくもない動物園などにも来てみたが、繰り返し湧いてくるのは、これまでの自分が滅茶苦茶にキモかったという事実への罪悪感ばかりだった。
こんな倫理観のバグりきった恐ろしい関係、いつまでも続けられるわけがない。さっさと誰か適当な男と結婚させた方がお互いのためだ。
世の中の女は皆、結婚して男の庇護下に入ることが唯一の幸せでありゴールなのだから。
お気に入りの玩具が分家の男に奪われるのは心底腹立たしいが、どうせ自分の物になどなりっこない間柄となれば話は全く別である。これは彼女を本来の居場所へ戻してやるための、直哉なりの最大限の配慮であり慈悲ですらある。
──だからこそ。
ベンチに腰を下ろした直哉には、隣で涙を拭っている女の心情が微塵も理解できなかった。
「……あんまり泣かれても意味不明で迷惑なんやけど」
「泣いておりませんわ、砂埃が入っただけです」
「ほーん」
囲いの向こうで雌の象が同じ軌道を行っては戻り、行っては戻りしている。他にやることがないので、同じ場所をぐるぐる回っているのだろう。
「……ねえ、直哉」
「何やねん。はよ言えや」
「私、もうすぐ結婚するかもしれませんの」
菜緒葉は痛々しく潤んだ視線を白み切ったコンクリートの地面に落としたまま、絞り出すような掠れ声で続けた。
「当主様が縁談を持ってきまして……。だから、これからはもう、水曜日にこうして会うこともできなくなって……」
言い切る前に菜緒葉の目からはまた大粒の涙が零れ落ちた。
「……知っとるわ、そんなん」
「え……?」
「縁談の話や。知っとる言うてんねん」
「……っ」
それ以上どう言えばいいのかわからず、直哉は正面を向いた。
「めでたい話やないの」
我ながら抑揚のかけらもない声が出た。
その瞬間、菜緒葉の気配が変わった。
「どこがよ……こんなの、どこがめでたいものですか」
何をしても決して本気で不機嫌になることなどなかった女が初めて声を荒らげ、明確な怒りをもって自分を睨みつけている。
直哉は少しだけ目を丸くした。
「はぁ? なんでそんなキレとんの、君」
「怒るに決まっているでしょう……! 知らない方との縁談を当主様の酒の勢いで押し付けられて……私の意志なんて、何ひとつ……っ」
「いや、普通にめでたい話やろ。女の幸せやんか」
「これが……これが私の幸せですって……!?」
「当たり前やろ。君、自分がどういう立場なんかほんまにわかって口聞いてるんか?」
激しい苛立ちが込み上げた。
「ええか。俺とおかしなことになっとるより、適当な男に嫁いでガキ産んで、奥様としてふんぞり返ってる方がよっぽどマシな人生やろ。俺は常識的な話をしとんねん」
「よりによって、あなたが私に常識を説くの?」
菜緒葉の赤くなった目から再び大粒の涙が溢れ落ちた。それは悲しみというよりも明確な絶望の色を帯びていた。舌打ちしか出ない。自分が常識を語れるような人間でないのはわかっている。わかっているが、直哉なりにこれまでのことへの感謝と謝罪のために、頑張って常識を説いているのだ。生まれて初めて、弟としての義務を果たそうとしているのだ。それなのにどうして言うことを聞いてくれないのか。
「なんで泣くねん。鬱陶しいわぁ……君の脳味噌どうなっとんの? ええ加減目ぇ覚ませや」
それは直哉の中では完全にロジックが通った言葉である。直哉だって水曜日は他の日より楽しい。それでも菜緒葉を真っ当な女の幸せへと送り出してやろうとしている。感情よりも理性を優先しているのだ。
しかし菜緒葉は泣きじゃくりながら言った。
「……あなたのお母様は、結婚して幸せではありませんでしたわよね?」
◇
その言葉を口にした瞬間、菜緒葉はしまったと思った。いくら取り乱していたとはいえ、これは絶対に言ってはならないことだった。直哉が激昂して殴りかかってきても文句は言えない。しかし直哉の反応は菜緒葉の予想とは全く異なるものだった。彼は目を見開いた後、鼻で笑ったのだ。
「ああ、あの女?」
直哉の声には怒りどころか酷く冷めた響きがあった。
「顔もろくに覚えとらんわ。俺産んでしばらくして病気になって、実家に送り返されて死んだから、面識ほぼないし。母方の家にええように売られたみたいなもんやった。菜緒葉ちゃんとはちゃうやろ」
この子は本当に何もわかっていない。血の繋がりや家族の尊さを、これっぽっちも理解していないのだ。だからこそ「適当な男に嫁いで奥様になるのが幸せ」などと無邪気なことを言える。その残酷なまでの無理解が、菜緒葉が胸の奥底に沈めていた汚泥を完全に決壊させた。
「ええ、そうですわね。あなたのお母様は売られたのです。禪院にお嫁に行ったときの結納金は1億です。あなたが生まれた時はあれこれ理由をつけて、また引っ張ったそうですわよ。そして、私も今、売られようとしている」
「はぁ? 何言うとんねん。全然事情が違うやろ。君は別に金でやり取りされるわけやないし──」
直哉が心底面倒くさそうに顔をしかめる。だが菜緒葉はもう止まれなかった。涙でぐしゃぐしゃになった顔のままで吐き出した。
「同じでしょう。呪術師に嫁ぐという時点で。私は一生無給でまだ顔も知らない将来の旦那さんのために跡継ぎを産むための道具として奉仕し続けなければならないんです。しかも、子供に呪力がなかったら欠陥品。双子が生まれても欠陥品。一生嘲られるんだから、下手したら売春より酷いんじゃありませんの!?」
言い切ってから菜緒葉は肩で大きく息をした。最低だ。なんという浅ましく醜悪な言葉だろうか。これまで従順な女の仮面を精一杯被り続けてきたのに、自らの口でそれを粉々に叩き割ってしまった。
目の前の直哉は言葉を失っている。きっと軽蔑される。気味の悪い女だと、今度こそ本当に捨てられる。菜緒葉はギュッと目を閉じ、絶望の淵でその宣告を待った。
だが。
「……あのクソ親父が」
直哉はベンチから立ち上がった。その横顔には、かつて見たこともないほど苛烈な怒りが刻まれている。しかしそれは菜緒葉に向けられたものではなかった。
「わかったわかったわかった! クソ親父が酒の勢いで決めたような縁談なんかどうせ適当や! 俺が今からどうとでも潰したる!」
「……え?」
「は? みたいな顔すな! 縁談相手なんぞ適当に叩き潰せばええだけの話やろがい! 俺を誰や思とんねん、次期当主やぞ!?」
直哉は菜緒葉の手首を乱暴に掴み上げた。
「行こ」
「えっ、ど、どこへ……? 帰っちゃうの?」
「帰るわけないやろアホか。今日は遊びに遊んで、夜は外泊や」
「外泊ぅ!? 待って、私、外泊届を出しておりませんけど!」
突拍子もない提案に菜緒葉の口から素っ頓狂な声が出た。
「俺は全てを許される身分なんや」
「そんな身分がありますの!?」
ある訳がない。
ある訳がないのに弟は得意げだった。
「今日は遊んで遊んで遊び尽くそ。急に任務入らなきゃやけど」
直哉は口の端を歪めてニヤリと笑い、涙目のまま固まっている生成りのワンピース姿の姉を、ぐいと強引に引っ張って歩き出した。
「あ! 私、こんな800円の格好であなたが泊まるような高級なホテルなんて入れませんわ……!」
「服くらいナンボでも買い直したるわ。そもそもこういう野暮ったいのは菜緒葉ちゃんには似合わんし」
引きずられながら、菜緒葉は頭の隅で女中頭の言葉を思い出していた。石のように、影のように、ただ息を潜めて働きなさい。そう言われていた。今この手を振り払って、笑顔で「ご冗談を」と言えば、まだ間に合う。 この手を受け入れてしまえば、自分は禪院家が敷いた安全なレールから外れる。女中頭から教えて貰った防御法を失う。絶対に碌なことにはならない。屋敷は大騒ぎになる。そして父は──。
それでも菜緒葉は足を止めなかった。
最低で身勝手で、どこまでも自分の都合しか考えていない弟だ。助けてくれる理由だって菜緒葉の悲しみに寄り添ったからではなく、父への当てつけか、玩具を取られたくないだけだろう。
でも。
小さい頃から、菜緒葉はワガママというものをただの一度も言えたことがなかった。言えば自分がどうなるか、どういう扱いを受けるかを先に計算してしまって、賢く立ち回るしかない境遇だった。
性別が逆だったのなら何もかも逆だったのだろうか。
羨ましい。愛おしい。
直哉には直哉なりの苦労があるのは菜緒葉だって知っている。
けれども菜緒葉はそれをじっくり見せてもらったことがなかったし、見せようとしない直哉の虚勢も好きだった。
この世界は足がすくむような嫌なことでいっぱいなのに、不安なんてひとつもないみたいな顔でズカズカ前へ突き進んでいくこの子が、菜緒葉はどうしようもなく大好きだった。
掴まれた手首が熱い。
その歪な手の差し伸べ方に、冷え切っていた胸の奥がじわじわと温度を取り戻していく。
ふと振り返ると、猛獣舎の白い屋根が眩い夏の光に灼かれて遠ざかっていくところだった。あの分厚いアクリルガラスの向こうで、黄金の鬣を持つ弟と、それに寄り添う姉は、今もきっと並んで日向に寝そべっているのだろう。
自分たちはあんな風に穏やかに生きることはできない。それでも今だけは、この熱から手を離したくなかった。
◇
そんなこんなで菜緒葉は幸せだった。
父親は大抵優しい。
弟は基本カスだがかわいいし、数年に一度は優しい。
無断外泊の翌朝には、屋敷に帰還した直哉と直毘人の間で屋敷の壁が何枚か吹き飛ぶほどの凄まじい親子喧嘩が勃発した。その結果縁談は文字通り跡形もなく消し飛んだ。不思議なことに菜緒葉自身は誰からも一言も咎められなかった。その後も数回、似たような縁談の気配が漂うことはあったが、いつの間にか立ち消えになっていた。
自分の「市場価値」とやらはどうでもいい。
なんなら下がった方がいい。
結婚なんて絶対にしたくない。
母親みたいにはなりたくない。
そもそも下手に優秀で裕福な呪術師と結婚して相伝の子でも産もうものなら、落ちぶれた親戚が再び接触して金をせびりにきて、こちらの家族にまた迷惑をかけるかもしれないのだし、自分のような女が結婚できたとして、後で周りに迷惑を掛けるだけだ。──実のところ、親戚の件は直毘人がとうに片付けているのでこれは完全に無意味な心配なのだが、菜緒葉はその情報を知らされていなかった。
風の噂によれば、直哉自身も自分に持ち込まれる見合い話をことごとく蹴り飛ばしているらしい。
直哉がどうしてそこまでして自分を屋敷に留め置いて守ってくれるのか、菜緒葉には確固たる理由はわからない。直哉自身の見合いをのらりくらりとかわすための都合のいいダミーとして使っているのかもしれないし、あるいは絶対に叶わぬ相手への恋心を隠すための隠れ蓑かもしれない。もしかすると、菜緒葉の知らない深いコンプレックスを抱えている可能性だってある。しかし菜緒葉が密かに一番気に入っている仮説は「直哉が自分たちが姉弟だと薄々気づきつつあるのではないか」というものだった。とはいえ姉弟だと本当にバレたらライオンの展示場でそう言われた時のように気持ち悪がられるから、怖くて絶対確認できない。実は直哉がとうの昔にその事実を知らされていることなど、知る由もない菜緒葉の不幸な勘違いであった。
弟の存在は菜緒葉の生活に奇妙な万能感をもたらしていた。
たとえば自分を舐め回すようないやらしい目で見てきた男を後日直哉が理不尽な理由で徹底的にいたぶっているのを見るたび、菜緒葉はまるで自分が直接制裁を下しているかのような仄暗い興奮を覚えた。そして、直哉は女のビジュアルに関する趣味だけは抜群にいい。女社会での評判が最悪なせいで、今や彼に近づくのが頭が空っぽな顔しか取り柄のない女だけになっているのは少々アレだが、それを見るにつけ菜緒葉はいつも思うのだ。私だって男に生まれていたら直哉以上に積極的に女を侍らせて、うんと優しく大事にしてあげたのに!──と。毎日野菜を刻みながらそんな勝手な妄想を膨らませては悦に入るのも悪くない暇潰しだった。
幸せなはずだ。姉と弟が大きくなっても仲良しだなんて気持ち悪いと直哉が思っているとしても。直哉が女を見下しているとしても。お茶を淹れても料理を頑張っても、褒めて貰えたことがないとしても。同じ屋根の下に呪術師をやっている女がいるのに自分は床を磨いているとしても。幸せだ。偽物の家族と一緒にいた頃と比べれば、幸せに決まっている。幸せじゃないとおかしい。
けれども直哉の傍若無人ぶりはずっと変わらなかったし、屋敷の術師達からは本気で嫌われていた。
そのため菜緒葉が20代半ばに差し掛かる頃には、躯倶留隊の術師が直哉に何か些細な用事や頼み事をしようと思った際は、菜緒葉を間に通すのが定番になっていた。ちなみに、仕事に関係する重要な話題は甚壱が伝言を預かりがちらしい。
直哉はよく平気でいられるものだ。情けなかったり恥ずかしかったりしないのだろうか。
「よっ、菜緒葉!」
「あらご機嫌よう、信朗様」
ある日の午後、躯倶留隊の隊長に呼び止められた。
母屋の廊下の雑巾掛けをしていた最中のことだ。背後には入ったばかりの後輩と3年目の後輩。母屋の清掃には注意事項が多く、相手の地位や所属によって挨拶の作法も細かく異なるため、菜緒葉のようなベテランによるしっかりとした指導と監督が必要不可欠なのだ。
「後ろの子新人?」
「菫ちゃんです。先月から母屋の配属になったんですの。生け花がとても上手だから」
新人女中の菫は借りてきた猫のようにおとなしく首をすくめている。菜緒葉は菫の背中を軽く押し出しながら、信朗を立てるように微笑んだ。
「ほら菫ちゃん、ご挨拶を。こちら躯倶留隊隊長の信朗様ね。──腕自慢の猛者たちを束ねる、ものすごい剣士でいらっしゃるんだから。粗相のないよう気をつけて」
「……よ、よろしくお願いいたしますっ!」
若い子にとっての母屋の廊下のシフトは、ある程度の安全を保った状態で有力な術師に名前と顔を売るための絶好の機会だ。だから変な下心のある相手からは遠ざけ、信朗のように若手の部下を大勢抱えた男には積極的に顔を繋ぐというのも菜緒葉の仕事のひとつである。
菫は初対面の人に対しては内気なので本格的なアピールは次回以降にする予定だが、それでも感触は悪くない。
信朗は初々しく挨拶をする菫を見て面白そうに笑った。
「おう。うちの隊は怖くねえぞ、俺以外」
「あなたは怖いんですのね。……でも、今日はお顔色がよろしくないような。また数日がかりの任務でしたの?」
的確に疲労を見抜かれた信朗は待ってましたとばかりに肩をすくめる。
「わかる? 呪霊の結界を出たら3日経ってた。浦島太郎状態だよ」
「まあ、お気の毒だこと。それでお疲れなのですね。そうだわ、ユンケルの高い方の試供品がまだ厨房に残っておりますから、後で有紗に頼んでこっそり詰所の方へ持っていかせますわ」
「おっ! お前ほんと気ぃ利くよなあ」
信朗は感心したように目を丸くし、それから冗談めかして笑った。
「お前が男に生まれてくれてたら絶対ウチの隊でかわいがったのに。……あー、でもガタイがなぁ。細っこいからウチの稽古はキツいかもなぁ」
「失礼ですわねぇ」
菜緒葉はわざとらしくむくれてみせる。
「これでも毎日、皆様のために重い鉄鍋を振っておりますのよ! あなたの所の若い人たちが、『男って感じのガッツリしたチャーハンが食べたいんだよ〜』なんて真夜中に言ってくる日もあるんですから」
「鍋な。たしかに鍋は腕にはくるけど、体幹にはこねえんだわ」
「では、どうやって体を鍛えればよろしいの?」
「腹だよ、腹。一番大事なのは腹筋だ。菜緒葉、腹筋何回できる?」
「……ご想像にお任せいたしますわ」
「できねえんだな?」
「淑女に回数を訊くものではありません!」
「年齢かよ」
軽口を叩き笑い合う。
しかし不意に信朗が「あっ」と何かを思い出したように言った。
「そうだ、今日は別に用事があってここに来たんだった」
「どうなさいまして?」
「いや、全然大したことじゃないんだけど、直哉さんが真希を殴ってる」
何が「全然大したことじゃない」なのかと思いつつ、菜緒葉は小首を傾げてみせた。
「直哉様が躯倶留隊の年次が低い子を虐めるのはいつものことでは?」
「今日のは度を越してんだよ。どうやらあの小娘が身の程知らずにも『自分が次の当主になる』とか当主様相手にほざいていたのが耳に入ったらしくてな。それで『稽古』と称して執拗にいびり倒してるって訳だ」
傍らで俯いて控えていた菫が小さく「はぁ?」と呟く。菫は真希と同い年で、分家の出だがかなりいい術式も持っている。そんな彼女から見れば呪力すら持たない真希などただの落ちこぼれに過ぎないのだろう。露骨な侮蔑の色が伏せられた菫の瞳にありありと浮かんでいるのを、菜緒葉は横目で見逃さなかった。3年目の後輩も呆れたような顔をしている。
菜緒葉の内心はこの2人よりもさらに真っ黒だった。
けれどもそれを表には出さない。代わりに口元を袖で覆い、困惑したような素振りを装った。
「あらあらまあまあ……。信朗様、ご苦労お察しいたします。でも、私から言ったら僭越になりませんかしら? 名目上のこととはいえ、稽古は術師の領分ですから女中風情が口を出す筋がございませんし…… 真希ちゃんは信朗様の隊の方でしょう。私が出しゃばっては、信朗様のお顔を潰してしまいませんか?」
「偶然通りすがったことにすりゃいいよ。別に止めなくてもいい。怖がって泣く真似でもしとけば済む」
要するに信朗はおおごとにしたくないのだ。本気で直哉を止めたいなら信朗が自分で止めに入るか、甚壱や扇にでも報告すればいい。けれどもそれは面倒だから、私的な領域で事を収めたがっている。
「先日、贈答品のメロンが3つ届きましたの。扇様がいらっしゃる日に切るつもりだったんですけれども、思ったより熟れるのが早くて……それを直哉様の所へ持って行くのを名目にしましょう。娘の危機を救うためなら、扇様も許してくださるでしょう」
「それは助かる! 流石は菜緒葉だ、頼んだわ……!」
「ええ、お任せくださいな。ああ、そうだわ。余った分は躯倶留隊の皆様の方へも差し入れに持って行きますね。真希ちゃんにもお裾分けして差し上げないと」
「ありがたい! ほんと、お前がいてくれて助かるよ!」
軽く頭を下げて詰所へ向かう信朗の大きな背中を見えなくなるまで見送り、菜緒葉はふうと小さく息をついた。信朗の気配が完全に消えたことを確認した直後、それまで背後で縮こまっていた後輩2人が喋り始めた。
「……真希の奴、何考えてるんだろ」
「ええ、本当に。扇様や女中頭様のお顔に泥を塗るような真似ばかりなさって」
菜緒葉は後輩たちの陰口をたしなめることはしなかった。
2人の何倍も腹を立てているからだ。
菜緒葉は真希とも真依とも一度も話したことがない。まだ顔もマトモに見たことがない。真希や真依が暮らしている棟へは当番の融通を利かせて極力足を向けないようにしていたし、お揃いの着物を着た少女達の人影をチラリと見かけるたびにくるりと方向転換をして逃げ出すことを、何年も続けていた。
理由は単純で、強烈な嫉妬である。
もし自分と直哉が双子のまま一緒に育っていたら、直哉は今のようにチヤホヤされることは決してなかっただろう。真希や真依のえげつない嫌われようを見ていればわかる。菜緒葉は直哉の人生から切り離され、日陰で息を潜めていたからこそ、直哉の価値を落とさずに済んだ。つまり菜緒葉は、直哉にとってものすごく役に立っている存在なのだ。
それに対してあの双子はれっきとした本家の血筋だ。仲も良さそうだ。しかも呪霊も碌に見えない癖に、直毘人の温情で呪術師としての道を許されている。それが腹立たしくてならない。
おまけに直哉を差し置いて当主になるだって?
当主になるのは絶対に直哉なのに、扇といい真希といい、どうしてこうも身の程知らずなのだろうか。
菜緒葉の敬愛する女中頭ですら、若い娘たちを戒める時には「真希みたいになっちゃダメよ」とよく言っている。菜緒葉自身も耳にタコができるほど聞かされた言葉だ。実母がこれを言うというのは相当である。
「仕方ありませんわ。あの子は当主様の温情で女の子なのに躯倶留隊に入れたという実績を、自分1人の才能だと勘違いしているんだわ。あなた達みたいに賢くないの」
菜緒葉は2人の後輩に向かって、手本となるような優しい笑みを向けた。
「いつだって報われるのは真面目に頑張っている人間よ。あの子がサボっているお料理やお掃除だって立派な仕事だし、意外にきちんと見られているものなんだから」
「はい、菜緒葉さん!」
「では、しばらくの間、廊下はお二人に任せてもよろしくて? 私は信朗様との約束通り、直哉様の機嫌を取りに行って参りますから」
「お任せください。直哉様のこと、どうかよろしくお願いいたします」
頼もしく頷く後輩たちに廊下を任せ、菜緒葉は軽やかな足取りで厨房へと向かった。
一番甘くて美味しい果肉は愛しい弟へ。
そして、直哉に徹底的に打ちのめされて泥に塗れた憐れな真希には、皮ギリギリの青くて硬い部分でも恵んでやろう。それが身の程を知らない小娘への、せめてもの情けというものだ。
よく冷えた最高級のメロンを取り出すと、菜緒葉は鼻歌交じりに、その冷たい包丁の刃を滑らせた。
菜緒葉はこの上なく幸せであり、真希は不幸だ。
菜緒葉は直哉の近くにいる資格を必死に勝ち取ったが、真希は直毘人に与えられた場所で身の程知らずな欲望を喚き散らしているだけだ。
そう。まさに落ちこぼれだ。
禪院家には落ちこぼれがいる。
女の癖に料理ひとつできなくて、呪霊1匹見えないらしい。
どんなショボくれた人なんだろう?
どんな惨めな顔をしているんだろう?
菜緒葉は頬を紅潮させ、満面の笑みを浮かべた。
ガラスの器に一口大に切って盛り付けたメロンと金色のフォーク、それらを載せたお盆を手に持っているから、少年のように走ったりはしない。そもそも大人の女が走ったりするのは嗜みのないことだと、菜緒葉はしっかり教え込まれている。菜緒葉は小さい頃から優等生だった。
けれども、心だけは既に浮かれて走り出している。
そして直哉の呪力の気配を追い、裏庭に辿り着いた菜緒葉が見たのは──
メチャクチャ好みの顔をしたポニテ眼鏡の美少女だった!!!!!!